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天華恋墜 第七章:誰が為の大和撫子【蓮ノ空二次創作】

歌は神秘でも象徴でも何でも無い
歌は唯だ 病める魂の所有者と
孤独者との寂しい慰めである
歌に魂を込める少女たちの一瞬は
儚く、美しい――


天華恋墜 第七章:
誰が為の大和撫子


1

 「なんで私が新人賞じゃないんですか。」 
 
 疎疎たり一廉の雨、淡淡たり満枝の花。少女達は細やかに平安の字を読む暇もなく、陽気は春雨と共に崩れた。
 
 「梢、それはちが――」
 「百合亜。あなたにではなく沙知先輩に聞いてるのよ。口を挟まないで頂戴。」
 「なっ‥‥‥!」
 「っ‥‥‥!梢、あんたねぇ――!」 
 何を太平楽を言うかと言わんばかりに、梢は憎々しく皮肉を言った。その言い草に流石の慈もその眼を険しくはしたが、躊躇しようとはしなかった。
 「待った、待った。」
 百合亜は白のハンカチで鼻の頭を拭きながら言った。どうも、この節は声を出すということが、どの方面にも少なくなった気がする。どっちを向いて見ても鳴りを潜めて、沈まり返っているような気がする。物を謂えば口唇が寒いのか。吹き狂う世紀の冷たい風がこんなに人を沈默させるのか、或いは――。気の毒なような悲しいような気持ちになって、あたしは言葉だけが出た。然しその声は届いていないようで、
 「慈さん。あなたにではなく先輩に聞いてるのよ。いまは口を挟まないで。」
 「‥‥‥あんたさ、喧嘩売ってんの?言っていいことと、悪いことってもんがあんでしょ!さすがのめぐちゃんでも、怒るときは怒るからね!」
 などと、口々に言って、ひどく燥いでいる。みんな無邪気な、悪戯っ児のように見えた。この一幕ではあまり融通の利かない表情では物足らない風で、正論を対手に話を拡げて行こうとしたが、彼女等はめいめいの抱える胸いっぱいの反感で見向きもしようとしなかったのである。うら若き少女等は鳩の眼を夜でも利くものと思っている。それにも関わらず空想家の資格があると云う。少女の心は底のない嚢のように行き抜けである。何にも停滞しておらん。随処に動き去り、任意になし去って、些の塵滓の腹部に沈澱する景色がない。若し彼女等の脳裏に一点の趣味を貼し得たならばそれは之く所に同化して、千歳無窮の空にも、完全たる芸術家として存在し得るだろう。
 「よせ、よせ。」
 と、今度は二人の間に割って入る素振りを見せながら百合亜は言った。実際、あんな時には、よせ、よせ、という間の抜けた言葉しか出ないものだ。誰にだって経験がある。
 「なにかしら。」
 「なにって――」
 と少女は二の句を継いだ。継がねばせっかくの呼吸が合わぬ。呼吸が合わねば不安である。相手を眼中に置くものは、王侯と雖も常にこの感を起こす。況やいま、紫の女の他に、何ものも映らぬ少女の眼には、二の句は固より愚かである。女は未だ何にも言わぬ。唯だ道化師だけは気が気でない。一の矢はあだに落ちた、二の矢のあたった所は判然せぬ。これが逸れれば、また継がねばならぬ。少女は気息を凝らして友の顔を見詰めている。肉の足らぬ細面に予期の情を漲らして、重きに過ぐる唇の、奇か偶かを疑いつつも、手答のあれかしと念ずる様子である。
 「さっきも言ったけれど、梢は考え過ぎなんだ。らしくないよ。」
 と思い切って、少しきつく言い切ってみても、「いいえ」と意気込んだ顔で答えが返って来るだけだった。
 「私は『そうじゃない』と言ってるの。それだけなのよ。」
 「‥‥‥!」
 「梢っ!ちょっとあんた、いい加減にしなさいよ!百合亜はさぁ、あんたのこと気遣って言ったんだよ!」
 「頼んでなどいないわ。あの子が勝手にやったことよ。」
 「なんでっ‥‥‥」
 詩経に曰く、我を知る者は我を心憂うと謂い、我を知らざる者は我を何をか求むと謂う。少女百合亜は喜びのために叫び、そして、笑おうとする。然し絶望と疲労の翳が、瞳の底を掠めて走るのを確かに感じていた。彼女は友人同士の騒擾を視凝めるよりも、思わず暗闇を見詰め、そして一切れの淡い小さな水滴を見つけてしまう。
 「こず‥‥‥めぐ‥‥‥待って…‥‥」
 人生の事と謂うものは、座敷で道中双六をして花の都に到達する如きものではない。たとえば真実の旅行にしてみれば、旅行を好むにしても、尚且つ風雪の悩みあり、峻坂嶮路の艱あり、或る時は磯路に阻まれ、或る時は九折の山路に白雲を分け、青苔に滑る等々、種々なる艱苦を忍ばねばならぬ。即ちに明らかに努力を要する。若し一路坦々砥の如く、而も春風に吹かれ、良馬に跨って旅行するならば、努力なんぞは無い様なものだけれども、全部の旅行がそうばかりとは行かぬ。如何に財に富み、地位に於いて高くとも、天の時、地の状態等に因って相当の困苦艱難に遭遇するというのは、旅行――乃至人生の行く末の免れない處である。悲しげな瞳を顰めて立ちながら片手を額に重ねた綴理は、掠れ掠れの声を僅かに漏らした儘、落した肩を少しく浮かし、気の毒そうに動かない。
 
 「‥‥‥んっ!なあ、二人とも、どうにも喧嘩はよせよ。あたしもそうだけど、君たちはもっと疲れてるんだ。きっと疲労のせいだ、冷静じゃない。」
 イヤにもじもじする綴理と平坦な顔で黙したままの沙知さんを見据えつつ、あたしが引き続き制したが、これは字義通りの独り言に徹してしまった。唯だ判然としていたのは、雲を見れば雲となって流れたくなる現実への冷たい拒絶と疲労の深さとは、言を俟たず少女百合亜のものだったということ。信じながら信じ切れないぼんやりとした不安は、来るべき彼女の運命への予言のようなものに映っただろう。夢に浮かべた言の葉の舟は、平凡なる荒波に呑まれてしまう、これは、もうどうにもならないものらしい。この行路は――と、ふと百合亜は思った。得意の〈気の張り〉によって乗り切ることができようか、或いは〈道化〉だろうか、それとも――少女百合亜の〈死〉によってこの饒舌を断ちきる他に究極には仕方が無いのかも知れぬ。いづれにしてもこの現実は退屈だ。いくらか侘しすぎる感もあるが、それも仕方が無いのだろう。
 「そもそも慈さんはスクールアイドルの礼儀を知らない。」
 「梢こそ知らない。そうやって焦ってるから『スクコネ新人賞』獲れないんだよ。いまの言い方、ぜっんぜん可愛くないからね!」
 「なんですって‥‥‥!」
 気の毒とも可哀想とも悲惨とも、何とも言いようのないつらい気持ちで、二人の痴語を呆然と聞きながら、あたしは何度も眼蓋の熱くなるのを意識した。少女は依然として足もとを睨みつけているばかりで、良い返辞を考え出すことが出来なかった。大柄でどっしりとした体躯だけに、悄気返っているそういう姿が、おかしみと憐れさを二倍にして見せる。
 「めぐちゃん、それは言い過ぎじゃ――」
 と、ここで小さな声を振り絞って引き留めようとしたが、
 「百合亜は黙ってて!!」
 「はいスミマセン‥‥‥!」
 そんな風に言い出されて、あたしは真赤になってしまった。何とか云いたかったが、言葉が喉に閊えて出なかった。そして次第に心配になってきた。どうしてこんなことをする気になったのか、かような事態に自分が採るべき態度はなんなのか、愈々分からなくなった。自分自身が堪らなく馬鹿げて見えた。何か大きな不幸が今にも手を差伸べてきそうだった。部屋明かりに照らされて薄っすらと見える、こんもりとした木影や深い闇の奥まった処が、頻りにおのれを脅かした。部室にはアイデア出しで埋められたホワイトボードが一番賑やかしく、ティーセットや人形に至るまで、それぞれの個性が発揮された私物多数が空間を彩っているけれど、この不自然なる喧噪に晒されては一層虚しい。開けられた戸棚に見える茶器には闇を照す月の色に富士と三保の松原が細かに彫ってある。その松に緑の絵の具を使ったのは詩人の持物としては少しく俗である。派出を好む、見知らぬ先輩の贈物かも知れない。 
 「慈さんは、‥‥‥」
 「梢は、‥‥‥」
 依然激しい剣幕で言い合いを続ける友人を前にして、百合亜は一所懸命に大声を出そうとした。すると唇と乾ききった舌とはそうしようとして痙攣的に一緒に動いた――が、なにか重い山がのしかかったように圧しつけられて、苦しい息をするたびに心臓とともにあえぎ震える空洞の肺臓からは、少しの声も出てこなかった。
 「ゆ、り‥‥‥」
 軽く制服の袖を摘ままれた感覚がすると、我が親友が、いままで見たことのない程の苦々しい表情をしていたので、あたしは、はっとさせられた。先日彼女と交わした冗談の言葉がうねりを打って、記憶のうちに寄せてくる。心は大浪にのる一枚の板子のように揺れる。あの顔を種にして、あの蓮の池に浮かせて、運命の上から花を幾輪も落とす。藤かも知れぬし、椿かも知れない。いずれにせよ、散華せしめられた花弁が長えに落ちて、女が長えに水に浮いている感じが表わされたとしたら、どうだろうか――そうだよな、綴理。こんな本気の口論は、人の感情に機敏な君には耐えがたいよな。よし――。

 「なあ、聞いてくれないか。めぐちゃんも梢も、否定したいわけじゃないんだ。つまりは――」
 岬の尖端から怒濤目掛けて飛び下りる気持ちで、あたしはこの場を平穏無事に取り纏めることができる銀色の弾丸を求めていた、――しかしながら、肝心の言語〈ことば〉が出てこない。恰もこの芥子粒ほどの喉仏がつっかえているみたいに、出てこない。久保田万太郎か小島政二郎か、誰かの文章の中で確かに読んだことがあるような気がするのだけれども、或いは、これはまたあたしの思い違いかも知れない、芥川龍之介が、論戦中によく「つまり?」という問いを連発して論敵を悩ました、という懐古談。いづくんぞ知らん、芥川はこの「つまり」を掴みたくて血眼になって追いかけ追いかけ、果ては看護婦、子守娘にさえ易々とできる毒薬自殺をしてしまった。あたしもまた、この「つまり」を追及するに急なのかもしれない。ふんぎりが欲しいのだ。路草を食う楽しさを未だ知らず。循環小数の奇妙を知らなかった。動かざる、久遠の真理を、いますぐ、この手で掴みたかった。
 「――つまりは、もっともっと練習しなくちゃいかんということさ。あたしも、みんなも。お互いに、ね。」 
 結局、あたしは上手く口が利けなかった。声が咽喉にひっからまる。喘ぎ喘ぎ言ったのだ。それから、みんな、暫く、黙っていた。呼吸が荒くなり、心臓が脈打っているのを実感する。綴理まで、思案深げな顔をして、無言で首を振ったり何かしている。漸くして、あたしはゆっくりと唾を吞み込んだ。徹宵、議論の揚句の果は、ごろんと寝ころがって、そう言ってみんな嘯く。それが結論なのかも知れない。それでいいのだと、この頃思う。斯くして、悩ましき少女たちが大声で喚いて互いに揖譲もせず終らぬうちに、
 「――はい、そこまでだ!」
 ぱん、と手を叩いた沙知さんへと後輩達の視線が集まった。あたしは、息を殺して黙ったまま次の言葉を待った。
 「キミたち!元気なのは良いことだけど、元気の方向性が空回りしてるぜぃ。さあさあ、きょうはこれで解散だ!ライブの疲れもあるだろうから、しっかりと、ゆっくりと休息を取るように!そしておのおの、よくよく頭を冷やし給え!!」
 夜露を唇に湿して、指先に光塵を尖らすは、射損なった静寂を翻す少女の計である。飄々とした口調はいつも通りに思えるけれど、不思議と何処か諭すような深みがあって、その琥珀色には容赦がない。
 「沙知さん‥‥‥」
 「さち、ボクは‥‥‥」 
 スクールアイドルという迷宮は、二十一世紀の夢見る少女の多くを誘惑して、一度はその中に引き入れた。そしてそれらの夢想家の或る者は、元の入口である出口に辿り着いて息を吐き、或る者は、遂にその青春一生を暗中摸索に過し、或る者は――ほんの僅かの或る者は、漸く、それぞれの憩いの場――〈居場所〉と換言しても好い――を見出しながら、それでも猶、嘗て自分が第一歩を踏み込んだ、その〈入口〉に向って、微かなノスタルジーを感じているのであろうか。この入り口は、或るものに取っては文学である。或る者に取っては美術である。或る者に取っては音楽である。殊にかの眩いステージそのものである。スクールアイドルは、何処かに一つの特別な入り口――青春より出でて青春に入るというような一つの門を備えていても良い筈である。然し、その門とて、またそこに到る一つの小道が、案外〈人情〉などというような国に通じていないとも限らない。どうにも、青年の裡でははなはだ〈常識〉ができやすいように感じるのだ。五千、一万の志願者が優勝を狙って、三、四人失敗すると、それでもう不可能という常識ができてしまう。スクールアイドルだって同じで、ファンだけがその常識を信用するのじゃなくて、その夢だけでも自由に追い求めれば良い筈の舞台少女まで自製の常識を信仰してしまうのだから、かなわない。青年には不可能の常識があってはいけないもので、あらゆる可能性を予定していないと、夢のほんとうの進歩は考えられない。真に人に勝る煌めきは、そこからしか起らないものだ。
 「フン‥‥‥」
 「むん‥‥‥」
 穏やかな声色に潜む沙知の舌鋒が余り鋭いので、梢も慈も二の句を継げなかった。互いに腕を組んだまま、そっぽを向いてしまった。
 「さあさあ!帰った帰った!!」
 しっしっ、と大仰に手を払う素振りをする沙知が百合亜と僅かに視線を重ねた時、彼女の、あの熱を帯びた眼はもう見失われて居たのだった。遠いとも近いとも知れぬところでぼんやり光る灰色の円が二つ、その中心から生温い水がじわじわ滲み出して来るように、それが今漸く眼の前に迫って来たのだ。それは百合亜の眼であるかも知れなかったし、そうでなかったかも知れない――善悪は人に生まれついた天性、苦楽は各自与えられた天命なのだから。然し天輪を恨むな、理性の目に見れば、彼もまた我らと憐みは同じ。このような心の状態に在るとき、人間は、大空を仰ぐような、一点穢れ無き高い希望を有しているものである。そうして、その希望は、他人をも己をも欺かざる作品を書き上げてみせようという具体的なものでは無くして、唯だ漠然と、その希望を身近な誰かに評価してもらおう、そして願わくば天下に名を挙げようという野望なのである。それは当たり前のことで、何も非難される筋合いのものでは無い。日頃、同僚から軽蔑され、親兄弟にと心配を掛け、女房、恋人にまで信用されず、よろしい、それならば乃公おれも奮発しよう、むかしバイロンという人は、一朝目覚めたら其の名が世に高くなっていたとかいうではないか、やってみよう、というような経緯は、誰にだってあることで、極めて自然の人情である。
 「ウーーーム。なんでこうなっちゃうんだ‥‥‥」
 と、彼女が呻きながら、その場に悶絶した。
 「ゆり‥‥‥」
 綴理はひどく眉を顰めて百合亜の顔を見詰めた。あらゆる言葉が、忘却の淵へ攫い取られていたのである。取り残された自分の空虚が、はっきりわかった。お世辞にも苦笑を浮かべる余裕は無かった。昨夜までの逐一の言動を、もう一度並べ直して、吟味し直す必要がある。そういう希求は無論あったし、それに相応した努力もしたつもりだった。運命に、揶揄われているのだろうか――然し悉くの事件は、おのれに都合良くしか分からなかった。結局あらゆる思索は空転に終わり、自分に都合の良い記憶の断片だけが意識に映った。妖艶な女の心と肉体がその食慾をそそるように、彼女の――彼の身体を気怠くするのみ。おのれの青春を魅惑する女の煌めきを前に、進んで報いようとする自分の意志が、そしてその虚しさが、唯だひとつ分かりかけてくるのであった。哀しい歌が恋であってはいけないというのか?それはまるで自殺のようだと謂う。その思想が、少女百合亜の実生活にどれほどの根をもつものかは暫し疑問であるが、それがまた彼女の思想の一部となりつつあるのは疑い得ない事実であった。然し、思想の思想としての姿よりも、その傀儡であることがむしろ望ましいものに見える、誼を通じてきた女の姿が肉体が――或いは〈大賀美百合亜〉の道化が、彼女自身の眼、やがてそれぞれの感官を攫い去る。思想の空虚はそこになかった。在るものは、現実のひとりの人間の姿であった。甘美と夢想が、すべてのものになりかけていた。
 
 「――バカだバカだバカだバカだ、また間違えたのかよ、おれは…‥‥」
 そして唯だ一図に、おのれこそが未熟であると唸る低い声は、無機質なリノリウムに吸われて行って友の元には届かない。そんな無為に身をうち任していると、彼女はそよそよと微風が自分の上を流れてゆくのを感じた。その時に彼女はすっと立ち上がって再び強く眼を開いていた。沙知さんがテキパキと戸締りをしてしまったけれど、庭の木立の梢は見える。緑葉がちらちらと動いているのだろうか。その向こうには黒ずんだ空が在るのだろうか。空の中にぽつりと千切れた雲が一片浮んでいたとしても、雨の音が確と腸に響いている、それがすぐに黒空の奥に消え去ってしまうのだろう。如何にも、静かである。静かでありながら、如何にも奇妙な胸騒ぎである。奇妙でありながら、如何にも頼り無く佗びしい。最後に部屋を出た百合亜が部室の扉を閉めると、何処からともなく生温い微風が流れてくる。
 
 ――夢を追い求める少年少女は自然、弱者よりも、強者を選ぶ。積極的な生き方を選ぶ。この道が実際は苦難の道なのである。なぜなら、弱者の道はわかりきっている。暗いけれども、無難で、精神の大きな格闘が不要なのだ。しかしながら、いかなる正理も決して万人のものではない。人はおのおの個性が異なり、その環境、その周囲との関係が常に独自なものなのだから。彼女――いや、彼女達には彼女達なりの大道があって、それを他人がどうこう批評すること乃至、他人の経験で語ろうとすること自体が誤りなのである。されば如何に物事を為さんと好む力が猛烈で、而してこれを実際に為し得る才能が卓越していても、徹頭徹尾、好適の感情をもってある事業を遂行する事は、殆ど人生の趨勢にはあり得ない。種々なる障礙、或いは蹉躓の伴う事などは、かの夢想家たちをしても、已むを得ない事実なのだから。つまりはそれを押し切って進むのは、その人の努力に俟つより他はない。周公や孔子の如き聖人、カエサルやナポレオンの如き英雄、或いはニュートン、ケプラーの如き学者、更にはバイロンやスタンダールといった詩人であろうとも、皆その努力に因ってその事業に光彩を添え、黽勉に因って大成しているという事実は、爰に呶々する迄もないことなのだ。まして才乏しく、徳低き凡夫にありては、努力は唯一の味方であると断言してもいい。恰も財力乏しく、地位亦低きの旅行者が、馬にも乗れず、車にも乗れず、只管双脚の力を頼むより他に山河跋渉の道なきと同様である。
 「青年を示せ、汝の国の運命をわれ占はん」と言った哲人がいる。「青年をしてその夢を語らしめよ。われその青年の前途を卜せん」と、少女百合亜は、僭越ながら言い切りたかった。が、それよりも、ここであたしが青年の夢と憂欝と謂う一項について述懐した所以は、おのれと同様に青年の多くが描く夢の美しさ、逞しさは、そのまま、人間の精神の高さ、健やかさを示すものだと信じたからである。そして、その〈夢〉はまた、譬え如何に美しく、逞しくあろうとも、常に微笑みを浮かべるものではないということもはっきりさせておかなければならぬ。そんな〈憂欝〉を少しばかり持ち出した理由がこれだ。この紛らわしい〈憂欝〉の正体を我われ青年は確と掴んで、徒に道に踏み迷わないよう、聊かつまらぬ老婆心をさし加えたつもり、とでもしておこう。 

2

 ある日の事。お釈迦さまは極楽の蓮池の縁を、独りでぶらぶらお歩きになっていたそうな。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のように真っ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも謂えない好い匂いが絶間なく辺りへ溢れて居たという。極楽は丁度朝なのであろう。

 「むむむむむ‥‥‥はぁ。まったく、自分の未熟さがイヤになるよ。」 
 翌朝。あたしは蓮ノ湖で独り、唸っていた。 あの夜、下宿に帰ったあたしが、無様なる悔恨と友情への魅惑との間に懊悩の一夜を明かしたことは言うまでもない。蓮ノ空女学院で〈大賀美百合亜〉の道化を演じる以上、何に付けても頻りに気を揉むのだが、どうにもならない。授業の予習のこと、化粧とオシャレが身に付いてきたこと、友情のこと、繋いだ手の感触のこと、理事会のこと、れいの女性恐怖のこと、今日の弁当のメニューのこと、上履きのこと、昨日のスクールアイドルクラブでの擾乱のこと。山雨、まさに至らんとみて、風、楼に満つ。とは謂え、前兆が無かったという訳ではないのだ。この事件が何を意味しているのか、彼女の思考を割っていこう――。
 
… 
……

 
 「諸君!今月も試練の時間がやって来た‥‥‥!」
 「今日も楽しそうだなぁ姉さん!!」
 蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ・沙知部長は部室に入るなり、大袈裟な手振りで宣言した。それは二週間前の陽春の皐月で、ちょうどこぶしの花の盛り、陰鬱な大倉庫の縁先が匂いやかな白い花の叢から照りかえす陽光に、春らしい明るさを齎せていた。
 「おー。さちもゆりもなんだか楽しそうだね。」
 「え~?さちせんぱ~い、それってカワイイやつですか~??」
 「慈さん、あなたまた、‥‥‥」
 部室内の少女達が個性いっぱいにはしゃぐ様子を一瞥すると、沙知は何やら決然とした面持ちになって、
 「あっはっは、賑やかで結構!んー、まーつまりは?みんな気力十分って感じだねぃ。おーし!では試練の内容を言い渡す!今月の試練は――ステージ造りだ!」
 「「おー。」」
 百合亜・綴理の両名が呑気な感嘆と乾いた拍手とを重ねた。このステージ造りは、スクールアイドルの作業としては唯だ単に装飾やセットを準備するという側面が目立つが、実際にはステージの完成度そのものに大きな影響力を及ぼす。たとえば我われは、彫刻家の製作現場を見物する時、その芸の運進に技術以上のものを感ずる。徐々に描き出される線や面は、他の大きなものに統制されて、やがて一つの立像のうちに生き上る。この過程に於いて全体を統制するもの、それが芸術的構想である。舞台創作もその観点からして彫刻製作に等しい。造り出される小物の一つ一つは、芸の運進の一つ一つである。そして演者の人物像が出来上る。このことを理解する者は、たとえば『蝶々夫人』の初演に構想が乏しいなどとは考えないだろう。そのエロチシズムは別として、またその歌は別として、その人物立像は構想によって打ち立てられたものである。さらに人物像の彫り上げには、凡て構想力が基本的に働く。何等かの観念や思想を具象化せんとする際には殊にそれが顕著である。観念や思想を多分に劇中に盛りこまんとする作家の創作苦心の多分は、恐らくは、構想の線上に在るであろう。その観念や思想の重荷を担い得るものは、唯だ構想力のみである。そして、彼女がその役割を引き受けた裁縫は勿論、マネージャーとしてライブ当日に担当する音響設備や照明なども、その配置場所や陰影色彩強弱を考え始めれば、それはステージ造りに於ける想像力――何よりも彼女のセンスと技術力が問われる部分でもあるのだ。これは、努力のし甲斐がある。
 「はい百合亜よろしくぅ!」
 「へへぇー。さあさあ、どうぞ!」
 百合亜が予め確保していた部室棟の大部屋に案内すると、スクールアイドルの面々は蜜蜂の仕事よりもさらに気長い巧妙な建設の仕事を始めた。元来舞台装飾は、由来、演劇の脚本に当たって屡々上演者のナイーブな誇示的欲望の道具に使われていた。ギリシャ劇に於いてはまだ左程でなかったと聞くが、ローマ時代にはその頂点に達したという。中世フランスでは幼稚ながら豪奢な舞台が盛んに見物の喝采を博し、十七世紀に至ってその傾向は殆ど後を絶ったものの、十八世紀の末から十九世紀にかけて所謂「地方色」の尊重を口実として舞台装飾に凝り出したのだった。その結果がロマン派演劇の壮麗ではあるが、悪趣味の舞台装飾を生み、その反動として、自然主義の、これまた真実の名を藉りた悪写実の弊に陥ったことは周知の事実であろう。舞台装飾を職業的背景画家の手に委すことを欲しない、そしてまた、自然主義的の実物排列に慊らない多くの舞台研究者は、一斉に起って舞台の様式化に走り、その残滓が二十一世紀にも感じられることは無念極まりない。これらの熱心な舞台改良家は、恰も脚本と演者の存在を忘れているかの如き感があるのだから、手造りの美を生み出すスクールアイドルとは対極の位置に在る。
 
 「いっぱいいっぱいトンカンしようね。」
 「だねえ。よしよし、どんどんいこ。」
 あたしは、驚いた。普段ならお眠の十五時過ぎにもかかわらず、あの綴理の語尾が所々弾んでいて、ステージ造りは得意分野だと謂わんばかりに積極的に作業に参加していたのだ。トンカチと釘がぶつかる音が心地良いリズムを刻んでいる。
 「しまった、釘が足りない‥‥‥!このままじゃ、さちが小さいままだ‥‥‥。」
 「ちっちゃいゆーな!」
 「この、箱馬‥‥‥?って面白いよね。さちに必要なのと、ボクに必要なのを並べると、ボクよりさちのがちょっとだけ大きいんだ。ボクより大きいさち‥‥‥珍しい。」
 不相応な工具を片手に、作りかけの部材に目を輝かせる綴理。普段の軽作業では応援隊長に徹する彼女も、きょうは一向困った風でもなく微笑んでいたのを鑑みるに、大出来だ、と彼女自身も密かにほっとしていたようだ。
 
