池袋桃色SM娼婦~君がとなりに居るのなら②~
『お疲れ様。一先ず今日のお給料と明細で…』
『社長は?』
僕は渡された札束を数えもしないでそのまま鞄の中に放って、精算表に雑な文字でサインをする。
『ここだとお客さん来たり、他の女の子が精算来たりして、ゆっくり話し合って貰えないだろうからって、社長は今【伯爵】で待って貰っているんだけど、なぎちゃんもしお腹空いてるなら、何処か別のお店で食事しながらにしますか?って社長が』
伯爵とは、今いるビルの2件隣のビジネスホテルに併設された喫茶店だ。毎週末、僕がそこで朝を迎えているということを恐らく彼らは知らない。
それにしても表面的にだけでも僕を暴れさせることなく落ち着かせる場をチョイスしたとは、彼らも出方は考えてきたらしい。
ただ生憎僕は先程の客にピザをデリバリーしてもらっていたし、その直前にからあげクンも胃の中に放り込んでいる。
それを除いたとしても悠長にメシなんか食って居られる気分ではとても無かった。
『いらない。とっとと帰りたい』
取り付く島もない様子の僕を見て肩を下ろしたスタッフは、解ったよと言って携帯を取り出して通話を始めた。聞こえてくる話しの雰囲気からどうやら通話相手は社長で、僕が今から向かう旨を伝えているようだ。手短な会話の後、僕は改めて伯爵へ案内を受け、2件隣のビルの階段を上がった。
相変わらず熱帯魚がユラユラ漂う店内は、いつも来る深夜帯とは違って、まだゴミゴミとしている。辺りを見回すと奥のテーブルに社長と店長がこじんまりと座っていて、こちらに気が付くと軽く手を挙げた。
『どーなってんすか』
椅子に腰を降ろすより早く僕は聞く。
『なぎちゃん一旦座って。何飲む?お腹そんなに空いてないって聞いてるんだけど、良かったらケーキとか軽食もあるよ。』
店長が僕を宥めてメニューを広げる。店長は端正な顔立ちをしていた。今はもうそん呼んではいけない時代になってしまったけれど当時の言葉では『ジャニ顔』と分類される顔立ちだったように思う。
きっとその顔に声に何人もの女性が騙されてにきたに違いない。でもこの状況下に置いて、僕が右へ習う訳にはいかない。
『ココアフロート一つ追加で』
店長にではなく、おしぼりとグラスに入った水を持ってきてくれた店員さんに向かって僕は言った。
普段は差程甘い飲み物を欲っさないけれど、軽食もケーキも食いたい気分ではなかっただけに、少しでも割高なものを注文してやろうと卑しい気持ちが働いたのだ。
コーヒーの種類が豊富なこの店では、ココアフロートよりも高価なコーヒーがいくつか存在しているはずだが、生憎当時の僕はコーヒーが苦くて飲めなかった。
『いや今回は本当に有り得ないミスで渚さんにとんでもない迷惑と不信感を与えてしまって…』
ココアフロートが届くより先に社長が口を開いた。
『今回はって何すか?あたしが知らないだけで他にも有り得ないミスがあるって事なんすか?』
『いやいやいや!決してそういう訳じゃない。先ずはお詫びをさせて頂きたいと思って』
言葉の揚げ足を取るだけの僕に対して、社長は慌てて訂正する。
『ってかこれってミスなんすか?それは誰の?ミスした人には何か処分が下るんすか?あたしはてっきり作為的な何かかなと思ったんですけど。』
『作為的だなんてそんな…』
店長が口を挟むのを社長が軽く制する?
『誰がっていう具体的な名前は出せないんですが、渚さんのパブリックをきちんと確認しなかった我々全員に責任があると思っています。そもそも渚さんご本人に掲載の旨を伝えていたらこんな事にはならなくて。結果として渚さんに不信感を抱かせてしまって、本当に申し訳ない。作為的だと思われてしまうのも致し方ない。ただ、そうではなかったという事だけは何とか解って頂ければ…』
お待たせしましたと届けられたココアフロートのアイスを僕は柄の長いスプーンでつついて崩す。
『…なぎちゃん?』
しばらくそうやってアイスをつつく僕に店長が声を掛けた。甘い声だった。それが女を騙す時の発声だと瞬時に合致がいくのは、接客中の自分の発声と同じだからだ。
『ねーどうしてまだ嘘吐くんですかぁ?』
誰の目も見ないでそう言ってアイスココアを啜る。甘い液体が口の中に広がる。この店のココアは美味い。
店長の目が泳いだのを僕は見逃さ無かった。
『まさかと思うけど、この一件だけしか証拠掴んでいないって思われてんすか、あたし』
実は先程ナガセから教えられただけのセリフをただ復唱したに過ぎなかったのだけど、目の前の2人の表情が、僕のカマかけが正しかったと証明させていて、いっそう苛立たしい気持ちになった。
『ホラね、作為的じゃん。今日で在籍落としてください』
2人とも何も答えないので、代わりに僕は退店の旨を伝える。
さあどう出るか。こちらも一か八かの賭けだ。二人の反応から他にも僕の知らないところへの無断掲載があるのはほぼ確定だろう。ただし証拠を抑えられているものは当然、先程携帯電話で撮らせてもらった画質の悪い2枚しかない。もうひとついうと、退店の意向も本心ではない。
ただ少なくとも、すいませんでしたの一言でおずおずと引き下がって良い話しでもない。
はぁそうですか今日までお疲れ様でしたと言われてしまったら自分はそれまでの価値の人間でしかなかったと痛感させられてしまうけれど、僕にも勝算はあった。ハッキリ申して、僕は稼いでいる。店の売上に結構な貢献をしているのだ。
