天華恋墜 第五章:月に寄りそうスクールアイドルの作法【蓮ノ空二次創作】
人を信ずることは人を救う
かなり不良性のあったわたくしを
あなたは頭から信じてかかった
いきなり内懐に飛びこまれて
わたくしは自分の不良性を失った
わたくし自身も知らない何ものかが
こんな自分の中にあることを知らされて
わたくしはたじろいだ
天華恋墜 第五章:
月に寄りそうスクールアイドルの作法
1
…
……
「ねえ、お母様!私、スクールアイドルになるわ!ほら、素敵でしょう?ラブライブ!っていうのよ。あの子たちみたいに――私も、ぜったいに、優勝してみせるんだから!」
あの日、私は魅了されてしまった。
紫色の柔らかな長髪をストレートでのばした少女は、愛くるしいワンピースに身を包み、モニターに映る九人のスクールアイドルたちの晴れ舞台を眺めていた。決してきらびやかではない衣装に、流儀のカケラもないステップ。ステージから降りて見ればただの素人だし、お世辞にも上手いとは言えない歌声なのに。それでも、そんなパフォーマンスが私の心を激しく揺さぶった。まさに魔法としか言い様がなかった。たった一度見ただけなのに、瞼の奥に焼き付いて離れないあの光景は、いまでもしっかりとこの掌に情熱として宿っている。そう、私が習ってきたどんな音楽とも、芸術とも違う、等身大の少女達の不完全な情熱。自分の身体ひとつで見てくれる人を魅了する。その姿が、とても麗しく焼きついて、こんな芸術もあるんだ、って感動したの。輝けるステージで踊り歌う少女たち。唯だ純粋に、自分自身の好きなことをする為に。仲間と共に努力し、競い合い、高め合っていく。ああ、なんて――、なんて羨ましいの!
品行方正学術優等。これが私の小学・中学時代全幅を語る。由緒ある音楽家の一家の一人娘に生まれ、両親からの愛情を注がれ、確かに恵まれた人生を過ごしてきたと思う。でもね、私のお人形だらけの部屋なんかよりも、もっともっとキラキラと耀いているスクールアイドルのステージを目の当たりにしてしまっては、もう、私も憧れずにはいられなかった。いままで自分に言い訳をして「好き」から逃げていた私自身とは正反対の生き方に、羨ましさすら感じたから。とびっきり可愛いお洋服を身に纏って、煌めく銀幕の上で眩いばかりの笑顔を振りまくスクールアイドルたちに!私もああなりたいと願ったの。輝きを求めて仲間と共に駆けていく少女たちの姿に、突き動かされてしまった。その為ならどんなことだってできる気がした。廃校を救うスクールアイドル。未来に希望を馳せ、真っ直ぐに駆けていく少女たちの眩い姿。彼女たちみたいになれたら、私も――。
ねえ、人間の記憶は不思議なものね。私は唯だこうしてあなたと話していながら、むかし一人の少女が夢みた記憶を頭に思い描いている。私立蓮ノ空女学院――、これが私の十年間待ち焦がれた行先だったのよ。生れて初めてお父様とお母様に意見した。私は、諦められなかった。どうしてもやりたかった。だから必死に説得したのを覚えているわ。両親の反対を押し切っても、私はスクールアイドルになりたかった。スクールアイドルになったら、何をしようかって、子供の頃からぼんやりと夢をみていたの。毎日いっぱい練習して、メンバーの仲間と一緒に汗を流す。素敵な衣装に身を包んで、きらびやかなステージに立つ。全てが報われる瞬間がやってくる。可憐な歌声も、リズミカルなステップも、目映いばかりの笑顔も――あの時の私には無いものをたくさん備えた少女たちに魅せられて。そんな思いが止め処なく溢れて来る。この、伝統ある蓮ノ空女学院で、スクールアイドルクラブの一員として、ラブライブ!優勝という夢を叶えたい。私ね、ずっとドキドキしているのよ。そうね、あなたともこうして手を取り合えたら。夢も、ほら、夢じゃなくなるでしょ――?
斗大の明星は爛として無数に煌めき、長天の一月は林梢に落つ。忙、閑、ともに間一髪。母校となったその学園には盛春の微陽が射し、雪溶けの滴の音が絶えず私の動悸と共鳴する。ほかほかと肌を照らす春の陽に、とろりと酔ったような顔色で、あなたには長閑にも太陽みたいな笑顔を見せてくれる。学院の背後を走る山々の尾根の通路を吹き抜ける温い風はここでは感じられなかったけれど、それでも尚幽かな水音や鳴声さえもが、夢幻泡影を込めた放縦な音調を呈していた。
2
…
……
四月二十二日。金曜日、蓮ノ湖の水辺の葭が始めて生ずる頃。きょうは晴れ、といっても、日本晴れではない。だいたい晴れ、というようなところだ。四月末のFes×LIVEに向けて、蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ一同の練習も佳境に差し掛かっていた。そんな部活動の一幕、来る五月の薫風のような爽やかな、そのくせ言いようもなく可愛らしく、幽玄で、麗しい鈴の音色が、あたしの耳もとに囁やくのだ。
♪「どこだって行けるよね せーのでこの壁を壊して」
人間の声帯で作られる肉声の美しさを、あたしは彼女の声から初めて知ったような気分さえしたのだ。それは甘えるような訴えるような、言いようもなく複雑な感情を盛った声であるが、声そのものは純粋で澄明で、血管に注ぎ込まれた点滴のように、あたしの五臓六腑に沁み込んで行く。鵞鳥の耳には鵞鳥の声が最も美しく、人間の耳には、人間の声が一番美しかるべき筈。鴬の啼くのも、蚯蚓の歌うのも、それぞれの異性を呼ぶ唯一絶対の美しい声であるのに、人間だけは生活の為と言い乍らドスを利かせたり、後輩に怒号したり、選挙演説で喚き立てなければならぬとは、なんという浅ましいことだろうか!おそらく数十万年前の人間の声は、異性を呼ぶ時と、異性と争う用事の外には殆ど必要のないものだったに違いないと考えてしまう。偶々その間歇遺伝が、あたしの眼前に謳う少女に宿っているから、外見は兎も角、精神は未だ異性なる百合亜の耳に、迦陵頻伽と響いたのかも知らぬ。
♪「透明なその欠片に 乱反射する光 キラキラ輝いてる それは未来」
そう、迦陵頻伽の囀り。乙宗梢ちゃんの歌声は斯くの如く形容するに相応しい、或いはローレライの妖艶さを纏っていた。鳥の啼く音も、啼くところ聴くところによって違う。また、人の心によっても違う。この驚くべき事実は、もはや一点の疑う余地もない。音楽の教科書には書き洩らしてあるけれども、少年少女の心には定めて迦陵頻伽や孔雀や鸚鵡が囀って居るのであろう。硨磲碼碯の楼閣や、金銀赤珠の階道が築かれて居るのであろう。忽ち瑠璃光に焼かれた百合亜の眼の前には、御伽噺にあるような素晴らしい空想の世界が描き出されたのであった。それほど楽しい世界へ降りて行くことが、何故悟道の妨げになるのであろう?何故悩み深き青年は、その世界を卑しみ、その世界から自分自身を遠ざけようとするのであろう?激情的ではあるにしても、何処までも清らかで、闇の中に百合亜と摺れ摺れに腰を掛けている少女の歌声には、聊かの淫らがましさも無かった。百合亜は魅惑に打ち克とうとする前に、打ち克たなければならない理由を知りたかった。
「――梢ちゃん!スゴイ、凄いよ!声キレイだし、ハリもあって、のびやかで、もう、世界一上手だった!音楽のテストだったら満点通り越して百二十点だよ!!こんなのステージで披露しちゃったら、あたしの感動の涙で全蓮ノ空が湖に沈んじゃうよ!!!」
奏楽の止んだ時、百合亜は止み難い好奇心に充たされて梢に詰め寄った。
「あ、え、あの……ありが……」
梢はいきなり百合亜に接近されて吃驚して、語尾を濁らせながらも辛うじて御礼の言葉を絞り出そうとする。
「いやァー本当に凄かった!すごいね!スゴイしか出ないよ!泉鏡花に怒られそうだよ!」
その梢の当惑も省みず、昂奮のまま只管褒めちぎる百合亜である。別に首筋へ噛み付いてやるとかそういう気魄では微塵もないが、こう手放しで賞賛された経験のない少女には困る場面であろう。そこで沙知が横からフォローに入る。
「百合亜。まあ落ち着き給え。」
「すーはーすーはー。」
「こほん‥‥‥。ありがとう、百合亜さん。嬉しいわ。でも音程を外したところもあったから、ライブ本番までに直さないと‥‥‥。」
梢はにっこりと微笑して素直に謝辞を述べつつ、両手を振って謙遜した。まだまだ努力家の窺い知り得ない苦心を感じさせる結びであった。彼女は唯だ出来るのではない。資するところが多いから、あらゆる手数を尽して成功を待っているのだろう。
「いやいや、そんなに卑下することはないさ!あたしも今までいろんなスクールアイドルの歌を聴いてきたけど、乙宗ちゃんの声ほどドキドキさせられるものはないね!いやー、後輩ながら末恐ろしいよ!あたしも、うかうかしてられないねぃ。」
沙知は妹に同調し、彼女そっくりな満面の笑みで後輩を励ます。
「うんうん!大袈裟かも知れないけど、なんだか、流れ星みたいだった!」
と二人して囃し立てて大騒ぎするのだ。
「沙知先輩まで‥‥‥ありがとうございます。」
はにかむような微笑は魅力的だ。上品な琴の琴を想起させる彼女の独特な声色は、胸が躍るような豊かな響きやしっとりとした深い余韻の中に、そして彼女のスクールアイドルに対する真摯な情熱や純粋な喜びを随所に漲らせており、聴く者を全員を魅了するような優美な仕上がりに近づいているのを感じる。
沙知さんとはまた異なる類のお嬢様、高貴、とでも表現したら良いのかしら。あたしの周囲の女学生の中には、沙知さんは兎に角、あんな上品さに裏打ちされた「正直」な立居振舞の崩さない人は、一人もいなかった事だけは断言できる。たとえば、あれは梢ちゃんと一緒に学食へ行った時のことだ。スープの頂き方にしても、あたしなら、お皿の上に少し俯き、そうしてスプーンを横に持ってスープを掬い、スプーンを横にしたまま口元に運んで頂くのだけれども、梢ちゃんは左手のお指を軽くテーブルの縁にかけて、上体を屈めることも無く、お顔をしゃんと挙げて、お皿をろくに見もせずスプーンを横にしてさっと掬って、それから燕のようにとでも形容したいくらいに軽く鮮やかにスプーンをお口と直角になるように持ち運んで、スプーンの尖端から、スープをお唇の間に流し込むのである。そうして、無心そうにあちこち傍見などすることも無く、ひらりひらりと、まるで小さな翼のようにスプーンをあつかい、スープを一滴もお零しになることも無いし、吸う音もお皿の音も、ちっともお立てにならぬのだ。それは所謂有職故実に適った頂き方なのかは知らないけれども、あたしの目には、とても気品に溢れていて、それこそホンモノのお嬢様みたいに見えたものだ。また、事実、お飲物は、口に流し込むようにしていただいたほうが、不思議なくらいに美味しい。まあ、あたしは学食では味噌汁しか飲んだことが無いのだけれど。兎角あたしなどは恰も山猿に着物をきせたのではないかとも思われるような体で、姉さんからのお嬢様レッスンの甲斐も未だ実らず、彼女のようにあんなに軽く無雑作にスプーンをあやつる事が出来ず、仕方なく、諦めて、お皿の上に俯き、謂わば正式礼法通りの陰気な頂き方をしていたようだ。この前は「お下品だからやめんさい!」と幼馴染に鋭く指摘されたのだよ。されど思うにスープに限らず、百合亜の食事の頂き方は頗る礼法に外れている。お肉が出ると、ナイフとフォークで、さっさと全部小さく切り分けてしまって、それからナイフを捨て、フォークを右手に持ちかえ、その一切れ一切れをフォークに刺してゆっくり楽しそうに召し上がっていらっしゃる。骨付きのチキンなどは、あたしがお皿を鳴らさずに骨から肉を切りはなすのに苦心した結果、閃いたとばかりの平気な顔でひょいと指先で骨のところを摘まんで持ち上げ、お口で骨と肉をはなして澄まして頂いてしまう。「その仕草だと次の食事会には連れていけないねぃ。」と、姉からイキナリ要らない子宣言を受けてしまったのも昨日のことだ。そんな野蛮なる自然児少女の眼からも、梢ちゃんの作法を垣間見るに、可愛らしいばかりか、時にはへんにエロチックにさえ見えるのだから、流石にホンモノは違ったものである。
「我が親友よ。おむすびが、どうして美味しいのだか、知っていますか。あれはね、人間の指で握りしめて作るからですよ。明日の具は、おかかチーズにします。」
「そうなんだ~。ボク、パリパリの海苔よりペタペタな海苔の方が好きだなぁ。」
と、寝坊した時に弁当づくりが間に合わず、苦し紛れに綴理へ力説してみたこともある。おむすびはほんとうに手で食べたら美味しいのだが、それでも梢ちゃんみたいなホンモノのお嬢様は、下手に真似してそれをやったらそれこそホンモノの乞食の図になってしまいそうな気がするから、もしかしたら我慢しているのかも知れない。
「ワン、ツー、スリー、フォー。ファイブ、シックス、セブン、エイト。‥‥‥」
「はい、そこでターン!‥‥‥もう一回ポーズ!」
「(回転して、ポーズを決める梢)‥‥‥はいっ!」
翡翠色の少女へと話題を戻そう。軽快に身体を動かし、流れるような振り付けを披露。躍動する肉体の若さと美しさを、彼女は余す所なく表現して見せた。ダンスの練習の間にも梢ちゃんは清純で純粋な少女であったし、いつ終るともない音楽に対する情熱は彼女の溌剌とした生き様を現していた。何よりも一番大きな理由は姿勢だ。蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブのメンバーの中で誰よりも背筋がピンと伸び、まるで無駄を感じさせない動きの機微、可愛らしいにも係わらずダイナミックな印象を与えてくれる。その技術の素晴らしさは一朝一夕に身につくものではあるまい。
「――うんうん、ダンスもばっちりだねぃ。まだ数えるくらいしか合わせてないのに、よくあたしに合わせられるもんだ!」
「‥‥‥ふぅ。お褒めいただきありがとうございます、沙知先輩。でもここ、サビ前の入れ替わりのところ、もう一度確認してもいいですか?」
「あー、うんうん。どれどれ?――」
「‥‥‥。」
舞姫は額の髪を分けながら、綺麗に生え揃った眉を僅かに顰めてみせる。‥‥‥無論、乙宗梢のダンスが藤島慈や夕霧綴理に比して決して劣っているという訳ではないのだが、ふたりの前だと一歩たじろいだ足取りとなってしまうのは何故だろう?彼女自信が一番意識していることであろうからあたしは敢えて穿鑿しかねていたが、その華やかな姿態には何処か危ういものがあったのである。それは見事な身のこなしであると同時に、風の無い稲妻の様に、一瞬間に消え去ってしまいそうなものであったから。
実際百合亜にとっても、梢の魅力に惹かれるところは少なくなかった。無論十人並よりはひどく美人であるが、綴理ほどは国を傾かせる美しさではない。めぐちゃんほどは他人を魅了する愛嬌遣いも心得ていない。ところが、芸術と教養に鍛えられた彼女の立居振舞、身だしなみには流石に筋が通っている。背丈は百合亜より低いものの、恰も天使の羽の名残を垣間見たかのような、真っ白な肩甲骨の綺麗な背中やほのかに曲線を描く脚など、クラシックバレエに鍛えられたのだろう、滑らかな美しさとむっちりした肉感をほどよいバランスで内包しているのは女性的なものだ。十五の華奢で敏捷なる身体に情感は豊かで、概して評すれば、初めて出会った日の第一印象そのままに、風采といい芸風といい、上品で朗らかで、可愛さと愛嬌で人心を擽る性質ではないが、真に生れながらのスクールアイドル向き。入学式にて全校に知らしめた舞台少女の風体は気高くなだらかなり、自らクラス委員に名乗り出て配布物なんぞをクラスメイトに渡しているその様子にさえも、どことなく非常に良心的なところが見え、動作が至って敏活で隙が無く、言葉付きもはっきりしているうえに、それでいてあの妙声鳥を奏でるのだから、たいしたものだ。天佑神助ゆえの幸機があって、あたしはかの少女と友情を育む時運を得たのであるが、果して、彼女はあたしが徒に年を重ねる間にも数多もの音楽の才を示し、その著名なる音楽一家の一員として相応しき煌めきを既に顕していると聞いた時には吃驚。孟母三遷に与る天命は妬んでも仕方のない処であっても、とりわけあたしを感動させたのは、彼女の抱いている〈夢〉が実に見事なものであり、その〈夢〉の実現に向かって日夜奮闘努力していることが、その上品さに潜む素朴で謙遜な表現によって十分察せられたことだ。そう、梢ちゃんの歌声やダンスには確かに人を惹きつけるものがあったけれど、それは天性のものであると同時に、絶え間ない情熱と努力の結果でもあると感じずには居られなかった。先日伴奏してもらった鍵盤と同じく我が魂を震わすもの、彼女は自分の音楽を更に向上せんとする意欲に溢れていた。
三人の友人と、親愛なる姉。スクールアイドルの煌めきを追い求める少女達の漲る才気に当てられる度に、百合亜は、凡夫たる衆生の気の張りがどんなに無様かを思い知らされる。然しそれは嫉妬ではなかったし、劣等感でもなかった。蓋し成功のモラルは凡そ非宗教的なものであり、近代の非宗教的な精神に相応しているのかも知れない。成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、――それはあの日々の蓮太郎少年の生き様であっただろうが、真に憐れむべきである。他人の幸福を嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見ている場合が多いのだろう。幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである。だから成功は、その本性上、他人の嫉妬を伴い易い。幸福が存在に関わるのに反して、成功は過程に関わっている。だから、他人からは彼女の成功と見られることに対して、自分では自分に関わりのないことであるかのように無関心でいる人間がある。かような人間は二重に他人から嫉妬されるおそれがあろう。反省、反省。道化の華を咲かせるには、唯だ、友とその夢を共有する歓喜乃至興奮に胸を高鳴らせれば良いのだ。あたしは、彼女のことをもっと知らなくてはならない。
凡夫の迷いとは、つまりは因縁の理を如実に悟らないところにある。救いは人類に隈なく渡るであろうか?衆生の済度はどうして果されるであろうか?もし知を有たずば神を信じ得ないなら、多くの衆生は永えの迷路に彷徨うであろうて。知の持主は僅かな選ばれた者に限るからだ。だが神はすべての者に神学を許さずとも、信仰のみは許すであろう。この許しがあればこそ、宗教は衆生の所有である。月は台に輝くであろうが、賤が家やをも照らすであろう。貧しき者も無学な者も、共に神の光を浴びる。預言者イエスは学者を友とするより、好んで漁夫たちに交わったではないか。救いは知者の手にのみあるのではない。凡夫も浄土への旅人である。
そんな凡夫にとって予想外だったのは、同じような不思議が、お嬢様の世界にも起こっていたことだ。
「さて‥‥‥ボタンを押すわよ!大丈夫よ。そんなに慌てる必要ないわ、百合亜さん。私だって、たくさんのスクコネの配信を観てきたのよ。どこをどう押せば配信まで辿り着けるか、全て場所を記憶しているわ!」
新人スクールアイドルのスクコネ配信も最早定番、初めての自己アピールの場は誰もがワクワクものだ。そんなわけであたしこと少女百合亜、梢ちゃんの頼みがありスクコネ配信のフォローをしているのだが、どうにも、おかしかった。