 「こっちの二人も‥‥‥捗ってるみたいだねぃ。いいぞいいぞ。」
 初めは乗り気ではなかった風の慈も、いざ作業が始まると慣れた手つきで色とりどりの素材に触れていた。
 「まあ、私は昔から小物作ったりするの好きだから。カワイイのを自分で作って、ステージで可愛い私がもっと可愛くなる!っていうのは、ステキだなって☆それに――」
 「うん?」
 メンバーの視線が梢の動作に集まる。灰色に覆われた窓の外、柳と柳の間に的皪と光るのは白桃らしい。とんかたんと土を踏む音が外から聞えて来る。とんかたんの絶間から女の唄が、はああい、いようう――と瞼の上まで響く。何を唄うのやらいっこう判らぬ。
 「え!?もう終わったの!?」
 「こういうのどう?って私が見せてみたんだけど。そしたら梢がめっちゃ真剣になってさ。それで‥‥‥もう、負けず嫌いなんだから!」
 そこには、翡翠色の少女の両手いっぱいに掬いあげた花飾り。
 「すみません、沙知先輩。こんな物しか、作れなかったのですが。もう少し、一つ一つ丁寧に作るべきだったでしょうか‥‥‥?」
 沙知は訝しく思ったが、すぐにその意を察したようで、
 「あっはっは!確かに制限時間は伝えていなかったね。すまないすまない。‥‥‥うんうん、すっごく良いよ!」
 「そう、ですか‥‥‥よかった。」
 梢の頰に紅が差す。嬉しさとは別に、なにか暖かいものが感ぜられた。されど雲の動きは次第に繁くなる。足音の絶え間を縫うて、白い粒が幾度も砂の上を飛ぶと見えて、濃かなる調べは、太き糸の音と細き音を綯より合せて、代る代るに乱れ打つかの如く少女の耳に聴こえ始める。
 「ステージ造りもね、絶対の正解があるものじゃないさ。スクールアイドルのライブは場所を選ばない。‥‥‥と、あたしは思ってるんだ。それで、こうして頑張って作り上げたステージの上でやるライブは、他にない心地良さがあるとも思う。気持ちを積み重ねたみたいな感じがするんだよねぃ。キミたちも、この前のライブで少し感じたんじゃないかな?」
 後輩は返事を控えた。夢は凡ての罪悪を孕む。返事を控えた裡には、あらゆるものを犠牲に供するの決心がある。先輩は続ける。
 「足元から天井、みんなのいる場所も、あたしたちの立つ場所も、ぜんぶ、あたしたちみんなの気持ちで作られてるんだ。そう思うとさ――どうだい?楽しくなって来ない?にひひっ。」
 彼女らしい眩しい笑顔が後輩皆の表情を明るくする。鑑みれば、構想は本来、舞台を直接的に面白くするものではない。場合によっては構想者の主張が激し過ぎて面白くなくさえもする。それでも構わず、我われは常に構想力を要望する。これ無くしては新たな性格の探求は出来ないし、演者の性格の立像的描出は更に出来ない。構想力の旺盛なる余り、譬え作品が面白くなくなっても一向に差支えないと、あたしは思うのだ。誤解を恐れずに付け加えるが、こうした理解を前提として、構想の動きとか発展とかは考えられなければならぬのではないか。さもなくば作品は直ぐさま低俗に堕する。単なる文字の羅列、平面的な筋の動きだけに終始する。この間の消息は、学術論文に於ける筋の発展と比較して考察されることが出来るかも知れぬ。面白くない論文は、序論から結論に至るまで同一地点に立っていることが多い。中間は唯だ漫然と平面的に歩き廻るだけである。この種の漫歩を如何に多くしても、真の面白さは得られず、それは却って全体を講議録的な低俗さに為すのみである。論文に於ける筋の発展は、構想の発展に裏付けられたものであることを要する。
 
 「百合亜はというと‥‥‥ほほぅ、可愛いフリル!なるほどねぃ。」
 沙知さんが部屋全体を見渡した後、すっとあたしの隣に立った。よく、みんなを見てあげているなぁと、素直に関心したものだ。
 「そうですねぇ‥‥‥まあ、裁縫然り料理然りですけど、あたしには、こういう地道な作業が向いてるんですよ。兎にも角にも、スクールアイドルの為にやれることは、いつでも全力でやらせてもらいますよ!」
 「あっはっは!いいじゃんいいじゃん!期待してるぜぃ、百合亜!」
 大仰な笑いを湛えて、沙知は妹の背中をぱしっ、ぱしっと叩く。爽やかな夏の涼風さながらの張りのある声が吹き抜けたかと思うと、年頃の少女らしい甘い表情を見せて百合亜の眸を覗き込むのである。
 「ステージ、曲、衣装‥‥‥。スクールアイドルはどれも手作りだけどさ、だからこそ、望めばどんな自分にだってなれるんだぜ!にひひっ。」
 舞台の幻影は色彩のリズムである。大小の画家が劇場につめかけました。舞台の生命は光線である。電気技師が招聘されました。舞台監督は近眼鏡を曇らせながら、舞台意匠の下図に見入っていました。そして、俳優が、詩劇の台詞を一句飛ばしているのも知らずに、衣裳の襞に、臀の角度に、椅子の置き方に、あれこれと細かい注意を与えました。‥‥‥そんな馬鹿なことがあるか!トントンカンカンのこのリズムこそ、手造りのステージこそが、スクールアイドルをスクールアイドルたらしめる要素の一つなのだ、とあたしは断言する。ああ、ここに至ると、あたしは、皆と一緒にステージを造っているという事実が、もうそれだけで楽しい。そうだ、殊に彼女たちが立つステージは、あたしにとって特別だったのだから。
 
 かくして、四人の歓談を聴きながら百合亜が作業を進めること、少時。――わあっ、という歓声が廊下を埋める臙脂色群れから聞えて来た。
 「わっ、いっぱいだね。」
 「え~?めぐ党のみんな、わざわざ見に来てくれたの~?ありがとね☆」
 「‥‥‥こんなにいっぱい。みなさん、いつも応援ありがとうございます。」
 「おおっ!またまた賑やかになったねぃ。」
 スクールアイドルの四人はファンサービスに努め、女学生たちは、ソレッとばかり、戸口に殺到する。確かに「蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」のスクコネ・チャンネル登録者数は日に日に増えつつあるし、クラスの中で耳だけを預けていても、この前のライブステキだったよ、などといった会話を彼女達が交わしているのを聞いたことがある。綴理なんかはお昼に一緒にお弁当を食べに行く前、休み時間にみんなから一曲お願いされる程であることからも、この女学院の中で早くも羨望の的となっていることは感じていたし、同じクラブに所属する一員として、一人のファンとして、とても誇らしかった。‥‥‥それだけなら、よかったのだが。
 
 ――アレよ。ヒソヒソ。――アレが噂の。ヒソヒソ。――ヒソヒソヒソ。――ヒソヒソヒソヒソ。――廊下を歩いて、ヒソヒソ。――クラブの活動中にも、ヒソヒソ。その繰り返しだった。鳥籠に入れられた雛鳥のように、どこか憐れむような視線を浴びながら。そこまで近寄って来た暗い雲は、そろそろそろそろ太い糸に変化する。すいと木立を横切った、あとから直ぐすいと追いかけて来る。見ているうちにすいすいと幾本もいっしょに通って行く。雨はここで一層繁くなる。
 
 「あははは、みんな、ありがとうね‥‥‥。」
 百合亜は溜息を更に溜めながら言った。一応手を振ってみるが、その対象が自分ではないことくらいはわかるのだ。まったく、そんなことは、かつてしたことはなかったが、やがて皐月の春風はあたしの頭と顔と血脈とを真赤に染め出し、その心臓を北陸新幹線のピストンの如く急がせてしまったのだけれども、わずか数分の視線で自分勝手に苦しむのはさも道化師らしくないようだから、つとめて平静な顔をして雲を眺めていたところ、その急速なピストンが逆にすこぶる緩漫になったと思うと、急に五月の天地が地獄の暗黒と変じて来た。あたしはこれが、我が懐かしき金沢の見納めかと感じたものだ。
 或いは、米粒一つの希望の事にしろ、あの日の全部の変調子を解くために、是非とも考慮に入れて置かなければならぬ重大な事実が一つあるのだ。それは、もう、読者諸君には言に俟たぬ事実であろうが、〈大賀美百合亜〉に向けられている、この、女の、イヤな視線である。あたしはどうしても対等の調子が出なくなっていた。心が貧乏していると集団の威圧を感じ易いというのはよくあるけれど、――結局、これが、この無様を晒すのが、おのれ自身なのか?これが〈努力〉の、〈気の張り〉の結果なのか?健康と金銭の条件、それから――運命さえ神仏が御赦しになるのなら、おれも普通の高校に通って寮住まいでもして、毎日、毎日、男たちとも女たちともとりかえしのつかないことを言い、とりかえしのつかないことを行うべきでもあろうとも、いまは、白砂青松の地に居ながらも、籐椅子にねそべっている我が身を抓っている始末である。住み難き世を人一倍に痛感し、まことに受難の子とも呼ぶに相応しい、佐藤春夫、井伏鱒二、中谷孝雄、若き日の彼らがいまさら出家遁世もかなわず、なお都の塵中にもがき喘いでいる姿を思うと、――いやこれは最早対岸の火事どころの話でない。
 ああ、臆病なあたしを赦してくれ!どうも、スクールアイドルクラブの仲間たちと一緒に居ると――とりわけ、沙知さんの前では、まるで身体が、だるくなり、我儘が出てしまって、殆ど自制を失うのである。自分でも、おやおやと思うほど駄目になって、意志のブレーキが溶けて消えてしまうのである。唯だ胸が不快にごとごと鳴って、全身のネジが弛み、どうしても気取ることしか出来ないのである。たとえばあたしは、クラスの女子の歓談に首を突っ込んで、やけくそで突拍子ない時に大拍手をしてみたり、碌におのれに聞いてもいない癖に、然りとか何とか、矢鱈に合槌打ってみたり、きっと皆は、あの隅の方にいる大きくて煩いのは薄汚いやつだ、と内心不快、嫌悪の情を覚え、顰蹙されていたに違いない。上履き事件の直前である、あたしは漸くこの頃、その事実を自覚しつつあったが、どうにも意志のブレーキが、きかないのである。
 或いは、本来は風呂場で膝を抱えてやるべきことなのだろうが、こうして思考が錯綜してくるとイヤにも言い訳染みた発想が出てくるもので、曰く、女には、未だ古くさい情緒みたいなものが残っている、と。淋しくて戸惑いして、そうして、ごはん一杯ぶんの慈善なんて、へんな情緒を発揮したのではあるまいか。兎に角、あの日の、あたしの耳朶に響いた変調子は、スクールアイドルの彼女達だけが原因ではない、あたし自身の抱える問題と強く結びついているようだ。別段、友人として百合亜個人に思召しがあるわけじゃないんだぜ。冗談じゃない、‥‥‥いいや、ひょっとしたらこうした偏見と恐怖心こそが、あたし自身の世界像を歪めているのかも知れぬ、‥‥‥こうも一度沈思してみると、あたしには「自然は真空を忌む」というトリチェリーの命題が舌の下まで昇って来て、これを抑えるのに骨が折れる。そういうことを口にすれば、あたしは立派な妄想症の精神病者にでも数えられるのだろうから。だが少なくとも、そこには「文化」という空気の、交換に似たものがあるらしいと言っても、必ずしも不遜ではないだろう。この旧い空気が廻って、――恰も演者が入れ替わるかの如く――恰も流行の終えた人形が捨てられるかの如く、今の新しい空気を排除していたのだろうか。今の新しい空気は、旧い空気によって排除されていなければならなかったような稀薄な空気だったのだろうか。学院の同輩達は、却って何に遠慮して沈黙していたのだろうか。そして現在、何に刺激されて精力的に騒いだり、喚いたりするようになったのだろうか。使命か?人情か?夢か?道義か?将又それは――恋、だろうか。
 この間も、女学生の囲いに耳だけ傾けていて、一人が一人に、あなたはいま恋愛をしていないのかと訊く。恋愛もいいけれど怖いようなと一人が謂うと、その女学生は恋愛に怠けてしまってはいけない、恋をすれば、勉学も部活動も逞しくなり、躯も元気になるものだと話していた。そのクラスメイト等の話して行った中にまた、こんな例がある。子供が二人あって、良人に死別した絵を描く若い寡婦が、恋の気持ちを失って来ると、心がだんだん乾いて来て、生活がみじめになって、絵もまずくなり、容貌も衰えて、どうして生きていいのか解らなかったのだけれども、ふと好きな青年をみつけて、その男と仲よくなってしまったら、急に容貌も生々と美しくなり、絵も上手くなり、そうして、何より面白いことには、二人の子供を叱らなくなったと謂うことだ。なんとも婆臭い語りの調子ではあったが、いずれにせよ恋愛のない時分は、いつも苛々していて、朝から晩まで子供ばかり叱っていたのだそうな。道徳の上から律してゆけば、この未亡人の恋愛はどんな風なものなのか、道化の少女にはてんで解らないけれども、一方でこれは可憐な話だとも思う。恋人に逢った翌る日は、覿面に生活が豊富になると謂うのだから。この若い寡婦はまた、その男とは結婚しないと云う約束のもとに二、三年も濃やかな愛情を捧げおうているということだが、こんな恋愛を新しいとは、評せぬものだろうか。結婚をするといっぺんに厭になりそうな男だけれども、恋愛をしていると、何か刺激されて清々しいのだと感じるのは興味深い。
 ともすれば、十代の女の恋愛には飛ぶ雲のような淡さがあり、そして二十代の女の恋愛には計算が伴い、三十代の女には何か惨酷なものがあるような気がする。さすれば本当の恋愛とは、どんなのをさして謂うのだろうか?サーニンのようなものを言うのだろうか、ウェルテルの悩みのようなものだろうか、それとも、未練、女の一生、復活、春の目覚め、ヤーマ、色々な恋愛もあるけれども、どれもこれも古くさくてぼろぼろのようで、また、考えれば、どれもこれも新らしいとも思えてきた。――恋愛をしてごらんなさい、生々するから。そう言い放ったクラスメイトの言葉が、百合亜に礫になって飛んで来る。すると、いままで良人の蔭で目を瞑っていたような気持ちが、急に生々と立ち上がって羅紗の匂いの新らしい制服姿に好意を持ったり、襟足の美しさや、時には、よその女の持っている純白なハンカチの色にさえ動悸のするような一瞬があるのだ。そうして、その動悸は肉体を苛めつけるような苦しいものが伴っている場合がある。よその奥さんの気持ちの中に、こんな気持ち〈こころ〉は微塵も湧いて来ないものだろうか。結婚をして、一人の男を知ると十五、六の娘のころのように雲のような恋愛はイヤになってしまうのか、女は。恋愛の気持ちのあるたびに、いちいち良人と別れるわけにもゆかないだろうに‥‥‥。
 
 ――話がどうにも横道に逸れてしまったが、然し、往時から少女百合亜を悩ませたのは大抵は女の話だった、ということだ。怖いのか?憧れているのか?触れたいのか?逃れたいのか?馬鹿なのか?――馬鹿だ。あたしは所詮、罪を犯した為に地獄に堕ちた一人の凡夫に違いなかった。が、それだけに愈々こうした悪徳の感情は少女百合亜を憂欝にした。あたしは自戒の為に、一時的に勤勉な清教徒にでもなって、それらの少女達を嘲笑おうかとも真面目に考え出した程である。
 
 「あ、ゆり。ボクがステージ作り頑張ってたの、見てた?」
 君見ずや春心三年流電の如し、女学生等との会話を終えた綴理がほんのりと上気した頬を浮かべながら声を掛けて来た。
 「もちろん!まさか綴理がステージ造りに適性があるなんてね。びっくりだよ。」
 「うん、ボクもびっくりした。ボクも見てたよ、ゆりのこと。みんなも、ゆりに手を振ってくれたのかな。」
 「‥‥‥あははは、そうだね。」
 綴理はそれを半分は冗談で言ったのだろうが、然し自分には重苦しく思い当たる事があり、たとえばむかし、クラスの女子から稚拙な手紙をもらった覚えもあるし、実家の近くの八幡様のところの娘が、毎朝、自分の登校の時刻には、用も無さそうなのに、社務所の前を鞄を持って出たり入ったりしていたし、スーパーに買い出しに行くと、自分が黙っていても、そこの女が、……また、姉なる少女との複雑な距離感の中に、‥‥‥また、幼馴染の少女の何気ない仕草の中に、……また、ひどく器量の良い親友の少女を毎日お世話する中に、‥‥‥また、後ろの席の少女の部屋でスクールアイドル談義をする中で、……また、思いがけなくクラスメイトの女子等から、思い詰めた不可解な視線を向けられて、……また、また、また、……自分が極度に臆病者なので、いずれも、それっきりの話で、唯だ断片、自分自身の感情についてもそれ以上の進展が何かあるわけでは無かったけれど、何か女に夢を見させる雰囲気が、自分のどこかに付き纏っている事は、それは、惚気だの何だのといういい加減な冗談でなく、否定できないものとなりつつあった。蓮太郎少年は、それを少女百合亜如きの偽物に指摘せられた気がして、屈辱に似た苦さを感ずると共に、〈ごきげんよう少女〉として現し世に遊ぶ事にも、俄に興が覚めたのである。それが顕わになったきょうの彼女の態度には明らかに動揺の色が見えたが、友人達は――そして姉も、未だ気が付かないようであった。
 
  あたしは、もう、それこそだいぶん前から、自分が女の魂を顛倒させ、その胸をずたずたに引き裂いてしまうような危うさを持っていることを、おぼろげながら感じていた。而も、それを確信すればするほど、少しも早く、できるだけ正確に、目的を達したくなった。それは正しく一種の道化であって、舞台役者の演技に似た本能が、あたしを夢中にさせたのである。尤も唯だの演技ばかりでもなかったのだが、友情のことを、‥‥‥然しあたしには、それはわかり切っている事のように思われた。結局はあの時と同じで、それ以外の方便が見つからないのだろうという諦観がある。そしてそれは、そうに違いないだろうけれども、人間の心には、もっと訳の判らない、恐ろしいものがある、と。慾、と言っても、言い足りない、ヴァニティ、と言っても、言い足りない、色と慾、とこう二つ並べても、言いた足りない、なんだか自分にもわからぬが、人間の世の底に、この女学院だけでない、へんに怪談じみたものがあるような気がして、その怪談に怯え切っている自分には、所謂唯物論を、水の低きに流れるように自然に肯定しながらも、然し、それに依って、人間に対する恐怖から解放せられ、青葉に向って眼を見開き、希望の歓びを心から感ずるなどという事は、まだ出来ないようであった。けれども自分は、一度も欠席せずに女学院に出席し、同輩の女子たちが、いやに一大事の如く、こわばった顔をして、一プラス一は二、というような、ほとんど初等の算術めいた理論の研究に耽っているのが滑稽に見えて堪らず、れいの自分のお道化で、クラスの輪に飛び込んで彼女等を寛がせる事に努め、そのために自分はその輪に無くてはかなわぬ人気者という形にさえなって来た、と思い込んでいたのである。この、単純そうな人たちは、自分の事を、やはりこの人たちと同じ様に単純で、そうして、楽天的な戯け者の〈ごきげんよう少女〉くらいに考えていたかも知れぬが、若しほんとうにそうだったら、良かったのに。畢竟自分は、この女子高生達を一から十まで、ぜんぜん理解出来なかったのである。少女百合亜は、道半ばにして、十全たる〈女子高生〉ではなかった。けれども、学校にもクラブにもいつも欠かさず出席して、皆にお道化のパフォーマンスに努めていた。
 好きだったから、だと思う。自分は心の奥底ではひどく怯えながらも、その人たちが、このクラスでの日常が、なによりも沙知さんと、スクールアイドルクラブの友人たちと過ごす時間が、〈大賀美百合亜〉の居場所として気に入っていたからなのだろう。でも、それは必ずしも、道化に依って結ばれた親愛感では無かった。非合法。百合亜には、それを心の表面では恐れると同時に、心のどこかではそれを幽かに楽しんでいたのかも知れない。寧ろ、れいの狂乱の日々よりはずっと、居心地がよかった。世の中の合法というもののほうが、却って恐ろしく、それには底知れず強いものが予感せられるけれど、その絡繰りが不可解で、とてもその窓の無い、底冷えのする部屋には坐っておられず、道化の外は非合法の海であっても、それに飛び込んで泳いで、やがて死に到るほうが、少女百合亜にとっては、いっそ気楽のようであったのだ。
 日蔭者、という言葉がある。人間の世に於いては、みじめな、敗者、悪徳者を指差していう言葉のようだが、あたしは、自分を生れた時からの日蔭者のような気がしていて、世間から、あれは日蔭者だと指差されている程の人とは逢うと、自分は、必ず、優しい心になってしまう。そうして、その自分の「優しい心」は、自身でうっとりするくらいの優しい心を演じていたつもりだった。或いは、犯人意識、という言葉もある。百合亜は、この人間の世の中に於いて、一生その意識に苦しめられながらも、然しそれは自分の糟糠の妻の如き好伴侶で、そいつと二人きりで侘しく遊びたわむれているというのも、自分の生きている姿勢の一つだったかも知れないし、また、俗に、脛に傷持つ身、という言葉もあると聞くが、その傷は、自分の赤ん坊の時から、自然に片方の脛にあらわれて、長ずるに及んで治癒するどころか、愈々深くなるばかりで遂には骨にまで達し、夜々の痛苦は千変万化の地獄とは言いながら、これは大変奇妙な言い方だけれども、その傷は、次第に自分の血肉よりも親しくなり、その傷の痛みは即ち傷の生きている感情、または愛情の囁きのようにさえ思われる、そんな男にとって、れいのクラスメイト・グループの雰囲気が、へんに安心で、居心地がよく、つまり、その運動の本来の目的よりも、その運動の肌が、自分に合った感じなのだった。思えば、二十一世紀には様々の型の女子高生が居るものだ。百合亜のように、虚栄のモダニティからそれを自称する者もあり、また、おれのように、唯だ非合法の匂いが気に入ってそこに坐り込んでいる者もあり、もしもこれらの実体が、女子高生の真の信奉者に見破られたら、百合亜も自分も烈火の如く締め上げられ、卑劣なる裏切者として、それこそ誼を通じて来た友人からさえ、たちどころに追い払われた事であろう。然し、少女百合亜も、また、蓮太郎少年でさえも、なかなか除名の処分に遭わず、殊にもあたしは、その非合法の世界に於いては、合法の青年たちの一員として生きたであろう世界に於けるよりも、却ってのびのびと、所謂「健康」に振舞う事が出来たから、見込みのある同志として、噴き出したくなるほど過度に秘密めかした、さまざまの縁を頼まれる程になってしまったのだろう。また事実、自分は、そんな用事を一度も断ったことは無く、――スリーサイズの件は流石に不平を申し上げたが、それ以外は洒唖洒唖して平気でなんでも引受け、へんにぎくしゃくして、姉に怪しまれ不審訊問などを受けてもしくじるような事も無かったし、いつも笑いながら、また、ひとを笑わせながら、その危ない仕事を、兎に角正確にやってのけていた。百合亜のその当時の気持ちとしては、罪人になって捕えられ、たとい終身、刑務所で暮らすようになったとしても、平気だったのだ。女学院に棲む人間の「実生活」というものを恐怖しながら、毎夜の不眠の地獄で呻いているよりは、いっそ牢屋のほうが、楽かも知れないとさえ考えていた。
 
 さて、こうして季節は梅雨に入ろうとした。我が若き日も哀楽も遂には皐月の薄紫の桐の花の如くにや消え果つべきか、ひどく空気の湿ったむしむしする日のことだったが、百合亜は女の囁きの中に奇妙な言を聞き咎めたのである。

3

 弁当忘れても傘忘れるな。これは石川県内だけで通用する諺だと思っていたけれども、日本海側ならば比較的広い地域で伝えられていると知ったのはごく最近のことだ。とは謂え、諺は腐っても諺なのだろう、この土地に住んで一度でも四季を廻れば、その半分くらいは雨雲に見下ろされている実感を確かに抱くであろうし、特に六月の雨は、恰も中世紀の僧院のように、暗くて静かな時間がずっと続く。偶に晴間を見せて薄日が射すと、却って四辺は醜くなる。太陽の耀く人の世は――異性の華やかなる生気の溢れる女学院は、あたしにとっては余りにど強い。
 雨露に濡れた葉の上で、雌の蟷螂が斧を振り上げているのを見た。ああ、ふと鑑みれば、あたしの人生は六月の雨のそれだった。昔からそうなのだ、暗くて静かだった。滅多に太陽を見ることが出来なかった。けれどもあたしにとっては、却ってその方が気易かったのだと思う。全てが白日下に曝け出されることは寧ろ恐ろしい。けれども、あたしはいつまでも自分だけに都合の良い世界で、安逸を貪っていることは許されなかった。いつまでも卑怯である訳には行かなかった。伸ばされた手を、取ってしまった。再び人情の世界に報いたいと、思ってしまった。新しい夢を、抱いてしまった。然し、あたしの身体に巣食っていた疑惑の病菌は、おのれの意志の如何に係らず、ゆるりと、そして確実にあたしの全身に拡がりつつあったのだ。そうして、それが一週間ほど以前に、俄然爆発したのだった。恐ろしい病気が現われた時に病気が発生したのではなくて、発生そのものは遠い以前にあって、適々何かの誘因でそれが突然現われるものであるというのは、多くの人の知っていることだが、あたしのは全くそれなのだ。而も、それは恐ろしい業病なのだ。
 霧の庭に、紫陽花に似た赤い大きい花が燃えるように咲いていた。子供の頃、母と寝た蒲団の模様に真赤な紫陽花の花が散らされてあるのを見てへんに悲しかったことを憶えているが、矢張赤い紫陽花の花って本当にあるものなんだと思った。――いけない、いけない。どうにも思考が彷徨ってしまう。人間に気候の影響は甚だ大きい。あたしは、どれだけ道化の仮面で自身を取り繕うとも、理知の言葉と同じ程度に、気候の言葉を自分の裡に聞きがちだ。
 
 れいの間の抜けた鐘の音が響き、蓮ノ空は昼休憩の時間を迎える。教室のうしろの方で、女学生たちが何か笑っている。あたしは、その一群をちらりと眺め遣ると、避けるようにして廊下へと出ていく。その最中、
 「百合亜、ちょっといい?」
 「めぐちゃん。」
 藤に驕るものは招く、白百合に深く情濃きものは追う。東西の春は二百里の花路に連なるを、願の糸の一筋に、恋こそ誠なれと、髪に掛けたる丈長を顫わせながら、長き梅雨を縫うて走る。古き五年は夢である。唯だ滴る筆の勢に、うやむやを貫いて赫っと染めつけられた昔の夢は、深く記憶の底に透って、当時その髪を裏返す折々にさえ鮮やかに煮染んで見える。少女の夢は命よりも明らかである。

