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「死んでもオレを忘れるな」の圧が強い大叔父の話

本日、11月12日は大叔父・ただしの11回忌である。

時の流れはあっという間。
11月だというのに陽射しが暖かく、そして雲一つない晴天の今日、突飛な人間だった大叔父のエピソードを語りたい。

周囲から愛される末っ子

正氏は私の祖母・陽子ようこの弟で、5人兄弟の末っ子。

その立場にふさわしく、自由奔放でいたずら好きで、そして周りから愛されていた。


それは身内やご近所からだけでなく、立ち寄ったお店のスタッフからもだろう。

「オレが店に入ると急に客が来て繫盛すんだよな!」
という言葉はまったく嘘ではなく、大叔父が入店するとなぜか次々と客がくるのである。

そして
「ほら、ほんとに来るだろ!? オレは客を呼ぶんだよ!」
と店員と話して盛り上がるまでがセット。


それを色んなところでやるもんだから、仲のいい店員はそこかしこにいて、
そのおかげでちょっとしたサービスを受けられたり、金額をオマケしてくれたり。

私の母も大きな買い物や旅行を計画した時は大叔父の紹介で、色々とサービスしてもらったようである。

こうして文字にすると強い口調のように感じるが決して威圧感はなく、あくまでワイワイ盛り上がって仲良くなる―とはいえ見た目が少しばかり強面なのは認めるが―ので、その辺ではちょっとした『名物おじさん』だったに違いない。


また、何かの折に人生ゲームをした時のこと。

ゲーム終盤、大叔父の手元にはお金が少なく、一番ビンボーだなと誰もが思っていた。

しかしなんとこの男、自分が履いている靴下にお金を挟んで資産をごまかしていたのである!

「ビンボーだと思わせておいてビンボーじゃない」戦法は、人生ゲームをすると未だに話題に出るほど衝撃の戦い方だった。


身内

身内・親戚関係にも触れておこう。

正氏の誕生日は2月7日。
長男・長女(私の祖母)・次男・三男・そして大叔父が末っ子である。

少し話は逸れるが、祖母・陽子は男兄弟の2番目で育ったためか、男勝りの人であった。
服飾のデザイン会社に勤め、編み物教室の資格も取得し、私が小さい頃はよそ行き用の服を何着も手作りしてもらっていた。

