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天華恋墜 第四章:オウムアムアにも届きそう。【蓮ノ空二次創作】

心を抛つ刹那のボクと
心を開く刹那のボクと
ボクの量はおんなじだ
キミがボクを満たしたのは刻々の生の一杯


天華恋墜 第四章:
オウムアムアにも届きそう。


1

… 
……

 
 ボクはあの日、夢を見た。

 眩いばかりに、光彩陸離たる夢。ステージに舞う少女達の煌めきを眼前にして、キラキラとボクの視界が明滅しまるで別世界に迷い込んだかのような感覚。そうして旋律が聞こえる。少女たちの想いはボクの魂を揺さぶり、一つの魂に一つの物語が生れ、一つの音楽は観る者の心に新たな輝きを灯す。その姿は不完全で、それでも熱を帯びていて、みんなで作るひとつの芸術にも思えた。そしてそれは、舞台の上で観る者に想いを伝える「居場所」そのものに違いなかった。中学三年生の二月、灰色の雲の隙間から暖かな日差しが漏れる冬の日。偶然通りがかった公園の特設ステージで、ボクははじめて、スクールアイドルという存在を知ったんだ。ボクと同じ年齢くらいの女の子たちが、みんなで競い合い、高め合い、その夢を叶えようとボクの胸に訴えてくる。暗澹たる闇の中をボクの右手は何かを求めてぼーっと彷徨いながら、そんなボクの心に、すうっと、紅い炎が燃え上がって来るのに気が付いた。――ボクには夢を見る才能がない?うん、たしかにそうかもね。でもボクはあの日、確かに夢を見てたんだ。その夢が無かったなら、キミの隣に立つ今日のボクは、きっと無かったに違いないから。だから、これはほんとうのこと。ボクの見た夢はね、とても素敵だったんだ。――キミも信じてくれる? このボクがそんな事を言うなんてね。でも、ほんとうなんだ。ほんとうに素敵な夢を見ちゃったんだ。眩しくって、溺れそうだった――。
 そうしてボクは、いまからでも入学できてスクールアイドルとして活動できる学校ならどこでも良いっていう勢いで、この蓮ノ空女学院に飛び込んできた。スクールアイドルとして煌めきたい、何者かになりたい、人の心に触れたいという夢を抱いて。ボクは自分の気持ちを言葉にするのがニガテで、まだ、 スクールアイドルが何なのかも、はっきりとはわかってないけど。でもボクは、たぶん、誰かと一緒に夢を追いかけたいんだと思う。いつか、ボクもなれるのかな。みんなで叶える、凄い事が出来る、そして願わくば誰かの憧れになるような、そんな、スクールアイドルに。

 夢はボクのもの、ボクが見た夢は、みんなボクのものだ。だからボクは、その夢を、キミにも見せてあげたいんだ。夢が熱を運んだか、熱が夢を生んだのか、キミに出会う前のボクには判らなかったから――。

2

… 
……

 四月十八日、月曜日。昨日ははじめて虹が見えたけれど、晴れたり、曇ったり。きょうも午前五時に起床した。別に変わった事も無い。蓮ノ空女学院の女子寮で目覚める朝も、それは、当り前の、気を張るべき日常の一部としておのれに馴染んでしまっていた。月曜だからって、何か良い事があるかと思うのは間違いだ。人生は、平凡なもの。恐怖でさえもいざ慣れてしまうと無気力になる。きょうから又、一週間、学校へ行くんだ。忙しない女学院の、そしてスクールアイドルクラブの一員としての日々は、あたしをかなり損な性分にしてしまったかも知れない。努力の為の一歩が、きょうも重い。
 おれは元来学校という場が、正確には学ぶことが好きだったので、あの狂乱の道化の日々でさえ、学校に通うことそのものを億劫に思ったことは一度も無かった。学を好んでおのずからに睡を思わざるは、気の張りだ。即ち努力は「努めて気を張る」のであって、気の張りは「おのずからにして努力する」のである。蓮太郎少年は、学校という舞台に於いていつも気を張っていたのだ。さて、二者の間に相通ずるところの存するのは勿論だが、不自然と自然との差があって、結果を求めるのと原因となるとの差がある。努力も良い事には相違無いが、気の張りは努力にも増して好ましいことだと、あたしは思う。この気の張りというものが存する以上は、願わくは張る気を保って日を送り事に従いたいものである。然し年頃の少年少女は、一切の物と同じく常に同一ではあり得ぬ。で、或る時はおのずから張る気になり、また或る時はおのずから弛む気になっているのである。一張一弛して、そして次第に或いは生長し或いは老衰するのである。張る気を保っていることは、いやはや、中々困難である。とはいえ同一人でも、その気の張った時は平常に比して優越した人でもあるような観を呈し、且つまた実際に於いて平常の時のその人よりは卓越した人になるのだと、あたしは考えている。孱弱な婦女が近隣の火を失するに遭って意外に重量の家財を運搬したりなんぞするのも、またそれは気の張った時には人間が平時の自己を超越するの証例として数えるべきことで、そういった例と同じような例は世上多数の人びとが屡々遭遇している。然らば学問をするにも、朝練に服するにも、そして〈女学生〉の道化を演じるにも、張る気をもってこれに当たったならば、所謂百合亜の最高能力を出したわけであるので、非常にその結果は宜しかるべき、と。たとえ張る気をして常に存せしむることは甚だ難しいにもせよ、少なくとも事に当たり務を執る時は、張る気をもってこれに臨みたいものだ。一気大に張る時は、女子にしても猶且つ怯えざるを得るのである。重量あるものを搬出し得るのである。況んや堂々たる男子が、張る気をもって女子を演じるに於いては、天下また難事有るを見ざらんとするのである、と。これこそが、蓮ノ空に生きるあたしが馴致させるに至った一つの生存戦略であった。

 「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ。」​

 四月の朝はいざ起きて見ると、霧がまだ深い。西の方がまだしも霽れていて、うすくはあるが、次第に明る味が差していく。東天の山には霧が立て罩めて、百合亜の視線はこの方面に盲目になっていき、日は霧の中をいつの間にか昇っている冷たい白い月のようにぼんやりとして、錫色の円い輪が空の中ほどを彷徨っている。その輪の周囲は、ただ混沌として一点の光輝も放たない。霧の底には蓮ノ湖が皸が割れたようになって、銀白の水面が閃めき、或いは深い水の中の藻のように霞んで、蒼く揺らめいているばかりだ。それは――せいぜい視界に収まる程度の水量を湛えるに過ぎない湖であったが――どの朝に於いても同一の江海である。而もその湖面は朝の光景を讃え、その暮は暮の光景を謳う。曉の水煙が薄青く流れて、東の天が漸くに明るくなると、やがて半空の雲が燒けはじめて、また緋色にまた藤紫に、美しく輝く。その時一道の金光が漫々と涯無き浪路の盡頭から、閃くが如く、迸るが如く、火箭の天を射るが如くに発する。忽地にしてその金光の一道は二道となり、三道となり、四道五道となり、奕々灼々として、火龍舞い朱蛇驚き、万斛の黄金の爐を溢れて光熾盛、烈々たる炎を揚ぐるが如くにまでなると、紅玉熔け爛れんとする大日輪が滄波の間から輾り出す、麗しき十五歳の少女の朝。混沌忽ち拆けて、天地俄かに開け、魑魅遁竄して、翔走皆欣ぶの勢が現れるところの有様を示す。そうすると岸打つ波の音も、湖畔に寄った貝の色も、黙して居る叢林の木梢の顏も、死せるが如き少女の吐息も、皆悉く歓喜の美酒に醉い、吉慶の頌歌を唱えて、愉々快々の空気に嘯くような相を現す。爛漫たる春の金沢の状は実に斯くの如くである。
 
 「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ‥‥‥。ふぅ、はぁぁあ‥‥‥。いやはや、きょうもいい天気だねぇ、蓮ノ空。」​
 個人的な体力づくりと精神涵養の為、あたしは入学式の日に早くもお気に入り登録したこの蓮ノ湖へ、朝のランニングに来ることが日課となっていた。生活の中に新しい流れを現実的に齎す力ということを、今更のように評価し、そういう力の価値を高く感じ直したのは、おのれの昨今の生活とその周囲とを考えるとき、たった一つのこと、即ち早起きの努力がどれ程重大な全般的効果を引き出しているかということを痛感したからだ。たった一つの習慣が全生活の動向を更新するのではなかろうか。あたしははじめは単純に、成る丈女子達から離れている時間が欲しいと、早くね、早く起きと囁かれていると感じていたものだが、それをずるけさせない為に朝の特訓を思い付いた。ちょいと肩をすくめてクスリとするような心持ちだった。然し日が経つにつれて、それだけのことが与える生活全体の規律や弾力や内面的な収穫に気付いて来て、フームと感服して、そういう流れを、何時とは無し導き込んでやがて支配的なものに成長させた力について、深い敬意を感じた次第だ。――失礼、嘘をつきました。第一にあるのは、この湖の眺めを独り占めしたいという優越感。あたしの早起きの習慣は、こういった御褒美付きで奨励されているわけです。
 けれども同時にあたしは、眼前に拡がる麗しき朝の情景を、――或いは現在の月曜というものを、月曜として心から楽しむ事が出来ないこともまた、向き合わなければならぬ事実としても噛み締めていた。所詮、こうした行動乃至出来事の一つ一つは、目を背けてはならぬ本質から一時逃れる為の方便に過ぎないもの。百合亜は安息の蔭に隠れている月曜の、意地悪い表情に怯えていた。世界が朝焼けの情景の如く色づいているとすれば、火曜は血、水曜は白、木曜は茶、金曜は光、土曜は鼠、日曜は赤の危険信号、そうして月曜は黒ずんで見える。成る程、少し淋しくもある筈だ。
 
 さあご覧あれ、こうした苦悶を生んだ理由の一つが、果たしてこれである。
 「(ノックの音)夕霧ちゃ~ん、おはよう~。朝ですよ~。」
 「すぅ、すぅ‥‥‥。」
 あたしは腕まくりをしつつ、こればかりは慣れない女子の部屋へと上がり込む。ベッドの上の毛布がこんもり盛り上がっている。もぞっ、と山が動き、中から寝ぼけ眼の夕霧ちゃんの顔が現れる。そう、あたしは沙知さんから新たな使命を与えられてしまったのだ――、早くもスクールアイドルクラブ練習遅刻常連チャンピオンの冠を欲しいままにした夕霧ちゃんの朝をサポートする、謂わば「夕霧ちゃん係」である。

 「ほら、きょうは朝練ある日だからさ、どうか起きて~。」
 「すぅ、すぅ‥‥‥。」
 なかなかに返事が無い。きょうも相変わらず眠たそうにしていた。低血圧なのだろう、朝はいつもこんな感じだが、きょうは特に目覚めが悪いように思える。
 「まったく‥‥‥起きない人を起こすというのがこれほど難しいとはね‥‥‥。」
 「すぅ、すぅ‥‥‥。」
 「‥‥‥。」
 少女の部屋、異質の匂いが鼻腔を擽る、――百合亜はれいの不可解な動悸が打つのを確認しながら、毛布をゆっくりと剥がして綴理の上体を無理やりに起こし、そして、嘆息を洩らした。然しこうして寝ている横顔でさえ、彼女の肌理の細かいのは勿論の事、鼻筋が通って眼元がぱっちりと冴えて―――唇の薄い、胡蝶舞う傾城の美人である。昔から小説家は必ずとヒロインの容貌を極力描写することに相場がきまってる。古今東西の言語で、佳人の品評に使用せられたるものを列挙したならば大蔵経とその量を争うかも知れぬ。この辟易すべき多量の形容詞中から、あたしと半歩の距離に坐す、体を斜めに捩って、眠気瞼に百合亜が驚愕と狼狽を心地よげに眺めている少女を、もっとも適当に叙すべき用語を拾い来たったなら、どれほどの数になるか知れない。然しあたしは、生れて十五余年の今日に至るまで未だかつて、かかる容貌を見た事がない。どこかの美術家の評によると、ギリシャの彫刻の理想は「端粛」の二字に帰するそうである。端粛とは人間の活力の動かんとして、未だ動かざる姿と思う。動けばどう変化するか、風雲か雷霆か、見わけのつかぬところに余韻が縹緲と存するから含蓄の趣を百世の後に伝うるのであろう。世上幾多の尊厳と威儀とはこの湛然たる可能力の裏面に伏在している。動けばあらわれる。あらわるれば一か二か三か必ず始末がつく。一も二も三も必ず特殊の能力には相違なかろうが、すでに一となり、二となり、三となった暁には拖泥帯水の陋を遺憾なく示して、本来円満の相に戻る訳には行かぬ。この故に〈動〉と名のつくものは必ず卑しい。運慶の仁王も、北斎の漫画もまったくこの〈動〉の一字で失敗している。〈動〉か〈静〉か。これが我ら芸学を修めんとする少年少女の運命を支配する大問題である。古来美人の形容も、大抵はこの二大範疇のいずれにか打ち込む事が出来たはずだ。
 ところがこの少女の表情を見ると、いつもそうなのだ、あたしはいずれとも判断に迷ってしまう。眠気との葛藤という特殊な状況があるにせよ、彼女の口は一文字を結んで静か、眼は五分の隙さえ見出すべく動き始めている。顔は下膨れの瓜実形で、豊かに落ちつきを見せているに引き替えて、額は狭苦しくも寝癖でこせついて、いわゆる富士額の俗臭を帯びている。のみならず眉は両方から逼って、中間に数滴の薄荷を点じたるが如く、ぴくぴく焦慮している。鼻ばかりは軽薄に鋭どくもない、遅鈍に丸くもない。画にしたらほんとうに美しかろう。かように別れ別れの道具が皆一癖あって、乱調にどやどやと百合亜の双眼に飛び込んだのだから迷うのも無理はない。元来は静であるべき大地の一角に陥欠が起って、全体が思わず動いたが、動くは本来の性に背くと悟って、力つとめて往昔の姿にもどろうとしたのを、平衡を失った機勢に制せられて、心ならずも動きつづけた今朝は、やけだから無理でも動いて見せると云わぬばかりの有様が、――そんな有様が若しあるとすれば、ちょうどこの少女を形容する事が出来るのではないか。
 
 「ふわぁ‥‥‥。ん、ゆり‥‥‥。おはよう‥‥‥。」
 そんな百合亜の動揺を他所に、綴理は間の抜けた挨拶を返すだけであった。
 「はいおはよう夕霧ちゃん。さ、時間もないから、早く顔洗って着替えるよ。」
 「うん‥‥‥むにゃむにゃ‥‥‥。ボクはきょうもここにいます‥‥‥。」
 あたしがカーテンと窓を開けるとふんわりと柔らかな光が差し込んできて、綴理は視線を移しながら眠気で動かない顔面の筋肉を不器用にゆがめて笑った。寒緋桃を思わせるその麗しい双眸は何かを見ているようで見ていない。まだ半分夢の中にいるらしい。その様子を見て思わず笑みが溢れてしまう百合亜である、‥‥‥が。
 「‥‥‥いやいや!朝練、朝練だよ夕霧ちゃん!先週二回も遅刻してるからね!早く行かないとだよ!もう梢ちゃんとめぐちゃんから怒られるのは勘弁だからね!」
 百合亜が慌てて彼女の肩を揺らすと、彼女は不機嫌そうに目を開いていく。その目は百合亜の顔を見るとすぐにふにゃりと細められるが、また瞼が閉じてしまう。それでも意を決して徐に立ち上がったかと思うと、
 「むにゃむにゃ‥‥‥。あれ、ボクのジャージどこだっけ‥‥‥。」
 綴理は俄かに手足を躍るように動かして寝間着を脱ぎ始めた。あなや、薄青色のキャミソールが露わになりそうになり――、
 「やめてくれよ‥‥‥」
 百合亜は綴理の生肌から具合悪そうに目を逸らす外なかった。春はともすれば、彼女が神経衰弱になる季節なのかも知れない。
 
