天華恋墜 第六章:デカダンJK論【蓮ノ空二次創作】
この手の有様は何だ
あたしの目玉が飛び出しそうだ
勇魚取る素戔嗚の全部の海を集めたら、
この血を、あたしの手から、
きれいに洗い流せるだろうか
いや、この手が世界中の青い海を、空を、
六花の色に染めあげるだろう――
天華恋墜 第六章:
デカダンJK論
1
八十八夜の別れ霜の頃には白山谷間の雪も消え始める。どうしてあたしはあんな心持ちになったのだろう。昼と夜を界にこうも天地が、でんぐり返るのは妙なものだ。清純なるスクールアイドルの精神もこれと同じ。教室、部室、学生寮と蓮ノ湖、という四角形の中で、大賀美百合亜の四月が過ぎていった。
「――はい、あと十秒!みんな頑張って!」
「ふんっ‥‥‥!」
「むむむむっ‥‥‥!」
「んっ‥‥‥。」
おのおの練習着を汗に湿らせ、額には数点の水滴が浮かんでいる。朝練の時間おおよそは三十分から一時間で、内容はストレッチとランニングがメイン。スクールアイドルクラブ――この蓮ノ空女学院で代々受け継がれてきた伝統ある部活動。かつては多く所属していたという部員も、今年はたったの五人だけ。百合亜は相変わらず運動用のジャージ姿に身を包み、きょうは彼女達に混ざりながら五人で円形を組んで、いまは両腕を床に付けて体幹を鍛えるべく踏ん張っている。
「はーい、おっけー!一旦休憩しよっか!」
息を切らせながら、額に汗を浮かべながら。蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブはきょうも練習に励んでいた。 沙知の言葉を合図に、四人の後輩たちは一斉に態勢を崩した。
「ぷはっ!」
「はぁっ‥‥‥!」
「ふぅ‥‥‥。」
慈と梢が先にへばって座り込むのを横目に、綴理は立ち上がって水筒に一口付けた。
「みんなお疲れ~~!確実に先月よりもできるようになってる!すごいよ!!」
そしてその三人を無邪気に褒めちぎるのが、赤褐色の長髪を立派な体躯に流す少女・百合亜である。午前七時という時間がくると、突然肉体が、気力に滾っていくのであった。最早、手を、足を、言葉を動かさずにはいられなかつた。そして、目当ない道化が、はじまるのだ。ちょうど明けの綺羅星が、近づきかけているのである。そして彼女は、使命へ追われた。
「ね~、さちせんぱ~い♡めぐちゃん的にはー、基礎連だけじゃなくってぇ、新しい曲の振り付けも覚えたいなぁって☆」
一呼吸置いた慈がそう言いながらちょっと顔の向きを換えると、汗を拭ったばかりの濡れた頭が、空気の弾力で、脱ぎ棄てた香水の匂いと一緒になる。
「慈さん、あなたまたそうやって、‥‥‥」
梢がいつもみたいに喰らいつく。
「ボクはたのしいよ。」
綴理はいつもの調子で悠々自適だ。
「めぐちゃん――基礎は、永遠だぜ。」
と、百合亜は得意げに答えるのであった。
そう、基礎は永遠なのである。だからこそ努力は好い。とは謂え青春を生きる少年少女が努力するということは、人間としては猶不純である。自己に服せざるものが何処かに存するのを感じていて、そして鐡鞭をもってこれを威壓しながら事に従っているの景象があるからだ。最終的には、努力している若しくは努力せんとしている、ということを忘れていて、そして我が為せることがおのづからなる努力であって欲しい。さすればそれは努力の真諦であり、醍醐味である。
「――やあおはよう蓮ノ空!!手を腰に膝を半ば曲げイ、足の運動から、用意――始めッ!」
最早馴染みとなってしまった蓮ノ湖の風景――同じ江海でも、若し日の既に虞淵に沒して後、西天の紅霞漸く色を失って、四邊蒼茫将に夜に入らんとする時になると、刻一刻に加わりまさる黯淡たる雲の幕の幾重に、大空の嘉光は薀み蔽われて、陰鬱の気は瀾一瀾に乗りて流れ来、霧愁い、風悲しんで、水と天とは憂苦に疲れ萎えたる体の自ら支うる能わざる如くに、互いに力無き身を寄せ合い靠らせ合いて、終に死の闇の中に消えて終うが如き観を呈するであろう。その時の有樣は実に哀れなものである。江や海や、本来は無心である。その朝に於けるも、其の暮に於けるも、全く異ならぬのである。而も同一江海と雖も、その朝に於けるや彼の如く、その暮に於けるや此の如く、である。特に夢見る少年少女に於いては、同一の物と雖も常に同一では有り得ぬのである。
ラジオが叫ぶ一イチイ二ニイ三サンンの号令に合わせて、百合亜は〈女の子〉の身体をブンブンと振って、同一なる湖の前でラジオ体操を始める。彼女は何とはなしに、子供のような楽しさと嬉しさとが肚の底からこみあげて来るのを感じていた。
「よしッ!この元気でもって、我が青春の大道を脅かすあらゆる苦難どもを一掃してやろうじゃあないか!さぁさぁさぁ、きょうも煌めけ、スクールアイドル!!」
少女はその艱難辛苦どもを叩きのめすような手附きで、オ一イチ二ニイと体操を続けていった。そうだ、努力は良いものだ。百合亜は〈早起きの継続一ヶ月達成〉という、なんでもない自分の妙案に微笑んだ。それは全く、朝日の光りの中で考えるのに相応しい考えだった。あたしは湖から再び寮へ戻ると丁寧に顔を洗い、髯を剃り、ウィッグを再度被り、制汗剤で身体を拭いて、それから、共用キッチンで談笑してる他の女学生らの言葉に碌々耳も傾けず、親友と幼馴染の分のお弁当を作り、自分も軽く朝食も取ってから、その親友を起こしに彼女の部屋へ赴くのである。
「(カーテンを開く音)おはよう!!朝練の時間ですよ綴理ちゃん!!」
「ふわぁ‥‥‥。おはよう、ゆり‥‥‥。きょうは元気だね‥‥‥。すぅ、すぅ‥‥‥。」
「うん、おはよう!きょうも一日頑張っていこう!!‥‥‥さりげなく二度寝しないで!?」
百合亜は姉譲りのにひっとした笑顔で、丁寧に磨いた白い歯を露わにするのである。彼女は歯並の好いのを常に嬉しく思っている。そして、努力は一である。然しこれを察すれば、おのづからにして二種あるを観るものだ。一は直接の努力で、他の一は間接の努力、後者は準備の努力で、基礎となり源泉となるものである。直接の努力は当面の努力で、盡心竭力の時のそれである。人間はややもすれば努力の無效に終ることを訴えて嗟歎するもある。然し努力は功の有と無とによって、これを敢えてすべきや否やを判ずべきでは無い。努力ということが人間の進んで止むことを知らぬ性の本然であるからこそ、努力すべきなのである。そして、若干の努力が若干の果を生ずべき理は、おのづからにして存しているのである。
然し、努力を喜ばぬ傾の人に存することを否定することは出来ぬだろう。将に睡らんとする人と漸く死せんとする人とは、直接の努力をも間接の努力をも喜ばぬ。それは燃ゆべき石炭が無くなっているから、火が焔をあげることを辞退しているのである。大賀美百合亜、高校一年生。マネージャーとしての職務を全うするため、部室に最初から最後まで残って日々メンバーの練習記録やメニューの分析――『スクールアイドルノート』記入をしているほか、学生にとって最も基本的な評価基準である学業成績をキープし理事長から認められるよう、自頭が良いわけでもないのに勉強に時間を費やしている。彼女はそのような暮らしのなかでも、毎朝五時に起きて個人練習と弁当作りを始めていて、同輩達のタフな練習に付き合い切れるよう鍛錬も怠らず、決して多くはないその人生の時間を勉学やスクールアイドルクラブのために精一杯活用している。そんな毎日が、彼女にとっての日常となり始めていた。
「――姉さん姉さん。次の練習メニューなんだけどさ、‥‥‥」
「あー、なるほど。あそこのステップにね?確かに、百合亜のアイデアもおもしろいかもねぃ。」
そして彼女はいま、朝練中のクラブに於いて一席を占めている。冬の霜は完全に止み、雪も解け、身を切るようだった風も和やかになった。彼女は〈蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブのマネージャー〉を演じるべく、仲間だと信ずる少女達へ最大限の献身を捧げ、先刻とは打って変わって、如何にも真剣そうな面持ちで姉なる部長にささやかな進言を試みるのである。とは謂え、よくよく考えてみると、苟も男子たるものが、たかが一家内のいざこざの為だけに、その全力を尽して奔走し、何か大事業でもやっているような気持ちで、女の格好をして、聊か得意になっているというのは、恥ずかしい事である。家庭の平和も大切ではあるが、理想に邁進している男子にとっては、もっともっと外部に対しても強くならなければならぬ。一ヶ月間、女学院に通ってみて、つくづくその事を痛感した。家の中では姉さんに尻を叩かれ、女子寮では幼馴染にご指導いただき、教室では新たな友人らにお利巧者だと褒められて、ちょっとくらいは〈女の子〉らしく演じられていることが大変偉いような気がして、それでも一歩そとへ出ると、おのれの未熟を自覚してたちまちひどい目に逢ってしまう。みじめなものだ。有頂天の直後に、かならずどん底の失意に襲われるのは、これは、どうやらあたしの宿命らしい。世の中というものは、どうしてこんなにケチくさく、不必要な敵意に燃えているのか、イヤになってしまう。だからこそ、使命というもの、そして仲間との関係性を大切にしなければならない。
「うんうん、良いじゃないか!さーて、みんな!休憩終わったら、次は柔軟やってみよっか!」
「はーい。」「はい!」「うん。」
うら若きスクールアイドル三人は揃って返事をした。北陸の片田舎の高校生が、偶像の名を借りて、堂々と衆目好奇の銀幕へ送り出していたのであるから随分早熟でもあり、また、度胸もよかったものだと感心せざるを得ない。一月一回金沢カレーなる洋食を食べて驚喜していた田舎の中学生男児を鑑みれば、その姿をすぐ傍らで追いかけるなど、ひどくませたことをしているものである。
「まだ五月だからねぃ。きっとまだ、真っ白なんだ。どんな風に色づくのか。あたしにだってその責任の一端があるんだから、考えても考えすぎるってことはない‥‥‥そう思ってるんだ。」
「沙知さんがそう言うと、なんだか妙に説得力があります。」
春めいた暖かさと少女らしい肉体の火照りだけが辺りに漂っていた。薄雲に明けの光を妨げられた蓮池が、遠い水に真新しい影を落とす。ふと沙知が意味ありげに呟く。百合亜もつられて思索を深めると、大きな灰色の眸を巡らせて、辺り一面を埋めつくす春の香を吸いこんだ。部屋に差し込む光は白い花びらの一枚が光を帯びているようだなぁ、人に依っていろいろな心配もあるものだなぁ、と、あたしは感心していた。
――ぴこん。不意にスマートフォンの画面に通知が届く。
「なにっ」
スクールアイドルコネクト――通称・スクコネ。端的に説明するとすれば、全国のスクールアイドルたちが一般的に使用する配信拠点アプリ。同媒体には同年代の女の子たちの何気ない雑談や練習風景を記録した配信動画、そしてライブ動画が数多投稿されている。勿論、我らが蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブもスクコネを拠点に活動を続けていて、第一〇二期生が出演する動画も一ヵ月で十五本を数えていた。
「なんだぁ、このカワイイ・スクールアイドルたちは!?さぞや洗濯も料理も上手いんだろうなぁーーー!!」
そしてきょうは、月に一度の「スクールアイドルコネクト新人賞」の結果発表通知であった。百合亜は叫んで、右手を、力いっぱいのばして、指さしている。その受賞者一覧にはこうあったのだ――〈夕霧綴理 ・蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ〉と。
「すごい!すごいよ綴理!!」
百合亜は莞爾と笑った。いいや、莞爾どころではない。ふつう、百合亜のような背格好の青年が、えへへへと、それは下品な笑い声を発して、これがたとえ宵闇の茶屋街であったとしても、こんな調子でぐっと頸を伸ばして辺りの酔客を見廻しては、酔客たちでさえも格別相手になってはくれぬものだ。それでも少女は然程意に介することなく、ひとりひとりに、はは、おのぞみどおり、へへへへ、すみません、ほほほ、なぞと、それは複雑な笑い声を、若々しく笑い撒きちらして一同に昂奮を表明し、いまは全く自信も体力をも恢復させたといった具合であった。
「ありがとう。褒められてうれしい、うん。ゆりがよかったならよかった。‥‥‥さちは、どう?」
こうして一人の若者は、その耀くばかりの才能を、その美しい姿を、その高邁なる精神をもって世に送り出さんとしている。然し当の本人に至ってはと謂うと、困惑した調子で僅かに眉を跳ね上げていた。
「いやー、おめでとう綴理!さすがはあたしが見込んだスクールアイドルの原石だ!なんだか、あたしまで自信が持てる気がするねぃ。」
先輩は後輩の背中をばんと叩いて、にひひっと笑みを浮かべてその顔を覗き込んだ。
「‥‥‥だと良いな。うん。ボクはまだ『ス』だから。スクールアイドル見習いの。」
綴理はこくりと軽く頷いた。
「ウーム、もうそろそろ『ク』にはなったんじゃないかな。スクールアイドル見習いのね!」
個々人の辿った半世の歴史を長き穂の心細きまで逆に尋ぬれば、遡るほどに暗澹となる。芽を吹く今の幹なれば、通わぬ脈の枯れ枝の末に、錐の力の尖れるを幸いと、記憶の命を突き透すは要なしと云わんよりむしろ無惨である。ヤーヌスの女神は二つの顔に、後をも前をも見る。幸なる綴理は一つの顔しか持たぬ。背を過去に向けた上は、眼に映るは煕々たる前程のみである。後を向けばひゅうと北風が吹く。彷徨う百合亜の入口には前にも後にも顔がある。北陸の寒い冬をやっとの思いで斬り抜けた昨日今日、寒い所から、寒いものが追っ懸けて来る。今までは唯だ忘れるだけでよかった。未来の発展の暖く鮮やかなるうちに、おのれを捲き込んで、一歩でも過去を遠退とおのけばそれで済んだ。生きている過去も、死んだ過去のうちに静かに鏤りばめられて、動くかとは掛念しながらも、先ず大丈夫だろうと、その日、その日に立ち退いては、顧みるパノラマの長く連なるだけで、一点も動かぬに胸を撫でていた。ところが、昔しながらとたかを括って、過去の管を今さら覗いて見ると――動くものがある。我は過去を棄てんとしつつあるに、過去は我に近づいて来る。逼って来る。静かなる前後と枯れ尽したる左右を乗り超こえて、暗夜を照らす提灯の火の如く揺れて来る、動いてくる。うら若き緋色の、潤める星の樣な双眸の底に、初めて人生の曙の光が動いていると気が付くならば、俄かに夜も昼も香わしい夢を見る霧となって道化師の目前を揺らめく。
「ぐぐぐ‥‥‥綴理に先を越された‥‥‥!」
恥ずかしいことではないが、悔しいと思うのは打ちとける仲となってきた証拠である。あたしがこの情景の裡でいまもなお記憶に残るのは、学院に漂う鈴蘭の花の香りと、空高く響く雲雀の声。五月から六月へかけてであって、謂わばこの頃が冬国における最も春らしい季節なのだ。こんな情景を観てしまえば、意識が存在を決定するというよりも、多くの場合、存在が意識を決定するといった方が適切かも知れぬ。日本海を染める千古の流れは、陸に迫って海際の巨巖に全身を叩きつけ漸く自らを真白き花と知る。慈は言葉とは裏腹にニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「んー、こうなったら、めぐちゃんの特別講座、だよっ!配信でもステージでも、スクールアイドルのカワイイ魅せ方について、たっぷりとね♡‥‥‥ね、梢!」
これまた意外な説教。然し努力家少女は悉く謹んで傾聴しているから世話はない。
「‥‥‥そうね。私ももっと頑張らなくちゃ、ね。」
室内の春光は飽くまでも五人の少女に穏かである。各々の夢を追いかける青年数名が、練習休みに莚を延ばし雑談に耽っている。
「うんうん、来月こそは受賞できるようにみんなで頑張ろう!‥‥‥ね、梢!」
その次の瞬間には元通りの微笑みを浮かべながら、梢は、その肩に手を掛けて語る友に答えるのである。
「ありがとう、ゆり‥‥‥百合亜。」
「うん、梢。」
「‥‥‥。」
その言葉が聞こえていたのかいなかったのか、密かに頬を赤らめながら小さく会釈をした。
「‥‥‥なんか言ってよ。」
「‥‥‥ごめんなさい。信頼を表現する手段が、これくらいしか思い浮かばなくて。」
似た者同士の努力家二人は言葉を交わす。時あって努力の生ずる果が佳良ならざることもある。それは努力の方向が悪いからであるか、然らざれば間接の努力が欠けていて、直接の努力のみが用いられる場合である。無理な願望に努力するのは努力の方向の悪いので、無理ならぬ願望に努力して、そして甲斐の無いのは、間接の努力が欠けているからろう。瓜の蔓に茄子を求むるが如きは、即ち努力の方向が誤って居るので、詩歌の美妙なものを得んとして、徒に篇を連ね句を累ぬるが如きは、間接の努力が欠けて居るのである。百合亜はポニーテールを結ぶ髪留めを外しながら、紅潮する頬を隠すように髪を再度整えた。
然しそれにしても、それは努力の排斥すべき所以にはならないで、却って間接の努力を要求する所以になっているというのは興味深い。努力無效果の事実は、芸学の源泉となり基礎となる準備の努力、即ち自性の醇化、世相の真解、感興の旺溢、製作の自在、それらのものを致すの道を講ずることが重要であるということを、徒に紙に臨み筆を執るのみの直接努力を敢えてしている者に明示しているのである。努力はよしやその效果が無いにせよ、人間の性の本然が、人間の生命ある間は、おのづからにして人の敢えてせんとするものである。厭うことは出来ないものである。斯く謂う梢は年頃の少女らしい仄かなはにかみを返した。そうして、くるっと身体を向けて誰かの言葉を待った。
「ふーーーーん。なーにをイチャイチャしてるんだか。」
慈はジトーっと目を細めて、あたしたちを訝しげに見詰める。
「い、イチャイチャ‥‥‥。」
「イチャイチャはしてないよ!?友情の再確認だぜ、これは!」
そう、友情。月並とでも謂うのか、ありふれたような句であるが、これでも、自分で確かめるとなると、なかなか骨の折れるものなのではあるまいか。一句吟じて、乱れ咲く乙女心の野菊かな、なんてのは少しへんだが、それでもこの駘蕩に吹かれては、怪しからぬと怒るほどの下手さではないと思った。でも、めぐちゃんだけではない、沙知さんもニヤニヤしながらあたしたちを横から見ている。綴理は無言で時々脚を浮かせてそわそわしている。
「いやー、結構結構!」
沙知さんは部屋の中を廻り始めた。
「さすがは第一〇二期生期待の問題児――、あー失礼、個性いっぱいの後輩たちだねぃ。」
そして咳払いをしてぴたりと立ち止まった。
「‥‥‥いま『問題児』って言った!?」
「言ったね。」
「言ったわね。」
「沙知さん‥‥‥。」
自然は自然を用い尽さぬ。極まらんとする前に何事か起る。単調は自然の敵である。沙知が部屋の中を廻り始めて半分と立たぬうちに、後輩四人の視線がじっとりと集まった。
「――あはは、ごめんごめん!あたしばっかりしゃべり過ぎてたね。」
世界を輪切りに立て切った、一幅の窓を左右に颯っと開いた中を、――赤いものが通る、青いものが通る。女が通る。子供が通る。金沢の春を傾けて、朝を往く少女は繽紛絡繹と雑談に行く。「こほん」と姉が言う。五人はまた色の世界に出た。
「そうだねぃ‥‥‥。せっかくこうして三ユニット揃ってるんだから、いまはしっかりと地固めする時期だね!ダンス、歌、パフォーマンスを見せつけて、ちゃんと、ひとりひとり応援してくれる人の心をぐっと掴んでいこう!」
彼女の声はそんなに大きくはなかったが、後輩四人の気の張りを見抜いて、鋭利な視線で静寂をも断ち切るような独特の声音であった。一座は耳を傾けた。
「まっかせて♪今月のライブも、いっぱい盛り上げちゃうから♪」
