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多民族国家で育つということ

バス停で突然話かけられた。
高校生くらいの女の子だった。
私の持っていたiPadペンシルを指さして、「それ、どこで買ったの?」と。

私は少し面喰いながら、「アマゾンで買った」と答えた。
「そっか、探してるんだけど見つからないんだよね」と女の子。

次に続ける言葉もなく、会話は終了。
その子は友達の輪に戻って行った。

この一瞬の出来事で、私は多民族国家で育った子の価値観を目の当たりにした。

高校生の時、通学で使っていた地元の電車に、外国の人が乗っていた。
1時間に1本あるかないかというザ・田舎の電車だったから外国の人が乗っていることなんてめったになかった。
その時間は2両編成で、1両目のドアからしか乗り降りができない仕様だった。

しかし、その人は2両目のドアの前で、降りる準備をしていた。
私は、1両目からしか降りられないことを伝えたかったけど、
英語での表現が分からず、他の人の目も気になって、結局伝えられなかった。

その人は自分で気づいて1両目から降りて行った。

思い返すと、その人が日本語を理解して話すかもしれないという考えは、私の中に微塵もなかった。

バス停で女の子が、私が英語を理解するという前提で話しかけきてくれたことが、うれしかった。

日本人だから、アジア人だからという括りで英語が話せないと決めつけているのは、意外にも自分の方かもしれない。

単一民族の日本で育った私は、見た目と言語を結びつけて考えてしまうけど、この国では違うということに衝撃と希望を感じた出来事でした。おしまい。


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