明智秀満の辞世 戦国百人一首㉛
明智左馬助、光春などの通称でも知られる武将・明智秀満(1536?-1582)は、明智光秀に関係する人々にありがちなことだが、その出自については明確になっていない。
明智光秀の叔父である明智光安の子で、光秀のイトコだった、光秀の家臣・三宅弥平次のことだったなど諸説ある。
確かなことは、明智秀満が明智光秀の信頼置ける重臣だったことだ。
一戦国中生 未知風月情
朝出師望魁 夕兵策運営
依几臥竜術 横鉾千里行
幾英名如夢 終節帰清明
ひとたび戦国に生まれた私は未だ風情というものさえ知ることもなく
朝には先駆けしようと出陣し、夕には本営で作戦を練った
机に寄りかかり臥竜(諸葛孔明)が取ったであろう策を考え、 鉾をたずさえて千里を駆けたものだ
幾ばくかの名声も夢のようなもの 晴れ晴れとした気持ちで人生の終わりへと向かうのだ
戦国武将として明智光秀の元で活躍した秀満は、自分の生涯を簡潔に振り返り、志半ばで散ってしまう自らの人生を潔く迎えようとする気持ちを、どこか健気で少々武骨な漢詩に託した。
明智秀満は、織田信長への謀反計画について光秀から最初に知らされた数人のうちの一人である。
彼は、当初その計画に反対して光秀に思い留まるよう諫めた。
しかし、謀反は実行に移されることとなり、1582年6月2日、秀満はその先鋒を担って真っ先に本能寺を襲撃した。
変後は彼は信長の居城・安土城を抑えて守備についていたが、13日に光秀が山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れたことを知り、翌未明に坂本城へ入った。
坂本城は堀秀政に包囲される中、防戦していた秀満だが、城にある貴重な宝物類をまとめて堀秀政の一族の者に託し、光秀の妻子や自分の妻を刺殺したあと、城に火を放って自害したという。
秀満には琵琶湖を馬で越えたという「湖水渡り」の伝説がある。
光秀の死後に坂本城へ向かう秀満は、大津で秀吉方の堀秀政軍に遭遇して窮地に立たされた。
陸路で城へ向かうのが難しいため、秀満は琵琶湖上を騎乗した名馬と共に渡り、敵がその様子に驚くうちに坂本城へ入城したという話だ。
琵琶湖のほとりにはその話を伝える「明智左馬之祐湖上渡りの碑」もある。
2020年5月にはこの「湖上渡り」の伝説の元になったかもしれない「船戦(ふないくさ)」に関する史料が、滋賀県大津市の石山寺で発見された。
本能寺の変の直後に、秀満は瀬田城主・山岡景隆に船戦を挑んだというのである。この湖上での戦いが、「湖上渡り」の話を派生させていったのだろうか。
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』放映の影響もあってか、明智光秀に関わる新たな史料発見が相次いでいる。
敗者の記録の多くは葬られてしまったかもしれないが、こうして新たな史料が発見されていき、謎多い明智光秀、秀満らの生涯がさらに明らかになっていくのに期待したい。