「うん。ボクもやるよ。」
「沙知先輩。これからもご指導のほどよろしくお願いします。」
「‥‥‥よぉし!あたしもみんなのサポート頑張るよ~~!!」
歓談の終わった練習室で、シューズと床の擦れるキュッキュッという音、響きつ跳ねつ少女達の呼吸の音、一日の始まりを告げるさまざまな微音が花色の吐息に薫っている。しづ心なく花の散るらむ――なぞと言えば、余り相応しくなく莫迦げた長閑さ過ぎると思われるかも知れないが、なんだか一瞬間だけじっと瞑目して明るい日向に項垂れていると、胃嚢の中にヒソヒソと頻りに花の降る音が遠く遥かに続いている。時として、何故とも知らずホッと洩らした溜息の引き去るあとに耳を澄ますと、朝も闌けた篁の懶い沈黙から、筍の幽かに幽かに太る気配が聴かれたように思われてしまう。気がつけば、あの心地よい少女たちの音色は益々劇しく響いてくるが、深く耳を澄していると、それも撒かれた霧のように明るい空の百方へじんじんとして掠れてしまう。硝子様銅青の言葉をつかってしきりに歪み合いながら、何か相談をやっていた。優しく天に咽喉を鳴らす、言いようもない春の長閑さ。
2
「ごきげんよう。」「ごーきげんよー!」
百合亜と梢は双方同時に挨拶をした。
「梢はいつもすごいねぇ。」
と百合亜は溜息をついた。
「どうして?」
「実に頑張り屋さんだ。」
「あなたこそ努力家じゃない。」
「いや、あたしはとても敵わないよ。」
「そんなことはないわ。私は早く練習が済んで百合亜の方を見たら、あなたがまだ作業をやっていたから、私もまた始めなきゃと思うこともあるんだから。」
彼女は風に吹かれた麗髪を整えると、厳しめな自己分析を続ける。
「‥‥‥私はよく文武両道だと言ってもらえるけれど、体を動かすことに関しては得意なことと苦手なことがハッキリと別れていて。もともと自信があったのはね、実は長距離走ぐらいだったの。‥‥‥でも、その、観てくれる方がすごく、期待してくださるから。足を引っ張りたくはないじゃない?だからよく、こっそりと練習したりして。‥‥‥そんなことを繰り返しているうちに。人一倍熱意があるっていうこともあるけれど、スクールアイドルだって、人並みにはできるようになりたい。そう思って、ね。」
「あたしもそうだよ。頑張り屋の梢を見るとね、あたしも頑張らないと、ってなるんだ。人一倍じゃあない、人百万倍さ。なんとかしてみんなに、――失礼、自分自身に負けまいと思って、やらなくてもいいことをまた無理にやってるんだ。」
二人して有りの儘を告白した。
「あら、謙遜しなくてもいいのに。あなたの努力はみんなが認めているところじゃない。」
「それは梢もね。あたしたちの見栄っ張りも、たまには役立つことがあるようだ。あははっ!」
お互いに匿さなかった。他人に認められる努力はほんとうに良いものだ。潜水か何かの積りでも、長く続けるということ自体が豪い。たとえ幼稚な動悸であっても、努力は進化していく。こうして梢が現在立派にスクールアイドルとしての一歩を進めたのを眼前に据えると、あたしはこの程度で発達が止まってしまった、と常に自省せずには居られない。慈・綴理の両氏は特別として、最初に会っている所為か、あたしはこの乙宗梢とは他の同級生よりも早く親しんだ。先方も好意を持っていると見えて、食堂に連れるときはあたしの隣りに坐る。
「これはなんていう料理だい?」
と百合亜が訊く。
「葱のカツレツね。」
と梢が教える。移動教室でも、確かに出席番号が隣である理由もあるにせよ、何方が努めるともなく二人並んで席を占める。そして今日は部室に二人、穏やかに流れゆく五月の裡は、静かに他人の気合もせぬ。蓮ノ空は音の景色もない。唯だ腰をかけて、校庭を見下して平気でいる。校舎の脇に咲いているあの華も、去年と同じ様に見えて同じものは一つも無いのだろうか。ふと百合亜は不思議に思った。元来どうして彼女は謙遜するのかしら。終いには話もないから、両方共無言のままで校庭を見下している。地平線に逼る太陽は、まともに暖かい光線を、山一面にあびせて、眼に映る桜の蓬色は、梢の先まで、蒸し返されて耀いている。やがて、裏の部室棟の方で、運動部が大きな声を出して、えいえいおうと鳴く。
「――この前のライブだってそうだよ。スクールアイドル・乙宗梢の初舞台。あたしは見惚れちゃって仕方がなかったんだから!瞼の裏では、つい五分前のことのように‥‥‥。」
「もう、また大袈裟なんだから。‥‥‥私、初めてのステージで舞い上がっちゃって、ずっと沙知先輩に頼り切っちゃって。応援してくれる人の顔も、ぜんぜん見えなくって‥‥‥。」
「あはは、また謙遜だ。偶には素直に受け取ってよ。あたしの自信がなくなっちゃう。」
「‥‥‥そうね。いつもありがとう、百合亜。」
二人の少女は何気ない会話を交わす。芸術や音楽を魔法だと言いたくなる気持ちもわからぬではないが、あたしには少し異論がある。対坐したのでは猥褻見るに堪え難くて擲りたくなるような若者がサーカスのブランコの上へあがると神々しいまでに必死の気魄で人を打ち、全然別人の奇蹟を行ってしまうことだってある。これは魔法的な〈現実〉であり、敢えて美辞麗句を弄すれば奇蹟であるが、而もこの奇蹟は、我われの現実や生活が常にこの奇蹟と共に在る極めて普通の自然であって、決して超現実的なものではない。レビューの舞台で柔弱低脳の男を見せつけられては降参するけれど、宝塚の堂々たる男型の貫禄とそれをとりまいて頼りきった女達の遊楽の舞台を見ると、女達の踊りがどんなに下手でもまた不美人でも一向に差支えなかろう。甘美な遊楽が我われを愉しくさせてくれるのである。これもある意味では一つの奇蹟と言えるかも知れぬが、常に現実と直接不離の場所にある奇蹟で、王道の奇蹟ではなく、現実の奇蹟であり、青春の奇蹟なのである。友情もまた、あたしにはひとつの奇蹟である。
「うーーーん!蓮ノ空の放課後にはいろんな音が溢れてるねぇ。」
「吹奏楽部や合唱部の演奏、それに運動部の掛け声。その中に私たちの歌声も混ざって、溶け合っていく。まるで、学校が奏でる音楽が一つになったみたいにね。」
「とってもステキな表現だ。響け、虹の向こうまで!ってね。――それにしても良い天気だ。」
と腕を組んで吟じる。
「いい天気ね。」
百合亜はほんとうに天気の事を忘れていた。こうして考えてみると、蓮ノ空での春もまた、わるくないようだ。少し肌寒いけど、いい気持ち。百合亜は今日ではもう、梢へ警戒心を抱いているわけではなかった。ライバル意識は切磋琢磨する友人への親愛になり、一層おのれの使命を自覚できるようになったのだから。
「いやはや。あたしも君も、どうやら随分昔堅気みたいだ。」
「なかなか自分できめた事は動かない。お互い、一徹なのよ。」
梢はそう呟きながら立ちあがった。眺める少女は一幅の風景に取り残される。戸棚に据えたウェッジウッドの陶器に、いつ沸かしたる紅茶の迹か、零れた香の、香の儘に崩れもせず、スクールアイドルクラブの部屋は昨日も今日も長閑である。パイプ椅子に敷き棄てた八反の座布団に、主を待つ間の温気は、軽く払う春風に、ひっそり閑かんと吹かれている。
「そうだ。」
梢はぱんと手を合わせ、少し笑いながら眼をまんまるくして百合亜に視線を遣った。あたしは、眩しかった。
「ねぇ、百合亜。御礼といってはお粗末だけれど、紅茶を振舞わせていただけないかしら。私、紅茶には少しこだわりがあるの。」
抜けるような綺麗な手首をして、春に溶けるような麗しいポニーテールを流して、臆面もなく友へ見せて、れいの鈴の音で語りかけるのである。あたしはつい嬉しくなって、顔をゆすって首肯いてみせた。
「それじゃあ、是非一杯いただきたいな!ちょうどその香りが気になっていたんだ。」
「決まりね。淹れ直すから少し時間を頂戴。茶葉の希望はあるかしら?」
「ウーム、全然詳しくないからお任せで。」
まあそんな訳で、依然女学院での日常には内心尻込みをしていたのだが、一面に於いて大いに憧憬していた彼女への親愛でもあるから、半分は恐い物見たさの気持ちも手伝って、ずるずるに連れて行かれたのである。無粋なる湯沸室は容色更々相鮮やかとなりつ、翡翠は情を放ままにして霄外を凌ぎ、蘂を噛みて飛泉を挹む。
「実は、身近な緑茶や紅茶はね?発酵の度合いや加工工程が違うだけで、ツバキ科の同じチャノキから作られるの。」
「え、まじ?紅茶には紅茶用の木があるものだと思ってたわ。」
「もちろん、紅茶の中でもチャノキの種類が違うことはあるわよ?それは、もう、いろいろあるのだけれど、そうね‥‥‥まずは中国種とアッサム種という二種類がある、とだけ覚えておくといいわ。」
「ほーーーん。」
純粋な好奇の目を湛えた百合亜は、地震に揺れた池の水のように円満な動き方をして見せる。
「うふふ。味や香りが種類によって違うから、それを判るようになるとすごく楽しいのよ。」
梢は得意げに笑窪を浮かべる。笑窪は人が誕生の際、愛の女神がキスした跡ゆえ、笑窪のある少女は永久に愛を憂くと聞く。
「成る程成る程。然してお嬢、本日の御気分は如何かな?」
「ダージリンね。セカンドフラッシュよ。」
そう言いながら、梢は二種類の茶器を器用に操るものだ。ガラス製のものがお茶を淹れる用、陶器のものがお茶を移し替える用だそうで、茶葉を入れっぱなしにして置くとお茶はどんどん濃くなるから、ベストな濃さで飲めるように移し替える用のセカンドポットがあると便利なんだって!考えたこともなかったなぁ。
「この可愛らしい入れ物はなんだい?」
あたしは微笑んで口をはさんだ。黙っていては、却って彼女の親切心に失礼なことになりそうだと思ったのだ。
「ティーコジーね。ポットに被せてお茶が冷めないようにするの。特にフレーバーティーは冷めると香りが悪くなるものが多いから、いくつか持っておくと嬉しいわ。」
「成る程なぁ。」
二人は横に並び、ぽつぽつと沸き立つ熱湯の様子を観察していた。ふつうの紅茶では沸騰させ過ぎないように九十五度くらいを目指すけれど、それこそ今回のダージリンなんかは少し低めの九十度前後が良いらしい。慣れるとお湯の状態を音だけで判断できるようになるというのが経験者の語りである。香りのせいか気候のせいか、あたしは益々変な気持ちになってきた。好奇心からの問いがぽつりぽつりと落ちて来て、彼女がそれに簡単な答えを返してるうちに、心に薄いヴェールのようなものがふわりと掛ってきた。いつの間にか百合亜は大胆になっていった。
「じー‥‥‥。」
「‥‥‥。」
「じー‥‥‥。」
「ん、んっ‥‥‥。なんだか、視線が、背中に刺さるわ‥‥‥。何か、こう、期待の眼差しで見つめられているわ‥‥‥。」
真に傑れた評論家であるなら幼稚な中にも何か後人を首肯せしめるものがなければならないが、この瞬間にはいったいぜんたい何処にもそんなものは見出されない。唯だ、他愛ない青年の一日と謂うに止まる。それだけ。若い女は今度は別に辞退もしない。唯だ黙っている。奇蹟などと勿体らしい文句も、空疎で何の意味もなく、気障さ加減で鼻持がならなくなる。あれなんぞは、下らない人間がエラそうな墓碑銘を遺すと、後世迄も耻を曝すことになる、その適例であると言いたくなってくるもんだ。
「――いただきます!」
「どうぞ召し上がれ。」
百合亜は紅茶を啜る。二人は無言である。耳朶ではまだ五色の音色を弾いている。――不思議な味わいだ。可憐な言葉に酔わされて、あたしは未だその酔いが醒めずにいるのかも知れない。いつもあんなに笑い狂っているくせに、あたしも、どうも友達の事になると、何だか調子が変になる。そうして、彼女は、どうやらそんな少女百合亜を、苟も信頼申しているのだから、かなわない。
「エ、これほんとうに紅茶かい?めちゃくちゃ美味しい!華やかな香りはもちろんそうだけど、それでいて渋みは抑えめで奥行きがあって‥‥‥。あたし、いつもはペットボトル紅茶しか飲まないから、なんだか全然印象違う。」
そう言いつつ、百合亜の胸は妙に躍っていた。
「うふふ、喜んでもらえてなによりよ。これは、いわゆる『マスカテルフレーバー』ね。優しくて繊細な風味でしょう?同じダージリンでもね、収穫時期によって風味が変わったりするから、また楽しいのよ。」
「紅茶の世界は奥深い!まだまだ知らない世界があるものだねぇ、紅茶のことも、蓮ノ空も!」
実はあたしは、茶と聞いて少し辟易したのだ。世間に茶人ほどもったいぶった風流人はない。広い詩界を態とらしぶくを飲んで結構がる者が所謂茶人である。あんな煩瑣な規則のうちに雅味があるなら、庵の一幅のなかは雅味で鼻がつかえるだろう。廻れ右、前へ、の連中は悉く大茶人でなくてはならぬ。あれは商人とか町人とか、まるで趣味の教育のない連中が、どうするのが風流か見当がつかぬところから、器械的に利休以後の規則を鵜呑みにして、これでおおかた風流なんだろう、と却って真の風流人を馬鹿にするための芸であると、百合亜は思っていた。それでも今日は、梢との友情に力を得て、こんどは一度も余計なことを考えずに、全部をすっかり味わう事が出来た。
「――ごちそうさまでした!ほんとうにおいしかったよ、ありがとう!またいろいろ教えてね!」
「ええ、もちろんよ。百合亜好みの紅茶が見つかるといいわね。」
案ずる程のこともなく、完全に愉快な会話を続けた。あたしは部室の窓から他愛ない春景色を眺めながら、如何にあの頃の病癖が滑稽至極なものであったかを心の何処かで想い浮かべ、強健な神経を取り戻し強い使命感に溢れる今の我が身を祝福した。あたしは、一ヶ月間の蓮ノ空での結果を見てすっかり安心した訳であった。まあ言ってみれば、友人と共に夢を語らうこと、もうこの上は如何なる歓楽も如何なる刺激も辞する所に在らずという気になって来ていた。
――がちゃり。不意にドアの開く音が響く。
「やほ。こず、ゆり。来たよ。」
「あら、慈さんは一緒じゃなかったのかしら。」
「めぐちゃんさんは‥‥‥あー、たぶんまだ補修中です。全教科赤点だったので。」
「ボクは二教科だけだった。」
「そこは自慢するところじゃないのよ‥‥‥。」
「大丈夫。暗記はそこそこ得意。」
綴理は親指をおこして、得意になって喋舌った。午後の四時頃で、春の日が、校庭の芝生に柔らかく当っていて、芝生から石段を降りつくしたあたりに小さい噴水があり、品種違いの梅の木が植えられている。山の裾野には蜜柑畑がひろがり、それから農道があって、農道を辿って手前側に松林があって、その松林の向こうに、蓮ノ湖が見える。湖は、こうして部室に坐っていると、ちょうどあたしの胸郭の先に水平線が触るくらいの高さにあって、不思議なくらい呑気な空気のせいだろうか、なんだか光線が制服に絹漉しされているみたいに見えた。
「あはは、そうだね!」
と、百合亜ははしゃいで言った。
「沙知さんは‥‥‥まだ部長会議続いてそうだね。」
今日は部長会議の日だ。来月は蓮ノ空三大行事の一つである「撫子祭」が開催されるから、その出演枠や会場確保なんかを巡って議論が過熱しているんだぜ、と彼女はぼやいていた。綴理が近くの席に座ると、慣れた手つきでダージリンを淹れた梢がティーカップをソーサーに載せて、彼女の前に置いた。この二人の何気ない仕草だけでも十分過ぎるくらい画になると、あたしは純粋に見惚れてしまっていた。綴理はこっくりと会釈して、ダージリンティーを口に含む。暫くの無言と紅茶の香りが穏やかに漂った後、
「あ。ゆり、お弁当箱返すね。きょうの肉じゃが美味しかったよ。」
「ありがとう~!綴理はインゲン入れても美味しいって言ってくれるから助かるぜ!」
すっと立った百合亜は腰のあたりに左の手を廻しながら、そしてその右の手には弁当箱を受け取りながら如何にも間抜けそうに答えた。然し、この女学院を流れて行く人の表情がまるで平和では、殆ど神話か比喩になってしまう。痙攣的な苦悶はもとより、全幅の精神をうち壊すが、全然色気のない平気な顔では人情が写らない。どんな顔と叙述すれば成功するだろう?この意味ではミレーのオフィーリアは成功かも知れないが、彼の精神が果たして少年少女と同じところに存するかは疑わしい。ミレーはミレー、女は女、あたしはあたしであるから、百合亜には百合亜の興味をもって、一つ風流な土左衛門でも演じてみねばならぬ。それでも思うような顔はそう容易く心に浮んで来そうもない。
「はぁ‥‥‥。綴理さん、あなた、まさかとは思ってたけれど‥‥‥。」
ティーポットを置いた梢が溜息を吐いて言う。
「え、なに、こわい。聞かないほうがよさそう。聞くけど。」
「いいえ、他人の食生活にとやかく言うつもりはないのだけれど‥‥‥あなた、毎日百合亜にお弁当作ってもらってたのね。」
「うん、そうだけど。めぐも作ってもらってるからね。」
梢は少しだけ唇の端を下げたが、その表情は二人によってすぐに消されてしまった。
「やっぱり美味しいって言われると料理する甲斐があるよなぁ!」
「ねー。ボクいつも言ってる。」
「あなたの台詞じゃないわよ、綴理さん‥‥‥。」
梢はほとほと困り顔だ。いくら北陸人の温厚さでも、真逆にどれほど啖呵を切っても、この渾然として駘蕩たる天地の大気象には叶わない。満腹の饒舌を弄して、あくまでこの調子を破ろうとする少女は、早く一微塵となって、怡々たる春光の裏に浮遊している。部室には三人の微笑で満たされていた。
「そうだ。」
綴理は、無邪気に手を叩いた。
「こず、ゆり。ボクね、きょうはスクコネの配信、やりたかったんだ。さっき思い出した。」
「おぉ、いいじゃんいいじゃん!早速準備するから、ちょっと待ってねー!」
「そうね、いいんじゃないかしら。ぜひ見学させていただくわ。」
矛盾とは、力において、技において、もしくは意気体躯において氷炭相容る能ずして、しかも同程度に位する物もしくは人の間に在って始めて、見出し得べき現象である。両者の間隔が甚だしく懸絶するときは、この矛盾は澌尽礱磨して、却って大勢力の一部となって活動するに至るかも知れない。大人の手足となって才子が活動し、才子の股肱となって昧者が活動し、昧者の心腹となって牛馬が活動し得るのはこれがためである。いま我が親友は限りなき春の景色を背景として、一種の滑稽を演じている。長閑な春の感じを壊すべきはずの少女は、却って長閑な春の感じを刻意に添えつつある。あたしは思わず皐月半ばに呑気な弥次と近づきになったような気持ちになった。この極めて安価なる気焔家は、太平の象を具したる春の日にもっとも調和せる一彩色である。虚ろなる五月には待ちに待った梅と桃が一度に咲き出す。
…
……
「――や。ども。綴理だよ。‥‥‥え、これ、勝手に生えてるよ?いまね、『髪飾ってるの?』ってコメント来てびっくりしたんだけど、『仮面飾ってるの?』を予測変換で誤字しちゃったんだって。だから今日はボク、変なこと言ってない、と思うけど。‥‥‥ないよね?」
「‥‥‥。」
「‥‥‥。」
あとは静である。静かなる事定まって、静かなるうちに、我が一脈の命を託すると知った時、この小乾坤の何処にか通う少女の血潮は、粛々と動くにもかかわらず、音なくして寂定裏に形骸を土木視して、而も依稀たる活気を帯ぶ。生きてあらんほどの自覚に、生きて受くべき有耶無耶の累を捨てたるは、雲の岫を出で、空の朝な夕なを変わると同じく、寧ろ凡ての拘泥を超絶したる活気である。古今来を空して、東西位を尽くしたる世界のほかなる世界に片足を踏み込んでこそ――それでなければあたしは化石になりたい。
「はぁ‥‥‥。ごめんなさい。うちの子が心配させてしまいまして、‥‥‥」
