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みんなが先生にならなきゃ

自分が塾講師をしていた頃も,ちびちゃんがお腹にやってきてからも,変わらず考えていること。

それは,この先ますます,誰もが先生になれる時代になるということだ。もっと言うと,誰でも何かの先生にならなきゃいけない時代になるような気がしている。

難しい話ではなくて,わたしは先生を「先を生きる人」だと思っている。先見の明がある人,つまりそれだけいつも勉強していて,他の人より少し未来を生きている人ということだ。(先見の明って,生まれ持った能力ではない。何かを勉強する,練習する,そのくり返しの中でみがかれる勘みたいなものだと思う。)

「いや難しいでしょ」って言われそうなのだけれど,一番大事なのは,とにかく何の先生であってもいいということだ。

そのことが好きで,いくらでも勉強できて(←好きなことだと,たぶん勉強とすら思わない),得た知識や次に来そうな流れを誰かに「ねえねえ」って教えたり教えられたりしてもっと知識を深めていく。それが自分と誰かの満足になり楽しみになり,さらにそのことが好きになる。そしてその輪が広がることで,社会に還元されるちょっと良いことが増えていく。しかもそれは老若男女国籍問わず,ひとりひとりの一生にわたって続いていく。

「音楽ならちょっと詳しいよ。」

「ベランダで野菜育てるコツなら任せて!」

「子どもの宿題を見るとき,この一言で子どものやる気が出るみたい。」

他愛のないことでも,日常の中での楽しみや,ちょっとした発見についての先生になるのだ。他愛のない日常のことだからこそ本人も無意識のうちに何度も繰り返しているはずだし,どんなにつまらなく思えることでも,その精度が高くなる。なんというか,毎日を真面目に地道に生きているすべての人が先生になれると思うのだ。

そうしてあらゆる分野の先生が登場することで,自分自身が何かの先生であると同時にいつでも生徒の立場で学び続けることができる。

これまでも,こういう流れは情報共有社会などと呼ばれてきた。ただこれからは,情報を簡単に共有できるという事実・現象だけを指すのではなくて,それにともなうヒトの気持ちや価値観に重きをおいた社会を表すようになる。

言いかえると,情報が即座に伝わることはすでに大前提になっていて,その情報が,正しいのかどうか/ただ楽しむものなのか/みんなでよく考えるべきものなのか/自分が・相手がどう思ったのか,をあーだこーだ言い合いながら着地点を探るのが大事になっていると思う。というかSNSってそのためのものなのだろう。みんな色んな手段であーだこーだ言い合うのを楽しんでいる。

これは,わたしが塾講師を辞める決断をした理由の一つでもある。塾や学校の先生だけが先生ではないのにな…と子どもたちに対しても,保護者の方に対しても思うことが多かった。身近だと自分の親や兄弟,あいさつ程度の交流しかない近所の人だって先生になり得る。しかも現代はその身近なつながりをさくっと越えて,全然知らない人から何かを学ぶことができるし,全然知らない人に何かを教えてあげることもできる。

特に子どもは,生まれながらにして先生たり得る。未知のものごとに対する好奇心,それを突き詰めていく気力・体力の充実。柔らかな発想力。けっこう鋭い洞察力。お互いを受け容れる心。そんなものをさらっと手にしている。塾で子どもたちを見ていたときはもちろん,ちびちゃんがお腹にやってきてからは痛烈に,「この子たちは確実にわたしの知らない未来を生きていくんだ」と感じている。そんな子どもたちに対して,塾講師として教えているだけでいいのかなという迷いがどんどん大きくなったのだ。

漢字や計算の仕方や英単語を覚えること,受験にチャレンジすること,それらを否定するつもりはない。ヒトとのコミュニケーションにはやっぱり基本的な学力や知識が要る。こつこつ勉強するという経験は子どもの自信につながるし,友達と偏差値を競い合うことで勉強のモチベーションを維持することもできるだろう。でも塾講師だったからこそ心底思うのだ。社会で,世界で生きていくとき直接武器になるのは前述した本来その人が持っている力。それを周囲や本人が殺してしまわず,いかに人生を通して強化していけるかが大切だと。

短かったが塾講師であったことはわたしのキャリアで,そのことを誇りに思っている。しかし,塾や学校で多角的・相互的な学習(アクティブ・ラーニングと呼ばれるような学習)を行い,子どもたちそれぞれの本来の力に添って指導することは今でもかなり難しい。わたしが迷っていた問題は解決していない。ニュースでこういった話題が取り上げられるのを目や耳にする度,ちょっと考え込んでしまう。

とりあえず,ちびちゃんが産まれてくることが原点回帰のタイミングになると思っている。いったんこれまでの「先生」をお休みして,大勢の子どもたちでなく,まず自分自身の子どもをじっと観察し世話すること。ちびちゃんと自分自身の成長を一緒に楽しみながら,いつか他の子どもたちに還元できることはないかを探っていきたいと考えている。そうすることで,わたしは次の何らかの先生になっていくんじゃないかなと思う。

最後に一気に抽象的な話になるけれど,わたしに限らず,ヒトの生き方がそんな方向へ進んでいくんじゃないか。誰もが何かの・誰かの先生で,なるのも休むのも自由自在。でも人生をこつこつ,楽しく生きていく上で先生であることが必須条件,みたいな。わたし自身先のことはさっぱり分からないし,全然うまくまとまらないけれど,ちびちゃんはどう生きていくのだろう?わたしはどう生きていこう?世界はどうなっていくのだろう?と考えるとちょっとドキドキする。

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