… 
……

 
 「ワン、ツー、スリー、フォー。ファイブ、シックス、セブン、エイト。‥‥‥」
 
 さりとていざ練習が始まると、彼女の卓越したパフォーマンスは途端に場を支配する。しなやかな肢体が宙を舞い、まさにスペクタクルと表現するに相応しいダンスは観る者を、――あたしだけではない、めぐちゃんや梢ちゃん、そして沙知さんまでをも魅了していた。より正確な分析を下すならば、それは卓越した舞台技術と表現力とがあると謂うよりは、むしろそのテクニック全体像は一見幼稚で不器用にさえ覚えるものであり、謂わば彼女自身の天才的な感性がうみ出す技巧や洗練されたスタイルを超越した「何か」の表明、或いは非凡な個性の発露でもあった。
 
 「♪~~~~~~」
 
 他方、綴理の歌声には凄烈な情感を籠めた魅惑がある。半音から常に発して半ば眠りかけてる騾馬のように、滑っこい坂の縁をすれすれに幾時間も歩きつづけるような、非有機的な和声ハーモニーや執拗な単調モノトニー、或いはサラ・ベルナール式の朗詠法でさえも悉く冷たい色褪せたちっぽけな発声に聞こえてくるような、耳で聞くというよりもむしろ心に響いてくるような感覚かも知れない。夕霧ちゃんは歌うことを唯一無二の呼吸法としているとさえも思えた。それも単純なリズムから発するのではない、真白で混じり気のない心から発しているに違いないのだ。ただ自然に歌が口を突いて出る。その詞は彼女の魂を、記憶の淵に沈めているような歌。あたしはこの歌を初めて耳にした時から、既に彼女の虜になっていた。
 
 「――あれがのどぐろ、あれがのどしろ‥‥‥。」
 「きょうもいい天気だねぇ。」
 蓮ノ空女学院の校内にある、池泉回遊式風の日本庭園。ここの茶室風東屋は人通りも少なく良く眠れるということで、あたしたちが昼休みを過ごす定番スポットとなっていた。二人が日頃交わしている会話はそのほとんどが他者には理解の及ばない感性的な印象に聞こえ、互いに本音を詮索することなく話それ自体のノリと勢いを楽しんでいるようも見える。
 「あれは鳥で、あの光るのは麒麟。あの雲は‥‥‥鯨かな?」
 「?そうかな。もっと、ぱーってしてるから。あれは、かっぱ。」
 「あっはっは、かっぱ!それもそうかもね。」
 「うん。あれはマシュマロよりやわらかい。」
 綴理と百合亜は二人して流れる雲に名前を付けていく。抑揚を非常に抑えた綴理らしいトーンの中に、これまた彼女らしい独特な創造力が存分に発揮されている。スクールアイドルとして振舞っている時とのギャップがあり過ぎて風邪をひきそうだ。まったく、呑気なものだ。
 そう、春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は使命のある事を忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。唯だ菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。雲雀の声を聞いたときに魂の在り処が判然とする。――ぴーちく、つーつく、といった音が聞こえて来る。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声に現れたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。たちまちシェレーの雲雀の詩のことを思い出して、口のうちで覚えているところだけでも暗誦しようと試みたが、どうにも判然とせず唇が動かなかった。
 
 「わ、カワウソだ。」
 「ああ、ほんとうだ。」
 雲から視線を落とした綴理が指さす方向へ目を遣ると、あの日見たカワウソが水辺で独り遊んでいた。あの瞬間は面食らって気付く暇もなかったが、女学生達から餌を貰い過ぎているせいか、実にぽてぽてしてるカワウソちゃんだ。そして飛び込む池の音。春の温い日差しを浴びて水面は銀紙の様に耀いてそれはまるで鏡の様にも見えたので、水の中に居る筈の姿はまったく映らない。何処かから聴こえてくる水琴窟と竹筒の音が、仄かに幽玄な夢現の響を醸し出す。このような空間に暫時身を置いていると、制服の静謐がおのずと身に添って来る。リボンタイの若々しさ、金糸銀糸の色合い、そして畳の手触りが、一入優しく自分の皮膚に融け込んで来るのだ。自分はいまこの上なく安らかな幸福感に包まれて居る。だがそれは決して厭世の無常感でもなければ、孤独の寂寥感でもなかろう。智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
 
 あとは早咲きの燕子花の香が漂ってくるばかりである。百合亜と綴理は徐に畳へと身体を預けて日向ぼっこに興じていた。
 「ねぇ、ゆり。ボクは手がかかるけど、これからも頑張って。」
 綴理は心地良い微睡を感じる調子で紡いだ。
 「それ、自分で言う台詞じゃないからね‥‥‥?まあ、入学式でおんぶして帰った時から、なんとなく予感はしてたさ。」
 「うん。できることはできるんだ、ボク。できないことはぜんぜんまったくできないんだけどね。」
 百合亜は明るいあけっぱなしの笑い方をしたが、次第にその眼を宙に遊ばせた。唐紙の向こう、東屋の反対側には変成岩らしい庭石が色めいていた。土を均すだけならさほど手間も入るまいが、ふつう土の中には大きな石がある。土は平らにしても石は平らにならぬ。石は切り砕いても、岩は始末がつかぬ。掘り崩した土の上に悠然と峙って、青年のために道を譲る景色なんぞは存在しない。向こうで聞かぬ上は乗り越すか、廻らなければならぬ。巌のない所でさえ歩きよくはない。左右が高くって、中心が窪んで、まるで一間幅を三角に穿くって、その頂点が真ん中を貫いていると評してもよいかも知れぬ。路を行くと謂わんより川底を渉ると謂う方が適当だ。だがこの青臭い日々は固より急ぐ旅でないのだから、ぶらぶらと七曲りへ掛かっても思索の時間が得られる。
 百合亜は考えあぐねて居た、――綴理の言葉の裏に、何となく人に縋りたい景色が見える。人を小馬鹿にした様子の底に慎み深い分別がほのめいている。才に任せ、気を負えば百人の男子を物の数とも思わぬ勢いの下から温和しい情けが吾知らず湧いて出る。どうしても表情に一致がない感じだ。悟りと迷いが一軒の家に喧嘩をしながらも同居している体だ。この少女の顔に統一の感じのないのは、心に統一のない証拠で、心に統一がないのは、この少女の世界に統一がなかったのだろう。不幸に圧しつけられながら、その不幸に打ち克とうとしている顔ではないだろうか。悩み多き少女に違いない、と。
 綴理は「ありがとう」と二度繰り返しながら、仰向けのまま視線を向けて二の句を継いだ。
 
 「それとね、ボクのことは「つづり」でいいよ、ゆり。」
 彼女は不意に真面目な表情に変わったかと思うと、百合亜の灰色に滲んだ瞳の奥を覗き込むようにして呟いた。夕霧綴理、――賢がるまめ人を名にし負う少女、あたしに「なっとう」と「ゆり」の名前を授けてくれた少女。初めて出会った入学式の日に抱いた、不思議で綺麗な子であるという印象は相も変わらずだが、彼女は折々、真面目な相談が始まると、その大きな眸に一杯に憂いの色を湛えて沈鬱な表情になったかと思えば、次の瞬間には忽ち万事を忘れたようにはしゃぎ出すこともある。然しあたしは、こうして彼女と過ごす時間が自然と多くなったうちに、綴理が実にしっかりした、腹もあり分別もある、聡明な少女であることを看取していた。彼女の頭は恐ろしく鋭敏に働いて、ほんの一寸した片言隻語の間にも冴えた閃めきを見せるのである。或いは百合亜が心惹かれたのは、一層多くその聡明に負うところがあったかも知れない。
 忽ち足の下で雲雀の声がはっきりとし出した。やや上体を起こして東屋一幅の風景を見回してみるが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。ただ声だけが明らかに聞える。せっせと忙しく、絶え間なく鳴いている。どうにも、方幾里にも覚える空気が一面に蚤に刺されて居た堪れないような気がする。あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。長閑な春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句は、流れて雲に入って、漂うているうちに形は消えてなくなって、唯だ声だけが空の裡に残るのかも知れない。
 
 「ボク、いままで友達ってぜんぜんいなかったから‥‥‥。仲良くしてくれるとうれしい、うん。ゆりはボクのお世話するの、イヤ?」
 綴理は猶も型外れな台詞を紡ぐ。ただしその艶のある紅い唇の右端には、何故かいつもと異なる極めて浅薄な翳りが見えた。
 「ううん、勿論イヤって訳じゃないんだけど。ゆうぎ、‥‥‥綴理と、一緒に居られるのはすごく楽しいし。あたしに出来るのかなって、というか、あたしでいいのかな、なんて。あはは‥‥‥。」
 本心を隠したがる百合亜の返事はしどろもどろだった。思うに綴理があれ程の評判を取ったのはその美貌の故であろうけれども、――それが同時に彼女を孤独へと誘ったのかも知れぬ。なんとなく物憂げな表情を浮かべる紅口白牙を前にして、あたしは深い共感を禁じ得なかった。雲には衣装を思い花には容を想う、然しその心が棲む処は人情の優しさ。天賦の才と美貌が誘った気高き誇りの末の孤独。どこかおのれと似ている気がするその本性――、綴理の無垢さに秘められた真っ直ぐな優しさに、せめておのれだけでも、心を開いて応えてあげたい。一方でこういう風に彼女から特別の好意を持たれていることがわかると、藤島慈の場合と同じく、あたしは綴理に対してどこか臆病になり、引っ込み思案になるのも仕方がなかった。あたしはあまりにも彼女から期待され過ぎているように感じ、他日必ず綴理に失望される時の来ることを恐れて、なまじ知遇を求めない方が無事だとも思ったのである。
 
 「そっか。ゆりも楽しいんだ。よかった。」 
 綴理の安堵の混じった言の葉が宙に浮かんだ。ここでちょっと会話は途切れる。再び雲雀の声が聞こえた。詩人に憂はつきものかも知れないが、あの雲雀を聞く心持ちになれば微塵の苦もない。菜の花を見ても、あたしは唯だ嬉しくて胸が躍るばかりだ。蒲公英もその通り、桜も――桜はいつか見えなくなった。薄明の花の帳を巡らす桜、それはいつも人の眉の上に咲いて、程よく、ほどほどにあしらう春の生温い風手は、徒らに人の面に打ち付け触り淫れることもあったかも知れない。然しこうして人知れぬ庵へ来て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも全て面白い。面白いだけで別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足が草臥れて、旨いものが食べられぬくらいの事だろう。然し苦しみのないのはなぜだろう?それは、唯だこの景色を一幅の画として観、一巻の詩として読む、そして友と一時の情を共有するからである。画であり詩であり人情である以上は地面を貰って開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲けする了見も起らぬ。ただこの景色が腹の足しにもならぬ、使命の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、百合亜の心を癒し楽しませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。自然の力はここにおいて尊い。人情の温かさはここにおいて代え難い。吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむるのは自然である。

 暫くの沈黙を破ったのは綴理の方だった。 
 「うーん、でも、ボクもまだ、よくわかんないんだけど。なんだろう。‥‥‥ああ、そうか。ボクはキミのこと、もっと知りたいんだ。」
 「綴理‥‥‥。」
 百合亜の睫毛は存外長い。二重瞼の中に、確と燻んで居る。そしてその睫の交叉する隙間から射込む無邪気な眼光が――しんと冴えて透る眼の前の光線に心付いて見ると、鋭く冴えた刃先がじっとこちらの眼の奥を覗いているかの如くであった。あたしはこの眼に懐かしさを感じた。これは、蓮太郎が沙知さんと交わしたあの約束の上に、真裸な自分を眺めた時に感得した、一種異樣の高揚感、その底に幽かな倦怠感が潜むもの――。
 あたしのことを知りたい、か。それは、たとえばキミの知りたがる少女とはこんな男だ。年齡十五で同い年。身長はこれまたキミと全く同じぐらいでよく視線が合うよね。体重は十七貫と十八貫の間。中肉でよく発達した、均整のとれた体つきを制服の下に隠している。顏は正面から見ると割りに寸が詰まって丸いが、横からだとらっきょうみたいに面長に見える。ぱっちりとした二重の下に長い睫毛を伸ばしている。鼻筋が少し長過ぎる位に通っているせいか、頬の赤さに比して色は白い、というよりも蒼白。ひどく怯えて冷たい感じの皮膚。道具立ての一つ一つを取れば決して端麗とも謂えない顔立ちだが、全体から来る印象は、なにかしら元気いっぱいのアイマイさを漂わせていて可愛らしいと評せなくもない。そういったペルソナの少女を演じているだけの、空虚な唯だの道化師。キミにもずっと嘘をついている。薄っぺらい真実しか無いのだよ――。
 
 ――なんて、言える訳がない。あたしは、百合亜だ。鏡を見ずに日々を暮らせる人間のなんと幸福なことか!人間は自分の姿を知る時、はじめて世の中の悲しさを知る。百合亜は出来るならば、この宇宙に悩める廃疾者の唯だ自分一人のみであることを考えた。自分の姿を見する者なかれ。また百合亜の姿によって、自分と等しい悲しみを覚える者のないことを祈ったのである。‥‥‥が、その頬の赤みと睫毛の長さとは、おのずと何を語ろうとせずとも、切実に答えたがっていた。綴理の口から出る言葉には純粋な好意しか感ぜられなかったから。――あたしのことを知りたい、か。そんなことを誰かから言われたことは、我が人生に於いて一度も無かったと思う。ほんとうにそこに在るものを知りたいという願い、肌の匂いに触れて一番深いところで繋がっている友人でありたいと願う想い。ともすればそれは、恋愛感情にも相通ずるかも知れぬ青年の夢。異性相惹き、相結ぶということは人生に掛ける最も普通の、そして人類が最も興味を膨らませて来た出来事であろう。古来、多くの詩歌や物語が、繰り返し繰り返しこれを主題として飽きないと謂うのはその為か。まず、人間の心理。または行為としてこれをみる時に、恋愛は複雑微妙な変化に富み、濃淡色とりどりの多彩な絵巻物となり、時には波瀾を極めた劇的情景を繰り広げるだろう。 
 夕霧綴理――、他者を寄せ付けない凛としたとした美貌とは乖離した、掴みどころのないぼんやりとした雰囲気の少女。自身のなかだけで世界が完結していることがあり、ときおり意図のさっぱりつかめない話題を並べたり、相手の予想していない角度から自分なりの答えを返したりしている、――そんな感じだ。コトリと首を傾げる子供っぽい仕草や物理的に踏み込んだ距離感から、彼女の振る舞いには大きな隙があり、それが百合亜からの警戒心を薄れさせる結果となっている。それは実は寂しがり屋なのであって、人懐っこい性格の顕れ、――そんな感じだ。あたしは胸に手を当てた。動悸は依然去らなかった。それでも百合亜は、この動悸に対して別の名前を与えたいと感じずには居られなかった。どこか、懶惰で無気力な希望。彼女とこうして無為な時間を過ごしたいと願うのは姉の指示ではない、おのれの意志だ。たとえ如何なる美人があっても、一度や二度の会話でもってお互いの意気や性質がわかるはずもなかろう。それこそ「まあ、あれならば」とか「ちょっときれいだ」とか謂うくらいな、ほんの一時の心持ちで刎頸の友を定めるなんて、そんな馬鹿なことが出来るものじゃない。幾ら理屈を並べても相応しい返事が出てこなかったが、だとしても、これは、百合亜の真心であった、――それは感官の呼ぶ声だと謂う感じもして、思考はそのまま深いところで眠ってしまったようだ。言葉だけが、勝手に口を突いて出た。
 