 「――それで、急に音楽室だなんて。どしたん?お勉強のことか、きょうのお弁当のメニューのことか、人間関係のことか。いいや、やっぱり音楽室だし、スクールアイドルのことかな?」
 「ううん、違うの。百合亜のこと。」
 「‥‥‥。」
 少女はこの明かなる夢を、春寒の懐中に暖めつつ、黒く動く一条の糸に載せて東に行く。慈は確と百合亜の眸を見据える。糸は夢を載せたまま只管に、唯だ東へと走る。夢を携えたる人は、落すまじと、ひしと燃ゆるものを抱きしめて行く。車は無二無三に走る。野には緑を衝き、山には雲を衝き、星あるほどの夜には星を衝いて走る。夢を抱く人は、抱きながら、走りながら、明かなる夢を暗闇の遠きより切り放して、現実の前に抛げ出さんとしつつある。日の走るごとに夢と現実の間は近づいてくる。少女の旅は、明かなる夢と明かなる現実がはたと行き逢うて区別なき境に至ってやむ。――想い出してしまう、この藤色の眼だ。彼女の、この純粋な優しさを湛える眸の方が、あたしはもっと苦手なのかも知れぬ。雲はまだ深い。
 「ほら、最近いろいろあったでしょ。私と梢が喧嘩したときにも、百合亜庇ってくれたじゃん?‥‥‥それで、あたしがちゃんと頑張らないとー!って余計に思わせちゃったかなーって、めぐ思う、ゆえにめぐあり。‥‥‥なんて言ってみたり。ごめんね、私の気にしすぎかな?」
 「あはは、優しいなぁめぐちゃんは。それでいて考え過ぎさね。あたしは大丈夫だよ。あたしのことなんて、いまはどうでもいいんだ。もしあたしが悩んでそうな顔してたなら、それはたぶん、撫子祭のことに集中したい時期ってだけだよ。」
 「どうでもよくないでしょ‥‥‥。」
 少女は返事の代わりに朱紅い唇を結んで漏れるような音を震わせる。衣替えの時期を迎えた蓮ノ空女学院の夏制服は慎ましやかな淡い青灰色。白っぽい色相のセーラーワンピースで腰回りにこれまた白のベルトが一周していて、我が目の前に儚げに腕を動かす少女も、双眸に希望に耀かせながら可憐に身に纏うのは見事なる女子の気品。然し対する百合亜は――制服の胸は太くも薄っぺらで、色の生白い小さならっきょう顔は、まだどう見ても、アルバムの若き日の写真ふうの少年のそれであった。髭になる生毛の最初の兆しもなく、蝋のように青白くなめらかな削げた頬に、唇と頬だけが染めたように赤いのだ。そして、そんな子供っぽい全体のなかで、睫毛の深い二重の目玉だけが、まるで人生の裏ばかりを眺め暮してきた大人のそれみたいに、ときとしてこの上なくいやらしく灰色を光らせる。あたしは、このおのれの眸がきらいだった。陰険で、狡猾で、皮肉で、気のゆるせない人間、誰にも心からは愛されず、誰も愛さないであろうその不幸を、まるで武器だとしか考えていないような、その惨めな目が。
 
 「‥‥‥ねぇ、百合亜。またなんか隠したりしてない?私たちに心配させないようにって、また無理して――」
 「ううん。その件はもう解決したから。ほんとうに大丈夫。上履きのことだって、ほんとうに偶々なんだから。」
 百合亜は言下に否定した。
 「‥‥‥ほんとに?」
 「ほんとに。」
 「ほんとのほんとに?」
 「ほんとのほんとに、だぜ。」
 そうして、そのうちにあたしたちのその下手な議論もだんだん途切れがちになって来て、「単なる」とか「要するに」とか「とにかく」とか「結局」とかいう言葉ばかりたくさん飛び出て、だれてしまって、その時、校庭に木枯らしがひょいと吹いていった。あたしは思わず「めぐちゃん」と呼んだ。
 「ほんとにほんとのほんとにほんとなのさ。世界一カワイイ最強の幼馴染と一緒なら、大賀美百合亜はどこでもやっていけるさね!これからもよろしく頼むよ、めぐちゃん大明神!」
 人気の無い音楽室で二人は言葉を交わす。梅雨の空に溶けそうな乾いた笑顔を藤色に差し向ける。今日は随分早く起きたからだろうか、瞼が少しだけ重い。暁天の蛙声は良かった。ほっかりと朝月があって空梅雨、何となくニヒリスティックな北陸の一風景。正午を過ぎても梅雨らしく曇っては見せるが、なかなかに降ってはくれない。
 「それよりも、だ。」
 相手の顔は見ず、質問のように、独り語のように、駱駝の膝掛に話しかけるように、立ん坊を繰り返しながらゆっくりと幼馴染と視線を重ねる。
 「あたしもさ、めぐちゃんと話したいことがあるんだ。」
 「‥‥‥ああ、梢とのこと?たしかに、百合亜にも迷惑かけたのはごめんだけど。それこそ、私と梢の問題っていうか。‥‥‥別に、私はあの時、間違ったこと言ったなんて、思ってないからね!」
 彼女は落ちつかぬ語調ながら、薄い片頬に笑を見せる。
 「ううん、それは心配してないんだ。めぐちゃんなら大丈夫、でしょ?あたしが話したかったことはね――」
 雨こそは扨ても真面目に、しっとりと人の気分を落ちつかせ、石の心も浮きあげて冷たい光を投げかける。雨よ、この燃える想いを冷やかに、乱れた胸を平らかに、このさし伸べられた熱の手を凉しいようにひやせかし。ぽつりぽつりやって來た。‥‥‥ああ、さっと一雨。風のまにまにふわふわと、撫子が匂う、水仙が匂う、土が匂う。蓮ノ空の屋根の上、なさけの星も傾いた。どれこの花束を買いましょう。おやおや気でも違ったか。そして心で笑いつつ、藤の花束ひと抱え、さきの口説もどこへやら、友の懐へ飛んで行く。
 「一緒に作曲を、してほしいんだ。撫子祭に向けて、ね。うん、音楽室とは、お誂え向きだ。」
 自分は、何気無さそうに話頭を転じた。
 
 六月の中旬、芒種後、朝夕の微風にかすかな凉味が乗り初める頃、夜の明け方にはよく雨が降るものだ。夜の間、大気が重く汗ばんで、のろく渦を巻いたり淀んだりしているなかに、どこからともなく軽い冷気が流れだして、木の葉がさらさらと揺れだすと、もう間もなく、東の空が白んで、地平線から熔鉱炉のなかの鉱石のように真赤な太陽が、静かにせり上ってくる。然しそれも僅かの間で、太陽の面はすぐ雲にかくれる。空低く、煙か霧かとも見える雲で、それがぱらぱらと、時にはさあーっと、雨を落してゆく。この雨、覗き出さなければ雨とも思えないような、また降りかかっても物を濡しそうには思えないような、乾燥した爽かな音なのである。雨にも——雨に対して可笑しな言葉だけれど、乾燥した音と濡れた音とがあると、あたしは思うのだ。
 「――作曲。頑張ってみようと、あたしなりにいろいろ試したんだけどねぇ。めぐちゃんはギター出来るのが羨ましいよ。どうにも、不器用なあたしには作曲が向いてないのかなって、そう思っちゃっていけない。」
 幾年を経た風樹の嘆は何人と雖も免れ難からんも、就中少女百合亜に於いては最も多い。あの両親は一度蓮太郎少年をして医師たらしめんと謀りしが、思う所ありてこれを廃し、更に書を学ばしめたるも成らず、更に画を学ばしめたるもまた成らず、悉くの芸学もまた成らず。果ては匙を投げて、我が心の向う所に任せたというのがネグレクトの原因だったのだろうか、いまになってはそうも訝しんでしまう。斯くてあたしは〈努力〉だけは一丁前にやっていると標榜しておきながら、実のところ「凡人」の枠以上に何の学ぶ所も能わず、何の才もなく、名もなく家もなく、瓢然たる一種の道楽息子と成り果て、挙句親に遺されて偶々好事家の爺と自称姉に拾われ、女の格好をして学院に立っては青春を抛ったスクールアイドルを顕すの名声未だ無く、思えば、あたしはほんとうに不器用で、役立たずだった。泉下の父母よ、幸に我を容せと、地に伏して瞑目合掌すること少時、頭をあぐれば一縷の線香は消えて灰となって雨雲に吸われていった。
 「ああいうのは慣れだよ。なんでもがむしゃらに努力するくせに、こういうところだけは後ろ向きなんだから。」 
 「あたしは後ろにも目がついてるんだよ。だからいいの。それに――」
 
 ――がちゃり。あたしがそう言いかけたところで、部室棟の隅にある小さな音楽室の、少しだけ取り付けの悪い扉の開く音がする。

 「すっころんですっとこどっこい!やあやあそろってるねぃ、幼馴染二人組。」
 「おっ、来たねーちびっこ先輩☆」
 「ちっちゃいゆーな!劈頭一番、なーんて失礼な後輩だ!」
 「なぁんだ、沙知さんも呼んでたのかい。まったくめぐちゃん、抜かりが無い。」
 ピアノに身体を預けていた百合亜は不意に窓際へ足を動かした。所謂梅雨の空。人に気づかれないようにこっそりと日が暮れて、晴れてるのか曇ってるのか分からない空が、重々しく大地の上にのしかかって、あらゆるものの動作を鈍らせ、呼吸を遅滞させ、陰欝な気分を立てこめる時、濃い雨気が流れてしとしとと雨が降る。降るかとみればすぐに霽れ、霽れるかとみればまた降っている。この雨、傘の中にでも、部屋の中までも、じめじめとしみとおってくるような、しめっぽい濡れきった音なのである。
 「ま、姉さん。かくかくしかじかというわけでして。音楽のセンスがからっきしな百合亜ちゃんは、作曲の極意について幼馴染に教えを乞うていたということなのです。」
 と、百合亜が独言のような説明口調で語った。
 「ん、ん~~?あ、あれ、慈。そういうことだっけ‥‥‥?」
 「まあ、そっちは私の方でも見ておくから。きょうは、そういうことにしてあげて。」
 「お、おう‥‥‥こほん!あい分かったよ、百合亜!あたしも先輩として、やれることをやってみようじゃないか!」
 何やら二人が耳打ちして話しているようだったけれど、次の瞬間には沙知さんは自身気に、ぱん、と胸を叩き高らかに宣言した。雨戸を閉める音は種々雑多であるが、その両極瑞に、ガタガタピシャリ‥‥‥というのと、スー、コトリ‥‥‥というのとある。これを態々解説すれば、力一杯にガタガタと押しやってピシャリとぶっつけるのが前者で、力をぬいて静にスーっと押して頃合をはかってコトリとやめるのが後者である。
 「それで、百合亜。どういう曲にしたいとか、そういうイメージはあるのかい?」
 「うん。まず作りたい曲は、もちろん『みらくらぱーく!』の曲なんだけど。」
 百合亜は振り返る。
 「やっぱりみらぱ!といえば、観客側も一緒に盛り上がる、ポップでキャッチーな楽曲で魅せたいなって。それで、楽しさ満点のアップテンポ調はなんとなくイメージができてるんだけど、でも、できているのはあくまでも大枠だけ。」
 「なるほど、なるほどねぃ。でも、ここから細部を詰めていかなきゃいけなくて。その作業がいちばん大変だって状況だ。それは、百合亜もわかってるよね?」
 と、沙知さんがすぐ但書を附け加えた。
 「つまり、まずはメロディラインを確定させるところからなんでしょ?それならさ、今回はみらぱ!の伝統曲のアレンジでもいいんじゃない?時間があんまりないのもそうだけど、私も百合亜も、本格的な作曲は初めての経験なんだから。」
 「「おおー。」」
 大賀美姉妹は間延びした語尾を揃えて、慈の顔をまじまじ見詰めた。雨戸を閉める音を聞いていると、その人の日常の挙措動作や暮し方から気立や性質までが想像される。即ちこの雨戸を閉める二つの気合は、その人の時々の気分にもよるが、そういう例外を除いて、尋常な場合だけをとれば、異なった二つの気質を、そして猶二つの生活様式を暗示するということだ。百合亜の場合、 精神が箱庭的であるから音楽まで箱庭的である。

 「さっすがめぐちゃんだぜ‥‥‥!話がトントン決まっていくなぁ!」
 「ふふーん☆もっと褒めていいよ♡」
 いつもの指ハートが決まる。きょうは少しだけ安心してその姿を見ることができた。
 「流石だねぃ、スクコネ新人賞。あたしは、作詞も作曲もできないからさ。そういうところは素直に尊敬しちゃうよ。」
 沙知は慈にふわりとした微笑みを向けるが、
 「‥‥‥それはウソでしょ!?それじゃいままで、沙知先輩はどうやって作曲してたの!?」
 「いやいや、ウソではないぜ!?まあでも、作曲も作詞も人それぞれだからねぃ。」
 「じーーーーー。」
 でた、れいのジト目!めぐちゃんの視線には明らかに疑いの色が浮かんでいる。
 「‥‥‥ほら、卒業された先輩とね?今回は、こういう歌を作りたいですよねーって話をしてー、そうしたら先輩が色々と質問をしてくれるから、それに答えてるとー‥‥‥。いつの間にか先輩が、魔法みたいに完成させてくれる、みたいな‥‥‥。」
 「あはははは、参考にならねー!」
 知らぬ存ぜぬ一点張り誤魔化そうとするのが可笑しくって空笑いが出た。日常の対話で音声の美醜は殆ど気付かれず、言葉の調子だけが主に感ぜられる。言葉の調子は表情や身振に直接関連しているが、音声は独立している故であろうか。

 「とにかく!方向性は決まったわけだ。」
 沙知は何か思いついたように立ち上がった。その拍子で椅子が後ろの棚にぶつかって鈍い音を立てる。
 「あとは、いまのうちに簡単なスケジュールは立てちゃおっか!まずは、どの伝統曲にするも決めないとだし、早ければ明日までにでも、最初のアイデア出しはまとめておきたいかな。その後で、おのおのの役割を決めていく、って感じで。どうかな?」
 姉さんは真面目な話でもいつもと同じ調子で上手くまとめてくれるから、それがとても頼もしかった。あたしは椅子に坐ってから、
 「おっけー、です!ありがとう姉さん。それで進めていきましょ。あたしの方で、イメージに合う伝統曲をリストアップして、衣装の有無もそうだけど、舞台装置の確認とか含めて、現実的にできるのかどうかとか。その辺の諸々は、明日までに調べておきます。」
 と、当然の如く言った。そのもの言いに何やら幼馴染は思うところがあったらしく、
 「そこは、私もがんばるから。百合亜はさ、私たちがステージで歌うための曲を作りたいんでしょ?それだったら、ちゃんと私たちにもがんばらせてよ。」
 「いや、まあ、それはそうなんだけど。でも、作曲をしたいって言い出したのはあたしのエゴだし、技術面はふたりにフォローしてもらうんだから、これ以上めぐちゃんに頼み過ぎるのも、違うっていうか、‥‥‥」
 「ここまで来ておいて、今更なーに言ってんの!そこは意地張らないの!、‥‥‥」
 いま漸くに至って二人の意地がぶつかった。半年ほど前、あたしは加賀の田舎の教会で、イエズス会の神父とキリスト教の厳格さについてかなり激しい議論をしたことがある。その時期の、ある種の狂気を携えた蓮太郎はユダヤ教以来の永い伝統を引いているキリスト教の罪に対する過度の厳しさが不満で、寧ろ仏教の広大無差別な慈悲の方に共感を抱いていた。然し、これは矢張彼の誤りであって、仏教仏教と一概に言うが、彼自身の浅い人生体験を振り返ってみても、たとえば臨済禅のような場合は、水汲み、拭き掃除、便所の清掃と実に容赦のない重労働ばかりを課して若い修道者の驕慢心を調伏させるのである。そればかりではない、由来臨済の道場には同じ禅宗でありながらも、兎角宗教上の議論を好んで行なう曹洞宗の口頭禅の傾向に対する容赦のない批判が満ち満ちていた。つまり、ここで言いたいのは、この二人には互いに同じような厳格さが常にあって、それが彼女等を今日まで浄化させ、円熟させて来たものなのであろう、ということ。

 そんな光景を前に、先輩は興味深そうに幼馴染二人を観察していた。
 「‥‥‥ふーむ、なるほどねぃ。キミたち、そういうところそっくりだよねぃ。」
 「どこがー?」「どこがです?」 
 「そういうところだよ!あはははっ!!」
 沙知さんの笑い声は澄んだ鈴の音に似ていた。然し直ぐ様、彼女は後輩の純朴な瞳に直視されてどこか気恥ずかしそうに口を噤いだのだった。やさしく咽喉に滑り込む長い顎を奥へ引いて、上眼に沙知の姿を眺めた百合亜は、変る瞳を見た。変る唇を見た。変る髪の風と変る装いとを見た。全ての変るものを見た時、心の底でそっと嘆息を吐いた。ああ。
 「うーん、なぁんか上手く乗せられた気がして腹立つな‥‥‥。」
 するとめぐちゃんは、二三度瞬きをした後、ジトーっとした視線を沙知さんに向けた。
 「それは言い過ぎじゃないかな!ていうか、めぐちゃん。オシャレも作曲もそこまで頭が回るのに、どうして勉強できないの‥‥‥?」
 「私ができないってことは、勉強のほうが間違ってるんだよ。じゃなくて。普通の作り方なら、多分それでいいと思うんだけど。今回はさ‥‥‥」
  藤色の眼が音楽室を射て動く。昼でも死んでいる雨粒は、風を含まぬ空の影に圧し付けられて、世界は見渡す限り平かである。動かぬは何時の事からか、静かなる水は知るまい。百年の昔に掘った蓮ノ池ならば百年以来動かぬ、五十年の昔ならば五十年以来動かぬとのみ思われる水底から、腐った蓮の根がそろそろ青い芽を吹きかけている。泥から生れた鯉と鮒が、闇を忍んで緩やかに鰭を働かしている。イルミネーションは高い影を逆さまにして、十畳もない音楽室を、尺も余り残さず真赤になってこの静かなる水の上に倒れ込む。
 「‥‥‥せっかく三ユニットもいて、百合亜もいるんだから。撫子祭っていう、私たちにとっては初めての大きな舞台。みんなの想いを乗せた、私たちらしい曲を作ってさ。それでお互いに競い合ったほうが、もっともっとスクールアイドルとして成長できるじゃん?」
 「ははぁん、そういうことね。ほんとうに優しいなぁめぐちゃんは。」
 「それを梢にも素直に言えばいいのに!なーんで言わないかなぁ。」
 「‥‥‥こら、こら!そこの大賀美姉妹!なんなのその顔は!?」
 二人は子供の我儘を宥めるみたいな眼で慈を見詰めた。彼女は顔を赤くして、羞じらいに耳まで染めながら小言を続けた。
 「だって、実際やってみて梢と綴理をボコボコにしたほうが『ほらお前らふぬけてるからだぞ!』って言えるじゃん!!」
 「えっ、そういう方向性なの!?」
 「ウーム、一貫してるなぁ!さすめぐだぜ。あたしも気合入れないとな‥‥‥」
 よし心得た、と気軽に合点していたが、
 「でも、撫子祭ステージまでの時間考えたらさ。みんな、少なくとも二週間は練習時間ほしいよね?‥‥‥くぅー、頑張りますかぁ!」
 百合亜はまた努力を思い立った。思い立つ日が吉日というが、彼女はそう右から左へ埓を明けたがらない。他人よりも要する〈努力〉の量が多いということもあるし、思い立ってから吉日を探し当てるまでに、彼女はそれなりに手間がかかるのだ。だからこそ、今回は、おのれの気の張りだけではない、姉と幼馴染との共同作業が重要となってくる。クラブらしい活動――というよりは共犯作業、なのかも知れない。いずれにせよ、いいじゃないか。
 「そうだね。私たちの歌ってこともあるし、百合亜が頑張りたいっていうなら、できることはしてあげたい、かな☆」
 「ありがとう。今回は頼むわ。めぐちゃんマジ・エンジェル!!」
 「ふふふ、任せとけ~!」
 灰の空から地に落ちた水は死につつもぱっと色を作す。泥に潜む魚の鰭は燃える。煙る漣は一抹に岸を伸ばして、明かに向側へ渡る。行く道に横たわる凡てのものを染め尽して止まざるを、ぷつりと截って運命の長い橋を西から東へ懸ける。白い石に野羽玉の波を跨ぐアーチの数は十五、欄に盛る擬宝珠は悉く夜を照らす白光の珠である。慈は得意げな声色で音符を宙に並べていた。
 「よし!それじゃあスリーズブーケとDOLLCHESTRAに、もう二度と肉じゃが食べられないぐらいの敗北感を刻みつけてやろっか!盛り上がってきたじゃん!!」
 「そこはわくわくせんで!?なにゆえに肉じゃがが犠牲になったし!?」
 「えー?あたし、みらぱ!だけじゃなくて、スリーズブーケもDOLLCHESTRAも兼任してるんだけどなぁ。もしそうなったら、あたしは肉じゃが食べてもいいのかなぁ。」
 百合亜は、生活とはひとつの繰り返しではないのかと思った。多かれすくなかれ、人びとは繰り返しによって生きるものだ。スクールアイドルクラブの一員として少女等の輪に馴染む生活が、確と彼女に生れていた。彼女は、次第に慣れて行く自分の姿を感じとれたのだ。 

 「ふふっ、まあまあ姉さん。これはめぐちゃんなりの強がりやね。それに、めぐちゃんには、届けたい人も居るからね。」
 「おっ、いいことゆーじゃん百合亜!で、急に話変わるけどさ、なんかね、物心ついたときからうちの隣の家に女の子が住んでたんだけどさ、‥‥‥」
 急にその眼を円くして鼻の下を長くする慈。――これは、と百合亜は思った。こうしてめぐちゃんは、大童になってれいの幼馴染――大沢瑠璃乃ちゃんとの想い出話、というよりは自慢話に花を咲かせ始めた。隣の家に住んでいた、一歳年下のちっちゃな子。綺麗な金髪の毛先に水色のメッシュが入っていて、うなじに届かないくらいのクアッドテールでまとめていた女の子。引っ越しで離れ離れになったけど、いまでも連絡を取り合っていてちっちゃいながらも彼女なりに頑張っているところが、とっても可愛いんだってさ。うん、うん、そうだね、知ってる。百回聞いたよ、百一回目だよこれ。――ぐぅっ、と腹の虫が鳴いた。おなかが、すいた!瑠璃乃ちゃんのことになるとそうなのだ、話が長いんだぜ、めぐちゃん‥‥‥!流石のあたしでもお昼休みのタイムリミットが気になる!めぐちゃんは早弁したから平気なのかな、ここは、そうだ、調子に乗って踊り出してやろうか。
すると姉さんは、あたしのそんな気持ちも敏感に察してくれたらしく、
 「‥‥‥んっ、なるほど!なるほどねぃ。確かに、みらくらぱーく!は世界中の『みんな』で作る時間だからね!『みんな』の中に、ファンの皆さんがいて、百合亜もいて。その中に、キミの謂う瑠璃乃ちゃんもいるわけだねぃ。キミ的には、そうなのかも!」
 沙知さんがいい感じの決め台詞を説いて場を収めようとすると、彼女達はお互いにそれらしい顏を見合せて黙り込んだ。壁に懸かっている銅の時計は十三時二十分をさしていた。そして、硝子の窓に打ち当たる雨の音が聞えた。
 「‥‥‥ほんとにそう思ってる、沙知先輩?まーたテキトーなこと言ってない~?」
 「えー、そこで疑うー?ほんとに思ってる、思ってるから~!」
 「あはははっ!‥‥‥そんじゃあたしたちで、ありえないこと成し遂げてみせましょっかね!」
 百合亜は腸から出た声を振るわせた。あくどい原色に彩られた狂騒的なざわめき、汗と血、アハハウフフや女学生たちの露骨で生々しいざわめきなど、青年は憎んだり苦しんだりする、無力で、而も貧しい現実に背を向けようとしていた。それらは〈百合亜〉という単独な密室をつつむ外殻への刺戟、外殻を鍛える、一つの季節の風雨に過ぎないのだ。彼女には外殻を硬くすることだけが仕事だった。彼女は反感をもつ自分のその感覚を消すことで、反感をなくそうと努力していた。言葉と感情は動いているけれど、理性の奥底でそれを咎めている。そんな半ば意識的な無感覚が、外界に、そして外界への無力に慣れさせる結果を招いていた。唯だ、慣れるために自分がひとりだけの部屋をつくったのか?昔からおのれに手を伸ばしてくれていた少女の手を、何故自分から放してしまうのか?或いは、その逆かは、彼女自身にもよく理解できなかった。だけども、まあ、そんなことはどうでもよかった。良に盤石の固きこと無くんば虚名復た何の益かあらん、彼は殻に閉じこもる貝のように、何かを回避することを覚えはじめていた。  

4

 梅雨に入ってから珍しく、午後からはきらきらと晴れて心持ちのよい日となってきた。びしょびしょと降り頻っていた梅雨の雨があがると、庭下駄に水溜りを避けながら、ちよっとそこらを歩いてみたくなる。ぐしょ濡れになった四辺の木々が、水を渡って来た狗のように折々体を揺すぶって、水の雫を跳ね飛ばした。それが額にふりかかり首筋に流れ込むのも、まんざら悪い気持ちではなかった。
 「‥‥‥。」
 「‥‥‥。」
 「‥‥‥あれは、ひらめ。」
 沈黙。少女たちの表情の機微一つ一つがやけに気にかかるらしい百合亜は、ちょっとずつ腰を浮かせるようにしている。
 「‥‥‥おいおい。きょうは誰も歌ったり笑ったりせんのかい。陰気な面をしていると、あたしが承知しないぜ!いつでも好く燃えるくせに、きょうはなんで湿った藁のようになってんだい!」
 気まずい。授業が終わるとおのおのがこつこつと足音を響かせて部室棟へ歩く。終いには一言も言葉を交わさない。そして四人、黙っている。柱時計が四時を打つ。校庭では運動部がえいえい騒ぎ始める。沙知さんはまだ部室に顔を出してはいない。
 「――蓮ノ空はさあ、文化祭の準備にめちゃくちゃやる気の学校でね?みんなステージの枠が欲しいから、全部活が参加の文化祭会議は闘いになるわけだ。要は、ステージの利用枠争いだねぃ。あたしも、部長として今日は頑張って来るよ!にひひっ。」
 と、いうことだそうだ。

