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武田信勝の辞世 戦国百人一首60

戦国大名としては、甲斐武田最後の当主・武田信雄(1567-1582)。
武田信玄の孫、長篠の戦いで織田信長軍に敗れた武田勝頼の息子である。
機会があれば彼の肖像画を見ていただきたい。
まだ少年の若々しい姿を見ることができる。
それもそのはずである。信勝は16歳で死んでいった。

武田信勝 60

   まだき散る花と惜しむな遅くともつひにあらしの春の夕暮

この春の夕暮、私は逝きますが、散るのが早すぎる花だと惜しまないで下さい。遅くとも花はいずれ、最後には嵐に吹き飛ばされるのです。

歌の中の「あらし」という語は、「嵐」と同時に「有らじ=無事ではない、死ぬこと」を意味した掛詞である。

1575年5月、武田勝頼は長篠の戦いで織田信長に敗退した。
1582年2月には、織田信長と徳川家康の連合軍による甲州征伐が開始。
武田側は連合軍の攻撃に加え、有力家臣の離反や裏切りによって勝ち目はなかった。

3月11日には天目山付近で織田家臣の滝川一益らに捕まった信勝は、父親の勝頼や家臣たちと共に自害した(討死の説もあり)と言われている。

また、信勝の最期は、家の名誉を守るため戦い続け、後世に名を残すほど敵方を切りまくった上で討死したと『信長公記』には残されている。

信勝は
「家柄も育ちもよく、顔立ちは美しく、肌は白雪のようで、その容姿は誰よりも優れていた」
と記録されている。

父親の武田勝頼は、彼自身の切腹は覚悟していたものの、前途ある16歳の息子の命は惜しんだという。

信勝の辞世は、そんな親を慰めるかのような歌なのである。