 「あたしもさ、綴理のこともっと知りたい。」
 「‥‥‥そっか。うん、よかった。」
 雲雀の鳴き声の流れが和んだ時、再び二人の間に沈黙が返って来た。百合亜は四辺の静寂に暫く浸る甘さを愛おしく思った。
 「それじゃあお昼寝しよっか。おやすみ、ゆり。ふわぁ‥‥‥。」
 「エッ、いまコミュニケーションを諦めた音がしたよ?」
 不思議な静寂は早くも更け切って、眠たくなるような綴理の声が百合亜の耳朶に響いた。そして優雅に長い手脚を伸ばしたかと思うと、彼女は気持ち良さそうに眠りへ墜ちていった‥‥‥。いやはや、二十一世紀に睡眠が必要ならば、二十一世紀にこの出世間的の詩味は大切なのかも知れない。成る程惜しい哉、いまの世の詩を作る人も、詩を読む人も皆、俗世の些末事に気を張って疲れているから、わざわざ呑気な扁舟を泛かべてこの桃源に遡る者は数少ないようだ。あたしは固より詩人を志しているわけでもない素人なのだから、王維や浩然の境界を女学生たちに布教して広げようという心掛けも何もない。唯だ自分には、こういう感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりもハムレットよりも有難く考えられる。どこかスクールアイドルの煌めきを追いかけている瞬間とも似ているかも知れない。こうやって、あたしが唯だ友と二人弁当箱を担いで春の小路をのそのそあるくのも全くこれが為である。浩然、王維の詩境を直接に自然から吸収して、少しの間までも非人情の天地に逍遥したい、それでいて人情の永遠を抱き締めたいからの願い。一つの酔興だ。それでも、いくら詩人が幸福であったとして、あの雲雀のように思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、我が喜びを歌う訳には行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にもよく万斛の愁などという字がある。詩人だから万斛で素人なら一合で済むかも知れぬ。してみると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲も多かろう。板に立つスクールアイドル達もそんな悩みに苛まれているのだろうか、それならば〈少女〉を演じるのも考え物だ、――だからであろうか、真っ直ぐな想いを伝えてくれる綴理の言葉は、雲雀が天高く舞い上がるのとは逆向きに、百合亜にとってはひどく心地良く沈んでいくものであった。
 
 仰向けに寝ながら、偶然目を開けて見ると、
 「すぅ、すぅ‥‥‥。」
 〈百合亜〉が得たはじめての友達は、微温と微睡とのうちに時を過ごしていた。春風檻を払って彼女の銀髪を靡かせ、露華濃やかにその頬を照らしている。
 もうちょい身体を逸らして、欄間には、朱塗の縁をとった額が掛かっていることに気が付いた。文字は寝ながらも「竹影払階塵不動」と明らかに読まれる。大徹という落款も確かに見える。あたしは書については皆無鑒識の無いが、平生から黄檗の高泉和尚の筆致を好んでいる。隠元も即非も木庵もそれぞれに面白味はあるが、高泉の字が一番蒼勁で而も雅馴である。いま此処でこの七字を見ると、筆のあたりから手の運び具合、どうしても高泉としか思われなかった。然し現に大徹とあるからには別人だろう。ことによると黄檗に大徹という坊主がいたかも知れぬ。それにしては紙の色が非常に新しい。どうしても昨今のものとしか受け取れない。横を向く。
 「すぅ、すぅ‥‥‥。」
 我が友の柔らかな吐息、微睡の春の信仰箇条。その他には床に掛かっている若冲らしき鶴の図が目につく。逸品だ。若冲の図は大抵精緻な彩色ものが多いが、この鶴は世間に気兼ね無しといった一筆描きで、一本足ですらりと立った上に、卵形の胴がふわっと乗っかっている様子は、甚だ我が意を得て、飄逸の趣は長い嘴の先まで籠もっている体だ。床の隣りは違い棚を略して、普通の戸棚につづく。戸棚の中には何があるかわからない。兎角、良き春の一時である。百合亜もすやすやと寝入る。夢に。

3

 今年の春は全てのものに強く働きかけようとして居る。入学式の日には学園のそこら中に芽を出した若草は、毎日のように寸を伸ばしていって、やがて女の髪のように房やかになることだろう。今は未だ見習いの禿といった伸び具合だが、あたしは成長したそれを踏むのを心待ちにしている。素脚の足の裏に冷たい、柔らかな、擽るような感触を楽しむことが出来るのも、もう程なくのことらしい。むかし大陸は晋の時代に曇始という僧があった。渾名を白足和尚と呼ばれただけあって、足の色が顔よりも白く滑らかで、外を出歩く時雨上りの泥水の中をざぶざぶと徒渉しても、足はそれがために少しも汚されなかったということだ。こうして胡坐を掻いたおのれの足を改めて見ると和尚のそれとは異なって、色が黒く肌理が粗い。柔らかい若草の葉を踏むと、すぐに緑の色に染まるので、あたしはそれを見て自分の足の裏からも若やかな春を感じ、漸く新年度の始まりと春の盛りを味わうことが出来ようというものだ。
 
 「――いいや、ごめん。やっぱりわかんねぇわ。しんどいって姉さぁん!」
 
 夜、沙知の部屋にて。大賀美妹はその心中を吐露すべく劈くように叫び出したのである。足踏みもならぬ反吐や優しい嘘を不器用にも飛び越えられず、柔らかい砂の中に足を踏み外して誠実さとともに真っ逆さまへ転げ落ちているような具合で。暗を孕んで墨よりも黒い、淵へザンブと飛び入った慟哭の声が響いた。
 「うーん、そうだねぃ‥‥‥。」 
 その音はふっと沙知の顔を吹いた時、はっと思ったらつい踏み外して、すとんと落ちた、彼女はこれは大事だという表情を作っていたが、然しそれでいて直接慰めてやるといった体ではなく、顎に手を当てて考える素振りを見せていた。百合亜は瞳に涙を溜めているかの如く哀しい眼付きで捲し立てるように続ける。
 
 「不遜の誹りを受けても構わないので正直に言わせてください、姉さん。綴理はさぁ、見ての通りすっごく美人で、確かになんとなく近寄り難い雰囲気はあるし、偶になに言ってるかよくわかんない時もあるけど、ほんとうに良い子で。唯ださ、感情表現が少し苦手な寂しがり屋ってだけなんだよ。綴理が純粋な好意で〈百合亜〉と友達になりたいって気持ちはよくよく伝わってくるし、あたしも一緒に居て楽しいからさ、心からそうありたいと思うよ。うん。あ、でもあたしたち二人の関係は別に恋愛感情っていうよりはさ、むしろ戦友に近いっていうか。若しスクールアイドルとして煌めきたいと彼女が願うなら、あたしも全力で応えたいなって、そう思うよ。」 
 そう言葉にしていく中でなにか淋しい、引入れられるようなものが百合亜の心にふうわりと被さって来た。それは単なる情緒ではなかった。淋しい、佗びしい、そして頼り無いようなものが、彼女の心の上に煙のようにふうわりと投げかけられたのである。彼女は本能的にそれを脱しようとして眼を開き、その饒舌は止まらなかった。然し彼女はまだ半ば眠っていたのである。そして彼女が脱しようとしたその寂寥たる或物が、また引き入れるようにして彼の眼瞼を閉じさせる。彼女は全身微睡むような夢心地に震えながら、醒めかかった心をじっと、その或物へ集中した。
 
 「綴理がちょっとだけ生活力足りなそうっていうのは、わかった。あたしが朝も起こしに行くし、お昼のお弁当も作ってあげる。放っておいたら普段食事を摂るのも忘れちゃうし、休みの日なんかはスケジュール管理してあげて練習にも連れて行ってあげたさ。ほんとうにいままでどうやって生きて来たん?って不安になるくらいの生活能力だったから、逆にあたしも面倒見るうちにちょっと楽しくなってきてね。可愛いらしいものです。それはまあ、いいんです。」
 百合亜は片膝を立ててから一呼吸を整え、湯浴み後の火照る紅い下唇をぬらりと舌の先でなめた。普段はやや青白い頰がほんのり上気していて、心持ち血色が良く思えた。長い睫毛の下に覗いた灰色の瞳もほんのりと濡らしたが如く、声もいつもよりほんの少しだけ鼻にかかる。相対する沙知は猶も神妙な面持ちのまま「ふうむ」と吐息に似た呟きを唇から洩らし、首を傾げて考えて居るだけであった。
 
 「でもさ、だからってこの距離の詰め方はないだろ‥‥‥!不意に腕組んでくるし、この前なんて廊下でいきなり後ろから抱きつかれて。へぇっ!?ってもう、変な声は出るわ周囲からの視線が集まるわで、びっくりしたよまったく。いやでも、綴理も綴理だよ!まだ出会って幾日かの人間に、これ程に心を許しちゃいますか!?お世話係としてあたしは心配ですよ、‥‥‥いやいや、そうじゃない。あたしの!少年としての心が!!悲鳴をあげているんです!!!」
 じっとしているに堪えられないような、それでもじっとしていなければならないような、荒凉たる感じが百合亜のうちにその時湧いて来た。それは、空虚な柔い擽ったいような苦悩。自分の心を騒がせるのはあながち〈道化〉のことばかりでないという恐れ。そこには、なにか猶予なく解決を要求しているものがあったけれど、それは考えに表わすことも、ことばに伝えることもできないものだった。全てが一つの糸玉にくるくる巻き込まれてしまうのであった。
 
 「道化を演じるのは、幾らでも構わない。やむを得ず言う嘘、やむを得るに拘らず言う嘘、密かに言われ陰に行われている嘘、おおっぴらに行われている嘘。倫理では頻りに嘘をついてはならぬと教えられるけれど、さらばといって、嘘をつかずには生きてゆかれない。これについてはあたしも納得しています。もうガキじゃない。」
 おのずと記憶の底を突いてしまった百合亜は鼻を啜りながら天井を見上げた。次第次第に、彼女は姉の部屋にある不正形の壁と天井とに惹き付けられていった。というのも彼女はそれら奇矯な角度から、それらが作り出された目的について解明するための糸口を与えてくれそうな数学的意味合いを読み取りたいと思うようになっていた――、と間も無く百合亜は何か閃いたように沙知へと視線を戻し、ここに来て一層語気を荒げたのである。
 
 「そう、これは倫理上の障礙。一歩毎に強く加わる良心の呵責。彼女はおれを〈百合亜〉という少女として捉えて交わってくれている。彼女の無邪気な気持ちに対して、おれはやっぱり真摯じゃない。友達を装って近づく仕掛け山伏の悪知恵。ほんとうのことを言わないのって、ズルいと思うんです。そもそも、おれと彼女は――」
 男と、女。その言葉を紡ごうとしたときにあたしはぞっとした。おのれはとんでもない罪を犯しているのではないのか、と。彼女の下着や生肌が見えそうになった時の、あの後ろめたい焦燥感。言い損いの表明にこびりついている感覚的痕跡を発見してしまったのではないか。ふと額を拭った時に百合亜は気付いた、汗が幾つにも筋を引いて、流れている。
 ひとつは境遇から、ひとつは自分の性格から、兎角苦悩の多い早熟なあたしにとってこの上もない慰藉となったのは間違いなく、綴理が〈百合亜〉に対して優しく心を開いてくれたことであった。それ以後、あたしからも綴理へは親友のように馴れて甘えて、恰も生れてはじめて自分が友達を得たような気さえしていたものだ。されど、綴理を大切な友達だと思うと同時に、おれの心は彼女の前に卑屈で、後ろめたく、臆病なものに変わってしまっていたのもまた事実であった。
 ああ、あたしはこう考えざるを得ないのだ。曰く道化とは、最も微妙に、この人間の「観念」の中に踊りを踊る妖精である、と。現実としての空想の――ここまでは紛れもなく現実であるが、ここから先へ一歩を踏み外せばほんとうの「ウソつき」になるという、このような、喜びや悲しみや歎きや夢やくしゃみやムニャムニャや、凡そあらゆる物の混沌の、凡そあらゆる物の矛盾の、それら全ての最頂天に於いて、羽目を外して乱痴気騒ぎを演ずるところの愛すべき怪物が、愛すべき馬鹿者が、即ち紛れなく道化なのではないか。知り得ると知り得ないとを問わず、人間能力の可能の世界に於いて、凡そあらゆる翼を拡げきって空騒ぎをやらかしてやろうという、人間それ自身の儚なさのように、これもまた儚ない代物には違いない。然りと雖も、人間それ自身が現実である限りは、決して現実から羽目を外していないところの、このトンチンカンの頂天が道化である。もう一歩踏み外せばほんとうに羽目を外して「ウソつき」へと堕落してしまう代物ではあるが、勿論この羽目の外し加減はあたし自身の「精神力」の問題であって、仮面一枚の差であっても、その差は倫理的に、質的に、差の甚しいものである。
 
 沙知さんは漸く重い口を聞いたかと思うと、
 「モラトリアムだねぇ。」
 と意外にも大して構いなさそうに見えず、やがて小首を傾向けると横着らしい口調で答えたのである。ここで百合亜は思わず嘆息を洩らした。
 「齢十五ともなると、どうしてもこんな思春期らしい感懐に悩まされるものなんでしょうか。沙知さんと約束して、三ヶ月間も準備してきて、でも結局は中途半端で。所詮はガキくさい、食えない覚悟だったのかも知れないですね。ダメダメですみません‥‥‥。」
 そうして沙知は少し面喰らう。百合亜の秘密の抽斗には入れ替わり立ち替わり得体の知れない苦悶と自棄があって、矢張絶えずなにかに思い悩んでいるのに違いないと確かに察したのだろう。
 「いやいや、そんなことはないさ!百合亜はよくやってくれているよ。それこそ、あたしの期待以上に、ね?」
 沙知はいつもながらの優しい笑顔で百合亜を慰めた。妹はその姉の表情から音聲から、単なる手段に過ぎないような巧言令色なる媚弄を寸毫も感じなかった。それはあの日、彼が彼女から貰った勇気と同質のもの。そしてその彼女の優しさは、それは最初から彼独りの性質にわざわざ適合して造られたかのように思われる程、それ程彼の心を温く柔らげたのである。
 
 「あたしこそ、軽率なお願いをしてしまったかもしれないね。すまなかった。どうにもキミに頼り過ぎていたかもしれない。キミと夕霧ちゃんが傍目からも仲良さげに見えたから、猶更。」
 「姉さん、おれは‥‥‥。」
 道化師の溺れそうな視線を、静かな、美しい瞳で受けながら、沙知は優しく詫びた。
 「いやまあ、勿論キミや、それに、事情の知らない夕霧ちゃんを人身御供にする気なんてのはさらさらに無いんだぜ?唯だ、これはお互いにとって良い機会だと思ったんだ。この試練を乗り越えれば、〈百合亜〉はどんな女子との触れ合いにだって打ち克てる、強靭な精神力を手に入れるはず。」
 「‥‥‥。」
 今度は懇々と諭すように長々と応え、百合亜は却ってしんみりした感傷の面持ちで聞き入っていた。彼女は厚い硝子の仮面を通して、ひたすら琥珀色の双眸を凝視していた。暫くの沈黙が始まると、百合亜は大抵腕を組んだり、下を向いたりして「うーん」と考え込んでいた。そして漸く口火を切るのである。
 