 「‥‥‥私、ちょっと自主練してくるわね。」
 「‥‥‥それじゃあ、私も~。」 
 「あっ、ちょっと‥‥‥!行っちゃったよ‥‥‥。」
 「うん‥‥‥。」
 部室には二人だけが残された。長机の上に鞄とその他を放り出して坐りこけていた百合亜は、二人を追わんと素振りだけを見せたまま立ち尽くしてしまう。急にがらんとしている部屋を見渡せば、撫子祭に向けて五人で活発に意見を交わしたときその儘にしてあるホワイトボードが目に入ってきたので思わず苦笑が零れた。こういう大事な時に限って沙知さんは不在、だから、あたしが、なんとかしなくてはならないのだけれど――なあ、女子の気持ちわかんねぇよ。お昼のノリはどうしたんだぜ、めぐちゃん‥‥‥!梢も、いい加減機嫌直して欲しいのだぜ‥‥‥!
 「はぁ‥‥‥はやく仲直りしてくんねぇかなぁ。」
 趙州で従諗和尚という有名な唐の坊さんは、趙州古仏晩年発と人と謂われただけあって、六十一になってから初めて道に志した奇特な心掛けの人である。七歳の童児なりとも、我に勝るものには我れ即ち彼に問わん、百歳の老翁なりとも我に及ばざる者には我れ即ち侘を教えんと言って、南泉という禅坊さんの所へ行って二十年間倦まずに修業を継続したのだから、卒業した時にはもう八十になってしまったのである。それから趙州の観音院に移って、始めて人を得度し出した。そうして百二十の高齢に至るまで化導を専らにした。寿命は自分の極めるものでないから、固より予測などは出来ない。このように自分は多病だけれども、趙州の初発心の時よりもまだ相当に若い。青二才なり。たとえ百二十まで生きないにしても、力の続く間、努力すればまだ少しは何か出来るようにも思う。それであたしは天寿の許す限り趙州の顰みに倣って奮励する心組みで居る。古仏と讃えられた人の真似も長命も、無論自分の分でないかも知れないけれども、羸弱なら羸弱なりに、現に我が眼前に開展する月日に対して、あらゆる意味に於いての感謝の意を致して、自己の天分の有り丈を尽くそうと思うしかないのだ。
 「ゆり、大丈夫‥‥‥?」
 綴理は少し驚いたように眼を円くして親友少女に声を掛けた。
 「うん‥‥‥ごめんね、こんなんになっちゃって。はぁ、つづちゃんだけはほんとに素直でいい子だなぁ!」
 「どうかなぁ……。ボクだって、寂しい気持ちがないわけじゃないからね……。」
 「そうだよなぁ。ウーム‥‥‥。」
 無垢なる少女の、憂を湛えた横顔を百合亜は見た。古代ギリシャの彫刻はいざ知らず、今世仏国の画家が命と頼む裸体画を見る度に、あまりに露骨な肉の美を極端まで描き尽そうとする痕迹がありありと見えるので、どことなく気韻に乏しい心持ちがいままであたしを苦しめてならなかった。然しその折々は唯だどことなく下品だと評するまでで、何故下品であるかが解らぬ故、我知らず、答えを得るに煩悶して今日に至ったのだろう。肉を蔽えば美しきものが隠れる。隠さねば卑しくなる。即ち晒すのは人情、晒さぬのは道義である。今の世の裸体画と云うは唯だ隠さぬという卑しさに、技巧を留めておらぬ。衣を奪いたる姿をそのままに写すだけにては物足らぬと見えて、飽くまでも裸体を、衣冠の世に押し出そうとする。服を着けたるが人間の常態なるを忘れて、赤裸に凡ての権能を附与せんと試みる。十分で事足るべきを、十二分にも、十五分にも、どこまでも進んで、只管に、裸体であるぞという感じを強く描出しようとする。技巧がこの極端に達したる時、人間はその観者を強しうるを陋とする。美しきものを、いやが上に、美しくせんと焦るとき、美しきものは却ってその度を減ずるが例である。人事についても満は損を招くとの諺はこれがためであろうか。

 ――がちゃり。ところが、人生はよくできてるもので、 
 「――いやぁ、ごめんごめん!思ったより白熱した会議になってしまってねぃ。」
 あたしがうら若き女心について転々ハンモンしているところへ、部長が漸く現れた。
 「‥‥‥ってあれっ!?また悩んでる。」
 「あ、さち。やほ。」
 「姉さん‥‥‥お疲れ様です‥‥‥。」
 黯然として少女は黙した。二十一世紀の少女たちの周囲には、同様のうちに静かに立つものが無いでもない。波の上にある舵手、海岸にある灯台守、鉄道の側にある線路番人、町にある交通巡査なぞがそれだ。これらの人達の信号や相談を必要とするほどに、あたしたちの旅は急がしく、目まぐるしくなって来た。少女たちは必要に応じて、実に瞬間に物を見定めたり、判断したり、決定したり、感情的にならなければならない。こんなふうにあたしの日常生活は変わりつつあった。あたしたちが現にこの空蝉の世の旅から学ぶものは、これを過去の人達に比べたら、なんという大きな相違であろうか。
 「ごめんなさい、沙知さん‥‥‥。あたし、ちゃんとクラブをまとめようとしたんだけど、結局ダメダメで。なかなかあたしの声が届かなくて、それだったら作詞だってやってみせるさ!とか勢い余って言っちゃったし‥‥‥。」
 「作詞?」
 「ゆりが頑張ってると、とても魅力的に見える。ほんとだよ?でも、なんかほっぺにご飯粒ついてる感じなのも分かる。取ってあげたいなぁ‥‥‥。」
 「ほう。‥‥‥うん?ううん‥‥‥??」
 日のあたる別世界には三人の少女が活動する。鶯も鳴かぬ一間の、南を受けて明るきを足れりとせず、小気味よく開け放ちたる硝子の外には、二尺の松が信楽の鉢に埋められたが如く、蟠まる根を盛りあげて、くの字の影を椽に伏せる。まだあたたかいティーポットは白地に秦漢瓦鐺の譜を散らしに張って、引手には波に千鳥が飛んでいる。つづく三尺の机に身体を預けた姫彼岸花の少女は、沈黙を嫌って、籠花活の空間へ軽い一輪をざっくばらんに投げ込んだ。

 「へー。自分の言葉をあの子たちの歌に載せたいから、百合亜が作詞するって言っちゃったんだ。作曲に続けて、いいことじゃん。」
 「もちろん、DOLLCHESTRAの曲もやるつもりですけど‥‥‥。はぁぁ、でもなーんで言っちゃったかなぁ。作曲だけでもやり切れるのか、すっごく自信ないのに‥‥‥。」
 で、紅い頬をぴたりと机へつけた。
 「ボクは言葉が下手だ。伝えるのがうまくない。もっとボクがちゃんとしていれば、ゆりをこんなに悩ませたりしないのに‥‥‥。」
 「いや、綴理は何も悪くないじゃん。これも結局、あたしの頑張り不足っていうか――」
 「そんなことないよ。」
 少女は浮かぬ顔を、愛嬌に傾けて、親愛なる友の瞳を見る。軸は空しく落ちて、徒に余る灰壁の端を竪に截って、欝銀の蔽が梅雨の憂を隠さず明らかである。綴理は続ける。
 「ボクも、皆で仲良くやりたいから。本気のケンカかどうかはわかるよ。今回はいつものビッグボイス選手権とは、ちょっと違う。だから、こずとめぐには、はやく仲直りしてほしいし。」
 「‥‥‥ビッグボイス選手権?」
 沙知が腕を組みながら疑問符を浮かべる。
 「こずめぐの口喧嘩のことですよ、姉さん。」
 「ああ、なるほど‥‥‥。嵐のようなあの剣幕を、よくもそんな表現が出来るねぃ。」
 先輩は苦笑を漏らした。
 「ぜんぶ、きれいな色なんだけどね。」
 「‥‥‥あの子たちの声にも、いろんな気持ちが、乗ってるってことか。」
 嫉妬の念、感恩の情、憤怨、恨怒、憎疾、喜悦、誠忠、その他諸種の情の感激は、時にややもすれば夢を追い求める少年少女をして張る気を生ぜしむるのだろう。然し醜悪の情感は張る気の如き善気を発せしむるよりは、或いは戻る気、或いは暴ぶ気、或いは逸る気の如き悪氣を生ぜしむる場合が多く、歓喜の情の如きは醜悪というにはあらざれど、張る気を生ぜしむるよりは弛む気を生ぜしむる場合が多いのだろう。美にして正しき情の感激は、張る気を生ぜしむる場合が多い。戦乙女の幇助は、蓋しジークフリートをして十分に張る気を生ぜしめた。巣林子はその戲曲に於いて、美人の温情が難與兵衞をして奮って気を張らしめたことを描いて、一場の佳景を作り為している。実際に於いては情の感激より張る気の如き善気を生ずる場合は、寧ろ少なき方に属するのだろうが、歴史や伝記、それに戲曲や小説に於ける佳話は、多く情の感激より善にして正しき気の緊張の終に良果を結ぶことに傾いていると言っても宜い位なのかも知れぬ。扨てはまた百合亜が無心な顔附きに戻ってしまっていたところに、
 「ゆりがそのために頑張りたいっていうなら、ボクも一緒にやりたいな。‥‥‥どう、かな?」
 少女はちょっと躊躇ってから言った。
 「綴理‥‥‥。」
 普段は寡言家でも、突如として恐るべき果断家に変ずる事もある。これは前から感じていたことだけれど、彼女の人格は、だいたいは純朴で繊細らしいが、どこか仙骨を帯びているようなところもある。それでも、どうもまだ、はっきりはわからない。然し百合亜はその時、唯だこう言えば良かったのだった。
 「ありがとう、綴理。だいぶ元気出たわ。今回は頼むよ。」
 「うん。わかった。」
 もし誇る必要があるとすれば、あたしは自分の弱さから来ることを誇るということだけ。或いは思い上がらないように、あたしの身体には一つの棘が与えられたのかも知れぬ。
 
 「ステキな友情だねぃ‥‥‥。さて、と!」
 二人のやり取りをしみじみと眺めていた沙知は声を張り上げると、
 「さぁて、百合亜ちゃんやい。これまた作詞とくれば、考えなきゃいけないことも盛りだくさんなわけだけれども。なにか、こうしたいっていうイメージはあるのかい?」
 後輩二人は同時に部長の方へ向き直った。沙知さんは少し息が弾んでいるようである。
 「や、できてるはできてるのです。三案ずつ。」
 「ほほう。というと?」
 「こういうのって、パターンだと思ってて。最初にテーマを決めて、それぞれの切り口で作っておったのです‥‥‥勝手に。まあ、たとえば『青春』ひとつ取っても、出会いの歌、友情の歌、別れの歌。あとはキーワードを決めて、その周りに言葉を配置していく感じでやってました。特に今回は、『夢』をキーワードにしてて。でも、」
 創作活動は闇である。日本には油断大敵という言葉があって、いつも人間を寒く小さくしている。芸術の腕前において、あるレベルにまで漕ぎついたなら、もう決して上りもせず、また格別、落ちもしないようだ。疑うものは、志賀直哉、室生犀星、等々を見るがよい。それでまた、いいのだとも思う。ヨーロッパの大作家は、五十すぎても六十すぎても唯だ量で行く。マンネリズムの堆積である。ソバでもトコロテンでも山盛にしたら、ほんとうに見事だろうと思われる。少ししてから口を開いた百合亜であったが、その声には何か切羽詰まったものを感じさせた。
 「‥‥‥歌詞を作るんなら、あたしの想いだけじゃなくて、スクールアイドルの――みんなの想いも盛り込んだ歌詞にしなくちゃいけなくってさ。あたしは、綴理や沙知さんじゃないから。ふたりがステージにどんな気持ちを持って行きたいのかは、想像でしか描いてない。」
 自分の作品のよしあしは自分が最もよく知っている。千に一つでもおのれによしと許した作品があったならば、幸いこれに過ぎたるは無いのである。おのおの、よくその胸に聞きたまえ。
 「‥‥‥つまりは、あたしも作詞ははじめてで。わからないことばかり、っていうことなのです。とりあえず、ノートは一冊ダメにしました。」
 百合亜は訝しんで、あるいは揶揄するような調子で相手の顔色を窺った。
 「なるほど。しっかり悩んでるねぃ。」
 「そういうこと、なのです。だから、いまのままじゃ、なんかダメな気がして‥‥‥。」 
 「ダメ、じゃないよ。すごくいいよ。」
 「え‥‥‥?」
 その時の綴理の顔に顕れたのは、何故だかさっぱりとした表情であって、意外そうに瞬いた百合亜の憂鬱な目線を受けたその時でさえ微塵もたじろがなかった。それどころか寧ろ今こそ気力百倍と言った様子で強くあたしの手を握り締めるのである。風が穏やかに凪いで、陽が西天に傾き始めたの夕暮れのことであった。
 「ゆりの作った歌詞、読んだよ。音が並んでて、凄く良かった。ばらばらじゃない、一直線に皆に届ける曲。そういう真っ直ぐは、ゆりだから出来ること。『ボクたちの気持ちを伝えたい』『夢ってこういうものなんだ』その気持ちは、きっと皆を動かす。だから、ほら。一緒にやれて、楽しいんだよ。ボクはゆりの、そういう熱を持ったところが、眩しくて好きだよ。」
 「‥‥‥。」
 好き――またその言葉が出た。平然と答える親友に百合亜は些か驚ろいて、彼女の熱っぽい瞳を見つめ返すのである。興味の点はまったく人を夢中にさせるものであるが、普通の小説にするのにはあまりに恐ろしすぎる、というような題材がある。単なるロマンチスト〈夢想家〉は、人の気を悪くさせたり胸を悪くさせたりしたくないなら、これらの題材を避けなければならない。それらは事実の厳粛と尊厳とによって是認され、支持されるときにだけ正しく取り扱われるのである。これらの記事が人を感動させるのは、事実であり、普遍であり、歴史であるのだ。虚構の話としては、我われは単純な嫌悪の情をもってそれらを見るであろう。

 「だからね、もっとこう‥‥‥お麩みたいに。」
 「ほほう。お麩とな。」
 手を離した綴理がジェスチャーを交えて説明し出すと、沙知さんが興味深そうに相槌を打つ。
 「えっと‥‥‥つまりは、もっと柔らかくって意味かな‥‥‥?」
 「うーん……硬い赤巻みたいだ‥‥‥。」
 「はぁ……。こう、かな?」
 沙知、身体を捻じ曲げながら表現を試みる。
 「‥‥‥貝?」
 「わかんない!!!!!」
 「‥‥‥すごいな。ほんとによく観えてる。」
 評価を受けることと人の心を動かすことには天と地ほどの差がある。大仰に笑う沙知を視界に入れながら、百合亜はもう一人の少女の――我が親友・夕霧綴理の隠した七歩の才を腹の底で羨んでいた。いいなぁ。いつも死ぬ気で努力しているんだよ、あたしは。生きているのが、悲しくて仕様が無いんだよ。侘しさだの、淋しさだの、そんなゆとりのあるものでなくて、悲しいんだ。努力しても努力してもうまくいかなくて、陰気くさい、嘆きの溜息が四方の壁から聞えている時、自分だけの幸福なんてある筈は無いじゃないか。自分の幸福も光栄も、生きているうちには決して無いとわかった時、ひとは、どんな気持ちになるものかね。努力。そんなものは、唯だ、飢餓の野獣の餌食になるだけだ。みじめがすぎるよ。あたしは、気障だろうか?否、恋だけかも知れぬ。それに、神は持つ者に与え持たざる者から奪うという聖書の言葉も、――いいや、いったいぜんたい何を考えてるんだおれは!お前の努力は誰の為なんの為か、ゆめゆめ忘れるべからず。道化もて使命を為せ、少女百合亜よ!

 「‥‥‥うん。綴理のおかげで、ちょっとわかったかも知んねぇ。〈青春〉とか〈夢〉って、言葉そのものはあんまり要らないのかも。」
 百合亜は両手の指先を突き合わせ、如何にも無邪気な素振りで笑っている。
 「?よくわからないけど、ゆりがよかったならよかった。」
 「お、おう‥‥‥マジか。いやはや、あたしももっと頑張らないとだねぃ。」
 耳にかかる髪に触れながら沙知はそう呟くと、
 「おっけーおっけー!キミたちふたりで理解できてるなら、わざわざあたしの出る幕はないねぃ。でも、もし『夢』について、あたしが言えることがあるとすれば――」
 微風もない晩春の夕昏、ありやなしの霞をすかして、夕陽の光が金色に耀いている。一面の草にも、霞にも、童の肩にも。姉さんは長机の縁に腰掛ながら少時光の流れを見ていたが、暫くすると静かにこちらへ振りむいて笑い、それから徐に歩き始めた。彼女の長い緑髪が靡いた時、あたしは思わず息を呑み込んだ。
 「――夢を叶えるためには、まず夢そのものが無ければならない。当たり前のことかも知れないけど、想いを持たなきゃ何も始まらないし、想いを捨てたら何も残らない。だからまずは、想い続けること。それが、夢を始める第一歩。あたしは、そう思うんだ。」
 「それが、『夢』‥‥‥。」
 元来女子高生というものは芸術家でも職業人でもないのであるから、別に〈大人〉でなければならぬという訳合ではなく、学生も立派に青春の一階層であり、寧ろ遠き将来のことを思えば、若いということだけにでも期待をもつべきであって、若し少しだけ芸学の心得を知りたいと夢見るものなら、スクールアイドルの今日あること、即ち限られた三年の時間を代表して人生的価値を主張し得ることは当然だと肯くであろうし、やがて数年の後には、充実した時間を過ごすことが出来たと感懐に浸るのも然るべきものである。とは謂え百合亜は、まだ少し納得の行かぬ面持ちであった。
 「ボクもね、」
 緋色の瞳を煌めかした少女が口を開いた。
 「ボクも、特別なことをしてるっていう、自覚があるんだ。ボクたちは、すごいことをしてるんだって。‥‥‥なんだろう。ボクはボクしかいないように、さちも、ゆりも、一人しかいない。みんなそう。だからボクじゃない人が、スクールアイドルをどう思っているかも、ぜんぶ違う。なのにステージの上では、どんな音楽でも、スクールアイドルクラブなんだ。みんなで、一つなんだ。」
 「‥‥‥そういった、音楽。」
 確かに、芸学に対する教養の不足を責められれば、あたしなんぞは第一に顔を赤らめなければならぬが、これは決して軽蔑などという大それた量見からではなく、寧ろ、怠慢という位の罪で、強いて遁辞を設ければ、兎角親類へは無沙汰がちになるといった不心得に似たものである。百合亜は困り顔で顎を搔いていたが、綴理は背の高い銀髪に小皺ひとつない顔をあたしたちへ向けながら熱心に続ける。
 「そう。ボクたちは、みんなで一つ。スクールアイドルは、ライブの全員で形作る、ボクが一番好きな芸術。一人で十分ってずっと言われてたボクが、いまはこうして、みんなのうちの一人だ。まだ、『スクールアイドル見習い』の『ル』くらいかもしれないけど‥‥‥。」

 〈演技やダンスはずば抜けているけれど、あなたは夕霧綴理であってスクールアイドルではない〉
 
 「あっ‥‥‥。」
 暗い表情が後輩の顔を過ったのを、先輩だけは見逃さなかった。
 「綴理?」
 「‥‥‥あ、うん。えっと、どこまで話したっけ‥‥‥。そうだ。だから、スクールアイドルに憧れて、ボクにもできるかなって、この蓮ノ空に入学したんだ。こうやって、みんなでライブをできたらいいなって、夢を見て、そして叶ったんだ。ずっと欲しかったものに、手が届いた‥‥‥はず。」
 「でも――まだ、物足りないのかな?」
 その一瞬の険しい表情の裏に、確かな情熱を認めた沙知が付け加えた。
 「たぶん‥‥‥。おかしいね。ぜんぜん物足りないんだ。まだまだ、やりたいことがたくさん。夢も一つだけだったのに、いまは本当にたくさんあるんだ。どれくらいかって言うと‥‥‥そうだな、ライブの時に見える、光の数くらいだ。」
 「そんなに。無限の成長だなぁ、スクールアイドルは‥‥‥。」
 理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、何故落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台の極まりなく発展するうちに、自己はいかなる地位を占めて、いかなる役割を演じつつあるかは固より知らぬ。唯だ口だけは多少巧者である。天下を相手にする事も、一団の群衆を眼前に事を処する事も、愛を遍く隣人へ廻す事も、百合亜には出来ぬ。彼女は唯だ一人を相手にする芸当を心得ている。然し一人と一人と戦う時、勝つものは必ず女である。男は必ず負ける。具象の籠の中に飼われて、個体の粟を啄んでは嬉しげに羽搏きするものは矢張女である。籠の中の小天地で女と鳴く音を競うものは必ず斃れる。百合亜は道化の少女である。それでも女を自称するものだから、この籠の中に半分首を突き込んでいる。畢竟百合亜はみごとに鳴き損ねたのだった。

 「うんうん。百合亜の想いも、綴理の情熱も、よーくわかった!それじゃあ今から、あたしたちですごいことをしようじゃないか!にひひっ。」
 沙知さんはにっこり笑いながらピースを返した。あたしは、その笑顔が好きだった。
 「ああ。しよう。ね?もっと、ゆりの曲を聴きたいな。それにボクはね、もっと知りたいんだ。ゆりのことを。」
 陽が横ざまに射し入り部屋中が茜色に染まる。清涼なる青灰色の夏制服に身を包んだ我が友の艶姿は、一層その銀と紅を美しく耀かせていた。
 「‥‥‥あたしの歌詞、そんなに良かった?」
 少時見惚れていたかの如く声を詰まらせた百合亜が呟く。
 「うん。ボクは好き。」
 何の混じりけの無い純朴なる好意の表情、そして、あの緋の眸のぱっちりした少女の姿があたしの光彩に甦ってきた。
 「そうかぁ‥‥‥そうなんだ。うん、うーん‥‥‥。うウーン‥‥‥。」
 身悶えする百合亜は少しだけ唇の端を持ち上げたが、その照れ隠しの微笑は沙知によってすぐに消されてしまう。
 「あれあれ、あーれー?もしかして百合亜、緊張してるー??」
 「‥‥‥もう、からかわんといてよ姉さーん!!」
 「あっはっはっは!」
 そして彼女は声高に笑い出した。あたしはそれが冗談だか本当だか実はわかりかねて、その綺麗な髪が笑みに揺ぐのを、ぼんやり眺めていた。すると、あたしにも綴理にもその笑いが感染してきた。何とも答えをしないうちに、あたしも高く笑ってしまった。そして誰からともなく外世界へ視線を向けると、あなたの木々の果てに、一抹 、霞のように白い水面が見えた。あとは、西を仰いでも、北を見ても、女学院の騒めきのなかに、うっすらした山脈のうねりが黙思しているのみだ。
 「きょうは優しい色だね。お花畑みたいだ。」
 「花‥‥‥か。」
 花を穿つ蛺蝶は深深として見え、水に点ずる蜻蜓は款款として飛ぶ。我らを取り巻いている事物の中で、植物ほど人生と深い関係を持っているものは少ないだろう。植物に取り囲まれているあたしたちは、このうえもない幸福なのかも知れない。こんな罪のない、且つ美点に満ちた草木花は、他の何物にも比することのできない天然の賜である。実には人生の至宝であると言っても、決して溢言ではないのであろう。
 
 「‥‥‥ふふっ、確かにキレイだ!ただただ、キレイな夕陽。これでも、いいんだね。いままで、こんなことはぜんぜん思わなかったのに。」
 「‥‥‥?」
 二人の間には、ある因果の細い糸で、この詞にあらわれた境遇の一部分が、事実となって、括り附けられている。因果もこの光の脚くらい糸が細いと苦にはならぬ。その上、唯だの糸ではない。空を横切る虹の糸、野辺に棚引く霞の糸、露にかがやく蜘蛛の糸、夕陽を焦がす霧の糸。どれも切ろうとすれば、すぐ切れて、見ているうちは勝れて美しい。万一、この糸が見る間に太くなって井戸縄のようにかたくなったら?――そんな危険は無いだろう。少女百合亜は夢見る道化師である。先は唯だの女とは違う。少女は肩を竦めて後ろ手を組もうとするが、その動作は途中で止まってしまった。そして、こう言った。
 「きょうはふたりに話聞いてもらって、ほんとうによかった。ありがとう。綴理、姉さん。作詞、これからも手伝ってくれると嬉しいな。」
 また、ありがとうが出た。同時に豊かな灯がスクールアイドルクラブの部室に点る。実に不思議な色彩――静かなる夜を陽に返すランプの笠に白き光りをゆかしく篭めた如く、唐草を一面に高く敲き出した白銅の茶壺が晴れがましくも宵に曇らぬ色を誇る、とでも謂おうか。灯火の照らす限りは顔ごとに賑やかである。「アハハハハ」と云う声がまず起る。この灯火の周囲まに起る凡ての談話はアハハハハをもって始まるを恰好と思う。まだ初夏というには少し間があるが、水楢の若葉の日蔭、その落窪に青葉木兎が巣を作っている。四方の山が耳を傾け額をあつめて聽いていると、鳥の歌の一たびは絶え、二たびは止み、また三たび高音を張って歌い継ぐ。梅雨の空の調べを聴いている雲の峰も、遙々とこちらへ崩れてくる樣子。その癖、見る目も涼しい銀髪。

5

… 
……

 部室前の廊下の窓から怪しい空を覗いていると降り出して来た。それが細かい糠雨なので、雨としてよりはむしろ草木を濡らす淋しい色として自分の眼に映った。私はこの頃の天気を恐れて傘を用意していた。けれども、それがいざ役に立つとなると決して嬉しい顔はしなかった。彼女はその日々の佗しさから推して、その後に来る暗い夜の景色を想像したのである。
 「悩んでるねい、一年生。」
 「沙知先輩‥‥‥ごめんなさい、余計なお気遣いをさせてしまって。」
 彼女は訝るというよりも、寧ろ、先輩を通して自分自身を険しく睨んでいた。そして何を、と言うように、唯だ二つ三つ捨てるように頷くと、それから、一言も答えず、黙ったまま立ち尽くしてしまった。
 「ごめごめ。そんな顔をさせたかったわけじゃないんだ。でも、どしたん?なんかすっごい眉間にシワ寄せてたよ。」
 「少し自主練を、と、思いまして。撫子祭に向けて、私なりに頑張らないと‥‥‥。」
 「へー、いいことじゃん。なにするの?」
 先輩が何気ない口調で語りかけるのに対し、後輩は、嘲ける如く、恨むが如く、また真向から切りつけるが如く二の矢を継いだのだった。然し相手はあの大賀美沙知である、そういう態度では段々旗色がわるくなって、どこで盛り返したものか、一旦機先を制せられるとなかなか隙を見出しにくい。少女は心中を吐露する。
 
