千利休の辞世 戦国百人一首75
偉大なる茶聖、千利休(1522-1591)は、商人であり茶人であったのに、まるで武士のように切腹して果てた。
それはなぜか。
人生七十 力囲希咄
我がこの宝剣 祖仏共に殺す
提(ひつさ)ぐる 我が得具足(わがえぐそく)の一つ太刀
今此(いまこ)の時ぞ 天に擲(なげう)つ
七十年の人生を歩んできた えいっ!とぉ!
この私の宝剣で祖先も仏をも殺してしまい
私もこの身に太刀の一本をひっさげて
その剣を空に放り上げてしまおう(そして自分の身を貫いてしまえ)
(実は、この辞世は難解だと言われており、さまざまな解釈がなされている。しかし、細かい現代語訳を追わなくても、その語気、語彙が非常に強く、怒りに満ちているのがおわかり頂けるだろうか)
田中与四郎。
それが千利休の幼名だった。
堺の「魚屋(ととや)」という屋号の商家の子供として誕生した。
17歳で教養のために始めた茶の湯に才能を見出し、織田信長、豊臣秀吉らに仕えた。わび茶の完成者で、茶道の千家流の始祖となった人物だ。
豊臣秀吉に命じられ、茶室である「待庵(たいあん)」(現存)を作った。
また1587年、京都の北野天満宮の境内で豊臣秀吉が開催した日本史上最大の茶会「北野大茶湯」は、利休がプロデュースしたものである。
最盛期の秀吉に気に入られて、秀吉の城・聚楽第の内に屋敷を構え、3000石の禄も得た。茶の湯を通じて諸大名とも繋がり、中には利休の弟子となった大名もあった。茶会の場が情報交換の機会となったことも考えられる。
利休は、秀吉の家臣として、そして情報通の茶人として政治的発言力を持った。
その証拠に、秀吉を支え利休を後ろ盾していた秀吉の弟・豊臣秀長はかつて大友宗麟に
「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に(相談せよ)」
と言っていたほどだったという。
その利休がなぜ秀吉に切腹を命じられたのか。
まず、もともと秀吉と利休では趣味が違っていた。
茶の湯で言えば秀吉は「黄金の茶室」を好み、利休は「素朴で簡素な草庵」を最上とした。好みのテイストは正反対だ。
茶の湯では師の立場である利休が、秀吉の成金趣味を心のどこかで軽んじていたことが、秀吉に伝わらなかった可能性はない。
さらに、秀吉は貿易による利益を追求するあまり、交易の中心となる町・堺に重税を掛ける。利休は自分の出身地である堺の権益を守ろうとする。
2人の関係はギクシャクしても不思議はない。
そして、利休の愛弟子・山上宗二(やまのうえそうじ)が秀吉に処刑されるという事件もあった。
大名たちが利休の弟子になり、利休の影響力が強くなりすぎたことももちろん秀吉の懸念にあっただろう。
利休を重用していた豊臣秀長が病没すると、彼は後ろ盾を失い、立場が弱くなっていった。
1591年、秀吉の逆鱗に触れた利休は堺に追放され、謹慎を命じられた。
前田利家、古田織部、細川忠興らの大名である弟子たちが利休の助命運動をするが、それはかなわなかった。
やがて京に呼び戻された利休は、聚楽屋敷内で切腹を命じられたのである。
その理由は、
「利休が私費で行った大徳寺の山門改築のお礼に、寺が門の桜上に利休像を置いたこと」
である。
秀吉が門をくぐる時に、雪駄履きの利休の木像が見下ろす形になるのが無礼だ、というわけだ。
利休には、他にも秀吉に言いがかりをつけられる事項がいくつかあったと言われる。
・茶人の立場を利用して安価な茶器類を高額に吊り上げてで売った
・利休の娘を妻にしようとする秀吉を拒否した
・天皇陵の石を勝手に庭石などに利用した
・高麗文化を尊ぶあまり、秀吉の朝鮮出兵に反対した
などである。
一説によれば、秀吉は利休が謝罪さえすれば死罪にするつもりはなかったというが、利休は秀吉に謝罪しなかった。
切腹の際、秀吉から利休の最期を見届けるための使者に最期の茶を点てたという。
利休の弟子である大名たちが利休奪還を目論む可能性があっため、彼の屋敷は上杉景勝の軍勢が厳重に取り囲み、その中での切腹だった。
それほどの影響力のある男となった千利休。
だからこそ、彼は商人としてではなく、茶人としてでもなく、まるで一人の武将のように切腹しなければならなかった。
彼の首は、京の一条戻橋であの大徳寺の門に置かれてあった利休像に踏まれるような形で晒されたという。
享年70。