一時間後、僕の目の前には飲みきって下げられてしまったココアフロートの代わりにホットティーと、それともうひとつ、ATMの脇に置いてあるような銀行の封筒が置かれた。
『渚さんの意向に反したメディアへの掲載ミスによるご迷惑料、お渡しが出来ていなかったマスコミ手当て、こちら受け取って頂いて何とか…』
封筒の中身は10枚ずつ束にされた1万円札が数束。僕の半月分くらいの収入に当たる金額だ。
彼らが口を割った内容が全て事実なのだとしたら、掲載を認めていなかった週刊の大衆誌に一冊、掲載そのものは認めていたものの、僕の知らないところで無断掲載されていた、つまり掲載手当を頂けていなかった誌面が3冊あった。
ひっくり返りそうになる気持ちを何とか抑えて、僕は言葉を続ける。
『知人の弁護士さんにそうした方がいいって言われたんで誓約書、書いて貰えますか。金輪際二度と無断掲載しないってことと、今聞いた4誌以外の掲載が確認出来た場合は別途慰謝料を請求させて頂くんで』
弁護士の入れ知恵だなんて大ホラ吹きだけど、弁護士にすぐ相談出来る環境にあるということは、きちんと匂わせておいた方が有利だ。
あまりに上手くない文字で書かれた手書きの誓約書にきちんと判を押させるとそれを受け取り、僕は喫茶店を後にした。
喫茶店の階段を降りるとき、心臓がバクバクと音を立てていた。
大人の男性二人を相手に、どうやら結構な勇気とアタマを使っていたらしい。僕は学歴も低く、アルバイトの他は芸能関係の仕事とあとは風俗しか働くといった経験が無いので、同世代の会社勤めの人よりも、社会的な常識や、法的な知識が非常に乏しい。
上手く言いくるめられてしまわないかと内心はずっとおずおずしていた。
携帯を開くとナガセからメールが届いていた。彼の仕事が既に終わっているらしく、慌てて電話で折り返す。
『お待たせ。ねー臨時収入があったよ』
『臨時収入って言わねえんだよ、そういうのは』
既に池袋まで迎えに来てくれていたナガセと僕はすぐに落ち合った。
落ち合ったと同時に僕はコンビニに連行され、持ち歩くにはデカ過ぎると封筒の現金を僕の口座に預けてしまうように指示された。
面倒くさいなあと思ったけれど、恐らくナガセが言っている事が正しいので大人しく従った。
本当は封筒の中味の金額程ではないものの、金銭感覚が狂っていた当時の僕の財布の中味は常に20~30万入りっぱなしになっていたのだけど。
臨時収入もあったからと平和通りにあるナガセの友人の店に行ってシャンパンでも空けようかと僕は提案したけど、いかにも金の使い方を知らない奴の発言だとアッサリ却下され、手羽先が有名なチェーンの居酒屋に連れて行かれた。新宿で初めて食事をした時と同じチェーン店だ。
『何がシャンパンじゃ。お前なんて手羽先とレモンサワーで充分だろ』
『ムカつくわー。あねえ、トマトスライス頼んでいーい?』
ビールとレモンサワーの入ったジョッキを合わせて、いつもと同じ夜がやって来た事に僕は心底安堵した。今日は色々な事が起こり過ぎた。
改めて事の顛末をナガセに話す。
86歳のおじいちゃん客、おじいちゃんが行くトンカツ屋さん、掲載されていた週刊誌、蹴り飛ばして凹んだ事務机、からあげクンと缶チューハイでコントロールする自分の機嫌、浜松の本指名、ホテルで食べたケータリングのピザ、伯爵のアイスココア、本当は契約書と誓約書の違いがよく分からなくてトイレに立つふりをして携帯で調べたこと、それから。
『今日ありがと。あの時すぐ電話掛けて来てくれて。おかげで何とか自分で解決できた。と思う。』
『最終的に───が納得出来てるんなら、解決させたんだよ自分で』
僕に向けられるナガセの声はいつも優しい。でもそれは僕を騙す時の発声なんかじゃない。と思う。
『ホントはもう解決してたの。コウちゃんが本気で心配してくれたってだけで。もう全部納得出来ちゃっていたの。でもそれだと店にも自分にも良くないから、考え付く範囲で、ちゃんとできた』
『大変よく出来ました』
ナガセの手が僕の頭を撫でて、何だか泣きそうになってしまった僕は慌ててレモンサワーを流し込む。
『前から思ってたんだけど、コウちゃん何でいつもそんなに優しくすんの?』
涙声になる僕にナガセは心底呆れたように言った。
『何でって…めぐちゃん時代から俺が誰より何より───を大事に思ってるってこと、なんでこんなに理解出来ないんだよお前は』
お待たせしましたと手羽先を運んで来てくれた店員さんがちょっと気まずそうに手羽を置いて、逃げるようにそそくさと帰ってしまった事がおかしくて僕は泣きそうになりながら声を殺して笑った。
『俺は何で世界の山ちゃんでこんな恥ずかしい事言わされてんの?今日一番可哀想なの俺じゃね…?』
ナガセのビールジョッキが一気に空いた。
『コウちゃん、大好き』
ナガセが気の毒なので、僕も同じ場で恥ずかしい言葉を述べてあげた。
『知ってるわ流石に。俺の方が早かったけどな』
お飲み物ご注文いかがですかと聞きかけた別の店員さんが全てを聞いてしまい、気まずそうにしていたので、僕は今度こそ声を立てて笑いながらオーダーした。
『ビール濃いめにしてあげてください。あとレモンサワー一つ!』