「ぽち。‥‥‥あら?機械さん、きょうはどうしたのかしら。」
梢は何度も画面をタッチしてスクコネの配信を試みる。然し画面には一向に変化が訪れない。機械さんはうんともすんとも言わなかった。
「‥‥‥あたしがやろうか?」
「いいえ、待って。‥‥‥待って!百合亜さん。もう一回、もう一回だけやらせて頂戴。パソコン借りるわね。」
今度はパソコンのマウスを操作し始める。然し幾らクリックしても配信は始まらない。それどころかパソコンの電源まで落ちてしまった。
「‥‥‥おかしいわね。昨晩練習したときは、うまく繋がった筈なのだけれど。機械さん、きょうは少し調子が悪いのかしら。」
「ウーム、そういう問題じゃないと思うけどなぁ‥‥‥。」
梢ちゃんは再びスマホに目を向け、スクコネの画面を何度もタッチしたり撫でたりしながら機械さんにお願いしている。それでも一向に再生されない。百合亜が梢のスマホを覗き込むと、画面にはこう表示されていた。《この動画は配信されていません》そんな筈はないでしょうに‥‥‥。彼女は明らかに頬を赤らめていて、次第にスマホをタッチする指音が大きくなる。まるで壊れたラジオを何度も叩いて直そうとするかの如く。いやはや昭和でもあるまいし。スクコネ配信もどきは一向に進まない。
「梢ちゃん、もしかして‥‥‥」
「違う、違うのよ百合亜さん。機械が苦手だと感じたことは、一度もないわ。確かに、周りよりは覚えが遅いかもしれないけれど‥‥‥。それだって、努力でなんとかなるって、私は信じているもの。」
ローレライは曖昧に言ってふと笑うと、可愛げなえくぼがあった。左手を右手の肘にあてて困った仕草は天鵞絨の如く柔らかと見えて、吐息を証にこれを律すれば、動かぬと評しても差支えないかも知れぬ。が、豊かな輪廓は少しく春に浮き上がる。百合亜は重度のスクールアイドル狂いなだけはあって、少女の愛らしい所作の変移については存外視覚が鋭敏である。何とも知れぬ顔色の一段動いた時、あたしは彼女と二人、この配信の行方を覚えた。
「スクールアイドルとして、配信は大事なアピールポイント。見てくれる人がいるんだから、頑張らない選択肢なんてないでしょ?ほら見て。このスマホの説明書。きょうは初めての配信だから、わざわざ持ってきたのよ!いっぱい付箋を付けて読み込んでるんだから!」
「そう‥‥‥。やっぱり、代わろうか?」
ちと苦笑する。百合亜が注意をしたものか、せぬものかと、浮きながら考える間に、頼もしげなる少女の影は遺憾なく、早くも現れた。
「(ドアの開く音)お疲れ~。‥‥‥あれ、どしたん?後輩二人して険しい顔しちゃって。」
「うん、ごきげんよう姉さん。実はかくかくしかじかで‥‥‥」
あたしは普通の声で返辞しようと努めた。百合亜は彼女をちょうど良い助け舟だと思うよりも、この姿をいま彼女に見られていいのか悪いのかわからなかった。
「沙知先輩、お疲れ様です。‥‥‥おかしいわね。大丈夫です、いつもは出来るんですよ。見ててくださいね。」
「うん。‥‥‥ん?んん-??」
梢は慌しく身を退ると、綺麗な顔をしかめてハッと手を拡げて立った。
「ほら、すぐに動画の再生が始まって‥‥‥あぁ、始まらないわね‥‥‥。どうしてこんな時に‥‥‥。今は大事なところなのよ。機械さん、あなたも真剣にやって頂戴。お願いだから‥‥‥。」
引き続き彼女はスマートフォンを額に当てたり、膝元に置いたりして落ち着かない。いつもの澄ました態度からは想像もつかないような慌てた様子で何度もリトライしていたものの、結局この日は最後まで上手くいかず仕舞いだった。
「――あっはっは!いやー、完璧超人だって評価してたつもりはないけど。これはこれで、乙宗ちゃんの意外な一面だねぃ。ささ、あたしにも見せてよ、‥‥‥」
と言って沙知さんは梢ちゃんに組みついて、一緒に配信しようぜぃとフォローする。その語調が冗談交じりだったのは心なしか安堵した。
青臭いロマンチックの道徳は何となしに対象物をして大きく偉く感じさせる。ナチュラリズムの道徳は、自己の欠点を暴露させる正直な可愛らしい所がある。前者は、おのれ以上の偉大なるものを材料として取扱うから感激的であるけれども、その材料が読む者聞く者には全く、没交渉的で印象にヨソヨソしい所がある、これに引き換えて後者は、如何に汚い下らないものでも、自分というものがその鏡に写って何だか親しくしみじみと感得せしめる。能く能く考えて見ると人というものは、平時においては軽微の程度におけるロマンチシズムの主張者で、他者を批評したり要求するに自己の力以上のものを以てしている。凡そ人間の心は自分以上のものを、渇仰する根本的の要求を持っている、今日よりは明日に一部の望みを有したい。自分より豪いもの自分より高いものを望む如く、現在よりも将来に光明を発見せんとするものである。人間の人間らしい所の写実をするのが自然主義の特徴だとすれば、ロマン主義の人間以上自己以上、殆ど望んで得べからざるほどの人物理想を描いたのに対して極めて通常のものをそのまま、そのままという所に重きを置いて世態をありのままに欠点も、弱点も、表裏ともに、一元にあらぬ二元以上にわたって実際を描き出す。従ってカーライルの英雄崇拝的傾向の欲求が永久に存在するしても、今日の少女百合亜にとっては然程魅力的なものではなかった。「梢サマ」などと既に仰々しい渾名を付けられ学園の話題となっているお嬢様も、あたしは努力家の一点に於いても多大なる共感を催されたし、そういった欠点があるからこそ年頃の少女らしく可愛く思えたのだから。強ち卑下卑屈の態度を浮かべることもなく、或いは愛想笑いの付き合いに終始することもなかったのも、また実に幸運だった。
その身に夢を描く少年少女、踏むは地と思えばこそ、裂けはせぬかとの気遣いも起こる。戴だくは天と知る故に、稲妻の米噛に震う怖れも出来る。人と争わねば一分が立たぬと浮世が催促するから、火宅の苦くは免かれぬ。東西のある乾坤に住んで、利害の綱を渡らねばならぬ身には、事実の恋は讎である。目に見る富は土である。握る名と奪える誉れとは、小賢しき蜂が甘く醸すと見せて、針を棄すて去る蜜の如きものであろう。所謂楽しみは物に着するより起るが故に、あらゆる苦しみを含む。唯だ少年と少女が斯くなるものあって、飽くまでこの待対世界の精華を嚼んで、徹骨徹髄の清きを知る。霞を餐し、露を嚥み、紫を品し、紅を評して、道化に至って悔いぬ。少女らの楽は物に着するのではない。同化してその物になるのである。その物になり済ました時に、我を樹立すべき余地は茫々たる大地を極めても見出し得ぬ。自在に泥団を放下して、破笠裏に無限の青嵐を盛もる。徒にこの境遇を拈出するのは、敢えて市井の銅臭児の鬼嚇して、好んで高く標置するがためではない。唯だ這裏の福音を述べて、縁ある衆生を麾くのみである。有体に云えば詩境と謂えるかも知れぬが、青春と評するも皆人々具足の道である。春秋に指を折り尽して、白頭は呻吟するの徒と雖も、一生を回顧して、閲歴の波動を順次に点検し来るとき、かつては微光の臭骸に洩もれて、吾を忘れし、いつの日にか拍手の興を喚び起す事が出来よう。出来ぬと謂わば生甲斐のない時代である。
3
しとしとと春の夜の小雨が煙っている。ほどよく水を含んだ土は、足駄の歯に快い。歩きたい晩である。見知らぬ女子の部屋で坐すのは矢張緊張するが、それでも百合亜は別なる二人の友の訪れを待ちながら、天井の幾何学模様を仰いで意気軒昂たるものがあった。ついに時が来たのである。蓮ノ空女学院に入学してから丁度一ヵ月が過ぎようとしていて、使命の方は未だ無我夢中だ。少女としては文字通りに日が浅い。然し得意の度合はそれに反比例を保っていた。もう一人前だと思うのは、何となく尾鰭がついたような心持がするけれど、それでも、あたしは待ち焦がれていた。
「やあやあお嬢さんや。あたしはこれを、持ってきました。」
「っ‥‥‥!百合亜さん、それは!「伝説のアイドル伝説DVD全巻BOX」こと通称・伝伝伝じゃないの!私もスクールアイドルファンになってからは長いけれど、実物は初めて見るわ!どこでこれを!?」
梢は大童になって説明口調となった。そう、あたしが梢ちゃんと共鳴した最大の点は、スクールアイドルに対する熱意なのであった。いま我が面前に娉婷と現れたる姿には、一塵もこの俗埃の眼に遮ぎるものを帯びておらぬ。常の人の纏える衣装を脱ぎ捨てたる様と評すればすでに人界に堕在する。始めより着るべき服も、振るべき袖も、あるものと知らざる神代の姿を雲のなかに呼び起したるが如く自然である。
二人は喜んで、少時話した後、
「(ドアの開く音)やほ。来たよ。」
「おじゃましま~す☆」
「めぐちゃん!綴理!待ってたよ~!」
「ふふ、いらっしゃい。」
一〇二期生の面々は梢の部屋に集結する。テーブルの上のお菓子を摘まみながら、扨てはワイワイガヤガヤと、初対面であるはずのこの光景に、あたしはどこか強烈な懐かしさを感じずには居られなかった。幼い頃、こんな遊びをしたことがあったようだと百合亜は想い出す。柿の木に登って、柿の実を取ってやる。下には女の子が指している。もっと上よ、ええ、それもよ、そのまた上に、ほら。そして、枝が折れ、地へ落ちて、足の骨を痛めてしまう。それは松葉杖に縋らねばならぬ程の痛みではなかった。唯だ、清々しい、あどけない青春の序曲である。
「あたしにやらせて下さい。あたしに、」
碌々考えもせず、すぐに大声あげて名乗り出たのは百合亜である。がぶがぶ大コップの果汁を飲んで、やおら御意見開陳。
「あたしは、あたしはですね、こう思いますねえ。‥‥‥」
いやに老成ぶった口調だったので、みんな苦笑。この部屋には退屈と諦めがない。それは百合亜の覚悟であった。上へ、上へ、柿の実をもぎに登るのだ。落ちることを怖れずに。落ちるまで。
「うん。ごめんね、ゆり。ボク、スクールアイドルのこともラブライブ!のことも、まだぜんぜんわかんなくて。」
綴理は百合亜の顔色を窺って小首を傾いだ。率直に白状してしまった。
「いえいえいえいえ。そのためのパジャマパーティーなのですから!」
「……はぁ。夕霧さん、あなたほんとうに何も知らずに、この名門である蓮ノ空のスクールアイドルクラブに飛び込んできたのね。‥‥‥まったく、私たちが一から教えてあげないといけないようね。」
と梢ちゃんは一喝、追い縋ってむっとした顔色であった。然しむしろ機嫌のよい証拠には、両の頬に憎いほど魅力のあるえくぼが、ふっと泛んでいる。
「私は百合亜にちょっとだけ見せてもらったよ。去年のラブライブ!の決勝ステージとか、いろいろとね。」
クッキーを頬張りながら呟く慈。
「そう、そうなのですよめぐちゃん。まず、ラブライブ!とは‥‥‥とびっきりの、スクールアイドルの祭典!!歌に想いをダンスに情熱を乗せ、キラキラと耀く少女たちのステージ。自然と笑顔になる自分に、恥ずかしくなってしまうくらいに。自分もああなりたいと、心から望んでしまう。それが、ラブライブ!‥‥‥そして、スクールアイドルの魅力なのです!!!」
身振り手振りでスクールアイドルの魅力を語る、蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブの一員・大賀美百合亜。太陽のように眩しい笑顔を振りまきながらそう宣言する彼女の瞳には、一切の迷いがなかった。どこまでも高く遠くを見据えるその眼差しに、友人達も吸い込まれてしまう。
「まーた始まったよ。」
「うん、たのしそう。」
「百合亜さんの言い方だと、ただ楽しいだけのお祭りみたいに聞こえるけれど、実際はそんなに甘くはありませんからね!初ステージも前に自分事ぶって言いたくはないけれど、蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブがラブライブ!で優勝したのは、一度だけ。予選だって、そう簡単に突破できるものではありませんからね!私たちも歴史あるスクールアイドルクラブの一員となったからには、日々の練習に励まないといけないの。‥‥‥いい?藤島さん!」
「なんで私だけ名指しなの!?」
梢の口調には熱が籠っていたが、それでも、晴々とした眼をしていた。興奮した頬の肉に、跳りはねる微笑の影がちらついている。それを見て百合亜は、急に力強くなった。彼女はおのれと同族で、スクールアイドルに関しては時として周りを呆れさせるほどの雄弁家でもあることを確信したのである。何にでもぶつかってゆけという気がした。
「よし、それにしよう。」
「どれ?」
綴理がすかさず口を挟む。
「あれです。みんなと同じ、新人スクールアイドルたちの配信を観よう。なるべく、甘い情緒豊かな、元気いっぱいのステージがいいな。伝伝伝は、少し情熱的過ぎる。あたしはね、この頃、また優勝校の軌跡などを観返しているのだけど、どうも肩が凝る。眩しすぎていけない。」
「‥‥‥でんでんでん?」
「でんでんむし?」
「違うわ。」
百合亜は、得意である。調子が出て来た、と内心ほくほくしている。だしぬけに泛んだ思いつきの甘さに自ら痺れていたのだ。
「しゃあっ、スクールアイドルコネクト・起動!もう待ちきれないよ、早く見せてくれ!!」
そこからは長い夜が始まった。スクールアイドルは、不完全でも熱を持ったみんなで作る芸術。これについてあたしは何度も語り、また考察を深めて来たけれど、それでも未だ一向に議論し足りぬからここにまた語ろうと思う。学生寮の一所で灯る彩光一塊、物のうごめく気配がしたが、夜鳥か?それとも風の音であろうか?いやいや、少女らが居たのである。
さて、人間の宇宙観念を作るものは、実に〈時間〉と〈空間〉との二形式である。故に吾人のあらゆる思惟、及びあらゆる表現の形式も、如何に夢見る少年少女と雖も、所詮この二つの範疇にすぎないだろう。そこで思惟の様式についてみれば、全ての主観的人生観は時間の実在にかかっており、全ての客観的人生観は空間の実在にかかっている。所謂唯心論と唯物論、観念論と経験論、目的論と機械論等の如き、人間思考の二大対立が依るところは、結局して皆ここに基準している。
ところでこの対立を表現について考えれば、音楽は即ち時間に属し、美術は即ち空間に属している。実に音楽と美術とは、一切芸術の母音であって、あらゆる表現の範疇する両極である。即ち主観主義に属する一切の芸術文学は、音楽の表現に於いて典型され、客観主義に属する全てのものは、美術の表現に於いて典型される。故に音楽と美術との比較鑑賞は、それ自ら文芸一般に通じての認識である。音楽と美術!何という著しい対照だろう、凡そ一切の表現中で、これほど対照の著るしく、芸術の南極と北極とを、典型的に規範するものはない。まずあの音楽を聴き給え。かのベートーベンの交響楽や、ショパンの郷愁楽や、シューベルトの可憐な歌謡や、サン・サーンスの雄大な軍隊行進曲が、如何に情熱の強い魅力で、諸君の感情を煽ぎたてるか。音楽は人の心に酒精を投じ烈風の中に点火するようなものである。フランス革命当時の狂児でなくとも、あのマルセイユの歌を聴いて狂熱し、街路に突進しないものがどこにあろうか。音楽の魅力は酩酊であり、陶酔であり、感傷である。それは人の心を感激の高所に導き、熱風のように狂乱させる。或いは涙もろくなり、情緒に溺れ、哀切耐えがたくなって、嗚咽する。ニーチェの比喩を借りれば、音楽こそげにディオニューソスである。あのギリシャ的狂暴の、破壊好きの、熱風的の、酩酊の、陶酔の、酒好きの神ディオニューソスである。
音楽がまた同様であり、主観主義の標題楽と、客観主義の形式楽とが対立している。標題音楽とは、近代に於ける一般的の者のように、楽曲の標題する〈夢〉や〈恋〉やを、それの情緒気分に於いて表情しようとする音楽であり、その態度は純粋に主観的である。然るに形式音楽の態度は、楽曲の構成や組織を重んじ、主として対位法によるフーガやカノンの楽式から、造形美術の如き荘重の美を構想しようとするのであって、極めて理智的なる静観の態度である。即ち形式音楽は「音楽としての美術」と言うべく、これに対する内容主義の標題楽は、正に「音楽の中での音楽」と評するべきだろう。
「――そう、このグループは四月の新人賞最有力候補と言われてるの。」
「ふむふむ。しかしほんとに表現力がスゴイね!流石は梢ちゃん、お目が高い。」
「わ、すごい。お麩みたい。」
綴理は何を観せても良い所を探して楽しそうにする。
「ただすごいだけじゃないのよ。歌やダンス、それにトークの参考になるから、こうしていろんなチャンネルを観て、しっかり研究しないと。‥‥‥いい?藤島さん!」
「だからなんでめぐちゃんだけ名指しなの!?」
こう言うと、梢ちゃんは脅やかすようにじりじり側へ寄る。何とも評せぬ甘い香があたしの心を擽って眼の前に紅い霞がちらちらする。神経がむやみに昂って胸の動悸が早鐘を撞くように響く。それでも不可思議なことに、百合亜にとってはその鐘の音が、どこか道理の裡に鳴っているように思えたのだ。
彼女はスクールアイドルに関してはあたし以上に饒舌であったから、おのれも負けじと理論を捏ねくり廻してしまう。‥‥‥では、こうしよう。強調してやまないが、あたしはスクールアイドルなる新奇の芸術形式がこの埒外にあると考えている。ゆめ。花がいっぱい咲いた春の野原だ。夢の中で見る事件や物象は、概して皆灰色にぼんやりして、現実のようにリアルでない。だがその反対に、夢の中で感ずる情緒は、現実のそれと比較にならないほど、ひどく生々としてリアリスティックに強烈である。特に悪夢などで経験する、恐怖の情緒の物凄さは、到底普通の言葉で語られないほど、生々として血まみれに深刻である。現実の世界に於いては、たとえどんなに恐ろしい事件、死に直面するような事件に遭遇しても、決して夢のそれのやうには恐ろしくない。悲哀の情緒もまた、夢の中では特別に辛烈である。夢で親友と別れたり、両親と死別したり、それから特に、自分の避けがたい死や不運やを見たりする時ほど、真に断腸の悲しみという言葉を、文字通りに感じて歔欷することはない。
無論然しそれも、スクールアイドルに出会うまでは、である。現実世界の情緒は、悲哀にまれ恐怖にまれ、理智の常識する白晝の太陽に照らされて、夢の闇の中で見るように強烈でなく、晝間の残月のようにぼんやりして、どこか美しさすら覚える。情緒の真のリアリティは、夢の中にのみ実在している。そしてこのことは、夢が何億万年の古い人類の歴史を、我々の記憶の中に、音楽という形式を少女一躯に籠めて再現することを実証するものだ。おそらく我々は、原始に類人猿の一族から発生した時、未だ理智の悟性が芽生えなかつた。その時人間は、鳥類や獸類と同じように、純粋に情緒ばかりで行動して居た。そして鳥類や獸類やは、いまでも尚依然として、我われが夢の中で感ずるように、無限に広がる青い世界を、あたしはスクールアイドルに経験して居るのである。
「――それでね、この子達がいま、私が注目しているスクールアイドルクラブ。‥‥‥ほら、この子。大伴女子学園のスクールアイドルクラブには私のお友達も在籍しているからかしらね、ライバル意識‥‥‥みたいなところもあるかもしれないわ。」
「成る程成る程。」
