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北畠親房の歌 戦国百人一首98

南北朝時代に書かれた歴史書『神皇正統記』全3巻。
その著者が公卿の北畠親房(1293-1354)だ。
北畠氏は、村上源氏の子孫であり、公家の名門氏族である。
「大日本は神国なり」の書き出しで始まるその著書において、天津神あまつかみたちが国を開いたとする伊勢神道的な歴史論を展開した親房には、歴史家としての顔があり、公卿という政治家としての顔もあった。
そしてさらに、それらの立場とも関係する別の顔がある。

1国に2人の天皇が同時に立ち、それぞれの朝廷が南北に分かれて存在した異常事態の南北朝時代。親房は南朝方の立場を貫き北朝と対峙した。
彼は、戦う公卿だった。

歎けとて老の身をこそ残しけめあるは数々あらずなる世に

悲しみ嘆け、ということで私という老いた身を生き残らせたのだろうか。
多くの者たちが亡くなっていくこの世の中に。

この歌は、1381年(弘和元年)に成立した准勅撰和歌集『新葉和歌集』の「哀傷の部」に採られた1首である。
朝廷が南朝と北朝に分かれていた当時、北朝方が編纂した勅撰和歌集に南朝方の人々による歌が選ばれることはなかった。『新葉和歌集』とは、それを嘆いた南朝の後醍醐天皇の皇子で、歌人としても活躍していた宗良親王が選者となって編んだものだ。

さて、この和歌は、正確には親房の辞世ではない。
いつどのような状況で作られた歌なのかもわかっていない。ただ、この歌を詠んだとき、彼はすでに大切な人たち、南朝を支える戦士たちを幾人も失っていたと想像される。

8歳で元服、15歳で家督を継いだ北畠親房は、やがて後醍醐天皇の側近となり、のちには父を越えた大納言の役職を得て政界で活躍した。
後醍醐天皇の第2皇子世良ときよし親王の養育を任せられたが、尽力虚しく皇子は流行病によって1330年(元徳2年)に急逝。
心を込めて養育した皇子の死は、親房に大きな悲しみをもたらし、38歳の彼は出家した。
時代は、後醍醐天皇が中心となって鎌倉幕府を倒そうとする気運が高まってきていたが、親房は表舞台からは身を引いていた。

1333年、足利尊氏、新田義貞らの活躍で鎌倉幕府が倒れた。
尊氏に味方された後醍醐天皇による建武の新政が始まると、親房は、陸奥守に任じられた嫡男の顕家とともに多賀城(宮城県にある国府)への同行を命じられ、還俗して政界に復帰。父子で義良親王(後醍醐天皇の第7皇子。のちの後村上天皇)を助け、奥州を中心に南朝の東国以北の支配を進めていった。

よく知られるように建武の新政は長くは続かず、後醍醐天皇から離反した足利尊氏は鎌倉から西へと上り、京都を占領した。だが、その尊氏の軍を1336年に九州まで退却させたのが、北畠親房と顕家父子であった。
尊氏の再起を予見していた親房は、京都で政権の中枢を担いながらも周辺の有力武将への根回しを行って準備した。

しかし、九州で体勢を立て直し、再挙した尊氏軍は強かった。
親房たちの軍は敗れ、後醍醐天皇は吉野へ移る。

後醍醐天皇方の武将として奇跡のように戦い、尽くしに尽くした楠木正成は、1336年の湊川の戦いで没しだ。
2年後の1338年には新田義貞も消えた。
そして何より新田義貞が亡くなるふた月ほど前に、親房とともにあの足利尊氏を蹴散らし、多くの戦で奮戦していた親房の頼もしい息子・顕家が石津の戦いで討ち取られていた。享年21。
親房は吉野に逃れて来た家臣による報告で息子の死を知ったという。

その時に詠んだとされる歌がこれだ。

さきだてし心もよしやなかなかに憂き世のことを思ひ忘れて

子に先立たれることは親としては耐え難いほどの悲しみであるが、その強烈な悲しみが、この世の苦悩を忘れさせてくれる…という歌だ。
極限に近い精神状態だったと言ってもよいのではないか。
追い詰められた男の過酷な状況が表現されている。
息子の死、頼りにしていた味方の者たちの死、南朝が抱える様々な問題。
どちらを向いても心は救われない。

さらに。
1339年、親房が仕えていた後醍醐天皇が没した。

後醍醐天皇亡きあと、即位した南朝の後村上天皇はまだ12歳。
若い天皇を助けながら、生き残った親房は、南朝の実質的中心人物となった。
そんな中、1348年には楠木正成の息子である楠木正行まさつらも、また四條畷しじょうなわての戦いで戦死している。
親房は賀名生行宮あのうあんぐう(奈良県五條市/行宮:仮の御所のこと)に落ち延びた。

ひとときではあったが、奇跡が起きたこともあった。
足利政権が分裂するという観応の擾乱が勃発したのである。
おかげで北朝も幕府も力を無くし、1352年に決着したときに一時的に南北朝が統一されて、親房の南朝が京都と鎌倉での勢力を取り戻している。

そしてその2年後の1354年に彼は没した。享年62。
中心人物であった親房を失ったその後の南朝は、失速し衰退した。

南北朝の争乱で親房周辺の多くの人々が亡くなった。
後醍醐天皇の皇子・世良親王。
息子の北畠顕家。
楠木正成と楠木正行の父子。
新田義貞。
そして後醍醐天皇。

「嘆けとて」の歌の嘆きは、主君、家族、家臣、仲間などが次々と亡くなっていくなか、生き残る悲しみを抱えながら南朝を支えようと務めていた親房の本音といえるかもしれない。
ひとり残された、老いた彼がどんなに嘆いても、立ち止まることさえ許されない時代だった。

親房が著した『神皇正統記』は、後醍醐天皇の崩御に伴って即位した第97代となる幼い後村上天皇に、南朝の正統性を説くことを目的として執筆されたものだという。彼はこの書を籠城戦を戦いながら書き上げた。
神の時代から南朝の後村上天皇にいたる系譜について、時には皇位継承が直系によって行われていなかったことも儒教的な歴史観、政道観によって論じ、正当化している。

だが、親房はやみくもに後醍醐天皇の南朝を肯定していたわけではない。
天皇は高い徳を備えた人物でなければならないと考え(徳治主義)、ときには天皇批判も交えながら冷静で公正な歴史観を著書の中で展開した。
公家ばかりを評価するわけではなく、武家をも高く評価した。南朝の正しい後継者を作り、南朝のあるべき姿、日本のあるべき姿へと導こうとしていた。親房の考え、そして生き方を書に託した。

江戸時代には、水戸の徳川光圀が『神皇正統記』を高く評価し、光圀が編纂させた歴史書『大日本史』にもその思想が反映されている。新井白石も政治史論『読史余論とくしよろん』に『神皇正統記』の言葉を引用して徳川政権の正統性を説明した。さらに親房の書は、幕末の尊王攘夷運動、倒幕運動、そして明治以降の皇国史観にも影響を与えている。

このように北畠親房の著作物に遺された歴史観や政治論は、後世に引き継がれた。その内容は、時代に都合のよい形で引用され、利用された部分も大いにあるが、一つの指針として多くの共感を得たことも事実だった。
その考えを体現するように毅然と生きた親房が、その一方で、慟哭を思わせるような悲しみを表現した歌を残したことは、「人間・北畠親房」を知るうえで貴重な遺産なのだ。