頻りに画面の向こう側を覗き見する綴理の、その物欲しそうな様子を、見るに見かねた梢が遂に配信に参加する。赤も吸い、緑も吸い、黄も紫も吸い尽くして、白を望む少女は、元の五彩に還す事を知らぬ真黒な化石になりたい。それでなければ一人の少年として死んで見たい。あまりにも呑気な春に長閑な少女の会話を観てこう考える、死は万事の終である。また万事の始めである。時を積んで日となすとも、日を積んで月となすとも、月を積んで年となすとも、詮ずるに凡てを積んで墓となすに過ぎぬ。墓の此方側なる凡ての日常は、肉一重の垣に隔てられた因果に、枯れ果てたる骸骨に要らぬ情けの油を注して、要なき屍に葵の春舞をおどらしむる滑稽である。遐なる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕え、と。百合亜は撮影用のスマホをセットしたまま、二人の配信の行方を見守っていた。
「――ふぅ。なんとかやりきったね。おつかれ、こず、ゆり。どうだった?」
「うん!百点満点花丸あげちゃう!」
「あなたは綴理さんに甘いのよ、百合亜‥‥‥。でも、そうね。コメントや皆さんの反応を見る限りでは、成功と言ってもいいんじゃないかしら。お疲れ様。‥‥‥こういう配信の仕方も、あるのね。」
梢は漠然と呟く。何か物足りなそうである。それは将にいま彼女の中で実在しつつあるものがあったからだろう、その何かが、彼女の内なる世界と外界の世界との隔たりを一層に際立たせているのであるから。此処に華々しい青春時代も、どうやら心細い。特に、その時代に顔を連ねる偶像なるものこそ、正に眉唾ものである。自分のことは先ず棚に上げて、こんなものが社会に出ては困るなあと思うような人がいつまでも自称人気者で通っていたり、おやおや、とうとうひどくやっつけられたな——いよいよ致命傷を受けたなと思っていると、翌月の雑誌には、また麗々しく流行何々のインフルエンサーとして、その名前が出ていたりする当今、少年少女の生きるべき青春時代は、百花爛漫その実は百鬼昼行の時代である。まあ、個人的見識を敢えて残しておくと、独りよがりもよかろう、よからうから、一つそういう夢想家は、お互いになんとか、絶対に化かされないような工夫を廻らして、折角の夢を醒まさないようにしようではないか。
「そっか、ならよかった。‥‥‥でも難しいよね、スクコネの配信。さちもめぐもすっごく上手だけど、なんでだろうね。」
綴理も少し納得の行かぬ面持ちであった。
「ウーム、そうだね‥‥‥。」
どういうわけで嬉しい?という質問に対して人は容易にその理由を説明することができる。けれども、どういう工合に嬉しい?という問いに対しては何人も容易くその心理を説明することは出来ない。配信の片付けを終えた百合亜は徐に立ち上がり、ゆっくりと歩きながら吟じるのである。
「これはたとえばだけど、接客業みたいなもんじゃないかな。いらっしゃったお客様とコミュニケーションをとりながら、心地いい時間を提供する、という辺りが。」
「‥‥‥成る程ね。そう考えると、あれだけ人当たりの良い沙知先輩や慈さんが上手に配信出来るのも、腑に落ちるというものね。」
梢が顎に手を当てながら相槌を打つ。
「でしょーー?」
少女は振り返って大袈裟に笑った。あたしはこんなにあけすけに言って、たぶん配信についての自分自身の無知を表わすであろう。芸学者の高雅な精神そのものは、人から期待せられていることだけ言うことを要求する。然しあたしは板に立つスクールアイドルではないし、立派な脚本家のつもりで彼女に語ったわけでもない。友人同士お互いがよく了解することを助ける為だけに、聊かなりとも貢献するに弁解の必要はない。放課後の陽射は細面の頬を殊更赤くしていて、長い睫毛にはふわふわと小さな霰が宿っているようだった。
「あ、なんか思いついた。」
ここで綴理が、ぽん、と手を打ってから言い放ったのだ。
「なにを?」
「てきとうに考えておいて。」
「うん、わかったー!」
「えぇ‥‥‥?」
三個の小世界はここで沈黙に突き当って、少時、ばらばらとなる。綴理が部室から飛び出していったのを二人は漠然と眺める。よく挙げられる例であるが、鳩が或る日、神様にお願いした。私が飛ぶ時、どうも空気というものが邪魔になって早く前方に進行できない、どうか空気というものを無くして欲しい。神様はその願いを聞き容れてやった。然るに鳩は、幾ら羽搏いても飛び上る事が出来なかった。つまり、この鳩が自由である。空気の抵抗があってはじめて、鳩が自由に飛び上る事が出来るのだ。闘争の対象の無い自由思想は、まるでそれこそ真空管の中で羽搏いている鳩のようなもので、全く飛翔が出来ない。百合亜は自由を見ていた。それは百合花のように美しく、彼女のいのちの誇であるばかりか、彼女の眼の希望であるのだから。
「忙しなかったなぁ、綴理。何か配信のために掴めたのなら良いけど。うーん、それにしてもいったいなんだろう。あの子の思い出したものって。」
「‥‥‥百合亜。もしかして、あなたの方が変になっちゃったのじゃないかしら。」
「そうかもしれない‥‥‥。あ~~~!」
こんなふうに百合亜がスクールアイドルクラブの居住者となり、青い陽が頻繁な訪問者となっている間に、鳥檻の中に暗影と怖れが潜んでいる間に、戸外の生々とした丘や、美しい森林地には、あの晴れやかな五月が曇りなく輝いていた。学校の花園もまた、花で輝かしく飾られた。蜀葵は木のように高く伸び、百合は開き、鬱金香や薔薇が 微笑んだ。小さな花壇の周りは淡紅色の撫子と深紅の八重の雛菊で賑わった。桃の木は朝も夕も甘い香料のような香を放っていた。そうしてこのよい香の宝庫も、時々花瓶に入れる掌一ぱいの草や花を役立たす外には、大部分の蓮ノ空の少女達にとって全く無用なものであった。口多き時に真少なし。世界の鳴るに任せて、徒に差し向う友と友に、部室に流れてくる南風は静かである。遅咲きの浅葱桜は夕暮を誘いつつ、春はゆっくりと逝きつつあった。
3
「まったくもう、ほんとうに手のかかる友達だ。今度は教室でずっと寝てるのかい。補修で先生に捕まってるのかい。お弁当渡したのに食べるの忘れて倒れてるのかい。今度はカワウソがおなかに乗っちゃって動けないのかい。」
「いや、違‥‥‥ボクなんなの。」
「‥‥‥驚いた。綴理が自力で起きてるなんて!」
これまた呑気な休日の、長閑な朝の一幕である。綴理はよれよれな寝間着もハタかず、ふらふらと立ちあがった。百合亜がノックをする前に彼女が目を開けているのは珍しいけれど、その姿や寝ぼけ面が、依然可愛らしいとみえて、朝早くから春空の音楽家、雲雀の美しい声がつくつくと聴こえてくる。戸棚には――確か名前は「ぺきんだっく」だったか、ニワトリの人形が大家振った佇まいであたしたちを見詰めていた。
さて、処は名に負う金沢一番の活気沸き立つ近江町市場である。美味いさかな、それはなんと言っても、少数の例外は別として北陸魚である。さかなによっては、東北、山陰、も勿論九州北部に同列するものである。舞鶴あたりから漸時東方に向かい、富山湾に入るに及んでは、誰しも成る程と合点せざるを得ないまでに、段違いの美味さをもつことは夙に天下の等しく認めるところで、どんな美食家もこの点、一言半句なく北陸魚の前に頭を下げずにはいられない。近江町の魚河岸における生簀には、その偉容、実に横綱玉錦といった風な面構えをもって、種々の海産物が悠然たる落着きを見せている。カニが特に目がつくけれど、きょうは天日干しのカレイが異彩を放っていて、美味さ加減は大きさで四百匁くらいが上乗。刺身ならばふつう行われる黒鯛の洗いよりは少々厚目につくり、水洗いしたものを直ちに舌上に運べば、旬でなくともまさに晩春切っての天下第一の美肴として、誇るに足るものである。水底に佇むこのカレイなどはなかなか大きく成長し、一貫目以上のものも決してめずらしくないが、味の上では問題にならない。然し例外の逸品にかかってしまえば、またどうしようもないもので、晩秋に於ける若狭近海もののピカ一、カレイの洗いづくりの前には、加賀のそれなどはとても及ぶものではない。味音痴のあたしはめったに天下一品などと言おうとするものではないけれど、以前大賀美家の会食で出たこればかりは、どうしても天下一品と叫ばざるを得ないのである。
「‥‥‥右がのどぐろ。左はのどしろ。」
ぼんやりとした諧音であった。そこで耳慣れた旋律ということが、少女の呟く言葉を音楽にまで高め、一つの奔放な太陽が惜しげもなく少女のうえに耀きをそそぎかけ、そして銀天街のけたたましい、奥行の深い眺めが、絶えず緋色の姿の箔となり、背景となっていた。のどぐろは年中旨いけれど、学生の財布事情ではなかなか食指が進むものではない。百合亜は、これが四ヶ月前であったなら、目に溢れるような絶望を湛えて、格子の外から姉を呼んで縋ったことであろう。少女はふとそれを考えて微笑を感じたが、また人知れぬ成長の歓びを考えていたのであった。
「どしたん綴理?とろろ昆布みたいな顔だ。」
「‥‥‥ゆり。ボクね、おでん食べてたんだ。」
「そっか。なにが一番美味しかった?」
少女は唸る儘、小首を傾げる。ぼんやりした眼つきをして、黙ってしまう。
「‥‥‥あれ、もしかしてあまり聞かれたくないことだった?」
「ごめんね。よくわかんないね。」
と綴理はすぱりと句を切った。筍を輪切りにすると、こんな風になる。張りのある眉に風を起して、これぎりでたくさんだと締切った口元に猶籠もる何物かがちょっと閃めいてすぐ消えた。友は相槌を打つ。
「大丈夫、聞いてるよ。ゆっくりでいいから。」
「うん。‥‥‥また、立ってるだけでいいって、言われたんだ。」
綴理が遠くで大人たちと談笑している沙知の姿を見据えるのを、百合亜も視線を追いかける。
「成る程ね‥‥‥。まったく、沙知さんも意地悪だ。後輩たちの指導が難しい、って言っておきながらこれなんだから。」
「‥‥‥さちは、間違ってないと、思う。まだわかんないのは、ボクの方だ‥‥‥。」
「そっかそっか。それじゃあ、一緒にゆっくり考えよう。」
二人はアーケードを離れ、ビルの隙間から青空をぼんやりと眺める。青年たちはいつでも本気に議論をしない。お互いに相手の神経へふれまいふれまいと最大限度の注意をしつつ、おのれの神經をも大切に庇っている。無駄な侮りを受けたくないし、友に心配をさせたくはないのである。而も一度傷つけば、相手を嘲るかおのれが絶望するか、きっとそこまで思い詰める。だから、争いをイヤがるのだ。彼女等は、よい加減なごまかしの言葉を数多く知っている。否という一言をさえ、十色くらいにはなんなく使い分けて見せるだろう。だいたいは議論をはじめる先から、もう妥協の瞳を交しているのだ。そしてお終いに笑って握手しながら、腹の裡でお互いがともにともにこう呟く。ああ、相手はイヤな気持ちをしていないだろうか?綴理は眼を伏せて、腹の辺りで両手を揉み合わせた。その指先は少しだけ冷えている。
「‥‥‥やれることを全部やることを、努力と呼ぶらしいよ。朝起きれないし、忘れないようにしようとしたものを忘れるボクは、努力ができない。困ってた。でもね、中学生のとき。努力ができないっていうと、すごく怒られた。天才はいいよね、って。天才は、悪口なんだって思ってた。」
「綴理‥‥‥。」
百合亜は綴理に向き直って、微かに憂鬱を浮かべる顔を見詰めた。俊秀な人の仕業を見ると、時には努力なくして出来た如く見ゆる場合もあるが、それは皮相の観察であって、馬に乗ってても雪の日は寒く、車に乗っても荒れたる駅路では難儀をする。如何に大才美麗の偶像であっても、矢張り必ず安逸好適の状態のみをもって終始する事は出来るものではない。況や千里の駿馬は自らにして駑馬よりは多くを行き、大才美麗の偶像は常人よりは人世の旅行を多くして、常人の到達し得ざるところに到達せんとするもの故に、その遭遇する各種の不快、不安、障礙蹉跌は、したがって多くなるのであるから、その努力が常人を越えて居るのは言うまでもないのだ。文明の恩人の伝記を繙き見るに、誰か努力の痕を留めない者があろうか。殊に各種の発明者、若くは新説の唱道者、夢見る少女の類は、皆この努力に因ってその一瞬の耀きを築き上げて居ると言わねばなるまい。
「――夕霧の晴るるけしきもまだ見ぬにいぶせさそふる宵の雨かな。」
まめ人好みの少女は古の歌を吟する。東洋流の伝記や歴史で見ると、英才頓悟、もしくは生れながらに智勇兼ね備わって居たという者があって、俊秀な人は何事も容易に為し得たかの如く書いてあるが、それは寧ろ事実の真を得ないものだと言わねばなるまい。また、縦しんば英才の人が容易に或る事を為し得たとするも、その英才は何れから来たか?これは、その人の〈努力の堆積〉がその人の血液の中に宿って、而して漸くその人が英才たる事を得たのである。嗚呼、悩める少女と対して誰か謂う水心無しと、濃艶臨めば波色を変ずではないか!
「‥‥‥?ボクは綴理。夕霧綴理だよ。」
「ごめんごめん、よく知ってるよ。あたしの大切な友だちだ。」
「うん。ボクも好き。」
「‥‥‥ありがとう。」
平然と答える親友に百合亜は些か驚ろいて、彼女の熱っぽい瞳を見つめ返した。天才という言葉は、動もすると努力に因らずして得たる智識才能を指すが如く解釈されているのが世俗の常になっている。が、それは皮相の見たるを免れないかも知れぬ。所謂天才なるものは、その系統上に於ける先人の努力の堆積が然らしめた結果と見るのが至当であろう。綴理の才は衆人皆認めるところだろうが、それが同時に彼女を苛ませることになろうとは!美しい斑紋を持ち、若しくは稀有なる業績を成した万年青が生ずると数奇者は非常なる価値を認めるが、然しその万年青なるものを熟熟研究して見ると、決して偶然に生じたものではなく、矢張その系統の中にその高貴なる所以の原因を有っていた事を発見する。草木にして然り、況や人間の稀有なる尊いものが忽然として生れる筈は無いのである。
「お~い!綴理ちゃ~ん!百合亜ちゃ~ん!」
「れいかさん!」「れいかさん。」
二人は声を揃えて、大路の向こうから手を振る女性を認めた。その声のする方には、お下げ髪を垂らした妙齢のお姉さん――れいかさんが手を挙げて駆けて来た。雌鳥のように鼻息を荒くした彼女は、あたしたちの傍へ来るとにっこり笑った。その笑い方は少し沙知さんに似ているが、彼女のようにあどけない感じはない――〈大人の女性〉といった感じだ。
「みんなのお披露目ライブ観たよ!ほんっとうに凄かった!」
この年上のお姉さんは頭を上げ、口もとに笑みを浮かべ、一種の輝きを顔に漂わせ、ゆったりとした額で、揚々たる目をしていた。
「私、少し泣いちゃった。知ってる子たちがあんなに大きな舞台に立って‥‥‥。すごいよ、スクールアイドルクラブ!なんだか、いっぱいエネルギーをもらっちゃった!」
「‥‥‥!」
虚ろも知らぬ天空から春光降り敷く暖かな日である。鉄銀の雁木に覆われた市場は左右に七曲れる小路が沢山あり、それらの小路と小路の間には魚屋の油臭き硝子窓や寿司屋の看板等が黙って並んでいる。道行く人は黙ってはいない。彼らの黒臭いところは、幾らも西洋文明の衣服を翻す古町の中でさえも、矢張り北陸特有のものかも知れぬが、その黒い頭々の中から少時突出した二人の少女は、恰も一輪の白百合の花に対って立ち騒ぐ蟻のようにも思われるのである。――おおい、と野太い諧調で店主が声を上げている。
「それじゃ、またあとでねー!きょうのお手伝いもほんとうにありがとうね~!」
れいかさん目早くそれに気づくと、大急ぎで向きを変えて、もと来た方へ走り去ってしまった。
「――いやはや、沙知さんほどではないけれど。猫みたいに元気な人だね、れいかさんは。」
「うん。湯葉みたいだった。」
颯爽と去っていくお姉さんの姿を、百合亜と綴理は小さく手を振りながら見送った。再び取り残された二人の蒼白い顏には弱い西日がぽっと明るく射していて、夕靄がもやもや烟り始めて少女の身体の周りを包み、なんだか可笑しな、狐狸の匂いでもするような光景であった。綴理は黙ってまじまじとこの光景を経験しながら、釘づけにされたように突っ立っていた。
「それにしても、よかったね。ファンができたじゃん。『スクールアイドル・夕霧綴理』の、ね。」
「‥‥‥コメントでも見たよ。みんな『エネルギーをもらった』とか『勇気をもらった』って、言ってくれて。ステージで応援してもらったのは、こっちなのに。」
「その気持ち、あたしもよくわかる。みんなの練習している姿もそうだし、配信とかステージを観て、キラキラしてるのがすっごく眩しくて、あたしも頑張らなきゃって、そう思うんだ。」
百合亜が白い歯を見せてにっとすると、綴理が、あ、と小さく叫んで、みるみる豊かな頬を寒緋桃みたいにした。あたしは親友の無垢さに秘められた真っ直ぐな優しさに癒されて心を開けっ広げながら、少しどぎまぎして、わるかったかな?と思わず口を滑らせたら、彼女は一瞬はっと表情を変えて妙にまじめな眼つきであたしの顏を見詰めたかと思うと、くるっとあたしに背を向け黒のグローブで顏を隠すようにして市場へ駈けこんで、すぐに戻って来たものだ。なんのことはない、あやつり人形の所作でも見ているような心地がした。
「ゆり。ボクね、『すごいこと』したいんだ。」
文学作品の中で普通に最も叙述困難なのは、二人もしくは数人の対坐した情景である。その間の会話のやりとりや心理の交錯を、平板にも陥らず説明にも堕せずに書き現わすことは容易でない。綴理は顔を上気させたまま言の葉を浮かべた。
「成る程ね‥‥‥。蓮ノ空でユニット活動を創り上げること、学校の魅力を伝える為の挑戦、成功に向けて頑張ること、応援してくれるお客さんと楽しむ、とか。綴理自身が認める『スクールアイドル』になる為の条件、ってわけさね。」
あらゆる方面で偉大な仕事をした人は自信の強い人である。それは板に立つ人間でも同様である。然し千慮の一失は免れず、その人の仕事や学説が九十九まで正鵠を得ていて残る一つが誤っているような場合に、その一つの誤りを自認する事は案外速やかでない。一方、無批判的な群小は九十九パーセントの偉大に撃たれて一パーセントの誤りをも一緒に呑み込んでしまうのが通例である。謂わばドン・キホーテの如く、その理想に対する献身精神の大なる危害はここにあって、綴理が沈思面に自身の脆弱さを顕わにしたとき、道化の少女は一種不思議な錯覚に捕らえられてしまった。望郷の錯覚と、それを言ってみようか。――他人に対してずけずけと独自の見解を堂々と広げてみせる百合亜自身をそこに見出したからだ、という解釈がついて自ら納得するまで、暫くの間、彼女は困惑を覚えた。
「うん。‥‥‥たぶん、これって、おんなじだ。ボクたちみんなの、頑張った過程と成果が、特別。ボクたちの夢見る気持ちが、繋がった人たちに響いていくんだ。」
「そう、だね。応援してくれた人たちから、エネルギーをもらうばっかりだけじゃない。夢は、想いは、巡っている。あたしはそう、思ってる。」
――どの口が語るのか?あたしは既に知っているはずだ、他人の為だと信じていても、結局おのれのためにやるのが人間だ、と。慎もうと思いながら、依然〈道化〉として必要以上にズケズケと踏み込んでいるのではないか?そんな不安は残る。然し親友の熱い瞳に見据えられた百合亜の饒舌は猶も止まらない。
「ああ、そうだ、きっとそうなんだよ。豆腐っていう字と納豆っていう字が逆さまみたいなものなんだ。だって、スクールアイドルって――」
「うん、すごいんだ!」
アハハ、と、互いに顔を見合わせて笑った。可笑しいので笑ったのか、あまり楽しいので笑ったのか、どちらでもないのか、自分でもよくわからなかった。けれどもそれは、単に感情叙述の便法として使われた傀儡では決してなく、現実そのものと同一の地位にまで高まっていることは確かであった。
「よし、ボクも頑張るよ‥‥‥!やすいよやすいよ。やす……すや?何度も言ってるとよくわかんなくなってくるね。ゆり、やすいって、やすいって意味?」
「あはは、あたしも分かんなくなってきた‥‥‥。」