夢を語る少女は委細構わず、白い顔を朋友の前へ突き出す。ちょっとだけ視線が重なる。彼女の端正なプロフィールが、春色の遠い夜帷をバックにして、あの憧れた舞台少女のアクスタみたいに輪郭が区切られ浮かんで、我が意識もせぬうちにそっと毛布を掛けてくれた親切は、それは何の色気でも無く、欲でも無く、ああ、ヒューマニティという言葉はこんな時にこそ使用されて蘇生する言葉なのではなかろうか、人間の当然の侘しい思いやりとして、ほとんど無意識みたいになされたもののように、翡翠とそっくりの静かな気配で、それでいて舞う蝶の如く情熱を双眸に宿していた。そして、どこか、あたたかった。
「――むぎゅ。」
「すぅ、すぅ‥‥‥。」
刹那、銀髪に紅色のインナーカラーがあたしの膝にやおら乗る。ああ、我が親友よ綴理ちゃん、すっかりお休みのご様子だ。百合亜が初めて夢を共有した少女、今晩のスクールアイドル狂いの饗宴にすっかり付き合ってくれた。まるで警戒心のない、気持ちよさそうな寝顔だ。
「まったく‥‥‥。この子のためにも始めた鑑賞会なのに。こんな自然体の寝顔見せられたら、何も言えないじゃない。ね、百合亜さん‥‥‥?」
梢は頭を掻いて呟き、もう一人のスクールアイドル狂いへと目を遣る――ここに百合亜の素朴な挙動が、いくらか執拗すぎるほど、中断した少女の言葉を促していた。それじゃ、私。……どうしたの?百合亜は吃驚しているわけでもなかった。スクールアイドルについて語りたいというたかがそれだけのものにすぎない彼女の返事が、少女に与えた新鮮な動きについて、百合亜は考えているのであった。好色のみを尺度にして、魔性の心に秘められた妖しい幼なさのひとつであろうか?否。兎に角、然し、新鮮だ。少女に寄せる好奇心が、決定的なものになろうとしかかるのだった。そしてもはや抑え難い愛着が、いくらか野暮に見受けられるほど執拗な挙動となつて、中断した少女の返事を促しているのであつた。要するに女は――と、百合亜は自分の心に言い做すことが大切だった。この新鮮な情感だけで沢山なのだ。あたしにとって、それが女の全てである筈がなかった。むしろ、それ以上のどのような宝も女に求めてはいけないのだった。然し求めすぎていた!結局それらの高貴なものは、完全無欠のお嬢様にさえも具わるものではないのだ。自己の所有に属するところの何物かの投影にしか過ぎず、結局おのれ自身に恋をしかけているようなものだから。
「こほん‥‥‥。ごめんなさい、私も熱くなりすぎてしまったみたいね。」
「いえいえこちらこそだよ。梢ちゃんと話すと段々熱が入っちゃって、いくらでも観たい配信もライブも出てきて、それで夜更かし。あたしはこんな経験初めてだよ。」
「うふふ、そうね。‥‥‥まさか百合亜さんが、こんなにもスクールアイドルについて熱く語れるなんて、私も思わなかったわ。」
二人は顔を見合わせて笑った。
「すぅ、すぅ‥‥‥。」
親友の可愛らしい寝息が耳朶を擽る。
「んもー、まったく。結局朝まで付き合っちゃったじゃん。百合亜と梢のせいだからね!ふわぁ‥‥‥。んー、私もちょっと寝る!」
と、幼馴染が管を巻き始めて他人のベッドに横たわったには益々驚いたけれど、その声色はどこか心地よい響きだった。
百合亜は胸郭を前へ出して、右の肘を後へ張って、左手を真直に伸ばして、ううんと欠伸をするついでに、先刻の楽曲のポーズを決める真似をして見せる。少女はホホホと笑う。梢も気持ちよさそうに体を伸ばすとそのまま窓を開ける。気が付くと朝になっていた。見下ろすと、往来の土は朝靄ではっきりとは見えないでコンクリートに仕切られた枠の中を早瀬が流れて行く。その水を遠くに聴きつつ山吹の咲き乱れているのが無類の眺めであった。やがて月が雲を破って出た。それはたぶん、百合亜の顔のほてりでもあった。それはまさに予期せざる変化であった。暴風の如き情熱だった。顔に現れたのは、唯だ、ほてりに過ぎなかったが。
幼児は絶えず夜泣きをし、何事かの夢に魘されて怯え泣いてる。母の胎を出たばかりの小さな肉塊、人間というよりは、むしろ生命の神祕な原形質とでも謂うべき彼等は、夢の中に何物の表象を見るのであろうか。性慾の芽生えもなく、人生に就いて何の経験もない彼等は、おそらくその夢の中で、過去に何万代の先祖から遺伝されたところの、ホモ・サピエンスの純粋なる記憶を表象しているのかも知れぬ。夢に魘えて夜泣きをする幼児の耳ほど、生命の或る神祕的な恐怖と戦慄とを、哀切に気味わるく感じさせるものはない。たしかに彼等の幼児は、夢の中で魑魅魍魎に取り囲まれ、人類の遠い先祖が経験した、言説し難く恐ろしいこと、危険なことを体験し、生命の脅かされたスリルを味わっている。夢を性慾の表象とし、それによって夢と判断したがるフロイト流の心理学者なんぞは、少なくともその同じ原理によって、あたしが解釈を試みる第二の意義の「夢」さえも判断し得ないだろう。夢の起源は、彼等の学者が思惟するよりは、もっとミステリアスな詩人の表象と関連して、純粋なる熱意の裡に在るのだろうから。そういった意味で、此処うら若き少女達の夜更かしは、ある種の神秘性を纏っていたの謂えよう。
「いやはや、思いがけない友達ができちゃった!あの日、あたしから声をかけて本当に良かったーって思うよ。梢ちゃん、クラスメイトとして、スクールアイドルクラブの一員として、そして〈同志〉として。どうぞまた、よろしく。」
「あら‥‥‥うふふ。ええ、勿論。こちらこそ、改めてよろしくね、百合亜さん。」
二人の少女は、なんということもない、自然の流れのまま熱い握手を交わした。暖かく柔かな梢の掌は、とても振り放す事の出来ない魔力を持っているように軽く百合亜の手を捕えて、彼女を春の微睡へと引き摺り込んでいった。接吻を知らない青年の夢には、唯だ溢れる熱情をしっかり双手を握り合うことによってのみ表し得るのだ。厳粛な夢への「好き」によって神聖にされ、祝福された、二人の友情であった。一つの時代より他の時代へ移りゆく時期に発生しがちな時代の弱点や人心の頽廃を、スクールアイドルの煌めきは引き締める力があった。二人の少女にとっては生涯忘れらない青春の背景となるであろう。失われた少年を嘆くことはいらないのだ。百合亜は思わずには居られなかった、そして恋の真似事もいらない。まして愁いの真似事も。流れるだけでいいじゃないか。それで使命が果たせるのなら。
その夜の上映会はほんとうに楽しかった。あたしもれいの時期にみたいに、同い年の少女らに対して必要以上に固くなる事はなく、いまでは何だか皆を高所から見下ろしておおいと声かけているような涼しい余裕さえも出来ていて、自由に冗談も言えるし、これもつまり、仲良くなりたい、気に入られたい、謂ってしまえば女に好かれたいなどいうような息苦しい欲望を、この三十日ほどの間に全部あっさり捨て去って別な想いを鍛えたせいかも知れぬが、自分でも不思議なほど、心に少しのこだわりも無く自由に遊んだのだ。好くも好かれるも、皐月の風に騒ぐ木の葉みたいなものだった。なんの我執も無い。新しい少女は、またひとつ飛躍をしました。
この故に天然にあれ、人事にあれ、衆俗の辟易して近づき難しと為すところに於いて、夢見る少年少女は無数の琳琅を見、無上の宝璐を知るだろう。俗にこれを名づけて美化と謂うか、その実は美化でも何でもない。燦爛たる彩光は、炳乎として昔から現象世界に実在している。唯だ一翳眼に在あって空花乱墜するが故に、俗累の覊絏牢として絶ち難きが故に、栄辱得喪の己に逼る事、念々切なるが故に、ゲーテがファウストを吟ずるまではマルガレーテの美を解せず、応挙が幽霊を描くまでは霊威神妙の美を知らずに打ち過ぎるかの如く、一期一会の瞬きに人情を見出すのである。
大道の原理に背いても、背かなくっても、そういう心持ちさえ出れば良い。然し人間を離れないで人間以上の永久と云う感じを出すのは容易な事ではない。第一顔に困る。あの道化の仮面を借りるにしても、あの表情では駄目だ。苦痛が勝っては全てを打ち壊してしまう、といってむやみに気楽では一層困る。ならばいっそほかの顔にしては、どうだろう。あれか、これかと指を折って見たけれど、どうも思わしくなかった。何だか物足らない。物足らないとまでは気がつくが、どこが物足らないかが、我ながら不明であった。したがって自己の想像でいい加減に作り易る訳に行かない。あれに「楽しい」を加えたら、どうだろう。「楽しい」では不安の感が多過ぎる。「ごきげんよう」はどうだろう。「ごきげんよう」では間抜け過ぎる。幸福?幸福では全然調和を破る。或いは恨みか?恨でも春恨とか云う、詩的のものならば格別、唯だの恨では余り俗である。いろいろに考えが漂流してきた末、こうして友と共に一夜を無為に過ごしたことで、終いにあたしは漸く、これだと気がついた。多くある情緒のうちで、親愛という二字のあるのを忘れていた。親愛は神の知らぬ情で、而も神に最も近き人間の情である。無垢なる幼子こそが天国にいちばん近いと、ナザレの預言者が説いた真理は尤もだ。この部屋に居る少女らの表情のうちには何の念も顕れていない。ああそうか、あたしは、心を曝け出せる友達が欲しかったのだ。ただ、それだけ。海内知己存すれば天涯比鄰の如く在るべし、百日を費やした胸裏の図案はついに崩れた。
銀盤の上を玉霰の走るような、渓間の清水が潺湲と苔の上を滴るような不思議な響きは別世界の物の音のように百合亜の耳に聞えて来る。花の香さえ重きに過ぐる深き巷に、呼び交わしたる二人の少女の姿が、生命の揺籃に滅り込む春の影の上に、明らかに躍りあがる。宇宙は二人の宇宙である。脈々三千条の血管を越す、若き血潮の、寄せ来きたる心臓の扉は、フィリアと開けばフィリアに閉じ、恋と開けば恋と閉じて、僅かに動かんとする少女を、躍然と大空裏に描き出している。二人の運命はこの危うき刹那なに定まるとも知れぬ。東か西か、微塵だに体を動かせばそれぎりである。呼ぶはただごとではない、呼ばれるのもただごとではない。言葉以上の難関を互いの間に控えて、羃然たる昂奮が抛げ出されるか、抛げ出すか、動かざる二人の身体は二塊の蒼い炎である。丁度二人は浮かれ胡弓の噺の中の人間のように、微妙な春暁の音に恍惚と耳を傾けた儘、いつまでもいつまでも眼瞼の裏の明るい世界を視詰めて坐って居た。
4
「鶯は鳴くの?」
「ええ、毎日のように鳴くわ。私の実家では夏も鳴くのよ。」
「聞きたいな。ことしの蓮ノ空ではちっとも聞えないとなると、なお聞きたい。」
「あら、蓮ノ空にも屹度居るのよ。鶯はあいにくきょうは――朝からの雨で何処かへ逃げてしまったようね。」
「ウーム、そっかぁ。上映会、姉さんも来ればよかったのになぁ。」
西北気は寒く東南は幾処の簫、何人の剣が在りて声は満つるか。逡巡として曇り勝ちなる春の空を、もどかしとばかりに吹き払う山風の、思い切りよく通り抜けた前山の一角は、未練有り気に曇り空で、僅かなる光脚の指す方に㠝岏と、粗削りの柱の如く聳えるのが鶯岳だそうだ。あたしはまず鶯岳を眺めて、次に同志少女を眺めて、三度目には半々に両方を見比べ瞳を閉じた。春の山路の景物として恰好なものだと考えた。百合亜が長い睫毛をもち上げて、いま暫くの詩境という途端に、少女の姿勢は崩れた。
「あのね、百合亜さん。私ね、入学式の際は新入生代表として挨拶をしたから、変に目立ってしまったと思って。上手く友達が出来るのかしらと悩んでいた時期もあったのだけれど‥‥‥。いまはもうそんな心配、泡のように消えちゃったわ。学園の皆は優しくて、スクールアイドル活動を応援してくれているのよ。とても励みになるわ。」
「うんうん。練習中に声を掛けてくれることもあるし。同じ学年の子でも、凄く情熱的な子は「梢サマ~!!」って呼んでたりするもんね!」
百合亜は両手を広げて爪を立てたようなポーズをとる。
「もう!意地悪言わないで頂戴!‥‥‥応援は嬉しいのだけれど、その、まだ少し面映ゆくて。困っちゃうわ。」
「あはは。これもスクールアイドル特有の悩み、なのかもね。」
きょうは、月曜日である。雑談に興じながらぼんやり窓の外を眺めてみると、窓一ぱいにあんなに見事に咲いていた桜の花も大方散ってしまっていて、いまは赤黒い萼だけが意地悪そうに残っている。そうして金沢では唯だ昔ながらの春雨が降る。寺町では寺に降り、茶屋街では傘に降り、市場では銀天に降り、浅野川では橋に降り、兼六園では松に降る。蓮ノ空では少女に降っている。茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るを、ひたぶるに濡れて行く少女を、我ならぬ人の姿と思えば、詞にもなる、歌にも咏まれる。有体なるおのれを忘れ尽くして純客観に眼をつくる時、始めて少女は画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ。唯だ降る雨の心苦しくて、踏む足の疲れたるを気に掛けてしまった瞬間に、かの凡夫は既に仙人にもあらず、画裡の人にもあらず、依然として市井の一豎子に過ぎぬ。雲煙飛動の趣も眼に入らぬ。落花啼鳥の情けも心に浮ばぬ。若し蕭々として独り春山を行くならば、如何に美しきかは猶更に解せぬだろう。初めは帽を傾けて歩くかも知れぬ。後には唯だ足の甲のみを見詰めて歩くかも知れぬ。終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩くかも知れぬ。春の雨は満目の樹梢を揺かして真正面より少女等に逼る。然し人情にはちと足りないようだ。
百合亜が学習机の前に立ってつくづくとその情景に見惚れて居ると、うしろからそうっと朋友がやって来て、
「ゆり~。ボク、明日のお弁当ね、肉じゃががいいなぁ。」
「ふにゃりっ!?」
――あたしはこの四月、いろいろの事を考えてきた。一昨日あたしは理事会参加に挑むべく「難しい人生問題が、たくさんあるんです。」と言って、それから「たとえば、学校制度に就いて、――」と口を滑らせて姉さんに看破されてしまったが、百合亜のこの頃の憂鬱は、矢張何の事は無い、友情と理性とだけに原因しているのかも知れない。相変わらず距離感のバグってる綴理に腕を組まれ、徒に百合亜の動悸を乱していた。
「はいはいそこ、ソーシャルディスタンス、だよ!‥‥‥まったくあんたたち、いつからそんなに距離近くなったわけ?」
慈が後ろから割り込むように入って来て、少し煽てる調子で言う。扨てはこうして座は一頻ざわめく。一年百合組スクールアイドルクラブの面々は、誰かが誘うという訳でもない、教室に於いても風の吹かれるままに集まるのが日常となっていた。少女百合亜の心にも漸く新生の曙が訪れそめた頃であった。されど夢見る少女達が次第に彼女を導いて行ったところは、必ずしも平穏な天国ではなかった。兎角、この四人の関係そのものは、決して私の予期していたような春風駘蕩たるものとは未だ至っておらず、痛々しいくらいに、まじめで、むきなものであった。尤も、痛々しいという感じは、特にあたし独りだけに強く響いたものかも知れないが。
「‥‥‥んっ、ん。丁度いいわ、藤島さん、夕霧さん。それに百合亜さんも。あなたたちに話しておきたいことがあるの。」
葉の上の水滴が光を受けて煌めき、そして梢は意味有り気に口火を切ったのである。彼女は心なしか、翳った室内の薄蒼い光に包まれていた。
「うわ出た。クラス委員様のすっご~~く真面目そうな顔。」
「‥‥‥ボク、怒られるのはいやだよ。」
「大丈夫、怒られないと思うよ。」
あたしは梢ちゃんに視線を向け、二の句が継がれるのをしばし待った。
「‥‥‥入部の日にも、話したのだけれど――私が蓮ノ空に入学した、スクールアイドルクラブに入部した理由は外でもない、それは、ラブライブ!で優勝するという夢を叶えたいから。今週末の初ライブは、その夢のための第一歩。だから私は、かならず成功させたいの。」
少女の唇から洩れた決意の言葉はこうであった。慈と綴理の夢が猶も手探りな渾沌であるとすれば、梢の血色は明瞭たる脚光のために赤く燃えていた。
「――そう。でも、それは梢の理屈でしょ?みらくらぱーく!として、私には私のスクールアイドルがあるから。」
「なっ‥‥‥!」
慈は千篇一律の説論ご苦労と謂わんばかりの態度、更には鉄火な言葉使いになりそうで百合亜はぎょっとした。そう、以前からこの二人の間には暗雲が低迷していたのである。
「藤島さん、あなたね!私が言いたいのは――」
「止し給え。止し給え!どうして君たちは、そんなに仲が悪いんだ。めぐちゃんの態度も、よくないよ。梢ちゃんは、淑女なんだ。懸命なんだよ。人の懸命な生きかたを、嘲笑するのは、間違いだと思うぜ。」
眼前で喧嘩が始まりそうな権幕なのであたしは閉口した。
「ふーーーん。随分と梢の肩を持つじゃん、百・合・亜☆」
ついにはお決まりの指ハートが出てしまった。
「違う違う、そうじゃないんだよめぐちゃん。めぐちゃんの意見もゆっくり聞きたいけど、いまは緊急事態なんだよ。初ライブは、今週末。もうすぐなんだぜ?そりゃあ焦るさ。あたしもドキドキしちゃって仕方がないんだから。」
百合亜はさり気なく拝むような素振りをしたが、別段声を荒げるでも逃げようとするでもなく、為すが儘に両手を捻じて身悶えして居る。肉付きのよい腕の青白い肌は、鍵盤の弦の如くに華奢な指先にむずと阻まれて、二人の少女の血色の快い紅潮は、彼女の心を誘うようにする。
「梢ちゃんも梢ちゃんだよ。めぐちゃんの発言は、半分くらいは強がりの冗談だと思って聞き流さないとダメだ。」
「ちょっと百合亜!?」
「それにね、愈々焦っても、捗ることも捗らなくなっちゃうよ。」
「でも、今のままじゃ‥‥‥!」
制服に付いた埃を拂うこともなくきっと立ち竦んでいる梢は、両手を強く握りしめて、上気した頬や眼球を真紅にして居る。彼女の心の底にある優しさと強さとがそこに確かに映って居たからだろうか、慈は斯くの如く続けたのである。
「――わかった、わかったから。それじゃあ、これだけは言わせて。」
「な、なにかしら。」
めぐちゃんは沙知さんとのユニット結成以来、同輩二人に対しても物腰柔らかく――というよりも遠慮が無くなっていたが、その問いが余りに意外だったので、梢は思わず顔を挙げた。藤色に包まれた見覚えのある顔が、もう一人の藤紫の纏いを眺めていた。きっと結んだ口元が如何にも厳格そうだったけれど、夢の世を夢よりも艶に眺めしむるグリーンブラウンの髪に隠れた額の下から、切れの長い柔和な眼が覗いていた。その細い瞳が、ちらりと揶揄するように耀いた。
「梢は、魅せ方が足んない。これじゃあ、フルーツもクリームも乗ってないパンケーキと一緒。キラキラ感が足んないの。」
「‥‥‥っ!それは――」
人間は人間を知らねばならん。少女の質問には当然答うべき義務がある。けれども知らぬ事は答えられる訳がない。舞台へ注がれる有象無象の視線を浴びた事のない少女は、いくらお嬢様でも学級委員でも致し方がない。藤島慈は愛嬌に堪能なる役者である。
「そう。ね。でも、やっぱり、人に因るんじゃないかしら。スクールアイドルには、人それぞれの、スクールアイドルがあるんだから。」
角を立てない代りに挨拶は濁ってしどろもどろだ。それで済ます我が幼馴染ではない。
「まあね。それもそうかもしんないよ?‥‥‥でもね、私たちスクールアイドルは、世界中を夢中にするんだよ。夢中っていうのは楽しい時間が一瞬で過ぎていくことなの。気がつけば目の前のお皿が空っぽ♡おなかいっぱいで幸せ♡ってね。でも、いまの梢見てると、スイーツじゃなくて酢昆布だよ。酢昆布もまあおいしいけどね!」