 「‥‥‥いいえ、やってみせますとも!うん、大丈夫‥‥‥!聞いてくれてありがとう、姉さん、弱音吐いちゃったけど、声に出したらスッキリした。」
 苦笑いを引っ込めて、百合亜は膝のまますっくり立ち上がった。筋肉質で締りのいい脚が、鼠にやっつけられた蜥蜴の如く寸法足らずでゆらぐと見えたが、忽ち流れのままに凛然と起立した。頸筋から肩へ掛ける稜線が、盛り上る太の真直を、なだらかに曲って胸の高鳴る肋骨に爽やかな、優しさと力に溢れたような情感の全身的な決意表明をぐっと握り締めたその拳に託している。彼女は、れいの如く姉の口車に載せられてしまった、などという気は微塵も感じていなかった。
 
 「うんうん、なかなか良い返事だ!流石はあたしの妹!まま、あたしからもできるだけのフォローはするから。きょうみたいに気楽に相談し給えよ。それに――」
 莞爾という言葉にうってつけの笑いをその口端に漂わせたが、沙知はそのまま視線だけを逸らしてからもう一言を継いだ。
 「――あたしとしても、夕霧ちゃんとはもっとお話してみたいからねぃ。」

 つられて視線を窓辺に移すと、思いの外夜は更けていた。

4

 奇跡的に蓮ノ空での三週間を無事に過ごしてきたあたしは、引き続き〈百合亜〉として学院の生活に馴染むことができるように努めた。その結果を沙知さんに報告し、自己研鑽に励み、将来の共学化のために役立てる。或いはめぐちゃんからの「女の子っぽくない」など厳しい指摘が突き刺さることもあったが、これにもぶつぶつ言いながら受け入れて改善していく。ご飯で謂うなら一膳分だけ炊いてみて、その味、ツヤ、粒立ちを記録するといったところ。炊飯ジャーで良かったのか。飯盒の方が良いのでは。水の量は?待ち時間は?だが実際に炊き上がったのは、半ライス程度の量の情けない不安感。而も気付けば勝手に火が放たれ、いつの間にかチャーハンになっているという事態だ。
 
 「ピッ(炊飯器の音)」
 
 朝六時、あたしは寮のキッチンにて炊飯器と向き合っていた。そう、あたしの早起きのもうひとつの理由は弁当づくりの為である。今日も今日とて三人分の弁当をせっせと盛り付けていく。きょうのおにぎりは富山県風の昆布巻きにする。寮のキッチンは言わずもがな共有空間であったが、お嬢様校では学食派や購買派が多いのだろう、意外にも混雑することは無い。それでもここの炊飯器は有名メーカーのブランド品で、実家のそれと使い勝手が違ってまだ慣れない。そうだ、あたしもまだ、手探りなんだ。
 
 「ゆり、きょうのお弁当‥‥‥さくら、入れたんだね‥‥‥。あんまり美味しくなかったから、夢でほっとした。ゆりなら美味しいさくらを作るはず。ん?さくら作らない?そっか。」
 と、趣意は知悉できなかったがどうやら綴理は楽しみにしているらしいし、それに旧知の幼馴染からの頼みということもあればあたしにしても弁当づくりに否やは無かったが、然し、それでもあまり気が進んではいなかった。と謂うのは、作るのがイヤなのではないが、れいの卑屈さが起こって、彼女達のような美少女の前へずけずけと出ておのれの自作弁当を厚かましくも献上するなどという行為が、一層窮屈でもあり恐くもあったからだった。既に自分ながら、カンバスの中を往来しているような気がした。
 
 ――ホームルーム前、一年百合組。
 
 「ゆり~。きょうのお弁当なに?」
 
 ふにゃり。梢ちゃんと談笑していると不意に後ろから抱きつかれた。黒い手袋を嵌めた華奢な腕があたしの腰に巻き付く。同じ高さにある髪と髪、頭と頭がふんわりと触れ合う。互いの呼吸と動悸とが相察せられんといったゼロ距離に、一緒に時を刻みながらだんだん強うなって行く思いが湧き上がってくる。
 
 「おはよう、夕霧さん。うふふ、あなたたちはきょうも仲良しね。」
 「おはようこず。うん、ボクたち、「めっちゃ仲のいい親友」だからね。」
 「へへっ」
 
 ぐっと親指を添えるジェスチャーをしてみせる綴理。ふにゃり。次の瞬間に彼女の甘い吐息が一層近寄って、燃えるような唇の振動が耳朶に触れて、あたしの心臓が一時に破裂しないか知らぬと思われた。ふにゃり。後ろから抱きしめている綴理の体温が染み渡る。福音書の挿話でも譬えようもない程の快感。そこでわざと一二分、まだ意識朦朧たるフリすらしたくなる。可愛い罪悪感。ふにゃり。好天吉日、あたしの充分なる準備と重大なる覚悟が解けていく音が聞こえる。どうしても顔がニヤけてしまう。ふにゃふにゃ顔だ。
 
 「じーーーーー。」
 そこで幼馴染の鋭い眼光が静かなる春風をひやりと斬った。詩の国に遊んでいた少女は、急に足を外して下界に落ちる。落ちて見れば唯だの罪人である。痛い、痛いぜめぐちゃん‥‥‥!頼む、赦してくれ、というか助けてくれ、我が幼馴染‥‥‥!相手は寄りつけぬ高い崖の上からこちらを見下ろしている。百合亜は自分をこんな所に蹴落としたのは誰だと考える暇もなく現実に引き戻される。
 
 落ち着け落ち着け、これは試練だ。百合亜はまず記憶を掘り起こし始めた、あの狂乱の道化の日々に、同輩の女学生達がおのれにヒソヒソと刺してきたあの視線を。恐怖なんて無くもがなである、――と、片付けてしまう人は話にならない!恐怖は人間の神経を刺激することが大きい。ひどい症例ではその場に立ち竦んで心臟麻痺を惹起したり、或いは一瞬にして頭髮悉く白くなって白髮鬼となったりする。そんな恐怖に自分自身が二度も襲われることはかなわん。「智者は惑わず、勇者は懼れず。」などと知己の小坊主がひとつの格言たれと自慢気に語っていたが、さりとて如何なる勇者とても、凡そ人間である限りは恐怖は感ずるに違いない。唯だ、恐怖を感じっぱなしで終わるのではなく、恐怖は恐怖として置いて、恐怖来るもあに懼れんやと気を張り勇気を奮い起すのだと、あたしは解釈する。そして、勇者こそ最も恐怖の魅力なるものを知っているのではなかろうかとも思う。あたしの如き凡夫は典型的な非勇者であろうが、左様な恐怖を我がものと馴らしてこそ、百合亜が真に甲斐ある〈女子〉ならんと願うのみ。
 ああ、そういえばニーチェがこうも語っていたとも知恵の宮殿を獺祭する。曰く、婦人には余りにも永い間暴君と奴隷とが隠されていて、それ婦人に友情を営む能力のない所以である。婦人の知っているのは恋愛だけである、と。いまの時代の生活の感情のなかに受けとって味わうと、ニーチェの語り草もおのずと彼の生きた時代のものの考えかたを歴史的に映し出していて面白い。この詩人風な哲学者が「婦人のなかには」云々と一方的にだけ言っていて、そのような婦人が存在する当時社会の他の現実関係として、彼ら男性が婦人に対して持っていた習俗なり態度なりについて、男自身のこととしてまるで省察の内にとりあげていないのは実に興味がある。婦人の知っているのはそればかりとされている恋愛にあっても、そういう相互関係のなかでは、やはり婦人の内なる暴君か奴隷かが跳梁して、つまりは彼自身のもう一つ別な有名な言葉、即ち「女には鞭をもって向かえ」という結論をも導き出せたのだろう。‥‥‥いや、違うのだショーペンハウアー、あたしが思索を深めたいのは、現実に婦人の、――延いては〈少女〉の友情を営む能力というものが、今日の〈女学院〉という場に於いてどのくらい成長して来ているだろうか、ということ。太古より議論の絶えない、友情を異性の間のこととして見た場合それはどうなのだろうか、ということ。異性間の友情というようなものはあり得ない、――そちら側の答えをしたくなる気持ちも、実はわからなくはないのだ。妙にロマンティックに異性の間の友情などという悲劇乃至喜劇が数多の物語に描かれて来て、現実には恋愛ともいえ、或いはもっといい加減に男女の間に浮動する感情を、その友情というようなところへ持ち込んで逃避したりする、無責任なくせにまぎらわしい。そんな甘ったるさを嫌って、却ってはっきり否定したのだろうと考えられる。
 我われ高校生ぐらいの年頃の恋愛に於いて、多かれ少かれロマンが、――敢えて換言して「夢」の要素が存するとすれば、その最も著しい現象は、あたしがこうして否応なく放り込まれてしまった思春期を含む、恋愛なるものを想像する時代の、つまりは明瞭な目標すら無い、或いは「空想のなかに浮ぶ美しい異性」への漠然たる恋心とでも評するべきものであろう。次には、誰彼となく眼に映る異性のなかから、あてもなくその一人を拾いあげて、秘かに戯れの思慕を寄せてみるということもあるかも知れない。戯れが戯れに終わらない悲劇も、この青春時代に限ってはさほど深い傷手とはならぬ。この種の「夢」は、儚いと謂えば限りなく儚いものだが、然しこれによって現実の恋愛が準備され、その恋愛の値打ちが予め殆ど決定されるという事実は看過できない。恋愛は、それが若し、真に恋愛と名付け得るものならば、これは確かにひとつの「力」となろう。異性が相愛する、その愛し方によって自他ともに成長して、向上して、強大となることは、あたしの拙い理屈の上からも、将又古今東西の文学の例を渉猟しても間違いのないことだ。かかる恋愛はそれでいて誰にでも出来るというものではなく、それに値する人間のみが為し得るのだろう。而も相手のみならず、おのれもこれに相応しくなければならない。
 自省が右往左往しつつあるが、兎角「異性の間の友情」についてて百合亜に同様の問いが出されたとして、それに対する答えをこの蓮ノ空女学院での生活の内に探った場合に限っては、簡単には「否」とは表明できぬ返事が現れて来るのだと伝えておきたい。女同士の友情が深い根をもっているその生活感情のひろがりの中に、矢張異性の間の友情が自然な実際として含まれて存在していると、あたしは考えている。現時点での百合亜の解答としては、異性の間の友情は確かにあると思っているし、ここに存在している。勿論それには、非常に、複雑な条件が伴ったものであるけれども、‥‥‥という、繰り返しの返答になる。
 いいや、強く断言してしまえば、感情や欲求などというのは所詮、脳内のホルモンバランスの変化以上の何者でもないのだから!テストステロン値の増減だけが百合亜の覚悟と信念を脅かしていると、そうやって第三者的に観測してしまえば実にくだらない感懐だ。苟も綴理は〈百合亜〉の大切な友達だろう!――これに尽きる、簡潔明瞭だった。「友達」の二文字と半ライス程度の理性でもって徹底的な論理武装をすれば、あたしはどんな試練にも打ち克てるはずだ。少年少女の論理形態を決定するもの、論理に動機を与えそれの動力となるもの、それはもはや単なる論理ではなくして情意乃至信念である。道化もって正義を為せ!この謂わば思春期発展段階に於ける論理は、あたしが是非通過しなければならない段階なのだ。
 
 ――朝、綴理の部屋。
 
 「ふわぁ‥‥‥。おはよう、ゆり。」
 「うん、おはよう綴理。きょうは目覚めがいいねぃ‥‥‥んんっ!?」
 毛布を捲って現れたのは、――レースのついた下着そのものがちらちらする。そして彼女の胸郭に二点を描く春色のポルックスとカストール。――早くもおぞましい罪悪感を伴った羞恥が、少年の心を残す百合亜に懸命の抵抗を試みさせる。然しそれも一定の限界を越えると、奇怪なことに、蓋恥までがあたしを裏切ってしまうようであった。つまり、何者かがあたし手であたしの羞恥を丸裸にすることを命じる。百合亜の羞恥は狼狽する。が、命令者は極めて執拗である。あたしは被虐的な快感を伴って、遂にその命令に服するより他はなかった。
 
 「――綴理。明日からはちゃんと下着つけてから、寝ようね‥‥‥。」
 「?うん。」
 聖フィデスも斯くあらんやという純粋な眸があたしの道徳武装を丸剝がしにしていく。あたしはウィッグの上から頭を掻いて視線を泳がせる。この部屋に充満するのは観るに堪えないソドムの理想だった。疑いを抱いてしまったおのれに対する罪悪感が湧き起こり止まらず、いま唯だできることは、罪悪感の喚起する虚勢でもって、疑いも罪悪感もまとめて拭い去ってしまおうとすることだけであった。――お母さんごめんなさい、お婆ちゃんごめんなさい、姉さんごめんなさい‥‥‥おれを死刑にしてください!
 女目に男子だなと気づかれるのが恐ろしさに、寮に入ってからというもの、大好きなお風呂には一度も浸かることなく、なんとかかんとか辞柄を設けて人流の尽きた消灯時間ぎりぎりにそそくさと大浴場一角のシャワー室に行き、一度だって他の女子に遭遇したことはなかった。努めて〈女子〉たらんとする一方、理性もってホンモノの〈女子〉とは一線置いて退こうと気を張ってきた。それが、これである。ふにゃり、――これは矢張、百合亜の中で何かが崩れる音なのかも知れぬ。勿論あたし自身が未熟なのもあるけどさぁ、‥‥‥我が友はそれでも隙が多すぎる!あたしはねぇ、学校の中でもそそくさと教員用トイレ使っているのに‥‥‥!おれだって、ふつうの高校生活を過ごしてさぁ、立ちション連れションの青春をしたいっていう気持ちも、なくはないのに‥‥‥!
 
