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明智光秀の妻 煕子の辞世 戦国百人一首㉚

煕子(?-1582)は明智光秀の正室である。
光秀との間には3男4女あったと言われるが、そのうちの一人が3女の珠(たま)こと細川ガラシャである。

煕子

    はかなきを誰か惜しまん 朝顔の盛りを見せし花もひと時  

朝顔(桔梗)の花が咲き誇るのがほんのひと時のことだとしても、そのはかなさを、誰か惜しむ者がいるのでしょうか

この歌を理解するには、歌の中の「朝顔」が、現代で言う「桔梗」を意味すると理解していることがキモだ。
そして桔梗とは、明智氏の家紋となっている花なのである。
それが分かれば、この歌に二重の意味があることが理解できる。

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             桔梗紋(Wikipediaより)

上記の歌は煕子の辞世だが、彼女がどのように亡くなったのかもよくわかっていない。

1582年、本能寺の変で織田信長を討ったあとに、山﨑の戦いで羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に討たれてしまった明智光秀は、天下の謀反人となった。
敗者の記録というものはそう多くは残っておらず、従って妻である煕子の素性やその死についても確信できる記録が残されていないのである。

煕子の最期については2つの説がある。

1つ目は、1576年に一時光秀がかなり重篤な病にかかり、煕子は献身的な看病のおかげもあって光秀は病の危機から脱出。
だが、今度は彼女のほうが看病疲れが原因で病死してしまったというもの。
この場合、煕子は光秀の全盛期の最中に、また彼女の娘のガラシャの結婚を見る前に亡くなったことになる。

2つ目は、光秀の死の2日後、光秀の居城だった近江国の坂本城が落城する際に、娘婿であり光秀の重臣だった明智秀満によって刺し殺される形で、家臣や侍女たちと共に自害した説。

いずれにせよ、戦国時代に生きる武将の妻として、夫の命に自分の命を重ねるようにして生きていたわけである。

それでも煕子の生涯において幸いだったのは、彼女と光秀の中が睦まじかったことだ。

残された光秀の逸話の中に、越前で牢人として苦しい生活をしていた彼を助ける妻・煕子の話がある。
連歌会を主催することになり、その酒宴の費用の捻出に苦労していた光秀のため、煕子は自分の黒髪を売って金を工面した。
その事実を知った光秀は彼女に深く感謝したという。

のちの時代に、俳句を芸術として大成した松尾芭蕉が、「奥の細道」の旅の途中、門弟・山田又玄の家に立ち寄った。
貧しいながらも自分を温かく迎え、夫の面目を立てようともてなしてくれた彼の妻に対して芭蕉は、

     月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せむ

の句を詠んでいる。

これはもちろん、煕子が光秀が連歌会を主催する際に酒宴で夫が恥をかかぬよう黒髪を売ったあの逸話を踏まえた上での句である。

今回紹介した煕子の辞世の歌は、光秀がまだ全盛の頃に病床の煕子が詠んだというよりは、彼女の死が坂本城落城と共に光秀の後を追うものであることを示唆しているように思える。
この歌の真贋を含めて、明智光秀・煕子夫妻にはまだまだ謎が多く残されている。