島津日新斎の辞世 戦国百人一首⑫
薩摩の戦国武将・島津忠良(1492-1568)の号が日新斎(じっしんさい)である。
「島津家中興の祖」としてその仁政を讃えられた人物だ。
領地や島津家の経済的な基盤を作った賢人で知られるが、その彼も当時に生きた武将として、血なまぐさい戦いと縁がなかったわけではない。
急ぐなよ 又とどまるな吾が心 定まる風の吹かぬかぎりは
死に急ぐな、そして生に執着するな、己の心よ。
命が尽きるその瞬間までは。
日新斎は、島津宗家の家督問題で活躍している。
薩摩国守護・島津宗家の第12代、13代当主が相次いで病死した。
地元基盤を盤石にできていないまま急遽第14代となった島津勝久は、在郷領主を抑えきれずに苦労していた。
そんな時、分家の島津実久が薩摩国守護乗っ取りを企んだのである。
危機に直面した勝久は、島津の分家出身で賢人の誉れ高い日新斎に支援を求めた。
日新斎は国政を任されて勝久を助け、彼の嫡男・島津貴久が勝久の養子となって島津宗家が引き継がれることになったのである。
しかし、実久が納得しない。
家督をあきらめきれない実久と日新斎・貴久父子の激しい抗争が起き、日新斎も数々の戦いに出陣している。
結局、1538年から翌年に渡る戦いの末、実久に勝利した日新斎・貴久父子が薩摩半島を平定。ようやく島津貴久が守護の座に就いた。
日新斎は1550年の隠居後も
・対明貿易
・鉄砲の大量導入
・家臣団育成
・城下町整備
・養蚕などの産業の推進
などを実施して島津氏の盤石な基盤を作っている。
また彼は、儒教的な心構えを教え諭した47首の歌で構成される『いろは歌』の創作でも知られる。この教育論は、彼の孫の四兄弟・島津義久・義弘・歳久・家久にまで受け継がれ、のちの薩摩の伝統教育「郷中教育」につながっていった。
日新斎は、4人の孫を以下のように評した。
「総領の材徳を持つ義久」
「武勇に傑出した義弘」
「智謀に秀でた歳久」
「兵法に妙を得た家久」
優秀な孫に期待する祖父の誇らしい思いと期待が込められている。
そんな彼の辞世は、潔いながらも無駄死にせず生きようとした「賢人」に相応しい。
1568年、77歳で隠居していた加世田の地で亡くなった。
彼のもう一つの辞世として、
「不来不去 四大不空 本是法界 我心如心」
も知られている。