 あたしの心は千里離れた磯に立って、人知れず浪にくるくる舞い狂っていたのである。

5

… 
……


 駘蕩たる春の夕も漸くにはじまるといった放課後の折。沙知部長は一番乗りで部室にやって来てまずはカーテンと窓を開け放ち、雲の隙間から条々と下って来て、踏み慣れたリノリウムに日脚を伸ばさんとする西日を受けて柔らかい光を放っている部室を見渡していた。片寄せる春の夕風に艶かしい緑髪を靡かせていると、ドアの開く音に合わせて視線を跟ける。
 
 「ねえ、さち。」
 「ん?どうしたんだい。」
 「さちとゆりに言われた通り、スクールアイドルクラブに入ったよ。あとはどうやったら、ボクはスクールアイドルになれるの?」
 何の話をするという訳でもない、新入生の中でも飛び切り器量のある長躯の後輩は、出し抜けに純粋な疑問をぶつけて来たのである。然し、如何にも一場の客気な問いかけに潜む調子の下に、愈々彼女がおのれを押し出す構えのあることを、小柄で思慮深い先輩は敏感に見て取ったのかも知れない。
 「んーんーんー。スクールアイドルっていうのは、自分がスクールアイドルだと思えれば、みんなスクールアイドルなんだけども‥‥‥。」
 「?」
 綴理が猶も虚空に疑問符を呈示する。一方の対面する沙知も、寧ろこの景色を長く待ち望んででも居たかの如く落ち着きでもって、おのれの疑問を正直にぶつけてみる。
 「そもそもキミ有名人だろ?外部のダンスクラブを含め引く手数多だろうに、どうしてスクールアイドルクラブを選んでくれたんだい?」
 「みんなでやりたいし。」
 綴理は暗然と俯くように、やがて呟やくような微かな声で答えた。憂色に足元を見詰めるその眠たい瞳は、遠い過去の、将又未来の夢の世界を覗き見しているかのようであった。
 「なるほど。‥‥‥孤高の存在として持ち上げられていた裏側‥‥‥なんて、仰々しいことを言うつもりはないけども‥‥‥。」
 「?」
 未だ釈然たるを得ずといった表情で小首を傾げる綴理。実生活の波瀾に乏しい、孤独な道を踏んで来た彼女の衷に、思いもかけず、こうして多数の個性を発見してしまった時、沙知は眼を見張って驚かずには居られなかったのではないか。彼女自身が眼を据えて憚りなく自己を凝視れば凝視るほど、大きな真実の人間生活の諸相が明瞭に現れ出た。彼女と、そしてあたしの内部にまで充満して来て観る者の表現を待ち望んでいるこの不思議な世界、なんだそれは。あたしは今にしてそれが何であるかを知るだろう、そんな確信を抱いた。それは彼女の記憶とスクールアイドルへの熱意とが、夢によって外界からあたしの衷に連れ込んで来た、謂わば夢の捕虜の大きな群れなのだ。それらは各々自身の言葉をもって煌めきの解放を訴えている。されど、その少女の一身に充満した空想の数々を現実の形に変化させるのは容易なことではない。

 「キミはもう、いつでもスクールアイドルで良いんだぜ?」
 沙知はその飄々とした口調に深い優しさを載せて頷き、ゆっくりと腕を組んだ。
 「んー‥‥‥だとボク、たぶん今「ス」だから。」
 「スクールアイドルの「ス」ってこと!?み、道は険しいねぇ!?」
 「スクールアイドル見習いのスだよ。」
 気の故か、綴理の美しい輝きの顔に、不安の影が颯っと通ったように思えた。
 「道は果てしないねえ‥‥‥。でも、そうだねぃ。こういうのは、ぱっと出来るものでもないか。あるいは、ひとつひとつ積み重ねていく他ないのかも‥‥‥。」
 「さち?」
 沙知は独り言の調子で、記憶にそっと流れ込んださざ波のような淡い考えを物語った。声は再び、寂かになって行った。独り言するその声は、かの人の耳にばかり聞えて居るのであろう。夕陽が静謐の頂上に達した現し世は、一線の眩さが鎮まると共に、俄に常世の物音が起る。卯月の、空を行く音すら聞えそうだった部室の中に、まず木の葉が音もなく動き出した。次いで遥かな尾根のながれの色が、青々と見え出す。更にひろく、学園中に響き渡る、何処からか起る間抜けた鐘音のつくるとき。沙知は、自分の胸中にある言葉を慎重に選んでいるようにも思えたが、やがて意を決したように口を開いた。それは、まるで自分自身に言い聞かせているかのようにも聞こえた。
 「安心したまえ、綴理。キミはこの三年の間に、必ずスクールアイドルになれる。」
 「ほんと?」
 綴理は物憂げな呟きに、然し一つの情熱的な硬鋭なものを閃めかして問いかける。
 「ああ。まず、その一歩目は‥‥‥」
 大きな落ち込んだ少女の眼の下を薄黒い半円形の暈が、怠そうな皮で物憂げに染めていたものを、もう一人の少女を通してすき透り、吹き廻り、精神の尖端の桃源を優しく、美しく爽かに、二重の耀きを眸の面に見せて、朝紅から夕映えの尺度を携え、深紅の情熱を灯して、映る。燦爛とした天の耀きは一筋の想い、薄き紫の煙を徹して、あわれ、あたしたちの心を盪かせよう。

 「あたしと、「DOLLCHESTRA」をやろう。」

 左手を差し出しだした沙知は、お得意の会心の笑みを洩らした。その大きな体躯に似合わず心許なく身を縮めて居た後輩の手を取り、にいっとした表情のまま先輩は両手で包み込む。渓川に危うく渡せる木製の一本橋を前後して横切った如くの二人の影は、手と手を取り合い、草山の草繁き中を、辛うじて一縷の細き力に頂きへ抜ける春の小径のなかに現れる。埋もれる小路はまるで緑の手拭で屋根を葺くように、いままで空と雲との間に張られて隠れていたかも知れぬ。今日も草は固より去年の霜を持ち越したまま立枯の姿を覗かせるけれど、それでも薄く溶けた雲を透して真上から射し込む日影に蒸し返されて、両頬のほてるばかりにあたたかい。ふたりの少女の掌は熱を帯びていた。あなたまかせの春風らしい暖かさだけが、水々しい空気の中を吹き渡っていく。

… 
……


 「ごーきげんよー!‥‥‥あれ、沙知さんと綴理だけかい?」
 気楽な程お道化た百合亜の甲高い声が、これまただらしなく思われるほど程間の抜けた明るさを部室に投げかける。時恰も少女の心を休め清むる神聖な静寂境も更けてきて、そして放課後の学院では、校庭の混雑、咽るほどの土埃、廊下の喧騒、猥雑な笑い声、リリシズムに満ちた歌声、不規律な楽器の音。よくよく凝視ればこれといって数え立てるほどのものは殆ど視界に入って来ないのだが、少女百合亜の平民的な魂は、きょうも青春の鼓動と歩調を合わせていた。学校という空間に束縛される少女の眼界は極めて単調で、そうしてまた極めて狭いものだ。
 
 「ああ百合亜、ちょうどいいところに。たったいまユニットが結成されてねぃ。あたしと綴理で、これからDOLLCHESTRAとして活動することになったんだ。」
 「いえい。」
 綴理と沙知はふたりして可愛らしくピースを差し向けた。
 「え~!めっちゃ重要なシーン見逃しちゃったじゃん!残念無念だぜ‥‥‥。」
 「もう一回やろうか?」
 「あはは、やらないよ?」
 などと受けて、少女達は楽しげに冗談の材料とする。春景の飄々翩々たるを観て花に諭え玉に比べ、勝望美景を愛し、芸文音律の楽しみを添え、画に写し詞に列ねて称翫するは和漢古今の通例なれども、これ厭味の浅き青年の楽しみなる哉。大変ものやわらかに、品のいいような快さを感じるとともに、年に似合わない単純さに罪のない愛情を感じて、尨毛だらけの子犬を眺めながら自ずと微笑まれるような心持になる。扨てはそれを能天気な問いかけが打ち壊すのである。
 
 「それで、さち。DOLLCHESTRAって、なに?」
 「あれ!?綴理、知らないまま沙知さんとユニット結成しちゃったの!?」
 「そんなこと言っても、ボクはいま、ただの「ス」‥‥‥だし。」
 綴理が不意に表情を曇らせ、先ほどまでの悪戯めいた笑いも薄れてしまう。しまいには遠き未来の世を眼前に引き出したるように窈然たる空気の中にとりとめのつかぬ鳶色の影が侘しく残る。その時この鳶色の奥にぽたりぽたりと鈍き光りが滴るように見え初める。
 
 「あはは、うん、そうだねぃ。‥‥‥こほん。DOLLCHESTRAというユニットは、劇場の名にふさわしく、舞台の上で人々に想いを伝える「居場所」そのもの。」
 沙知は部室に並んだ先代スクールアイドルクラブの写真や資料をざっと見渡しながら、そう呟いた。その声がやや重苦しくなったことから綴理がそっと先輩を見遣るが、沙知さんは飾り気のないほど穏やかな表情をしていた。というかさっと流してしまったが、「ス」ってなんだろう。
 「‥‥‥?つまり、どういうこと?」
 訝しんだのは綴理も同じだった。彼女はくりっとした桃色の瞳で静かに先輩を見詰めている。
 「スクールアイドルのライブは場所を選ばない。‥‥‥と、あたしは思ってる。スクールアイドルの立つ場所、そこにステージの煌めきが宿る。キミ自身が演じるスクールアイドルとしての姿が、キミ自身の居場所となって、観る者すべてを魅了していくんだ。」 
 「?‥‥‥ごめん、まだわかんないや。」
 綴理は再び眼を伏せた。訴えるような切なさで弁護を求めているのではない、森の中を何時間も彷徨い歩いて、心労しきった子栗鼠の瞳である。沙知さんの真剣な眼差しに射竦められて、その視線を正面から受けると一種異樣な壓迫を感ずるのはあたしも同じだ。それは彼女の口気が荒いからでもなければ、言葉付きが烈しいからでもなく、寧ろ物靜かで居るのだが、それでいて何者の心意をも見透かして何者からの反論をも毫も容れざるところの自信が籠っているからである。彼女はまた言葉を継いだ。

 「ごめんごめん、こういうのは言葉で理解するのは難しいものだよねぃ。‥‥‥それじゃあ表現を変えようか、綴理。キミは、これからどんなスクールアイドルになりたい?」
 沙知は瞑目して深く頷き、再び眼を開いて綴理の顔をまじまじと見詰めた。そうして俯きがちな、考えるような不安げな面持ちで在る綴理とを一歩引いて眺めて、百合亜は依然としておのれの言葉を紡げずに居た。誰かの為の道化、――あたしはこの一句を久しい間使用した。然し、いざこうして青年の思想の根底である純粋経験の性質を目睫に捉えると、なんだか年甲斐もなく不穏当な心持ちがするので、自分でもより適当な表現はないものかと思って暫く考えてもみたが、その覚悟もできずに、畢竟おのれの異常事態を言い表すべき相応しい言葉は他にどうしても見つからず、そんな百合亜の口から出るものは穴が開いたソックスより価値が無い気がして、どうにも重い唇を上げらなかった。
 かくして百合亜が困惑逡巡し自らの迷妄を凝視していると、なんとも懶い重みを眼瞼に感じる声が夢現のうちに流れ込んで来た。
 
 「‥‥‥いつか、みんなといっしょに、凄い事が出来るスクールアイドルになりたい‥‥‥かも。」
 「綴理‥‥‥。」
 我が友の声は、若々しい、純な欲望の外、何の響きもまじえて居なかった。心の声を五線紙に表現する少女の言の葉、自己の自覚に撞着した想いの歌。余は自覚せりと自信することはその人自身に於いて既に力であるに違いない。然し唯だ自覚せりと自信する輪廓のみあって、自覚の内容が渾沌と薄弱とを極めているならば、――極めて薄弱なる内容にも極めて強烈なる自信が附隨し得ることを忘れてはならないだろう。自覚の価値と真実とを立証するものは自信に非ずして内容である。力に満ちたる内容である。付け加えれば、自覚することと自覚を発表することとは本来別物であり、内容を有することと内容を発表することともまた本来別物である。されど単に自覚の自信のみを発表して自覚の内容を発表せぬ者が、この時代では世間の眼から見て偽預言者と看做されるのもやむを得まい。発表に値するものは、自信に非ずして内容であるからだ。
 百合亜は悩める少女越しに窓を流れる青葉の影を虚ろなる眸の底に映していた。木梢の先で囀る雲雀の声、これと同時に思い掛けなき動悸がまたも耳辺に起こる。闊達なる精神のローファーは、定まった家も無く繋がれた杭も無く、心の儘に、小路から小路へ、冬から春へと夢幻の王国を彷徨っている。素朴な人間神の活動、意欲、生死と厳しい地上社会の経緯が、少女を置く精神の赫きに照されてはっきりと我事と思われるではないか!ああ、暗き嘆息の底にも洞穴に忍び寄る潮の如く微かに滲み来る憧憬の心よ。思いがけもなく、密やかに、仄かに、夕月の光の如く疑惑の森に匂い来る肯定の歓喜よ。この悲しき中にも温かなる想いは、強暴なる肯定者に奪われて、独り脆弱なる否定者にのみ授けられる人生の味であろう。
 
 「‥‥‥そうかそうか。うん、わかった!やっぱりキミは、DOLLCHESTRAに向いてるよ。あたしと一緒に、その夢、叶えていこうじゃあないか!」
 「‥‥‥うん。」
 先輩は子雀のように背伸びをし、爪先立ちで僅かに震える手を伸ばしてを後輩の肩に優しく押しつける。微かに暖かい肉感が、子供の生命の象徴のように生々しく綴理の身体に伝わって来た。彼女はううんと背伸びをする沙知を見て、ふと気が付いたように、背伸びをしたいなと思う時でも、する気にならない時があるよね、と戯けて言った。その他に意味も翳もない単純で、屈託のない笑い顔だった。
 
 「夢、か‥‥‥。」
 決意を新たにする少女等の細やかな歓喜をぼんやり眺めつつ、煤の被った声色で百合亜は音を洩らし、彼女はふと会話の跡をつけるのを忘れて、独り考えに沈んだ。いつか吐き捨てた自分の文句が、俄に頭に蘇って来たからである。
 我が友と楽しげに語らう、我が姉とのふたつの約束、――自分の使命は彼女と交わした約束を果たすことである。この営為を通じて自己の中に居場所を発見することである。これが〈百合亜〉に負わせられたる最大最切の義務である。自分は未だこの救いの道を体認するに至らない、それ故に自分には未だ真正の意味に於いて蓮ノ空女学院に、スクールアイドルクラブに身を置くに足る人間ではないかも知れない。暫く余の修業三昧を許せ。斯くの如くにしてあたしは重い心を抱きながら、きょうここに一層の強さをもって自覚するに至ったのである。使命とは、所詮他人から与えられたもの。夢とは違う。ふとイザヤ書に「我が扶くる我が僕、我が心悦ぶ我が選び人を見よ、我が霊を彼に与えたり、彼諸々の国びとに道を示すべし。」とあることを想い出した。神に召し出されるとは、それ即ち神の使命を託せられること。至って受動的だ。
 百合亜は造り物の髪の毛を引っ張るようにしながら考えるのである。百合亜の夢とは何か?あたしは彼女達のために何ができるか、と。鑑みれば、百合亜の肉体には将に涅槃を証せんとする使命が宿って居たとしても、とどのつまりそれは誰かの流儀に甘えてただ坐ったり寝たりしてその日その日を送っているだけだったのではないか。然しおれの頭は時々動く。気分も多少は変わる。いくら狭い世界の中でも狭いなりに何か事件が起って来る。それから小さいおれと広い世の中とを隔離しているこの硝子戸の中へ、時々誰かが入って来る。それがまたおれにとっては思いがけない人で、おれの思いがけない事を言ったり為したりするものだ。おれを興味に充ちた眼をもって迎えたり送ったりした事さえある。
 空は広い。その始めと終りは何処に定められているのであろう。人間は生きるという事さえ定められてない。死ということさえ定められていないのだ。人間が初めて草のように生い立った自身を振り返って、限りなく晴れた空の広さを見上げた時、そこには落ち着きの無い、不安な取り留めの無い淋しさが身に迫る、百合亜は初めてそんな我が身を振り返ったのである。彼女はいま黄昏に近づくこの部屋に於いて、静かに脈打つこの心臓でさえ、いつ止まるか解らないことを考えた。握り締める自分の五本の指でさえ、明日その二本が失われないとも限らない。然し、まことの夢は、常に、眼が未来へ向けられ、むしろ、未来に対してのみ、その眼が定着せらるべきものだ。未来に向けて定着せられた眼が過去にレンズを合わせた時に、始めて過去が現実的に再生し得るのであつて、単なる過去の複写の如きは作文以外の意味はない。些細の感情はそこに弱いものの全てを迷信的に支配した、だからそれにどんな矛盾があっても構わぬ。彼女は十五の年に運命という事を熟考させられ、定められた自分の命の尊さに、充実した力強さを感じたのである。
 