市場に戻った綴理と百合亜は、語尾をぶらぶらさせながら脈絡のない店番を再開する。二人が日頃交わしている会話は、矢張その殆どが他者には理解の及ばない感性的な印象に聞こえ、互いに本音を詮索することなく話それ自体のノリと勢いを楽しんでいた。この事実が妙に艶めいたのか、百合亜はなにかこの関係性がとても愛らしく見えてきて、今度は趣向を変えてみようと思い至った。腰の後ろに手を組んだ儘スルスルと、蟹の横匍いのように友の隣へ二歩分だけ滑っていった。
「ねぇ、綴理。前に君は言ったよね。」
「うん?」
放蕩少女は活気を取り戻した友の声に耳を傾けながら、嬉しげで、そして献身的な顔つきをして語り始める。
「あたしのこと、百合亜のことをもっと知りたい、って。あたしだってそうさ、綴理のことをもっと知りたい。でもね?それと同じくらい、怖いんだ。知りたいことが山のようにあって、知らないことが海のようにあるから、いつも不安で居た堪れない。傷つくのなんて、もうイヤだし、もしかしたら、夢なんて見ないほうが幸せかも知れない。羽搏こうと足掻いたところで、さ。」
「‥‥‥。」
百合亜のような夢想家は往々にして極度の煩悶に陥るもので、そこから絶望的な決意が生じてくる。生の苦しみは堪え難いものである。死はいっそうたやすい。この時彼女は、自分の果たすべき二つの義務が残ってることを考えた。一つは、少女百合亜に蓮太郎少年の死を知らせ、最後の別れを告げること。一つは、思春期を殺した少年の約束を、まさに来らんと切迫せる運命の輪廻から救い出し、成就させること。
「でもね、綴理。みんなが手を差し伸べてくれるのは、綴理の色があるからだ。最初に君が居て、沙知さんが居て、それにあたしも、みんなが居る。だから、大丈夫だ。」
晩春の街は長閑である。金沢の市場は賑やかである。二人は無事である。ふざけている。悩んでいる。その間に百合亜は綴理を少し知り、綴理は百合亜を少し知る。蚕は起きて桑を食む。これが世の中である。綴理に対して何処か強気な百合亜の口調は、謙遜ではない、正しく沙知の真似事であった。何故彼女の真似事をするのか?何よりもの理由は、彼女の与えてくれた使命とペルソナとが自分の思想感情を表現するに最も適当する場合があるからだ。然しそれだけならもっと道化ぶっても良さそうなものだが、それではマリオネットみたいな感じがして甚だ面白くない。年頃の少女らしくない。で、どうせ〈大賀美百合亜〉を演じることに重きを置くなら、一人の少女として青春を謳歌してみたいという要求が生じ、どうせ藻掻きながら生きるのなら、おのれを救ってくれた彼女の為にも、あの人を真似ることが近道だということになるのである。元来、妹は姉の背中を見て育つものだから。
「そう、だね。ボクは今、努力のやり方を教えてもらえる人がいる。困ってないよ。」
「ならよかった。それじゃあ、あたしにも教えてね。もっと、君のことを。」
「うん‥‥‥!」
はじめから終りまで、全てみな何でもない会話であった。先ず第一に、為すべき事があらば、青年は為して仕舞うのである。思うべき事があらば、青年は思って仕舞うのである。それも思うべくも無い事であるならば、放下して仕舞うのである。そして明鏡の上に落書だの塵埃だのの痕を止め無いようにしたその上で、いで為そうという事や、いで思おうという事に打ち語らうのである。さもすれば鏡浄ければ影おのずから鮮やかなるの道理で、対するところのものがおのづから明らかに映るのである。気は散り乱れずに、全気で事物に対する事が出来る訳である。そういうやよに心掛けて、何事によらず一事一物をハキハキと片付けて仕舞うのである。最初は非常に煩わしく思うものであるが、馴れれば然程でも無いもので、たとえば朝練に合わせて起きる、自分で衣服を更える、夜具を畳む、雨戸を繰り明ける、劇場に燈火を点す、空白の世界を彩る、青春を煌めかせる、というように、着々と一事一事を拙な事の無いように取り行って行く、三百六十五日無限の成長を遂げる少女等にとっては造作も無いことだ。
市場はいつも以上に騒々しかったけれど、二人の会話は互いの裡にまた不思議なくらいに莫迦にはっきりと反響して、直ぐの耳の傍らで蓄音機が鳴っている通りに響くのであった。あたしは、まさかその余韻がこんなに明瞭におのれの心に残っているとも思われなかった。
「――いやー、ごめんね!全然構ってあげられなくてさ。なかなか大人たちのおしゃべりが尽きなくてねぃ。」
市場から出て来た沙知は口元に両手を当て、目をくばせる。
「ううん、大丈夫。こっちはこっちでなんとかできたから。お疲れ様です、沙知部長!」
「おつかれ、ぶちょ~。」
同じ背丈の少女二人は互いに頼み、何か期するところがあるような面持で先輩へと手を振っていた。その時にはもういつのまにか大きな月が出て、いまやと金沢の街中を照らして居り、空気が澄んでいるわけではないのに光が如何にも美しく、悪どく忙しくせっぱつまった現世でも、矢張身に沁みるところがあった。
「ほーん。なんか仲良さそうじゃん。良いことでもあった?」
「いや、まあ、ね。‥‥‥ちょっとー、からかわんといてよ姉さん!」
先輩は後輩の眼を覗き込む。一学年の差をあまり感じさせない距離感、小柄な年長の先輩の風体の端倪すべからざるをそこに見出したとでも言うのか、或いは既に、日々是好日飽き足りず、またその飽くなき好奇心と探求心もって、彼女の内なる宇宙の深淵にへと潜行しつつあったのかも知れない。綴理はそんな先輩の視線に気付くと、ふと得意そうな表情をつくり、如何にも無邪気な言葉を継いだ。その時、半歩寄った綴理の銀髪がふわりとあたしの頭に触れ、あの柔い感触が胸に蘇ってきた。
「いえい。ボクとゆりは『めっちゃ仲のいい親友』だからね。」
「あっはっは!そうかいそうかい!」
「ちょ、綴理まで‥‥‥。まったく。」
沙知さんだけがすぐに状況に馴染んでいて、路傍の小石を蹴る彼女の様子もとても優雅で愛らしいとあたしは思った。古き寺、古き社、神の森、仏の丘を掩うて、急ぐ事を解せぬ金沢の日は漸く暮れゆく。倦怠い夕べである。消えて行く全てのものの上に、星ばかり取り残されて、それすらも文明の灯には判然とは映らぬはずだ。瞬くも嬾き空の中にどろんと溶けて行こうとする。少女はこの眠れる奥から動き出す。
「~~~♪それにしても、みんな、喜んでくれたねい。」
「うん。いっぱい褒めてもらえた。」
帰路の雑話、恋のさざめき。いずれ劣らぬ捕え難いものである。恋のさざめきは雲であり、帰路の雑話は月光である。その間も大気に吸われていく大和撫子の鼻歌の声。‥‥‥百合亜は、相手の歌を止めさせぬために、口を挟むのも、大仰に動くのも控えていた。
「そうだねぇ。なんでだろうねえ。不思議だねえ。でもさ。綴理も、そういう経験あったりしなかった?」
「うん。あったよ。よく、ボーっとしてるって言われるけど、良いこともある。ゆりがいたよ。さちもいた。アーケードと窓と雨の向こう側。光も音も遮られて、気が付かない時もあるとは思うけど。きょうは、あったんだ。」
「‥‥‥。」
あたしは二人の会話に耳を澄ませ、半歩後ろを選んでいた。先ずは綴理を眺めた。彼女は沈痛で落ち着いていた。次に沙知さんを眺めた。彼女は鼻歌を唄って平生の通りで嬉々としていた。そういう静平から偽りが出ようはずはなかった。氷の如き冷ややかさは誠実なものである。その静寂の如き冷然さの裡には真実の情熱が感ぜられた。
「さちに言われたその時は、そのまま言われた通りにしただけだったけど……。いまはちょっと、違うんだ。少しだけ、その意味が分かったから。だからボクは、みんなと――」
「おっと、そこまでだよ綴理。その先は、ステージの上から伝えてほしいな。キミの歌詞〈ことば〉でね。」
「ステージで‥‥‥!うん、わかった!」
ここで三人は足を止める。青春の臍を固む寓居への帰路、犀川沿いに遙かの空を眺めると、北陸有数の文化的景観の窓から太陽が巍然として雲際に聳え千古不磨の姿を現わしているのを看て大いに感じたものだ。残光に焼かれながら、今や人間界の煩悩の雲が正に我が心の誠実を遮ろうとして居るけれども、あたしは如何に不成功の不運に遇うとも真実を守る我が心を変えじ、と決心した嬉しさを感じたことに、また、嬉しく思った。
「さち、ゆり。この後温泉いきたいな。」
綴理は子供っぽい視線を熱くしていた。
「うわーーー、めっちゃ魅力的な提案!‥‥‥あたしも大きいお風呂行きたいけど、また、今度ね。ごめんよ。」
「‥‥‥そっか、残念。うん、また今度。ボク、家のお風呂に友だちと一緒に入るのが夢だから。」
「あはは、もっと壮大な夢になってる!」
沙知さんは大袈裟に笑ってみせた。一人の一生には百の世界がある。ある時は土の世界に入り、ある時は風の世界に動く。またある時は血の世界に腥き雨を浴びる。一人の世界を方寸に纏たる団子と、他の清濁を混じたる団子と、層々相連なって千人に千個の実世界を活現する。個々の世界は個々の中心を因果の交叉点に据えて分相応の円周を右に画し左に画す。歓喜の中心より描き去る円は飛ぶが如くに速やかに、親愛の中心より振り来きたる円周は焰の痕を空裏に焼く。あるものは道義の糸を引いて動き、あるものは奸譎の圜を仄めかして回る。縦横に、前後に、上下四方に、乱れ飛ぶ世界と世界が喰い違うとき、秦越の客ここに舟を同じくする。沙知と綴理と百合亜は、三春行楽の興尽きぬまま寮に帰る。少女には〈また今度〉がある。夕陽を浴びて三人並んで手を繋ぎ、眠れる過去を振り起して西に行く。三個の別世界は十八時発の鉄道で端なくも漸く交わった。
「よぉし!それなら今日は、三人でうどん食べて帰ろっか!」
「「いえーーい!!」」
それから百合亜がにし茶屋街の静かな片道を歩いた時、そこに瞳の大きい淋しげな一人の女の子が、さも満足したやうに、「うちとおんなじだわね。」と視線が重なったのである。そして睫毛をしばたたきながら、仰ぐようにして再び三人の少女を見上げたのであった。母に連れられた子供は、遠い夕雲と母親の足どりに気をくばりながらさも楽しそうに歩いて、百合亜と行き違う。子供はふと嬉しくなって母親を見た。母親は笑って子供を振り返った。子供は漸く安心したように改めて、百合亜に対して好奇の瞳を輝かしたのであった。いつまでたっても子供の好奇心は尽きそうにない。――手を繋いで歩く女子高生三人組は聊か不格好であっただろうか?そして不意に斜に歩き出して、土塀の側で、輪を書いて大声に唄っている一塊に溶けていく。銀杏返しに結った若くませた子守がそれを追いかける。するとそこに目のくるりとした別な小さな子が、不意に声高く叫んだのである。「いっしょにあそぼーよ。」子供等は皆囲むようにして見守った。遠くなっていく幼子の影を見返って、あたしはこみ上げて来る微笑を押さえることが出来なかった。ああ、あの子は、何気ない友人との一時を懐かしむ日が来るのであろうか。またそれが幸運の風のように起った親心の賜物であったのだろうか。また自分のように、静かに襲って来た運命の仕業であったかも知れない。
「あはははっ!」
あたしは友と手を繋ぎながら、大声で笑った。その夕陽に一点だけ雪色の風船がゆらめいた。それから徐々に赤色の点が広がって来たと思うと、寺町の梵鐘の音を背景にして燃えるような飴色の世界の姿が見えた。人肌のぬくもりは、お天道様よりもあたたかかった。
4
自然は美しい。山下林間の静寂地に心の塵を洗い、水辺緑蔭の幽閑境に養神の快を貪るという様な事は、誰しも好ましく思う処である。然るに今日の女学生は、美しい自然の中に生活しながら、それを十分に享楽することが出来ない。山紫水明の勝地は傷ましくも悉く都会のブルジョワ、金持達の蹂躙する処となってしまって、万人の共楽を許さない。資産ある者は、文明の利益をも美しい自然をも悉く独占して、近い将来その製造と耕作とに従事する少年少女は、却ってその文明の為に、自然の為に、また資産家の為に、徒らに青春の切り売りをして居る。ここに於いて、蓮ノ空も一箇の商人となった。右手に楽器を弾き左手に算盤を弾く商人となった。殊にその精神に於いて、全然商人と化してしまった。如何に能く才を耕し、如何に善き収穫を得べきかということが問題ではなくて、唯だ如何に多くの利益を得ようか、ということのみが重視される時代になってしまった。青年の心は既に土地そのものから離れたのである。土地への愛着を喪って、只管金儲を夢見る老人が支配する女学院で、夏虫の火中に飛び込む如く、少女らが黄金火の漲る都会を眼がけて走り寄るのは当然である。
「――まったく、今月の理事会もひどいもんでしたね。老人たちは議論というものを知らない。」
と、百合亜は、諦念を込めた口調で、ぽつんと答えた。
「そうだねぃ。でもまあ、今回も上々だったと思うよ?あんまり気張ることはないさ。」
「だけど、このままじゃ来月もあんな曖昧な感じで終わりそうで‥‥‥」
と、矢張真面目な顔をして言う。
「まあまあ、そんなに焦んないで。前にも話したけどね?学院の現状を変えようっていうあたしたちの意気込みもね、学生二人が真正面から対決するだけじゃ、到底勝てる見込みはないんだぜ?」
沙知さんはどこか達観した冷静な分析を放ってみせ、
「百合亜。組織ってのは、パンドラの匣。それを無理矢理こじ開けるつもりなら、そのあとどうなるかの覚悟もしておかないとねぃ。」
「覚悟、ですか‥‥‥。」
覚悟。彼女は自嘲じみた評価を下すのだが、その口調は穏やかで、どこか優雅だったけれど、同じくらい鋭く的確で容赦がない。沙知さんは後ろで軽く手を組みながら歩き、滔々と語り続ける。
「だからこそね?百合亜はもちろん、スクールアイドルのみんなには期待を寄せてるんだぜ。」
「‥‥‥そう、ですね。」
知己の小坊主が偉そうに言っていた。一度商売した者は辛抱の置き処が違う故に、当人が如何ほど殊勝の覚悟があっても、素人のようには行かぬ、と。頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人間は教育者にはなれても道化師にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうして唯だ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて百合亜は〈女の子〉になれるのである。されど、それだけでは完璧な道化師にはなれない事も勿論である。矢張観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもない。つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。あたしと百合亜の目に映じた世界は一つなのだから。いや、むしろ、この現実こそが世界なのだから。世界がそうであるならば、己の目に映る光景に拘泥する意味は無い。少女は敢えて、鼻にかかるくらいお道化て言葉を継いだ。
「へへぇー。ご期待に沿えるよう引き続き頑張らせていただきます。」
「うむ。いまは、それでよろしい。」
部室棟から離れているためか、二人の行方にはまるで学生世界から隔離されたかのような淡い静寂が広がっている。だが時折吹く風によって揺れる草木の音がどこか心地良い。温い春を躰に流しながら、百合亜は沙知に向き直って、少し畏まった風に言葉を紡ぐ。
「‥‥‥でも、ほんとうに、無理はしないでね。あたしたちに気遣いさせないように、実はひとりで仕事を抱えているの、知ってますから。もっと、あたしたちに頼ってくださいね?理事会出席、三ユニット兼任、それに、部長業務。どれも掛け持ちするのは大変だって、わかってます。沙知さんだって、先輩一年生なんだから。」
「おおっ?キミも言うようになったじゃないか~!結構結構!」
沙知さんは手を胸に当てて笑った。長い睫毛が彼女の美しい瞼を覆うのに見惚れそうになるけれど、そうして子気味良い音に頭を小突かれた気がしたのも一瞬、あたしの頭はその感傷を覚えるより先に口が動いていた、――なんとかして、彼女の役に立ちたい。
「ねぇ沙知さん、部長業務も教えてよ!部長業務って何するんだろ~って最近覗いてたんだけどさ、練習スケジュールの管理、他の部活や学校とのやり取りとか、書類仕事とかあるでしょ?そういうのって、マネージャーのあたしでもできること、あると思うからさ。」
百合亜の声は少し心許なく、如何にも子供っぽく聞えて滑稽だったが、彼女は彼女で大真面目だった。沙知さんははっとしたかのように振り返ると、思わず溜息が漏れる程の美しさを身に纏いながら、あたしの眼をじっと視詰めた。
「あいよ、百合亜の心遣いはありがたく受け取っておくよ。ありがとね、心配してくれて。」
その優しい音階が百合亜の耳朶を震えさせる。
「でもね、あたしだって、へらへらしてるように見えるかもだけど、いっつも結構悩んでいるだぜ!背筋を伸ばして、後輩の前ではせめて恰好つけようって、前を向いているんだ。あたしが先輩からしてもらったことを、今度はちゃんと後輩にお返しできるように。同じステージに立つ後輩たちに、憧れだって、そう言ってもらえるように。」
「ああ成る程、だから毎朝牛乳を飲んで‥‥‥」
「ちっちゃいゆーな!せっかく先輩らしいこと言ったのに~!」
「あはは!ちっちゃいは言ってない!」
あたしは姉さんと二人、皐月の緑を踏みしめて歩いた。射を学ぶには的が無くてはならぬ、舟を遣るにも的が無くてはならぬ。路を取るにも的が無くてはならぬ。人の学を修め身を治むるにもまた的が無くてはならぬ。偶像には信者が要る。道化を演じるには使命が要る。したがって、青年の心意気、即ち人々個々の世に立ち功を成す所以の基礎を興じるところの女学院生活にも、また的が無くてはならぬ。或いはその心意気を受くる者に在っても、また的とするところが無くてはならぬ。的無くして射を学べば、射の芸は空しきものになる。的無くして舟を行れば、舟は漂蕩してその達するところを知らざることとなってしまう。的無くして路を取れば、日暮れて技芸を得ず、身餓えて食を得ざることとなる。人にして的とするもの無ければ、結するところ、あたしみたいな凡夫なんぞは造糞機たるに止まらんのみ、である。
夕暮れの放課後は僅かに昏くなっていて、雲が蕭々と流れていた。風が出たのである。沙知さんの鼻唄が鼓膜を擽り、頬に感じるものは残陽の暖い光であった。百合亜は親愛すべき少女の後姿を追いかけながら、矢張と思った、教育にして的無く、教育を受くるものにして的とすべきところを知らざれば、少女百合亜よ、畢竟蚊虻の鼓翼に異ならず、雪案螢燈の苦学も、孟母三遷の幸運も、平らげて心を労わし身を疲らすに過ぎざるものとなるであろう。然らば即ちあたしの蓮ノ空での的とすべきは、何樣であろうか?またその道化を享受するものの的として、眼を着け心を注ぐべきは、何樣であるべきであろうか? ゆめゆめ、忘るるべからず。
…
……
「こほっ、こほっ‥‥‥。煙たいなあ。」
百合亜は眼を上げて周囲を見廻した。高い天井の白茶けた板の、二つ所まで節穴の歴然と見える上、雨漏りの染みを侵して、ここかしこと蜘蛛の囲いを欺く煤がかたまって黒く釣りを懸けている。左から四本目の桟の中ほどを、杉箸が一本横に貫いて、長い方の端が、思うほど下に曲がっているのは、倉庫に改装する前の利用者が通す縄に胸を冷やす氷嚢でもぶら下げたものだろう。次の間とを立て切る十尺程の戸棚には、用途もわからぬ備品やら分厚い資料やらがところ狭しと並べられて幅は茶献上ほどもない。裏には箔を置いてイギリスめいた葵の幾何模様を規則正しく数十個並べていて、如何にも高級感を彩る縁の黒塗がなおさら卑しい。その所在は教室棟の奥の奥、二た間を貫く椽に沿うて勝手に折れ曲ると云う名のみで、丈に足らぬ檜が春に用なき、去年の葉を硬く尖らして、瘠せこけて立つ後ろは、重厚なる淡緑の天蓋に喧騒が遮られる。
