番外編 【創作】Ⅲ
このお話はフィクションです。
今日のお話は少しばかり怖いです。(ホラーではありません)
晩秋の夜長、ちょっとゾクっとしてください。
*彼女の理由*
「…あの、お元気でしたか?」
デパートの中のこじんまりしたカフェの窓際の席。
向かいの席に座っている女性に尋ねる。困ったような微笑みを浮かべる彼女を見て、しまった、と唇を噛んだ。
元気なわけがない。彼女は今、もうすぐ4つになる女の子を保育園に預けて慣れない勤めをしているはずだ。
かつてはふっくらした丸顔だった彼女の顔には、明らかに疲れの影が見てとれる。
一年前、彼女の幸せな家庭は壊された。
彼女は子煩悩で優しい夫を失い、彼女の娘は大好きなパパを奪われたのだ。
そして、その犯人は私。
私の夫、隆之は彼女の前夫だ。
隆之とは、私がまだ学生のときに出会った。彼は私の所属する大学サークルのOBだった。
気さくで面倒見がよい彼は部員たちに人気があった。
他の男性部員と比べて断然大人で、でも少年ぽさの残る彼に私が好意を抱くのにそう時間はかからなかった。そして、あっという間にその好意は恋に変わった。
彼に妻と1つになったばかりの娘がいることは分かっていた。分かっていたが、自分の気持ちは止めようがなかった。
そう、私は家庭のある人を好きになったわけじゃない、好きになった人に家庭があっただけなのだ。
出会うのが少し遅かっただけ。私の方が彼に先に出会っていれば。
そう言い聞かせていた。
彼が私と同じ気持ちであることを打ち明けられたのは、私が社会人になってまもなくのことだった。
「君ともっと早く出会いたかった」
その日から、私は彼に会っている時間とまた次に会える時間を繋ぎ合わせるようにして日々を過ごすようになった。
彼の妻、茜さんに対して後ろめたさがなかったわけではない。
彼女には学生の頃に何度か会ったことがあった。彼より2つ年下の小柄で可愛らしい印象の女性だった。いつも笑顔で私にも優しい言葉をかけてくれた。そんなことを思い出すと胸が痛んだ。
でも、今は私の方が辛い思いをしている。
そう思うことで罪悪感を紛らわせていた。
1年が過ぎ、隆之が、妻と別れて私と結婚したいと言い出した。これ以上、自分や周りに嘘をついて生きるのはいやだと。
無理だ。茜さんが承知するはずがない。でも、彼の気持ちが嬉しかった。
いつまでも待とう、と思った。
しかし、驚いたことに離婚はすぐに成立した。茜さんが、娘の養育権だけを条件にすぐに別れることを承知したのだ。慰謝料も要らないと言う。
彼や私に対する恨み言の1つも伝わってこなかった。
正直、拍子抜けした。そして、不思議でならなかった。隆之と茜さんは私の知る限りでは仲の良い夫婦だった。茜さんの気持ちがどうしてもわからなかった。
茜さんが何も言わなかったぶん、外野からの私達2人への風当たりは相当に強かった。彼や茜さんの親族、友人たちからは猛烈な非難を受けたし、私も親にずいぶん泣かれた。友達も失くした。
ようやく嵐が過ぎ、夢見ていた平穏な生活が始まった。籍を入れてから明日で1年になる。
大したことは出来ないが、ささやかでも今夜はお祝いしよう、彼に何かプレゼントでも、と考えて久しぶりにやって来たデパートで、まさか、茜さんに出会うとは。
なぜ、自分から声をかけたのか。なぜ、お茶に誘ったのか。よくわからない。
今、こうして向かい合って座り、お互い注文をすませてから初めて、どうしようと思った。
「お陰様で元気に過ごしているわ。あ、これは嫌味じゃないのよ」
茜さんが静かに微笑む。
「そちらはいかが」
茜さんの笑顔に、私はおどおどしてしまった。
「あ、はい。あの、元気にしてます」
しどろもどろの私を見て、クスッと笑った茜さんの目にチラリと余裕が見えた気がして、私は我知らず対抗心を抱いたらしい。
私は背筋を伸ばし、座り直した。
「あの、お伺いしたいことがあります」
店員がコーヒーを2つ運んできてテーブルに置いた。
私はカップを持ち上げ、気持ちを落ち着けるためにひと口飲んだ。
私がカップをソーサーに戻したとき、入れ替わりにカップを持ち上げながら、茜さんが先に口を開いた。
「私がなぜあっさり離婚したか、でしょ」
虚をつかれた私は目を上げて、茜さんを見た。
そうだ。それがずっと気になっていた。自分の夫を奪い、家庭をめちゃめちゃにした女。憎くないはずがない。そんな女の望みをどうしてすぐに叶えてやるようなことをしたのか。
今こうして向かい合って座っていて、どうして私を罵らないのか、なぜ、そうやって静かにコーヒーを飲んでいられるのか。
こんなことを聞ける立場じゃないことはわかっている。でも。
茜さんはゆっくりとコーヒーカップを置いた。
「私がもっとジタバタしたほうが、勝ったのは自分だと実感出来たのかしら?」
私が思わず息を飲むと、茜さんはまたクスリと笑った。
「ごめんなさい、冗談よ」
茜さんがゆっくりと微笑む。
「私がさっさと離婚に同意したのは、あなたに1日でも早くプレゼントしたかったから」
「プレゼント?」
茜さんはうなずいた。
「そう、プレゼント。こんなに脆くて、いとも簡単に奪われる妻の座をね」
何も言えずに彼女を見つめる私の目を覗き込み、茜さんは言葉を続ける。
「一度、裏切った者は必ずまた裏切る。裏切りへのハードルが下がるから。それに簡単に手に入ったものに対する執着は薄くなる。隆之はまた、必ず妻を裏切るわ。そして、今度、裏切られるのはあなた」
「そんなこと、あり得ないです。彼は、隆之さんはいつだってとっても誠実で正直で…」
私の言葉は宙に浮いた。
「そうね。誠実で正直。でも、それは誰にとって? 新しい恋人? それとも自分自身?」
そう言い放つ茜さんの声は私の知っている彼女の声ではなかった。
「5年後か10年後か、それはわからない。隆之は、きっとまた妻を、あなたを裏切る。あなたはそのときがいつ来るか、怯えながら暮らすの。そうやってずっと死ぬまで、彼を失うことを恐れながら生きていけばいい」
いつの間にか、茜さんは立ち上がって私を見下ろしていた。その顔にはもう、微笑みはない。
氷のような視線に射抜かれて、私は動くことが出来なかった。
(了)