 「――そう、これは「えだまめ」。ボクが結構得意なやつ。」
 「お、おぉ?そうだねい?‥‥‥屈伸?立体的屈伸のことなのかい!?」
 
 二人のスクールアイドルの歓談には段々と長閑な心持ちが拡がっていた。刹那、百合亜の視界には黒褐色の斑紋が飛び立つに見え、そのまま春の朧気に溶け込んでいった。

6

 さて、こうして結成された、蓮ノ空女学院第一〇二期スクールアイドルクラブの新生ユニット・DOLLCHESTRA。四月末のFes×LIVEにて披露する予定の伝統曲『Sparkly Spot』を練習するべく放課後に臨んだのである。‥‥‥が。
 
 「――あれ、綴理は?百合亜、見てないの?」
 「えぇー?あたしは姉さんと一緒に居るものかと思ってた。綴理、どこ行ったんだろう‥‥‥。」
 大賀美姉妹は早速蹉跌してしまった。夢想家少女は突拍子もない散歩家でもあったのだ。あたしは夢想家がこの世で成功したという試しは古今東西に渡って未だ一つも聞いたことが無かったが、それでも綴理はその職分に於いても現実を思い描いているようであった。月光を帯びた明眸皓歯を驕らず、夢想家の中の夢想家でもあり、頗るゆったりとした優しさをもち、その性質から涼しい会話を選択しがちな少女。
 「すぅ、すぅ‥‥‥。」
 エッチラオッチラ探し回った結果、この日は部室からは程遠い図書館にて夢の世界に微睡んでいた。寝るまでの速さは、もしかしたら彼女の特技の一つなのかも知れぬ。
 
 「――やあ、綴理。きょうはここに居たんだね。」
 「ん‥‥‥?さち、ゆり。おはよう。ふわぁ‥‥‥。」
 「ああおはよう。さて、きょうも一緒に練習がんばろう!にひひっ。」
 翌日。いつの間にか姿を晦ましていた綴理の所在を、大賀美姉妹は校庭のベンチに見出した。綴理は微睡む眼をこすって唇を窄め、少し顔をぶんむくれさせて居た。 練習が始まるというのに制服姿のままベンチにぼんやりと佇む後輩に、小さな先輩が屈んでウィンクとピースで呼びかける。この校庭には花壇の他に大きな欅の木があり、それがまるで天蓋の如く枝葉を広げている。その木蔭は正に天然の下界の温室であつて、ここではどんな花も色合いも春霞の空を渡るかの如くである。空しき心を、空しく抜ける春風の、抜けて行くは迎える人への義理でもない。拒むものへの面当てでもない。おのずから来たりておのずから去る、それは公平なる宇宙の意である。掌に顎を支えたる我が心も、我が住む寓居程も空しければ、春風は招かぬに、遠慮もなく行き抜けるであろうに。
 
 「――ボク、言葉で伝えるのはニガテだから。さち、ゆり。みてて。」
 少女の想いは不意に春の空を切る。綴理はそう軽く首肯して呟いたたかと思うとすっと立ち上がり、そのまま若草の上にポーズを取る。およ?と小首を傾げる百合亜に向き直った彼女は小さな口を開いた。然しそれは単なる文字の流れではなかった。綴理の唇から零れ出たのは、歌だった。その歌声が耳朶を打つや否、百合亜は忽ち陶然として立ち尽くしてしまったのである。間閑たる鶯語花底滑らかに、幽咽せる泉流氷下に難むとはこの調子かも知れぬ。勿論、正直で善良なる彼女の美しさを体現するダンスも観る者を魅了していた。セーラーワンピースの制服姿の儘で、それはまるで、言葉で伝えるのは難しいことをボクは踊って伝えてみせるよ、と訴えるかのように。その頰に一抹の紅が差した百合亜がふと現に戻されると大勢の女学生たちが綴理を取り囲んでいて、とうとう一目その艶姿を垣間見んと騒ぎ立てていた。
 「やあ、どうもどうも。」
 呆れた味噌擂用心には気にも留めぬといった綴理の態度はやけに堂々の威である。そんな小舞台のスタアは歌い終わってひょいとお辞儀をし、アンコールの拍手に軽く手を振り返してステージを去ろうとしたが、途端に身体は歓声に埋まってしまった。それどころか、楽劇の進行につれてそれは百合亜が経験して以来かつて見ぬ熱狂となり、アンコール五回に及んで聴衆の感動は白熱するばかりであった。
 
 「――お疲れ、綴理!すっごく良かったよ!みんな大興奮だよ!」
 「そうなんだ。ボクかわいい?」
 「うん。とびっきり、ね。」
 「‥‥‥やっぱり、あたしの目に狂いは無かったねぃ。綴理は、ほんとうに凄い子だ。ステージに立てば誰をも魅了できるはず。‥‥‥いいや、キミが踊ろうと思った場所がステージに変わってしまう、の方が正しいかも。」
 月に目鼻を描いたような円顔に心地良げな表情を浮かべる後輩に沙知は何か思うことがあったのか、独り言に近い言葉を切り空を見詰めてから深く頷いた。 ただし、百合亜は姉とは異なるかも知れない思索に至っていた。あたしはこのモヤモヤを何と言っていいか判らなかった。頭の中がほわほわして来た。これは何処か、先日、めぐちゃんの初配信を撮った時の正直な印象に似ている気がする。そう、〈スクールアイドル〉という概念承認の一点に於いて、あたしは厄介な表象に左右されていたのだ。板に立って披露される彼女の歌声とダンスは、兎に角それは天才的で、凄いの一言に尽きるだろう。凡百の観客からすれば歌が上手いとかダンスが素敵だとかいうことだけでも充分な評価の対象になるのだろうが、然しあたしはそこに、綴理ならではのアイドル個性が乗算されたような、一種の天賦をどうしても垣間見ることができなかったのだ。慎重に言葉を選ぶとすれば、未だスクールアイドルにはなり切れていないかのような、ぼんやりとした違和感。
 
 扨ては依怙地な百合亜の耳に、宜しければ踊りましょうと誰かが言う。綴理の踊りを目の当たりにして、あたしは既に蓮ノ空の塵と音を遥かの下界に残して五重の塔の天辺にて独坐するような気分がしているのに耳の元で「踊りましょう」という催促を受けたから、まだ上があるのかなと不思議に思った。さあ踊りましょうと聴衆はアンコールを送る。踊れば踊るほど怪しい心持ちが起こりそうであるから。続くダンスが終った時は縹渺として何事とも知らず嬉しかった。然しそれもまた、嬉しいというよりはどことなく妙であった。
 その正体は、折柄に聞こえてくる女子の噂声と目線。――ヒソヒソ。ザワザワ。あのキレイな新入生はダアレ、綴理サマ素敵ダワ、あの隣に居る地味なコはダアレ、何様のつもりで話しかけてるのカシラ、‥‥‥。初ライブを前に早くも全学院渇仰随喜の偶像と為った綴理へ女学生達の羨望の評判が釘付けになると共に、その隣で、いつも腰を曲げておべっかやとりもちを捏ねる腰巾着ごきげんよう蝙蝠にも、別箇のギラギラした目線が向けられていたのである。小鼻の脇にうっすらと汗の珠が浮く。女の子を象徴する道具のはずのウィッグが汗で撚れて、掻き毟りたいくらいむずむずする。女学院での感情と不断の緊張、そして親愛なる友と姉の前で開かれた安堵感とが、彼女の肉体、彼女の精神に加えた疲労困憊を長い間意識させずに居たのだ。第一、目録が目線だ。あたしは中学生の頃を否が応でも想い出してしまう。
 ドキドキする胸をじっと抑えるようにして、百合亜は妖しい笑顔でにやけたまま、暫くして、またそれが聞こえた。「キャーッ」という女子の唸り声だ。まったく、人の心の裡には何かが絶えず根を下していると思わずには居られない。そしてその根を下ろしてゆくものを注意深く見守っていなければ、より良い未来は招かれるものではない。して、その推移が密かに行われれば行われるほど、或いは人の注意を逃れることが多ければ多いほど、益々危険が大きくなる。だから未来を善くしようと思わんが為には、現在を、殆ど無意識的に行われる現在の心の推移を、あたしは深く注意して観察しなければいけない。怯える現在を軽蔑してはいけない。うっかりしてはいけない。馬車馬みたいに遠くをばかり眺めて、足下を等閑にしながら馳け出してはいけない。そういう意味であたしは、改めて、現在を大事にすることを知らされたのだ。そしてその為にも現在の気持ちを時々無駄書したくなる。未だあたしには頭に能力が無くて、はっきりとまとまった歌詞に為るような程度の文字を書けないのは遺憾だが、無駄書でもすることによって、その時々の感情は何かはっきりしたもので裏付けられるような気がする。だからあたしは、きょうも別に凹んだりなんかしないのである。理論武装、無間努力、道化もって正義を為せ!それがあたしの処世術だ。うん大丈夫、なんとかいけそうだ。
 
 「‥‥‥?もう一回踊ろうか?」
 綴理はそんなあたしの心を、高精細の顕微鏡で覗きこんでいるような質素な眼差を向けて来た。
 「ははっ、元気すぎー。」
 と沙知は飄々に笑った。百合亜は幽かな微笑を頬に浮かべたまま視線を逸らし、漫ろ去っていく取り巻き達へと気倦げな視線を別に送っていた。彼女は、ふと木陰の暗い片隅に吸われて行く自分を感じていた。騒がしい嬌声や叫び声や、演奏やステップの音の雑然とした渦のなかに、そこだけぽっかりと音のない世界が穴をあけたように、我が友の周囲には特別な静かな澄んだ空気があり、それが彼女を包んでいた。べつに、その美しさが百合亜を惹いたのではなかった。彼女はどこか疲れた、不思議そうで、無気力な表情を浮かべていた。ギラギラした、生々しい原色のあざとい他の女学生等の印象とかけ離れて、えんじ色の制服を着こなす少女には、ある稀薄な、退屈を我が物とした人のひそやかな落ち着きも感じられた。白い拳を口にあてて、少女は小さく欠伸をする。
 
 「たまにはこういうライブもありだねぃ!あたしも楽しませて貰ったよ。」
 沙知が顔を上げ、麗しい琥珀色の双眸で綴理を直視する。
 「そう?さちも嬉しいならよかった。」
 「ねね、綴理。あたしたちのライブ会場って、どこが多いと思う?」
 「?」
 沙知は急に話題を変えたようだったが、そうでなくて、
 「キミはきょう、一つのステージに立って観客の声を聞いた。これはね綴理、キミがスクールアイドルになる為の、第二歩目になるはずさ。‥‥‥キミはいま、どんな気持ちだい?」
  ありのままをありのままに言った。序曲的な会話を少し続けてから部長は徐に探り知っておかなければならないような事柄に話題を向けていったのである。百合亜もどこかから桃の香が微かに通って来たように思って、快くもない眠りからここに目を覚ました。
 「ボクは‥‥‥。踊って、歌って、みんなから褒めて貰えて。確かに楽しかったよ、うん。でも、これがスクールアイドルなのかって言われると、ボクはまだ‥‥‥。つつかれれば丸まるしかないダンゴムシだ。ころん。」
 綴理はきょとんとした眼付で答えた。
 「んーんーんー?」
 それを沙知が不思議そうに覗き込む。
 「‥‥‥そっかぁ。確かな気持ちの昂りは感じてるけど、それを上手く自分でも解釈できてなくて、どこか上の空。‥‥‥そんな具合だ。」
 「えっ!?百合亜わかるの!?」
 「まあ、最近なんとなく。」
 「そう、ゆりの言う通りだ。ボクはいま、食べ終わった後のお弁当箱‥‥‥。」
 綴理の発言は屡々抽象的で、よく食べ物や動物で喩えてくる。一寸我が意を得た気がして心躍ったが、でも百合亜はその先をどう言い進んで良いかわからなかった。
 
 「あはは、それも面白いかもねぃ。」
 春めいた風を受けた沙知は彼女の睫毛の揺れをその眼に映し、一度唾を嚥み込み、一瞬目蓋を固く閉ざした。それが再び開いた時、決然とした意志の色を湛えた先輩の琥珀色の双眸には、後輩に何かを訴えんとする力強い煌めきが宿っていた。
 「まあ、一応あたしなりの回答をしておくとね?‥‥‥今月末のFes×LIVEの会場は、蓮ノ空の敷地内にある音楽堂。でも校内以外にもね、たとえば地域のイベントでライブをすることもあるし、Fes×LIVEの会場としても、公園や駅前、それに図書館だって会場として借りる時もある。つまりは、地域の皆さん、それにファンの皆さんの協力と応援があってこそ、あたしたちはスクールアイドルとしてステージに立てるわけだ。」
 沙知は手摺りに言葉を靠れながら空を仰いだ。天蓋の如く蔽い被さる樹々の枝のせいで薄暗い校庭の一隅にも、途切れた雲間から垣間見える澄んだ青天井から清らかな陽光が降り注ぐ。その光の中に桜は殆ど見えなくなったが、いまを盛りと咲き競う色とりどりの花々が眩しいほど白い。彼女は優しい語りを続ける。
 「他にもね?たとえばラブライブ!出場だって、視聴者からの投票で予選通過が決まる。この前みんなでやったボランティア活動の機会も、いちばん蓮ノ空らしさが出せて、而もファンの皆さんと直接交流ができる。そんな、素晴らしい機会ってわけさ。キミが元気づけてあげたクラスメイトや地域の方々から、お礼の手紙が来るってこともあり得るんだぜ?あたしもさ、ちびっ子からライブの感想のお手紙を貰ったことがあってね。あれは嬉しかったねぃ。」
 
 「‥‥‥そうなんだ。いいなぁ。」
 後輩は先輩の言葉へ真摯に聴き入り、また少し言葉尻を延ばして、喜色の裡に哀しげな眼をして微笑した。彼女の体の中で何かしら大した幅のあるものが、足の方から頭の方へと一目散に馳け上ったような心持ちに見えた。一方の百合亜はやっと女学生らしい微苦笑を泛べるたかと思うと、二人のスクールアイドルのやり取りを夢心地に眺める外なかった。確かに二十一世紀のアイドルというものは、上は貴顕紳士から下は彼女等のような文学青年に至るまで、士農工商あらゆる階級の人間の愛を惹きつける浪漫的な存在かも知れない。それでも、少女は、まだ見ぬスクールアイドルの世界を想ったのか、羨望に瞳を煌めかせていたのだ。――百合亜にとっても綴理にとっても、スクールアイドルしか獲得できない人気の素晴らしさと、情熱の高さと、庶民的であるからこその煌めきとは、前時代の第一流のキネマ・スタアを持って来ても遥かに及ばないであろうから。

