番外編【創作】ⅩⅢ
この物語はフィクションです。
変身願望、って、誰にも多かれ少なかれ、あると思うんです。
自分とは違う何者かになってみたい、とちょっとしたイタズラ心が湧くのは、人として当たり前かな、とも。
でも、何事もやり過ぎは禁物。
皆様も、どうかお気をつけくださいね。
*怪しい乗客*
夜更けの舗道を足早に歩いていた加納は、通りかかった空車表示のタクシーに右手を上げた。車が停まり、ドアが開く。
「どちらまで、行かせていただきましょうか」
加納が乗り込むと、ドライバーが愛嬌のある丸顔をこちらに向けた。
「とりあえず、南に走ってもらえるかな」
「かしこまりました」
ドライバーは車を発車させた。平日の夜ということもあってか道は空いている。ドライバーが尋ねた。
「お仕事の帰りですか」
「どこを見てそう思う?」
聞き返されると思っていなかったのか、ドライバーはとまどったような顔をした。が、少し考えて答える。
「お客様のスーツとネクタイ、ですかね」
「地味で、無難?」
「え、いえいえ、そういう意味では」
ドライバーは慌てたように言いかけた。
加納は薄く笑った。
「…そう見えるなら上出来だな」
「は?」
加納のつぶやきにドライバーは不思議そうな顔をした。
「ん? あ、いや、何でもない」
加納は言葉を濁すと、鋭い視線を窓の外に投げた。顔の横にドライバーの視線を感じる。
しばらくして、加納は首を動かさずに目だけで背後をうかがった。そっと身を前に屈め、ドライバーの耳元で言った。
「運転手さん、悪いけど、道、替えてもらえるかな」
「かしこまりました」
加納の小声につられてドライバーも小声になった。
「で、どちらに」
「もう少しこのまま行って、次の交差点を左。そのとき」
加納はさらに声を落とした。
「ウインカーを出さないでくれ」
「は?」
ドライバーはルームミラーで加納をちらっと見た。
もう目の前が交差点だ。
ドライバーはもう一度ルームミラーで加納を見、加納がうなずくのを確認するとウインカーを出さずにいきなりハンドルを左に切った。
「よし、それからそこを今度は右」
タクシーが右に曲がる。100メートルほど先に生垣で囲まれた公園の駐車場が見えた。
「そこに入って。端の、道路からは見えにくいあたりに止めてくれ。ライトは消して」
顔を強張らせたドライバーが加納の指示通りに停車させた。
「あの、お客様」
言いかけるドライバーを制し、加納は座席に身を低くしてしばらく辺りをうかがっていたが、やがて大きく息を吐いた。加納のスマホが振動する。加納は、大きく目を見張って何か言いたげに自分を見ているドライバーを無視してスマホを取り出し、耳に当てる。
「……ああ。そうだな……わかった」
通話を終えた加納の目がドライバーのそれと合う。ドライバーは慌てて目を逸らした。
「言わなくてもわかってると思うが」
ドライバーは前を向いて固まったままだ。
「私を乗せたことは忘れることだ」
ドライバーの喉仏がごくりと動いた。
「余計なことは見ない、聞かない。それが長生きのコツだ。いいか」
ドライバーは激しく何度も首を縦に振る。
「出してくれ」
慌てて車を動かしたドライバーがガチガチに緊張しているのが見てとれ、加納は内心おかしくてたまらなかった。
退屈な会議のあった日の帰りのタクシーでいろんな人物になりすまし、ドライバーをからかって遊ぶのが、ごく一般的サラリーマンの加納の最近の密かな楽しみだった。
一年くらい前、たまたま乗ったタクシーのドライバーに、ある俳優と間違えられたことがあった。少し酒の入っていた加納が調子にのり、その俳優のふりをして適当に作った苦労話などしてやると、ドライバーはすっかり信じ込み、涙まで浮かべていた。これで、すっかりハマった。
タクシーに乗っているわずかな時間のことだったが、全然違う世界の人間になるのは今まで経験したことのない快感だった。
これまでに加納が演じたのは、生き別れになった母親を探している日系外国人(片言の日本語がポイント)、妻に浮気され離婚を決意したばかりの哀れな夫(演出に目薬まで使った)、タイムスリップしてきた昭和の企業戦士(これは熱演だったと思う)、UFOに置いていかれた宇宙人(さすがにこれは少し疑っているようだった)など。今夜は敵に追われるスパイを演じてみた。少々危ぶんでいたが、意外にイケたようだ。さっきの電話は会社の後輩からの業務連絡だ。絶妙なタイミングだった。
ふと見るとドライバーがミラー越しにこちらをうかがっている。加納は、片頬に笑みを浮かべて顎をしゃくった。
「そこの角で降ろしてもらおうか」
財布から一万円札を出してドライバーに渡した。
「悪かったな。釣りはいい」
素早く車を降りると左右に目をやり、俯き気味で足早に歩く。一万円は張り込み過ぎたか。でも、どうせなら最後までカッコよく決めないと。
突然、首の後ろに激痛が走り、加納はそのまま膝をついて倒れた。何が起こったのか全くわからない。意識はあるが、身体を動かすことが出来なかった。スタンガン、というドラマで聞いた単語が浮かぶ。
うつ伏せの顔のすぐ横に誰かが立ち、よく磨かれた革靴の先が見えた。頭上からゾクリとするような冷たい声が降ってきた。
「らしくないな、コードネーム・ジェロニモ」
ジェロニモ? 誰だ、それは。何の話をしている?
「いくらタクシードライバーに変装してるからって、俺に気づかないなんて。お前もヤキが回ったな」
いや、タクシードライバーじゃないなら、あんたは一体何者なんだ。
靴で背中を踏まれる感覚があった。
「俺はお前が乗ってきたとき、すぐにわかった。お偉方がお前のことを血眼で探してるぞ。諦めろ。これがスパイの宿命だ」
違う、人違いだ。何が、すぐにわかった、だ。この、へっぽこスパイが。
加納はそう叫ぼうとしたが、声は出なかった。
(了)
毎日、信じられないほどお暑うございます。
皆様、どうぞ御身お大切に。