番外編【創作】Ⅸ
この物語はフィクションです。
今年もあと残りわずかですね。
どんな一年をお過ごしだったでしょうか。
久しぶりにカイのお話です。
カイの前のお話はこちらですが、このお話だけ読んでいただいても大丈夫です。
温かな灯火の下で、よかったらどうぞ読んでみてください。
出来れば、美味しいコーヒーをお供に。
*マジシャンの事情④ 忘れ物*
分厚い木の扉を開けると、ドアベルがカラコロと鳴った。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうで店主が振り向いて微笑んだ。
「こんにちは。いつもので、よろしいですか」
この店にくるのはこれが4回目。常連扱いがちょっと嬉しい。
5、6人も座れるだろうか、よく磨き込まれたカウンターと、奥に4人掛けと2人掛けのテーブル席がひとつずつ。
天井から下がったアンティーク調のランプから、柔らかい光が洩れている。カウンターを背にした壁には真鍮製の帽子掛け。洒落たソフト帽がひとつ掛かっているのは、最初にこの店に来たときと同じだ。誰かの忘れ物だろうか。
さっぱりとこぎれいだがそのぶん飾り気もなくて、流行りのカフェ、というのとは趣が違う。
そのせいか、いつ行ってもあまり混んでいない。今日も2人掛け席に文庫本を読んでいる、常連だろうか、青年がひとりいるだけだ。
こんなので経営的には大丈夫なのか、少々心配になる。
仕事でホテル滞在が続くと、美味いコーヒーが飲みたくなる。高いだけのホテルのコーヒーは好きじゃない。
空いた時間に街を歩いて、思いがけずいい感じの店を見つけたときはガッツポーズがしたくなる。
この店はこの街に来て2日目に見つけた。
少し分かりにくい路地を入ったところにひっそりとある、その隠れ家っぽいところも気に入っているが、何よりもコーヒーがとびきり美味い。
「お待たせしました」
目の前に白いカップが置かれた。ほんわりと湯気と香りが立ち昇り、それとともに気持ちまでほどけていくようだ。カップを持ち上げてひと口飲む。
「…やっぱり美味い」
思わずつぶやいた言葉に、店主はクスリと笑った。
「ありがとうございます」
年齢は、そう、50後半、だろうか。少し銀色の混じったショートカットがよく似合う。白いシャツに黒いエプロンをキリッと着こなした小柄な女性だ。
若い頃はさぞや美人、いや、失礼、今でも充分に美しい。
そのとき、ガランガランとドアベルの騒がしい音がして、客がひとり入ってきた。
店主より少し若いくらいの中年の小太りのオヤ、いや、男性。
ドタドタと歩いて4人掛けの椅子にドッカと座り、反対側の席に乱暴に荷物を置いた。
「おい、コーヒー」
無愛想にそう言うや否や、スマホを取り出す。
「かしこまりました」
店主がテキパキとコーヒーを席まで運ぶ。
男性客はそちらには目もやらず、黙ったまま荒っぽい仕草でカップを掴み、ガブリ、とコーヒーを飲んだ。あーあ、そんな飲み方。もったいない。
その間もスマホから目を離さない。あまつさえ、ビンボー揺りを始めたのでテーブルの上の食器がガチャガチャと音を立てる。
店内の空気が変わったと思ったのか、そろそろ時間だったのか、青年が文庫本を閉じ、テーブルの端に硬貨を数枚置いて立ち上がった。
「ここ、置いときます」
「あ、はい、ありがとうございました」
店主がカウンター奥から頭をさげた。
歩き出した青年が件の男性客の席の横を通り過ぎようとしたとき、テーブルから行儀悪く突き出していた短い脚につまずいた。
「あ、すみません」
間の悪いことに、男性客はちょうどカップを口に運ぼうとしていたところだった。例によって、視線はスマホに向けたまま。