 「‥‥‥やっぱり、あの二人を見ていると、練習するだけじゃ足りないって。そう思い知らされるんです。一年生の中で私だけが遅れを取っている以上、もっと、もっと、頑張らないと。」
 その唇は、少しの笑みも浮かべず、唯だ強張っていた。彼女はそれを隠そうとして、こうした野暮な会話に答える代わりに、何か言いたいことでもあるらしいと思わせながら、自分の方から話し掛けるのである。誰しもが経験して記憶して居ることであろう、人には気の張るということと、気の弛むということとが在る。気の張った時の光景、気の弛んだ時の光景、その両者の間には著しい差が在る。
 「そうだねぃ‥‥‥でも、『遅れを取る』っていうのは少し強い言い方じゃないかな。あたしは、そうは思わない。」
 「でも、このままじゃ‥‥‥」
 梢が驚いてそう言うと、沙知はゆっくりと首を横に振る。
 「誰だって、最初が出来ないのは当たり前さ。それに、梢は出来ていないってわけでもない。真面目過ぎるから、空回りしてるってだけさ。キミも――キミたちも、よく努力をしてくれている。だから、きっとできるようになるさ。」
 と、先輩が無邪気ながらも真摯に説く。少女には秘密が多い。男子が何の秘密も意識せずに過ごしている同じ生活の中に、女の人は色々の微妙な秘密を見つけ出して生活しているものである。さすれば張る気とは、抑抑何樣なるものであろうか?何かは知らず、人の気分が張ってのみも居らず、弛んでのみも居らず、一張一弛して、そして張った後は弛み、弛みたる後は張りて、循環すること譬えば猶昼夜の如く、朝夕の如く、相互に終始して行くことは誰しも知って居ることであろう。試みに人の気の張った場合を観るとしよう。張るとは内にある者の外に向って拡がり発し伸び長ぜんとする場合を指して謂うが、普通の語釈である通りに、その人の内に在る或る者が、外に向って伸長拡張せんとする上体を呈したる時に、これを気が張りたりと評するのである。努力して事に従うという場合には、猶一分の苦を忍び痛に堪えるの光景を帯びて居るものだ。たとえば、女子の夜に入りて人少き路を行くに、その心に恐怖を抱きながらも強いて歩を進むるやうな場合をば、努力して事に従っていると言うべきなのである。梢は、沙知がその小さな掌で背中を叩くのに一瞬びくっとしたが、それでも恥ずかしそうにして、嬉しそうにしていた。少女はその琥珀色の双眸を光らせながら滔々と続ける。
 「あたしはね、器用貧乏なんだよ。それこそ、綴理と慈――それに、梢。三人の煌めきが眩しいくらいに、ね。大体のことは七十点ぐらいでできるけど、所詮、それまで。どう足掻いても、独りでは一番には届かない。だから、いつも誰かの力を借りてきた。」
 沙知は前を向いたまま言った。その視線は窓の外の雨粒を追う――海、空、山。晴れ渡った日ならば、西の世界にはっきりと赤い光の矢が立って見えるはずだ。今日もまた無数の小猫の毛を吹いたような雨が、女学院の若葉を音もなしに湿らしている。山々の烟も低く迷っている。疲れた人間のような水無月の空は、時々に薄く眼をあいて夏らしい光を微かに洩らすかと思うと、またすぐに睡むそうにどんよりと暗くなるから、かなわない。雲雀が悠々に歌っても雀が姦しく囀っても、蓮の空は容易に夢から醒めそうもない。
 「それが卒業した先輩方でもあったし、もちろん、ある時にはそれが後輩でもあった。そして今、あたしは――『スリーブブーケ』の一員として、キミの力も借りたいと思ってる。あたしだけでは、このユニットの曲を完成させることはできないんだ。」
 と沙知も、もはや笑わずに反問した。 
 「でも、私なんて――」
 再び「でも」と梢は言いかけたのだが、流石にそれはひどく下品な言葉のように思われたから、口籠ってしまった。不思議なくらい、よそよそしかった。相手がちょっと親切にしてあげると、すぐにあんなに、つんけんしてしまう。そうした態度を取ってしまう、情けないおのれの姿を強く自覚させられた刹那、少女は羞恥に顔を曇らせた。その唇は、少しの笑みも浮かべず、強張った。下を向いて唇を嚙むより他に何も出来なかった。
 
 「あはは‥‥‥あたしばっかり喋り過ぎてるね、ごめんごめん。だけどね――」
 先輩は一呼吸おいて後輩の方へ向き直る。その光の煙る空間に白く細かな線を燦めかせて雨の降る日、天頂の星屑の高さを教えて晴れた空は尚も見えぬ。山からの風の強かった青年の六月、さわさわと昼の明るさのなかでそれだけは冷えた柔らかな風が、何かを拭い去るようににさっと彼女の頬を揺すぶった。
 「――これだけは覚えておいて。正解は、キミ自身が決めればいいんだ。なりたいと思ったらいつでもなれるのが、スクールアイドル。一人でできないことがあるなら、みんなでやればいい。そのためのユニットで、そのためのスクールアイドルクラブ。あたしたちはみんな、ライバルだけど、仲間なんだ。」
 「ライバルだけど、仲間‥‥‥。」
 幼稚園の頃から少女は級の模範だった。恵まれた家庭に生まれ、親からも愛されて育ってきた。行儀の悪いものがあると、先生は必ず、乙宗さんをお手本になさいと言った。その折、皆の視線が彼女の顔に集注する。彼女は如何にも模範のようにキチンと坐っている。初めの中は得意だったが、追々不思議と窮屈になった。それでも音楽に励んで、家へ帰って両親に喜ばれるのが楽しみだった。そんな少女は今、親元を離れて独り夢に苦悩し、その憂悶には、自分の心を幽かに引っ掻くような危い疼きを感じていた。いったい、何のために、誰のためにそれほど苦しむのか?文学に読んだ、男に甘い囁きを囁かれている女給の眼でもあれば納得も出来るかも知れないけれど、――まどろこしくも稚拙な少女趣味など持っていると思われる筈もない相手が、夢、だったのに。沙知が今度はしっかりと彼女の肩を抱える。その手が熱を帶びていたから、彼女は身体を震わせた。
 「それにね?まったく自慢じゃないけど――あたしだって、スクコネ関連の賞なんて、去年から一回も貰ったことないんだぜ?」
 「沙知先輩でも‥‥‥?」
 「うん。スクコネの評価が全てじゃない。ありきたりの言葉かも知れないけれど、成果だけじゃなくて過程も大事だって、あたしは思うんだよねぃ。特に、スクールアイドル活動は、ね。」
 沙知先輩は、まるで、優しく諭すように微笑しながら続ける。 
 「あたしはそう思って頑張って来たし、これからもそうなんだと思う。せっかくの三年間しかない高校生活なんだ!もしかしたらこれは、あたし自身の我儘なのかも知れないけど‥‥‥キミたちとさ、スクールアイドル活動を楽しみたいんだよねぃ。にひひっ。」
 太陽みたいな笑顔が私の心を打った後は、水を打つ音ばかりが耳を擽る。然しそれは、あらゆるざわめきの中で聴いていた時には感じられなかった、実になまなましい質感に満ちて、ふつと心に響くのである。子供のことを小さな野蛮人というが、実際そうだ。野蛮人社会に聖人君子を気取っているほど損なことはない。私は親からの反対を押し切ってこの学院にやって来て、初めて他者から、自分自身の存在を認められた。夢も、遣り甲斐がないと勢力がない。実際窮鳥だった。ところが今や少女の名声は学院の隅々まで行き渡りつつある。そんな彼女は、初めて努力が蹉跌して胆を冷やし、青春の谷底を九十九に折れ曲がるところに立ち竦んでいて――運命の大河にもみまくられて育った道化師なんぞと比べてしまえば――スクールアイドルへの熱意に有為転変の感懐を託していた一人の少女の源流というものは、温室育ちも極端であり、あまりにも当然すぎて、いじらしく、哀しく、可笑しく、だからこそ。青春特有の憂鬱さが滲み出て、豊潤ですらあるのだから。
 
 「ありがとうございます、沙知先輩。それと――ごめんなさい。このままじゃ、四月の頃から、なんにも成長出来ていない‥‥‥沙知先輩の期待にも、応えられないです‥‥‥」
 然し今日、この憂愁には、彼女の知らぬ翳が射し込んで居た。それは慄きとも哀しみともつかないような影。何故か?と、疑問を持ち出す前に彼女は直ぐに自分の愚かさに目を向けてしまう。沙知先輩は勇敢な少女である。そして自分は臆病者だつた。だからこうして彼女の前では無力に見え、愚鈍さだけが際立って見えるのだ。それが堪らなく口惜しい。
 「そんなことはないさ、って言って遣りたいんだけど。こんな時は、こういう慰めが一番効くんだよねぃ、あはは‥‥‥。たとえば――そうだねぃ。」
 彼女は静かに歩き始めて部室の窓を開けると、細くて冷たい掌を窓枠に突いて外の雨景色に視線を向けた。蓮ノ空の校庭には椿のほかに青梧と槐とを多く栽えてある。痩せた梧の青い葉はまだ大きい手を拡げないが、古い槐の新しい葉は枝もたわわに伸びて、軽い風にも驚いたように震えている。その他には梅と楓と躑躅と、これらが寄り集まって来る夏の色を緑に染めているが、これは幾分の人工を加えたもので、門を一歩出ると自然はこの町の初夏を雨雲の灰色で彩ろうとしていることが直ぐに首肯かれる。私はじっと、先輩の横顔を見詰めていた。
 「ねぇ、梢。四月、五月とライブやってみて、どうだった?」
 「どう、と言いますと‥‥‥」
 梢は沙知の言葉を待ったが、沈黙と雨音が彼女の発言を促した。
 「――とても、眩しいステージでした。ずっと憧れて来た、スクールアイドルの舞台に、私も、最初の一歩を進めることができて。嬉しかったんです。でも、」
 少女は眼を伏せて、再びくぐもった聲でそう言った。彼女は何時の間にか胸の前で固く拳を握りしめて居る。先輩は重心を窓枠に預けながら、再び後輩へと向き直る。
 「それ以上に、自分の無力さを強く感じました。どうしてあの時に、あのステップが出来なかったんだろう?どうしてあの時に、半音外してしまったんだろう?あんなにたくさん練習したのに、って‥‥‥。ラブライブ!優勝なんて、夢のまた夢。私にはやらなければならないことが、課題が、たくさんある。そう思わされた、ライブでした。」
 「そっか。そう、だねぃ‥‥‥。」
 梢がその小さな唇を嚙む。だが沙知には、彼女の長い睫毛に宿った煌めかしい光の粒までが容易に見透せたのである。心の裡に落ちているのみと思いたかった雨は外にも同じように強く降りしきって居る。薄暗い庭の片隅に、紫陽花が花も葉もぐしよ濡れに濡れそぼって咲いている。幽界の夢でも見ているような、青白い微笑を眼尻にもっているこの花は、梅雨時になくてならないものの一つだろう。梔子の花、合歓の花——どちらも昼日なかに夢をみる花であるが、紫陽花のように寂しい陰鬱な夢をみる花は他には無い。
 
 「でもね?きっと、梢は感じたはずだよ。あの眩いステージで、みんなからキミ自身に向けられる熱い視線を。そして、スクールアイドルとして舞台に立つキミを応援してくれる、キミのファンからのあたたかい声を。」
 沙知は何気なさそうに、そう言った。
 「応援してくれる皆さんの、声‥‥‥?」
 梢は消え入らんばかりに音を搾り出す。
 「ああ。あたしもね?最初のステージは自分のパフォーマンスに精いっぱいで、お客さんの顔も、声も、なんにも覚えていなかった。それでも、先輩方と一緒に経験を重ねていく中で、わかったことがあるんだ。ああ、スクールアイドルっていうのは、一つのコミュニケーションなんだって。」
 「コミュニケーション‥‥‥。」
 「歌、ダンス、表情。これはぜんぶ、スクールアイドルとして舞台に立つあたしを、ファンの皆さんとを繋いでくれる糸みたいなものなんだ。なりたいと思ったらいつでもなれるのが、スクールアイドル。そしてあたしは、『スクールアイドル』だっていう自信を、自負を、ファンの皆さんとの交流を通じて、得ることができる。いまでは、そう思ってるんだ。」
 「私が『スクールアイドル』として、あのステージに立つ理由‥‥‥。」
 紫陽花のすぐ隣に、立葵の赤と白との花が雨に濡れている。梅雨季の雨と晴間の日光とを代わる代わる味わうために、茎は柱のように真っ直ぐに突っ立ちながら、花はみな横向きにくっついているのはこの草だ。沙知先輩の語気は次第に熱してきた。
 「梢の、スクールアイドルに対する熱い想い。そのまっすぐな気持ちは、誰だって持っているものじゃないさ。キミの笑顔が、弾む声が、内から湧き出てくる情熱が、見ている人の心を打つから。だからみんなが、乙宗梢に温かな声援をくれるんだ。‥‥‥どうかな?あのステージの煌めきは。」
 「そう、ですね‥‥‥。」
 そして彼女は、後輩の震える肩をもう一度しっかりと抱いてやるのだった。暫くするうちに雨は小降りとなり、やがて夕日が少しづつ洩れるようになった。通り雨だったのだろう。湿気を帯びた、新鮮な風がさっと吹いて来ると、ぐしょ濡れになって突っ伏していたそこらの木々は、恰も狗が身振るいして水を切るように、身体中の水気を跳ね飛ばして、勢いよく起き上る。ひた泣きに涙を流した後の歓び——そういったような静かな快活さが辺りに流れた。日暮前のこんな時にしみじみと見惚れるのは合歓の花。
 
 「‥‥‥ほんとうにありがとうございました、沙知先輩。少し、気分が晴れました。それと――百合亜には、ひどいことを言ってしまいました。」
 梢がそう答える迄に、さっきまでの険しい表情は消え去っていた。雨はもう気にならず、寧ろ暖かく、湿気が身を包むといった感じである。
 「そっかそっか。」
 「‥‥‥あの子といると、少し、素顔の自分が映ってしまうというか。だから、どうも、言葉が滑り出てしまって。ほんとうに、不思議な子です。でも、早く、謝らないと‥‥‥」
 項垂れて足もとを睨みつけた。矢張依然として悄気た様子である。友達には逢いたい時と逢いたくない時とがあるものだ。それが判然すれば何の苦もない。厭なら留守を使えば済む。乙宗梢は先方の感情を害せぬ限りは留守を使う勇気のある少女である。唯だ困るのは逢いたくもあり、逢いたくもなくて、前へ行ったり後ろへ戻ったりして他人にまで心配される時である。
 「そうだねぃ。でも、彼女のことは彼女のこと。いくら姉だとは謂え、あたしの口からどうこう話すつもりはないさ。不思議な子、っていうのはあたしも同意するよ。これも、いずれ百合亜本人の口から話す時が来るだろうねぇ。ただ、」
 と、沙知は顔一面を明るい方へ向け言う。
 「彼女はね?まっすぐで、頑張り屋さんで、いい子なんだ。キミとおんなじくらいに、ね。だからまずは!‥‥‥少しだけ、周りの人間の声に耳を傾けてみたらどうかな。百合亜の声も、聞いてあげて欲しいな、なんて。あはは。」
 「沙知先輩‥‥‥。」
 梢は、沙知の熱を伝えられたかの如く、その頬は赤らんでいた。部室にはもう夕日が射していて、真夏よりは幾分輪郭の明確でない斑な雲の掛かる空の色は紺に深まって行く。掌に映る残陽は立葵の赤。立葵を描いた光琳と乾山との作を観たことがある者ならば、兄弟相談して画いたかとも思われる程互によく似ていると気付くであろう。茎と花とが持っている図案的の面白味はどちらにもよく出ているが、土から真っ直ぐに天に向かって伸びているこの草の力強さと厚ぼったさとは、乾山の方によく出ていたと思う。作者の人柄が映っていたのかも知れない。
 「――くしゅん。」
 「ああ、ごめんごめん!ちょっと寒かったよね、窓閉めるよ。ささ。今日は伝統曲のダンス合わせよっか!、‥‥‥」
 
 ――人間の性格は、形態として理解される。外部の刺激や内部の衝動によってその人が為すところの思惟や言行の総和は、その無数の集合によって内部が充実され、一つの形態を取る。この形態が即ち性格なのである。性格によってその人の思惟言行が規制せらるるというのは逆な見方であって、思惟言行の総和によってこそその人の性格が決定せらるるというのが、本来である。文学に於いても、斯かる性格だから斯かる思惟言行が為さるるとは演繹せず、斯かる思惟言行が為さるるから斯かる性格だと帰納する。性格描写とはつまり思惟言行の形態叙述である。前時代には、如何なる悪人も斯かる場合には善行を為し、如何なる善人も斯かる場合には悪行を為すということが、人間味の名のもとに作品の主題となったことがあった。また、如何なる英雄も斯かる場合には凡庸な振舞を為し、如何なる凡庸人も斯かる場合には勇壮な振舞を為すということが、凡人主義の名のもとに作品の主題となったこともあった。また、人間は凡そ如何なる行為をも為し得る可能性を持つが、茲に斯かる行為が選択されたのは何故であるかとの詮索が、心理解剖の名のもとに作品の主題となったことがあった。その他、これらのもの悉くは、畢竟人間性の探求であった。人間性の探求も結構であろう。だがこの探求は、人間という形態を保ち得る範囲内に限定される。旧くアランが指摘したように、寓話に於いて狐が如何に狡猾であろうとも、その狡猾さは畢竟、狐という形態以外には出ない。犬が如何に忠実であろうとも、その忠実さは畢竟、犬という形態以外には発展し得ない。人間性は畢竟、人間という形態によって制約されるのだ。然るに人間の思想や情意は、人間という形態以外にはみ出そうとすることがある。その時にはもう人間としての形態は保ち得られず、現実の生存は続け得られない。スヴィドリガイロフ、ムイシュキン、スタヴローギン。一列の系譜の人物は遂に破綻するの外はない。人物は遂に架空のものとなるの外はない。ドストエフスキーに限らない、それらの人物を扱った作品そのものがそのことを実証しているのだ。或いはこれとは真逆に、彼れ一句、これ一句、春風駘蕩たる野道をとぼとぼと歩きながら句を拾う如くの、決まり切ったハッピーエンドを手放しの喝采で迎え入れる作品も乱立している。
 何事にも相反する二面がある。危険を予感しているものが必ず危険を最も巧みに避けるものとは限っておらず、衛生のことばかり気にしているものが必ず病気に罹らぬとはいえない。それのみか、あまり一つのことを気にしすぎると、却ってへまを演ずるものである。先述のムイシュキン公爵は、支那製の高価な花瓶を壊しはしないか、壊しはしないかと気にしたために却ってそれを壊してしまった。平気で居たら決して、壊す気遣いは無かったであろうに。敷衍すればこれは、二十一世紀に芽生えてしまった人間精神の一つの側面であるとも思える。そしてこの種の悲劇は、不可避なものであるだろうか?人間性の探求を無意義なまでに遠い過去へ追いやった現代に、既に、種々の新たな性格が形成しかかっている。これまで見られなかった新たな思惟、新たな言葉、新たな行動などの、萌芽的な断片的なものに今は過ぎないが、それらのいずれかが成長する時、その人間の形態は特殊なものとなり、特殊な性格として出現することだろう。これは文学世界のみならず、拡大されたその特殊な性格は、破綻なしに多くの思想や情意を容れ得るかも知れぬ。容れ得なくて破綻しても、元来この種の悲劇はむしろ歓迎すべき性質のものである。
 而してそこには新しい日本青年の理想の型が生れて来なければならないはずだ。理想の型とは、所謂〈典型〉としても良い。斯くあるべきという最上の姿。男子には男子の、女子には女子の典型が考えられるが、而もそれは根本に於いてあらゆる少年少女に共通なものを含みながら、猶かつ、それぞれの個性を生かし、職能の特色を発揮し、年齢の段階をはっきり示したものだ。概して夢は手近なところから遠大なものへと伸びて行くものであるから、勤労と修学とを含んだ日常生活からはじまり、「かくある自分」と「かくあるべき自分」との距りに気づけば、もはや、美しい夢の門口に立ったと言えよう。自分を「かくあらしめる」工夫と努力に一歩踏み出せば、そこではおのづから典型の創造が企てられている。こうなったら諸君、夢の翼を広げるだけ広げるがよろしい。夢は飽くまで美しく、飽くまで逞しいものとしなければならない。而もそれは如何に遥かなりと雖も怖るるに足りない。唯だ、怖るべきは、純潔ならざるものの混入することではないか。これは、僥倖を頼む心理が、夢に化けて忍び込むことと言い換えてもよい。真に美しく、逞しい夢は、決して甘くもなく、また、明一色である訳が無い。苦難と歓喜を交えた戦いの夢、戦いに傷つき傷つき、而も幾度か起ちあがって遂に凱歌を奏する夢。したがって、真の新しい舞台少女の典型は、ゆかしく凜々しい青年的典型の上に、若さのもつ健康と職分の嗜みとを加え、スクールアイドルとしての雄大な気宇を自然に備えながら、女子は女子らしく柔軟に、清純なる風格をもって他者をして畏れ懐かしめるもので在りたい。言葉をもって典型を描くことは抽象の域を脱しないからこれ位にしておくが、更に望むところは、単に、夢見る少年少女がそれぞれ同性の典型を頭に浮べるだけでなく、同時に、異性の素晴しい典型を各々想い描くことによって、健やかな一つの夢を抱いてほしいことである。 

6

 私は雨の日が好きだ。それは、晴れた日の快活さにも需めることの出来ない静かさが味わうことができるから。毎日毎日降り続く金沢の雨は、私のような悩みがちな者にとっては、いくらか鬱陶し過ぎるようだけれど、それすらある程度まで外界の騒がしさから逃れて、静かな心持ちをゆっくり味わうことが出来るのを喜ばずには居られないのだ。梅雨の雨のしとしとと降る日には、私は好きな紅茶を淹れるのも勿体無い程の心の落ちつきを感じる。こういう日には、何か優れたことが出来そうな気もするけれど、それに挑むことすら勿体無く、出来ることなら何もしないで、静に自分の心の深みに降りて行って、そこに独を遊ばせ、独を楽しんでいたいと思う。
 紅茶の香を味わうのはどんな場合にも良いものだと思うけれど、とは謂え、とりわけ梅雨の雨のなかに香を聞くほど心の落ちつくものは無い。私は自分一人の好みから、この頃はダージリンを使って、青葉に雨の鳴る音を聞きながら、じっと目を閉じて、部屋一杯に漂う忍びやかなその香を聞いていると、魂は肉体を離れて、見も知らぬ林の小路に彷徨い歩き、雨は心に降り注いで、潤いと柔かみとが自然に浸み透って来る。この潤いと柔かみとは、〈自然〉と〈我〉との融合抱和になくてはならない最勝の媒介者でもあるとも思う。私の魂が草木鳥虫の小さな精と忍びやかに語るのもこの時。スクールアイドルへの大きな情熱が一層昂るのもこの時。そして、撫子祭を控えた重要な時期。季節の変わり目に体調を崩してしまったのもこの時です。
 
 「こほっ、こほっ‥‥‥。」
 「こず、これ飲んで。」
 「ありがとう、綴理さん‥‥‥。」
 「まったく‥‥‥やっぱり、梢が一番はりきりすぎだったってことだね。私たちに隠れて、ひたすら練習でもしてたの?」
 梢は、綴理の差し出したコップに口を付けてから、小さく頷いた。固よりあの先輩の言葉を心に聴いた後、少時の悔悛と克己との後、見事に始められた贖罪の生活の最中に、かくも悩ましき事情に直面しても少し躊躇することなく、底には天国がうち開いているその深淵に向かって同じ歩調でもって進み続けたならば、それは如何に立派なことであったろう。然し、如何に立派なことであったろうとは謂え、そうはゆかなかったのである。先ず第一に彼女を駆ったところのものは、自己保存の本能であった。彼女は俄かに考えをまとめ、感情をおし静め、尊敬すべき先輩が隣に居ることを考え、夢のために全ての決心を延ばし、おのれの取るべき道に対する考察を一旦止めて、乙女が楯を拾い上げるようにおのれの冷静を回復した。その一日の残りを彼女はそういう状態のうちに過ごしたのである、内心の擾乱と外部の深い平静とをもって。所謂「大事を取る」ということを彼女はしなかった。全ては未だ脳裏に漠然と紛乱していて、恰もそれを紛らわすかのように一際練習に励んだのだった。何らのまとまった観念も認められないほどにその擾乱は激しかった。唯だ、或る大なる打撃を受けたということの外は、彼女自らも自分自身が判らなかったであろう。そうして今日は、朝からなんだか調子がよくなくて……まだ、頭がくらくらする。
 「ありきたりな風邪だね、これは。ま、一日二日は安静にしてるほうがいいね。」
 「そうだね。無理しないでね、こず。」
 「ほんとうに、あなたたちの言う通りね‥‥‥。休むのも練習だって、いつも私が自分で言っているのに……!あまつさえ、あなたたちに看病させて、私のために時間を使わせるだなんて……。」
 春陰野に垂れて草青青、時に幽花有りて一樹明らかなり。梢は鋭どい眼の角から見舞いに来てくれた二人を見た。眼の角は云う――無味くって中らない形容は哲学である。
 「そんなこと気にしなくていいの。私、お仕事で一日看護師やったことあるんだから☆‥‥‥こういう時くらいは頼んなさいな。あんたがいないと、私だって張り合いがないんだからさ。はやく練習に復帰すること!いい?」
 「ボクも、にぎやかなほうが好きだなぁ。こず、はやく元気になってね。」
 「ふたりとも‥‥‥。」
 一頻り雨はまた強くなつて、年頃の少女らしい趣向を凝らした部屋の周囲を十重二十重に包んで、水溜を叩き、青苔を洗い、窓から覗く細やかな庭が濛々と打ち煙る。耳朶を廻る涓滴の音の、胸中へ沁み込むような心地好さを味わいながら、さまで熱からぬ程の白湯をちびりちびりと舌に受ける、……どうして今日は、こんなに胸がざわつくのだろう?前屈みになって、倦怠と侘しさが我が身に沁みるよう……。こくん、こくり、こくり。生温かい水が喉を通ると少し楽になった。……ああ、そういえば、そうだ。あの時も、今と同じように雨が降り続いていた。
 「じ‥‥‥」
 「じ?」「じ?」
 「自分が許せない~~!!あっ‥‥‥。」
 刹那、か弱い叫び声が途切れると、ぱたり、と枕元に落ちる音がした。
 「ちょっ、梢~~~!?」
 梢の尖った柏と杉の木の森。半世紀を経た位の木ぶりが、一様に揃って見える。日の光は判然とは見えぬ、薄く照らされた木陰全体が、勾配を背負って造られた円塚みたいにだけその輪郭を映していた。天は、瞬きもせずに雲隠れし、山々は、深く瞼を閉じている。
 
… 
……

 
 明くる日も、糠のように見えた粒は次第に太く長くなって来て、今では一筋ごとに風に捲かれる様までが目に入る。大倉庫までの距離ならと傘を持って行かなかったのがマズかった、ジャージの上着は疾くに濡れ尽くして、肌着に浸み込んだ水が身体の温もりで生暖く感ぜられる。漸く乾いてきた頃合いだけれど、このままでは気持ちがわるいし、それに、女の子の部屋に赴くには幾分か申し訳が無いから、自分の部屋から予備の上着をばっと取って来て雑に羽織っている。赤褐色の長髪を僅かに濡らした少女は遠慮する景色もなく、つかつかと部屋に這入る。そして丁度、彼女がベッドの横に坐ったところで、翡翠色の少女はゆっくりと眼を開いた。
 「おはよう梢。勝手に入ってごめんね、起こしちゃった?体調はどうだい?」
 「百合亜、あなたまで‥‥‥。わざわざ来てくれたのね‥‥‥。」
 梢は枕に片肘をつき、その細手で体重を支えながら、しっとりとした視線を百合亜に向けた。
 「ああ。友達の様子が心配で、ね。それに、ふたりきりで話したいこともあったし。」
 くすんだジャージの襟の中から、肉の附いた恰好のいい頸の色が、鮮やかに、抽き出ている。梢が上体を起こして百合亜の前に坐った時、この頸とこの半襟の対照が第一番に眼についた。――そうです、そうです、と少女は危うく言う所だった。全く梢はその二三日、彼女に逢う機会を、逢ってゆっくり話をする機会を、待ち倦んで居たのであった。友の言葉は直に彼女の胸に響いた。彼女は焦燥棄鉢な気持ちになった。
 「‥‥‥ほんとうにごめんなさい、みんなに心配かけちゃって。たとえどんな手を使ってでも、はやく復帰しなければ‥‥‥!」
 「てか寝なきゃダメだろ‥‥‥。ほら坐って、水分取って。」
 「あうぅ‥‥‥。」
 百合亜はふと梢の不安そうな面持ちを覗き込んで、そのか細い背中に手を添える。――掌にあたたかな鼓動が確かに触れる。この小さな身体で、彼女はいったいどれだけ大きなものを背負って来たのだろう?そしてこれから背負うことになるのだろうか、……梢は百合亜の差し出した水を一口飲み、ほうっと息を吐いた。その眼は窓の外を見ていたから、百合亜もそれに倣うように少女から視線を逸らした。

