楠木正行の辞世 戦国百人一首㉑
楠木正行(くすのきまさつら)(?-1348)の名前を知っている人は、鎌倉末期の日本史に多少なりとも詳しい方ではないだろうか。
彼は、建武の新政をおこなった後醍醐天皇の忠臣であり、戦の天才である楠木正成の嫡男だ。
かゑらじと かねておもへば 梓弓 なき数に入る名をぞとどめる
生きては還るまいとあらかじめ決心していたから、死んで行く我々の名をここに書き留めるのだ
「梓弓(あずさゆみ)」という言葉は枕詞である。
直接現代語にうまく対応させて訳すことができない。しかし、独立した単語としては、梓の木で作った弓のことを意味する。
だから、この歌には「戦さ」の香りがする。
この「梓弓」という言葉から「名を」とは「兵士たちの名を」を意味することになる。また、「入る」とは「射る」との掛詞でもある。
決死の覚悟で戦場に赴く兵たちが、名前を書き残したときの歌だ。
楠木正行の父・正成(まさしげ)は、戦の天才であった。
正成は後醍醐天皇に出会ってからというもの、誠心誠意天皇に尽くした。多くの戦いで活躍したが、特に1333年の千早城の戦いの活躍が知られる。
奇策を駆使して鎌倉幕府の大軍(数万から数十万の兵)に対し、たった1000人で善戦した。
1人の武将が幕府軍を翻弄する驚きのニュースはたちまち各地に広がり、それが武将たちを刺激して鎌倉幕府滅亡へと導いた。
彼の最後の戦いは、1336年の湊川の戦いである。
自分の意見が上層部に聞き入られぬまま、勝ち目がないのを知りつつ後醍醐天皇のために戦った。
信じられないほどの回数の突撃を繰り返したのち、いよいよとなって仲間たちと差し違えて自害した。
楠木正行は、そんな猛将の息子だったのだ。
当時まだ少年だった正行(当時数えで11歳との説あり)は、湊川の戦いの前に父親・正成と大阪府三島郡にある桜井駅で今生の別れをしている。
父亡き後、正行は跡目を継いで楠木氏の棟梁となった。
そして父が南朝の後醍醐天皇に仕えたように、正行も後醍醐天皇の息子・後村上天皇に仕えた。
既に南北朝に分裂し、足利幕府が開かれた後のことである。
1347年、指示を受けた楠木正行は少ない人数で北朝に対し挙兵しなければならなかった。だが彼は見事に北朝・室町幕府の有力武将・山名時氏と細川顕氏の大軍を天王寺・住吉浜で打ち破ったのである。
まるで楠木正成の再来のようなその正行の活躍ぶりに北朝側の人々は「不可思議の事なり(人智を超越した出来事だ)」と怖れたという。
しかし、1348年の四條畷の戦いで楠木正行と弟・正時は戦死した。当初は善戦していたが、北朝・幕府軍の高師直(こうのもろなお)と佐々木道誉(ささきどうよ)の軍に大敗し、数百名の兵士たちとともに命を散らせたのである。
異説もあるが『太平記』には、正行たちが玉砕覚悟でこの戦いに臨んだと記されている。たとえ彼が勝つつもりで戦に臨んだとしても、何がきっかけで勝ち戦が負け戦に転じてしまう合戦の恐ろしさを、彼が知らなかったはずもなかっただろう。
戦いの前、正行は参内し後村上天皇にまみえ、後醍醐天皇の御廟に参った。
そして四條畷の戦いへ赴く直前に、吉野の如意輪寺の門扉を過去帳に見立てて楠木一党143名が矢尻で名前を彫りつけた。
その時に、彼は辞世も共に書き付け、自らの遺髪を寺に奉納したという。
楠木正行・正時亡きあと、楠木家を継いだのは、末弟の楠木正儀(まさのり)である。
父・兄と並ぶ勇猛な戦上手でありながら、和平を求めて南北朝の合一を導いた心優しき名将である。