「ここが大倉庫。蓮ノ空の伝統が全部詰まってるからねぃ。」
風雨年月に蝕まれ見る影もなく荒れている、――という具合ではないが、鎖ざしてはないものの普段から使われているかさえ疑わしい。それとも日が暮れると、白い首でも出てちとは異人が寄ろうも知れぬ。極意だの免許皆伝などというのは茶とか活花か忍術とか剣術の話かと思っていたら、関孝和の算術などでも斎戒沐浴して血判を捺し自分の子供と二人の弟子以外には伝えないなどとやっているようなもんだ。尤も西洋でも昔は最高の数理を秘伝視して門外不出の例はあるそうだが、日本は特別で、なんでも極意書ときて次に斎戒沐浴、曰く言い難しとくる。蓋し女学生の伝統も歴史も、ここまで極まれば唯だの頽廃かも知れぬ。
「前にも少し話したよね?伝統曲のこと。」
戸棚に覆われた狭い通路を無理やり進むようにしながら、沙知は独り言のように呟く。
「蓮ノ空には、ユニットの名前や曲、それに衣装。さまざまなものが、伝統として受け継がれているんだ。今もね、蓮ノ空というだけで応援してくれる人が多いのは、そのためだ。そしてこれが――その歴史の積み重ねってわけさ。」
降らんとして降り損ねた空の奥から幽な春の光りが、淡き雲に遮られながら何条にも照り渡る。長閑さを抑えつけたる頭の上は、晴るるようで晴れず何となく欝陶しい。見渡す限りの部屋という部屋、戸棚という戸棚には、さまざまな部活動のトロフィーや賞状、そして雑多な備品類が所狭しと並んでいる。無論スクールアイドルクラブの一角も在って、そこには紙片にかいたノートがいっぱい這入っていた。誰かがなにか、大層熱心に書いて、そして大層熱心に読まれたものなのだろう。百合亜は表紙にかかった埃を払う。
「――そうか、『スクールアイドルノート』か。いやはや、我ながら流石に安直過ぎる命名だったかな。むべなるかな。」
彼女は溜息を吐きながら言った。
「んーー?百合亜、なんか見つけたー?」
「ああ沙知さん、これです。『スクールアイドルノート』。‥‥‥僭越ながら、おのれもマネージャーとして個人的に書いておりました。タイトルは同じく『スクールアイドルノート』。どちらかというと、みんなの練習の記録とか、最適な練習メニューとか考えるのに使ってました。」
百合亜はもじもじしながら懐をまさぐると、誰かを待っていたような恰好で立って、えへへ、と親しそうに笑いながら、尋ねた。
「おお、それはたいしたもんだ!」
「ううん。」
そして彼女が否定とも肯定ともとれる感嘆符を漏らすと、沙知も、ああ、と相槌を打ちながら、同じくノートを取り出した。おやおやとあたしは思わないないでは居られなかった。そのまま姉さんはなんとなく恥ずかしげに、そのキラキラ光る眼を上げた。
「あたしもね、先輩からノートの三冊を受け継いで、四月から書き始めたんだところなんだ。‥‥‥慈に、綴理に、梢。みんなまだ、スクールアイドルになったばかりなんだ。いまの時期は、やればやるほど得るものがある。ほんの数日でも、見違えるほどにね。」
「少女三日会わざれば刮目してみよ、ですな。ほんとうに、‥‥‥」
ここで百合亜は、まるで声を断ち切られでもしたように、急に口を噤んだ。それから数頁古びた紙を捲り、「でも」と、彼女は少時無言のあとに詞を続けた。
「でも、これはほんとうにすごい。味噌甕の蓋にしか使えない、あたしのノートなんかとは比較にならない。蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブで生きた、少女たちすべての青春が籠ってる。」
灰色の目を熱く潤わせながら少女が重ねて頁を捲るのを、姉はまじまじと見ていた。
「詩人だねぃ。でも、いい表現。‥‥‥あたしたちスクールアイドルだって、このノートとおんなじ。あたしは、そう思うんだ。時代が変わっても、人が変わってもね。蓮ノ空で過ごすみんなの気持ちは、きっと一緒。あたしが先輩から教わって、先輩が、そのまた先輩から教わって……。」
「泣いたり笑ったりを繰り返して、みんな、それぞれの青春を駆け抜けてきた。そして沙知さんが、あたしたちに教えてくれる。だからこそ少女達は舞台に挑む。それが、芸学部の、そして我らがスクールアイドルクラブの魂!ってこと。‥‥‥ですよね?」
百合亜は沙知が以前用いた文句を借りていた。二人は相手の出方を窺う様に視線を重ねると、顔を見合せてアハハと笑った。なんといってもあたし達は、二人共に気恥ずかしいロマンチストを演じていたのである。とは謂えスクールアイドルの歴史に心を惹かれていることが、姉妹の大倉庫での滞在を長引かせている原因の一つであることは間違いなかった。
「いやァ、ほんとうに。蓮ノ空も、スクールアイドルクラブも。守っていかないとですねぇ。」
「ねー。」
成る程とあたしは思ったが、
「うわッ、衣装まであるじゃん。こんなぼろぼろな段ボールに詰め込んでおくにはもったいない。」
色とりどりのアイドルコスチュームまで押し込められて居るのには流石に心底驚いてしまった。定期的に片付けをしないと紛失してしまう衣装も多そうだ。一人の服飾愛好者として、これは見過ごせない。
「数十年前、芸学部がスクールアイドルクラブに名前を変えたばかりの頃の衣装は多くが失われたって、あたしも聞いたよ。こういう雑務的なことは、去年は先輩たちがこっそりとやってくれてたから。なるべく次の代に残せるように、あたしたちも頑張らないとねぃ。」
沙知さんが隣で屈みながら箱を覗き、あたしの述懐を見事に補足してくれた。
「ですなぁ。」
胸中山水という言葉がある。画人のために使われているが、青春を生きる少年少女にも実にこの胸中山水がある。いや、或る存在に対しては、胸中故郷と謂っていいほどな思慕さえ抱いていながら、容易に行かれないでいる所は多い。あたしのような一凡夫の想いなんかは、所詮は蚤の卵でも探すようにしてやっと見つかる斑点かも知れないけれど、斯くの如くスクールアイドルクラブの伝統は、あたしにとっても、遂に胸中山水だけに止まらず、この四か月の間一度は辿り着きたい——と、そこへの追究を宿題にしつづけていた胸中故郷の宝箱だった。この連綿たる記憶と我が使命とに齟齬が無いことの証明は、百合亜の気焔を紅く震わせるものだったから。
「――ねぇ、百合亜。こういう衣装の採寸って、どこまで測ればいいんだい?衣装作るんだったら、スリーサイズだけだと足りないよね?」
出し抜けに、そしてさりげない表情で沙知は沈黙を割った。
「そうですね‥‥‥バストやアンダーもいるでしょうし、肩幅に袖丈、腕、肘、手首の周り。あとはパンツ丈と、太もも、ふくらはぎ、足首の周り、ぐらいは測っておいた方が、作る側としては作りやすいかな。」
「ほーん、なるほどねぃ。それじゃあ百合亜、来月のFes×LIVE、――撫子祭用の衣装作ってくれる?いままでは既存の衣装の流用で調整できてたけど、そろそろ、こういう衣装にも手を付けたいんだよねぃ。」
「無論です、やらせてください。‥‥‥ん?」
百合亜はそれを合図のように、たちまち沈黙して、素早く、何ら毒気のない姉の双眸を見詰め直し、二の句を今や遅しと待ち構えた。
「‥‥‥それって、一から衣装を造り上げる、ってことですよね。みんな、めいめいの、身体のサイズにぴったりフィットするオーダー・メイドを。その、みんなの体格情報に、合わせて‥‥‥。」
辟易している蓮太郎を視界に入れつつ、沙知は続ける。
「うん、そうだよ。撫子祭は、蓮ノ空で年に三回ある大きな文化祭の一つだからねぃ。せっかくだし、新曲に合わせた新しい衣装で、スクールアイドルクラブの面目躍如たる舞台にしたいんだ。」
「‥‥‥ムリです。むり、です。」
と、百合亜は端的に言い放つ。姉はまあと言わぬばかりに語気を強める。
「えー?でも入部の日に宣言してたじゃん!衣装造りは得意分野だからあたしにやらせてください、って。」
「いや、あれは、」
喉に唾がつっかかる。百合亜は自然焦躁になり、自暴自棄な問答に陥らざるを得なかった。
「あれは、言葉の綾というか、その場の流れというか。音痴を披露させていただいた恥ずかしさもあったけれど、マネージャーとして、大賀美百合亜がスクールアイドルクラブに居る為には、ああやって宣言する他なかったというか、‥‥‥」
役に立たなければ、おのれがスクールアイドルクラブに居る意味が無い、――それ以上に、沙知さんの期待に応えられなければ、この学院に居る場所が無い。そんなことは解っていたが、血気のぼる少女はつい口が廻るのである。
「後生だから堪忍してくださいよ、姉さん。‥‥‥四月のFes×LIVEは伝統曲の流用だから、ちょっとの手直しで済んだけれど。いやでも、新しい衣装を造るのがイヤだって訳じゃあないんです。」
で、少し句が切れたところで百合亜が何か表明しようとすると、姉はすぐ後をつける。
「でも、衣装の手直し程度だったら、あたしたちだけでもできたかも知れないぜ?‥‥‥百合亜。あたしはね、キミにしかできないことを、この、スクールアイドルクラブでやってほしいんだ。」
と、姉は態と大きな声で聞いた。その手は喰わない。
「人間には、得手不得手がある。一歩一歩、できることから進めていく大切さを、あたしに説いたのは姉さんですよ。」
皮肉ってやった。ああ、我ながら少し成功すると偉人の素質でもあるように思うところが浅ましい。愚なるが如しと衆目が認めている蓮太郎少年からしてもこの通りだ。
――さて、スリーサイズ。個人情報。乙女の秘密。数字。数字は見たくない、――いや、唯だの数字として、一切の数学は計算即ち算術に還元されるとも考えられるならば、如何。或いは云うかも知れない。知識・認識が客観的存在の反映模写であるということが、仮に誤りではないにしても、それは何等知識の説明になるものではない。知識・認識がそういう意味で反映・模写であるということは、謂わば同語反覆に他ならないではないか、と。思うに、全くその通りである。客観的存在を模写するということは、単に、知識を有するということそのこと、認識するということそのこと、それ以外の何物を意味するのでもないのであるのだから!謂わば認識という言葉の意味は、実在を模写するということをおいて他にないのである。認識はどういう風にでも説明され得るだろう、それは主観による知的材料の構成の結果でもいいし、また唯だの所謂模写・反映の結果でもいい。だがいずれにしても、認識ということが模写ということなのだ。
一体模写・反映ということは、知識や認識を物理的な鏡の機能に譬えた言葉であろうが、鏡のどこに譬えたかと云えば、鏡が平らであって塵がなければ、左前になることは別として、モノをそのままに写すという、その真実さを語る点に譬えたのである。ここで真実や真理ということは、もっとも率直に評して、有りの儘ということだ。知識が真実であり真理であるためには、少なくともまず第一に、事物を有りの儘に掴まなくてはならぬ。真実とか真理とかいう常語が、哲学者のムツかしい術語はここでは別にするとして、一切これを要求しているのである。そこでこの「ありのまま」の真理を掴むということを、模写という譬喩を弄して表現したに他ならない。だからこそ、知識・認識と模写・反映とは、同義であり反覆なのである。
では、何故意識は自分とは明らかに別なものであるこの物を、反映・模写出来るのか、と問うかも知れない。それが出来るか出来ないかが、抑々カントの天才的な疑問だったではないか、と。何故物は有りの儘に掴まれ、単なる数字の羅列が情感を持ち得るのか?――それはこうである。まず、意識はそれが如何に自由で自律的で自覚的なものであるにしても、脳髄の所産であるという、一見平凡で無意味に見える事実を忘れてはならない。意識が脳髄の所産であるなどは、意識の問題にとってどうでもいいではないかと哲学者達は謂うなら、それならば少なくともこれを認めても差支えは無い筈だろう。なにせ我われは、青春を生きる少年少女なのだから!意識は脳髄という生理的物質の未知ではあるが、或る一定の状態乃至作用だと考える他に、あたしにとって現在歩きやすい小路は無い。これは生理学の真理を認める限り、哲学者と雖も想定しなければならぬテーゼである。若しこれを承認しないならば、意識の発生と成立とを哲学者はどこから説明するというのか!若しその説明が与え得られないとすれば、霊魂の不滅説をでも科学的なテーゼとして持ち出さない限り、あたしがいま与えたような説明が現在可能な唯一の説明であるはずだ。哲学者は、オトナは、同じく思春期を生きる我が姉に、何処にこの説明を斥ける権利があるのか?それとも、それが到底説明し得ないということでも説明しようとするのであろうか?だが、不可能を説明し得るのは数学に於いてしかあり得ない出来事だ。そう、少女百合亜にとって横並びの三つの数字を処理するということは、敢えて譬えるならば、五次以上の方程式の一般解決の不可能の如き、である。
――いや、まあ、問題はそんなところには置かれていないのだが。あたしは、腕を組んで困り顔をしている沙知さんをまじまじと視界に認めてしまった。――ええわかっていますとも、これはホレーショの哲学、そしてあたしにとっては、やるかやらないか、それが問題だ。百合亜は出処進退に窮していた。口をとがらして換気扇の音まで聴こえてくる頃に、何だか、文句の一つでも言いたくなって来た。
「いやいや姉さん、あたしはさぁ、前にも姉さんの部屋で相談したじゃないですか。あたしはねぇ、噓をついてまで、女の子に気に入られようとは思わないのです。そんなことしても、嬉しくもなんともない。夜九時のスーパーに陳列される二割引きのシールが貼ってないお惣菜くらい有難くない。寧ろ恥じている。あたしはねぇ、淑女たる紳士なんだ。」
そうやって放した鷹はまたそれかかる。すこしも油断がならん。
「ていうかみんなは兎も角、沙知さんはそんなに気にしなくてもいいでしょ。我ら家族なんだし。」
「はぁ!?そういう問題じゃないよ!あたしだって恥ずかしいんだからね!前言撤回、ぜんっぜんまぁっったく、女の子の気持ちってのがわかってないなぁ、キミは!だから『女の子になりきれてない』んだよ!」
「むうぅぅぅ!?」
姉妹それぞれの慟哭が無機質な倉庫に鳴り響く。耀き渡っていた西山もしだいに影が殖えてきて、大倉庫に差し込む残陽も一層薄くなっていく。この時刻に至って大賀美式の舌鋒が、ようやく鋭い、――それでいて無邪気に回転をはじめる。
「やーーーってーーーよーーー」
「いーーーやーーーだーーー」
実に妙な、そしてはじめての姉弟喧嘩であった。あたしは、ふと、世の中の人がみんなおのれのようにあっさりしていたら、この世の中も、もっと住みよくなるに違いないと思われた。――されば、である。この道より我を生かす、さすれば道なしこの道を歩く他なし。あたしは一本道で押し合うのをやめにして、ちょっと裏へ廻った。
「沈淪に至る路は濶く、その門は大いなり。これより入るもの多し。」
百合亜は唐突に聖句を引用した。このまま負かされてなるものかという気概であった。而して対する沙知は早速、
「命に至る路は窄く、その門は小さし。その路を得るもの少なり。」
と受けた。
「はっはっは!」
「あははは!」
「あたしなんて俗物ですよ。」
「命の為に何を食い何を飲まんと思い患っているんだい?」
「命は糧より勝ることを知りません。」
「空の鳥を見よ。稼ことなく穡ことをせず、倉に蓄うることなし。」
「この故に明日のことを思い患らう勿れ。」
「明日は明日のことを思い患え。」
「一日の苦労は一日にて足れり。」
と、二人は基督の言葉で語り合った。お互いに此方も知っているぞという見栄があった。
「信者でもないのによく知っているものです。」
「蓮ノ空はミッション系の女学校が由来だからね、一般教養さ。時に百合亜、キミはこの学校が気に入ったかい?」
沙知さんは話題を更えた。
「ええ、まあ。なんとかやっていけそうです。皆々様の御蔭で、空蝉の身の上にも好い草庵が手に入りまして……」
誇る事を知らぬ様に百合亜は言う。本当に好い家と心得ているなら情けないが、無論此処では皮肉である。ある人に奴鰻を奢ったら、御蔭様で始めて旨い鰻を食べましてと礼を言った。奢った人はそれより以来この人を軽蔑したそうである。
「それでは百合亜、質問です。〈礼節〉とはなんですか?」
すると姉は老成ぶった口調で語る。あの大人たちを真似ているのは明白だった。
「‥‥‥礼節とは、相手を尊敬する気持ち。相手に自分自身を見てもらいたいという、心構え。」
「よろしい、満点です。しからば〈マナー〉とはなんですか?」
「‥‥‥マナーとは、相手を気遣う気持ち。相手への親愛、自分自身の心の姿を映すもの。」
「よくできました。」
意地悪な姉だ。あたしをお人形さんとでも思っている。おっと、口が辷った。三ヶ月間の練習の成果が遺憾なく発揮されてしまうのが我ながら誇らしくも憎らしい。沙知さんは強い口調を保ったまま続ける。
「この二つが強固であればあるほど、人間同士は互いに深く理解し合うことができるんだ。隣人や同じ学校の仲間、ときには家族にすら礼節を欠いてしまうような人は、誰にも配慮できない。白山の奥地で、粟を食べることが礼儀だといわれば、出されたものは食べるべきで。ナイフとフォークを外から使うべき場所では、そう使うべき。踊ることが敬意なら、一緒に踊るべきで、笑顔で語らう人がいれば、あたしたちも笑顔で語らうべきで、含みをもたせるときは、含みをもたせて。素直に伝えるときは素直に伝えて。」
沙知さんは少しも笑わず、独り言のように呟くのである。あたしは芥子粒ほどの咽喉仏を突き出して本棚を見上げるしかできなかった。
「そうしないと、キミが〈女の子〉になることなんて、到底できない。仲良くなるためには、必要なもの。そして男と女が一緒に居たいのなら、猶更だ。‥‥‥違うかい?」
「‥‥‥。」
半歩近寄った琥珀色の眼光は妹を射る。清い艶やかな蓮華草は矢張野の面に咲き蔽てこそ美しい。谷間に咲ける白百合の花は、塵埃の都市に移し植べく、余りに勿体なくはないか?跫音稀なる山奥に春を歌う鶯の声を聞いて、誰が自然の歌の温かさを感じないで居られようか!然るに世の多くの人びとが、こんなにも美しい野をも山をも棄てて、宛ら飛んで火に入る夏の虫の如く、喧騒、雑踏、我慾、争乱の都会に走り来たるのは何故であろうか、――それは、夢を諦めてしまったからに違いない。少女は腸から振り絞った声を無機質なる大倉庫に響かせる。金魚の糞は、また、言いくるめられてしまった。こういうときの沙知さんは正しいことしか言わないから、どうも敵わない。
「‥‥‥ああ、そうですか!やってやればいいんでしょ!やってやりますよあたしは!」
彼女はこのとき、いともアッサリと、やります、と答えたものだ。やりませんと言い切れば、確かにそんなものでもある。固より青年たる者が、異性の流行に無関心で居られる筈のものではない。その関心は全て斯くの如く動揺の種類であるが、この動揺の一つについて語るには青年の全ての関心に関連して語らなければならない性質のもので、一つだけ切り離してしまうと歪なものになり易い。百合亜があまりにアッサリと、動揺は受けませんでした、と言い切ったようなものだから、端から見れば苦笑の体であったろうが、これは質問そのものが無理だ。した、しなかった、したい、したくない、百合亜はその何れを述べる権利があり、義務もあり、その何れも、そう言い切れば、そういうようなものだった。くそっ、嗚呼春風よ、吹きだしてくれ、あたしは鉢の子一つにでも身心を托して出かけよう、気を張って飄々として歩かなければ、ほんとうの〈大賀美百合亜〉ではないのだ!