 「きょうも雨だねぇ。」
 「そうね。」
 と、少女は隔たる人を近く誘うような挨拶をする。同時に遮ぎるものもない私室に唯だ半歩の間隔を置いて、沈黙の中、やがて二人の視線は御互の顔の上に落ちる。騎士星花はおやと思う。姿勢だけは崩さない。翡翠葛ははっと躊躇う。そして頬に差す紅を片腕に隠して、無理やりな笑顔を柔らかに落とす。油を注さぬ紫髪が潺湲に流れ、漣の百合色に寄る幅広の絹が鮮なる翼を華奢な腕に張る。幼気で小鳩めいた、小鳥の囀りにも似た声が震えて出た。
 「‥‥‥私が生れたのはね、こんな、雨の日だったのよ。昔、お母様が教えてくれたわ。一晩中、まるで唄うように雨が降り続いていた日だったって。だからね、乙宗家の娘として、この子は音に愛されて生まれてたんだって、そう言い聞かされながら、私は育ったの。」
 「‥‥‥そっか、お母さんが。素敵だね。」
 「ええ、そう‥‥‥乙宗家はね、もともと音楽家の家系だったの。多分に漏れず、私もいろんな楽器を習わせてもらったわ。もし、乙宗家の伝統を守り続けようとしたのなら。今の私はここにいなかったのでしょうね。」
 「それでも。君は、ここに来た。大きな決断だったんだろうね。‥‥‥すごいな。」
 誕生日。母。百合亜はその言葉を暫く噛み締めていた。御仏の所謂生者必滅の道理、今更他人の幸福を驚き妬むのは最早字義通りの愚痴にしか為らないけれど、夜雨孤灯の下、翻って儚き十五年の半生幾多の不幸を数え来れば、おのずから心細くうら寂しく、世に頼りなく思われる折だってあった。我が家には老いたる父母すら今は亡き、これに依って立ちこれに依って我意を強めることもあるまい。――されど、ああ、彼女は両親から愛されて育ってきたのだろう。そんな子も、居るんだって。それに、自分の生れた瞬間を憶えている人間は居ないはずなのに、人間という生きものだけが誕生日を祝う、――なんて、そんなこともほんとうは何でもないことであろうけども、事実、我が家では誕生日なんかしてもらったことが無かった一方で、同級生たちは何時も、誕生日だというだけで祝辞を送り合い、小物を贈り合い、喜び合っていた。あの頃には唯だ唯だ疑問にしか思えなかったこの誕生日というものも、それでも、今では少し価値観が変わってきた。誕生祝いは何でもないが、自分というものが認識され、尊重されるという気持ち、いまのあたしはそれでゆかなければならぬ。と。先刻咄嗟に呟いた「すごいな」だけは、彼女の友人の一人として、少なくとも真心だったと思いたいから――。
 
 枕に頭を載せた梢は目を瞑っていたが、その目の下には、百合亜には、うっすらと隈が浮んでいるように見えた。彼女は彼女の額の上のタオルを取り換え、水差しの水を取り替える。そして改めて彼女の枕元に坐る。梢の頰には赤みが差していて少しやつれたようだったけれど、それはもう風邪のせいではなく、なにか、思い詰めているような表情の変化であろうかと感じた。
 「私は、雨の日が好きなの。‥‥‥あなたには、覚えておいてほしいわ。六月十五日。それが、私の誕生日。」
 少女は細くなった目を天井に向けたまま、ぽつりぽつりと独り言のように語った。
 「ああ、知ってるよ!友達だからね。梢、誕生日おめでとう。」
 百合亜からは簡明な答があったのだった。梢が臥したまま驚いた表情に変わっていて、言った手前の百合亜自身がもっと驚いていた。何故驚いたのかも、わからない。唯だ、ぼんやりと霞む記憶の淵には、何時の間にか見慣れた風景が浮かんで居た。彼女はお道化ながらも言葉を繋いだ。
 「――って、こんな看病中に言うべき台詞じゃないよね。あはは‥‥‥とにかく、はい。これ、誕生日プレゼント。女の子になに渡せばいいかなんてわかんないから、こんなありきたりで、つまらないもの用意しちゃったけど‥‥‥。気が向いた時にでも開けて頂戴ね。」
 「‥‥‥わざわざ私のために。こんな手の込んだ物まで、用意してくれて。」
 梢は徐ろに手を差し出して、簡素であったけれども上品さのある、白い化粧紙と薄紅のリボンが掛けられて小箱を受け取った。彼女はそれを受け取ってからも暫らくの間、それを手に載せたまま愛おしげに見詰めて居たものだから、あたしが却ってむず痒くなってしまった。
 「あんまりまじまじと見ないでね、恥ずかしいから‥‥‥!それと本題は――こっち。『スクールアイドルノート』。今週の分返すよ。あたしなりにね、もう一回なにができるかを考えてみたんだ。」
  「百合亜‥‥‥あんなことがあったのに、あなたって子は‥‥‥。」
 彼女は馴染み深いそのノートを受取ると、先のプレゼントを自分の膝頭に置いたままに、両手でそれを抱え込んだ。ローレライの呟きには七階の雨音が染み込んでいて、今しも降り止みそうな空模様でありながら未だ雨が降り續いてゐることを彷彿とさせた。

 「あはは、あたしに出来ることをって思うと、これくらいしか思いつかなくてさ。‥‥‥ねぇ、梢。入学式の日のこと、覚えてる?」
 「‥‥‥音楽室で、みんなで歌ったこと?」
 「それじゃないよ!それは搔き捨てた恥さね‥‥‥それじゃなくて、なんであたしがこの学校に入学したのか。君はあたしに、そう聞いたよね。」
 少女の胸はじりじりと燃え上って行った。その熱は彼女の胸から喉、口へと伝わって対面する少女へと響かせる。
 「あたしはあの時、ギョッとしたんだ。憧れの先輩が居るから、って言ったこと自体は嘘じゃないんだけど‥‥‥。結局あたしには、自分が無かったんだよ。沙知さんや大人に促されたから、ただ、それだけ。明確な夢を持って蓮ノ空女学院〈ここ〉に来た君とは、ぜんぜん違う。自分がさ、心の底から情けなく思ったよ。」
 「そんな、こと‥‥‥。」
 口を曲げて苦しそうに笑った。そうして友が丁寧に紡いでいく言葉の一つ一つを捉えながら、自分自身も胸の裡に言葉を投げ込み始めていた。
 「そうだね。でも、いまは違うって。そう思ってるんだ。だってあたしはね、スクールアイドルのみんなから――梢から、夢を貰ったんだから!」
 「‥‥‥!」
 少女の道化も三年の命、下天の裡を比ぶれば夢幻の如くなり。この二ヶ月半の出来事も、唯だ一夜のことだったかも知れない。朝、眼が覚めて、はね起き、気づけば自分はあの狂乱の日々よりも一層軽薄な、薄っぺらい仮面を装えるお道化者になっていた。弱虫は、幸福をさえも恐れる。綿で怪我をする。幸福に傷つけられる事もある。傷つけられないうちに、早く、このまま、消えてしまいたいと焦り、れいのお道化の煙幕を張り巡らす、……ああ、わかりかけた、いや、まだ、……などと頭脳に走馬燈がくるくる廻っていた時に、自分でも思いがけなかった言葉が先に出た、という顛末だ。百合亜は瞑った眼を開いて、深く思い詰めたように、ぽつりぽつりと話を続ける。
 「つまり!あたしが言いたいのはさ。あたしは梢と一緒に、蓮ノ空の仲間と一緒に、ラブライブ!を目指したい、ってこと!あたしはさ、ほら、めぐちゃんみたいな愛嬌は無いし、綴理みたいに踊れるわけでもない。もちろん沙知さんみたいに頼れる先輩ってわけでもないけど‥‥‥こうやって、ノートを書くくらいはできるからさ。独りで抱え込まずに、あたしを頼って欲しいな。あはは‥‥‥。」
 すると、なんとなく冷笑的な調子が、ぎこちない笑顔の裡に響いた気がした。この言葉は敏感な年頃の少女の自尊心を傷つけた。彼女は同情を期待していたのではなかったのである。
 「‥‥‥良いことを言っているって、思ってないかしら。カッコいいことを言っているって、思ってないかしら。私が行き止まりの人間だからって、そんな都合のいい言葉を――」
 梢は皮肉な笑みを見せた。態と冷笑の仮面を被ったのだ。それは羞恥心の強い純な心をもった人間が、ふつう愈々という時に持ちだす奥の手なのである。そういう人たちは、どんなに粗野な態度で、厚かましく自分の心をかき廻されても、誇りの念が強いために、最後のどんづまりまでそれに屈しようとせず、他人の前に自分の感情を晒け出すことを恐れるものであるが、——それを当時のあたしは悟らなかったのだ。彼女がもじもじしながら、やっと思い切ってあの冷やかしを口に出した、如何にも臆病らしい様子から見ても、少女百合亜は悟らなければならないはずだったのかも知れぬ。けれどもあたしはそれを悟らなかったのである。別箇の感情が、あたしの心を捉え尽くしていたのだ。即ち彼女がそれなり口を噤んでしまいそうな苦々しい表情を浮かべた刹那、
 「――違う。」
 と、何時になく力強く断じたのである。
 「それは違う。君は行き止まりの人間でもないし、君自身が思うほど弱い人間でもない。いいや――他の誰がどう思っても、梢自身がどう思っても、だ。梢を見てるとさ、あたしも、もっと頑張ろうって。そう思えるんだよ。その時間が、あたしにとっては心地良いんだ。」
 「百合亜‥‥‥私は‥‥‥。」
 梢は目を開いて、布団の上に被さっている薄い掛け布の端をぎゅっと握って半分顔を隠した。額から落ちた冷えたタオルの青が、――真っ直ぐに見詰めてくる友の真摯な眼光が、やけに目に沁みるようだった。
 
 「だから、ね?闇雲に自分のことを責めるんじゃなくて、ちゃんと理解してあげなきゃ。今の自分に何があって、何が足りなくて、何が必要なのか、だぜ。もしそれでも、君が自分を卑下するって言うなら――」
 「ゆ、りあ‥‥‥?」
 百合亜が急に立ち上がったので、友もつられて腰を上げる。一度大らかに伸びをして天井を仰ぎ見ると、少女は屈託の無い笑顔を湛えた瞳を返したのである。そして大きく頷いてから、言った。
 「――仕方がないなぁ!あたしが乙宗梢の良いところ、百個言ってやるから!耳かっぽじってよくよく聴くことだね!」
 「は‥‥‥?え、ひゃ、ひゃく!?」
 百合亜は底光りのする大きな灰色の眼を耀かせ、友の返事などお構いなしといった態度で、早速語り始めた。
 「まずは‥‥‥そうだね、梢の、自分に厳しいところが好きだな。君は謙遜するだろうけど、ほんとうに頑張り屋さんだ。努力家ってだけじゃなくて、しっかり学んだことを身に付けようとする、真摯な姿勢も好きだな。あたしはご存じの通り不器用だからさ、いつも君を隣で見て、すごいなって素直に思ってるんだぜ?あとは、これは外見の話になっちゃうけど、『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』という言葉がほんとうによく似合うよね!上品な立居振舞に裏付けされた魅力というか、女性らしい大人っぽさも好きだな。もちろんなにより、スクールアイドルについての情熱もだ!あたしもスクールアイドル・オタクっていう自負があったけど、梢のパワフルさには敵わないさね。君と朝の時間に、昨夜観たスクールアイドルの動画についてお喋るする時間が、ほんとうに好きだ。知らないスクールアイドルもたくさん教わってさ、あたしも、独りの時よりももっとスクールアイドルのこと好きになっちゃったんだぜ!あははっ!その他にも、梢はたとえばクラス委員を頑張ってるし――」
 「ま、待って‥‥‥ほんとうに待って!!」
 顔を赤らめた梢が百合亜の手を取って制止する。いつのまにやら、おしゃべりに、そうなっていた。どうも梅雨の時期は、いけない。成る程、梅雨は、哀しいものだ。笑っちゃいけない。真面目で、それでいて、可笑しいものなのだ。
 「はぁ、はぁ‥‥‥もう、いいわ、もう、いいから‥‥‥!聞いてるこっちが恥ずかしくなって居た堪れないわ、まったく‥‥‥。ほんとうになんなの、あなたは‥‥‥!」
 「あたしかい?あたしはね――」
 百合亜は、想いを秘めた瞳で、夢見る少女を見詰め返した。彼女の目の中に映っているのは確かに乙宗梢であったのに、彼女は彼女の知る彼女自身では無かった。そうだ、人間の観測する世界は本来は無心である。その朝に於けるも、その暮に於けるも、全く異らぬのである。而もそれが同一の江や海と雖も、その朝に於けるや彼の如く、その暮に於けるや此の如くである。同一の物と雖も常に同一では有り得ない。詳らかに精しく論ずる時は、世に〈時間〉というものの存在する以上は、――そして〈運命〉が時間に支配されている以上は、同一の物というものは実は存在しないのだろう。たとえばここに一本の松の樹が存すると仮定しよう。その松樹の種子よりして苗となり、苗よりして稚松となり、稚松よりして今存するところの壮樹と成りたるまでは、時々刻々に生長しているのであって、昨日の該松樹が昨年一昨年、乃至一昨々年の松樹と異なるが如く、昨日の該松樹と今日の該松樹とは、必ず異なっている事実に疑問を差し挟む者は居るまい。若しまたその松樹にして漸く老い、漸く衰え、一半身は枯れ、終に全く枯るるに至るとすれば、明日の松樹もまた今日の松樹と異り、明年の松樹もまた今年の松樹と異るのである。森羅万象一切は皆一松樹の如きのみ。苟も〈時間〉無くして存在するものが、少なくとも少女百合亜の観測する世に無き以上は、凡そ物質は時間の支配を受けて居るのである。然る時、或る時の或る物は「或る時間を以て除したる或る物」でしかない。その物の始より終までは、「或る時間を乗じたる或る物」である。これは、況や青春を駆け抜ける少年少女をや、である。だからこそあたしは、限りある時間の中で、精一杯に花咲こうと藻掻きたい。だからこそあたしは、この言の葉の船に想いを浮かべる。

 「――大賀美百合亜だ!蓮ノ空女学院第百〇二期生百合組、出席番号一番!そして、スクールアイドルクラブのマネージャーで――」
 若しかしたら変なことを言っているかも知れないが、――君は、丸裸の野苺と着飾った市場の苺と何方に誇りを感じるだろうか?登龍門というものは、畢竟人間を市場へ一直線に送りこむ外面如菩薩の地獄の門だ。けれどもあたしは、着飾った苺の哀しみを知ってしまったのだ。そうしてこの頃、それを尊く思い始めてしまった。あたしは、逃げない。行けるところまでは行ってみるつもりだ。いまのあたしの、真実の旋律。
 「乙宗梢ちゃん。スクールアイドルである君のファンであり――ともだちだ。」
 「‥‥‥。」
 二人きりの部屋で立ち尽くしている梢と百合亜。彼女が少し乱れた艶髪をあげて唯だ軽く微笑むと、あたしもそれほど驚きはしなかった。撫子の香を籠めた優しき雨音が静寂を奏でる。 
 「‥‥‥もう、わかったわ。私の負けよ。あなたと話してると、ここで寝てるのが馬鹿らしくなってきたわ。」 
 梢はくすくすと微笑を洩らしながら言った。
 「おっ、マジ?やったーーー!あははっ!」
 百合亜は、嬉しくて嬉しくて、純粋に胸がときめきした。一番困難な友人との不和を微笑のうちに崩したのだ。こんな不思議な成功も、自らの不届きな努力の御蔭でもあろうと、この愛でたき友をぎゅっと抱いてやりたい衝動を感じた。
 「それと‥‥‥。」
 「うん?」
 と、急に梢は気の毒そうに、百合亜から眼を外して、机の上に置いてある埋木の茶托を眺める。スクールアイドルノートはさっきから枕の上に載っていて、捲れた頁には交換日記の如く二人の交わした言葉が並べられている。
 「この前は、その‥‥‥ひどいことを言ってしまって、ごめんなさい。」
 少し鼻声で、途切れ途切れにそう言う。
 「おう。そういう梢の強情なところも好きだよ。にひひっ!」
 「もう、まったく‥‥‥!」
 二人は顔を見合わせて、ぷっと噴き出した。そこで一寸話をやめて、窓掛の間から梅雨にも綺麗な空を透かす様に見ていた。遠くに大きな樹が一本ある。薄茶色の芽を全体に吹いて、柔らかい梢の端が天に接く所は、糠雨で暈されたかの如くに霞んでいる。
 「好い気候になってきた。」
 「えぇ――気分が好いし、散歩にでも出掛けたいくらい。」
 エメラルドは翠色を有する宝石である。然し甚だ長き時間を経る時には、漸々にその色を失ってしまう。鷄血石は鷄血の如き殷紅の斑理を有する貴い石である。然し十余年を経る時は、その表面に存する斑理の紅色は、漸くにして黒暗色を帯びるに至るのである。これらの物は時間の影響を被ること、植物動物等の如く明白ならざるものであって、而も猶長時間の後には、明らかに時間の影響の加被せざるにあらざることを示すのである。故に諦観する時は、百年前の翠玉や鷄血石と百年後のその翠玉や鷄血石とが、その色彩の濃度に於いて異るのみならず、昨日の翠玉や鷄血石と、今日のその翠玉や鷄血石とも、また相異なった色彩の濃度を有して居るのである。此理に依れば同一松樹も、実は同一松樹では無い、日々夜々に異ったものになって居るのである。森羅万象悉くの物自体が時々刻々に異なりつつあるのである。それ即ち劣化していると評せるかも知れぬが、或いは――成長していると言い換えても好い。ましてやその自体以外の、日の炙り風の曝すことがこれに加わるに於けるをやである。畢竟するに世間一切の相は、とりわけ青年の一日一瞬間は、無定をその本相としながらも、有変をその本相として二律相反して存在するのだろうか。
 梢が上機嫌に祝福すると、蜷局を捲いた湯気がティーポットから漏れていて、天候の移るのを知らぬ顔で、すこぶる悠長に燻っている。雨は、もう収まっていた。

7

 粧は鏡に向って凝らす、玻璃瓶裏に椿の香を浮かして、軽く雲鬟を浸し去る時、琥珀の櫛は条々の翠を解く。なんでも前の日から降り続けていた天気が上りかかって、折々雲の隙から洩れる薄日が、糠のような雨の脚を光らせている午過ぎであった。きょうは六月二十五日、蓮ノ空女学院三大文化祭の一つ、撫子祭の当日。朝からの一通りの準備を終えたのち、喧噪を避けて部室棟奥にあるチャペルに行くと、年の若い、独逸語ぐらい心得ていそうなシスターが、小さな鉄の鍵を持って、裏口の木柵の錠を、がしん、がしん、と揺す振りながら開けてくれた。露に濡れた雑草のだらだら路を下りて、尾楼の附け根の階を上ると、方五間の縁側の石甃が、瓦葺の傾斜の優しい庇の蔭を平かに走っていた。嗚呼、美しい哉、懐かしい哉、大和撫子、いまに迫る常夏の花。撫子の花咲く時期には早くとも、この舞台に挑む少女たちは大和撫子の気概を見せるに違いない。
 「いい?ステージの上じゃ、梢にも綴理にも、もちろん沙知先輩にも!手加減しないからね!ライブに全力で、応援してくれる人のことも、自分たちのことも、思いっきり楽しませるから。」
 「ええ、望むところよ。私も、全力で楽しませてもらうから。負けないわ。」
 「ふふっ。」
 「うふふ。」
 梢と慈はニタニタと笑いながらいて、どこか嬉しそうである。
 「あれー?あのふたり、いつの間に仲直りしたんだい?」
 「最後の合同練習の時には、すでに。まったく、仲が良いんだか悪いんだか。」
 「うん。やっぱりボクもこれがいい。ここが、いいな。」
 それを優しく見守る綴理と沙知。スクールアイドルたちは愛らしい色とりどりのアイドル衣装にきめの細かい雪の肌を包んで着飾っていて、あたしは素直にその晴れ姿を愛おしいと思った。罪悪感がまったく霧散すると謂う訳ではないけれど、ここまで見事に着こなされると、あたしなりにへえへえ文句を言いながら作った甲斐が、あったというもの。 
 「ほいほい、それじゃー始めようぜい。いやー、楽しみだねえ諸君!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ、第一〇二期撫子祭ステージの始まりだ!いくよ――」
 沙知さんの合図とともに、あたしたち四人は手を重ねる。
 「今この瞬間を大切に!Bloom the Smile!」
 「「「「「Bloom the Dream!」」」」」
 少女達は天へと手を伸ばす。スクールアイドルの影は逆光に吸われていく。 

 「――袖濡るる露のゆかりと思ふにもなほ疎まれぬ大和撫子」
 ひどく緊張する。然し、霧は晴れた。そして紺碧の空へ、その生き様を耀かせんと願う舞台少女たちの麗姿が、きょうはことに壮美の極致に描き出された。その魂は千古のすがた、大和撫子の乙女のすがた、青年時代を象徴した銀色の天地に一つの誇り。いまや、その舞台裏の音響・照明管理の一角に占めて、百合亜が吐き出した唯だ一本の息の先から、震天動地の雲はゆるぎだした。雨を呼ぶか、雷が鳴るか、機材に不具合は無いか、じょうずに踊れるだろうか?舞台に望むあの子たちは、いまどんな想いを抱いているのだろうか?運命はすべて見おろしている――打消か完了か、いいや、そんな興趣では言い尽くせない。閃々たる稲妻は煌めき出した。灰色の双眸に再び情熱を点す銀幕が、いま上がる――。

… 
……

 
 「百合亜。」
 「‥‥‥ああ。」
 「みててね。頑張ってくるわ!」
 「‥‥‥観てるよ。全部を理解してもらえたとは思わないけれど、でも、好きだって気持ちは、きっと伝わったはずだから。」 
 
 王道のアイドルソングを主軸にした、可愛らしい青春ソングで魅せていく桃色ユニット。夢を刻んだ伝統を、この一瞬に届けさせる――。

 「咲かせた花は一つでも」
 「力を合わせて花束に」
 「「スリーズブーケです!!」」
  
 ―『素顔のピクセル』―
 
 ♪「ジグソーパズルの ほんの一欠片指で囲ってみた」
 ♪「君と」
 ♪「「見てる空」」

 (――『素顔のピクセル』。これはスリーズブーケの伝統曲として、先輩方が残してくださった曲なんだってさ。スクールアイドルクラブになって間もない頃に、お別れの歌として作られた。
 (――つまりは、作曲と作詞、別々の子が担当したってこと?)
 (――そう。作詞者はカメラが趣味で、その大切な時間を、音楽に切り取った。)
 スクールアイドルの芸術は、音楽演奏者のそれの如く、瞬間的のものである。その芸術は、その名とともに後世に伝えることができないという一種の悲哀がある。この悲哀から生れる焦慮は、多くが青春の一過性に起因するものであろうけれども、蓋しその実情は、他の芸術家の想像し得ないものであるだろう。そこから、舞台に立つ少女等の心理は、創作を恒産とする大人達が原稿紙に向かう時とおのずから大きな距りが出来なくてはならない。如何なる場合と雖も、芸術家の創作的心境を静かに保ち続けることは殆ど不可能なのだ。彼ら大人が原稿注文を受けてから、その批評や世論を直接間接に耳に挟んで一喜一憂する、それまでのあらゆる人間的感情――それは屡々芸術家の心境と相容れない、然しそういうものを、スクールアイドルは舞台の上で一時に感じることは無いと断言しても差し支えないのである。こういう不純な心持ちを制御、排除して、そしてある時は伝統曲に込められた先達の想いを受け継いで舞台に真の芸術的雰囲気を作り得る少女こそ、演劇の芸術的純化に欠くべからざるスクールアイドルの美しさである。

 ♪「もう時間だね」
 ♪「夕焼け小焼け」
 ♪「藍染の帳に」
 ♪「三日月模様」
 ♪「帰ろうか」
 ♪「カラスも鳴いた」
 ♪「あした天気になれ」

 (――甘く可憐で、優しい音色。これが、私のずっとやりたかった音楽。スクールアイドルとして、聞いてくれた人の心を豊かに彩ることができるなら、私の歌声にも、価値があるんだって、そう信じられるの。きっとね、私だけじゃダメなんだわ。隣に立ってくれる人がいて、応援してくれるみんながいて、ようやく憧れた『スリーズブーケ』になれるの。)
 桃色の和装風アイドル衣装が舞い、バレエに裏付けされた可憐なダンスが観る者を惹きつける。思えば舞踊劇は多少複雑な心理的要素を主題として具えているのであるが、それも抒情詩の程度を超えてはいない。殊に「身振り」よりも「舞踊」を主とする点に於いて、殊に背景、衣裳、音曲等の感覚的要素によって、寧ろ「主題」の有する心理的要素を暗示する企図が主要な部分を占めている点に於いて、「感覚的要素を主とする演劇」の出発点に位置すべきものであるのかも知れない。その「主題」が漸次複雑となって遂に純然たる「物語」となり、「舞踊」よりも「身振り」が主となり、音曲に「歌曲」が加わって「歌詞」を用うる「物語」の発展に終わる時、それが歌劇〈オペラ〉という形式に、そして物語の生々しい一過性を強調した感情表現の発露こそがスクールアイドルの舞台となる。これはもう「感覚的要素を主とする演劇」と謂うよりも「感覚的要素が心理的要素とその地位を争いつつある芸術」という、変な名前をつけなければならなくなると思う。

 ♪「Ah こんな風に笑えたの」
 ♪「Ah 何も知らず生きてたよ」
 ♪「点と点がくっついてくたびに」
 ♪「解像度上がって」

 (――私は今、とても幸せよ。歌に乗せたこの思いが、星の光のように、世界中に降り注いでほしいぐらい。憧れの先輩が隣に居て、応援していただいている方々が居て、みんなの真剣な想いに、応えたい。スリーズブーケはいつでも、あなたの日々のそばに。ふふ、たった二輪でも、三輪でもね。ちゃんと花束っていうんだから!)
 その上もう一つ、敢えてスクールアイドルの芸術が有する大きな弱点を考えれば、一度舞台に立てば最早推敲を許さないということである。そこにまた或る魅力を残すというのは、丁度、即興詩のようなものかも知れぬ。然し、人間の肉体は、精神は、瞬間瞬間その状態を変じつつあるのだから、昨日出来たことが、今日は出来ないことだってある。その場合に、明日まで待って見るということが出来ない。したがって、舞台少女は常に自分の技芸に絶対的信頼をもつことが出来ない。不完全で、未完全なる芸術。殊に不便、いや寧ろ不運なるのは、自分のやっている努力に対し常に適確な批判を下し得ないことである。自分ではちゃんとそうやっているつもりでいながら、実際はそうなっていないことがある。これがまた、スクールアイドルが芸術としてに完全性に欠ける理由である。勿論公演に先立ってあたしたちは万全の用意はするのであるが、仲間にも見てもらうのであるが、それをそのまま舞台の上で実行しているかどうかは、或る程度までしか舞台少女自身には分からないのだろう。非常に厳密な論じ方のようであるけれども、高級な芸術ほどそれ自身に、そこまでの完全性を備えておかなくてはならないというのが常道である。

 ♪「「鮮明だ」」

 世界の時間が止まったような、感覚。舞台上の二人の視線が重なる。

 ♪「「楽しいも大切も大好きもそこにある一瞬を永遠にしよう」」
 ♪「何ひとつ無駄じゃない」
 ♪「ワンピクセルのかけがえの無い」

 素顔、というのは難しい。人間には様々な顔があり、それは常に移ろいゆく。先輩に接する顔、後輩に接する顔、友達に接する顔、配信でファンに見せる顔、好きな人に見せる顔、――道化の顔。けれど、この曲を聴いているうちに、なんだかこう思わずには居られなくなった。きっと、あたしの何れの顔も、素顔であることには変わりないのだと。どれも一ピースずつ取り上げれば、全く別の絵を描いているように見えて、然しその実、大きなジグソーパズルの一欠片を占めるに過ぎないのだろう。そう考えると、こうして音楽に情熱を昂らせるのは少し気が楽になる。どうすれば大切な思いを取りこぼさずに済むのだろうと、些細なことにも悩み、表情を使い分けるおのれに‥‥‥。

 ♪「「今背を伸ばし凛とした横顔照れ隠しそっぽ向いた顔も」」
 ♪「こぼさずに切り取ってくよ」
 ♪「この眼はいつも君を追いかけてる」
 ♪「ピース!」

 こういう見方からいえば、舞台芸術は、譬え優れた脚本を、優れた女優が演出するとしても、どこかに、また、ある分量の欠陥、不備、不純さを免れないものだと感ぜられる。そうなると、他の芸術が、勿論理想に於いてではあるが、完璧であり得るに比して、帝劇なんぞは理想としても、そういうことはスクールアイドルたちにとっては望まれない。まして舞台に立つ少女には芸術的価値以外に色々な物質的条件が附き纏っていて、寧ろその「雑味」こそがスクールアイドルをスクールアイドル足らしめる。舞台装飾、見物席の設備、そういうものが鑑賞上にどれだけ不幸な影響を与えているかは、思い半ばに過ぎるのである。実際、彼女たちなりの「伝統曲」に対する表現技法にこうして青春の機微が載せられ、観る者の心を揺さぶったのであるから。――ああ、ちゃんと想いが届いているよ、梢!
  