そんな祖母を、正氏は「ねーちゃん」と呼んで慕っていた。

5兄弟それぞれ結婚して子どもがいたため、集まる時はとんでもない人数だった。

誰と誰が夫婦なのかも分からないし、人が多すぎて名前は覚えられないし、
そもそも祖母と正氏以外の3人の顔と名前が一致したのは中学生になった後だったと思う。

一人ずつ名前を覚えるというより『いつも楽しそうに談笑しているおじさん達』というように1つグループとして見ていたのだろう。


正月の集まりにはほぼ毎年、全員が集っていたことからも仲の良さが伝わると思う。
私はありがたいことに多くのお年玉をいただいた。

そこでハッとひらめき、お年玉袋の裏に書いてある名前を見て「この人は○○さんだな」と確認するようにした。だが年に1度しか会えない人も多い。

実は未だに名前だけを聞いても、誰の奥さんか判断がつかないので母に聞いている(申し訳ないのだが本当に覚えられない、何度聞いても忘れてしまう、なぜなんだ)。


全員が年を重ねコロナ禍を挟んで以降、あまり集まらなくなってしまったが少し寂しい。

大叔父の仕事

大叔父・正氏が何の仕事をしていたのか、さすがに全部しっかり聞いたことはないが、どうやら色々やっていたようである。


建築関係

そもそもこの5兄弟一家は建築系の商会をやっている。

私の家も古くなった何か(なんだったかは忘れてしまった、私が小さい頃の話だ)を取り換える時にお願いしたり
祖母の家を建て直した時も手伝っていた。


当時中学生で祖母と一緒に住んでいた私の従兄弟いとこは、正氏に教えてもらいながら、家の周りの壁を塗らせてもらったそうだ。

「アイツなかなか筋がいいんだよな。きれーいに塗っててよォ」
と嬉しそうに話していたのを覚えている。

なので左官とかをやっていた…のだと思う。母に聞けば分かるだろうが、ひとまず推測としておこう。

タクシードライバー

そして第二種運転免許も取得していた。

第二種の免許を持っていると人を乗せて運転することができ、タクシーや運転代行に必要なものである。

そしてタクシードライバーもやっていた…と聞いた気がするのだが、以前母に聞いたところ
「え、そうなの?私知らない」
と言われてしまった。

真偽のほどは不明だが、確かに運転はうまかった。

私が第一種運転免許を取得すると、大叔父は「走ってる時は1つ前の車じゃなく、その2つ前の車を見るんだ」とアドバイスをくれた。

「1つ前の車のフロントガラス越しに、2つ前の車が見えるだろ。
それを見ておいて、2つ前の車がブレーキを踏んだ時、つまりブレーキランプがついた時に自分もブレーキを踏む。足をかけるだけでもいい」

「そうすれば1つ前の車と同じタイミングでブレーキを踏めるから、絶対にぶつかることはないんだよ」

10年以上前のアドバイスはしっかり覚えていて実践している。そのおかげか、私はこれまで一度も事故を起こさずゴールド免許を更新中である。


まだ運転が不慣れな時に一度だけ大叔父を乗せたことがあるが、駐車が苦手だった私を
「全然うまいよ、筋がいいから大丈夫」
と褒めてくれたこともある。

カメラマン

そしてもう一つ覚えている職業は、カメラマン。

私がクリエイティブ職―当時はテレビの編集会社で働いていた―に就いたことから、話が広がったと記憶している。


大叔父は特にカメラの勉強をしていたわけではなかったから、しっかり学校で学んできた先輩たちからはバカにされていたそうだ。

だが、持ち前の根性と反骨精神で技術を磨き続けた。
そして誰が見ても、学校を卒業した人よりもいい画が撮れるようになり、先輩たちは何も言えなくなったそう。

大手企業のあのPR写真もオレが撮ったんだよ、と話していた。

学校で勉強したからっていいモンが撮れるわけじゃない

大叔父は法事などで集まると必ずデジカメで写真を撮っていた。
それが昔カメラマンをやっていたからだ、と知ったのはこのとき。

そしてそのときに使っていたデジカメ、長兄に買わせていたそうである。

「あのカメラ結構いいらしい。買ってみたら?」
と勧めておき、いざ購入すると「借りるね」と言って撮りまくる。

そして撮りっぱなしで放置するもんだから長兄の家族が現像までしていたそうだ。
フィルム式で回数制限があるものも、ほぼ使い切った状態で返却されていたとか。

ちゃっかりとはこういう人のことを言う。


「男は死んだあと…」

葬式のときにビックリしたことがある。

それは弔問客の多さ。

コロナ後は参列者もかなり減ったと思うが、当時は職場関係や近所など知り合いも来ることが多かった。
そんな当時でさえ、普通はお坊さんが長いお経を読み上げるよりも早く、参列者の焼香は済むものである。

それが大叔父の通夜では絶えず弔問客が訪れ、長いお経が終わると同時にはけるくらいだった。
「お経を読む間はずっと焼香するんだっけ?」と一瞬勘違いしたほどである。

大叔父は商会の経営に携わっていたとはいえ、そこまで大規模な企業ではない。あくまで家族経営の会社で、数名の従業員がいたところだ。
ただの一般人なのに異様に知り合いが多かった。