7

 加賀の国、金沢は前田氏百万石の城下町。兼六公園やひがし茶屋街などで誰もが親しんでいるところであるが、あたしは伝統芸学に親しむ地元の人間として、最近はその文化的なところに一層強い関心がある。金沢はまた能狂言と茶の湯の町と呼んでもよいかと思う。それほど人々に嗜まれているのである。そして加賀第一の名物は「九谷焼」で、佐賀肥前は伊万里焼と相並んで日本の磁器の双璧を成す。藍絵の染附もあるが、九谷は特に赤絵でその名を広めたと聞く。更にそれは支那の影響を受けているためか、伊万里焼のような優しい美しさではなく、どこか大陸的な骨っぽいところがあって好きだ。絵にも格のはっきりした楷書風な趣きが見える。とりわけ九谷の色料は甚だ質が良く、素地の良さと相まって優れた一品を生みだす。ただ惜しい哉、赤絵の生命となる絵附けが昔ほどの格を保たなくなったという。二十一世紀の今日では博物館に並ぶものよりどんなにか見劣りがすることであろうが、名手が出て息吹を取戻す日が待たれる。あたしは、九谷の未来には希望を抱かざるを得ないのだ。
 その他、加賀の焼物としては「大樋焼」があって楽焼風を作る。窯は金沢の市内に在り、浅野川近くに所在する美術館でじっくり眺めるのも一興であろうか。茶器の類は末期を思わせるが、雑器として作る赤楽風な「火消壺」は長方形のもので、なかなかどうして品が良い感じで、どんな座敷に置かれても馴染むかに思う。あたしは同じものを奥能登でも見たが、加賀のそれを愛でて土産に持ち買ったか、あるいは大樋のを倣っておのれで作ったものに違いない。或いは金沢の特産としては金銀の「箔」があり、これも不思議と思われるほどの技だ。数十年ほど前は裏町を歩くと時折箔打ちの澄んだ音を耳に聞かれたというが、現在では物質社会の雑踏に搔き消されてしまっているのは残念でならない。
 
 「――れいかさ~ん!おはようございます!きょうはよろしくお願いします~!」
 「あーら沙知ちゃん!それにスクールアイドルクラブのみんなも!待ってたわよー!きょうは頼りにしてるわね!」
 そんな金沢城下、近江町市場にて。あたしたち蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブはれいのボランティア活動の一環として、市場の皆さんのお手伝いに駆け付けたのであった。さて、言わずもがな日本海の魚介は絶品中の絶品で、百万石城下の台所であるこの市場も海産物で有名だと聞いていたから、寿司好きのあたしは喜んで馳せ参じたところが、こうしていざ物心ついてから初めて来てみると、市場は軒並みに観光客向けの商店ばかりで、住民が普段利用しているような商店の数は至って少ない。どうしてこうも観光客が多いのかも一驚せざるを得ない。アカムツやカニが並ぶ卸売店は外観の薄汚い店ばかりだが、海鮮の食える店は磨き立てたような江戸前の店構えがそろっていて、学生のお財布事情には実に厳しいようなこれだけの寿司屋がみんな盛業中とは、成る程呆れ果てた海鮮食い族の棲息地である。観光客誘致一点の為だけに本来土地にない物を珍重しすぎるのも困るけれど、捻くれた土地自慢の過ぎたのも困るものだ。
 
 「ごーきげんよー!きょうもよろしくお願いしまーす!」
 「つづりだよ。きょうもよろしく~。」
 「よろしくお願いしま~す♡」
 「れいかさん、おはようございます。本日は何卒宜しくお願い致します。」
 一〇二期生の面々はまたしても個性的な挨拶で返事をする。そんな訳で始まった、我らスクールアイドルクラブの市場でのお手伝いであったが。
 
 「――そう、算数はできるんだ。出来ないことも多いけど、そこには目を瞑ってほしい。ボクも高校生だからさ、ボクに出来ることを精一杯やろうっていう風に思ったんだ。得意ってほどじゃないけど、きっとおつりも計算できる。」
 「ちょいちょい綴理!後ろのお客さん待ってるから!早くおつり渡そう!」
 綴理はいつもの調子で遠くから響くような声を出していた。あたしはその綺麗な横顔を覗き込みながら慌てて、息を弾ませながら一緒に接客をしていた。
 
 「――はい、お買い上げありがとうございました。またのご来店お待ちしております。本日は大変混雑しておりますから、どうか道中も気をつけてお帰りくださいませ。」
 梢ちゃんははじめこそ練習できない時間に焦りを覚えている様子だったが、いざ店頭に立つと頼り甲斐があり過ぎる接客を見せた。お客さんに向かって優雅にお辞儀するその様は、この一点のみけたたましい市場に全く似付かわしくない上品さを醸し出していた。
 
 「――え〜キミ、めぐちゃんが可愛いからこのお店で買ってくれたの?うふふ、ありがと♡また来てくださいね~!」
 流石のめぐちゃんは誰彼介意わずよく饒舌っていたが、矢張彼女にしか出せない愛嬌にお客さんは釘付けだ。華やかなりし天性の気質はおのずと場を和ませていた。
 
 ――そして数刻経ったか経たないかの頃合、そんな市場の一角で。
 「うーーーーーん。」
 どよめきの喧騒に徐々に掻き消されながらではあったが、一頻唸るような鈴の音が確と百合亜の耳朶に届いてて来た。
 「えーっと、綴理。どしたん?なんかトラブルでもあったかい?」
 「ううん。さっきさちに、立ってるだけでいいって言われたから。‥‥‥こうしてボクは、何も言い返せずに立っています。うん。」
 泥細工の達磨宜しく固まりついた彼女は、ほへっと口を開けて緩やかに首を傾げつつ、あたしに返した。視線を移すと沙知さんがれいかさんや大人達と一緒に歓談しているのを認めたが、然し綴理の調子を追ってあたしの視線は無意識にアーケードの銀天を浮遊し始めて、多分顔色も浮ついて居たであろうし、相応しい言葉を紡ごうと暫く口籠ってばかりいたとも思う。それでも百合亜は一所懸命そうな顔を造った。
 「それでも、何か悩ましい表情でいらっしゃるけれど?」
 「うーん、どうなんだろ。ボクは立ってる。ああ、立ってることはできるんだ。‥‥‥でもね、なんだか、違う気がするんだ。」

 百合亜は綴理の気遣わしげな声を聴いて、はっと我に返らされた。誰かの夢物語に焦りを覚える、こんなことは生れてはじめての経験であったから。人間は住みにくさが高じると安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詞が生れて、歌が出来る。人の世を作ったものは神でもなければ仏でもない、矢張向こう三軒両隣りにちらちらする唯だの人である。唯だの人が作った人の世が住みにくいからとて越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも尚一層住みにくかろう。だから百合亜は驚いた、ひとりの人間が、信じた理想に迷いが生れた途端、弱い自分自身が見えてしまうという事実に遭遇し、一歩たじろいでしまう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容でもって、束の間の命を束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに女子高生という天職が出来て、ここにスクールアイドルという夢想が降るはずだ。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊かろう。住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、有難い世界を目の当たりに写すのが詞である、歌である、或いはダンスと表情である。細かに言えば写さないでもよい。唯だ目の当たりに見れば、そこに詞も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも鏘の音は胸裏に起こる。丹青は画架に向って塗抹五彩の絢爛はおのずから心眼に映る。唯だおのれが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清く麗らかに収め得れば足る。あたしはそう信じているのだ。この故に無声の詩人には一句無く、無色の画家には尺無きも、斯くの如く人世を観じ得るの点に於いて、且つ煩悩を解脱するの点に於いて、或いは清浄界に出入し得るの点に於いて、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点に於いて、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点に於いて、――千金の子よりも、万乗の君よりも、彼女の青色の苦悶は、あらゆる俗界の寵児よりも幸福であるはずだ。
 百合亜は友の道程に勝手に思いを馳せるのは無作法だとも感じつつ、固い顎に手を遣り、考え深そうに眼を細めて、友の艶めかしくも不安げな表情を見据えた。
 
 「‥‥‥成る程。居るだけで良いって言われて、みんなが頑張ってる横で、自分の色が乗っているとは思えない。そんな感じかな。」
 「そう‥‥‥なのかな。ごめんね、ボクもわかんないことだから、ゆりにもよくわかんないよね。」
 と綴理は然も申し訳無さそうに笑ったが、百合亜の方はどうしたのか笑いもせず、夢見るような灰色の瞳をジッと綴理の面おもての上に濺いでいて、暫くしてハッと我に帰ったらしく、改めてにっかりと微笑んだ。――えらいものだ。真なるもののみが愛すべきものである。然り。真なるものを、簡潔に、直接捉え来たったならば、それでよい。それに越したことがない。もう、物語も何もあったものでない。
 綴理は相手の顔を読むようにぼんやりと立ったままであったが、百合亜は猶も虚勢を張った風に続けた。
 「そんなことはないさ。あたしは綴理の不安な気持ち、なんとなくわかるよ。それに、綴理が下手なのは説明じゃないと思う。自分の気持ちを順序立てて伝えることと、相手の反応を想像することが、ちょっとだけニガテ。そんな具合だ。」
 「うん‥‥‥。」
 容易く言われたる文句は案外なる想い、何様のつもりかあたしは心中得意になった口調になり、我が友を一層困らせて、出しゃばりに渋々我意に従わせている気がして来た。そしてその思惑の張合いを抜かされたるとも感ぜられたが、乙女心の気に入らず、固よりして構いつけられぬものを、ずずっと進み寄るのである。
 「でもね?それ以上に、綴理は他人の感情を読み取るのに敏感なんじゃないかって思うよ。優しいからこそ、更に一歩踏み出す為の、次の言葉が詰まってしまう。‥‥‥まあ兎に角さ、「立ってるだけでいい」っていうのも、きっと沙知さんなりに意味があるんだと思うぜ。なにより決めるのは、綴理自身。」
 「よく、わかんないや。難しいね‥‥‥。」
 彼女は吐き出すように言った。これだけの語が言い淀み、淀みして言われている間に、綴理も百合亜も、互いの内に動く心持ちの凡そは、なんとなく気取ったであろう。薄暗いアーケードの灯しの光りの代わりに、その頃は、もう子午線を通過せんとする白みの明りが、市場の内のあらゆる物の形を、朧ながらも彩り顕しはじめて居た。
 
 「それにこの前、さちに言われたんだ。スクールアイドルっていうのは、自分がスクールアイドルだと思えれば、みんなスクールアイドルなんだ、って。‥‥‥でも、なろうと思えばスクールアイドルになれるなら、いままでのボクは、何でもなかったのかな‥‥‥。」
 綴理は視線を遮二無二に漂わせ、不安に震える声で誰かを呼んでいた。百合亜はここに彼女の美しさを沁々と見たような気がした。ただ美しいと言ったのではいけない、悩ましい美しさというのは正に夕霧綴理の美しさのことだ。既に学院やスクールアイドルコネクトに多くのファンがあるというのも無理がなかった。百合亜はいつか外国の名画集を紐解いていたことがあったが、その中にアレクサンドル・カバネルの描いた「ヴィーナスの誕生」という美しい絵のあったのを不意に想い出した。それは、海水の白濁した泡から裸体の美の女神・ヴィーナスが誕生し、意味有り気な表情で此方に視線を向け艶然と笑っているのである。そのカバネルの描いたヴィーナスの悩ましいまでの美しさを、この夕霧綴理が持っているようにきょう改めて感じた。それはどこか、少女の身に収まらぬ「夕霧」という古典好みの幽遠さがピッタリと似合う美しさを持っていた。
 然しそれでも、そんな彼女もおのれと同じ等身大の少女であるという事実は、百合亜の昂奮的な共感を呼び起こして止まなかった。友の弱音を前につい口が軽くなる。
 
 「――世界はたまに色を変える。桜色の日は桜色の日の気持ちでライブを観たい。同じ色の日でも、あたしの感じる気持ちは違う。」
 「ゆり?」
 「ごめんごめん、これはあたしにとってのスクールアイドル観さね。つまりは、いままでの綴理の色が、スクールアイドルになりたいって夢に向かって、新しい色合いに変わってる最中ってことじゃないかな。だからいま、目一杯悩んでる。不完全で、未完成な状態。でもね、綴理の色と気持ちがあれば、綴理のなれるスクールアイドルだって、何通りもあって無限大なんだから!今日と同じライブは二度とない、だから毎日みんな、スクールアイドルのライブを、配信を、ふれあいを心待ちにしてる。今日寝る時に今日を望んでも、来るのは明日でしかないんだ。あたしも何回もしくじった。でも、こうして今日を生きて、キミと言葉を交わしている。これは多分、あたしだけじゃないはず。‥‥‥ね?」
 百合亜はぼんやりと虚空を仰いで、何か思い詰めるような表情を一瞬見せながら語り始めたかと思うと、突然楽観的に相好を崩して綴理に向き直った。或る色の色合いは、明度や彩度を変更しても同じ色相を保っても、その他の変更を生じさせれば途端に同じ色相ではなくなる。だからこそ信念や確信というものは、我われが事物を想うときの様式の変化にほかならない。観念にはただ勢いと活気の追加のみを与えられるのである。したがって、所信乃至信念・確信は「目下の印象に関連や連合する、強い観念である」と最も正確に定義され得るはずだ。此処に於いて柳は気力無くして枝先ず動き、池に波紋有りて氷尽く開く。春風春水は一時に来たりて少女を立ち上がらせる。
 
 「なれるのかな。ボクは、この場所で、スクールアイドルに。」
 綴理は恐る恐るやって来た声を自信無さ気に洩らした。こうなればいいな、と思い浮かべて、その通りになった未来に焦がれる。そうはならないだろうと諦めているから、余計に色濃く願いだけが映る。百合亜にはそんな印象に見えた。実った先を夢見るくらいは、自由だと縋って身を転がしたいものだ。光と音が遮られても、その先で手と手が触れ合うように。 
 ――ああそうか、一見お為ごかしに思えるほどあたしがこういうことを頻りに思案するのも、おのれが懇ろに我が友を愛慕するの情に堪えないからであろう。正直ながらに申し上げるが、彼女は実に欠点だらけの少女だ。アラを捜せばいくらでもあった。何よりもあれ程の国色天香に才気煥発でありながら、彼女自身を表現する為の度胸と、淑女たる落ち着きと、思春期を生き抜く智謀とに欠けていた。おそらく彼女の生涯を通じて、いつの時代にも多くのファンが附いているだろうけれども、その顔ぶれは各時代毎に違うことだろうし、彼女の内懐にまで飛び込んでいく者は殊に稀であろう。若し彼女にいま少し処世の才があったならば、有名学校のスクールアイドルクラブに所属するか将又帝劇のスタアにでも納まって安穏に夢を叶えただろうが、彼女の性格の然らしむる所であると共に、彼女自身の平穏な日常のためには却って蓮ノ空が幸せなのかも知れぬ。それでも、彼女は立ち竦んで思い悩んで、その心意をあたしに打ち明けてくれた。夢に至るまで理想を掲げて献身的な活動を続けたいという、実に輝かしい少女の想い、共感と友情。さあ、この時を置かず我われの情熱を燃やそう。我われの手で共に良い仕事を遺そう。稔る日を待って、怠らず前に進もう――。
 百合亜は紅潮しつつある頬へにひっとした笑顔をつくって、姉宜しくに、その右手を差し伸べて見せるのである。
 
 「なれるさ。‥‥‥いや、違うな。ふたりで目指そうよ、スクールアイドル!ここでしかできないことをしよう!あたしと綴理で、一緒に!」
 「ボクに、できるかな。こんなボクで、いいのかな‥‥‥。」
 「勿論!あたしたち友達だもん!綴理と百合亜のふたりなら、きっとできるさ!」
 「‥‥‥!」