 「ね、ご一緒に!せーのっ!」
 「「ピース!」」

 ――曲の終わりを告げる残響が、耳に残ったまま鳴り止む。余韻に浸る間も無く、わあっという歓声が上がる。百合亜も皆に混じって歓声を送りつつ、永遠にも思える一瞬を心に収めていた。その視線を集めている中で、舞台に立つ二人の瞳は星屑さながら輝いているように思えたのである。

… 
……

 「百合亜。」
 「(ぐぅタッチ)おう。」
 「みんなを夢中にさせてあげる!だからあんたも、目を離さないで。」
 「もちろん。あたしはみらぱ!の――めぐちゃんの、最高の応援団だ。一番近くで、最強の幼馴染にファンファーレ送ってやるぜ!!」
 
 観客側も一緒に盛り上がる、ポップでキャッチーな楽曲で魅せる楽しさ満点ユニット。玩具箱はいま、その想いを更に更に膨らませる――。

 「私たちのテンションはー?」
 「(駆けて行く)ここから~……」
 「(戻って来る)ここまで!」
 「「みらくらぱーく!です!!」

 ―『カラフル∞無限大』―

 ♪「みんな集まれ!夢の宝箱!」
 ♪「開ける準備はできてる?いくよ〜!」

 ――石仏に愛なし、色は出来ぬものと始から覚悟を決めているからである。愛は愛せらるる資格ありとの自信に基いて起こる。ただし愛せらるるの資格ありと自信して、愛するの資格なきに気のつかぬものがある。この両資格は多くの場合において反比例する。愛せらるるの資格を標榜して憚からぬものは、いかなる犠牲をも相手に逼る。相手を愛するの資格を具えざるがためである。盼たる美目に魂を打ち込むものは必ず食われる。あたしにとってのスクールアイドルはこれかも知れぬ。夢見る少女は危うい。倩たる巧笑に我が命を托するものは必ず我が大道を惑わす。少女は丁亥である。彼女は愛を解したいと思う。人のためにする愛の至上、これを未だに忘れた日もない。友情はある。道義は、――少し、この胸の昂りを前にしては失ってしまう。

 ♪「キラキラ光る、ハッピーの宝物」
 ♪「あれもこれも、きみも!ぜんぶ詰め込んじゃおう!」
 ♪「クルクル回って、笑顔が弾ける」
 ♪「このワクワクが、最高の宝箱!」

 (――これはね、“リメイク”したんだよね!沙知先輩!)
 (――そう!やっとわかったかい!?リメイクっていう単語が。)
 (――やっとわかった!ずっと“リノベーション”って言っちゃってんだけどね、私。そう、リメイクをしてね、こんなカワイイ曲になったの!)
 (――伝統曲をね~。)
 花々しい幕合劇の一幕、観客席の百合亜は思いがけない親しみと同時に驚きを感じた。なんだかんだ三人で協力しながら完成させた、伝統曲のリメイク。みらぱ!の二人に相応しいキャッチ―な歌詞とアップテンポな旋律、苦心して作り上げたこの楽曲も、いざこうして演じられてみると彼女たちの表現には舌を巻き、それは新奇の魅力を帯びて彼女の胸中で水脈を拡げるのだった。

 ♪「‥‥‥It's a show time!!」
 「「「「せーのっ!!!」」」
 世界の時間が止まったような、感覚。思わずあたしも、一緒に叫ばずには居られなかった。

 ♪「「カラフルいっぱい無限大!みんなで味わうサプライズ!」」
 (Hey, Hey!)
 ♪「どんな冒険が待ってるかな」
 ♪「ドキドキ全部集めちゃおう!」

 愛の対象は玩具である。神聖なる玩具である。普通の玩具は弄ばるるだけが能である。愛の玩具は互いに弄ぶをもって原則とする。スクールアイドルは観る者を弄ぶ。一毫も相手から弄ばるる事を許さぬ。スクールアイドルは愛の女王である。成り立つものは原則を外れた恋でなければならぬ。愛せらるる事を専門にするものと、愛する事のみを念頭に置くものとが、春風の吹き回しで、旨い潮の満干で、はたりと天地の前に行き逢った時、この変則の愛は成就するのかも知れぬ。
 
 ♪「「心躍る瞬間、詰め込んで」」
 ♪「「キラキラ光る、思い出のスパイス」」
  (Hey, Hey!)
 ♪「あれもこれも、盛り込んじゃおう」
 ♪「カラフルな思い出 キミと見たい」

 (――私がスクールアイドルを続けられているのは、応援してくれている皆のおかげ。それを、この曲を通して感じる。ほんとに、ありがとね。私について来てくれる限り、私は皆を全力で楽しませて、最高の夢を見せてあげるからさ!藤島慈の手をギュッと握って離さないでよね!行こうね?一緒に。この世界のてっぺんへ!愛してるぞ☆)
 我を立てて恋をするのは、火事頭巾を被って、甘酒を飲むようなものである。――それでもあたしは、きょう、調子がいい。使命が友情を熱くするならば、恋は凡てを溶かす。角張った絵紙鳶も飴細工であるからは必ず流れ出す。我は愛の水に浸して、三日三晩の長きに渉ってもふやける気色を見せぬ。どこまでも堅く控えている。我を立てて恋をするものは氷砂糖である。

 ♪「笑顔が広がる」
 ♪「夢の続きを」
 ♪「「みんなで作る、ハッピーな宝箱!」」
 
 沙翁は女を評して脆きは汝が名なりと言った。脆きが中に我を通すと昂れる恋は、炊ぎたる飯の柔らかきに御影の砂を振り敷いて、心を許す奥歯をがりがりと寒からしむ。噛み締めるものに護謨の弾力がなくては無事には行かぬ。我の忘れた百合亜は、運命に恋をするために我のない〈スクールアイドル〉の概念そのものを択んだ。蜘蛛の囲にかかる油蝉はかかっても暴れて行かぬ。時によると網を破って逃げる事がある。一人の生娘を捕るは容易である。然し夢見る少女の運命を馴らすのは彼女と雖も困難である。我の女は顋で相図をすれば、すぐ来るものを喜ぶ。百合亜はすぐ来るのみならず、来る時は必ず夢の璧を懐に抱いて来る。夢にだも我を弄ぶの意思なくして、満腔の誠を捧げて我が玩具となるを栄誉と思う。彼を愛するの資格をわれに求むる事は露知らず、唯だ愛せらるべき資格を、我が眼に、我が眉に、我が唇に、扨ては我が才に認めて只管に渇仰する。百合亜の恋はスクールアイドルでなくてはならぬ。

 「カワイイの全力、受け止めてくれたかな♡」

 ――眼の縁にいっぱい愛嬌を漂わせてウィンクし、観客とカメラに向けてポーズを決めるスクールアイドルの姿。そもそも如何にして韻律がこの世に生れたか。何故におのれの詞が、彼女たちの言の葉が、ひいては運命が、――韻律と密接不離の関係にあるか。何故に我等が、――特に我等青春に苦しむ少年少女達が――韻律の心像を離れて人生を考え得ないか。いや、ほんとうは全て此等の理屈などはどうでもよいのだ。唯だ少女百合亜の知る限り、此所に示されたる事実は、――矢張この胸の高鳴りであった。

… 
……

 「ゆり。」
 「(両手で包み込む)ん。」
 「聞いてほしいな。ボクと、さちの音楽。」
 「ああ、聴かせてほしい。『スクールアイドル』として羽ばたいていく、君の旋律を。」
 
 熱烈なダンスパフォーマンスとでカッコイイ楽曲で劇場を魅せるクール系ユニット。さあ踊り続けよう、きみが、きみたちが見てるから――。

 「劇場を灯す紅蓮の炎と」
 「琥珀色の月光」
 「「DOLLCHESTRAです!!」」

 ―『入道雲を追いかけて』
  
 ♪「静かな街 夕日が沈む」
 ♪「影が伸びる 心が揺れる」
 ♪「「手を伸ばしても届かない」」

 (――DOLLCHESTRAというユニットは、劇場の名にふさわしく、舞台の上で人々に想いを伝える”居場所”そのもの‥‥‥。さちは、そう言ってた。そんな居場所に、ボクの色、さちの色、それに――ゆりの色も載せてみた。もし色が揃って終わりなら、揃いたくないよね、きみも。でも、これは別に、ボクが揃えられないわけじゃないんだ。不揃いでも、綺麗にまとまって四角いこのコがボクは好き。)
 ――スクールアイドルが果たして女子高生の三年賭けるべき事業とするに足るかどうかということに答える前に、先ずスクールアイドルとは如何なるものであるか、ということを明らかにしなければならぬ。スクールアイドルも見ように依って色々に見られるから、足るか足らぬかと争う前に、先ず相互の間にスクールアイドルとは斯くの如きものであると定めてかからねばなるまい。自分の語るスクールアイドルとはこういうものである、貴方の語るスクールアイドルとはそういうものか、では女子一生の事業とするに足るとか、足らないとか論ずべきであって、若し、相互の間にスクールアイドルとはこういうものであるということを定めてかからない以上、その議論はいつまで経っても終わることはない。それでは、スクールアイドルとは如何なるものぞとスクールアイドルの定義を下すということは、また、ちょっと難しいことで、とてもおいそれとそんな手早く出来ることではない。兎に角こういう問題は答えるに些っと答え難い。青年の夢そのものを前提として明らかにしてから言わねばならぬ。

 ♪「ひとり立ち尽くす 切ない思い出」
 ♪「冷たい風が 心を撫でる」
 ♪「「君の声が呼んでいる」」

 世界の時間が止まったような、感覚。親友と共に作り上げたこのバラードの歌詞が、確かに少女の心臓を震わせた。

 ♪「「入道雲を追いかけて」」
 ♪「「曖昧な未来に身を委ね」」
 ♪「「寂しさを抱きしめながら 触れる手のぬくもりを」」

 (――凄いことをしようって言う時は、そうできる気がしてる。でも今はそうじゃないんだ。実はね、できるんじゃない、凄いことをしたいっていう、気持ちなんだ。今までとは違う気持ち。でも、全然嫌じゃない気持ち。確かめたい。みんなに見てほしい。これがボクたち、DOLLCHESTRAなんだって。)
 それなら、百合亜にとってこれは明らかであるかどうかと言えば、あたしはこう答えるだろう。何人も満足せしめ得る程に明らかに自分は考えていないかも知れない、けれども自分を満足せしむるだけには、相当の考えを持って居る意である。その考えに依ってこの問題を判断するとどうかというと、例の如く面倒くさくなる。こうこうであるからして、あたしはスクールアイドルをもって女子一生の事業とするに足る、その理由を一々挙げて来なければならぬから、些っと手軽くは話されない。中々難しくなる。然しその理由は抜きにして、結論だけ言えというなら訳はなくなる。自分のスクールアイドルに対する考えに基づいてスクールアイドルというその天職を判断して見ると、世間に存在している如何なる立派なる夢を持って来て比較して見ても、それに劣るとは言えない。優るとは言えないかも知れないが、劣るとは言えない。

 ♪「希望の光、色褪せないで」

 夢見る少女の淡い感情を込めた声が会場に響き渡る。元来、スクールアイドルも一種の職業であると見れば、スクールアイドルが女子一生の事業とするに足らなくて、家庭が女子の事業であるとか、或いは政治が男子一生の事業でなくて、豆腐屋が男子一生の事業であるとか、第一〈夢〉の優劣ということがどういう標準をもって附けられるか、甚だ漠然たるもので、その標準を一つに限らない以上は、お互いに或る標準を打ち立てた上でなくては優劣は付くものでない。一般から標準を立てないで世の職業と職業とを比較するならば、総ての職業は皆同じで、その間に決して優劣は無い。職業ということは、それを手段として生活の目的を得ると云うことである。世の中に存在する所のあらゆる職業は、その職業に依って、その職業の主が食って行かれるということを証明して居る。即ち、食って行かれないものなら、それは職業として存在し得られない。食って行ければこそ、世の中に職業として存在して居るのである。食って行き得る職業ならば、その職業は、職業としての目的を達し得たものと認めなければならぬ。で、職業としての目的を達し得た点に於いて、あらゆる職業は平等で、優劣なぞのある道理はない。そういう意味で言えば、車夫も大工も同じく優劣はない訳である。その如く大工と文学者にもまた同じく優劣はない。また文学者も政治家も優劣はない。だから、若しスクールアイドルの職業が女子の一生の事業とするに足らぬというならば、家庭の職業もまた女子一生の事業とするに足らないとも言えるし、教育の職業も女子の一生の事業とするに足らぬとも言える。それをまた逆にして、若し、スクールアイドルの職業を女子一生の事業とするに足るというならば、大工も豆腐屋も下駄の歯入れ屋も女子一生の事業とするに足ると言っても差支えない。だって夢は、自由に開かれているべきなのだから。
 
 (――見つけた。見つけた。諦めてた。もう出会えないと思ってた。でも、ここがボクの居場所。もう閉じこもってなくていいんだ。)

 ――雀一羽落ちるにも天の配慮がある、とシェイクスピアは詠んだ。真に悩むべきを悩むところの人間にとっては、醜も美も文句はなく切実な日常が、そして友と、憧れの先輩とのあたたかな日常があるばかりである。こんな風俗のあったことをアイドルの面目上銀幕には映すわけにゆかぬが、どうにかして映さねばならぬと、さらば忘却されてしまうと嘆息していた百合亜の述懐も、いまは早や幽世の情である。舞台面は、映写機の廻転が停止したように、暫くのあいだヒッソリと静まり返ってしまった。静寂を再び割るのは歓声の雨、視線を奪われた少女に残されたのは、峻烈なる肉体の高揚のみ。顧みれば夢の如くである。

… 
……


 「「「はぁ、はぁ、はぁ‥‥‥。」」」
 歌唱後の息切れ、少女に特有な汗ばんだ肌の匂いと白い熱が口辺に漂う。少女達は微笑が洩れるおのれの表情を意識しながら、やり切った達成感と、昂奮とで、言葉が出なかった。唯だ、心の中では叫んでいた。夢のような時間はあっという間に過ぎ去り、スリーブブーケは新曲『明星讃歌』を、みらくらぱーく!も同じく新曲である『ダイスキの音色』を、DOLLCHESTRAは伝統曲の『Mirage Voyage』を披露し、締め括りとして伝統曲である『Legato』を四人で披露。大歓声の裡に愈々エンディングを迎えていた。百合亜は心臓に手を当てる――赤黒い血が、どくんどくんと、浪打ちつつ動いているのが解る。雷光のような轟が動悸を打つ。その動悸に脳漿が刺戟される。少女は何とない不安な眼でおのれの手元を見詰めた。何時の日か、こんな場面が自分の周囲にあったような二重写しを見るような気がした。綿のように疲れていながら、何か、それでも苦しくって度々早鐘を撞くような音が聞えて、徐に現実へと引き戻される。あたしは――おれは、まだ生きている。

 「――コミュニケーションが言葉だけだったら、どれだけ楽だったかなって思うよね。でも、言葉に出来ないものって、やっぱりあってさ。それは殆ど、届かない場所だったり、誰にもわからない場所にあったりする。そうしたものを、ああやって、確かめ合うんだ。やっぱり、すごいよね。スクールアイドルはさ。」
 アマリリス、この頬の紅を想う。麝香撫子、母の面影を憶うあの赤き花は英語でカーネーションというのは肉色の義で、その花の色によると説くが、もとはコロネイションといったので、昔、花冠にしたから冠という意味が正しき由。花の香が丁子の様だからイタリアではジロフリエル、英国で中世ジロフル、共に丁子花の義だ。チョーサーの詩などにある通り十四世紀頃専ら酒を匂わし、また料理にも高価の丁子に代用した。この花の砂糖漬は非常な強壮剤で、時々食へば心臓を安んじ、また熱疫を治すと聞く。石竹はもと瞿麦と別たず、日本でも撫子、または常夏はナデシコ属の諸種の総称だったかと聞くが、後には花びらの歯が細く裂けたを瞿麦、和名ナデシコ、常夏、細く裂けぬを石竹と日本では定めたという。清少納言に曰く、なでしこ、唐のは更なり大和もいとをかしとある通り、ナデシコは野山に自生多いから大和撫子、石竹は支那から入た故にカラナデシコという。金源三の歌に「もろこしの唐くれなゐにさきにけり、わが日の本の大和撫子」というのがあって、これは近代の秀歌なるけれど、定家卿が新勅撰集を編む時に曰く、我日本とはこの輩の口にすべきでない、この日本と直さば入れようといふと、一字でも直されてはいけない、且つ日本人はみな皇民なれば天子を我君といふ、この国に生れて我日本といはん事、其人を差別すべきでないと言い張って、直さず入れられなんだというのは、余程おもしろい。無闇にデモクラシーなど愛国など説く輩、我が日本に生れてこんな故事に盲らで外国の受売りのみするは、片腹どころか両腹痛いとここに書くと、二た月も立たぬ内に、きっと我が物顔に「金源三の平等観」など題して書立つる者が出る筈。それは盲が窃盗を働くのだ。されど、彼の肉体に両裏の道化を宿す少女にとっては、転生〈réincarnation〉との語源の一致こそ尤もらしくその身に覚えたに違いない。

 「――だから、さ。舞台の上で全身を使って表現しようとするのは、女の子同士の遊びっていうか、おしゃべりっていうか。そういう対話。歌もおんなじじゃないかな。上手とかじゃない。上手さを競うものでもない。自分の居場所を確かめるために。自分がここに居るのかを確かめるために、彼女たちは舞台に立つんだ。他にも、方法はあるだろうに。あるけど、あの子たちの場合は、スクールアイドルだったってだけで。」
 あたしは独り言を呟きながら、静かに瞑目した。おのれの裡で生温い風を切って円筒のようなものの中を一散に転落して行く気合は、はっきりと解るのであるが、一向奈落の底に達しないではないか――などと遠くに舞台少女の靴音を聞きながら考えていると、ふと眼蓋の裏がぼんやりと明るくなって来た。垂幕の周囲に氷柱のようなヒラヒラがついている古めかしい照明が不思議な色彩を点しているのだ。嗚呼、あたしは永い年月の間、田舎のうらぶれた村の書斎で、このランプを点し、このような眼つきをして、未だ見ぬ花やかな世界に憧れながら孤独の歌を歌い続けていたのだろう。あの、ランプではないか。少女は、破れかかった重く憂鬱な楽譜を本棚から取りあげると、皮のバンドを十文字に背中に結びつけて『奴隷の夢の歌』や『インディアンの嘆きの歌』を吟じた。そしてまた『七つの星の歌』や『錬金鍛冶屋の労働の歌』や『翼ある馬の歌』などを歌って情熱の空を駆け回った。嵐の晩となると『メフィストフェレスの登場歌』や『ジークフリート遠征の歌』を高唱して奇怪な幻と闘った。またあたしは『麦の兵隊』や『宮さん宮さん』を暗誦し、日常に潜む狂気と闘う意気に炎え、終には狭小の可見世界に居た堪れなくなって、四月の或る日、歓楽をもとめて蜂のように女学院へ登った。断末魔の瞬間には過去の様々な経験や人物を一時に思い返すという話であるが、あたしもこの時、いまにも息が止絶れてしまうかと思うと、そんな他愛もないランプの周囲に集った過去の様々な自分の憧れに満ちた表情が次々と現れては消えた。薄暗いランプの蔭で、おまけに飾りの氷柱がちかちかと光りを反射するので、表情の凹凸だけが暗闇の中に、明暗の線がくっきりと強い大写しになってぼんやりと浮び出るばかりであったが、いずれもあの暗い部屋に居たままの自分の姿だけである。それにしても様々な憧れに満ちた表情の動きは同じ顔かたちでありながら、何と底深く洞ろな相違に充ちていることであろう!‥‥‥などと感心しながらあたしは、いま床に打ち倒れてそんな夢を追っている自分の表情を想像した。おれは――少しは変わることができたのだろうか。彼女たちのステージのために、何かを成し得たのだろうか。

 「――眩しいな。」
 百合亜はステージの袖から舞台を覗いている、その視線の先には――挨拶を終えたスクールアイドル達がこちらに向かってくる。とりどりの四色の花弁があたしの滲んだ虹彩を散らすのを感じた。ああ、これが奇しき少女たちの煌めき――。

8

 卯辰山。ああこの山を仰ぐ、言い知らぬ胸騒ぎ――浅野川・犀川の織り成す里々町々を眺めて覚えた、いまの先の心とはすっかり違った胸の悸き。旅の少女は脇目も触らず、夕焼けの景色に見入っている。そうして、静かな思いの充ちて来る満悦を、深く覚えた。昔人は確実な表現を知らぬ。だが謂わば、――平野の里に感じた喜びは、過去生に向けてのものであり、いまこの瞬間山から空を仰ぎ見ての驚きは、未来世を思う心躍りだ、とも謂えよう。
 「おー、すっげーー!この季節に雨雲ひとつないじゃん。」
 「私たちの日頃の行いがいいから、だよ☆」
 「夕焼けが町並みを照らして‥‥‥いい眺めね。」
 「みんなが見えるね。」
 撫子祭ステージの余韻冷めやらぬ儘、スクールアイドルクラブの面々は金沢の市街を見下ろす丘の上に佇んでいた。夕陽を受けた甍の一射があたしの目を釘付けにする。金沢ぐらいの街になると、瓦ばかりでなく、屋根自身も美しい姿をしている。兼六公園から浅野川の方面を見下ろした眺めを、日本一の美しい街と激賞している文豪もあったと聞く。屋根の美しさであって、ごく普通の日本建築であるが、その本格的なものである。桂離宮や東照宮の話は別として、ごく当り前の日本建築で、その本格的なものを探すとしたら、案外北陸の民家の中に見つかるかもしれない。
 「諸君。観光気分なのもいいけど、きょうは遊びに来たわけじゃないんだぜぃ!」
 「もちろん。今後の抱負、ですな!」
 初夏六月、麦は枯れて夕陽に照らされても野外の緑はまだそれほど暑くるしくはない。羽化して空に舞いそうなあの四弁の紅白紫、とりどりに遠景近景の浅緑と映じあって、夢幻の如く好ましい水彩世界を生む。
 「沙知先輩。少し、よろしいでしょうか。」
 「?いいよ。どしたー?」
 小さく手を挙げたポニーテールの少女が先輩に尋ねた。それは流麗な舞踏の一区切りに相応しい所作。彼女の気品溢れる振舞、その釣りあいはこの季節そのものの肌触りのようで、微妙なものは壊れやすいだろう、花の命の短かいのもやむを得ないことかとさえ思われる。ローレライを思わしめるのも或いはそんな点であらうか。一茎に一花を捧げた美声もよく響いてきた。
 「皆さん。今回はたくさん迷惑をかけてしまって、ほんとうにごめんなさい。」
 梢が恭しく一礼する。少女たちは返事を見合せて口を緘じた。会話は少時途切れる。
 「でも、」
 感情の籠った呼吸音が聞こえたかと思うと、
 「――みんなのおかげで、私はひとりのスクールアイドルとして、蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブのメンバーとして、撫子祭のステージに立つことが出来た。」 
 車は例によって金沢の街を轟と走る。五人の世界は暫く赤く眩い逆光の中に揺られながら消えて行く。同時に未知なる星々の世界が、細長い夜を糸の如く灯して動く夕闇の下にゆっくりと顕れて来る。
 「みんなのおかげで、私はあの〈夢〉のステージに、踏み出すことが出来た。」
 十六にもなったばかり、肉の緊まったが女性的な体つきで、小麦色に照らされる肌、潤みのある深い双眸、朱の唇が艶やかに波を描いて、つつましく見上げる美しい表情、――百合亜は、自分の心音が大きくなっていくのを感じた。然しそれは、彼女の少女らしい魅力に見惚れていたというだけでは、たぶんなかった。梢はまず沙知の方に身体を向けて、
 「だから、沙知先輩。『スリーブブーケ』として私の隣に立ってくれて。ほんとうにありがとうございました。あなたの隣に立つことが出来て、私は、ほんとうに誇らしいです。」
 「‥‥‥ふふっ、ああ!いやー、こっちこそ!お疲れお疲れ!まさかこんなに楽しいステージになるとはねぃ。あたしも楽しませてもらったぜぃ!」
 一瞬照れくさそうな表情を浮かべた沙知は快活な声を出して梢の肩をばしばし叩く。そして同時に、軽く目線を上向かせていた。確かに、翻ってこの公演の意義を求めれば、蓮ノ空女学院文化祭の儀式的公演として十分重みもあり華やかでもあり、クラブの宣伝としては最も時宜に適し、その上、実際を観ると多少一般に受け容れられないところもあるにはあったかも知れないが、総じて真剣な舞台少女一同の煌めきによって、この舞台が、好事家にいろいろな感動を提供し、当人たちにとっては、思いがけない価値のあるスペクタクルを与えることに成功していることだろう。
 「百合亜も、ありがとう。あなたには、たくさん勇気を貰ったわ。」
 と、彼女があたしにも言及したので、少しびっくりして、
 「沙知さんのおかげだ。あたしも手伝った。一番頑張ったのはみんなだけどね。」
 こんなことを言うのにも台詞らしい抑揚を忘れなかった。でも、若し忌憚なく言うとすれば、この意味に於いてシェイクスピアの真の魅力はこれを既に現代の舞台に求めることは困難になりつつあるのかも知れない。欧洲諸国においてさえ然りである。二十一世紀を生きる少年少女たちは、あまりにも豊かな物質的環境とシミュレーション化された〈幸福感〉に酔い、幸福と幸福感そのものを同一視しがちだ。シミュレーションの幸福感が現実の非情とぶつかって崩壊し去った時の不幸を考えれば、豊かで幸福であることが幻想に他ならなかったと知った後でも尚、その幻想を維持、自足したいという願望が、夢見る青年たちの世界観にモラトリアムを引き起こしている。即ちそれを芸術論に敷衍すれば、たちえば、ハムレットの所謂〈演劇価値〉が再認識される前に、所謂〈現代演劇意識〉なるものの再批判が必要になって来ると言えるのだろう。

