『傲慢と善良』に学ぶ老いのエッセンス
今回の投稿では、小説『傲慢と善良』をみた感想を書く。この小説を読んだときの問いは、「傲慢な方が人生楽しいのではないか?」ということだ。考えたことを記録として書き起こす。
(この記事にはネタバレを含む)
□結婚目前だった二人
この作品の主人公は二人いる。
一人目は西澤架という男性主人公だ。
周りからは「いい人」だと評価されている。傲慢な部分があだとなり、結婚を決断できず元カノにフラれた経験がある。
架は傲慢である。しかし、この物語では他の登場人物たちの傲慢さがどんどん明らかになっていくため、架の善良さが相対的に目立っていく。
二人目は坂庭真実という女性主人公だ。
過干渉な人間関係により箱入り娘として育ってきた。
誰に教わるでもなく自ら編み出した”自己正当化”という技を駆使して、依存先の乗り換えを試みたが、理想と現実のギャップを感じてボロボロになっていく。しかし、物語の後半では、箱入り娘から自立した人間へと成長していく。
この二人は婚約者同士である。
結婚間近だった坂庭真実が、ストーカー被害を訴える電話をした後、失踪するところから物語は始まる。
□婚活がうまくいく人の共通点
この作品は婚活について複数の視点と、複数の気づきを与えてくれる。
その中でも、結婚相談所の小野里の言葉は、多くの読者の意識に少し嫌な思いをさせたのではないだろうか。
西澤架は小野里に次の質問をぶつけてみる。
返答に困りそうな質問であるが、小野里は多くの婚活を世話してきた歴戦の勇である。
自分の生活を描くことができているからこそ、結婚といった決断に足踏みをしないのだろう。
しかし、ビジョンとまではいかないけれども、婚活をしている人には結婚したいという気持ちくらいある。それにもかかわらず、現代の結婚がうまくいかない。それについても小野里は持論を話す。
人に傲慢さと善良さが同時に存在することにあると。
□メロンソーダ野郎はおよびでない
作中には周りに流されずに、自分の欲しいものをちゃんと選んだ人間がいる。
それが、花垣だ。30代半ばの男性だ。
花垣は、学生時代のまま大人になってしまったようなそんな雰囲気をもっている。
架は花垣のことを事件の犯人ではないかと疑った。
そして、花垣の仕事場に電話をかけて、花垣と話す機会をセッティングしたのだ。
花垣からしてみれば、職場に急に電話がかかってきて、善良であるがゆえに架との待ち合わせに応じたのである。
花垣は欲しいものが選べる男である。
坂庭真実のことが心配であり少しでも状況を知るために、架とかいう怪しい男との話し合いに応じたのだ。
ドリンクバーを選ぶときにも妥協はしない。自分の飲みたいと思ったメロンソーダを注ぐ。乗っている自動車も、古びた軽自動車だ。
そんな花垣と会った架は、次のような感想を抱く。
さらに架の花垣への評価は止まらない。女性に人気があるタイプではない、自分がない、見ていると自分がいたたまれなくなる、察しが悪い子供のような行動をする人物だと、花垣を観察する。
人間の持つ傲慢さに気づかせてくれる架の描写は、本書の見どころだ。
□おわりに「傲慢さを失うと老いる」
物語の終盤、傲慢さから善良さに傾いた架をみた真実は、架の様子を大人びて疲れが増したと表現した。年取って疲れが増しているとしたら、それは老いではないだろうか。
一方で、久しぶり真実にあった架は、真実のことをたくましくなったと表現している。
善良さから脱却していくことでたくましくなり、傲慢さを失っていくことに老いるという構図が面白い。
傲慢で我欲が湧き出てくる方が、若々しい。善良さという檻から一歩外に出てみることが、ハツラツとした振る舞いを生む!
さあ、君もメロンソーダを飲んでいる声の小さいやつを見下そう!
傲慢さと善良さの間で、自分にあったポジションをとるしかないのだろうか。気分の上がらない話である。
傲慢さと善良さの年の差をかかえた架と真実、この二人の今後を想像して余韻がのこるという、素敵な読後感であった。
また、巻末の文庫解説も本作品の魅力を際立たせている。
映像化されることがきっかけで読んだ作品だが、最初に文庫版で味わうことができたことに感謝したい。