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つれづれ雑記 *どっちから来たかわからない、話*

 突然だが、私は音痴である。
 歌が下手だ。
 どれくらい下手かというと、それこそ破壊的。それについてはまた別で語ることもあるだろう。

 音痴なのは、歌だけではない。
 運動音痴(これもかなりひどい。何せ未だYogiboから立てない)だし、味音痴だ。
 まあ、味に関しては、作った料理を家族はとりあえず美味しいと食べてくれるから、そこまで壊滅的ではないかもしれない。
 でも、よくテレビでやっている、高級食材を当てる格付けチェック?みたいなものをやったら、私はおそらくボロボロだろうと思われる。
 以前、某有名洋菓子店のバームクーヘンとスーパーで買った3分の1くらいの値段のバームクーヘンを食べ比べてどっちがどっちか当てるというゲームをしたが、私だけ全然当たらなかった。

 それでも、これらは生活していくうえでそう困ることはない。
 実は私にはもうひとつ、ひどい音痴がある。
 それは方向音痴だ。
 これは、結構困る。

 小中学生の頃は1人で知らない場所へ行くことがなかったため、あまり困ることはなかった。
 高校生になって、何かの試験、模試か何かだと思うが、それを受けに電車で30分ほどのちょっと大きな街に出た。
 初めてではなく親と何度か行ったことがある街で、駅の周辺はよく知っていた(はずだった)。
 試験が終わって、まだ時間があるからちょっと駅の周りをぶらぶらしてみよう、と考えた。
 
 そうだ、何度か行ったことがある、あの大きな書店に行ってみよう。あの道の向こうへ渡ってそのまま、真っ直ぐ歩けば行けるはずだ。
 しかし、あるはずの店は現れない。あれ? もっと向こうだったかな。こっちの道じゃなかったっけ。
 そもそも、真っ直ぐじゃないよね、この道。カーブしてるけど、大丈夫かな。

 全然、大丈夫ではなかった。行けども行けども店はない。さすがにこんなに遠くはなかったはずだと気づき、ここはやめといた方が得策だと、駅に戻ることにした。
 そして、お察しだと思うが、今度は駅への帰り道がわからない。
 いや、そんなに遠く離れてはいないはずなのだ。なのに、見たことがあるような無いような景色に、これはまずいと思った。
 今考えれば、ちょっと立ち止まってあちらこちらをよーく観察したり、ちょっとウロウロしたりしたら、わかったと思うのだけど。(いや、そうでもないかな)
 でも、一応は地元民。いかにも道、わかりません、的な感じが見え見えの挙動はしたくなかったのだ。(見栄を張ってる場合か)
    
 結局、たまたまビルの隙間からJRの高架が見えたので、とりあえずあそこまで行って高架沿いに歩けばそのうち駅に着くと考え、そのとおりに実行した。
 駅に着いたものの入り口が分からず、しばらくウロウロしたことは、内緒だ。

 この話を後で友人にすると、ひとりはゲラゲラ笑い、もうひとりは呆れていた。

 大学生になり、行動範囲が広がると本格的に困ったことになった。
 たとえば、サークルやゼミなどでどこかに集合するときに「じゃあ、待ち合わせは〇〇駅東出口で」とか言われる。
 いやいや。そんな簡単に言わないでほしい。その駅、初めて行くんですけど。
 大きな駅には出口が3つも4つもある。西出口、東出口、中央口、中央南口、とか。
 そして、どの出口に出られるかは、既にホームから始まっている。その出口の名称とホームから降りる階段の名称が同じときはまだいいが、たまに違う場合がある。東階段から降りたのに、なぜか改札口は中央南口。えっ、と思いつつ、引き返して階段を上がる気力がなく(だってカッコ悪いし)、そのまま改札を出てしまったら、もう、東出口までどう行けばいいか分からず、駅の周りをウロウロ迷う。
 そんなことが何度かあって、友人のあいだでは、学外で私をひとりで歩かせるな、という不文律ができた。
 
 社会人になっても、この状況はあまり変わらなかった。

 どうして私はこんなに道に迷うのか。
 というより、むしろ、どうして他の人たちは道に迷わないのか。
 いろいろ話を聞いてみたり、自分なりに考察してみたのだけど。

 まず、道を歩くときの私はそんなにぼんやりしているだろうか。ひょっとして周りを全然見ていないから、迷うのか。
 そんなことはないと思う。私は、俗に言う、知りたがり、で、むしろ何か面白いものはないかと、いつも周りをキョロキョロ見ながら歩く。
 ただ、その見たものを繋げて認識しているかと言われると、そこが怪しい。
 
 友人とのランチなどの外出から帰って、家人に「今日、出先でちょっと面白いお店があって…」と話したりする。家人に「で、場所は?」と聞かれると「?」となる。
 そのお店がどんなふうに変わっていて興味深くて面白かったかは、いくらでも話ができるのだが、駅を降りてから、どこ出口からどっちに向いてどのくらい歩き、どことどこを曲がって…という事は全然覚えていない。
 目的地まで行って帰ってくる道筋は、完全に同行している友人たち任せで、自身は周りをキョロキョロと見ることにかまけているわけだ。

 ひとりで外出したときはそうも行かないので、予め地図を確認し、いちいちポイントを押さえ、特別に用心して歩く。
 この場合はさすがにちゃんと目的地に着いて無事に帰ってくることは出来る。
 しかし、帰りに途中で行きとは違うところに寄ったりすると、まずい。行ったとおりになぞって帰らないと迷う。
 つまり、応用が効かないのだ。

 あるとき、向きや上下を変えた多面体が立体的に幾つも描かれた図を見て、どれとどれが同じ図形か当てるというクイズ?を娘らがやっていた。私も挑戦したのだが、結果はかなりひどかった。
 
 平面に描かれた図形を頭の中で立体的にイメージしてそのまま回転させたりずらしたり出来る能力のことを、空間認識能力というそうで、どうも私にはその能力が欠けているらしい。

 そのとき、腑に落ちた。
 私は地図が見るのが得意ではない。
 まず、地図の道と目の前の自分の進行方向が揃っていないとわけがわからなくなるので、道を曲がるたびに地図をくるくる回す。
 店内案内板などを見るときは手で持って向きを変えられないので非常に困る。首を傾けても限界があるし。
 実際に道を歩いている場合も、頭の中にある地図?を思い浮かべて自分に都合のいいように動かすことができないから、自分の進むべき方向がわからなくなる、ということが起きる。
 地理を俯瞰で思い浮かべて、そこにいる自分をうまく想像することができない、と言えばいいだろうか。

 場所を点でしか捉えられず、頑張って覚えてもせいぜい線までで、面、あるいは立体で把握するのが非常に困難なのだ。
 
 だから、いつも、数回しか行ったことがないショッピングセンターでお手洗いに入ったら、出てきたときにどっちから来たかわからなくなるし、広いDAISOに行くと同じところをぐるぐる回ることになるし、駐車場で自分ちの車の置き場所がわからなくなるのだ。
 
 なるほど。そういうことか。
 仕組みは解明できたが、解決はしそうもない。


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#迷路なんてあり得ない