『男は死んだあと、どれだけ多くの花が送られ、弔問客に来てもらえるかだ』
という言葉を聞いたことがある。

それを素直に受け取るならば、大叔父はそれだけ多く周囲に愛されていたということだろう。


「オレを忘れるな」の圧をかけてくる大叔父

そんな大叔父は10年前の今日、病気で亡くなった。
5兄弟で一番最初だった。

長兄が葬式のとき「いやあ、末っ子だったのに一番に逝っちまってねえ」と言っていたのを覚えている。


私たち孫世代は5兄弟の中で祖母に次いで、大叔父と親しくしていたから、お骨を拾うことも、納骨することも、この先会えなくなることもすごく悲しかった。

しかし、正はタダでは死なない男である。
残された者たちが彼のことを忘れないよう、色んな爪痕を残す。

列挙していこう。


①私

最初の爪痕は私である。

私は予定日よりもかなり早く、2月7日に産まれた。おっぱいをたくさん飲んでいたから大丈夫だったものの、保育器に入れることも視野にあったくらいに小さかった。

ここで覚えている人がどれだけいるだろうか、大叔父の誕生日を前述したのだが、彼も2月7日生まれ。

つまり同じ日に産まれてしまったのだ。

私の誕生日=正氏の誕生日
少なくとも私は、確実に大叔父のことが忘れられなくなった。


②引っ越し

そして次の爪痕は引っ越し。

10年前の11月下旬、私の一家は引っ越しをした。せっせと荷物をまとめている最中に亡くなった知らせを受けたのである。

だから、私たちの引っ越しの時期=正氏が亡くなった年
まんまと「もう亡くなってから○年か・・・」と毎年思っている。


③祖母

次の爪痕は祖母。

祖母・陽子は2年前の11月12日に亡くなった。
認知症が進行し、病院での誤嚥性肺炎が原因だった。

その祖母の葬式をしばらくしてから、誰かがはたと気付いたのである。

「正と命日が同じじゃないか…?」

祖母の命日=正氏の命日

こんな偶然があるだろうか?
ということで、身内では「寂しくなった大叔父が祖母を連れて行った」説をおしている。

ちなみにどうでもいい話だが、私は第六感が鋭いことがあり、亡くなった人が夢に出てくることが多い。

大叔父も亡くなったあとに出てきたのだが、人間の姿ではなく位牌だった。私はその位牌がなぜか正氏だと思う。

そしてその夢には祖母もいた。

だから私は「次に亡くなるのは祖母なんだ。でもこの位牌と距離があるから、たぶんすぐではない」と思ったのである。

祖母が亡くなったのは、5兄弟の中で2番目だった。

ちなみにどうでもいい話の2つ目だが、祖母・陽子が亡くなった後ひと月もあけず、父方の祖母も亡くなった。

悲しみが少し落ち着いたと思った矢先の出来事であり、正月に会うつもりでいたからどうしてこの時期に、とも思ったのだが。

もしかすると、祖母の陽子も寂しくなったから父方の祖母を呼んだのではなかろうか?という説も浮上した。2人はたまに電話をかけるくらいには親しかった。


さらにどうでもいい話の3つ目としては、陽子が可愛がって面倒を見ていた半ノラ猫・チロが、陽子が亡くなったあと姿を現さなくなった。

猫が大好きで生前も数々の猫グッズに囲まれていた彼女が、一緒に連れて行ってしまったのかもしれない。


④兄弟の死

さて、最後は5兄弟の真ん中(と思うのだが)の大叔父の死である。

彼は今年の2月7日に亡くなった。

だから、(正氏にとっての)兄の命日=正氏の誕生日=私の誕生日ということである。
もはや私が忘れようもない方程式である。

ちなみにどうでも(略)
この日は私の誕生日を祝うため両親と弟と食事に出掛けていた。

その外出の支度をしていた夕方、急激に身体が重くなった。そして食事を楽しみにしていた気分の高揚もスッとなくなり、何の感情もないフラットな状態になったのである。

こんなことは今までに経験したことがなかった。

そしてその時間とさほどずれることなく、大叔父が亡くなったことを知った。


さらにどうでも(略)
この日、祖母が住んでいた家で不可解なことがあったそうだ。

窓も開けていない・風がない状態なのに、棚から下がったスズランテープがひらひらと揺れる。

「パン!パン!」という、出所の分からない音。

しっかり固定されているはずの祖母の遺影が傾く(直そうと思っても力を入れないと戻せなかったそうだ)。

さらに、階下から従兄弟の名前を呼ぶ女の人の声。
従まるで祖母・陽子に似た声。
あとで確認すると、従兄弟の母親も妹も呼んではいないという。


いたずら好きな大叔父と、同じくいたずら好きで男勝りな祖母が、迎えに来ていたのだろうか。


おわりに

本日、11月12日は大叔父・ただしの11回忌であり
祖母・陽子ようこの3回忌である。

時の流れはあっという間。
今日こうして思い出が振り返りできてよかった。

私もよい死に際が送れるよう、後悔の内容にやりたいことはしっかり叶えながら、1日を大事に過ごしていきたい。

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