トラウマ、後遺症の段階を知って置くとよいこと
※フラッシュバックが酷い人はお控え下さい。
私は過去の事件(虐待)をあれは本当に私の身に起こったことなのだと実感したのは30歳を過ぎてからだ。
家族から暴力と性虐を受けた私の心は長い間その事件の事を考えないようにしていた。(あえて事件という表現を使う、刑事事件だから)
その理由として、後もその家族と奇妙な緊張状態のまま暮らさなくてはいけなかった状況と、事件の後遺症で幼い頃からずっと病気がちだったから事件を直視出来る精神状態ではなかったのだと自分では思っている。そして生き残るためにもそうしたのだろう。
(虐待を受けた年齢に関わらず、酷い経験をするとその事実を認識するまで10年20年以上かかるという事は精神医現代の医学では常識にになっている)
30歳を過ぎてずっと抑えつけられていた私の精神は悲鳴を上げだ。
そして、とうとう事件の事を話し始めたのだけれど、私が経験した残酷な事件の全ては話せなかった。
ただそれから10年経ってまた少し話せてた。
自分でもその事にショックを受けて、混乱した。
その時周りにいてくれた人もとても動揺した。
皆、その事に触れることを怖がり私が話すことをただ聞いた。
中には「もう忘れるようにしないと」と言った人もいたけれどそう言った人は二人とも既婚で子供がいる人だった。
そしてまた10年経って今まで言えなかったことを私は話し始めた。今回は事件の全体を見渡せるようになったと思う。
色んな視点で事件のことを見つめ直し考えることが出来たのではないだろうか。
当然、これは私の個人的な経験の個人的なトラウマの後遺症の経緯なのだけれど、なんという残酷な苦しみと膨大な時間がかかってしまうのだろうと自分でも呆然としてしまう。
私は他の虐待を受けた人はどうなんだろうと色々とネットで調べてみたけれども、多くの人が事件のことをはっきりと認識するのを無意識に拒絶しながら生きていることが分かった。
そして、なんとか何事もなかったように暮らしながらも人から受けた傷は治療しない限り癒されることはない。傷を受けた魂は人間関係で躓きまた傷ついてしまう。
社会に出てモラハラ、セクハラ、パワハラを受けた時、そんな事を受けている人を見た時に私達は思い出す。
過去自分の身に起きたことを一瞬リアルに思い出してしまうのだ。
哀しいけれど、私はこうして思い出した気がする。
色な人達から些細な言葉や態度で傷付けられたときに過剰反応をしてそこで自分の中にある傷に気付く。
でも最初はそれを見ないように感じないようにする。
そこでまた自分の感情に蓋をしてしまう。
でもまた何かのきっかけで人と感情的にぶつかった時にまた思い出してしまう。消したいのに消えない記憶は膨れあがるのに、そこにまた更に重しを乗せ蓋をする。
自分で自分を欺き、自分を無視する。
時に自暴自棄になり、自分を傷つけ、親しくなった人をも傷付けてしまう。
人と繋がれなくと、心もささくれ立ってしまう。
そんな事が続くと極端に人を避けるか、依存し過ぎてしまうかのどちらかになることが多いのではないだろうか?
しかし、この反応はとても当たり前な反応だから自分を責めてはいけない。
まずは自分の中の罪悪感を解消するようにするべきだ。
その時事件に向き合えなくても、自分の中の罪悪感を強めないするようにした方がいいと私は思う。
人を遠ざけてしまうのも、人に依存し過ぎてしまうことも酷い事件を経験した人が持つ生存本能であり、生きたいと強く願うことによるサバイバル術なのだから。
それがとても効率が悪く、結果的に生きづらい人生を歩んでいたとしても
今、生きているじゃないか。
どんな状況であっても、自分を殺さず生きているじゃないか。
それだけでも、凄いことだと思う。
偉いなって思う。
そう言ってあげたいと思っている。
私は最近から自分にそう言っている。
虐待を受けた全ての人へ、この言葉が届きますように。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?