 「‥‥‥なんだか、夢でも見てるみたい。」
 夕風が少女たちの間を通り過ぎる。頬を搔きながら照れくささそうに呟く梢の姿は年相応のあどけない少女のものでしかなくて、先刻の興奮とは裏腹に百合亜を平静に戻らせたのだった。
 「梢。最初の最初はね、何もかも夢から生れるんだ。空を飛びたい。海の底を観たい。宇宙に行きたい。遠いあの星に辿り着きたい。あの舞台に立ちたい。あの人みたいに煌めきたい。」
 あたしは姉さんの後を追って、
 「夢を、ずっと思い続ける、それが夢を叶える第一歩。――ですよね、沙知さん!」  
 「そういうこと、だね!にひひっ。」
 明るい歓声が空に突き抜けて、美しき黄と淡紅の色彩を撒く。大賀美姉妹があどけなく笑い合うのを、梢は胸に手を当てながら見詰めていた。
 「ええ、ほんとうに‥‥‥そうだったみたい。ほんのちょっとの、勇気だけ。足りなかったものは、それだけだったのね。」
 焰の線を闇に渡して空を横に切るは屋根である。竪に切るは柱である。斜めに切るは甍である。朧の奥に星を埋めて、限りなき夜を薄黒く地均ししたる上に、稲妻の穂は一を引いて虚空を走った。二を引いて上から落ちて来た。卍を描いて花火の如く地に近く廻転した。最後に穂先を逆に返して城下の真中を貫けとばかり抛げ上げた。かくして塔は棟に入り、棟は床に連なって、燃ゆる天辺際の、此方から見渡す向を、右から左へ隙間なく埋めて、大いなる黄金の絵図面が出来た。藍を含む黒塗に、色彩を惜まぬ高蒔絵は堂を描き、楼を描き、廻廊を描き、曲欄を描き、円塔方柱の数々を描き尽して、なお余りある金色の町を是非に用い切らんがために、描ける上を往きつ戻りつする。縦横に空を走るの線は、一点一画を乱すことなく整然として一点一画のうちに活きている。我が心臓は、動いている。而も明らかに動いて、動く限りは形を崩す気色が見えぬ空。

 「生真面目で、頑固。一対一で向き合わなければ、本当の音楽にたどり着くことはできないと思っていた。それはきっと、他人に興味がなかったというよりは――」
 「――ちょっとだけ、余裕がなかったってだけ。わかるよ。自分自身が理想に手を伸ばすために精一杯で。周りがどんな気持ちでいるのかなんて、二の次だった。これは、あたしだってそう。」
 目を瞑って、頷いて、優しく独り言を囁いた彼女を見た。艶めくポニーテールが流れる風景は夕日に萌えて栄えている。泣いているが、鮮やかである。寂しいが、麗しい。あたしは友の潤んだ瞳を見据えて思わず口を挟んだ。
 「でもさ。ライバルだけど、仲間なんだから。お互いが迷惑をかけ合うこともあるけど、それが、あたしたちを成長させてくれる。それに君は、悩んで、苦しんで、頑張って、そうして一歩を踏み出した。みんな、梢の気持ちはわかってるつもりだよ。」
 と、熱心に語り続ける。耳を傾ける三人も柔らかな表情を見せている。
 「‥‥‥そう、なのね。‥‥‥もちろん私も、怖かったわ。自分の気持ちを誰かに伝えるとき、新しいことを始めるときは、いつだって。でもね、もう大丈夫。私は、夢のための一歩を、少しずつ進めているから。それに今は、ひとりじゃないから。」
 蛾が燈火を慕って飛んで来るように、人間もまた、こんな情熱的な夕陽には、蝋燭の貧しげな光でも懐かしく、吸い寄せられて来るのかも知れない、と、あたしは思った。めぐちゃんと綴理も眼を見合わせて嬉しそうにしている。
 「ねー。」
 「ね。うふふっ。」
 余裕たっぷりに片目を瞑った百合亜を認めると、あたしたちは相好を崩して微笑を洩らした。春宵一刻直千金、花に清香有り月に陰有り。此処に有るのは梢の先まで芯の変わらぬ松の若木、――そういえば一本松という名所が、正しくこの金沢、卯辰山の端にあって、霞を絡い、霧を吸い、月影に姿を開き、雨夜の闇にも灯し一つ、百万石の昔より往来の旅人に袖をあげさせ、手を翳させたものだった、が、今はない。‥‥‥という泉の文章を想い出したが、終ぞ作品名は出て来なかった。

 「だからね、スクールアイドル活動だって、立派な芸術。音楽なんだって。そうわかってもらえば、いつかはきっと私は――私自身を認められるはずだから。それなら私は、好きなことを、ただひたむきに続けていけばいい。」
 「うん。不完全でも熱を帯びた芸術。スクールアイドルは、ボクたちみんなで作り上げていくものだから。」
 「そういうこと。そう思うんなら、梢自身も笑顔じゃなくっちゃね☆」
 綴理も慈も二人に倣うように笑った。それは夏を待つ一面の向日葵畑。燦々と注ぐ陽光に青春を輝かせる少女達の瞳は、煌き、輝いていた。
 「ええ、そうね‥‥‥ん、んっ!だから、綴理も、慈も。ほんとうにありがとう。あなたたちと同じスクールアイドルクラブに居られれて、一緒にステージに立てて、よかった‥‥‥。」
 少女は、はにかむような笑顔で迎えた。
 「梢‥‥‥。」
 「こず‥‥‥。」
 
 「‥‥‥ああ、これかぁ。ははっ‥‥‥!」
 自然に笑い合う三人のともだちを前にして、女のような細い甲高い声を漏らした少女百合亜は、宵闇に吸われゆく天を仰ぎ赤濁りに濁った眼を糸みたいに細くし顏中をくしゃくしゃにしてして笑ってみせた。何処やらで夕鴉が唖々と鳴き出した。未完全なる道化師の行末は如何なるのであろう?何処に落ちつく我が友情の運命であろう?斯くの如く悩みは尽きないのだけれど、――あたしは、一つの結論に辿り着いた気がする。JKとは心のありようである、と。永遠の女性的なるもの、我らを高みへ引き上げてゆく、ああ、この日常こそが天使の表情だ‥‥‥!

 「うんうん、ほんとにいい景色だねぃ。‥‥‥後輩たちが、こうやって成長して、巣立っていく。先輩方の観た景色も、こんなかんじだったのかな。」
 卯辰山に夏鶯音を入れつつ、 寺町の青葉に目白鳴く。懐かしき御堂の松翠愈々深く、浅野川の浪穏やかして、白山の姫神は白粉を解く。そよそよと風の渡る一刻、夕涼みに撫子はまだ早い。山百合は香を留めつ、月見草は露ながら多くは夕靄に囲われる。この山に野の花は少ないけれど、――沙知はぐっとその華奢な拳を握り締め、幽かな溜息を洩らしていた。あたしも、いまが消えないうちに夢を見たい、――同じように彼女も沈思していたのである。

 「‥‥‥ほんとうにいい景色ですね、姉さん。」
 「百合亜。ああ‥‥‥そうだねぃ。」
 みどりの枝を通す夕日を前に、暮れんとする晩春の蒼黒く甍を彩る中に、楚然として織り出されたる少女の顔は、――花下に百合亜を驚かし、夢幻に百合亜を驚ろかし、振れるスカートに百合亜を驚かし、お日様みたいな笑顔でにあたしを驚かし続けてきた、憧れの少女の顔である。余が視線は、麗しき顔の真中にぐさと釘付にされたぎりぴたりと動かない。少女もしなやかなる体躯を伸せるだけ伸して、耳にかかった髪を上げた後には一指も動かさずに立っている。この一刹那、二人の半年間の付き合いの中で初めて見せる表情で、言うのである。
 「ねぇ、百合亜‥‥‥あたしはさ、ステージが終わった後の時間が好きなんだよね。応援してくれる人たちみんなと一緒の時間を過ごせることもそうだし、そのあとに『終わったー!』って力が抜けるのも。曲も衣装も、綺麗で可愛くて楽しくて。その、一時間にも満たないステージのために『あたしはこんなに頑張って来たんだ』って思う瞬間も、一緒にステージを作り上げた仲間と一緒に、その感動を分かち合うのも――」
 「――その気持ち。すっごくわかるよ。」
 「――え?」
 あたしは覚えず声を上げた。姉はひらりと身をひねる。瞳の間に椿の花の如く赤いものがちらついたと思ったら、我が声はすでに向こうへ飛び下りた。夕日はここで地平線を掠めて、幽かに世界を飴色を染める。熊笹はいよいよ青い。また、驚かされた。
 「あたしは、ステージには立たないけどさ。ライブが終わって、お片付けをしている時にね、思っちゃったんだ。さっきまでみんながライブをしていた場所が、ポツンと世界に取り残されちゃったみたいで。そこにはもう、みんなも、〈百合亜〉も居ない。いつか過ぎ去って、忘れられて、消えてしまう。あたしはそこに自分自身を重ねて寂しくなる。だから――」
 すると彼女が同じ調子で付け加えてくれた。
 「――だから。もう一回、一緒にライブをしたくなったんだ。あの子たちにもそう言ってやりたいし、たぶん、先輩たちにもそう言った気がする。でも、何回やっても。あたしの気持ちは収まらなかった。だからさ、約束したんだ。またここでやるね、って。今日も約束するよ。あたしはまた、ここで。キミたちと一緒に、やるよ。」
 「また、ね‥‥‥。」
 太陽が、眩しい。自分の胸に手を当てた。そうだ――あの時まで、唯だ漠然と生きてきたおれには、あの人の笑顔は、あまりにも強烈で刺激的だったのだ。そして、少し考え込んだ後、あたしは再び口を開いた。
 「ほんとうに、そう‥‥‥あたしも、スクールアイドルのことになると、どうも不思議な気持ちになっちゃう。もうびっくり、ほんとうにびっくりで、こんなにびっくりしたことはないくらいにびっくりしたことにまたびっくりで、もう、言葉にならないくらい。‥‥‥だから、かな。」
 「?」
 道化師。青春の過渡期の道化師。あたしも、きっとそれなのだろう。青春はいったい何処で行われているのだろう?少なくとも、あたしの身の周りに於いては、古い道徳や人情はやっぱりそのまま、微塵も変らず、おれの行く手を遮っているようだ。海の表面の波は何やら騒いでいても、その底の海水は、泡沫を浮かべるどころか、身動ぎもせず、狸寝入りで寝そべっているのだから。寧ろ悪意を湛えた眼つきでぎっと睨みつけてくることさえある。けれどもあたしは、これまでの第一回戦では、古い道徳のしがらみと人情の悪性を僅かながら押しのけ得たと思っている。そうして今度、生れた夢と友情と共に、第二回戦、第三回戦を戦うつもりでいる。でも、あたしにこんな芥子粒ほどの強さを与えて下さったのは、あなたです。あたしの胸に、青春の虹を見せて下さったのはあなたです。生きる目標を与えて下さったのは、あなたです。あたしは、右手を伸ばして、
 「きょうのステージでさ。あの三人がさ、ステージの上で煌めくお星さまみたいに見えたんだよ。すっごく、綺麗だった。」
 「お星さま、か。なるほど、なるほどねぃ。」
 雲はくるくる日は銀の盤、これもぜんぶ、気候のせいだ、自分でも思いがけない言葉が出た。けれどもあたしは、悩ましき青春の日々とどこまでも争い、あなたみたいに、太陽のように生きるつもりなのだ。どうか、あなたも、あなたの闘いを闘い続けてほしい。革命は、まだ、ちっとも、何も、行われていない。もっと、もっと、いくつもの惜しい貴い犠牲が必要のようだ。青春を生きる少年少女たちにとって、いちばん美しいのは、犠牲を恐れない勇気。それならあたしは、心の悪い方を捨てよう。そして、もう一方の清い方だけで生きるのだ。
 「‥‥‥お星さま、ね。『蓮ノ大三角』、だねぃ。にひひっ!」
 「ふふっ、なにそれーー!あっはははっ!」
 沙知さんがあたしの好きな笑顔を見せてくれたから、あたしも自然と笑顔が出た。
 「ちょっと、そこー?二人でなーに楽しそうに話してんのさー?」
 腰に手を当てためぐちゃんが揶揄うように聞いてきたので、
 「ううん、なんでもない!綺麗な景色だなって、思っただけ!」
 と、百合亜は大仰な身振り手振りを交えて答えた。「さて」と言葉を継いだ沙知さんは、
 「うーん、よぉっしゃー!夕陽に向かって叫ぶぞぉー!!あたしはーーー、みんなと一緒にーーー、もっと楽しいステージをつくることーーー!!!」
 姫彼岸花を三千世界に咲かせる少女はその想いを天に届ける。
 「私はもちろん、ラブライブ!優勝!」 
 翡翠葛に魅せられた少女は情熱的な夢を忘れずに友と共に刻み直す。
 「ボクは『スクールアイドル』になることかな。蓮ノ空さいきょー。」
 寒緋桃をも虜にしてしまう少女は羨望と憧憬の中にその夢を呟く。
 「私は、無敵のスクールアイドルになって、世界中を夢中にさせてやること!」
 鈴蘭水仙に奏でられた少女は愛嬌を帯びた声色の中に確かな決意を残陽へ耀かせる。
 「あたしは――」
 騎士星花を約束に翳した少女はごくりと息を吞んだ。真に優れた創作物は人の心を動かす。人間の禍福は愚かにして料り難く世上の風波は老いても禁ぜず、あの時の暑さも、苦しさも、遣る瀬なさも、動悸の音も、灼けつくような照明も、今から思えば悉くが懐かしい。あの時の白い土の色、眩ゆい木々の緑、水っぽい料理の味、生気を欠いた女の物腰、立居振舞、言葉遣い等も、今では何物にも優る魅力をもってあたしを惹きつける。嗚呼、流水変ずること幾度ぞ。百合亜の使命、百合亜の生活も、揚々此処まで辿り着いたという感じがする。赫々と燃える夕焼けは彼女を迎える次の季節の門のようで、同時にそれは或るものからの別離を示しているように思えた。だが、少女百合亜は過去を考えていたのではなかった。未来に向って急いでいる現在だけがあった。まる三ヶ月の動乱が過ぎたその年、十五歳の蓮太郎少年に、毎日は彼が追いつくよりも早く過ぎて行った。姉から仕立てられた清涼な感じの学生服は肱と背が擦れて光り、彼はいつも悩んでいたが、然しその惨めさのなかで疲れていたのではなかった。彼は、あの時から変わらず、唯だ急いでいた。毎日、越えなければならぬものばかりがあり、越えた向こうに何があるかなどは、真に考えたことなんてなかった。百合亜は、唯だ急いでいた。
 五人横並びになって手を繋ぎ、それを大きく天に掲げた。そしてあたしは、大きく息を吸い込み、叫んだ。

 「みーんーなーーー!大好きだーーー!!」

 あたしは学園生活のことに返って、こんなことを考えていた。空は赤を、来る夏は青をこんなにも深く感じられるのに、自分は何故こうも不安なのだろう。いや成程、教養と表現することとは別の物であるかも知れない。旋律を作ることや歌詞を生み出すということが芸術であるとするならば、文字を書くということも一つの才能であるかも知れない。それに、旧い技巧や形式を捨てることが却って人を拘らせる場合もあるかも知れない。実際、あたしはこの場に於いて、こんな子供じみた、あんな在り来たりな言葉を吐き捨てる他に無かったのだから。然し大きな言葉を知ると共に小さな言葉を知って、その秘訣を掴んだのなら、少なくとも生きた詞〈ことば〉を書き得るであろう、と。現代のインターネットの口に上る合言葉、旧メディアの中に見つける新語、書物の中に出て来る学問上の術語、それらの多くは大きな言葉である。あたしたちが現に口にしていながら、それに気が付かずにいるような、それらの親しみもあれば、陰影もある日常の使用語の多くは小さな言葉である。筆を執り物書くほどの者は、いずれもこの小さな言葉をおろそかにしない。福澤翁はあの通り明治初年の頃に文明論を書いた人であるが、あれほどの論文も大きな言葉ばかりでは書かなかったと思わざるを得ない。
 此処に昔の人の書いた好い手紙の一節がある。大きな言葉ばかりであたしたちの心が訴えられないことは、この手紙の一節を味わって見てもわかるのではないか。「……松茸御所柿は心のまゝに喰ひちらし、今は念おもひの殘るものなしと、暮秋二十八日より三十二日目に武江深川に至り候。盤子につかはされ候御返翰は、熱田は人々取り込み候へば、封のまゝにて岡崎まで持ち參り候て、窓の破れより風吹き入り、戸の透間より月泄りかゝれる、いをの油のなまぐさきよごれ行燈の前にて、御文まづ開く。泪なみだ、紙面にそゝり候。」手紙も、ノートも、こんな風に書けたら、どんなに楽しかろう。そして、こんなに真情が直敍されたなら、物書くその事が直ちにあたしたちの心を満たすことであろうとも思われる。
 新しい時代の歩みはいまのところ激しく移り動いて底止するところを知らない。この趨勢はあたしたちの日常生活から娯樂や運動の上に及び、通信交通の機関を換えるばかりでなく、印刷出版の面目をも改め、青春を駆け抜ける少年少女達の精神生活を悩ませつつある。衣に、食に、住に、今日ほど新旧のものがめまぐるしく入り乱れている時代も珍しい。急激に時世後れになって行く古い習慣がある。眼前には廃れて行く古くからの風俗がある。誰もがこの光景を目撃しながら、その感知したところのものを容易に言い表せないままで居る。そこで要領の良い人達があって、或いは科学の浸潤、或いは機械の発達、或いは国際関係の激変、或いは――生々しい女学生等の一挙手一投足、その他種々な言葉をもって、その光景をあたしたちに指摘して見せてくれる。いずれにせよ、我われはこのめまぐるしい時代に處して、一方には近代的な施設を受け容れ、一方にはテンポの速さに応じて行かねばならぬ。これは、一種の洪水だ。世界的の氾濫だ。こんな時に行き悩むもののあるのは寧ろ当然で、それを見て嘲笑の声を浴びせかけるのは、無情と言わねばならない。

 文字の中でも殊に小説は、錯雑なる人生の一側面を写すものという。一側面猶且つ単純ではないが、然し写して神に入るときは、事物の紛糾乱雑なるものを綜合して一の哲理を数うるに足るものだ。エリオットの小説を読めば天性の悪人が存在しないことを知る。また、罪を犯すものの恕すべくして且つ憐れむべきを知る。一挙手一投足我が運命に関係あることを知る。或いはサッカレーを読んで正直なるものの馬鹿らしきを知る。狡猾奸佞なるものの世に珍重せらるべきを知る。ブロンテ女史を読んで人間に感応のあることを知る。蓋し小説に境遇を叙するもの、品性を写すもの、心理上の解剖を試みるもの、直覚的に人世を観破するものがあって、四者各々その方面に向かってあたしに教える所は無数にあるのだけれど、然れども人生は心理的解剖をもって終結するものでもなければ、また直覚をもって観破し了すべきものでもない。あたしは人生に於いてこれら以外に、一種不可思議のものあるべきを信じている。所謂「不可思議」とはマクベスの眼前に現れた幽霊ではなくて、少女百合亜自身が手を振り目を揺かして、而もその何の故に手を振り目を揺かすかを知らず、因果の大法を蔑ろにし、自己の意思を離れ、卒然として起こり、墓地に来るものを謂うのだ。世俗ではこれを名付けて「狂気」と呼ぶのだろう。狂気と呼ぶ固より不可なし、しかしながらこの種の所為を目して狂気となす者は、他人に対して斯かる不敬の称号を呈するに先だって、おのれらがかつて狂気したことのあるを自認していないのであろう。人間は何時でも狂気し得る資格を有する動物に過ぎないことを承知していないのであろう。人豈に自ら知らざらんや、これはたしか石勒の語録だったかと思うが、兎角人間は自ら知らば固より文句は無い。他人を指さして馬鹿と言う、これはおのれが利口なりと自覚する時に於いて発するの批評であって、おのれもまた何時にても馬鹿の仲間入りをするに充分なる可能力を具備するに気が付かぬ者の批評である。局に当たる者は迷う、傍観するものは嗤う。而も傍観者必ずしも棊を能くせざるを如何せん、自ら知るの明あるもの少なしとは世間にても言うことだ。
 ならばあたしは此処に、人間に自知の明なきことを断言したい。これをポーに聞くと、曰く、功名眼前にあり、人々何ぞ直ちに自己の胸臆を叙して思ひの儘を言わざる、されど人ありて思いの儘を書かんとして筆を執れば、筆忽ち禿し、紙を展れば紙忽ち縮む。芳声嘉誉の手に唾して得らるべきを知りながら、何人も躊躇して果たさざるは是が為なり、と。人豈に自ら知らざらんや、彼の文豪の言を反覆熟読すれば、我がこの駄文も思想半ばに過ぎぬのだろう。蓋し人は夢を見るものだ。それもまた、思いもよらぬ夢を見るものなのだ。覚めて後冷汗背に洽く、茫然自失することも屡々。夢ならば、と一笑に附し去るものは、一を知つて二を知らぬ者だ。夢は必ずしも夜中臥床の上にのみ見舞いに来るものではない。青天にも白日にも来て、道化を気取る大道の真中にも来て、衣冠束帯の折だに容赦なく闥を排して闖入する。機微の際忽然として吾人を愧死せしめて、その来るところは固より知り得べからず、その去るところは一層尋ね難い。而も少年少女の真相は半ばこの夢中にあって隠約たるものだ。自己の真相を発揮するというのは即ち名誉を得る捷径にして、この捷径に従うのを卑怯とする人類にとっては無上の難関だ。願わくば――人豈に自ら知らざらんや、知は偉大なり。おのれを知り、運命を悟り、使命のために気を張ろうじゃないか。嗚呼、如露亦如電應作如是閑、南無南無‥‥‥。
 けれども、百合亜がスクールアイドルノートのために筆を執り、柄にもないオシャレや作曲にまで精を出すのは、夢のために、あたしは、或いは姉のために、或いは友のために、或いは――自らの初めての居場所を守るために、自分勝手に苦労して舞い上がっておるに過ぎないのだ。いまでも愛を忘れられず、他人を嘲えず、自分だけを、ときたま嗤っておる。然し、認められない努力は何時まで経っても努力ではないのだ。二十一世紀ではこれを自己満足と謂う。そのうちにわるい文学ははたと読まれなくなる。民衆という混沌の怪物は、その点、正確である。きわだってすぐれたる作品を書き、わがことおわれりと、晴耕雨読、その日その日を生きておる佳い作家もある。かつて祝福されたる人。ダンテの地獄篇を経て、天国篇まで味わうことのできた人。また、ファウストのメフィストだけを気取り、グレートヒェンの存在をさえ忘れている復讐の作家もある。あたしには、どちらとも審判できないのであるが、これだけは、いい得る。窓ひらく。好人物の夫婦。出世。蜜柑。青い春。結婚まで。鯉。あすなろう。等々。生きていることへの感謝の念でいっぱいの歌詞〈ことば〉こそ、不滅のものを持っているはずだ、と。
 
 だから、きょうは。この瞬間は――この手を繋ぐぬくもりだけで、ありがたくて、十分なのだ。戸惑う我らをのせて廻る宇宙は、譬えてみれば幻の走馬燈だ。日の燈火を中にして廻るは空の輪台、我らはその上を走りすぎる影絵。無いものにも掌の中の風があり、在るものには崩壊と不足しかない。授業の予習のこと、化粧とオシャレが身に付いてきたこと、友情のこと、ライブで唸った情熱のこと、理事会のこと、れいの女性恐怖のこと、明日の弁当のメニューのこと、上履きのこと、使命のこと、道化のこと。考えなければならないことは星の数ほどあるけれど、無いかと思えば、凡てのものが在り、在るかと見れば、凡てのものが無い。世に生れて来た徴に何があるか?生きた生命の結果として何が残るか?饗宴の燭となってもやがて消え果て、ジャムの酒盃となってもやがては砕ける。――きょうくらいは、少しだけ、細やかな幸せを享受しようじゃないか。嗤いたい者があれば嗤え、虐げたければ受けて立とう。あたしはまだ〈大賀美百合亜〉を演じたい。おれは、憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しみたいのだから。

 荷風香気を送り、竹露清響を滴らしむ。蓮ノ空の水の色が、梅雨に濡れた後、やがて夏雲を映すようになった。

天華恋墜 第七章:誰が為の大和撫子 


 さらでも凄き月の夜に――。

天華恋墜 第八章:
蓮ノ大三角 

続く。 

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