慈の主張は、微笑みを湛えながら態と不得要領に終わってしまう。思想が普通以上だから、言葉も比喩も普通以上に要るから困ったものだ。綴理みたいな可愛らしい比喩を、あたしはどうにも知悉するを得なかった。
「あ、そうだ。明日のお弁当、酢昆布のケーキでもいいかな。」
「無理難題をおっしゃるなぁ我が友は!」
そして久しぶりに開口したかと思うと、綴理がまたぼぉっとしたまま尋ねるのである。然し彼女はほわほわした口調でも、何時の間にか確信的なことばを躊躇わず口にするという奇妙な特質を持っていた。矢張根っからの夢想家なる詩人肌。
「――そう、ね。私は、あなたたちとは違う。」
緘黙を破って、却ってもの寂しい、乾声が響いたかと思うと、
「私は、スクールアイドルになる。もっと頑張らないといけないの――」
「あっ、待ってよ梢ちゃん!」
もう左右の気品と高貴へは何の注意もしないで、俯き勝ちに、少女は足早に歩き出した。気高い梢の若葉は、早朝の微風と和やかな陽光とを健康そうに喜んでいたが、鬱々とした大木と老樹の下蔭は薄暗くて、密生した灌木と、雑草とが、冷たく濡れていた。
「夢かぁ‥‥‥いいなぁ。」
「‥‥‥なんか私が悪いみたいじゃん。そういうつもりで言ったんじゃ、ないんだけど。」
二人は出て行った。一方の二人は取り残された自分を持て扱いながら、静かに足を止めて沈思する。春らしからぬ冷え冷えとした雨風が日常の音に連れて忍び入る。少女らは寧ろ厳粛で、気は澄みわたり、あの鍵盤を打つときの入神さを感じていたのだろう。
――『トリストラム・シャンディ』というイギリスの書物のなかに、この書物ほど神の御覚召に叶うた書き方はないとある。最初の一句は兎も角も自力で綴る。あとはひたすらに神を念じて、筆の動くに任せる。何を書くのかあたしには無論見当がつかぬ。書く者は自己であるが、書く事は神の事である、したがって責任は著者にはないそうだ。我が道化の散歩もまたこの流儀を汲んだ、無責任の散歩を望む。唯だ神を頼まぬだけが一層の無責任。使命などに縛られぬ方が楽しいに違いない。スターンは自分の責任を免れると同時にこれを在天の神に嫁した。‥‥‥少女百合亜にとっても、そうであれば良かったのだが。運は天にあり、女制服は胸にあり、人情は足を動かす。彼女の後姿を、忠実に、手繰りながら、追いかける以外の選択肢が浮かばなかった。学校の廊下では走ってはいけない。引き受けてくれる神を持たぬあたしはついにこれを泥溝の中に棄てた。
「梢、ちゃん!待って、よ!」
「‥‥‥百合亜さん、どうして。追いかけてくれなくていいのよ。」
思い堪えかねた百合亜は矢庭に手を掴んでいた。追い付いた少女の顔色には、一抹の寂しさというか寂寥とでも謂うべきようなものが浮かんでいる。彼女の眼は雨粒の流れを追っているが、矢張あたしを見てはいない。
「どうしたもなにもだよ。急に友達が飛び出していったら、流石のごきげんよう少女でも心配するさね。‥‥‥何かあったなら、聞かせてほしいな。」
という返答がこの場合、頗る野暮ったいけれども、然し最も健全な考え方だと思われる。それに違いないのだ。思春期の少年少女なんて、どうせ、自分自身の立場の事ばかり考えているもの。百合亜は何も臆測されたくない心から、言葉を選ばずに言ったのであるが、それは却っておのれの耳にさえ無邪気に響いた。さっぱりしたものだ。
「言葉の通りよ。私は、藤島さんや夕霧さんとは違う。私がスクールアイドルとして今週末のステージ立つためには、成功させるためには、もっと頑張らないといけないのよ。」
眼前で沈鬱なる少女の面持ちを無視できるほどの非人情ではない。冷えた雨風も心臓の鼓動を感じる程になると、幾らか唇にも温みがさして来る。ここは、気の張りどころだ。
「ああ、それじゃ左様なら付き合うよ!そのためのマネージャーだし、なにより、友達の悩みを放っておけないよ。」
こう言って、あたしは半歩進めて親しげに挨拶をしたが、梢はれいの品のある顔をにこりともさせず、唯だ鷹揚に頷いただけであった。言下にしまった、とも思った。これはあの、蓮太郎が良く知る出しゃばりかも知れぬ、と。雨雲に張りついたように立って居る少女、廊下はさっきから嗽咳一つせぬ静けさである。
「‥‥‥ごめんなさい、戸惑わせちゃって。ほんとうはね、私にもわからないの。何もかも、足りていないような気がして。」
「わかる。わかるよ。」
百合亜は梢の言葉の終らぬ先から首肯いた。それは飾り気のない彼女の真心であった。
「梢ちゃんは足りてなくなんかないよ。あんなに綺麗な歌声、あんなに情熱的なダンス。みんなが君を応援してくれてるのは、それがスクールアイドルとして、ほんとうに魅力的だからだよ。あたしも大好きだ。それなのに‥‥‥。」
百合亜は一瞬だけ長い睫を伏せて思索した。好き、なんて、安っぽい言葉。虚傲。懶惰。阿諛。狡猾。悪徳の巣。疲労。忿怒。昂奮。我利我利。脆弱。欺瞞。失敗。ごたごたと彼女の胸を揺すぶった。言ってしまおうかと思った。それでも態とお道化て呟く外は何もできなかった。
「ありがとう、百合亜さん。でも、それだけじゃ、ダメなのよ。やっぱり、言葉だけじゃ、背を向けてるままじゃ、駄目なの。‥‥‥いまは、独りにさせてくれるかしら。」
「梢ちゃん‥‥‥。」
それからすぐ無表情な顔附きになると、中断された奏楽の再開を急かすように廊下の反対側へ向き直った。だがその刹那、少女の表情からは一切の感情が排斥されてしまって見え、その瞬間だけには小さな子供の無垢な残酷さにも似たものが在った。‥‥‥その不屈の精神やスクールアイドル活動に対するプライドは半端ではない強さであり、確かな才能を持ちながら弛まぬ努力も怠らない勇姿。それでも、同期の綴理の天才的なパフォーマンス、そして慈の天性の愛嬌には敵わないものがあると実感し、焦っているのやも、――そのくらいの理屈の判らない百合亜ではないのだが、生れつきの性格は如何ともし難かったのであろう。れいの如く、あたしはこの性質のために人間関係以外にもいろいろな損をして来た。もともと何の根拠もない一時的の情緒なのだから、放って置けば自然に消滅する、なまじ御機嫌を取りに行ったり言い訳したりしない方が良いという風に、たかを括るべきなのだ、――いや、ダメだ、止まれぬ、止まってなるものか、士は己を知る者のために死す、また、要らぬ人情を押し付けてしまうのだ。
「‥‥‥相分かった。でもね、少しだけ心配させてくれないかな。――これ、受け取ってくれると嬉しいな。」
「これは‥‥‥?」
窮余の一策として百合亜が懐から取り出したのは、エメラルドグリーンの表紙の付いた一冊のノートであった。
「みんなと一緒にスクールアイドルクラブに入部して、練習を始めてから。みんながもっと煌めくスクールアイドルになれるためにどうすればいいかって、あたしなりに感じたこと、考えたことを少しずつまとめてたんだ。そうだね、――」
少なからぬ動悸と昂奮を覚えながら、百合亜は再度言い直した。
「敢えて名付けるならば――そう、「スクールアイドルノート」とでも謂おうか。梢ちゃんがスクールアイドルを、ラブライブ!目指すための、初めの一冊。身勝手かも知れないけど、受け取ってくれると嬉しい。‥‥‥あ、練習終わったらまた返してね。あたし、引き続き書いていくからさ!」
にっと笑った百合亜は確とノートを手渡した。その無邪気な表情は、或いは、――如何なる神の前であれ、神の前に立ったとき何人が晏如たり得ようか?神社とか寺院の境内というものは実際に閑静だから、迷える青年は時々そこを選んで散歩に行くようになって、一片の信仰も無いような人間でも、本殿とか本堂の前というものは、何時によらず心を騒がせられるものである。祈願せずに居られぬような切ない思いを駆り立てられる。さればといってほんとうに額ずくだけの直向きな思いにもなりきれないけれども、こんなに煮えきらないのは怪しからぬことと覚え、今度から思いきって額ずくことにしよう、或日決心して青年は近所の八幡様やお諏訪様へ出かけて行く。愈々となってお辞儀だけは済ましたけれど、無邪気なのは、そこまで。一昨日、蓮ノ湖近くの名も無き祠に拝した時のことだ。同時に突然、あたしはおのれの身体に起ったギコチのなさにビックリして、やっぱりあたしのような道化の奴は、心にどんな切ない祈願の思いが起っても、それは唯だの心の綾なのだから、実際に頭を下げたりしてはいけないのだと、諦めたい気持ちすら湧き上がってきた。――そのとき?あたしはね、なんとか按配してお参りした。神さまにお願いしてた。顔を上げて、諦めなかった。
「――ありがとう、百合亜さん。」
夢は、青春は、少年少女を滾らせ先へ先へと歩ませる。現実世界は山を越え、海を越えて、平家の後裔のみ住み古るしたる程の孤村にまで逼る。朔北の曠野を染むる血潮の何万分の一かは、この少女等の動脈から迸る時が来るかも知れない。この少女等の腰に吊る長き剣の先から煙りとなって吹くかも知れない。而してその少女は、夢見る事より外に、何らの価値を、人生に認め得ざる朋友の背中が遠のくのを見詰めていた。耳を欹てれば彼女が胸に打つ心臓の鼓動さえローファーの音に聞き得るほどに思えた。その鼓動のうちには、百里の平野を捲く高き熱き潮が今すでに響いているかも知れぬ。運命は卒然としてこの四人を一堂の裡に会し、離したるのみにて、その他には何事をも語らない。
5
「――ということがありまして。」
「あはは、やっぱりそうか。なるほどねぃ。」
人混みの食堂にて、日替わりランチを食べながら雑談する大賀美姉妹。百合亜はハントンライスにスプーンを入れながら、二の句に窮して首を傾げたまま黙り込んでしまった。
「それで、百合亜はどうしたいんだい?」
沙知はつい思い浮んだままを訊いた体だ。
「それがわかったら苦労しないよ、姉さん‥‥‥。めぐちゃんはいつも梢ちゃんに対しておどけてからかうし、梢ちゃんはそれに闘おうとして饒舌になるし、綴理はほわほわした物言いで無意識にまくし立てるものだから‥‥‥ああもう、しっちゃかめっちゃかですよ。」
「あっはっは!元気で結構!仲良さそうで先輩としては嬉しいよ。」
「もしもし姉さーん?笑いごとにしないでくださいよー。あたし的には本気で悩んでるんだから。」
百合亜は揶揄う口調で言った。事実、沙知にはそんな思想が透いていたのだ。
「ごめんごめん。百合亜がスクールアイドルクラブのために、みんなのために悩んでくれてるっていうのは、よくわかったよ。ありがとうね。」
姉さんは、優しく微笑んだ。迅雷を掩うに遑あらず、少女は突然として一太刀浴びせかけたのだ。対峙するもう一人の少女は全く不意撃ちを喰った。ドキッ、として頬が紅潮していくのがわかる。無論そんな事を聞く気はなし、百合亜も、よもやこの他愛ない会話の流れで、ここまで自己の感情を曝け出そうとは考えていなかった。
「そうだねぃ。たとえば慈の、したたかで小利口な一面なんて、実にスクールアイドルらしくて素敵だと、あたしは思うけどね。自分の活用方法を最大限理解している人間は嫌いじゃないぜ。」
沙知は考え事をするような沈黙を暫く挟むと、続けてゆっくりと口を開いた。
「あるいは、これはキミ自身が一番寄り添ってあげてると思うけど、綴理は、あの才能が今まさに花咲こうとしているところだ。あたし自身がまだまだ理解してやれていないっていうのが、あの子の言葉を借りれば「ス」なのかもしれないけど‥‥‥。まあ、だからこそ、今週末の初ステージが楽しみだねぃ。」
沙知さんの言葉はその間合いといい、表情といい、仕草といい、全てが完璧なほどまでに思索に満ち溢れていて、あたしみたいな道化には何ひとつ応えてやることができないように思われるのだ。それは今日に限ったことではない。というかまた出たぞ。だから「ス」ってなんなんだよ。
「それじゃあ、梢ちゃんは‥‥‥?」
「うーーん。そうだねぃ‥‥‥。」
どこか悪戯っぽく小首を傾げている沙知さんの所作は愛らしいものだったが、そんな素朴な印象とは裏腹に、続く述懐は途轍もない刺激を伴っていた。彼女はお茶を一口飲んで、視線を中空に向けた後に答えた。
「乙宗ちゃんを見てるとね、去年のあたしを思い出すよ。独りで知らない世界に飛び込んで、右も左もわからないまま、ただ夢を追いかけたいという気持ちだけが前に出ている。だからちょっとだけ、空回りしてる感じかな。‥‥‥あと一歩。あと一歩なんだけど、その一歩が難しいんだ。」
「‥‥‥。」
会話はこれで切れる。飯は漸く終わる。ごちそうさまでした。
眼前で優雅に茶を啜りながら思索する姉の姿を眺めて、白状するが、あたしの胸はちょっと、ときめいた。まさか、あたしの事だけで悩んでいるなどとは、幾ら自惚れても考えられやしないけれど、然しあんなに陽気な姉さんが、苟も一個の男子の前で意味あり気に呟いて、そうしてその想いを共有してくれいるというのは、或いは重大な事なのかも知れない。或いは、ひょっとすると、と、そこは、幾ら抑えつけてもやっぱり少し自惚れが出て来て、ついさっきの昂揚感も何も吹っ飛んでしまいそうで、やたらに少女百合亜として座っているのが恥ずかしく思われ、わあ、と叫びたい気持ちで、両膝をぱんと叩いてみせた。
「あ、ついでに百合亜の評価もお願いします!」
と、恥ずかしさついでに少しふざけてみせる。
「えぇー?ぜーったい要らないでしょ。噂話ならともかく、本人の目の前でこういうこと言うの、流石のあたしでも恥ずかしいからね!」
「ちぇー。それじゃあ、労いの言葉をもう一度求めます~。」
「はいはい、可愛いよ可愛いよ。いつもありがとうねぃ。」
妹の軽口に、姉は苦笑をもらして答えた。次第に二人は互いの笑みを探り合うにらめっこの段階へと入るが、こうなると妹に勝ち目は無くなってしまう。百合亜は沙知から視線を逸らし「んんっ!」と咳払いだけしてみせたのである。
「教室の匂い、春風の舞う桜色、トントンカンカンというローファーの音、雑談、まねっこ動物、口喧嘩、じゃれ合い、満腹、笑い声、……それでいてみんなが仲がよくて、そのくせみんなが仲が悪くて、しかも元気で活気があって、そうして全体が平和なのです。」
百合亜はどうにも心に染まないらしい。羞恥の表情だ。で、頑固に言うのであった。
「夏場はミョウガが安い。百円でも買えるのに、然し冬場は二百円台にもなる。‥‥‥そういうことなのです、姉さん。」
「あはは!そろそろ降参しかけたねぃ。ほんとうにからかい甲斐のある妹だ。‥‥‥さ、頃合いだ。そろそろ行こうぜぃ。」
右手を伸べて、胸中に輝くものを戛然と鳴らすよと思う間に、艶めく深緑より滑る髪留が、やおら掌に落ちんとして、一尺の長さに喰い留められると、余る力を横に抜いて、隣につけた刈安の飾りと共に、長いものがふらりふらりと二三度揺れる。第一の波はぱちりと留め直した少女の白き腕を打つ。第二の波は観世に動いて、軽く袖口にあたる。第三の波のまさに静まらんとするとき、少女はっと立ち上がった。
百合亜は思った。小さな諍いは友情を維持するものだというのは、誤りである。ふつうの少女なる存在は、非道な態度をとるように他人から仕向けられるのを恨むものだ。あたしの如く凡夫なんぞはよく反省しようと努め、おのれの専横を自ら咎めんと欲する。百合亜の誠実な激越な性質は、心より友情を味わうと、それに自分の全部を与えるとともに、また向うからも全部を与えて貰いたかった。彼女は友情を分つことを許さなかった。友に全てを捧げるの覚悟でいた彼女は、友の方でも自分に全てを捧げるのが、正当でまた必然のことでさえあると考えたかった。然し彼女はまた、世の中は自分のような一徹な性質を元として建てられてるものでないと感じ始めてもいて、事物にその与え得ないものを要求してるのだと気付いていた。だからこそ、友人同士の諍いは我が心を悩ましめ、あたしの心臓は早鐘の様に高鳴り始めて止まないのだ、と。矢張気羞しさを拭えないものの、自分の中で相剋して居る事柄なだけに、不思議と妙に落ちつきを欠いてしまったのだった。
…
……
「失礼します。」「失礼します。」
沙知さんは会議室の扉を開き、あたしはその後を追って重苦しい空気感が支配する部屋に入っていく。一番奥には大賀美理事長の姿を認めたが、
「こっちへ来いよ。」
と、出席者の一人が下品な口調で言って、
「こんどは多少、優秀かな?」
他の出席者たちも、にやりと笑った。部屋全体の雰囲気が不潔で下等な感じであった。
「名前は、なんだ!」
そんなに威張らなくてもいいじゃないか。
「大賀美百合亜です。今月から理事会に参加させていただきます。」
「理事長閣下の隠し子かね?ハハハ!」
無礼な笑い声が響く。とんでもない大人たちに女学生らの生殺与奪権が握られているようだ。
「理事長先生の養子です。これは家族間の問題ですので、無用な詮索はなさらぬよう。」
と沙知さんは強気な語調であたしの立場を説明した。ついでに、
「百合亜はあたしの妹だとでも思ってください。彼女も容認派の一員として、蓮ノ空女学院存続の為に協力させていただきます。」
とやる。
「としは、なんぼ?」
いやになるね。リボンタイを見ればわかるじゃないか。
「十五です。この四月に入学いたしました。」
「お父さんのゆるしを得たか。」
沙知さんの話を聞いていなかったのか?まるで罪人扱いだ。むかっとして来た。
「お父さんはいませんよ。」
「亡くなられたのですか?」
白髪の目立つ中年が、傍から、とりなし顔にやさしく、それでいて不躾に百合亜へ尋ねる。
「姉の発言の通りです。」
仏頂面して答えてやった。これが理事会か?呆れるばかりだ。
「気骨稜々だね。」
にやにや笑って、
「得意な科目はあるかね?」
「世界史です。やたらに煩瑣で、そうして定理ばかり氾濫して、いままでの学問は完全に行き詰まっている。一つの暗記物に堕してしまった。されど歴史は違う。纏綿たる人間の意志と魂を感じるのです。だからあたしはナポレオンを好みます。」
百合亜は即座に答えた。兎角彼らには無礼られまいという気概であった。
「凡人伝なるかな!凡人伝なるかな!」
「凡の凡なるかな、すべて凡なり。実際だよ。これは材料豊富だから誰でも書けるぜ。」
また、はじまった。老人たちは訳の分からない理屈で唸るばかりで、何処までもあたしの存在を別にしている。
「世間はもう偉人伝に食傷して、凡人伝を要求している。ナポレオン伝が何百冊と出ていて、それを読むものが何千万人とあったけれど、果して第二のナポレオンが現れたか?一人でも現れたか?否。これをもってこれを見るに、偉人の成功を学ばしむるの偉人伝は人目を晦ます。寧ろ凡人の失敗に鑑みしむるの凡人伝をもって大衆を導くに若かず。世界は多数のナポレオンを要しない。見よ、ヨーロッパは一つしかないではないか?」
ナポレオン志望者は実に多い。各人皆それだ。これは後世どころか、現在に於いて友達を益することが出来る。万人悉く在来の偉人伝に誤られている、云々。百合亜は老人らの戯言を咀嚼することを放棄しかけていた。隣に姉が居なければ間違いなく中座している。
「見どころあり、かね?」
「演劇部ですか、吹奏楽部ですか?」
たいそう高級そうな腕時計を身に付けた老人が鉛筆でご自分の顎を軽く叩きながら尋ねる。老人ではあったが白髪ではなかった。その態度には、なんだか女狐のような、陰性の敵意が含まれていた。こっちの方が手剛い。そんな気がした。