少女の操られる動悸とは対照的に、姉の方は「うんうん」と何気なく答えて笑うだけだった。心を判然と外に露わさぬうちは罪にはならん。取り返しのつく謎は、法庭の証拠としては薄弱である。何気なく、挨拶している二人は、互いに何気のあった事を黙許しながら、何気なく安心し始めていた。天下は太平である。何人も後指を指す事は出来ぬ。出来れば向うが悪い。大倉庫はあくまでも太平である。
「‥‥‥まったく、ほんとうに意地悪な姉だ。沙知さんは、女神さまにでもなるつもりですか。」
百合亜は眉間を割られた気持ちで尋ねた。すると、姉さんは、お日様みたいに笑って、
「わるくないねぃ。」
と言った。
5
牀前、月光を看る。しんとした寓居に差し込む白色一線、地面に降りた霜ではないかと思う。
「――さて、と。今日はこんなもんかな。そろそろ洗濯にでも行こう。」
一日の〈努力〉を無事に締めくくらんとする百合亜は、静かに春夜の余韻に浸っていた。鉛筆を置いて考える。こんな抽象的な興趣を詞にしようとするのが、そもそもの間違である。人間にそう変わりはないから、多くの青年の裡にもきっと自分と同じ感興に触れたものがあって、この感興を何らの手段かで永久化せんと試みたに相違ない。試みたとすればその手段は何だろう。忽ち音楽の二字がぴかりと眼に映った。成る程音楽はかかる時、かかる必要に逼られて生まれた自然の声であろう。楽は聴くべきもの、習うべきものであると、改めて気がついたが、不器用なおのれには不幸にして、その辺の消息はまるで不案内である。
この現実性を帯びた可能性というものだって、思えば唯だの形式的可能性や確率でしかないのかも知れぬ。或いはこれは物理的形式を備えた数学的可能性だとすれば、感情とは異なって、実現の可能性を濃厚に含んだ可能性、即ち可能性と現実性との総合なるものは、ヘーゲルを俟つまでもなく、取りも直さず必然性というものの生きた範疇に他ならないだろう。必然性は他のものに増して弁証法的な特色を鮮やかにする範疇で、したがって、機械的な必然性の観念は最も貧弱な必然性の観念なのである。これは西田に任せぬとも哲学史上そうなると謂って良いだろう。社会の歴史的法則のもつ必然性は、こうした少なくとも可能性を媒介として結果したもののことを指すのであるが、この必然性の認識が――決して機械的必然性の認識がではなく、即ち自由というものの実際的な観念なのである。百合亜がぐっと両手を伸ばしていると、机上に置かれたスマートフォンが鰾膠も無く振動した。
「(スマホの画面)起きてる?」
「起きてるよ」
「いまいく」
すぐに既読がついた。画面にはここ一ヵ月の間に交わされてきた、実になんでもない会話が並んでいて、彼女の心もまた、夢の中のように、取りとめのない、奇怪な空想で充たされていた。そしてそれらの空想の緯は、逃水の如く締りのないものであった。
「‥‥‥まったく、いま何時だと思ってるんだか。いつものことだけど、気儘な幼馴染だ。」
一期一会、という茶道由来の言葉があるのを御存知だろうか。百合亜が彼女とこうして出会う時間は、二度と巡っては来ない、たった一度きりのものかも知れない。だからこそ、出会った一瞬を大切に思い、いま出来る最高のおもてなしをする。外見もそのうちの一つ、身嗜みと置き換えても構わない。一度しか会わない人もいるし、一瞬のすれ違いしかない人もいる。そして彼女は、あたしにとって掛け替えのない幼馴染。その一瞬のために全力を尽くすのが、蓮ノ空のお嬢様だ。百合亜は慈の訪問に備え、急ぎウィッグを被り軽く化粧仕立を整えるのであった。
「(ノックの音)一日警察署長です☆」
「それ、この前も聞いたネタ。いらっしゃい。」
「ん。とりあえず坐って坐って。」
「それ、あたしの台詞だからね?」
桃色に花柄が可愛らしい寝間着姿で這入ってきた慈は、百合亜の顔を一瞥すると坐らぬうちに話しかけた。
「うーん。相変わらず無機質な部屋。」
「そうかな?めぐちゃんがトクベツなだけだと思うけど。ん、これ今朝焼いたクッキー。口に合えばいいんだけど。」
改めて八畳の居間を見渡すと、付箋の貼られた教科書や古くはないのにぼろぼろなノート、マネージャー活動のためのさまざまな分野の書籍ためのがずらりと並べられた本棚、そして勉強のためのちゃぶ台しか置かれておらず、およそ女子高生のものとは思えないほど地味でさっぱりとした空間が形作られている。百合亜が普段の勉強でまとめているノートや日々持ち歩いているスクールバッグ等までもが徹底してシンプルであることを追求されてるようで、意識的に整えられた〈女らしさ〉とは対照的に、幼馴染の自分自身に対する無関心さを、慈はそれらの日用品から敏感に窺っていたのだった。
「ん、あんがと。それにしてもさ。百合亜も随分と変わったよね。」
「うむり、御蔭様でね。御覧の通り、すっぱり女の子の様相だ。」
「ううん、それだけじゃなくてね。」
少女は藤紫の射光を逸らしながら続ける。
「今日だってそう。クラスの中でもすっごくお喋りだったし。」
「そうかな?ぜんぜん自覚ねぇわ。」
と、幼馴染がその日の話の中にあたしの問題を持ち出した。クッキーを頬張る彼女を、楽風の安物の茶入れ越しに眺める。この器は貧しい「下手」と蔑まれる品物に過ぎない。奢る風情もなく、華やかな化粧もない。作る者も何を作るか、どうして出来るか、詳しくは知らないのだ。信徒が名号を口癖に何度も唱えるように、幼馴染を渾名で何度も呼ぶように、造り手は何度も何度も同じ轆轤の上で同じ形を廻しているのだ。そうして同じ模様を描き、同じ釉掛けを繰返している。美が何であるか、窯藝とは何か?どうして彼にそんなことを知る智慧があろう。だが凡てを知らずとも、彼の手は速やかに動いている。名号は既に人の声ではなく神仏の声だといわれているが、陶工の手も既に彼の手ではなく、自然の手だと謂い得るであろう。彼が美を工夫せずとも、運命が美を守ってくれる。彼は何も打ち忘れているのだ。無心なる帰依から信仰が出てくるように、おのずから器には美が湧いてくるのだ。少女は厭かずその器を眺め眺める。
あたしは同じようなことを、いま器に反射して見えている一人の少女についても謂うことが出来るはず。大賀美百合亜は、確かに此処に在る。自分自身でも、何故信じ、何を信ずるかをさえ、ほんとうは充分に言い現せない。然しその素朴な言葉と努力の中に、驚くべき彼女の体験が閃いているはずだ。手にはこれとて持物はない。だが信仰の真髄だけは握り得ているのだ。百合亜が捕えずとも神仏が彼女に握らせている。それ故に彼女には動かない力がある。正しく少女百合亜は器である。原料が失われたら、むしろその工房は閉じられねばならぬ。材料に無理がある時、器は自然の咎めを受けるだろう。また手近くその地から材料を得ることなくば、どうして多くを産み、廉きを得、健やかなものを作ることが出来ようか。一つの器の背後には、特殊な気温や地質やまたは物質が秘められてある。郷土的薫り、個人的彩り、このことこそは工芸に幾多の種を加え、青春に魔術的な煌めきを与え、味わいを添える、天然に従順なるものは、天然の愛を享ける。この必然性を欠く時、器に力は失せ美は褪せる。所詮凡人の非凡事はせめて己を凡人と悟ることだ。そこに聊かながら安心と立命がある。だからこそ雑器に見られる豊かな質は、神仏からの贈物である。その美を見る時、人間は自然、自からを見るのである。
これのみではない、凡ての形も、模様も、原料に招かれるのだというべきであろう。その間にはいつも必然が結ばれてくる。よき化粧とは身に施すものではなく、無論然るべき気の張りは要求されるが、畢竟身に従うものであろう。原料をただの物資とのみ思ってはならぬ。そこには動かざる運命の意志の現れがある。その意志は、如何なる形を如何なる模様を有つべきかを青年に命じる。誰もこの自然の意志に叛いて、よき器を作ることは出来ぬ。よき工人は自然の欲する以外のことを欲せぬであろう。ああ、このことはよき教えではないか!神の子たるを味わう時、信の焔は赫く燃えるであろう。同じように自然の子となる時、美に彼女は彩られるであろう。詮ずるに運命に保障せられての美しさである。母のその懐に帰れば帰るほど、美はいよいよ温められる。あたしはこの教えのよき場合を雑器の中に、そして逆さまに映る少女に見出さないわけにゆかぬ。
「たぶんそれは、きっと教え手が良いからだね。あたしだって頑張れば、いつかはこういう風になるんだぜ。」
百合亜は眼をクリクリさせながら、指で顔の前に円を描いてみせた。
「えー、ちょっとちょっとー。嬉しいこと言ってくれるじゃん♪」
「でもさ。『可愛い』にいつも全力なめぐちゃんが、あたしみたいなズボラな子に付き合ってくれるの、結構大変でしょ。迷惑かけてごめんね。」
「そんなこと‥‥‥」
「あたしのために無理してやってくれてるんでしょ?ありがとね。」
「‥‥‥っ。ん。」
その動作はあまりにも自然すぎて、まるで彼女の意識にすら上らないような動きだった。とは謂え、誰が、というものではない。季節の変わり目には、もの皆が新しく見えて、恋しく思われ、つい、好きだ好きだ、なんて騒ぎ出す始末になるのだ。なあに、大体はそんなに好いてもいないものだ。すべて、この春という季節のせいなのだ。このごろはあたしも、まるでもう、おっちょこちょいの、それこそピイチクピイチクやかましくおしゃべりする雲雀みたいになってしまったようだが、然し、もはやそれに対する自己嫌悪や、臍を噛みたいほどの烈しい悔恨も感じない。はじめは、その嫌悪感の消滅を不思議な事だと思っていたが、なあに、ちっとも不思議じゃない。あたしは、まったく違う〈JK〉になってしまった筈ではなかったか。あたしは、あたらしい人間になっていたのだ。自己嫌悪や、悔恨を感じないのは、いまでは少女百合亜にとって大きな喜びである。良い事だと思っている。あたしには、いま、あたらしい少女としての爽やかな自負があるのだ。そうしてあたしは、この学院に於いて一ヶ月間、何事も思わず、素朴に生きて遊ぶ資格を尊いお方からいただいているのだ。囀ずる雲雀。流れる清水。幼馴染とのぐうタッチは何時になく心地良い。透明に、唯だ軽快に生きて在れ!とは謂え彼女からは日々有難いご指導を賜っていたし、
「あたしの言った通り!否応なしだ、これで力がつくんだぜ。」
このように先見の明を誇る以上、相応勉強しなければならなかったのも事実だ。
「ま、これくらいはね。私を迎える前にしっかりウィッグも被って、多少なりとも身嗜みを整えたのは褒めてあげる。ようやく『下手っぴ』からは脱したかな~。」
「あはは、ようやくかい。これは手厳しい。」
「ほーら、頑張れ頑張れ。『めぐちゃん先生のカワイイ講座』は、まだまだ初級編なんだから☆」
と、慈が同じように指をぐるぐるさせながらまた可愛げな相槌を打った。いじらしいのと見縊るのはある場合において一致する。慈は確かに真面目に礼を言った百合亜を見縊った。然し対面する百合亜もその裡にいじらしいところがあるとは気がつかなかった。紫が祟ったからである。祟があると眼玉が三角になる。顔貌は依然としてらっきょうである。
「でもさ、寮の中でもいつもジャージ姿っていうのは、なんかぱっとしないよね。百合亜はなんでオシャレしないの?」
「あたしは欲しくないのですもん。蓮ノ空では制服と運動服があれば十分さね。」
「理由は簡単明瞭、ね。んー、そうだなー。」
同じ質問と同じ返事はまた繰返される。水車を踏めば廻るばかりである。いつまで踏んでも踏み切れるものではない。
「『めぐちゃん先生のカワイイ講座』ブティック編、だよっ!今度街に出て、百合亜に似合う服もコスメも、ばっちり揃えちゃうんだから☆」
「あはは、思った通り!やっぱりめぐちゃんはそう来ると思った!灰色の顔をして君の前にでも立っていろとでも言うのかい。」
齢いくつの頃かは定かではないが、たしか、そんなふうの馬鹿げた事を言って、彼女を噴き出させたような記憶がある。長居は無用、疑惑ありと、転んだときについた泥も払わずに素早く引上げたのだが、その時の蓮太郎の「おれがこの箱にいろんなおもちゃを入れて置いたんだ」という出鱈目の放言が、のちに到って、意外のひっかかりを生じたのだ。
「それじゃあ、今週の土曜日に行くからね!時間空けておいてよ!」
「ほいほーい。楽しみにしてますよ~~。」
「ほんとに~~~???」
「あはははっ!」
そんなことを話している間に十時から十一時になった。十一時から十一時半になった。十一時半から十二時になった。風のせいであろうか、或いは、貧しい灯のせいであろうか、その夜はあたしたち幼馴染が、密かな協力関係を歓びながら記憶の火を中心にして集まり、久し振りで打ち解けた話を交した。
…
……
「――よし、おっけー。お化粧も、大丈夫。さっすが私、きょうも完璧。」
漲った朝の日光が、高い玻璃戸から側の窓硝子から耀くに清く静寂の浴場のなかに渡って、湯壺は碧色に深く濃く湖のように平らかである。少女は我が肉体の美しさと、懐かしさと、あまりに広やかな陽光から何物かの迫ってくる焦燥を感じていた。一度肌を脱いで綺麗に胸と脊を摩擦した彼女は、ミニスカートが印象的な私服姿に身を飾っていく。豊満な曲線を描く少女の皮膚には濃かな一種の光沢がある。香油を塗り込んだあとをよく拭き取った様に、肩を揺かしたり、腕を上げたりする度に、局所の脂肪が薄く漲って見える。少女はそれにも満足である。次にグリーンブラウンの髪を分けた。油を塗けないでも面白い程自由になって綺麗だ。唇も髪同様に細くかつ初々しく、口の上を品よく整えている。慈はそのふっくらした頬を両手で両三度撫でながら、鏡の前に我が顔を映していた。まるで茶屋町の生娘が御白粉を付ける時の手付と一般であった。実際少女は必要があれば、御白粉さえ付けかねぬ程に、肉体と可愛さに一大の誇を置く人である。彼女の最も嫌うのはむしろ観音の様な骨格と相好で、鏡に向う度に、あんな顔に生れなくって、まあ良かったと思う位である。その代わり、他人から御洒落と謂われるのは当たり前であって、何の羞恥も苦痛も感じ得ない。そう、藤島慈は唯だ、可愛く在るべきなのである。それ程に彼女は旧時代の日本を乗り超えている。
「‥‥‥よし。」
放心と無邪気とは余裕を示す。余裕は芸術において、詞において、もしくは舞台において、必須の条件である。今代芸術の一大弊竇は、所謂文明の潮流が、徒に芸術の士を駆って、拘々として随処に齷齪足らしむるにある。裸体画はその好例であろう。城下町に芸妓と謂うものがある。色を売りて、人に媚びるを商売にしている。彼らは嫖客に対する時、我が容姿の如何に相手の瞳子に映ずるかを顧慮するのほか、何らの表情をも発揮し得ぬ。年々に見る女子高生向け月刊誌の目録はこの芸妓に似たる裸体美人をもって充満している。彼女らは一秒時も、我が裸体なるを忘るる能たわざるのみならず、全身の筋肉をむずつかして、我が裸体なるを観者に示さんと力めている。その身を飾る少女は覚悟を秘めて友の部屋に赴く。
…
……
「はーい、今行く~。」
ドアを開けた刹那、めぐちゃんが無表情に見詰めてきた。感情が籠らない無機質な眼差しで、いつものほわほわした雰囲気はどこにも感じられない。ああ、あたしは知っている、これは、幼馴染が手強い時だ。
「‥‥‥ねぇちょっと、百合亜!なんなのその恰好!?」
「エ、なにって‥‥‥ふつうに制服だけど。それともお化粧がダメだった?」
幼馴染が話しかけた第一の言葉はこれである。語調から察すると、唯だの冗談とも見えない。あたしは救いを求めるような声で、おずおず尋ねた。何故きょうに限ってダメ出しを受けてしまうのか、何故きょうの彼女は普段以上にとっても可愛く見えてしまうのか、まだいろいろ聞いてみたい事はあっても、喉佛に閊えていて容易に口へは出て来ない。
「そうじゃない!心持ちの問題だよ!市場に行くわけでもボランティアするわけでもないのに、いつも通りの制服姿って、あり得ないからね!ほら、めぐちゃんが可愛く決めてるんだから、あんたもちゃんと気合い入れてきなさい!」
まさかの理論が飛び出してきた。平静を装うつもりではあったが、あたしの語り口は自然訥々としてしまう。
「エー、制服でもいいじゃんか。もう一回着替えるの、めんどいぜ。」
「じーーーーーーー。」
藤紫が身体に近づいていくにつれ、香水の良い香りが百合亜の鼻腔に柔らかく漂った。視線が、痛い、痛いぜめぐちゃん‥‥‥!
「ほら、さっさと部屋入れて!持ってる私服全部見せなさい!!」
「強引だなぁ‥‥‥!」
慈の真剣な眼差しは百合亜を捉えて放さず、彼女は、上目遣いで無言の訴えを続ける幼馴染の言葉に耳を傾けざるを得なかった。こんな経緯で、あたしはとうとうそもそもの振り出しに戻って、休日のお出掛けに相応しい身嗜みチェックから、きょうの講義に参加することとなってしまった。
「――というわけで!百合亜にもっとオシャレをさせるべく、私たちは街に繰り出すのだった!」
「お出かけ楽しそうじゃんね、めぐちゃん。」
バスと鉄道を乗り継いで、一週間ぶりに金沢の市街に出る。扇状地が裳のように拡がり張っている台地下まで来ると、忙しなく国道を往来する自動車の音が、雑踏の中に間延びのした調子を伝えて来る。犀川を渡る時、渦を巻かした水が、橋の足に彫刻された今にも脱け落ちそうな裸女の美しい腰の下を流れて行くように見えた。 本多町を過ぎて香林坊の停車所で降りると、いたる所に「金沢カレー」の旗が出ていて、そこに人が黒山のようにたかっているのも見た。先週の近江町市場なんかでは、あたしたちは漸く群衆の中から抜け出して、やっと食堂の片隅に椅子を見出してそこで空腹を充たしたものだ。弁当、寿司、天丼、鰻、しるこ、海鮮丼、うどんなどの食堂もあれば、ランチ、ビーフステーキ、ポークカツレツ、蠣フライ、メンチボール、カツ丼などの洋食屋もある。観光地という性格もあるだろうが、あの界隈になると、洋服に靴が跋扈しているほどには洋食が跋扈していない。矢張日本人には祖先伝来の米の方が適しているらしい。と、なんとなく感じるものであるが、ここ「金沢カレー」に至っては別箇の印象を抱かざるを得ない。あたしはこのB級グルメに腹をこしらえたことも数え切れず、濃厚でドロッとしたルゥにソースのかかったカツが乗っていて、付け合わせのキャベツに満遍なくマヨネーズを混ぜ込むのが実に旨いのである。中学生の頃独りで金沢の街を歩いたことがあって、どこであったかを忘れたが――否、どこということを十分気にも留めなかったが――ある洋館の這入口に「金沢カレー一杯七百円」とある札を見て、おれは大旱に雲霓を得た心持ちでそこにはいった。そこはレトロという昭和の趣、わるく謂えば懐古趣味の末路といった外観には見えたものの、内装はかなり立派な食堂であった。給仕人もちゃんと白い洋服を着ていた。そして暖かそうな白い飯に瑪瑙のような光りのある汁をかけたものが、あたしの前に運ばれた。当時の蓮太郎少年にとって、食事とは独りで作って独りで済ませるものであった。昨夜の実家ではふつうの洋風カレーを作って、独りで食った。味音痴のせいで食事に拘りの無い彼の感性では、そのカレーもふつうに美味しいものであった。然しその洋館で金沢カレーを食べたとき、ましてカレーというような料理が御馳走に感じるなんて、予期しなかったことであったのだ。そんな想い出もあって、蓮ノ空の食堂て提供される金沢カレーの再現度が高いことを、あたしはこっそりと誇りに思っているのである。
巍然として聳えるビル群に抱かれながら、二人の少女は雑踏の中に紛れ込んでいく。
「なんかさ、変な気分。」
「なにがー?」
知りませんという出鼻のわるい返辞だけれど、その響きは如何にも陽気であった。
「めぐちゃんと一緒にお出かけしたことは前にもあったけど、まさか、自分がこんな格好で隣を歩くことになるなんて。思ってもみなかったわ。」
「ふーん。それじゃあ恥ずかしいんだ。」
「いいや、他人から見られるのは慣れたよ。そもそも、あたしなんて誰からも見られてないさ。」
と、れいの金魚の眼のようなまんまるい眼を、少し強く見張って、一大事のように低い声で言うのだが、恰も話題を逸らすかのように、
「まあ、それよりも、だ。めぐちゃんは相変わらずオシャレだね。むかしよりもっと可愛くなったんじゃないかい?」
「ふふん、当然☆スクールアイドルとして、これからどんどんカッコ可愛くなっていくめぐちゃんを、見逃さないでね♡」
「ああ、勿論だぜ!これからも一番近くの特等席で観てるぜ!!」
藤島慈と二人で居る時に限って大賀美百合亜は称賛に饒舌となる。めぐちゃんも、きょうのお出かけでは、流石に少しは楽しんでくれているようで、いつになくおしゃべりだ。ああ、よかった。百合亜はお決まりの指ハートを独り占めにしながら、改まって彼女の方へと向く。
「めぐちゃん、いつもありがとう。いっぱい力貰ってるよ。形はどうあれ、こうやってまた二人で何かできるのって、やっぱり嬉しいな。蓮ノ空に来て、ほんとによかった。」
「百合亜‥‥‥。まったく、そういうとこは変わんないね。」
これはこの時一度のことではなかった。この前の自室でもそうだったし、元気いっぱいの笑顔を振りまく自称道化師は、いつも彼女に対してはそういう物言いをする。いや、そればかりではない、まことしやかに囁くような声で、藤紫なる双眸をいっそう晴れやかに染め上げるのである。
「‥‥‥大好きな幼馴染が、勇気を出して前に進もうとしてるのを、応援できない幼馴染がいますかっての。」
と、少女は急所を突かれたので、笑って紛らす外なかった。人流絶えぬ尾山神社に、松の影が落ちる、水を湛えた神苑は、空の光りに応うるが如く、応えざるが如く、有耶無耶のうちに微かなる耀きを放つ。祀られるのは加賀藩祖とその正室である。水滴は明滅する。
「んー?」
「なんでもない。そういうとこだよ!」
「えぇ?どゆこと~??」
天に声して我が耳もとに囁くように、口のうちだけで静かに読み了った慈は、神門をくぐって石段を歩き出した。和漢洋折衷の異色なる建築はいつ見ても網膜に色濃い印象を残す。百合亜がそれを追いかけるように小走りをい刻んでいると、往来にはアハハウフフと談笑する同年代女子の二人組が歩いていて、なんと、彼女らはぎゅっと相手の手を握り、いきなり抱きつく。ひゅッ、なんて神経質な。涙をためたりなんかもしてさ。あれが、女子の距離感というものか。――ほんとうの友達がほしい、確かにそういう声が相当以前から百合亜の裡に聞えた。ほんとうの、という形容詞が付くことは、多くの友達が刹那的であった証左ともなる。だが問題は、ほんとの友達とは如何なるものを指すかに在る。若しあれが解の一だとすれば、少女百合亜に於いては相当の難題であろう。
「ふーーーん。」
石段を下っためぐちゃんはあたしの方へ向き直ると、急に思い出したように、
「はい。」
と、手を差し出したのである。
「はい、とは?」
百合亜、疑問をぶつける。
「手。私たちも繋ご。」
とくる!
