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つれづれ雑記*物語が終わるとき、の話*

 私は、「物語」が好きだ。
  
 物語とは、一般的には起承転結で結ばれたエピソードの連なりのことを指す。
 
 まずは物語の舞台となる設定があり、その舞台上に主人公がいる。(ひとりの場合もあるし、複数の場合もある)
 
 もちろん、ただそれだけでは物語は始まらない。
 その舞台で、何かその人物に影響を与えるような事件が起きるか、新しい登場人物が現れて主人公に何らかの働き掛けをするか。
 これが、まずは「起」となる。

 その「起」がまき起こした何かによって、主人公が否も応もなく、動く、あるいは、動かされる。
 これが「承」。

 その主人公の動きによって、今度は物語が動き出す。主人公や読者の思い通りになるかどうかは、わからない。全く違う方向へいくこともある。それが物語の醍醐味。
 これが「転」。

 そして、ここまでの物語の、あちこちはみ出したところを上手くたくし込んで、まとめる。
 あー、やっぱりそうなるのかという予定調和があることも、えっ、そうなの?という思いがけない謎解きがあることも、あるいは確信犯的にまとめ切れず(切らず)に、そのまま、ドカンと大爆発、またはいつの間にか余韻を残して雲散霧消、ということも、ある。
 これが「結」。

 もちろん、物語すべてがこのとおりだというわけではない。
 いきなり、「承」から始まることもあるだろうし、「転」がやたらと長くて、綿々と続くこともある。
 起承転結の順番が違っていることも、「起」だと思って読んでいるといつのまにか「承」になっていることもある。
 
 ところで、ここで言うところの、私にとっての物語とは、いわゆる小説のことだけではない。
 詩でも、エッセイでも、歌詞でも、短歌でも、どんなに短くても、およそ文字で書かれたものすべてを指す。
 これらは、小さな出来事や風景を描くもの、特に詩や短歌などはある瞬間やちょっとした心の動きなど、ごく短い時間に起きた事柄を表現することも多い。
 そういう、一場面を捉えた描写であっても、そこには必ず何かの物語が存在する。
 
 そういうことから言うと、字で表現されたものだけでなく、もっと一瞬を捉えた作品、例えば絵画や写真であっても、私は物語を探してしまう。
 優れた絵画や写真は作品としてそれはそれで美しいのだから、そのまま受け取ればいい、何のストーリーもいらないじゃないかと言われるかもしれないけど、そして確かにそうなのだろうけど、でも、私はどんな短い時間であっても、その瞬間へ向かう行立てが知りたいし、その背景を知りたい。それができないなら、少なくともそれが持つ物語を想像できる余地が欲しい、のだ。
 
 そして、その物語は長くなくてもいい。
 むしろ、だらだらと惰性で続くくらいなら、ごく短く潔いほうがいい。

 こんなに何にでも物語を欲しがるのは、私にはいわゆる「文学」というものが、わかっていない、理解できていない、のかもしれない。
 もしかして、「人生」というものも、理解できていないのかもしれない。
 
 この世界や人生は、何もかもがしっかりと割り切れて、筋道が立っているわけじゃない。
 ごちゃごちゃとして、もやもやとして、理屈も何も通らないことが多いし、理不尽や不条理が我が物顔にまかり通っていることばかりだ。
 そしてそれは、人の心にもそこから生じる行動にも同じことが言える。
 ゴールの見えない、正解の見つからない、この世界、この時代。
 そんな中に、誰にも理解可能な物語を求めることなど愚かなことだ。
 この世の混沌を映すのは、単純な物語なんかじゃない。
 そんな物語を欲しがるのは、世界をなんにもわかっちゃいないから。
 文学が果たす役割をなんにも理解していないから。
 そうかもしれない。
 
 物語は、しょせん作り物でしかない。
 でも、現実より作り物のほうが人の心を動かすことがある。
 物語のほうが、リアルよりもよりリアルであることも。

 ただ、現実と違って物語には終わりがある。
 物語がどんな終わりかたをしたとしても、現実世界はずっと続いていくだろう。物語は、世界のほんの一部、ほんのひとときを切り取ったものに過ぎないのだ。

 だからこそ、私は物語が好きなのかもしれない。
 
 繰り返すが、物語には必ず終わりがあり、そうでなければならない。
 どう終わるかは、どう始まるかよりずっと大事だと思うから。
 そして世界が続く限り、次の物語は生まれ続ける。

#日々のこと #エッセイ
#物語 #物語の終わり