「なんですか?姉と同じくスクールアイドルクラブです。」
それでもあたしはその発言の意図がよくわからなかった。
「しからば、たずねる!」
また馬鹿声を出して、本気か冗談か、わけがわからない。どうして大人は、こんなに柄が悪いんだろう。人相だってよくないし、服装だってスーツの着流しで、だらしがない。北陸で有数の文化的な私立高校「蓮ノ空女学院」の、これが指導者なのかと思うと、がっかりする。きっと、お酒ばかり飲んでちっとも勉強していないのだろう。下唇をぐっと突き出して、しばらく考えてから、やおら御質問。
「学生の、使命は、何か!」
愚問なり。驚いた。あやうく失笑しかけた。まるで、でたらめの質問である。質問者の頭のからっぽなことを、あますところなく露呈している。てんで、答えようがないのである。
「それは、人間がどんな使命を持って生れたか、というような質問と同じ事で、まことしやかな、いつわりの返答は、いくらでも言えるのですが、あたしは、その使命は、まだわかりませんと答えたいのです。」
「君はよく知っているね。」
と一人が訝かった。清躯恰も鶴の如しと、こうも謂ったら当たるであろうか、そんなにも老人は痩せていて、そうしてそんなにも清気であった。
「しかし妙な事を言うね。」
口紅の濃すぎる別の老婆はフガフガと鼻へ抜ける、不明瞭な声で、ぶっきら棒に言った。
「学生の使命はね、外に向っては若者自身の教化、内に於いては集団生活の模範的実践。そうじゃないかね。」
大人は、鈍感である。軽い口調でそう言って老婆は首肯きながら、朱泥の急須から、緑を含む琥珀色の玉液を、二三滴ずつ、茶碗の底へしたたらす。清い匂いと劈く香水が微かに鼻を襲う気分がした。あたしは、呆れた。廃校したほうが、むしろ名誉だとさえも思いそうだった。
「それは、学生に限らず、社会的動物なら誰でも心掛けていなければならぬ事で、だからあたしが先刻言ったように、そんな立派そうな抽象的な言葉は、本当に、いくらでも言えるんです。そうしてそれは、みんなうそです。」
「そうかね。」
出席者リストに改めて目を流す。下間氏は、けろりとしている。あまりの無神経に、あたしは下間氏をちょっと好きになったくらいであった。
「そういう考えかたも、面白いね。」
「ええ。」
ええの二字では少し物足らなかったが、その上掘って聞く必要もないから控えた。――いいや、やっぱり滅茶滅茶じゃないか。少し厭になってきて窓に視線を遣ると、木梢の影が少し位置を変えている。
「皆さん、本題に入りましょう。」
両肘を立てて寄りかかり議論に耳を傾けていた大賀美老人は漸く口火を切り、ちょっと上品に気取って言った。
「彼女には何をお願いしましょうか。」
規制派の頭目らしき老人は、くそ叮嚀な口調でおじい様に尋ねるのである。
「理事長閣下お気に入りの女学生は、程度が高いそうですから。」
いやな言いかたを、しやがる!卑劣だ!――七里氏。世の中で、いちばん救われ難い種属の男だ。これが学院の命運を担う大人の姿とは、まったくなってないじゃないか。
「年度はじめですし、今回は自己紹介と、互いの立場の表明。来月以降の議論の方針の確認をして終わりましょう。」
一方で我ら容認派の仲間と思われるこの老人は六十近い、丸顔の、達磨を草書に崩したような容貌を有している。おじい様とは平常からの昵懇と見える。
「共学化の‥‥‥」
と百合亜は一番奥で腕を組む大賀美老人の方を見て、言おうか、言うまいかという態度を取る。同情のある恐喝手段は長者好んで年少に対して用いる遊戯である。
「具体的な方策については、来月以降の議題といたしましょう。」
あたしはその老人の眼鏡に注意を取られた。幾度見ても蔓がない。鼻眼鏡だ。醜い老人の痴話と共に初対面だったから、好奇心が動いた。
「わかりました。本日は貴重なお時間をいただきありがとうございました。蓮ノ空の未来の為、今後も学生の目線から意義ある提案ができるよう、彼女とともに努めてまいります。」
然し沙知さんは普段と同じように、気品のある艶めいた笑い方を顔一杯に漂わせるばかりで、老人たちへ真っ直ぐに答えるのである。一方で横に座る百合亜は二の句が継げず、しどろもどろの答弁に頗る失望の面持ですぐにでも帰って行こうとしたが、
「沙知君の発言は尤もだ。まあ、来月までに面白い提案を考えてくるんだね。君たち学生の為の問題であるのだから。」
と今度は責任を問う。問題をひた隠しにして先送りにしていたのもあなた方大人たちだろうに!癪に障るけれど仕方がない。
「待ち給えよ。」
と下間氏は机辺の棚から書類の綴りを取り出して、撥りながら、
「大賀美百合亜君。これですね?」
「ハァ。」
少女は頭を掻いた。好い気味だと思った。
「君、将来の志望は?」
「未だ決めてありません。」
「結構です。まあまあ、勉強しながらゆっくり考えるんですな。」
「ハァ。ありがとうございまする。」
ゴザイマスルという不可思議な言葉を使ったのは、自分ながらゲッとなった。気取るという事は、上品という事と、全然無関係な浅ましい虚勢だ。高等御下宿と書いてある看板がたしか東西の茶屋街あたりにあったものだけれども、実際名前の与えられた大人なんてものの大部分は、高等御乞食とでもいったようなものなんだ。反面教師にしてやろう、あたしのお嬢様訓練もまだまだ未熟なようだ。気まずさと口惜しさからだろうか、つい口が滑ってしまう。
「あたしはまるで若さと謂うものを何も知らずに、風に誘われてうかうかと蓮ノ空へ入学したようなものです。大鵬の志は猶も掌にありますが、同じくらい悔やんでも悔やみ足りない気持ちもするし、諦めの付く思いもします。それでも大賀美家の一員として、学園の将来の為に尽くしたいという想いは一入、そして大人の皆さまは、若者の若さを妬いてはおられないようです。わたくしどもの孤独感や、追憶の味気無さを思うたら、所謂老婆心というようなものも、あんまり信用しては困るらしいです。」
百合亜は無神経にも言い放った。
「うまい!」
七里氏は無邪気に褒めてくれた。
「満点だ。ぜひ来月も来てくれ給え。」
彼は感心したようだった。百合亜も変な中どころがあればあるものだと思った。みすみす矛盾したことを平気で言っているはずなのに。
「きょうは討論は無いのですか?」
へんに拍子抜けがして、あたしは掘り返した。
「生意気言うな!」
末席の小柄の、日野氏なる老人が、矢庭に怒鳴った。
「君は僕たちを軽蔑しに来たのか?」
「いいえ、」
あたしは胆をつぶした。
「だって、共学化の話も、――」
しどろもどろになった。
「共学化の話は、」
少し顔を蒼くして大賀美老人が答えた。時を同じくして、沙知さんの右手があたしの膝に置かれたのに気付いた。
「時間の都合で、きょうはしないのです。議論の内容は、複雑で時間のかかるものですから。君にも言って置きますが、いまから焦って議論の選り好みをするようでは、万人が納得するような提案ができるものではありません。それに、君たちはまだ学生だ。学生の資格として大事なものは、才能ではなくて、やはり人格です。」
「それじゃ。」
規制派の面々はおじい様の発言に何も感じないみたいに、にやにやして、
「平均五十点といったところだ。まあ、きょうは帰れ。おうい、次の会議だ次の会議だ!」
老人は涎の出そうな口をして言うのであった。
百合亜は沙知に従い軽く一礼して部屋から引きさがったのだが、不思議なほど随分得意な気持ちもあった。というのは、大人たちはあたしを非難しているつもりで、却ってあたしの才能を認めていることを告白してしまったからである。「やはり若さと人格だ。これはまた面白くなりそうだ。」と、規制派の重鎮らしき老人が大賀美老人の論調に沿った意見を漏らしていたが、それではいまの百合亜に欠けているものは人格で、才能のほうは充分という事になるではないか!あたしは、自分の人格に就いては、いつも努力しているし、いつも反省しているつもりだから、そのほうは人に褒められても、却ってくすぐったいくらいで、別段嬉しいとも思わぬし、また、人に誤解せられ悪口を言われても、まあ見ていなさい、いまにわかりますから、というような余裕もあるのだが、才能のほうは、これこそ全く天与のもので、いかに努力しても及ばぬ恐ろしいものがあるような気がしているのだ。その才能が、少女百合亜にある、延いては沙知さんの隣に立つに相応しいと、名目上にも北陸有数の文化校を経営する大人が、うっかり折紙をつけてしまった。ああ、喜ばじと欲するも得ざるなり。しめたものさ。あたしには才能が、あったのだ。人格はまだ無いけれども、才能はあるそうだ。大人に対しては、人格の判定は出来ない。嘘の判定だ。あたしには他者を判定する資格などが無い。けれども流石に、才能に就いての判定は、おじい様など更に流石数段正確なところがあるのではあるまいか。餅は餅屋である。教育者の才能は、教育者でなければわからない。素晴らしき事だ。あたしには、学院の未来図を語るだけの才能があるのだそうだ。笑わじと欲するも得ざるなり。いまはもう、少しくらい自惚れても良いじゃないか。
「はああああぁぁぁぁぁぁぁ‥‥‥‥。」
とはいえ、緊張から解き放たれるとなんともかとも要領を得ぬ声を出す百合亜である。淋しいと言えば、偽りである。淋しからずと言えば、長い説明が入る。一気に抜けていく。まずは、この場をなんとか乗り切ったおのれ自身を勇気づけ、そして成る丈早く、姉に愚痴を聞いてほしかった。
「おつかれ~百合亜。いやー、初めてにしてはよくやったよ!流石はあたしの妹!」
「沙知さん、お疲れ様でした。なんだろう、とんでもない大人たちでしたね。これからあんなのと闘っていかなければならないと思うと気が重い。」
「そうかい?あたしはきょう百合亜が隣に居てくれたから、いつもよりずっと心強かったぜ。」
「(トゥンク)姉さん‥‥‥!」
彼女の表情は静謐だった。そう言って微笑む彼女は観音さまのように無邪気で曇りが無かった。筆舌に尽くし難い偶像の艶美なる表情を眼前にした時、あたしはそれを「男らしい」とか「女らしい」とか、そういった次元ではは譬えようのない深淵なる美を覗いている感じがするものだ。或いは歌舞伎などでもそうで、「女形」を手本にしたような「女らしさ」の誇張は、腕力を生命とする職業人の「男らしさ」の誇張とともに、舞台芸術に於ける一対の喜劇であることは謂うまでもないが、「女らしさ」を酔興にも脱ぎ捨てようとする女があるとすれば、それは、その目的を完全に達し得ないばかりでなく、人間としての一切の魅力を喪失する悲劇を演じる得るわけである。そんな沙知の男気ある一声は、少女を演じる〈百合亜〉の心を更に惹きつけるには充分であった。とりかえばやだぜ、姉さん‥‥‥!ほんとうに姉さんは、あたしの考えていることをスラスラと言ってくれる。彼女と肩を並べて歩くことの出来る幸福をあたしはひしひしと感じながら、その美しい横顔を盗み見た。
「まあでも、学生たちの嘆願書は毎年すごい数が提出されてるのも事実。意見を集めるだけでは、意味無いんだ。それと同じで、あたしたちが理事会で小さな声をあげたとしても、大人たちの耳にはきっと届かない。」
然し彼女の視線は遠くへと向けられていて、それは決して百合亜個人を見詰めているのではないという事実も、この上なく意識させられてしまう。だとしても、だ。
「‥‥‥成る程。おじい様の発言も尤もということですね。中身だけ素晴らしい提案をしても、大人たちは納得してくれない。子供の我儘に終わってしまう。それでも、学院にとって最良な提案を練り出して、彼らの協力をも勝ち取って、成る丈早く実行していかなくてはならない、と。うむむ二律背反、難しい悩みです。」
「そーいうことだねぃ。まま、でも焦る必要はないさね!基本的にあの人たちは、いつもあんな感じだから。馬鹿正直にぶつかって行っても議論にならないって、あたしも最近気付かされたよ。あたしたち二人で、協力しながら、その為の機会を作っていこうじゃないか!」
沙知は百合亜の背中をぱんと叩いた。
「‥‥‥はい!ありがとうございます、姉さん。」
百合亜は半眼を開き、小声で訴えるように囁いた。姉さんの笑顔は眩しかった。正直、とは、こんな感じの表情を言うのではないかしら、とふと思った。それは修身教科書くさい、厳めしい徳では全くなくて、正直という言葉で表現せられた本来の徳は、信頼と友愛で支えられて、こんなにも可愛らしいものではなかったのかしら、と考えてしまう。
「‥‥‥っと、もうこんな時間だ。早く練習いかないとねぃ!」
沙知さんは廊下に掛けられている時計を見て言った。彼女は基本的にいつでも元気いっぱいの太陽のような人だから、その笑顔につられてあたしまで一気に笑顔になってしまった。
「はい!きょうも練習頑張りましょー!」
チャイムは、少し音が外れている。約五十年前も同じだったらしいから、あの大人たちにとっても耳慣れた音色なのかも知れぬ。窓の外を見ると沛然と春霖。どうりで、ひやり冷たかった。校庭でそれぞれの種目を練習していた女学生たちは、蜘蛛の子を散らすように、ぱあっと飛び散り、どこへどう消え失せたのか、泡沫みたい、たった今まで、あんなにたくさんの少女達がいたのに須臾にして、巷は閑散。優しい小糠雨が木々をしっとりと濡らし、日溜りに塵が煌めいていた。冬の陰鬱な空気は完全に過ぎ去ったように穏やかで、ふんわりとした暖かみすら感じさせる。蓮ノ空には、雨だけが白くしぶいて居た。
6
練習室には二人分の靴音が響く。灰燼の巷と化し去ることを免れた青春の一幅に捉える情景も、変らずにある部屋の内の道具も、もう一度誰かを迎えてくれるかのように覚える。歌唱を競う音がまた聞えて来た。感情豊かな指先から流れて来るような楽しげなメロディばかりでなく、舞踊を刻み床を歩き廻る小娘らしい靴音までが聞えて来るのである。
「――よし!いまのところ、すごく良かったんじゃない?」
「めぐも、すごくいい感じだ。パフェみたい。」
「ん。ん-‥‥‥?パフェってなに?」
「‥‥‥はぁ。どうして、私は‥‥‥。」
梢は独り、つっ立ったままその練習風景を眺めていた。様子を窺いながら答えを待っている――或いは怖気づいている彼女の顔は、口が尖って額に皺が寄っていた。そうして新たに軽やかな靴音が、入口の方から小刻みにして来てはっとしまったように止まる。彼女は手の触れた感覚がして、その方を振返るのであった。
「や。どうしたんだい後輩ちゃん。一緒に練習しよーぜ。」
「沙知先輩‥‥‥。私は‥‥‥」
梢は別に大したことではないように微笑を装う。然しその唇は震えていた。
「ねえ、梢ちゃん。君の声を、聞かせてほしい。あたしと、沙知さんに。」
百合亜は不躾にも劈頭第一に尋ねた。あたしは彼女の煩悶をよく知っているつもりだった。それで足が向き、その双眸をじっと見詰めて相談を促したのである。
「そうだね。教えてくれないかな、乙宗ちゃん。――キミの目標は、夢は、なんだい。」
沙知さんもさすがに機を見るに敏である。くるりと態度をかえていた。あたしは思わず息を呑んでしまう。そして梢ちゃんはゆっくりと呼吸を整え、覚悟を決めたかのように唇を開いた。
「‥‥‥私は、最初からスクールアイドルとして頑張るつもりで、ラブライブ!優勝経験のあるこの学校に来ました。だから、そういう意味でも、夕霧さんや藤島さんとは正反対。」
柔い唇をして額に薄黒い曇りがあった。何だか幻想的な気がする、そう思うと、室の中の空気までが息苦しいように感じたから、あたしは拳を握りしめて空気を一杯吸った。冷かなでもあり熱気もある練習室の温度が百合亜の身を包んだ。
「はじめは、ムッとしました。スクールアイドルもラブライブ!もろくに知らないのにどうして伝統あるこの蓮ノ空に入学して来たの、私はそのために全てを捧げてきたのに、って。‥‥‥でも、ダメだった。そんなモヤモヤはすぐになくなっちゃったんです。」
「ダメじゃない、梢ちゃんはぜんぜんダメなんかじゃないよ。」
言早に出た百合亜の慰めも不首尾に終わる。梢はまるで取り合わない態度で、彼女の方を振り向きもせずに感情を繰っている。
「私は、努力をすることが好き。いいえ、そうするべきだと思っています。‥‥‥でも、私は藤島さんみたいな愛嬌があるわけじゃないし、夕霧さんみたいに才能がある訳じゃないから。スクールアイドルとして見せられるのは、結局は自分の歩んできた軌跡だけ。目指すのはラブライブ!優勝です、って、あれだけ強い言葉を吐いておいて。情けないです。」
牡丹の花弁を啣んだような紅い唇をふるわせた一刹那、百合亜ははじめて、彼女が、自分で自分の体を思った通りに動かせないという現象を嫌悪しているのではないかと考えた。何故わざわざ不恰好に動く必要があるのか?自分の体には自分の意思が通用せず、他からの強制や束縛を受けなければならぬとは何事か?それはきっと、自身の運命に対する冒涜であろう。
「なるほどねぃ。‥‥‥ありがとう、キミの気持ちを伝えてくれて。でもね?キミひとりでラブライブ!に優勝することは、たぶんできないんだ。」
「沙知先輩‥‥‥。」
「姉さん‥‥‥。」
さっきからあたしはノートを両手の上にひろげているのだが、一頁もすすまない。いろんな空想で、唯だ胸が、ざわついているのである。へんに、不可解なほどの緊張だ。これから、いよいよ現実生活との取っ組合いがはじまるのだ。少女一匹が、美しく闘って行く姿!もう胸が一ぱいになってしまう。次のライブは、うまく行くかしら。こんどは彼女こそがステージに行くのだ。舞台では――二人が支え合うのだから。
「だからあたしはキミと、「スリーズブーケ」としてステージに立ちたいんだ、梢。ゼロか一かじゃないと、あたしは思うんだよね。キミの言っていたことも正しい部分はあって、慈にも、綴理にも、それにあたしにも、譲れないことがあって。でも、いいんだ。お互い、相手のいいと思った部分を取り入れて、スクールアイドルとして成長できれば。」
呼んだ先輩と呼ばれた後輩は、面と向って会話している。三十畳程の無機質なる空間は外界と緑濃き植込に隔てられて、耳朶に鳴る水音の響さえ幽かである。寂寞たる浮世のうちに、唯だ二人のみ、生きている。もう一人の少女を境に、二尺五寸を隔てて互いに顔を見合した時、物質世界は少女等の傍を遠く立ち退いた。吹奏楽部はこの時管楽器を鳴らして学園の伝統を揺さぶっている。理事会では虚無な議論に老人たちが時間を費やしている。練習室では少女達の視線が一所に投げかけられている。
「いまはね、梢を見ているとあの頃のあたしを思い出すんだ。ただ純粋にスクールアイドルに憧れていた、情熱的な気持ちを。きっと誰でも通る道さ。‥‥‥まあ、あの二人がちょっと特殊かもしれないけどねぃ。でも、キミはキミの道で、いいじゃないか。」
返事に詰まって、黙ってその同輩の麗貌を見ると、彼女は額に少し汗をにじませながら、矢張黙って先輩の顔を見返していた。
「‥‥‥どうして私だったんですか?沙知先輩だったら、他にもっといい人が‥‥‥。」
