憧れについて考える
最近、ブログやラジオで立て続けに「憧れるひと」について聞く機会があった。そのため、次はなにについて文章を書こうかと考えていた時に、「憧れるひと」というテーマが頭に浮かんだ。
印象に残っているということは、取り入れる情報として無意識のうちに選択していたのだろう。
そこで今回は自分が憧れるひとについて考えたことを記録として書き起こす。
最初に憧れの定義を確認しておこう。
□自分の能力を上回っているひと
憧れを抱くような人物像として最初に思い浮かぶのは、自分の能力を上回っているひとだ。
人間が人生の中で最初に獲得する憧れの形ではないかと思える。
私自身の経験を思い返すと、小学校に上がるか上がらないかのころに憧れを感じた記憶がある。相手は近所に住んでいた3つ上の男の子だった。
鬼ごっこをすればすぐに私は捕まり、おいかけてもその男の子を捕まえることはできなかった。ブランコを漕げば私より高く揺り上げ、クラッシュバンディクーをすれば私にクリアできない面より先に進んだ。
大人になった今となって考えると、その憧れとは正味劣等感なのではないかと思う部分もあるが、当時の私にとっては憧れだった。
私の人格を構成する曲の一つに、BUMP OF CHICKENの「才悩人応援歌」という曲がある。その歌いだしはこうだ。
結局、私が引っ越してしまいその男の子に対する憧れは過去のものとなった。
しかしながら、私は小学校のころに得意だったことを思い出すことができない。
□自分と異なる方向性の長所があるひと
次に憧れの対象として思い浮かぶのは、自分にはない長所や魅力である。例えば、場を明るくするコミュニケーションに長けている人や、ポジティブに行動ができる人だ。
社会人になって最も驚いたのは、上司の豊富な知識量や己の無能さではなく、とある同期の圧倒的なコミュニケーション能力である。年上・年下・同年代そして男女問わずだれに対しても芯のある接し方をしていた。
頭では認識できても、その振る舞いを実現させるまでのマインドセットからして自分には備わっていないことを感じてしまう。
自分の認識の世界にはないポジティブな行為を目の当たりにすると、その瞬間自分の人生の主人公ではなくなり、その圧倒的存在の取り巻きになってしまうのだ。
また、大阪に出張で言った際、彼と1対1で飲んだことがあった。他の同期が歓楽街の方へと遊びに行ったので、私と彼は別の場所でもう少し飲むことにしたのだ。
大勢の前でムードメーカーになっている姿しか見たことがなかったが、1対1になると学生時代の話や将来やりたいことについて深く真面目なトーンで話す姿を見ることができた。
そのとき「こんなギャップを見せられたらッ……!」と女性ホルモンの活動が活発になったのを覚えている。
また、一方的に憧れていたが、まだまだ知らない一面も持っていることにも考えが及んだ。
そして、自分に憧れていた部下を裏切ったときの、藍染惣右介のあのセリフが思い出された。
見た目の華やかさや上辺の好印象があると、そこで思考停止してしまうのだ。
□おわりに「私が憧れてしまうひと」
私にとっての憧れは年を経て変化した。
少年時代は、自分の能力を上回っているひとに憧れを抱いた。その長所を渇望し、妬む気持ちもあったので羨望といったニュアンスだ。
そんな童心ゆえの憧れ方は、もう自分の内から混じりけなしには湧いてこないと思う。
混ざってくるのは諦念である。
ある程度の年になると自分と異なる方向性の長所があるひとに憧れるようになったが、その人のようになりたいとか自分を近づけたいとは思えない。
自分には到底しえない、遠い世界の出来事であるという気がしてしまうのだ。
憧れに諦めの気持ちが混ざることで、オリジナルブレンド”コンプレックス”が誕生する。
当店自慢の”コンプレックス”の話はまた記事にしたい。