男性客が前につんのめる形になり、カップの中のコーヒーは全て男性客の胸から腹にかけて盛大にこぼれた。男性客は慌てて立ち上がる。
「おい、何やってんだよ」
怒鳴り声が響く。青年は立ちすくみ、店主がタオルを持って飛び出してきた。
「申し訳ありません」
「謝ればいいってわけじゃないぞ。どうしてくれるんだよ。これから商談なんだ。クリーニング代だけじゃすまないからな」
がなり立てる男性客にタオルを差し出そうとした店主の手が戸惑ったように止まった。同じようにあぜんとした様子の青年と顔を見合わせる。
「おい、何やってんだ、はやくよこせ」
男性客はタオルをひったくって胸元あたりを拭こうとして、手を止めた。
「な、なんだ。どうなってんだ、これ」
コーヒーでずぶ濡れになっているはずの男性客の服には、その跡すらない。
それどころか、テーブルにも床にも一滴のコーヒーもこぼれていなかった。
男性客はぽかんとして自分の身体を見回し、それから店主と青年の顔を見た。
いち早く、気を取り直した店主がテーブルの上の空のカップに目をやり、男性客に微笑みかけた。
「いかがいたしましょう。お代わりをお持ちしましょうか」
男性客の顔はみるみる真っ赤になった。タオルを床に叩きつけ、「いらん!」と怒鳴ると荷物を取り上げ、足音も高く店を出ていった。ドアベルが尋常ではない音をたてる。
見送った店主と青年はまた顔を見合わせた。しばらくして先に店主のほうがふき出し、青年もつられて笑い出した。
笑いながら店主がこちらをチラリと見たような気がしたが、俺は気づかないふりでコーヒーをひと口飲んだ。
**
「ではそろそろお別れの時間です。皆様、お手元のグラスをどうぞ」
ステージでワイングラスを手に、マジシャンは気取った仕草で客席を見回した。
グラスを目線より高くかかげる。なみなみと注がれた真っ赤なワインがシャンデリアの光に煌めく。
「今宵、この素晴らしき出逢いに。トースト(乾杯)!」
マジシャンはワイングラスをさらに高くかかげ、首を傾げて微笑み、ウインクした。グラスを口に運ぶ代わりに、腕を伸ばして大きく振る。
ワインの赤い雫がキラキラと輝きながら会場中に飛び散った。観客席のそこここから、小さな悲鳴が起きる。
しかし、女性客の豪華なドレスの胸元や男性客の高級スーツの肩に落ちたはずの赤ワインの雫は見当たらない。
代わりに艶々とした赤い薔薇の花びらが散っていた。
たちまち、湧き起こる万雷の拍手喝采。
見るとステージにはもうマジシャンの姿はなく、小テーブルに置かれた空のグラスには赤い薔薇の花が一輪。
観客たちの興奮は最高潮に達した。
「ブラボー」の声が響く。
**
あーあ、やれやれ。
俺は、控室で嵐のような拍手を聞きながら
ソファーに身を沈めていた。
よしよし、今宵のショーも大盛況。
当たり前だ、天才マジシャン、カイのマジックショーだからな。
カイ、って誰だ?
え、知らない?
うーん。まあ、俺はちょっと事情があって、マスコミとかへの露出は極力控えているからな。仕方がないか。
俺の名はカイ。
もちろん、これはステージ名。知る人ぞ知る天才マジシャン。
金持ち相手の高級ディナーショーが主な仕事だ。この端麗な容姿と華麗な手さばきで、この界隈じゃ結構、人気あるんだぜ。
この華麗な、いや、華麗すぎるマジックには実はちょっとした秘密がある。
実は、俺はエスパーなんだ。
…おい。
あー、はいはい、ってなんだよ。その溜め息も聞き捨てならないなぁ。
だいたいそうでなきゃ、撒き散らした赤ワインのしずくが薔薇の花びらになったり、思いっきりこぼしたはずのコーヒーが跡形もなく消えるわけがなかろう?