 自分でも思いがけない言葉が出た。あたしは前も言いかけて置いたが、彼女との議論は、互いの思想を交換するよりはその場の調子を居心地良く整えるために為される。真実らしい詞は滅多に出てこない。けれども、暫く聞いているうちには、こうして思わぬ拾いものをすることがある。彼女等の気取った言葉のなかに、時々吃驚するほど素直な響きの感ぜられることがある。道化の仮面に浮かべるは満面の笑顔、純粋なる友情の希求。
  ――甲の男性と乙の女性の間に結ばれた純粋の友情とは、一体どんなものであろうか?あたしは寡聞にして未だその例を見ないが、たとえばここで、それらの男女のうち、一方が多少でも相手に対して恋愛らしい感情を抱いている場合、または相方ともそういう感情をもちながら、何らかの理由によってそれを表白し合わない場合は、その二人の関係を、単に友情といふ言葉で片づけることは如何であろうか?少なくとも、現在では、友情以外何物もないと断言し得る間柄でも、全く例外の場合を除いては、どちらかから、恋愛的感情をもちはじめる予想は十分につくのである。一方のそういう感情は、自然、ある形を取って相手の感情に呼びかける。それに応じるか応じないかは別問題である。純粋の友情は、その瞬間から複雑な心理的葛藤を伴い、そこから恋愛の歴史が始まるだろう。さて、全く例外の場合とはどんな場合かと謂えば、ここに、非常に女性的な男性と、非常に男性的な女性とを想像する。その非常に女性的な男性が、たまたま女性らしい女性と友情関係を結んだとする。また、非常に男性的な女性が、男性らしい男性と友達となったとする。この二つの場合は、普通の友情が最も保たれ易い場合であると考えて差支えない。つまりこの場合は、最も恋愛の生じ難い場合である。綴理の前に立つのは〈百合亜〉という、とりかえばやの姫君も斯くあらんやと謂わんばかりの〈少女〉たる〈少年〉。凡そ例外とはあたしたちのことだ。
 されど見渡せば人間に限らず、あらゆる動物は異性に対して意識的無意識的に性的示威を行うものである。この性的示威は必ずしも恋愛感情の表示にはならないかも知れぬが、相手のそれを目標として行われることは明白で、これが異性間の牽引力乃至は魅力となり、その反応の結果が、禽獣にあっては直ちに利用されるけれど、あたしたち人間はその点、なかなか儀礼を心得ている。友情あるのみと自称する異性同士が意識的に性的示威を行うなど以ての外であるにせよ、これはおそらく、慎むことが至難の業であるのみならず、無意識的に行うそれに至っては自ら保証できる限りではない。相手が若しもそれを感じないとすれば、ここに重大な問題が起るのであろう。曰く、彼乃至彼女は、一方が性的魅力に欠けているか、さもなければ一方が性的感性に於いて、不具者。
 然し、思うに、恋愛感情を制するということは恋愛を感じないということではない。多少とも恋愛的感情をもつということは、普通、友情とは謂わない。そこで、異性を友達にもつということはその間に恋愛の発生を予想しなければならず、それが若し何等かの理由によって表面に現われずに済むとしてもその関係は極めて不自然で、必然的にある種の「悩み」を抱き合うことになる。その「悩み」を相互いに享楽する傾向は古来、男女関係の最も進化した一面であり、数多の文学に謳われ、軽重濃淡の別こそあれ、総ての人間がこの種の「悩み」を果敢ない「夢」として心の一隅に潜ませている。そして、その「悩み」は理性でもって支配できるはずで、「夢」は男女が互いに手を取り合って叶えていけるものであると、百合亜は信じて止まなかった。

 そうだ、だからこそあたしは、綴理と友達になれる気がしたんだ。沙知さんに出会い世に住むこと十五年にして、初めて住むに甲斐ある世と知った。重ねて刻む春の一日、明暗は表裏の如く、日の当たる所にはきっと影が差すとも悟った。十六の今日はきっとこう思っていることだろう、――喜びの深きとき憂も愈深く、楽しみの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。友情はとても大事だ、大事なものが増えれば寝る間も心配だろう。無論恋は嬉しい、嬉しい恋が積もれば恋をせぬ昔がかえって恋しかろう。百合亜の肩は猶も大切な少女等の足を支えている。背中には重い居場所が負ぶさっている。旨い海鮮丼も和風スイーツも食わねば惜しい、少し食えば飽き足らぬ、存分食えばあとが不愉快だ。そう、足掻いても所詮は悩み多き青年の夢なのだ。“Orandum est ut sit mens sana in corpore sano”、矢張格言は格言だ。多くは望まぬ、半ライス程度の希望で構わない。等身大の、キミの隣で、友達として、一緒に夢を見ていたい――。

 百合亜の考えがここまで漂流して来た時に、綴理は漸く和らいだ表情で唇の端を持ち上げたのである。
 「――ここでなら、叶うかも。ボクも、スクールアイドルに。」
 綴理は眼前にて太陽みたいな笑顔を浮かべる友達の手を取り、彼女の肩越しにもう一人の少女の姿を確と認めていた。沙知は市場の大人達と楽しげに会話しながら、ふと綴理の視線に気付いたのであろう、これまた屈託のない笑顔で手を振り返してきた。
 「――さち、ボクはなるよ。スクールアイドルに、DOLLCHESTRAに。」
 紅蓮に燃える心の中で、彼女は憧れのスクールアイドルの美しい甘い顔、眩いばかりに舞う姿態を思い描いていた。ああ、憧れのスクールアイドルが、なりたい自分に――いつの日か。彼女はその日の来るのを、そして鳴けない日陰の烏が自由に羽搏くツバサを授けられたこの日を、どんなにか待ち望んでいたことだろう――。

8

 月光を集めて手元を照らしながら、あたしは独りこう考えた。
 ――人間の夢が時に虚妄に思われるのは、個々の事象が断片的であり、意志の連続がないからである。昨日あたしは、夢の中で借金し、夢の中で怪我をした。然し朝になって顧みれば、借金を返す義務もなく、負傷の跡方さえもまったく無いのである。そして今夜の夢は、それとまったく別なことを経験する。だが若しそうでなく、夢が夜毎に連続したらどうであろうか?昨日の夢で怪我をしたあたしは、今夜の夢で病院へ入院し、医師の治療を受けねばならぬ。そして昨日の夢で借りた金を今夜の夢で催促され、工面しなければならないのである。この場合に直面して、夢は正しく現実である。即ち人々は、晝間の生活と、睡眠中の生活と、二部の併存した人生を生きねばならぬ。第二の語義の「夢」についても同じようなもので、人がその人生において一貫して夢を抱くというのは、畢竟聖人か世捨て人くらいが成し得る難題なのであって、大体はその時々の小さな目標に向かって進むのが精々といったとことであり、普通はその瞬間瞬間の感情で上塗り修正され原形を留めない。神仏が若しほんとうに慈悲深く、衆生の人間に対して正しく平等だったら、おそらく「夢」と「現実」二つの生活は互い真逆のものになるであろう。即ち晝間の生活で幸福であり、楽しく満悦しているところの人びとは、夢の中で苦悩多く、不幸な人生を経験し、その反対の人々は、晝間の生活の代償として夢の中で幸福な世を送る。そして全ての人びとは、神の公平な摂理の下に、依怙贔屓なく平等に近づいていくだろう。だが現実には、どんな場合にあっても、神仏は決して公平でない。なぜなら夢は、その人の先天的気質や体質や、特に精神と健康の状態によって決定されるからである。たとえば神経質の人や、内気で非社交的な人々や、不健康で病弱の人々や、敢えて一口で言えば、生存競争の劣敗者たる素質を持った人びとは、概して皆苦しい夢、恐ろしい夢、人から苛められるような夢ばかり見てしまうものだから。あたしはよくよくこれを経験して来た。反対に楽天的で陽気な人びとや、社交的で溌溂していて、健康の優れた強健の人びとや、即ち素質的に生存競争の優勝者たる人びとは、概して皆楽しい夢、明るい輝いた夢ばかり見るのだろう。そうした才能を持つ人びとは往々にして、恰も義務であるかのように、持たざる者を奮い立たせ立ち上がらせる偶像として振舞う。羨ましいものだ。どうしてそんなに、眩しいのか――。「富める者はその持たざる物をも与えられ、貧しき者はその持つ物をも奪われる」とイエスが語ったらしい福音書の言葉が、人生のどんな場面に於いても真実に映ってしまうのがまた憎らしい。幸運の星の下に生れた人は、夜の夢の中でも幸福であり、悪しき星の下に生れた人は、夢の中でさえも、二重にまた不幸である。夢がその一夜限りの断片であり、記憶の連続をもたないこと、その故にまた虚妄であるということは、せめてもの恩寵として、神仏に感謝すべきことであるのかも知れない。 

  「――過ぎにしも今日別るるも二道に、か。いやはや、我ながらあやしき人に似ぬ強情さ。まだ夕顔の憂いには早すぎる。」

 それでは、少女達がその詞の中で謳わんとする「夢」とは、いったい何だろうか?大人はそわそわと忙しそうに語る、青春は夢多き時代である、青年には夢がなければならない。青年の夢は美しく、そして遥かである、と。それは睡眠中の夢とは異なり、人間の意識が明瞭な時間にその頭の中を去来する幻の如き想念を指すものだが、而もその想いは、常に希望となって耀き、情熱となって燃え上がる体のものだ。「夢」は「現実」に対して「かくありたいもの」の最上の姿形なのであって、それは未来の現実となり得るもの、少なくともその可能性を含み、まさに、現実とつながる生命を持っている。然しあたしはこう思わずにも居られないのだ、夢は空漠たるものであって、そして、甚だ気紛れでしかないのだ。或る時は、鮮やかな輪郭をもつて眼前に髣髴たる世界を拡げるかと思うと、また或る時は、模糊たる霧の中に焦点のない波紋を描いて心を時めかせるに過ぎないこともある。然しここで「空想」とか「夢想」とか表現すると、どうもあたしの謂いたいことと少し違うような気もする。強いて区別をつける必要もないかも知れぬが、唯だ「夢」と謂った方が、なにか力強い、大らかなものを感じさせる。
 少女の純真と血気とは、彼女達の「夢」を飽くまでも美しく大胆なものにする。夢の翼は自由へ向けて如何に拡がっても拡がり過ぎるということは無い。少女の「夢」とは、少女の描く「理想」の定かならぬ映像なのだ。「理想」の骨組みだけは一通り組立てられるが、さて、それを血脈の通った肉体として完全に構成する能力はなかなか持ち得ない。それはつまり、「現実」を識る程度が極めて浅いのみならず、「現実」がどんな力を持っているかということさえも、ほとんどわからないと評して構わないからで、そこにまた少女の夢らしい夢があるのであろう。「夢」はまた、単なる「野心」を指すこともあるかも知れないが、もともと「野心」とは極めて現実的な個人の欲望で、若しどこかに夢らしいところがあるとすれば、それは、その欲望を達するための手段に於いてである。多くは大それた、身勝手な欲望であるにも拘らず、少女のそれは「夢」の性質を帯びて屡々純化され、或いは「抱負」となり、敷いては「志」とさえなる。数えるほどしかの記憶しかないはずのに、不意に父の言葉が黄泉返り、曰く、夢を忘れてしまって現実しか見えなくなった人間が大人である、とおのれに説教する。否。そんなものは子供騙しの青春だ、笑えねぇ。あたしは指折り数えてみた、使命を数えて‥‥‥いち、に、さん、し、ご。よし、まだこの手の中にある。沙知さんから貰った「夢」は百合亜の中で「抱負」となり「志」として常にその右に座す。そして漸く今日、自分だけの「夢」を自覚するに至ったのだから。心は依然として熱く燃えている。
 固より、特別な趣味や仕事に興味をもち、それを成し得るだけの天分を恵まれている者は、事情の許す限り、それぞれの道に進むことは大いに結構であろうが、一方、とりわけあたしのような凡夫に於いては、家業を継いで父祖の歩んだ道を歩む、或いは単に家族からの期待に応えるということも、これまた非常に立派なことであって、日本男児の大志とするに足ることであると信じたい。唯だ、それには「夢」があるかないか、ということになるとどうか?極く月並な考え方をすれば、どんな家業でも、たまたまそれによって相当の産を成し、土地の声望を得るというようなことだけでも満足するだろう。然し、一家の繁栄はすべての職業の目的であるなどと、青年の夢は決してそんなつまらないものであってはならない。ここで具体的に、一人一人の少年少女の「こうあってほしい夢」についてあたしが語ることはできないけれど、少なくとも、今日、百合亜の道化の日々一挙手一投足の悉くは、その手段自体が使命の目指すところを目指してこそ、百合亜の「志す」道として選ぶに足るものであり、直面する出来事の一つ一つはどんなに細やかな仕事のように見えても、その仕事をほんとうに活かせば、常に大きな「夢」に繋がるものであるはずだ。道化師は猶、大人ぶった、ありきたりな感傷で切り捨てようとする、上辺だけの人情を認めたくはなかったのである。まあ、それでも、いまは、明確な回答を知悉するには至っていないけれど、――あたしが唯だ、いま、強く実感できるのは、彼女達と一緒に、その夢を、我武者羅に、追いかけてみたいということだけ。そして願わくば、この営為に純粋なる友情の伴わんことを。
 
 ――やがて季節が廻り、桜が散り山吹が散った。芒の芽が延びて来た。日が昇り日が暮れた。春が儵忽と逝った。五月雨、木下闇、蚊の呻り、こうして夏が来た。‥‥‥違うな、どうにも心地良い詞にはなっていない。その第一音から、既に天に届く作者の太い火柱の情熱が、我ら凡俗の聴衆にも、明らかに感取できるような歌。勿論板に立つ少女等はここでは大童で、その歌声やダンスは弓の弦のようにピンと張って見事である。曰く、「一篇は尺幅の間に無限の煙波を収めたる千古の傑作」たる歌詞。スクールアイドルクラブのマネージャーとして、せめて仲間達との青春を載せた歌を作りたいと努めて詩境に臨んでみた訳であるが、成る程、如何せんあたしには経験が足りぬ。矢張せめて、一つにはわが混沌の思想統一の手助けになるように、また一つには我が日常生活の反省の資料にもなるように、また一つには我が青春の懐かしい記録として、十年後、二十年後、おれが立派な口鬚でも捻りながらこっそり読んでほくそ笑むの図などをあてにしながら、こうしてノートを綴り理性を保つ外あるまい。けれども、あまり固くなって重厚になりすぎてもいけない。道化もって正義を為せ!繰り返しても爽快な言葉だ。
 これからも夢幻の如く過ぎ去っていくであろう日々に想いを馳せ、散り行く花々の行く末を考え、詩境に入って書き殴り、以上獲鱗にして十一冊目の閉巻最終頁。そのまま空想に身を任せて床へと就いたのであった。

 「――人生は須らく夢を見るべし。人生から夢を奪うのは、あの湖をすっかり干し上げて、均質な田畠に仕上げるのと同じこと。少なくともおれは、いまのうちに夢を見ておかなければならない。〈百合亜〉はせめて余命三年、その行方など知らぬ。湖水平らかに虚を涵して太清に混ず、気は蒸す雲夢の沢、波は撼がす岳陽の城。まだまだ夜と朝とは、我われを誘のうて古の夢を見せるに足るの湖であり得ることを、せめてもの幸いとしなければならぬ、‥‥‥」

 少女は春の夢に墜ちる。夢と知りせば、覚めざらましを――。

天華恋墜 第四章:オウムアムアにも届きそう。 


桜散らずは魅せるため――。

天華恋墜 第五章:
月に寄りそうスクールアイドルの作法

続く。 


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