【気まぐれ読書】チェーホフ『三人姉妹』 〜まつりのあとを生きる人たちは人生をどう彩るべきか〜
チェーホフの三人姉妹という本を読んだので感想を。久々に、堅苦しい本から逃れて戯曲なるものを読みました。
あらすじ
まあ、こんなような話だ。全体の感想としては、チェーホフ、いつものごとく皮肉がとてもよく効いている、だろうか。一幕では「働けば、つまらない今の生活から抜け出せる」なんて言ってるのに、ニ幕では「ああ、仕事が辛い。仕事のせいで老けたし、痩せたし、いいことなし!」とまあこんなところだ。憧れていたものを手に入れたとて、そこには生活があり、生きているなりの苦しさがある。そこから、自分の今の世代でなくてもいいから、孫の孫の世代でもいいから抜け出してくれ、と言っている。チェーホフよ、100年経っても変わらない。もはや私たちは100年先を夢見るよりも、「この世界の終焉という漠然で壮大な危機を回避しているのだからまだマシ」なんていう考え方を手に入れたようだ。と、そんな話はここまでにして。感想文の始まり〜。
いつも蚊帳の外、そしてまつりの後にいる三姉妹
これは後書きでも言及されていて、大変腑に落ちた話なのだが、チェーホフの作品では事件は舞台の外で起こっているらしい。なるほど、今回もそうだ。町中を騒がせた火事も彼らの家までは来ないし、ソリョーヌイとトゥーゼンバフの決闘だって、ピストルの音ひとつで片付けられる。全ては言葉づてに共有され、事件の後、感傷に浸りながらも、どこか他人事のように暮らしを続ける三人姉妹の姿が印象的だ。
そして、これはふと思ったことなのだけど、三女のイリーナは三人の中でもとびきり寂しがりのような気がする。自分のお祝い事や、喧騒の中にいるとき、みんなが出ていってしまうのを家の中で見ていることが多い。そうして、疲れを嘆くオーリガを尻目に「みんな、いってしまったわ…」と呟いている。もしかすると、末っ子のイリーナは一番父が生きていた時から遠くを「大人」として歩んでいて、父が亡くなってからだんだんと華やかさ、賑やかさ、暖かさのなくなってゆくのを人よりも深く感じているのかもしれないな。父が死んで、戦争が遠ざかり、人々は集まって感情を共にすることを忘れてしまった。それよりも、気を揉むべき「生活」が彼らの身に日々迫るから。皮肉にも、イリーナ自身にも。
さらに皮肉なのは、孤独を癒し、憧れの街で華やかな生活を送りたいと思っているのに、イリーナ自身は気にかけ、未来を叶えてくれそうな人を愛せないということだ。(ただ、醜男という記述があったので、ただ単に面食いなだけかも。まあ、でもモスクワでイケメンと結婚する!という幻想があったという裏付けにもなるかな…。)とにかく妻にはなるけど、愛してはない、なんて言葉は鋭すぎる、トゥーゼンバフはなんとかわいそうなのだ。けれど、これはイリーナ自身が自分に思っていることかもしれない。「つべこべ言ってないで働くけれど、こんな自分は絶対に愛せない。」こんな思いが、決闘に行くと分かっていたトゥーゼンバフを引き止めさせなかったのかな。この人に愛されてモスクワに行っても私の理想は叶えられない!という心情の表れだったのかもしれない。
きっと、モスクワに行くことが三人姉妹の目的ではなかったのだ。モスクワに行くというのは口実で、本当は何か変えたい、何か自分たちの生活を華やかに、穏やかに、懐かしい子供時代の匂いがする場所で彩れば、生き生きとした生活が戻ってくるかも、と思っただろう。しかし、三姉妹はいつも誰かを見送り、ことの後始末に耽る人々をどこか遠くから、噂話に聞きながら眺めて、毎日の躓きや苛立ちに右往左往しているのだから、仕方がない。
信念が憧れを遠ざける皮肉としらけるような仰々しさ
第二幕でマーシャが「信念を求めた方が良い」というようなことを言っていた。だが、三姉妹はその信念を持ち続けるからこそ苦しく、そのせいで信念を逃しているとも言える。果たして、信念とはなんだろうか?その後にこうもマーシャは言っている。「信念を求めなければ、生活が空虚になってしまう!」と。いかにも、三姉妹にとってのモスクワは、片田舎の街での空虚な生活からいつか抜け出してやるという信念だった。モスクワ行きがバタバタを音を立てて崩れていくとき、あれほどにも勤労や労働を称賛していた三姉妹の姿はもはやそこにはなく、人生は苦しいものだ、それはなぜ?それがわかったら…と涙するしかなくなっている。
実は私が三人姉妹を知ったのは、一番最後の第四幕だけを読んだことがきっかけだった。第四幕では三人姉妹が打ちひしがれ、結局モスクワに行けないながらも生活を続けていかなければならない様子が描かれていく。そこだけ読んでいると、悲しい話だ、かわいそうに、となる。が、全体を通読した感想としては、「いや、そうなるのわかってたよね?」という乾いた笑いが込み上げてくる感覚だ。イリーナに関しては、トゥーゼンバフを決闘に行かないように引き留めていれば、幸せな結婚と同時に町から出ていけたかもしれないのに。オーリガだって校長職を断ることだってできたはずなのに。いや、いちいち嘆き悲しんでドラマチックになってるけど、結局あんたらの生活これからも続いていくっしょ?はいはい、みたいな。そういう意味では、この話が喜劇なのかな。戦争や死が今よりも近かった当時としては、そういう「続いていく」感覚は目新しいものだったのかな、とも考えたりする。
所感
これは自分の話になってしまうけれど、信念を持つから絶望するのだ、と思春期頃から心のどこかでわかっていたような気がする。絵も、ピアノも、演劇も好きで、高校には行かない、両親の思い通りにはならないで、芸能や文化を貪るような生活をして早く人生の終わりを迎えたいと思っていたけど、そんな信念は自分の人生を無駄遣いしているようなものだ、いつもplan Bがあるような、いやplan CDEまであるような世界で生きるには、マジョリティーに溶け込むしかない。そうやって腹の底からわかったのは大学3年生の時だ。もう誰にも期待しないで、こんな生活がしたいなんて信念を持つのはやめよう、周りの人が幸せならもうそれでいいのだから、と自分の人生を諦めてしまったような気がする。それから、自分の人生は老後で、「あとは穏やかに、心穏やかに、日が昇ったら起きて少しの趣味と健康のための賃金をもらうような、暮らしができれば何も言わないのに」と、ずるずると、今を生きている。困窮していく家庭、貧乏になっていく国、分裂し続ける世界。「もう、老後なのに、今更どうしろと?」もしかしたら、現代に生きる私の精神が精一杯叫んでいる言葉なのかもしれない。
でも、どこかで「いや、そうなるってわかってたっしょ?」と笑ってる自分もいるからイライラするのだ。何と言ってもしょうがない。きっと、明日も生きていくのだから。そう思うと、死は限りなく遠い。
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