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親の心得【1】子どもは「他人」である

引き続き、親(わたし自身)の心得シリーズ。
ちなみに前回の心得は、この先記していく心得シリーズの大前提になると思ったので、【0】としました。
今回からやっと【1】。

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もうタイトルのまんまの主張である。
先生として生徒は、親として子どもは、初めから別の人間だ。
まさにいま娘が真横にいるが、どんなにともに時間を過ごしていても、産まれた時から(むしろ胎内にいる時から)娘個人の人生は始まっている。

いま書いてて思ったけど、子を胎内に宿す母親は特に意識しやすいんじゃなかろうか。
自分の体内にいるのに、へその緒でつながっているのに、明らかに母親の意思とは無関係に育っていくことの不思議さ。
うわあ、わたしでも旦那さんでもない別の人間が体内にいるんだ…と、お腹をぐにょーんと蹴られながらよく感じていた。


でも生まれ出てきたらさらに、別の個体なんだなあって寂しくなるからこそ、子どもに自分の言うことをきかせて、つながってる感を無理矢理作り出そうとしちゃうのかもなあとも思った。

娘はもう、可愛くて可愛くて可愛くて、食べちゃいたいくらい可愛いとはよく言ったもんだなと感心するほど可愛いのだけど、それでもやっぱりわたしとは別の、この子自身の人生がもう始まっていることを思うと、気が引き締まる。

どうみてもまだ赤ちゃんだけど、言葉も話せないけど、この子は1人の人間で、わたしとは別の物体なのだ。

もう少し大きくなって言葉が通じるようになったとしても、彼女に「言うことをきかせる」ことはできるだけしたくない。
本人に危険が及ぶ場合と、最低限のしつけのためには話を聞いてもらわないといけないけれど。
彼女はそこで「言うことをきかされた」と感じるかもしれないけれど。

ちなみにわたしの思う「しつけ」は、マナーとか道徳を学ぶことよりもっと広く、家族以外の他者とのコミュニケーション方法を学ぶこと全般だと思っている。
(別記事で詳しくまとめたいなと思うけど、忘れちゃいそう…)

この「言うことをきかせる」については、生徒と接するときに特に気をつけていたことだ。
子どもの頃に納得のいかなかったことの一つだし、職場のお偉方の中に「言うことをきかせる」以外の社員や生徒とのコミュニケーション方法を知らない人がいたので、ああはなるまいと思ったのもある。

子どもに対してへりくだるのか、子どもが調子に乗るんじゃないかみたいなことを言われそうだ。
まさに前述のお偉方は、自分より偉くないと思っている人や子どもの話を聞くことで、ナメられる・ナメられてる、先生としての威厳が失われるという意識が染みついていたように思う。
指摘しても本人は認識できないだろうな、細胞に焼き付けられてるレベルだもんな、という感じだった。


周りの人も誰も指摘したり、やんわり伝えたりしようとはしていなかった。だってナメられてる、と即座に認識してキレ始めるから時間と皆のエネルギーが無駄になるんだもの。

…たぶんお偉方さん、びびっちゃうんだろうな、と思った。
前記事【0】で書いた「わたし」で向き合うこと、今記事【1】の子どもは「他人」であること、を意識して子どもに接しようと思ったら、素直で正直な何の肩書きも無い「自分」を見せざるを得ない。その時本当の意味で、「先生」としてじゃない「自分自身」がナメられるのが怖いんじゃなかろうか。

…でも、それでナメられたら、その程度なんだと思うよ。
(悪口のつもりじゃない。一応。)


というより、彼らは素のままの先生を見た方がナメたりしないし、むしろ喜ぶと思うよ。
変に取り繕おうとしたり、誤魔化したりしているのに気づいた時に、子どもは、彼らは、かつてのわたしは、猛烈に反発し、不信感を抱くのだと思う。

子どもだって、大人と同じで「他人」だ。
他人と接するとき、いつだって、誰だって、多少の緊張感を持つだろう。
その他人が子どもだからって、いきなり「ほっ」とするの?
緊張感は無くなるものなの?それはなぜなの?


自分の子どもならいいの?
今は一緒に居てもどこかの時期で別の人生を歩み始める彼らに、『「身内」だから』とか『「子ども」だから』といって、大人や親は好き勝手していいの?

わたしは昔からずっと、自分より年下の人と接するときの方が緊張する。子どもならなおさら。
だって嘘とかごまかしが通用しないもの。
わたし自身がそういうことに敏感なのもあるけど。


塾講師を経験してからは、授業やらイベントやらで少し度胸が身についたので、大人とも子どもとも軽めの緊張感をもって接することができるようになった。
娘を産んでからは、可愛くて可愛くて可愛くてしょうがないこととそれでもあくまで「他人」であることは、共存し得るんだと確認できた。まだこの先も観察は続くんだけど。


大人どうしで接するときのように子どもに接してきたことは、正しいかどうかは知らないけど、悪くはなかったんじゃないかなとちょっと自信を持てた。


「他人」と考えるなんて寂しい、というのはちょっと違う。
もちろん現実的、書類的には「身内」だったり「子ども」なのだ。
でも、だからってテキトーに向き合うのではなくて、生徒や子どもと、人として新しく友達になれたらいいな、と思って接すること。生まれたときからもうすでに一個人であると意識すること。

ということで心得ふたつめは、子どもは他人である、でした。

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