絵本 de 朔太郎『死なない蛸』
作画:茜町春彦
原作:萩原朔太郎
或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢えた蛸が飼われていた.地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂っていた.
だれも人々は、その薄暗い水槽を忘れていた.もう久しい以前に、蛸は死んだと思われていた.そして腐った海水だけが、埃っぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまっていた.
けれども動物は死ななかった.蛸は岩影にかくれて居たのだ.
そして彼が目を覚ました時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢餓を忍ばねばならなかった.
どこにも餌食がなく、食物が全く尽きてしまった時、彼は自分の足をもいで食った.まずその一本を.それから次の一本を.それから、最後に、それがすっかりおしまいになった時・・・
・・・今度は胴を裏がえして、内臓の一部を食いはじめた.少しづつ、他の一部から一部へと.順々に.
かくして蛸は、彼の身体全体を食いつくしてしまった.外皮から、脳髄から、胃袋から.どこもかしこも、すべて残る隈なく.完全に.
或る朝、ふと番人がそこに来た時、水槽の中は空っぽになっていた.曇った埃っぽい硝子の中で、藍色の透き通った潮水と、なよなよした海草とが動いていた.そしてどこの岩の隅々にも、もはや生物の姿は見えなかった.蛸は実際に、すっかり消滅してしまったのである.
けれども蛸は死ななかった.彼が消えてしまった後ですらも、尚且つ永遠にそこに生きていた.古ぼけた、空っぽの、忘れられた水族館の槽の中で.永遠に ―― おそらくは幾世紀の間を通じて ―― 或る物すごい欠乏と不満をもった、人の目に見えない動物が生きて居た.
〈了〉
―― あとがき ――
参考文献:萩原朔太郎詩集(2014年1月15日79刷発行 三好達治選 岩波文庫)
使用画材:ArtRage 3 Studio Pro(アンビエント社)Photoshop Elements 10(アドビシステムズ株式会社)
初出:パブー(2016年11月2日) パブー投稿作品を修正して移植しました.