ポニーテールにまとめて一本に編んだ柳髪が、左右の肩甲骨の中央に哀しげに垂らしていた。四月から五月へかけた若葉の頃、穏かな高気圧の日々、南西の微風がそよそよと吹き、日の光が冴え冴えとして、制服を重ねても汗ばむほどでなく、肌を出しても鳥肌立つほどでなく、謂わば、体温と気温との温差が適度に保たれる心地よい暖気になると、少女は謂い知れぬ快さを、身内にも周囲にも感じて、晴れやかな気分に誘われてしまうだろう。たとえば思うさま背伸をしてみても、腕をまくってみても、足袋をぬいでみても、頭髪を風に吹かしてみても、爽快な感触が至る所にある筈だ。練習着も雑談も空気も空も日の光も、一寸ひやりとする温かさで、肌にしみじみと触れてきた。そして何処にも、眼の向く所には、こんもりとした新緑の二枝三枝が見えていて、葉の一つ一つが輝かしい光を反射し、仄かな香をも漂わしていた。
「私、いまでも沙知先輩の足、引っ張っちゃってますし‥‥‥。あんなにいっぱい、練習したのに、ぜんぜん届かなくて‥‥‥。ダメなんです‥‥‥。」
沈思する梢の述懐にも、沙知はにっこりした頬辺に笑顔で応じている。
「ねえ、梢ちゃん。」
あたしには気の利いた返事が出来ない、貧相な脳髄では気の利いた会話が出来やしないから、そのことが無性にもどかしい。でも、あたしの脳みそが夢の野原に吸い込まれるようになる前に、勝手に言葉だけが先に出たのである。
「梢ちゃんも知ってるはずだよ。スクールアイドルはね、すごいんだよ!なんだっていいの、すごく自由なんだ。自分のためにやっててもいいし、応援してくれてる人のためでも、ラブライブ!優勝のためでも、楽しいからやっててもいい。違うから、ときにはぶつかったり、ケンカするかもしれないけど。でも、同じだから、お互いを認めて、一緒に手を取り合えるんだ。やりたいっていう気持ちがあれば、どんな個性だって受け入れられるのが、スクールアイドルなんだ!」
なんの躊躇。なんの思案。眼前の朋友に未練を残すようならば道化の人情は石や瓦と同様だ。自分の心で何もかも過去は一切焼き尽くして見せる。羞恥もない、懶惰もない。まして憎悪もない。みんな捨てる、みんな忘れる、みんな理性で克ってみせる。その代わり彼女にも、夢という夢をすっかり忘れさせずにおくものか。それほどの蠱惑の力と情熱の炎とが自分にあるかないか見ているがいい。そうした一途の熱意が身を焦がすように燃え立った。だんだん募って来るような腰の痛み、肩の凝り。そんなものさえ百合亜の心をますます昂らせるのであった。
「うんうん、百合亜の言う通りだねぃ。それにあたしもね、スクールアイドルを見る目には、少し自信があるんだから!」
沙知は揶揄うような口調でにひっと笑ったが、その態度には、どこやらデカダンと紙一重の艶かしさがあった。揚々に答えた後は黙って互いの瞳を見詰め、やがて堰を切ったように喋り出す。
「キミ自身の夢を信じて、それと、あたしを信じて。一緒にスリーズブーケとして、ステージに立ってくれないかな、梢。」
「私なんかで、いいんでしょうか‥‥‥。」
「キミがいいんだ。キミと一緒じゃなきゃ、あそこには届かない。――いや、違うな。あたしは‥‥‥キミと一緒に、スクールアイドルがしたいんだ。」
晴れ晴れと、寛いだ笑顔。もう一人のスクールアイドルも、いまは笑顔に返っていた。
「あたしもね、スクールアイドルクラブに入部したばかりの頃は、唯だ我武者羅に走り続けてた。でもね、ある時気付いたんだ。独りで戦っていると思ってたけど、傍にはずっとユニットメンバーが、先輩が、仲間が居たんだ。だから‥‥‥。」
二階梯の鈴の音が思わぬパノラマを百合亜の眼前に展開するにつけ、急に故人の名を失念して、咽喉まで出かかっているのに、出てくれないような感じがする。そこで諦めてしまえば、出損くなった名はついに腹の底へ収まってしまう。蓮の蕾が花開く前のようなに、仄かに甘い匂いが立ち上っていた。それでも百合亜は、梢を透かす夕陽の明りの投げかけに、目を薄目に明けながら、半歩少女の方へ近づいて、強く、言った。
「うん!みんなが一緒なら、どんなことだって、いつか叶うよ!」
「‥‥‥!百合亜さん、ありがとう。‥‥‥沙知先輩、私、やりたいです。スリーズブーケの一員として、精いっぱい頑張りますから‥‥‥!改めて、ご指導よろしくお願いいたします!」
「ああ、こちらこそ、だ!――おおい!綴理、慈!みんなで一緒に練習しようぜー!」
沙知がすっと梢の背中を押し、同級生二人の元へと遣るのである。
「こず、待ってたよ。やろう。」
「‥‥‥ん。私は待ってなかったケド。ま、魅せ方くらいは教えてあげるよ☆」
練習室の窓を開けたら雨はもう止んでいた。校庭の栽込を隔てて、水滴には銀杏返しみたいにぐっと結われた赤褐色のポニーテールが跳ねている姿が乱反射し、開化した楊柳観音のように空を見上げる。自分でも驚くほど、先刻に引き替えて、はなはだ静かな姿である。俯向いて、瞳の働きが現世へ通わないから、相好にかほどな変化を来たしたものであろうか。昔の人は人に存するもの眸子より良きはなしと言ったそうだが、なるほど人焉んぞ廋さんや、人間のうちで眼ほど活きている道具はない。寂然と倚よる木梢の下から、蝶々が二羽寄りつ離れつ舞い上がる。途端に練習室の空気も晴れたのである。百合亜の掛け声とともに四人のスクールアイドル達がステップを刻む。歌声は宙を踊る。慈、綴理、梢は沙知の後ろで横並びになり、その動きを追っている。そのままスクコネでのライブ直前全員配信に挑んだが、期待と昂奮の中に不安だの嫉妬などは雲隠れして、この季節の山々の凋落が忘れ得ぬうちに、あとは至極呑気な春となる。
――まったく、油断もなにも、あったもんじゃない。女学校へ潜入するのは、敵千人の中へ乗り込んで行くのと変らぬ。自分自身は勿論、他人には負けたくないし、さりとて勝つ為には必死の努力が要るし、どうも、いやだ。敗北者の憧憬か、勝利者の悲哀か。まさか!少女百合亜よ、あしたは、にっこり笑い合って握手しよう。全くお前自身に蓮ノ湖で言われたとおり、あたしのからだは白すぎるんだ。いやで、たまらないんだ。けれどもあたしは、へんな所におしろいなんか、つけていないぜ。ばかにしていやがる。でも、あたしは、やるんだ。彼女達を、舞台上で煌めかせてみせる。それだけだ。今夜はノートを書き殴って、それから聖書を読んで寝よう。心安かれ、我なり、懼るな。
7
四月二十九日、金曜日。Fes×LIVE当日。春はどこともなく地上に揺れ立っていた。ライブにはお誂えの天気だ。これでは嘸混み合っているだらうと予測され、音楽堂の前は果して人でいっぱいだった、――という訳ではなかったけれど、お披露目ライブという肩書には充分過ぎるほどの賑わい、而もその大半はあたしたちと年端も変わらぬ女学生たち。然し見渡した所、これから舞台に上がる彼女らに優っている者は、全くといって良いほど無かった。改めてこのクラブの歴史とおのれがその一員であることを実感し、百合亜は幾らか得意な気がした。
「――これで、よし。髪のセットもオッケー!我ながらばっちりだ、めっちゃかわいよ!!」
「ん、ありがと百合亜。きょう会場に来てくれた人全員、めぐちゃんのこと大好きにさせてみせるから!」
「おうよ!ばっちり目に焼き付けてやるぜ!」
五人の少女達は舞台裏に入り、銀幕が上がる前の滾る空気を呼吸しつつ、劇場のメカニズムを体得しようとしていた。慈は長い、たっぷりと艶のある髪を編まれるだけ編まれて、幼馴染とれいのぐうタッチを交わしていた。
「ゆり。」
「ん、どうしたん綴理?もしかして緊張してる?かわいいよ。」
「うん、そうじゃないけど、ありがと。‥‥‥ね、ボクはきょう、なれるのかな。沙知の言う、きみの言う、スクールアイドルに。」
ゆめ。待ち焦がれる少女は飾り気の無い表情で親友に尋ねた。アイドル然とした、ピンク色のワンピースを基調としたステージ衣装は皆とお揃いでよく似合っている。
「大丈夫だよ。決めるのは、綴理自身だから。誰かが君を決めるんじゃない。君が、綴理自身が世界を選ぶんだ。‥‥‥あたしも舞台裏で支えてるから、信じて。」
「‥‥‥!うん、そうだね。」
百合亜は大きな手を出して真珠の可愛いらしい友の手を握った。そして顔幅満面の愛相をぶちまける。その笑顔には何の遠慮も恥じらいもない、唯だ親愛の念だけがあった。
「‥‥‥はぁ。どうしよう、倒れちゃいそう‥‥‥。」
「梢ちゃん。」
「百合亜さ、――ん?」
百合亜は梢の震える手頸を優しく掴み、そしておのれの固い胸に手を乗せた。
「‥‥‥聞こえる?あたしもだよ。緊張して仕方がないんだ。でもね‥‥‥大丈夫だよ。たくさん練習してきた。あたしもずっと見てきたよ。」
電気を含んだ針金のような神経が、梢に絡んで来るのであった。沈黙の底に二人の嗜好が化石していた。それが梢の胸を刺した。
「――ほんとうにありがとう、百合亜さん。私、スクールアイドルになってみせるわ!これが私の、第一歩!」
梢は百合亜の、その燃える灰色の瞳に吸い寄せられるように見入りながら、力強く答えて見せたのである。雪国の花の根強い力と、青春の芸術に対する自信とを有している少年少女は、この生々しい心臓の動悸と向き合って、もしくは掴み合っても、屹度おのれの新奇なる音楽を完成させようと努力するに相違ない。
「新しい衣装に身を包んで、どこか緊張した顔でステージに上がって。なんだか懐かしいねぃ。‥‥‥去年はあたしも、先輩方からはこんな風に見られていたのかな。」
舞台は桜の花など咲いた野外が好ましいけれど、室内で装置する場合には、緑色の布を額縁として画り、地は、春の土を思わせるような、黄土色の布か、緋毛氈を敷きつめる。背景は神経質な電気の反射を避けるため、空も山も花も草も、それぞれの色の布を貼り付けたものを用いる。全て手造りであるスクールアイドルの舞台装置も、演出も、神経的でなく、子供の本能と情操とが想像した、愛らしい朗らかな春そのものの創造であること。扮装は、もしかして少年少女は平常着のままでもよいのかも知れないが、子供の空想の産物みたいなアイドル衣装こそが相応しいと、あたしは確信している。舞台少女は威厳を損じない程度に快活な人物であること、それでいて情熱的な夢想家でもあること。その愛嬌に道化の仮面は無残にも剝がされていく。
沙知部長はふと思い出したかのように軽い咳払いをして見せると、この個性的な新入生達を安心させるように笑窪を作った。ステージの側にある大時計の針が時報を打つ。その音が、まるで何かの合図のように、やがて彼女は意を決したように口を開いた。
「さて、と。よぉし!そろそろ行こうか!準備はいいかい諸君!」
「はい!」「うん。」「はーい☆」
「みんな、いってらっしゃい!」
もう出番まで幾分もない瞬間のことであった。あたしは彼女達を見送るべく何気なく近づき、自然と形成された円陣の外に立留まって眺めると、実に意外な一言であった。
「?何してるの百合亜?はやくおいでよ。」
「え?あたしはいいよ。あたしはステージには立たないから‥‥‥。」
百合亜は夥しい因循な気持ちに襲われ、思わず亀の子のように首を縮める。
「今更なぁに言ってるの!百合亜も、大切なスクールアイドルクラブの一員なんだから!ほらほら、はやく入って!」
そうやって沙知さんはあたしの手首を強引にも引っ張るのである。ここに同じく、言を俟たぬとばかりに、朋友たちもウインクしたり首を縦に振ったりで合図してくれた。
「沙知さん、みんな‥‥‥ありがとう‥‥‥!」
百合亜はそう言いながら、スクールアイドルの纏う衣装と同じ桃色をした髪留めをきつく締めて、その円陣に加わった。心の皺の中の埃塗れの甘い夢や苦い汁の古滓について、人知れず往時の真面目くさい道化姿を想い出させられて、苦笑せずにはいられなかったくらい、扮飾され歪曲された――あるいはそれが自身の真実の姿だかも知れない、どっちがどっちだかわからない自分自身を照れくさく思うのであった。百合亜が実際首を突っ込んで見て来た自分と、その事件について語ろうとするのは、何もそれが楽しい思い出になるからでもなければ、現在の彼女の生活環境に差し響きをもっているわけでもないようだから、そっと抽出の隅っこの方に押しこめておくことが望ましいだろうし、正直なところそれも何か惜しいような気もするけれど、いまは、希望だけが我が脳髄を支配していた。
「それじゃあ、はじめようか!第一〇二期蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブの初ステージだ!今この瞬間を大切に!Bloom the Smile!」
「「「「「Bloom the Dream!」」」」」
少女達は天へと手を伸ばす。四人の影は逆光に吸われていく。
舞台裏の少女・百合亜は音響・照明管理の配置につき、ゆっくりと目を閉じて、非凡性の熱気と神経性の痙攣とに全身を波立せた。鼓動が五十ばかり進むと、油を敷いた如くとろりとした静かな水も、棹に掻かれてどこともなしに波紋が起った、そのせいであろう。あの底知らずの竜の口とか、日射しもそこばかりはものの朦朧として淀むあたりに、――そよとの風もない折から、根なしに浮いた板ながら真直に立っていた澪標が、スースーと少しずつ位置を転かえて、夢のように一寸二寸ずつ動きはじめた。少女は目を開ける。
機材を動かす。じっと、ステージを、‥‥‥視るに連れて、次第に、緩く、柔かに、落ち着いて弧を描きつつ、その円い線の合する処で、またスースーと、一寸二寸ずつ動き出すのが、割れた硝子の器を広く大きく押し拡げて、溢れた水は湖に満ち、船は遠く、澪標は遥かに、不思議に、段々汀を隔るのが心地良いようで、万丈なる気焔もうっかりと、赫耀の心臓は、眩いばかりの煌めきに魅入られる。
忘れられないステージが、はじまる。
…
……
―『Dream Believers』―
♪「一緒に見たいんだ 消えない 夢〈ドリーム〉I believe!」
刹那、あたしの視界一面が四人を中心にキラキラと明滅しまるで別世界に迷い込んだかのような感覚に誘われる。百合亜の脳裏に浮かぶ場面は、色彩溢れる花びらが優しく吹き乱れる大平原の情景――あらゆる種類の春の花を受胎に誘う微風は、花から花へ渡っていた。泡沫の幻影に思わず息を呑む。微風に舞う少女の華やかさは夢と現実を行き来する。
♪「胸に舞いおりた 小さなヒカリをもっと 追いかけてみたい…もっと!」
慈が靡かせる羽風に春陽が揺れ、舞台上の陰影が延び縮みする。そうして旋律が聞こえる。百合亜は遥かの地底、平原の向こう、波濤の彼方から聞こえてくる、舞台少女の楽しげな叫びを耳にしていた。演者の想いが観る者の魂を揺さぶり、一つの魂に一つの物語が生れ、一つの音楽は多くの心に新たな煌めきを灯す。それは一つの世界の始まりに思えた。
♪「これは 新しい日々の始まりなんだ 知らない世界へ 思いっきり飛ぶよ」
梢の身体いっぱいに生み出された音楽は、まるで魔法のように会場を包み込んでいく。手足がしなやかに艶めかしく動く。軽やかに弾む身体はいつまでも揺籃の中に居る様な感覚をあたしに与えた。スクールアイドルのステージは百合亜をどんどんと深い処に誘っていた。
♪「Sky, my sky ミライの太陽へ手を伸ばそう Sky, my sky 輝きたい気持ちで 僕らの夢」
演者の体温で空気を暖めて、その熱を観客に潜ませる。ゆらりゆらりと揺れているのは此方も同じだった。あたしの頬も染まっていて、思考回路が柔らかくなってしまっている有様。笑顔が咲き乱れた観客席へはスクールアイドルの情熱が伝播し心を掴んで離さない。それはまるで、氷上に舞う紅蓮の炎のような、綴理の歌声が高らかに響くと共に、彼女の若い生命と漂渺たる想いが心の奥底へと響いてくる。
♪「強くなる 強くなる 願いを叶えながら進もう――」
『Dream Believers』は本来三ユニットで歌う曲だと、あの日彼女は話していた。汗に濡れた毛並から仄かに白い湯気をたてながら、沙知はその想いを言の葉に乗せる。スクールアイドルとは何か、夢を望み、挑み、叶えるとは一体どういうことなのかをキミたちに教えよう!夢見る少女達は止まらない。姫彼岸花を舞台に咲かせる少女は、過去、現在、そして未来の少女たちの想いを受け止めてその手を伸ばす。いつかまた会う日を夢見て――。
そして、そう、あたしは知っている。知ってしまったのだ。この煌めきこそが‥‥‥!!騎士星花を約束に翳した少女の灰色に確かな炎が宿る。世界の時間が止まったような、感覚。
「スクールアイドル!!!」
♪「――行こうよ! なんだってやっちゃえば楽しい いまを頑張ることが楽しい デコボコの道だって 大丈夫さ」
沙知が眩いライティングの下で手を高く差し上げるとぱっと鮮やかな光線が立ち上り、その情熱的なパフォーマンスは観る者全てを魅了する。彼女はステージの上で、その小さな躰を目いっぱい使って踊った。
♪「行こうよ! なんだってやっちゃうと決めて いまを抱きしめたら」
廻転する光の色が踊りにつれて変化する。四人は誰よりも眩く、輝いていた。あたしはぼんやりしていた。だんだんと熱を帯びて色々の灯で彩られていくステージの沙知の様子に唯だ唯だ見惚れていたのである。
♪「夢をえがいて ときめきながら繋がろう」
少女の歌声とあたしの鼓動は共振し音楽に溶けていく。情熱が形になり、声になり、動作になる。あたしの想像を遥かに超えたあの子たちのパフォーマンス。あの舞姫の歌声には、間違いない、あたしの夢も載せられていた――翡翠葛に魅せられた少女は情熱的な夢を形にする。寒緋桃をも虜にしてしまう少女はあたたかな希望を語る。鈴蘭水仙に奏でられた少女は確かな決意を届ける。
♪「――Dream Believers I believe!」
四人のスクールアイドルが彩った初めてのステージ。観る者全てを魅了した音楽が止むと、劇場全体を未知の静寂が占領した。そして刹那、観客席からは音楽堂全体が揺れ動くほどの歓呼の声が上がった。客席からの拍手が鳴り止んだ頃には既に百合亜の頬は濡れていた。彼女の中にあった靄が熱を浴びて忽ち気化して行く。百合亜の心臓はまだどきどきと早鐘を打ったまま、ワーッと叫んで、全力で駆け出したい昂奮で一杯になりながら、舞台裏に居たまま最後の最後まで、彼女達のステージから目が離せずに立ち尽くしていた。
「――さて。ここからはユニットごとのステージだ。行こうか、梢。」
「はっ、はい!」
「一緒に、ここから始めよう!」
王道のアイドルソングを主軸にした、可愛らしい青春ソングで魅せていく桃色ユニット。逆さまの歌から、夢は歴史を刻んでいく――。
「咲かせた花はひとつでも、」
「力を合わせて花束に。」
「「スリーズブーケです!」」
―『Reflection in the mirror』―
♪「君が笑えば笑い」
♪「君が泣くたび泣いてしまう」
♪「鏡越しに」
♪「私たちは向かい合う」
艶のある玉肌の生地がひと際透き徹るように輝いて踊る。いま一筋艶かしく乗りこんでくる歌声を聞こう。愛憐を滲ませて火に酔える百合亜のつぶらな眼底に、たちまち水浸しの肺腑を侵してくるその歌声。ああ、少女の肉体にがんがんする無辺から襲ってくる人情の歌声。歌は一瞬間に於ける人間の霊智の産物である。普段にもっている所のある種の感情が、電流体の如きものに触れて始めてリズムを発見する。この電流体は、少女にとっては奇蹟である。運命、かも知れぬ。詞は予期して創らるべき物ではない。
♪「なんて不思議な世界」
♪「目の前に広がる景色は
♪「なにもかもが」
♪「逆さまに映る」
(――胸のドキドキが止まらない。ステージの上で、自分の大好きを、大好きな気持ちを、全身で表現する。ああ、この輝きこそが、私の夢見ていたものだったのね――!)