「‥‥‥なにゆえに?」
あたしは、びっくりした。なんてまあ、珍しい事を言うのだろう。少し、ドキッとした。〈女の子〉として彼女の隣を歩くことが、まさかこんな事態を招くなんて!きょうはどうも、あの笑い方には含みがあると思っていたが、さては、ほんものであったか、などと考えているうちに、そんな動揺を見逃すまいとすかさず畳み掛けられる。
「ふーーん。綴理とは手繋いだくせに、私とは繋げないっていうの?それに、むかしは蓮太郎とはたくさん手繋いでたじゃん。」
「いや、まあ、それはそうだけど‥‥‥。てかなんでもう知ってんだよ。女子の情報網こえーよ。」
百合亜は口惜しそうに鼻を掻いた。鼻は謂わずして謂う者以上に謂い、泣かずして泣く者以上に泣き、笑わずして笑う者以上に笑い、怒らずして怒る者以上に怒る好個の千両役者である。同時に鼻は、他の動的表現係がいくら騒いでいる場合でも、その騒ぎが本物でない限り一切これに関係しない。却ってその騒ぎの裡面の真相を、不変不動の中に発表して行くという英雄的真面目さを持っている。眼が表す悲しみや怒り、口が示す喜びや悲しみ、そんな通り一遍、一目瞭然の表現は、鼻には無いと断じてもいい位だ。鼻の表現はもっと深刻で、もっと真率で、もっとデリケート。それだけに有意識的に相手に認められ難いし、それだけに無意識的に相手に深い感銘を与える。眼や口がその人間の感情や意志を現わして相手の感情を刺激するものならば、鼻はその魂を表して相手の魂に感じさせるものかも知れぬ。世に謂う以心伝心という事は、鼻の存在に依ってその可能性を裏書きされると評しても決して過言ではあるまい。
「それとも、なに?百合亜は私と手を繋ぐのがイヤなの?」
「イヤじゃないけど‥‥‥。まあ、めぐちゃんがいいならいいか。」
何年振りだろうか、中学生に上がった時くらいから、妙に気恥ずかしくなって自然と手を繋がないようになっていった記憶だ。譬え親友でも、幼馴染でも、男同士だったらば手など繋ぐことはあるまいて。矢張百合亜にとってまだまだ女子の考えというものは難しい。感情的快楽と身体的安心感の混同、甚だしき。右手と左手が、軽く、探るようにして、触れる。
「うむ。それでよろしい。」
「満足そうな顔だなぁ、我が幼馴染は‥‥‥!」
我が世界と我が世界と喰い違うとき腹を切る事がある。自滅する事がある。我が世界と他人の世界と喰い違うとき二つながら崩れる事がある。破かけて飛ぶ事がある。或いは発矢と熱を曳いて無極のうちに物別れとなる事がある。凄まじき喰い違い方が生涯に一度起るならば、あたしは幕引く舞台に立つ事なくしておのずからなる悲劇の主人公かも知れぬ。天より賜わる性格はこの時始めて第一義において躍動する。女学院の一か月で喰い違った世界は、もしかしたら然程に猛烈なものではなかったのかも知れぬ。然し唯だ逢うて唯だ別れる袖だけの縁ならば、星深き春の夜を、名さえ寂びたる神域に、さして喰い違うほどの必要もあるまい。小説は自然を彫琢する。自然その物は小説にはならぬ。幼き想い出の一幕から、華奢で柔らかな掌の感覚が蘇って来るけれど、百合亜の紅き動悸も懸念していた程は長続きしなかった。
目の前で鉄塊が、ごおっ、と黒煙をあげながら通り過ぎる。百合亜は愈々現実世界へ引きずり出された。自動車の見える所を現実世界と云う。この金沢に於いてはバスほど二十一世紀の文明を代表するものはあるまい。何十という人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へと待ってそうして、同様に内燃機関の恩沢に浴さねばならぬ。加賀の人間はバスへ乗ると言う。あたしは積み込まれると言う。かの人はバスで行くと言う。あたしは運搬されると言う。自動車ほど移動の個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。一人前何坪何合かの地面を与えて、女学生には八畳の空間を供して、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよというのが現今の文明である。今日の学園である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇すのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由を擅にしたものが、この鉄柵外にも自由を擅にしたくなるのは自然の勢いである。憐れむべき文明の青年は日夜にこの鉄柵に噛みついて咆哮している。文明は個人に自由を与えて虎のごとく猛からしめたる後、これを檻穽の内に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。この平和は真の平和ではない。動物園の虎が見物人を睨めて、寝転んでいると同様な平和である。檻の鉄棒が一本でも抜けたら、きっと世はめちゃめちゃになる。第二の維新はこの時に起るのであろう。個人の革命は今すでに日に起りつつある。北欧の偉人イブセンはこの革命の起るべき状態について具にその例証を吾人に与えた。あたしはバスの猛烈に、見界なく、悉人を貨物同様に心得て走る様を見るたびに、そして乗るたびに、客車のうちに閉じ籠られたる個人と、個人の個性に寸毫の注意をだに払わざるこの鉄車とを比較して、――あぶない、あぶない。気をつけねばあぶないと思う。現代の文明はこのあぶないで鼻を衝かれるくらい充満している。御先真闇に盲動する自動車はあぶない標本の一つである。
香林坊の中も雑踏しておった。これもまたあぶない。小売商人は親切と暖簾を売れと聞くけれど、あの堂々たるビルディングに納まって、最新科学の先端に立っているデパートとは、趣味人に於いては如何なる個人商店にも相匹敵することは出来ない異様な空間である。人間は終日美しい痙攣のために身悶えし、何処という宛てもなく唯だ足にまかせて歩み、疲労し、到る処の街角に休息し、呆然として、車道、人道入り乱れた、埃りで組み立てられた十字路にまるで獣らしい憎しみをもって凝視することになるのだから。デパートは何百何千のショップ・ガールを抱えて御客に応対せしむるに、その各々が満足な商品の知識を持たせることが出来ない、ということも在る。唯だ定価通りにお客に売るに過ぎないのである。然しブティック巡りが趣味だという我が幼馴染は、そんな一般店員には歯牙にかけぬほどの知識量でもって滔々たる清流を見た眼で語るは語る。けれどもあたしは、さっぱり要領を得なかった。
「ウーム。服もコスメも、沙知さんから貰った物しか使ったことねぇから全然わかんねぇわ。なぁ、いつもみたいにコーディネートしてよ、めぐちゃん大明神!」
百合亜は態とらしく両手を合わせてみる。
「誰かの決めた『らしさ』は百合亜らしさじゃないよ。せっかくのショッピングなんだから、百合亜が欲しいものを選ばないと☆」
「うわー、めっちゃ『アイデンティティ』みたいなこと言うじゃん。‥‥‥くっ、スクールアイドルの歌詞〈ことば〉には逆らえねぇぜ‥‥‥!」
夢は再び躍る。躍るなと抑えたるまま、春風を込めて揺られながらに、暗きうちを駛ける。少女は髪から手を放す。やがて眼を眠る。人も犬も草も木も判然と映らぬ古き世界には、ゆっくりと銀の幕が下りる。小さき胸に躍りつつ、転りつつ、抑えられつつ走る世界は、二人の少女を照らして火の如く明かである。百合亜はこの明かなる世界を抱いて、そして抱えるほど買い込んだ戦利品の詰め込まれた紙袋をしっかりと握り締めて、ふと足を止めた。
「おっ、れいのフルーツなんとかじゃん!食べていこうぜ。」
「フルーツパフェ、ね。こっちはアラモードだって!美味しそ~♡」
めぐちゃんの趣味のもう一つはカフェ巡りであると聞いた。あたしは何でも自炊してしまう性質だからこういったスイーツ店の趣向はてんでわからぬけれど、それが所謂〈JK好み〉の流行り物であること位は解していた。百合亜はそういう場所に興味がないことを隠しながら、半地下の階段を降りていく印象的な幼馴染は、器用にスカートを押さえながら艶めく髪を棚引かせていた。その日のカフェでの吟行。
「ねぇ、百合亜。アラモードってなに?」
「あれだよ、あれ。」
「どれよ。」
「なんかさ、すごいモードなんだよ。」
「ふーん。」
百合亜はきょろきょろしながら知識水準の低い回答をした。向こうの席を占める若いアベックは、シロップとクリームがこれでもかとかけられた甘ったるそうなパンケーキを分けていた。ホットケーキの悲しき同族は、食べるとまことに空気が多くて、パフパフいうようだから、あたし一流の名付け術で、パフパフと申します、こんなくだらないことを話しても、名前だけ聞くと可愛くて美味しそうだとめぐちゃんは大笑いだった。芭蕉翁が金沢の城下を訪れたある年のこと、門人衆や金沢の俳人衆の歓迎の句会に山海の珍味を出されたのをみて、我流にはこのような馳走の法はない、私を悦ばせてくれるのなら、願わくば一椀の粥に一片の香の物を賜われよ、と門人衆を戒めた古い話を憶い出しながら、あたしはなんだか微笑ましい気持ちを抱いて、フルーツパフェをいまやと待ち構えた。
「てか『恋の味』って書いてるぜ。めちゃくちゃ甘そうだな~。」
「恋って食べれるの?」
「‥‥‥さあ?」
とだけ言うと、チョコレートを塗った卵糖を口いっぱいに頬張る。日ごと日ごとを入り乱れて、尽十方に飛び交かわす小世界の、普く天涯を行き尽して、而も尽くる期なしと思わるるなかに、絹糸の細きを厭ず植え付けし蚕の卵の並べるごとくに、二人の小宇宙は、心なき鉄車のうちに行く街中で知らぬ甘味に差し向かい、均質に並べられた。星の世は掃き落されて、大空の皮を奇麗に剥ぎ取った白日の、隠す勿かれと立ち上る天窓の中に、二人の小宇宙は偶を作って、ここぞとばかりに一瞬間擦れ違った。擦れ違って通り越した二個の小宇宙はいま甘ったるい塔を挟んでハーモニクスを平げつつある。れいのカップルがドアの鐘を鳴らしながら出ていくと、奥の古い蓄音機から流れてくるマイルス・デイヴィスのトランペットの演奏だけが響いていた。
6
来る六月は体育祭の時期だ。あたしは決して運動が得意ではないけれど、下品な献金の絡まない純粋な競技スポーツに限っては、情況や機会などのリアリティが這入って来て、好きだ。チャンバラなんぞが昔から人気あるのも、必ずしも封建的イデオロギーなんかが原因ではなくて、直接には却ってそれが芸術に於ける一種のスポーツ性に該当しているからかも知れない。然し、スポーツの勝敗に実際には何等の社会的意義がないように、むしろその本義は〈努力〉のこと、端的に換言すれば精神涵養ではないかとあたしは思う。気育は意思を発達せしむる。義を見ては死を辞せざる、困苦に堪へ艱難に克ち、初志を貫きて屈せず撓まざる、一時の私情を制して百歳の事業を成就する等のこれらは皆、気育に属するものだ。世の人は時にこれを徳育と混同していて、然れども勇猛心や忍耐心等とは善悪邪正の感とは異なる。ここで一寸説明しておくと、体育は必ずしも体操にあらず、競技にもあらず。衣服住居を清潔にし、滋養多き食物を取り、時に好むに従って散歩、競技、談話等快心の事を為す、所謂健全なる精神の「衛生」であろう。唯だ衛生は精神的快楽を揺るがせない傾向があるので、精神的快楽は体育の半を占めるものだ。
兎角百合亜にとっては、これまた体育の授業の度に教室で着替えの時間が発生するというのは頗る都合が悪いので、
「ゆり?どこ行くの?」
「ああ、少しトイレにね。そのまま着替えてから行くよーー!」
などと言い訳をして立ち去る。
「‥‥‥百合亜、いったいどうしたのかしら。」
「そういう子もいるの。あんまり勘繰っちゃダメだよ。」
百合亜はいつも、恰もクラスメイト達を手懐ける為、時には幼馴染の助けを借りながら、まず、顔に偽クリスチャンのような優しい媚笑を湛え、首を三十度くらい左に曲げて、締まりのないウィンクを決めて、そうして猫撫で声に似た甘ったるい声で応えて、同輩の女子達に不必要に詮索されまいと努めていた。我が道化の演目も漸く佳境かと感じる様になって来た、或る日の体育の授業前、梅雨の香りが漂い始める頃の事である。トイレで着替え終えてから、靴箱の前へ赴いた瞬間。
「――あれっ、外履きが無い。」
何処からともなくクスクスという囁きが聞こえたような気がして、あたしは、自分自身の置かれている状況に漸くはっとした。黒煙濛々の地団駄踏むばかりの焦躁。成る程成る程、これが女子高の実態か。思ったより、醜いな。もう、十五、六にもなっているというのに。いい齢をして、本気におれを憎んでいやがる。なにくそっ!
百合亜は近くの壁に拳を叩きつけた。おれは、この仕打ちをした女学生らを極度に軽蔑すると共に、なんだか悪い人間性を見つけたような気がしてひどく淋しくなってしまった。つい十分前までの幸福感が、一瞬にして、奈落のどん底にたたき込まれたような気がした。ああ、ケチな、ケチな小市民根性。さっきまでニヤニヤ話していた女のどれかが、こんな仕打ちをしたのかもしれないと思うと、おのれの愚鈍さにゾっとする。そして女のその醜いケチな根性が、どんなにおれたちの伸び伸びした生活を無残に傷つけ、興覚めさせている事か!馬鹿ほど怖いものがないとはこの事だ。あの頃を思い出してしまう。これだから、学校がいやになるのだ。学校は、学問するところではなくて、くだらない社交に骨折るだけの場所である。きょうもクラスの生徒たちは、碌な利活用もしないのにスマートフォンを片手にぶらりぶらりと教室にやって来る。学生ほど、今日、無智なものはない。つくづく、イヤになってしまう。授業がはじまる迄は、子供のおもちゃの紙飛行機をぶっつけ合ったり、すげえすげえ、と下らぬ事に驚き合ったり、それでいて、先生が来ると急にこそこそして、どんなつまらぬ講義でも、いかにも神妙に拝聴しているという始末。そうして学校がすめば、さあきょうは街に出るわ!などと生き返ったみたいに得意になって騒ぎたてる。けさも教室でひとしきり、ぎゃあぎゃあ大騒ぎだった。そんな劇場であたしは道化を演じなければならない。わけがわからない。不潔だ。卑劣だ。馬鹿な奴らの愚かな試みに、心の底から激しい憤怒が湧いて来る。赦せないような気がして来た。もう、こんな奴等とは、口もきくまいと思った。仲間はずれでも、よろしい。こんな仲間にはいって、無理にくだらなくなる必要はない。ああ、ロマンチックな女学生諸君!青春は、たのしいものらしいねえ。馬鹿野郎。君等は、なんのために生きているのか。君等の理想は、なんですか。成る丈、あたり触りの無いように、ほどよく遊んでいい気持になって、恙無く高校を、大学を卒業し、レディーススーツを新調して会社に務め、立派な旦那さんをもらって生活のあがるのをたのしみにして、一生平和に暮すつもりで居るんでしょうが、お生憎さま、そうは行かないかも知れませんよ。思いもかけない事が起りますよ。さあ覚悟は出来ていますか。可哀想に、なんにも知らない。無智だ。
「はああああっぁぁぁぁぁぁ――――。」
女の醜さ。西洋の淫売がシュミーズを脱ぎ靴下を脱ぐ度毎に祝儀をねだるのと同じやり方、――頭が痛い、落ち着け、思考を変えよう。何時読んだ逸話だろうか、モスクワの芸術座の近くでゴーリキが料理屋に入っていると、崇拝者の多くがその姿を見つけてぞろぞろ店先にたかって来た。それを見た文豪は例の放浪性を発揮して、君達はポカンと口を開あけて何に見惚れているんだね。僕は踊子でもなければ、死人でも無いんだ。ちょいちょい小説を書いて暮らす男が、何が面白くてそんなにきょろきょろするんだね、と噛みつくように怒鳴ったそうな。翌日の新聞はその話を伝えて、自分の崇拝者をこんなに邪慳に取扱ったゴーリキには、お行儀作法の端くれでも教え込まなければなるまいと、冷やかしを言っていたが、そんな事を言う輩は崇拝者を持った事の無い奴で、世の中に崇拝者程煩いものは無い。そのなかで取り立てて煩わしいのは女の崇拝者で、妻君を崇拝者に有ったのは一番事が面倒だ。だから凡ての学者、芸術家、アイドルにとって最も無難なやり方は、成る丈自分の細君に解からないように物を言う事だ、というそうな。それにおれが大いに感興を催すように覚えたのも事実であるが、他方で我一流の奇警な観察や、意地の悪い解釈なども加味されていたに違いない。然し、これも何処で聞いただろうか、新渡戸博士などが婦人雑誌の原稿を書く時には、細君の同意を得るような考えしか書かなかったというのは以ての外の不了見であろう。
「さて。どうしたもんかな‥‥‥。」
授業開始の鐘が校内に響く。相変わらず間抜けた音だ。男児畢生危機一髪とやら。あたらしい少女は、つねに危所に遊んで、そうして身軽く、くぐり抜け、音まですり抜けて飛んで行く。侘びしい。自分には、女の千万言の身の上噺よりも、その一言の呟きのほうに共感をそそられるに違いないと期待していても、この世の中の女から、片手で数えられる程度にしかあたしはその言葉を聞いた事がないのを、奇怪とも不思議とも感じてしまわずには居られない。けれども、言葉で「侘びしい」とは言わずとも、ふつうは無言のひどい侘びしさを、多くの少女はからだの外郭に一寸くらいの幅の気流みたいに持っているものであって、その子に寄り添うと、こちらのからだもその気流に包まれ、自分の持っている多少トゲトゲした陰鬱の気流と程よく溶け合い、水底の岩に落ち附く枯葉のように我が身は、恐怖からも不安からも離れる事が出来る。――はずだった。あたしは、いつもよろこんで立ち上がった。駆け回った。用を言いつけるというのは、決して女をしょげさせる事ではなく、却って女は、誰かに用事を頼まれると喜ぶものだという事も、自分はちゃんと知っているつもりだった。そう、信じていた。――はずだったのに!いいや、そうではなかった。そもそも、すべての女と、無理に友達になる必要なんてなかったのだ。お互いに無関心の、単なるクラスメイトで良かっただろうに。また、おれは、間違ってしまったのか。
「はぁ。蓮ノ空の崩壊の音が聞こえるぜ‥‥‥。」
心が派手で、誰とでも直ぐ友達になり、ここ最近学園で注目の的になってるスクールアイドルクラブの輪に入っている、道化師。そんな〈ごきげんよう少女〉を演じた挙句、一生懸命に奉仕して、捨てられる。それが、きっと、趣味である。憂愁、寂寥の感を、ひそかに楽しむのである。けれども、これは、二度目、このままではあの頃と何も変わらんじゃないか!すぐ近くで熱心に夢を追いかけている若い少女に夢中になり、そうして、やはり捨てられたときには、そのときだけは、流石に、しんからげっそりして、間の悪さもあり、身体が悪くなったと嘘をついて、一週間も寝て、それから頸に繃帯を巻いて、二度とはこの女学院に足を踏み入れることができないやも知れぬ。‥‥‥いいや、これも、あたしが彼女たちに噓をつき続けてきたことの報い、その始まりなんだ。なんてことはない、蓮太郎少年の大好きな〈因果応報〉である。
青年は〈夢〉に生きるとはよく謂うが、それと同時に、青年は、屡々憂欝の囚となるものだ。所謂明朗闊達な少年少女と雖も、実はその例に漏れない。この憂欝の原因は、一つには、俗に「春の目覚め」などと称する生理的変調にあるのだろうが、一つには、青年の〈夢〉そのものと密接な関係があるのだと、あたしは思う。生理的理由から来る憂欝は、医学の立場からすれば、一種の気分転換によりこれを克服すべきだと謂う。即ち勉強とか運動とかに専心すること、趣味や芸術に没頭することなどが、具体的に示されていた。時に身体を規則的な操作によって疲労に導くことが最も効果的であるとも謂われているそうな。その方面のことは、まあ一応専門家に委せるとして、あたしは、それよりも。この〈憂欝〉が〈青年の夢〉と如何なる関係があるかを少し考えてみたい。憂欝とは、文字通り、一種の心理的な不快を指すのだが、その不快は爆発的なものでなく、まさしくこの瞬間のように、むしろ内攻性をもったもので、訴うるに由なき焦躁の圧縮された気分の重さとでも評するべきものだ。それは堪えがたい苦悶にまで至ることもあるが、大方は環境の変化によって明暗の度を異にする程度で、苦い吐息を交えることもあり、落莫として唇を噛むこともあり、唯だ味気なく、独り物思いにうち沈む。
ここに至れば、歓楽極まって哀愁多しというのは、青春そのものの花やかな幸福感にもよく当てはまるように思われる。哀愁はこの場合、憂欝の同義語と看做すべきだ。二十一世紀の時代は、青年の奔放な生活を許す筈もなく、青年もまた、善悪は別として、そういう生活を望んでいないようにみえるけれど、もともと、人生の屈託もなく、歌いたい時には何時でも歌い、酒はなくても、酔いたい時には何にでも酔えるのが青春だ。どんな〈夢〉でもそう不自然でなく、全ての欲望は満たされない前に、既に十分な甘味としてこれを口に啣み得るという時代、これは単純に幸福極まる時代だろう。意識するとしないとに拘らず、斯かる幸福感の末端には、一種空虚な寂しさ、名状し難い憂欝がちらと顔をの覗かせているものだ。「満ち足りた物足らなさ」とでも謂うような可笑しなものだ。嗚呼如露亦如電応作如是観、お道化た夢幻泡沫だ。それを、少年少女自身、屡々「満たされざる」ものと感じ得るのだろう。憂欝はまた、人に語り得ない心の秘密から生じる場合が多く、それは自分を孤独なりと信じる妄想ともなり、また謂われなき淋しさ、うら悲しさ、遣瀬なさともなる。しかしながら、ある種の憂欝は、憤りの相貌を呈するものであって、曰く不快の真因が我になく彼に彼女にあり、而もそれが、不正、不純、不義である場合がそれだ。悲憤慷慨と謂い、憂国慨世と謂い、何れもこの種の憂欝の露わな、情けない表情の現出なのだ。あたしはそれを、改めて目の当たりにしてしまったのだから。
「‥‥‥いかんいかん。こんな未熟な仮面じゃ、いつかまた化けの皮が剥がれるかも知れぬぞ。気を張れ、気を張れ。よしよし、引き締めていこう。不制于天地人、あたしは、大賀美百合亜。蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブの一員。使命を数えて‥‥‥いち、に、さん、し、ご。よし、まだこの手の中にある、――いける。」
太古の世から変わらぬ、智慧の実を食べると、人間は、ほんとうの笑いを失うものらしい。入学したばかりの頃は、お茶目で、態と間抜けた失敗なんかして見せてクラスの女子達を笑わせて得意だったのだが、ここ無様な仕打ちを受けると、そんな、とぼけたお道化が、ひどく馬鹿らしくなって来た。お道化なんてのは、卑屈な男子のする事だ。お道化を演じて、人に可愛がられる、あの淋しさ、たまらない。空虚だ。人間は、もっと真面目に生きなければならぬものである。男子は、人に可愛がられようと思ったりしては、いけない。男子は、人に「尊敬」されるように、努力すべきものである。この頃、百合亜の表情は、妙に間抜けで、異様に深刻らしい。深刻すぎて、とうとう先日、「女の子らしくない」などと姉さんから忠告を受けたということなのだろう。そう謂えば、姉さんに出会う直前の、蓮太郎少年が話下手になったのは、同輩の中学生等の軽佻浮薄な癖がしみじみ厭になって、少年の拙き反省から自分で自分を窘めるよう仕向けたせいであった。そしてあたしは、「時が経てば判る」という風な、持ち前の図々しさと横着とから、沙知さんの仕立てた手前で満足して、友人とのふれあいに安寧を覚えて、それきり何の手段も取らずに、一日も早くその不愉快を超越するように努めねばならぬことを忘れていた。歴史は繰り返す、情けないもんだ。