ま、信じる信じないは、そちらの勝手だ。
ただ、これはマジシャン・カイにとっちゃ重要機密だから、そこんとこ、よろしく頼むぜ。
さて、このツアーも今夜で終わり。明日の朝には撤収だ。
見上げると時計の針は9時を指している。
最後にもう一度、あのコーヒーが飲みたいが、まだ開いているかな。
よし、行ってみるか。
ドアベルを鳴らして店の扉を開けると、カウンターの向こうに店主が立っていた。客の姿はない。店内の灯は落とされてカウンター上のランプだけになっていた。
帽子掛けにはあのソフト帽がやはり掛かったままだ。
「あら、いらっしゃいませ」
店主がこちらを見て、にっこりと微笑んだ。
「すみません、もう閉店でしたか」
「大丈夫ですよ。どうぞお入りください」
俺は遠慮なく、店に入ってカウンター席に座った。
「いつもので、よろしいですか」
俺がうなずくと、店主は戸棚からカップを出した。
2人ぶんのコーヒーを入れ、俺の前にカップを置くと、
「私も、ご一緒してもよろしいですか」
と聞いた。
俺に否やがあろうはずもない。
俺たちはカウンターを挟んで、コーヒーを飲みながらポツリポツリと話をした。
「そうですか。では明日にはお発ちになるんですね」
「そうなんです。ここのコーヒーがしばらく飲めないのは残念ですが」
「またぜひ、いらしてくださいね。お待ちしております」
「ええ、必ず」
カップをソーサーに置き、帽子掛けのソフト帽を見上げた。
昔なら、中折れ、と呼ぶのだろうか。深い色といい、布地の風合いといい、いかにもお洒落な紳士がかぶりそうな高級品だ。
俺が見惚れていると、店主も帽子掛けを見上げた。
「どなたかの、忘れ物ですか」
店主は、はっとしたようにこちらを見た。
「そう、そうですね。忘れ物です」
店主はコーヒーカップに目を落とした。
「主人の帽子です」
「さぞやお洒落な方なんでしょうね」
「仕事柄、外国を飛び回っておりました。私はその間、ひとりでこの店を切り回していましたので、帰国したときはいつも、真っ赤な薔薇の花束を買って来てくれました」
店主は遠くを見るような目をした。
「そんなの抱えて歩いて恥ずかしくないの?って聞いたら、全然、って。私なんかよりずっとお洒落な人で。この帽子もとても似合ったと思うのですけど」
俺は何か言おうとして、やめた。
「この帽子は主人が街の帽子店のショーウィンドウで見かけて。とても気に入っていたようだったので、主人が海外に出ている間に内緒で買いましたの。帰ってきたら驚かそうと思って」
沈黙が降りた。続きは聞かなくてもわかった。この帽子の持ち主は帰ってこなかった。彼は一度もこの帽子をかぶることはなかったのだ。
「空港から帰る途中の交通事故でした」
彼女はこちらをチラッと見て微笑んだ。
「もう、10年になります。ずいぶんと長い忘れ物ですわね」
俺は店主に礼を言って店を出た。
夜風が冷たい。上着のポケットに手を入れた。何か入っている。俺はそろそろと手を出して手のひらの中のものを見つめた。
そして、その上にもう一方の手のひらを重ね、一瞬目を閉じた。
目を開けて空を見た。流れ星がひとつ走って、消えた。
***
客が去った店内で、店主はカウンター席に座ってひとり帽子掛けを見上げていた。
立ち上がってソフト帽を手に取り、自分の頭にそっと乗せる。戸棚のガラスに映る自分の姿を見て自嘲するように笑った。
ため息をついて帽子をとった。と、中からハラハラと舞い落ちたものがある。ゆっくりとかがんで拾い上げた店主の目が大きく見開かれる。たちまちその目から涙が溢れ、頬を伝いカウンターに落ちた。
「お帰りなさい。あなた」
店主の手のひらの上には、数枚の赤い薔薇の花びらがのっていた。
(了)
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今年1年、私の拙い記事をお読みいただきありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願い致します。
来週1/2はお正月休みということで、次回は1/9に投稿する予定です。
その間も皆様の記事は読ませていただきますし、コメントもさせていただくと思いますので、よろしくお願い致します。
皆々様、どうか佳いお年をお迎えくださいませ。