――嘗てあたしは歌というものを神秘のように考えていた。ある霊妙な宇宙の聖霊と人間の叡智との交霊作用のようにも考えてもいた。或いはまた、不可思議な人間心理の謎を解くための鍵のようにも思つていた。然しいまから思うと、それは笑うべき迷信であった。歌とは、決してそんな奇怪な鬼のやうなものではなく、実は却って我われ少年少女とは親しみ易い姉弟や友人のようなものである。齢十五となった青年でも時々、不具な子供の如くいじらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。そういう時、ぴったりと肩に寄り添いながら、震える自分の心臓の上に、優しい手をおいてくれる乙女がある。その吉祥天女の慰めが歌である。あたしは歌を聴くと、思うと、噛み締めると、烈しい人間のなやみとそのよろこびとを感ずるのだ。
♪「こんな私でいいのかな…」
♪「背を向けたら 独りと変わらないねきっと」
♪「信じるしかない」
♪「ここに在る自分を」
我が道化の心を揺さぶったスクールアイドルの音楽は、ダンスによって切迫感をあたえられた日常生活のリアリズムが、聴き手の心に歌声を響かせて全体的な衝撃をあたえる音楽だった。心のなかにつくりあげられるその衝撃は、聴き手の全存在に関わりを持ってくるだけに、スピリチュアルな体験であると同時に、日常的でリアルだった。スクールアイドルは、基本的には、現実との対決だったのだ。たとえば、夕食後の午後八時半から配信を開いて小一時間過ごすというような、そんな部分的なつまらないことではなかった。スクールアイドルは、生き方だった。
♪「それがきっと」
♪「君のことを」
♪「「信じるってことだ」」
世界の時間が止まったような、感覚。
♪「「どこだって行けるよね」」
♪「せーのでこの壁を壊して」
♪「手を取り合えたら」
♪「夢もほら夢じゃなくなる」
梢はバレエや舞踊を幼少から修めていたこともあってか、緊張の面持ちの裡にも観客を意識したパフォーマンスに仕上がっていた。彼女の手脚がしなやかに動く様子を見れば、誰しも目を見張るに違いない。それに、そんな梢を支える沙知はまるで紅く謳う星天であった。この惑星が太陽とすれ違う瞬聞、後輩が先輩へ、そして先輩から後輩へ、その刹那にさえも銀河を耀かすのである。そして再び廻転が始まる度にそれは揺曳し、変転して、煌めく音楽に応える身体の微細な運動をもってして繰り返されて行くのだった。それはそうだろう――敢えて何故と謂ってしまえば、二人の艶のある美しい声が流麗な韻律を奏でる様はそれだけではない、観客はこのシンフォニーを聴いた瞬間、何か言葉では言い現し難い不思議な感情に襲われたであろうから。その感覚を言い表わすには言葉が足りないとうより、言葉が無力であると言いたい位だ。
♪「「透明なその欠片に 乱反射する光 キラキラ輝いてる それは未来」」
(――沙知先輩。いま私、すっごくワクワクしてるんです。私も、スクールアイドルとして夢を叶えたい。たとえどんなに、時間がかかっても。あなたの夢を、私も一緒に!)
――曲の終わりを告げる残響が、耳に残ったまま鳴り止む。余韻に浸る間も無く、わあっという歓声が上がる。百合亜も皆に混じって拍手をしつつ、永遠にも思える一瞬を心に収めていた。
我われの情緒が昂進して何らかの強い詩的感動に打たれる時、自然我われの言葉には抑揚がついてくる。そしてこの抑揚は、心理的必然の傾向として、常に音樂的拍節の快美な進行と一致する故に、知らず知らず一定の韻律がそこに形成されてくる。一方、詩興はまたこの韻律の快感によって刺激され、リズムと情想とは、ここに互に相待ち相助けて、いよいよ益益詩的感興の高潮せる絶頂に我等を運んで行くのだ。かくて我等の言葉はいよいよ滑らかに、いよいよ口調よく、そしていよいよ無意識に、韻律の周期的なる拍節としての形式を構成して行く。思うに斯くの如き事態は、全ての原始的な詩歌の発生の起因を説明するもの。歌と韻律の関係は、蓋し人間心理的にも必然の因果である。明日よ、明日よ、そなたは夢見る少年少女の前にあって、まだ踏まぬ未来の不可思議の路である。どんなに苦しい日にも、彼女らはそなたに憬れて励み、どんなに楽しい日にも、わたしはそなたを望んで踊りあがるだろうから――。
「――よいしょ。さあ、綴理。準備はいいかい。」
「うん。」
「夢を叶える、舞台にしよう。」
熱烈なダンスパフォーマンスとでカッコイイ楽曲で劇場を魅せるクール系ユニット。さあ踊り続けよう、きみが見てるから――。
「劇場を灯す紅蓮の炎と、」
「琥珀色の月光。」
「「DOLLCHESTRAです!!」」
―『Sparkly Spot』―
♪「後悔を凍らせて」
♪「深呼吸してみれば」
♪「言い訳で曇った空に」
♪「気付いたんだ」
歌は長きも短きも好し、悠揚として朗らかなるは天に似よ、海に似よといった情感である。綴理は白い艶やかな頬から、眉のあたりまでぽっと上気しているが、双の眸は常よりも冴えて烈しい光をおび、しめった朱い唇をひき結んで懸命に歌っている姿は、美しいというよりは凄まじいものを感じさせる程で、百合亜は何か眼に見えぬ力で引き摺られているように感じたのだ。ステージ上の綴理は、いつも以上にギャップがあり過ぎて風邪をひきそうだ。まったく、綺麗なものだ。
♪「足跡で作る軌跡は」
♪「選択肢だらけのヒストリア」
♪「誰にも答え合わせは」
♪「出来ないさ」
(――できたよ。とっても凄いこと。ボクがボク自身の心に支配されて、勝手に動いてたんだ。初めて、ライブをした。やり方なんて、全然わかんなかった。でも、そんなもの関係なかった。)
――ユーゴーに次のような一節があったかと思う。もはや希望がなくなったところには、唯だ歌だけが残るという。マルタ島の海では、一つの漕刑船が近づく時、櫂の音が聞える前にまず歌の声が聞えていた。シャートレの地牢を通って来た憐れな密猟者スユルヴァンサンは、私を支えてくれたものは韻律である、と告げている。果たして青春を費やす歌が有用か無用か、それはいずれ論ずるに任せて、むしろそれが、少女等の瞳の奥底に事実存在し続けたことに対して、深い関心を寄せるべきかも知れない。音楽がそれ自ら、そしてそれに関する理論が、如何なる過程のもとに、あたしたちに齎されているのか、そしてこの早鐘を誰が為に馴らし続けるのかが、いま、問題である。
♪「手探りの旅路も」
♪「ココロが望むなら」
♪「No doubt」
♪「「素直に叫んで」」
世界の時間が止まったような、感覚。
♪「決めるのは自分だ」
端的の叫び。兎に角に楽しい、共に歌えば、友へ歌えば。
♪「「天秤は要らない」」
♪「本当の声が」
♪「覚悟を繋ぐオーバードライブ」
思うに人間の感情などというものは極めて単純であって、同時に極めて複雑したものである。極めて普遍性のものであって、同時に極めて個性的な特異なものである。どんな聖人君主であっても、人間が自己の感情を完全に表現しようと思ったら、それは容易の業ではない、業でもない。この場合に至れば言葉は最早何の役にも立たず、そこには音楽があるばかりである。或いは、だからこそ耳に聴こえない韻律で、単なる飛んだり跳ねたりという所作が、一種の感情表現として昇華される。綴理のダンスは、その動作が一連なりの流れをなしていながら一つ一つに独立した個性があった。それは人形の表情でも、人形の手つき足つきでもない。それに沙知が機敏に合わせていて、二人の個性が互いに矛盾せず、調和していた。
♪「錆びない鼓動を」
♪「止めないで もっと」
♪「一緒に見たい 信じた世界」
(――ああ、キラキラしてる‥‥‥!さちと一緒に、これからDOLLCHESTRAは始まるんだ。その証が今日のライブで‥‥‥。そこで凄いことができるなんて、ボクの心が一番よくわかってる。これからが本番なんだって、痛いくらい胸が伝えてくる。)
――そう考えればスクールアイドルの例は極めて特異の例である。けれどもまた同時に極めてありふれた例でもある。人間は一人一人に違った肉体と、異なった神経とをもっている。場合によっては二つの仮面をもっている。我の哀しみは彼女の哀しみではない。彼女のよろこびは我のよろこびではない。人間は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独を味わう。原始以来、神は幾億万人という人間を造った。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかった。人間はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。とはいえ、我われは決してぽつねんと切り離された宇宙の単位ではない。少女の顔は、少女の皮膚は、一人一人にみんな異っている。けれども、実際には一人一人にみんな同一のところを有していたのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の道徳と愛と、そして運命に立ち向かう青春の煌めきが生れるのである。これを共に知覚できた時、我われはもはや永久に孤独ではない。
♪「「確かな居場所に」」
♪「灯る光が」
♪「何度も悩み 追い越して」
だからこそ思い悩むのだ。何度も、何度も。小成に安んじ憂慮の無い生き方をしようと志す人びとにとって、平凡な日常報告がもつ誤魔化しは救いのように見えるかも知れぬが、真に悩むところの魂にとって、不変ほど救われざる毒々しさはないのである。限りある時間の中で精一杯に花咲こうと、葛藤の中に悩み藻掻く肉慾吝嗇はどのように醜悪でも、悩むが故の蒼褪めた哀しさがある。むしろ悲痛な救いさえ感じられるから。すなわち詞は実感の彫刻、行と行、節と節との間に悩ましき陰影を潜ませる。細部を包む陰影は奥行、それの深さに比例して、自然の肉片がくっきりと行の表に浮き上がれ!
♪「変化の先を誓い合えば」
♪「交差する FLARES」
♪「「閉ざした扉を溶かして Colors are crossed with pride」
(――すごいな、さち。‥‥‥ううん、だから、ボクはきみと一緒に始めたいんだ。ボクにとっての、スクールアイドルを!)
――雀一羽落ちるにも天の配慮がある、とシェイクスピアは詠んだ。真に悩むべきを悩むところの人間にとっては、醜も美も文句はなく切実な日常が、そして友があるばかりである。こんな風俗のあったことをアイドルの面目上銀幕には映すわけにゆかぬが、映さねばならぬと、さらば忘却されてしまうと嘆息していた百合亜の述懐も、いまは早や幽世の情である。舞台面は、映写機の廻転が停止したように、暫くのあいだヒッソリと静まり返ってしまった。静寂を再び割るのは歓声の雨、視線を奪われた少女に残されたのは、峻烈なる肉体の高揚のみ。顧みれば夢の如くである――。
「――おっけー、着替えも完了。さぁて、慈。」
「は~い☆」
「行こうじゃないか。あたしたちで、最強のスクールアイドルになろう!」
観客側も一緒に盛り上がる、ポップでキャッチーな楽曲で魅せる楽しさ満点ユニット。玩具箱はいま、開かれる――。
「私たちのテンションはー?」
「(駆けて行く)ここから~……」
「(戻って来る)ここまで!」
「「みらくらぱーく!です!!」
―『アイデンティティ』―
♪「三百六十度 私が好きな私でいたいから ガラス越し まずは笑顔のオーディション」
♪「一次審査は通過です あとはひたすら信じて進むだけ 一番のファンとして」
(――すごい。歌が響いていく、ダンスが伸びていく、ばっちり衣装もきまってる。すっごくキラキラしてるけど、それだけじゃない、隣で支えてくれる沙知先輩のおかげで、いろんな人の顔が見える!)
――頼めるは、微かなれども唯だ一つ内なる光。ステージから放たれる光の粒子、胸が張り裂けんばかりの歌声。なにもかもがキラキラ輝いていて、私が見たこともなかった新しい世界――こんなに熱くて眩しくて、心から夢中になれるものがあるんだって昂奮が伝わってくる。少女の顔にはできるだけの愛嬌が湛えられ、それを観る者は心持ち顔を赤くしたことであろう。それが演者にも伝わる。「楽しい」っていう声を浴びせられる。
♪「夢は自由だ 恥ずかしいはずがない」
♪「大声で叫ぶのだ だだだだだ」
世界の時間が止まったような、感覚。
♪「「全身全力 それが私のモットー」」
♪「応援して」
♪「「絶対無理とか余計に燃えちゃう もっと もっと」
詞の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹することのためでもない。詞の本来の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。さすれば歌とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学、謂わば青春の運命抒情である。サッポーの時代から、全ての旋律的な叙情詩には、理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感が伴う。これを詞の〈香〉とか、乃至気韻とか気稟とか謂おうか。〈香〉は音楽の主眼とする陶酔的気分の要素である。翻ってこの〈香〉の稀薄なる音楽は韻文としての価値の少ないものであって、言うなれば香味を欠いた棒茶のようなものだろう。こういう茶をあたしは好まない。詞の表現は純情なれ、音楽の香は芳純でありたい。
♪「「Just do it」」
♪「清く正しく」
♪「「Just do it」」
♪「そして逞しく」
(――沙知先輩。これが、かっこかわいいスクールアイドルの姿なんだね。‥‥‥そうだよね、るりちゃん。私も、負けてらんない!ふっふっふ、全員めぐちゃんにメロメロにしてやる‥‥‥!お客さんはみんな、今日からめぐ友だよっ☆)
――所謂「推し」への愛憬が現代人を楽しく恍惚とさせるのは、それが半醒半夢の状態を喚起させ、夢を自由に幻想することができるからであろう。真に深く眠ってしまえば、人間はもはや意識を失い、或る超自我の生命支配者がするところの、勝手な法則に夢を委ねなければならない。而もその夢は、大抵は願わしくないこと、思いがけないこと、俗世的で、厭で、楽しくもないことばかりである。それに覚醒している間は、意識が現実の刺激に対して、一々の決定された法則によって反応するため、微塵もの真なる自由が得られず、人間の精神生活そのものが物理的法則の支配下に属してしまう。精神の真の自由、――自分の意志によって、自分の意識を支配することの自由――は、唯だ夢と現実の境、推しへの情熱、半醒半夢の状態にだけある。二十一世紀の酔夢の中では、人間はその心に描いてているところの、どんなビジョンをも幻想し得るのだ。だがそうした劇物の麻酔を借りずに、もっと自然的な仕方によって夢を自由にコントロールすることができるならば、人生はずっと幸福なものに変わるのだろうか?是である。その時人々は、現実に充たされない多くの欲望を、夢で自由に充たすことができる上に、意識をその決定する因果の法則から自由に解放されることによって、あらゆる放縱不覊なイメージや美的意匠を夢で芸術することができるのである。その具現こそが――。
♪「「Just do it」」
♪「やっぱ楽しく」
♪「「Just do it 今」」
〈我〉とは何か。斯く問えば愛、憎、喜、怒と名のりつつ四人の女が現れる。或いは智と信と名のりつつ道化の少女と少年のふたりが現れる。人間のこの肉体とこの感情とは、勿論世界中で貴方一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解している人も一人しかないのだ。これは極めて極めて特異な性質をもったものである。けれども、それはまた同時に、世界中の何ぴとにも共通なものでなければならない。この特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとうの運命性と秘密性とが存在するのだ。この道理を離れて、あたしは音楽が奏でられる意義を知らない。
♪「君も一緒だよ!!」
たとえば水盤の中で遊泳して居る金魚。不規則に動搖する衣裝のヒダに見る陰影の類はリズムでないか、自由ではないか、抒情的ではないか。それは一つの拍節から一つの拍節へ、明白に、機械的に、形式的に進行して居ない。部分的に、我等はその拍節の形式を明示することができない。けれども全体から、直感として感じられるリズムは確かに在る。より複雜にして、より微妙なる、一つの旋律的なリズムがある、然り。水盤の中で遊泳して居る魚の美しい運動は、明らかに一つの音樂的様式を語っているに違いない。それは幾何学的の周期律を示さないのだから。
眼の縁にいっぱい愛嬌を漂わせてウィンクし、観客とカメラに向けてポーズを決めるスクールアイドルの姿。そもそも如何にして韻律がこの世に生れたか。何故に詞が、歌が、ひいては運命が、――韻律と密接不離の關係にあるか。何故に我等が、――特に我等青春に苦しむ少年少女達が――韻律の心像を離れて人生を考え得ないか。いや、ほんとうは全て此等の理屈などはどうでもよいのだ。唯だ少女百合亜の知る限り、此所に示されたる事実は、――この胸の高鳴りであった。
「「「はぁ、はぁ、はぁ‥‥‥。」」」
歌唱後の息切れ、少女に特有な汗ばんだ肌の匂いと白い熱が口辺に漂う。少女達は微笑が洩れるおのれの表情を意識しながら、やり切った達成感と、昂奮とで、言葉が出なかった。唯だ、心の中では叫んでいた。夢のような時間はあっという間に過ぎ去り、ライブはもう閉幕の時間を迎える。全ての楽曲を披露し終え、四人のスクールアイドルはの締め括りの挨拶に臨む。
「今日は蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブのライブを観に来てくれて、ほんとうに、ありがとうございました!!」
「「「ありがとうございました!」」」
それと共に観客たちは再度一斉に舞台少女に向かって歓声をあげた。同じくして万雷の拍手が起こり始めると、熱狂的な、音の嵐。人間らしい感銘の音楽は劇場を割れんばかりの勢いだった。
「――みんな、最っ高~~~!!!」
百合亜も両腕を勢いに掲げ、裂帛の気合で叫んでしまっていた。自分でも信じられない深さで昂奮が胸に喰い込んでいることを知った。あたしはなんだか歩くのにも妙な心もとなさを覚えた。膝がゆるんで、息切れさえするようである。――普通の境遇で生活をしている人には、こういう時のあたしのこんな現象が幾分の誇張とウソを伴っているとみるかも知れない。然し、ここ一ヶ月も道化の虚構を演じて、使命に関わりの無い俗事とは全部交渉を断ってしまい、一寸お湯へ行くのさえもウッかり出ることが出来ず、且つ捕まったら少なくともタダでは済まない身の上では、頼りになるのは自分自身の観測する世界ばかりである。それでも一瞬間でも理性の自由が奪われてみると、その間を繋いでいたおのれの気持ちの深く且つ根強かったことを感ずるのだ。――なんの、呑気なことがあるものか。つねに絶望の隣に歩いて、傷つき易い道化の華を風にも任ずくっているこの感激を、君が判ってくれたならば!