結局、一切が空虚だった。そう思うと、俄に、そのように見えて来る虚しさから一ヶ月の緊張の溶け崩れた気怠が襲ってきて、いつか彼女は空を見上げていた。残念でもあり、ほっとした安心もあり、辷り落ちていく暗さもあった。明日からまたこうして頼りもない日を迎えねばならぬ、――然し、ふと、どうしてこんなとき人間は空を見上げるものだろうか、と百合亜は思った。それは生理的に実に自然に空を見上げているのだった。円い、何もない、ふかぶかとした空を、――弦の断ゆるは猶続くべし、心の去るは最も留め難し、だ。青春を目指すこの路は、いまは自己満足の旅でも構わない、使命と約束を果たすためには、我が親愛なる四人の少女たちの足を引っ張らず、それでいて、全力で応援すること。それが百合亜の、あたしの、おれの、進むべき道のはずなのだから。
「よぉおし、まだまだいける!こんなところで立ち止まんねぇぜ!きょうも一日頑張っていくぞぉぉおぉ‥‥‥!」
ぱんぱん、と、少女は二度その頬を強く叩く。不幸な噂が春風に乗って来たのを振り払い、じめじめとした温気漂う廊下を駆けいく。彼女は別様の心躍りを、一月も前から感じて居た。そうして、日を数とり初めて、ちょうど、今日と言う日。立夏に蛙鳴き始め、皐月の空が、朝から晴れて、雲雀は天に翔けり過ぎて、帰ることの出来ぬほど、青雲が深々と棚引いて居た。
世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上図々しい、イヤな奴やつで埋まっている。元来何しに世の中へ面を曝しているんだか、解しかねる奴さえいる。而もそんな道化の仮面に限って大きいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのをもって、然も然も名誉の如く心得ている。五年も十年も人の臀に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。前へ出て言うなら、それも参考にしてやらんでもないが、後の方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと言ってきやがる。煩いと言えばなおなお言う。よせと言えばますます言う。分かったと言っても、屁をいくつ、ひった、ひったと言う。そうしてそれが処世の方針だとさえ言う。方針は人々勝手である。唯だひったひったと声をあげずに黙って方針を立てるがいい。人の邪魔になる方針は差し控えるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと言うなら、こっちも屁をひるのをもって、こっちの方針とするばかりだ。そうなったら花の女子高生も運の尽きだろう。
紫式部の日記などを読むと、この稀有の女流文豪が儕輩の批難を怖れて、平生は「一」という文字すらどうして書くか知らないような風を装い、中宮のために楽府を講じるにも人目を避けてそっと秘密に講じている。女子の学問著述が男子の領分を侵している事のように、その同性の間においてさえ誤解されていて、紫式部がそれを憚ったのは、生意気だとして憎まれるからであろうけど、然しこれがために彼女を「女らしさ」を欠いた人間であるとは昔も今も言わないようだ。体育教師に挨拶をしてから戻って来る百合亜を、同学窓の三人が囲んだ。
「百合亜、遅かったわね。先生と何の話をしていたのかしら?」
「いや、秘密の話をされたんよ、話すわけにはいかんて。ごめんよ。」
百合亜は態と婆さんみたいな北陸訛りで言ってみた。
「じゃあ聞かない。」
「ありがとうめぐちゃん。」
「それで、ゆり。きみはなんて言ったんだ。」
「外履きがなくなっちゃったけど、あたしはそんなことで体育の授業を休むわけにはいきません、って。」
と、少しも飾らぬ自然の口調で呟いた。
「外履きがなくなった‥‥‥。」
「それって、誰かが百合亜の外履きを隠したってこと?」
慈の顔色が変っている。
「え!?なんでみんな知ってるの!?」
「?ボクはなにも知らないよ。」
「‥‥‥大変なことになりそうね。」
卯木の花が咲いている。紅花は栄える。近くに雲雀でもいるのであろう、ハタ、ハタ、ハタと羽音がする。
7
戦闘、開始。
いつまでも、悲しみに沈んでもおられなかった。あたしには、是非とも、戦いとらなければならぬものがあった。新しい倫理。いいえ、そう言っても偽善めく。夢、使命。それだけだ。紫式部が新しい文学に頼らなければ生きておられなかったように、あたしはいま、夢と使命に縋らなければ、生きて行けないのだ。或いはイエスは、この世の宗教家、道徳家、学者、権威者の偽善を暴いて、神の真の愛情というものを少しも躊躇するところなく有りの儘に人びとに告げ顕さんがために、その十二弟子をも諸方に派遣するに当って、弟子たちに教え聞かせた言葉は、百合亜のこの場合にも全然、無関係でないように思われた。帯のなかに金銀乃至銭を持つな。旅の嚢も二枚の下衣も、鞋も、杖も持つな。視よ、我れ汝らを遣わすは、羊を豺狼のなかに入るるが如し。この故に蛇の如く慧く、鴿の如く素直なれ。人びとに心せよ、それは汝らを衆議所に付けわたし、会堂にて鞭打たん。また汝等我が故によりて、司たち王たちの前に曳かれん。彼ら汝らを付わたさば、如何に何を言わんと思い煩らうな、言うべき事は、その時さずけられるべし。
戦闘、開始。聖書の言葉は豪いものだ。弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり、と、無垢に信じるのにだって体力が要るんだから。
「いや、ほんとうに、偶々だよ。偶々なくしちゃっただけだから。なくしちゃったあたしが悪いだけなんだから、みんなはぜんぜん気にしないで。」
と、三人して心配そうに見詰めてくるので、ばか叮嚀なお辞儀をして、何事も無かったかのように授業へ出て、木枯らしに吹かれ、戦闘、開始。使命、友情、夢、女子、本当の使命、本当の友情、本当の女子、前に進むしか選択肢が無いのだから仕様が無い、あたしにしかできないと信じているのだから仕様が無い、真の友情というものに期待したいのだから仕様が無い、あのクラブは確かにあたしには勿体ないくらい素敵な居場所、あの少女達も皆魅力的だ、けれどもあたしは、神の審判の台に立たされてしまえば、少しくらい自分を疚しいとは思わずには居られない、いつまで経っても〈道化の女子〉なのだった。でも。人間は、愛と使命のために生れて来たのだ、神も罰し給たまう筈が無い!あたしは何度も言い聞かせた。あたし微塵も悪くない、弱い自分にはサヨナラしよう、本当にこの居場所を守りたいのだから大威張り、誰からどんな誹りを受けようと、彼女達が花咲く瞬間を隣で見届けるまで、二晩でも三晩でも野宿しても、必ず。
でも、若し、あたしが友情のゆえに――或いは恋のゆえに、預言者の尊き教えをそっくりそのまま必ず守ることを誓ったら、神仏はお叱りになるのだろうか?大人が言うような、何故「恋」が悪くて「愛」が良いのか、おれには未だわからない。同じもののような気がしてならない。正体も何だかわからぬ愛のために、恋のために、その悲しさのために、身と霊魂とをゲヘナにて滅ぼし得る者もの、ああ、あたしは自分こそ、それだと言い張りたいのかも知れぬ。あたしが特別視する〈友〉だって、〈家族〉だって、結局は〈女〉なのではないか?――馴れのせいで御座成にしてきた、あの不可解な動悸が久し振りに早鐘を打っていた。
友情についての話。蓮ノ空の中で、あたしは友情一般に当てはまらないこと、――人間の一生に於いては青春のなかで人生への共通態度が最もはっきり現れるのだから、その態度如何で、友達になり得る人なり得ない人との区別が生じること、つまりは私的生活の中での友人になり得ない人でも公的場面でつき合ってゆくべき事務上の接触をもつことはあり得るのだから、そして、一般の若い女のひとたちは、共通な人生への態度を感じると、そこにすぐ恋愛的なものを描き出してその曖昧なところを愉しむような傾向をもっているから、それに対して、あたしは特に友情と恋愛の感情が、〈女〉として区別されて自覚されなければ不健全ではないのかという類の疑念を抱いていた。あたしを好まからず思う何人かは、異性の間の友情が、ああいうものであってはつまらない、と謂うのだろう。その位、女の社会感情は狭いんだ。公人としての謂わば同僚感と、その同僚のうちから友情が見出されるということは直接同じだとはしていないつもりだけれど、同じ学び舎に働いている同性の間に暮らしていても、同僚として、或いはホンモノではないが努めて同性として顔をつき合わしていても、ちがった利害の対立におかれる仲間の方が多い、その中で、共通な生活態度が見出されたとき、それは友情となるが、それが同性間であってもすぐ恋愛的なものと混同されて、友情そのものとして成長しにくい場合が多く、更にはそれを根拠に憎悪の念を育てていくというのは、所詮は肉欲に対する敗北である。きっと努力が不足しているのだ。若しそういう印象を与えるとすれば!クラスメイトとの付き合いは友情でなくても良い、所謂同僚感というものを、生活態度の共感という範囲に限定せずとも、それは社会的動物の自然である。若しそう言われれば、その同僚感において友人として必要な人、そうでない人という区別も生じないわけであるから、同僚感というものは友情より広汎な、内容のもっと錯交したものかも知れぬ。それでも、少女百合亜にとって〈友情〉というものは、人生至上の価値の一つに数えている、掛け替えのない縁であった。友愛の対象は唯の一人でなければならぬというような、モンテーニュ風の気持ちにも強く共感できるようになっていた。友人と青春を浪費する時間が楽しいものである。たとえ異性であろうが道化であろうが、友人の去就に依存して一喜一憂することさえもまた一興である、と。
然し、不幸とは、試練とは、どうも立て続けに起こるというものが、十五の少女・百合亜の運命らしい。柳垂れて条々の煙を欄に吹き込むほどの雨の日。あの頃の無智なお世辞が、忌まわしい予言として、なまなまと生きて来て、不吉な形貌を呈するようになったのは、更にそれから、数ヶ月経った後の事であった。
「――今日は蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブのライブを観に来てくれて、ほんとうに、ありがとうございました!!」
「「「ありがとうございました!」」」
「――みんな、最っ高~~~!!!」
五月のFes×LIVEが大歓声をもって終って、客席は、そしてスクールアイドル狂いのマネージャーは、潮の寄せるように騒めいた。――唯だ一つの、花束を除いては。
「――また、ミスばっかり。このままじゃ、ラブライブ!優勝なんてできない。」
その呟きは――迦陵頻伽の声とはこうもあろうかと忝い情感に囚われるだろう。含みのある、美しき情に富んだ聲音。聴くうちに、きみの心は、花が開くときも、また散るときもこうもあろうかと思う、曠然とした雨雲に抛たれるであろう。薄気味悪く静まり返った舞台裏に取り残されて、ステージを退くおのれの足音だけが、洞穴の中を行くように、空ろな反響を伝えていた。
「おっ!ちょうど今月分の『スクコネ新人賞』結果出てるよ!」
と、後片付けの為に部室に戻っていた百合亜はパソコンを指さして叫ぶ。その言葉に、三人は皆一斉に彼女の手元を覗き込むように見る。翡翠色の少女独りだけが、その知らせに多少嫌な予感を覚えつつも、部室の真ん中にあるテーブルにゆっくりと近づいていく。舞台よりも一層狭い部室の一隅に、投り出されたように身体を縮めた少女の唇は、 雁皮紙のように慄えて、その眼は無念の思いさえ含んで居た。
百合亜はその情景に気付いていなかったが、若し気付いていたとしても、少女の真意を解することが、できなかったはずだ。おのれの淪落の身の上を恥じて、じっと暫くの無念を圧さえていると、そう断じたはずであるから。いまでは、凡てに思い当り、年少のその早合点がいろいろ複雑に悲しく、けれども、おれは、これを、汚らわしい思い出であるとは決して思わない。なんにも知らず、唯だ一図に、おのれこそが未熟であると、大声で叫んだその夜のあたしを、慈しみたい気持さえあるのだ。あたしは、確かに斯の理想主義者に違いない。嘲うことのできる者は、嘲うがよい。
こういった視点を持つならば、言を俟たず、頽廃即ちデカダンスは、悉くが爛熟の結果生ずるものとするのが常識であり、未熟のまま頽廃に至るというようなことは、観念として成り立たない。それは単なる堕落であり、荒廃であり、錯乱である。これは広く民俗の文化についても、時代の風俗についても、また特定の青年時代の葛藤についても謂えることである。更に個人の生活に於ける〈精神と技術〉の面でも、したがって、その生活態度の全貌を通じても、これと同様の見方ができるのだとあたしは思う。或いは十九世紀末の西欧文学の流れのなかに、かのデカダンと呼ばれる一派の存在したことも、芸術文化史の上から、当時の百花繚乱の時代相を背景としてでなければ、その確乎たる意義は捉え難いだろう。そこには明らかに〈常道〉への反抗心があり、円満具足への冷笑があり、価値転倒への野心と歓喜とがあり、一口に評するならば、とりわけ少年少女がその体躯を煌めかせる「健康らしきもの」への止みがたき呪咀さえもがあった。覆わるべきものの中に美を、崩れるものの上に耀きを、秩序よりも混沌の側に力を発見し、これを讃える傾向を露わに示すものだ。立て切った一幅の硝子を通して白い雨粒の糸が細長く光る。
「しゃあっ!あたしの推し・スクールアイドルの一人、蓮ノ空女学院の藤島慈ちゃんが五月のスクコネ新人賞獲得だぁっ!」
「んー、当然☆やっぱり、こうでなくっちゃ。スクールアイドルの私ってば、かわいくて、かっこよくて、ほんと完璧☆」
「その通りその通り!」
「いや~、すごいもんだね!あたしだって新人賞獲れなかったのに、こうも立て続けに後輩二人が獲っちゃうなんて。」
一同集まって、正にお祭り騒ぎ寸前。百合亜は先人から借用した名句も心眼も用いるヒマなく、先ず息を静め汗をおさめるのに大童である。
「えへへ、そうでしょそうでしょ~☆沙知先輩もー、もっと褒めて♡」
「ねぇゆり。ボクも頑張ったよ。」
「綴理は先月獲ってたでしょ~?」
「あはははは!」
百合亜はれいの眼で笑いれいの口で笑う。一方で褒められ上手の慈であるが、褒められた瞬間にも意気はあがる。
「た・だ・し、ここで満足してちゃ意味ないからね。もっともっと、がんばらなくっちゃ!」
「おっ、成長したねー!偶には良いこと言うじゃないか、慈!」
「そうでしょそうでしょ~!‥‥‥って、『偶には』ってどういうことですか、沙知先輩~!!」
「あっははは!!」
道化師はニコニコして改めて一同を見廻した。で、ここで漸く群の向こうに独り立ち竦んでいた少女に気付く。ライブ後の高揚もあるのだろうか、色が白くて血色がよくて、眼醒めるばかりに縹緻がよい。古い形容だが鈴のような眼つき、それが極めて仇っぽい。この眼で笑われたならば、大概の男はグンニャリとなろう。ところで鼻だがオンモリと高く、そうして上品になだらかである、口はというにまことに小さく、その上謂うところの受け口でこれがまた非常に色っぽい。ニッと笑って前歯でも見せたら、おそらく男はフラフラとなろう。身長は高くて痩せぎす、むしろ程よく筋肉が付いて実に健康的である。首なんか今にも抜けそうに長い。おおい、と名前を呼ぶ百合亜の声に梢は一瞬びくっと身体を震わせるが、すぐにいつもの冷静を取り戻す。
「梢も、惜しかったね。」
「‥‥‥そう、ね。」
あたしは、勘違いした。強い感動を受けたのである。思わず、さらに大いに膝を進め、ここは悩める友を励ますことが相応しい場であると判断してしまった。彼女は友の背中をポンと叩いて、
「たまたま、スクコネ・ユーザーに梢の魅力が伝わらなかったってだけだよ。くらべたりするもんじゃないよ。」
と言って笑ったが、彼女がすぐに険しく眉を顰めたのを認めて、
「いや、ものごとはなんでも比較してはいけないんだ。比較根性の愚劣。」
「‥‥‥。」
と、自分自身へも説き聞かせるようにゆっくり呟きながら、ぶらぶら歩き出した。大まじめである。百合亜は一種の理想主義者かも知れない。理想主義者は、哀しい哉、現世に於いてその言動、やや不審、滑稽の感をさえ隣人たちに与えている場合が多いようだ。かのドン・キホーテの如し、である。あの道化師は、いまでは、全然、馬鹿の代名詞である。けれども彼が果して馬鹿であるかどうかは、それに就いては理想主義者のみぞよく知るところである。高邁の理想のために、おのれの財も、おのれの地位も、塵芥の如く投げ打って、自ら駒を陣頭にすすめた経験の無い人には、彼の血を吐くほどの悲哀が絶対にわからない。耳の痛い仁も、その辺にいるようである。百合亜の理想は、ドン・キホーテのそれに較べて実に高邁で無い。彼女は破邪の剣を振って悪者と格闘するよりは、頬の赤い村娘を欺いて一時語らうことの方を好む程度の凡夫である。理想にも、実にたくさんの種類があるものだ。あたしは謂わばこの好色の理想のために、青春を投げ打ち、運命を投げ打ち、そして友情を捧げて、全くの清貧になったつもりであった。然しあたしは、この好色の理想を、仮りに名付けて「ロマンチシズム」と呼ぶべきであった。
「‥‥‥頑張るだけじゃ、私は、足りないのよ。」
「こ、ずえ‥‥‥?」
努力家のともだちはゆっくりと首を左右に振り、とても淋し気に笑った。勢い込んで喋舌って来た百合亜は急に真面目に戻される。梢のこの笑い顔を見ると百合亜はきっと真面目にならなければならぬ。幾多の顔の、幾多の表情のうちで、あるものは必ず人の肺腑に入る。面上の筋肉が我勝に躍るためではない。頭上の毛髪が一筋ごとに稲妻を起すためでもない。涙管の関が切れて滂沱の観を添がためでもない。徒に劇烈なるは、壮士が事もなきに剣を舞わして床を斬るようなものである。浅いから動くのである。偶像の芝居である。少女の笑ったのは舞台で笑ったのではない。
――たとえば、こんな一幕だ。一人の遊蕩の子を描写して在る故をもって、その物語をデカダンと呼ぶのは、当るまいと思う。あたしは何時でも、謂わば、おのれの道化の華に理想の少女像を描いて来たつもりなのである。斯く在る百合亜にとって「詩人」と言う言葉は、それ自ら「生活者」と言う意味に外ならない。職人の実に尋ねているのは、芸術でなくして生活であり、真に心の渇きを充たすべき、イデアの世界の実現である。あらゆる凡ての詩人は、彼の歓楽の酒盃の中に、もしくは理想的社会の実現される夢の中に、生活のクライマックスを賭として死のうとしている。それ故に詩人は革命家であり、志士であり、デカダンであり、ニヒリストであり、旅行家であり、哲学者であり、そして、青春を生きる少年少女は皆詩人なのである。青春とは!青春とは詩人にとって何でもない。ただ「詩が実現されることの夢」であり、それへの思慕〈エロス〉にすぎないのだ。されば詩人の真精神は、常に「生活すること」に存するので、芸術すること、表現することにあるのでない。表現は詩人にとって、常に悲しき慰めの祈祷に過ぎないのだから。
「――沙知先輩。」
「ん-?どうしたんだい、梢。」
少女は問う。降り始める雨は一つである。冬は合羽が凍る。秋は灯心が細る。夏は褌を洗う。暮れる春は――平打の銀簪をリノリウムの上に落したまま、アッサムの茶葉が朱と銅と藍に光る傍らに、ころりんと掻き鳴らし、またころりんと掻き乱す。百合亜の聴いてるのはまさにこのころりんである。
「なんで私が新人賞じゃないんですか。」
疎疎たり一廉の雨、淡淡たり満枝の花。少女達は細やかに平安の字を読む暇もなく、陽気は春雨と共に崩れた。
「梢、それはちが――」
「百合亜。あなたにではなく沙知先輩に聞いてるのよ。口を挟まないで頂戴。」
「なっ‥‥‥!」
「っ‥‥‥!梢、あんたねぇ――!」
そんな忠告をしたところでとても聴き入れる彼女等の剣幕ではないし、また、鴛鴦とは真逆に二人の口論を眼の前にしては、とても逆らうようなことを切り出せる筈のものでもなかった。思えばそれが、――このあと十月に起こるれいの別離を除けば――第百〇二期蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ最大の葛藤になった訳だが、その日あたしたちはどんなことを喋り合ったのか、一向取り止めた記憶がない。然し百合亜は、青い春の敗北者として不得手の色を包み切れないものがあった。少年少女の哀しみは常に自分自身の無力さであり、苦しみは憧憬に違いなかったのだから。
「こず、めぐ‥‥‥。ゆり、ボクは‥‥‥。」
〈演技やダンスはずば抜けているけど、あなたは夕霧綴理であってスクールアイドルではない〉
「――またボクは、消えちゃうのか。」
ライブ後の熱が冷めやらぬ頃。時刻は夜だが星は見えぬ。スクールアイドルコネクトの配信コメントを眺めながら、もう一人の悩める少女は微吟をした。遠くの空では未だお月様がテラテラと照っている。目前では木々の新葉が雨粒で光っている。老鶯の声が消えかかっている。が、部室棟には人通りもない。水溜の中で幾匹かの蟻が、藻掻き苦しんで這いまわっている。で、ドアが独りでにギーとあいて、五人の影の吸い込まれた後は、ひっそりとして寂しかった。
扨ては百合亜が少年時代の終にあたる蓮ノ空での生活をロマンチシズム、――より正確にはデカダンの生活として考えるように成ったのも、恰もその生活の中に咲いた道化の華のように〈百合亜〉を考えるように成ったのも、それは彼女が遠い旅に出て、漸く一つ目の目的地に辿り着いた時分であった。道化もて正義を為せ!これは彼があの冬の日に誓った一つの夢であったが、そういう言葉が自分の口から出なくなる程もう心の毒の廻った時でも、多くの青春時代が人間関係の堕落に終らないとはどうして言えようと考えるほど、それほど〈女〉というものの考え方なぞが崩れて行った時でも、冷然として自己の破壊に対する傷ましい観察者の運命に想い到った時でも、それでも猶彼女はデカダンとして自分を考えたくないと思っていた。彼女は梟のように眼ばかりを光らせて、寂寞と悲痛の底に小夜を震えては居られなかった。そしてそれを百合亜の運命の究極とはどうしても考えたくなかった。死を水先案内と呼びかけた人のような熱意を振い興して、この人生の航海に、何か、もっと新しいものを探り求めずには居られなかったのだから――。
天華恋墜 第六章:デカダンJK論 終
我を砕くは歓声の雨――。
天華恋墜 第七章:
誰が為の大和撫子
続く。