駒姫の辞世 戦国百人一首90
戦国の世には理不尽な死も多く見られるが、彼女の死もその一つである。
わずか15歳のおいまの方、通称駒姫(1581-1595)の生涯は、あまりにも早く幕を閉じてしまった。
この辞世を理解するには少々説明が必要だ。
まず、この辞世には、こういう前文が付いている。
駒姫が言っている「五つの障り」「五常のつみ」「五つの徳目に背いた罪」とは、「五障」という仏語のことである。オリジナルの釈迦の教えにはない、鎌倉以前の一部の仏教の宗旨として説かれていた女性差別の考え方だ。仏教が大陸から日本に取り入れられていったその過程で、他宗教の教えと融合する中「女には罪があり、男に劣る」と教えられてしまった。
つまり、「女性は仏の道を修めようとしても、五つの障害を持っているので成仏できない」とする考えである。
これがこの辞世のベースにある。
一方、歌そのものを見ると、「罪をきる」は「無実の罪を着せられる」「罪人として斬られる」の意味をかけた言葉、さらに「剣」を用いて「阿弥陀仏による明瞭な教え」と、「自分を斬首する刀」を同時に表している。
「弥陀の剣」に全てを任せ、避けることの出来ない自分の運命である死を冷静に受け入れようとする辞世である。そこには、無実の罪で殺される自分にはなんの問題もないのだから、成仏するに違いないとの気持ちが込められている。
これを詠んだ人物、駒姫はそのときわずか15歳。
(注:本人による辞世とされるが後に代筆された可能性もある)
若く、あまりにも理不尽な死であったことが、父親の最上義光(1546-1614)を苦しめた。
ではなぜ彼女が処刑されなければならなかったか、その経緯を見てみよう。
駒姫は、山形の大名最上義光の三女であり、東国一の美貌で知られていた。
そして、最上義光と生母の大崎夫人の2人は駒姫を溺愛していた。
1590年、豊臣秀吉が天下平定の最終章ともいえる奥州仕置を行った際、養子の豊臣秀次(1568-1595)も奥州に出陣した。その際に美しい駒姫の評判を聞きつけ、ぜひ側室に欲しいと最上義光に迫ったという。
のらりくらりと秀次の言葉をかわしていた義光だったが、執拗に駒姫を欲しがる秀次を断り切ることができず、ついに娘を差し出すことを認めてしまう。
その当時まだ娘も幼かったため、15歳になるまで待って欲しい、という条件をつけたのがせめてもの抵抗であった。
やがて時は来た。
1595年、15歳となった駒姫は、ついに秀次の側室となるべく山形を出て京へと向かった。無事京へ到着し、駒姫が旅の疲れを現地の最上屋敷にて癒やしているときのことだった。
豊臣秀次切腹事件が起きたのである。
豊臣秀吉曰く、謀反を企んだという秀次が切腹させられた上、関係者の連座が決まり、それに駒姫も加えられることになってしまったのだ。
一説によれば、京にきたばかりでまだ側室にさえなっていなかったとされる駒姫。たった十五歳の彼女に一体何の罪があったというのか。
父親の最上義光は、秀吉の次に力を持っていた徳川家康にすがり、娘の助命嘆願に奔走した。
最終的に秀吉は、家康や側室の淀殿など各方面からの反対の声を受け入れ、駒姫に関しては「鎌倉で尼にするように」との助命の指示を出した。そしてそれを知らせる早馬の使者を、駒姫たちが処刑される京の三条河原へと急ぎ向かわせたのであった。
だが、その知らせは生きている駒姫の元に届くことはなかった。急使が、あと一町(約100m)で刑場に到着するというとき、駒姫は処刑されてしまった。
駒姫の生母、大崎夫人の嘆きはこの上もなく、娘の死から2週間後に亡くなっている。父である最上義光も、悲しみ、怒り、そして秀吉への恨みを強く深くしていった。
その後、最上義光は豊臣家からは距離を置き、徳川家康の方に加担していく。
1600年の関ヶ原の戦いで、義光は東軍についた。
最上軍は、東北の関ヶ原の戦いともいわれる「長谷堂城の戦い」において籠城。西軍上杉景勝配下の直江兼続軍2万5000を約7000(他所へ応援の兵を派遣していたため、3000だったとの説もある)の寡兵をもって迎え撃ち、撃退した。
最上家が出羽山形藩57万石となって版図を広げた背後には、何もしなかった愛娘を無実の罪で失った最上義光の秀吉への強い怒りと恨みがあったに違いない。彼は豊臣家を許さなかった。
駒姫の処刑時に話は戻る。彼女の最期は潔かった。
牛車で市中引き回しののち、刑場に連れてこられた駒姫の処刑の順番は、11番目。白い死装束に身を包んだ彼女は、所定の位置に座し手を合わせ、死刑執行人が刀を振りかざしたその際には、かすかに頭を前に差し伸べたという。
駒姫辞世が記された和歌懐紙は、彼女が愛用していた着物で表装され、同時に処刑された他の者たちの辞世と共に京都国立博物館に保存されている。