波のような会場の空気を揺る拍手に送り迎えられて、四人のアイドルは舞台裏へと戻って来た。その顔は日盛りの中を歩いた火気のように、汗の玉を帯びて赤くなっていた。
「わー!みんな、おかえりーー!!いやぁ、つい声が出ちゃうね!胸がいっぱいで、吐き出さずにはいられないというか!」
お道化た返事も何も出来やしない。お道化役者としては、完全に落第だった。でも、きょうはこれで良かった。良いと、思えた。
「うん、ただいま。」
「ふぅ‥‥‥あー、楽しかった!」
「はぁ、はぁ‥‥‥。ありがとう、百合亜さん。あなたの声、聴こえてたわ。」
百合亜が堪えに堪えし感激ここに至りて玉の如く浮かべるのを、聴く方でもじっと怺えていたのが、恰も雷鳴に打たれたかのように一斉に飛び立ってしまい、感極まってか場の誰も一語を発し得ない。一種言うべからざる凄まじさがこの一区画に充ちた。皆一様に顔が紅潮し、大きな瞳がぼおっとなっているようだ。或る場合に於いては、寡言を金とすれば、饒舌は銅か鉄くらいのものだろうし、沈黙は金剛石ほどになるかも知れないが、この穏やかな静寂に新たな感銘を与えたのは一人の年長者であった。
「慈。」
「んー?」
「よくあたしに合わせてくれたね。お客さんの方もしっかり見てたし、隣に立つあたしのこともよく見てた。‥‥‥うん、ばっちりだ。あたしたちみらくらぱーく!、最高の初陣だったね!にひひっ。」
沙知さんの声は澄んだ鈴の音に似ていた。めぐちゃんはまるでお世辞を言われると判っているかのように自身気にウインクし、先輩へと向き直る。その拍子に彼女の耳朶を飾る黄金の三日月形のピアスが光った。
「うん、ありがと♡初ステージでこれだけの盛り上がり‥‥‥やっぱり、私ってば天才なのかも!」
「流石はあたしの自慢の幼馴染!めぐもおだてりゃどこまでも登っちゃうね!今のうちにサインちょーだい!」
「うんうん‥‥‥って、どういう意味よ~~!」
二人の幼馴染はむかしに返ってあどけない舌戦を繰り広げた。他愛ない喧嘩が愉しげな微笑のうちに収束したところで、百合亜は改めて姉へと詰め寄った。
「ていうか姉さん!ひとりで三ユニット兼任はやっぱりタフ過ぎるよ!蓮ノ空のバイタリティモンスターだぜ!」
「いやはや、あたしも初めてのことだからどうなることかと思ったよ!なんとかうまくいったのも、皆がトークで場を繋げてくれたおかげだねぃ。ね、綴理?」
「ん、さち。‥‥‥ボク、あんまり言葉では伝えられなかったけど。」
彼女は自分の裡に沸き立つ感情に一種特別なものを感じてはいるものの、それをどう受け止めていいのか判らずに居るように呟いた。
「そんなことはないさ。いまはキミ自身が「ス」だと思っていても‥‥‥。これから一緒にね、DOLLCHESTRAとして歩んでいって、来年もまた、このステージに立てたら。きっと綴理も、自分で胸を張れるスクールアイドルになれるさ。どこよりも熱い氷の上で‥‥‥ね?」
「そうかな‥‥‥そうだと、いいな。」
沙知さんは優しく綴理の肩を叩くと、れいの笑顔で応える。あたしも綴理も、いつしかその琥珀色が語る未来に惹き付けられていた。
「梢も、きょうはお疲れさま。やっぱり、あたしの見る目に狂いはなかったみたいだねぃ。キミは間違いなく、夢への第一歩を進めたんだ。」
「‥‥‥ほんとうにありがとうございます、先輩。でも、ごめんなさい。私、ダンス間違えたところも、音程を外したところもあって‥‥‥」
梢ちゃんは更に謙遜した言辞を弄して沙知さんの讃美を素直に受け容れようとしなかったけれど、それは却ってあたしの讃美を一層昂らせて止まなかった。
「なに言ってんのさ梢ちゃん!あのステージを観て、そんなこと言う人なんて一人もいないよ!いやー、あたしももう、唯だの友達ってだけじゃ、マネージャーってだけじゃ居られないよ!すっかりスリーブブーケ、乙宗梢ちゃんのファンになっちゃった!」
「ファン‥‥‥。私の、はじめての…‥‥。」
梢は少しばかり自信無さ気に視線を落し、百合亜の真心から出た言葉を噛み締めていた。人間は各々の環境、素質、健康、運不運等に依ってその経歴も様々であるけれど、然しどんな人間でも、大概一生に一度はその人間に相応した花を咲かせる時期というものがある。誰にでもあるとは断ぜないけれども、貧しい者は貧しいながらにその時を煌めかせる。源平のむかし、一ノ谷の合戦に若き菩提の花を散らせた敦盛は、その半生がどうであったかを知る人も稀であるけれども、彼が十六の時、慈悲深き直実の手で落命したのは即ち彼が全生涯に於ける、最初で最期の「今が盛り」の時であった。きょうこの舞台から始めて卒業に至るまで青春のために悪戦苦闘していく彼女の経歴は、一生に一度花を咲かせたきりである敦盛とは比較にならないかも知れないが、思うに彼女の三年に渡るスクールアイドルの運命に於いて、彼女が十五歳の四月、僅かながらも確かな脚光を浴びつつ歓喜沸き立つ観客に呼び掛けた時の如く花々しい時期は、そう数多くはなかったであろう。当時無名の友人として、単なる一箇の観客として、舞台裏に立ち尽くしていた百合亜は、苦難に充ちた彼女の将来を予見した訳ではないが、「今日の彼女こそは一世一代のスクールアイドルだ、こんな時はそんなに度々あるものではないぞ」と感じずには居られなかった。
「――ええ、そうよね。まずは自分を信じれば、いいのかしらね。‥‥‥その、皆も。今日はほんとうにありがとう。」
「うん。」「ん。」「うん!!!」
一度唇固く息を呑んだ梢は、微笑を浮べながら顔を上げて呟く。星より澄んだエメラルドグリーンの双眸、長き睫毛が晴れやかに瞬き、籠められた情熱は天井灯の赤き光線に照らされた。
「その‥‥‥これからも、スクールアイドルクラブの仲間として、よろしくね。慈さん、綴理さん、――百合亜。」
「ふふん。負けないよ、梢。」
「ええ。私も負けないわ、慈さん。」
互いの両眼には闘争心が光る。ウフフ、オホホといった冗談染みた掛け合いが二人の間に交わされ、その麗らかな瞳には友情が細やかに走っているのがわかった。
「今日も仲良さそうだね、こずとめぐ。」
「うんうん、そうだね!いやー、ほんとうにすごかったよ!!、‥‥‥」
少女達は勿論誰もが陽気だった。百合亜の心も明るい電燈の光の下に段々と饒舌になるばかりで、この高揚感を鎮めるべくして隣にいる朋友らに話しかけたのである。夢のなかにいるような、高く舞い上がった気持ちが再び強く戻ってきた。頭はぼうっとなり、体はまるで自分の体ではなかった。姉と共に約束を高く掲げ持ってきた時の、息が詰まるような胸のときめきや高まりが、急激に蘇った。今更に、このドキドキはいったい何なのだろう、と百合亜は思った。頭がぼうっとしてなにも考えられない状態は、狂乱の日々に視た焦りに少しだけ似ていた。然しれいの日々のような不愉快な気分はどこにもなく、あたしはこの上なく楽しかった。ふと不安にすらなるほどに、心は高まっていた。これはいったい、何だろう。それだけを傍らに考えながら、百合亜は友達と青春を語り合った。
「――あはは。うん、ほんとうに最高のスタートダッシュだ。いいねぃ。」
ある昼下がり。春であった。底に何かしら冷たいものを持っていても、小春日和の陽ざしは旅ゆく少女の身体をぬくめる。瑠璃色に澄み渡った空高く、雲雀の群れがさやかに帆を画いていた。
8
第一〇二期蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ、その初ライブの煌めきに魅せられて、――氷の山に対うて居るような、骨の疼く戦慄の快感、それがゆっくりと失せて行くのを虞れるように、少女は夜毎、鶏の謳い出すまでは、殆ど、祈る心で朝が来るのを待ち続けて居る。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ‥‥‥。ふぅ、はぁぁあ‥‥‥。いやはや、ほんとうに濃厚な一ヶ月間だったねぇ、蓮ノ空。」
夜半にどうかして眼を醒ますと、いつの間にか姦しい女学生らの声も絶え、弱々しいデスクランプの光だけがあたしの枕元に燭っていて、あたしは猶も夢の中かと思うのであったが、これがあまり二晩も続いたので終いには、あたしは苦笑と共に眼を醒すようになった。それでは今宵はと思い決めてゆっくりと眠って、翌朝は五時の出発という決意で、あたしは朝のアラームを設定するのであるが、うとうとすると、あの時の情景が浮かび上がって直ぐに眼が醒め、こうして不可解な昂奮に駆られるまま湖の前に臨んで居る。百合亜は水際まで進みながら、反り返った水草の葉の彼方を透かし見たりして何か物思いをしていたが、不意に立ち止ると、何処かで見た憶えのあるような、番の白い鳥が湖水を渡つて行く光景を見た。その鳥の尾が長く美しく揺れていた。
「――夢を叶える、誰かを笑顔にする、世界中を魅了する、か‥‥‥。あははっ、そう謂えばそんなこと、あたしもむかしは考えてたかもねぇ。あーあ背中かゆっ。」
百合亜はそう呟いて、或いは恍惚として天空の一点を見詰めている。彼女の長い睫毛に縁どられた深い灰色の奥底に輝くものは何であろうか。そこに秘めたる真意までは解る術もないが、それがたとえ憧憬であろうが嫉妬であろうが、その耀きに青春を感じずに居られないことに於いて変わりはなかった。ふと少女の双眸にぱっと明るい光線が一時に刺したので、彼女はクラクラしながら眼をしばたたき、妖怪の正体を見定めるように注意深く四壁を見廻したが誰も居ない。天蓋に吊るされた山々の尾根に、五色のプリズムで飾られた葡萄色の山肌の影が、人間の眼を薄暗くし細めさせて、金銀を鏤めたかの如くの朝靄だの水煙だの木梢だのいろいろ装飾物が燦然と輝き、感性に敷き詰めた銀輪の暁は、微風が優しく頬を撫でて行って十五の春を喜ばせる。朝五時の学生寮は、蚕の道具などが収ってある納屋のように静まって灯りも燭らず、矢張この情景を独り占めしているという優越感は却って、湖畔のロミオとジュリエットの囁き処に相応しかったのであろう。とはいえ百合亜にとってはとり逃がした胡蝶の方がはるかに悩ましい夢であったかも知れぬ。されど、夢を叶えることも、誰かを笑顔にすることも、世界中を魅了することも、百合亜はちっとも醜い願望だとは思わなかった。身に落ちかかる災いを知らぬとすれば無邪気の極みである。知って、災いと思わぬならば物凄い。これは青春を生きる少女たちの特権に相違なかった。
「――優曇華の花待ち得たる心地して深山桜に目こそ移らね。ほんとうに幸運だな、あたしは。」
沈黙が帳に下りる中、やがて百合亜はぽつりと吟じた。空はいよいよ明るい。しんしんとして、木蓮は幾朶の雲華を空裏に捧げている。泬寥たる春夜の極に、少女ははたと掌を拍つ。声は風中に死して一羽の雲雀も下りぬ。けれど百合亜の眠気はまだまだ醒めない。夢見心地に囚われて瞼が重くなっているのかも知れない。だが、そんな重たい瞼を持ち上げながら、言葉少なに詩興に遊ぶ少女には、確かな期待の色が浮かんでいたのである。或いは、何かの因縁で、この道何某の名人のこぼれ種、不思議に咲いた道化の華ならば、彼女のためには真なる優曇華に成れたやも知れぬが、ちとそれは考え過ぎだろう。
道化ほど徳にならん方便はない。同時に道化ほど徳のいる方便もない。二十一世紀の少年少女は是非とも他人の表情を観て自分の顔を作り、他人の共感でもって刹那的生活を送らねばならぬ事となる。百合亜が我が本領と解するスクールアイドルクラブの同輩達に頼りたくなるのは自然の数である。あそこには眩しいくらいの夢がある、情熱がある、才気がある。無論、腹違の妹を片付けるに唯だの箪笥と長持で承知するような我が姉でもない。折々に解いて見ろと、態とらしく結ぶ辻占があたればいつも吉である。急いては事を仕損ずる。百合亜は張り詰めた努力を全力でぶつけた後は、おとなしくして事件の発展を、自ずから開くべき優曇華の未来に待ち暮していた。百合亜は進んで仕掛けるような相撲をとらぬ、またとれぬ少女である。天地はかの有望のスクールアイドル達に対して悠久であった。春は百二十日の東風を限りなく得意の額に吹くように思われた。百合亜はあの頃と変わらぬ、依然として心優しい、物に逆らわぬ、純粋な少女であった。――ところへ過去が押し寄せて来た。十五年の短い夢と背を向けて、地の国へさらりと流したはずの昔から、一滴の墨汁にも較ぶべきほどの暗い小さい点が、明かなる都まで押し寄せて来た。押されるものは出る気がなくても前へのめりたがる。おとなしく時機を待つ覚悟を気長に決めた詩人も未来を急がねばならぬ。黒い点は頭の上にぴたりと留まっている。仰ぐとぐるぐる旋転しそうに思える。ぱっと散れば白雨が一度に来るかもしれぬ。百合亜は首を縮めて馳け出したくなったのである。
そう謂えば、近江町市場でうどんの幟旗を見かけた気がするが、結局食べ損ねてしまった。また皆で行こう。
「――小さな舞台から、大きな声を。がむしゃらから生れる奇跡、か。」
百合亜は再び思いを巡らせた。皆で造り上げたあの初めてのステージに、スクールアイドルという、存在に。青春の動揺は、理論よりもむしろ、実際の勇気に就いてではないかと百合亜は考えるのだ。あの時のあたしには勇気がなかった。自信がなかった。前途に暗闇のみが見えていた。少女は恍惚と羨望の眼差しを空へ放ち、そしてやがて憑き物の落ちたような清々しい表情を湛えていた。葛湯を練るとき、最初のうちは、さらさらして、箸に手応えがないものだ。そこを辛抱すると、ようやく粘着が出て、攪き淆ぜる手が少し重くなる。それでも構わず、箸を休ませずに廻すと、今度は廻し切れなくなる。終いには鍋の中の葛が、求めぬに、先方から、争って箸に附着してくる。夢を創るのはまさにこれではないか。花曇りの空が、刻一刻に天から、ずり落ちて、今や降ると待たれたる朝焼けの湖畔に、しとやかに行き、しとやかに帰る木梢の影は、百合亜が湖沼から四歩の距離を隔てて、重き空気のなかに蕭寥と見えつ、隠れつする。
月と空から視線を落とす。湖をめぐりては雑木が多い。何百本あるか勘定がし切れぬ。中には、未だに春の芽を吹いておらんのがある。割合に枝の繁こまない所は、依然として、麗らかな春の日を受けて、萌え出でて久しい下草さえある。壺菫の淡き影も、ちらりちらりとその間に見える。金沢の菫はなんとなく眠っている感じである。「天来の奇想のように」と形容した西洋人の句は到底当てはまるまい。こう思う途端にあたしの足は止まった。足が止まれば、厭になるまでそこに居る。居られるのは、幸福な人である。街中でそんな事をすれば、すぐ自動車か電車に引き殺される。機械が殺さなければ巡査が追い立てる。平地人は太平の民を乞食と間違えて、掏摸の親分たる探偵に高い月俸を払う所である。ともすれば蓮ノ空の環境を自然の中の監獄だと感じる生徒も少なからず居るとしても、少女百合亜の健全な発展にはむしろ好都合であるには違いない。「月天心貧しき町を通りけり」という蕪村の句で、月が非常に大きな満月の如く印象されるのは、周囲が貧しい裏町であり、深夜の雨戸を閉めた家から、微かな灯が僅かにもれるばかりの、暗く侘しい裏通と対比するからである。この句がもし「月天心都大路を通りけり」だったら、月が非常に小さな物になり、句の印象から消滅してしまうだろう。実際に金沢駅前などを歩いている人びとは、空に月があることさえも忘れて居るのだ。ところが近代では、都会も田舎もおしなべて電光化し、事実上の都大路になっているのだから、彼等の詩人に月が閑却されるのは当然である。科学は妖怪変化と共に、青年らの誌的感性と、月の詩情を奪ってしまったかも知れぬ。
「――世界は、変わっていく。この手を伸ばした瞬間から。」
百合亜は右手を突き出していた。青春ほど、死の翳を負い、感情の死と背中合せな時期はない。人間の喜怒哀楽も、舞台裏の演出家は唯だ一人、それが死だ。成功の裏には必ず失敗がある。人は必ず死なねばならぬ。この事実ほど我われの生存に決定的な力を加えるものはなく、或いはむしろ、これのみが力の唯一の源泉ではないかとすら、あたしは思わざるを得ない。青春は力の時期であるから、同時に死の激しさと密着している時期なのだ。人生の迷路は解き難い。それは魂の迷路であるが、その迷路も死が我々に与えたものだ。矛盾撞着、縺れた糸、悉く死が母胎であり、ふるさとでもある人生の愛すべく、また、懐かしい綾ではないか。蓮太郎少年の青春は確かに暗かった。あの時は否応なく死の終着に関して考えざるを得なかったが、直接死について思うことが、おれの青春を暗くしていたのではなかった筈だ。青春自体が死の翳だから、というのも間違いなく理由の一つであろうが、蓮ノ空女学院で〈少女〉を積み重ねた、スクールアイドルクラブの一員となったあたしにとってはそれが唯一無二の答えではなくなっていたと言いたいのである。死の裏返しは、生への執着と青春を夢見ることだと知覚するに至ったのだから。
学園を覆っていた一面の桜も今日では散り際である。日は朗らかに東から射し始めて、路端に堆い落葉はからからに乾いているものもあれば朝露を湛えるものもある。音を立てて踏んでゆく下からは色褪せても美しい桃色の花弁が幾つとなく露われて来た。多くは今年葉である真新しい落葉も、生命力溢れる匂いを含んでとりどりに美しく散り敷いている。おりおり水辺には百合の花が咲いていた。そよとの風もあらぬに花は頻りに咲く、そして散りぬ。散る時に軽く舞うを雲雀は争いて歌う。そうだ、あたしの〈道化の華〉は漸く咲き始めたのだ。親愛なる姉はおのれに夢を共有してくれた。そして三人の友はそれぞれの夢を追い求めている。あたしもその夢を、一緒に追いかけて、一番近くで応援したい。時によれば、男の眼が「女らしさ」を発見し、それに価値を与えることもあると謂うが、女もまた、同性のうちの「女らしさ」を鋭く感じ取るものである。したがって好悪の別はあっても、それが「女らしい」という一点で、それを見る者の眼に、そう著しい違いはないと思う。少女は大きく深呼吸をする。おのれにしかできないことがあるはずだ、と。散る花の壮観は未だ知らぬ。
「――誰かが自分を見てくれているということは、誰からも相手にされない恐怖を考えればとても幸せなこと。」
あたしは昨夜地元ニュースで男装の応援団というものをみたが、なかには男か女かわからないようなのも居たけれども、大部分は、なかなか女らしいところがあつて、而もそうグロテスクな感じはしなかった。これはまあ特別な例であろうが、よく世間で話題にのぼることは、ある程度の教育を受けた、それこそあたしと同じ年頃の少女は、愈々女らしくなくなるということである。あたしはあまりそういう偏見を信じない性質だが、それでも、成る程と思われるような事例を少しは経験している。ともすれば〈百合亜〉を演じるおのれもそうかも知れない、と。これは何も学問が少女に似合わないためではなく、学問そのものがその人の身に付いていないというところから来るぎごちなさが「女らしさ」を覆い隠している場合と、もうひとつは、男に負けず学問を修め芸事を大成したという自負心がつい女の自然な感情を歪めてしまう場合と、その何れかであるとあたしは思うのだ。これと好一対の例は、西洋の風習を表面的に真似ている女の、ごく日常的な態度物腰のなかにも、あたしは、女らしからざるものを屡々発見して苦笑することがある。西洋の女のどこか心惹かれるところを真似てみるのは、そんなに悪いことではないに相違ないが、そこにもう真似の悲しさがあるとすれば、誰がみても「あれで女か」ということになる。所詮「女らしさ」は一つの調和だからである。調和は必ずしも洗練のなかにあるとは限らない。素朴な、原始的な姿のなかにもある。田舎にも、自然の只中にさえも、女らしい女は幾らでも居ると謂えば当たり前なことだが、女が「女らしく」なくなるのは、ある種の頽廃であることに気がつかなくてはならぬ。少女百合亜は何とか理性と友情の信念を以て道化の正義を為し、ある程度の〈少女〉たる立居振舞を心得てきたと自省するのは自惚れではあるまい。兎角、そういった変化を故意に求める傾向が、不健康な組織や社会環境に於いては発生し易いから、猶注意すべしである。
前だけを見て進まなくてはならないのに、どうしても後ろを振り返ってしまうのはあたしの弱いところだ。父母が居なくなるまでの、そして姉さんと出会うまでの、あの狂乱の日々を今でも想い出してしまう。――あたしは、変われたのだろうか。沙知さんの為に、友の為に、何かを成し得たのだろうか。ああ、道化の正義!逝く春の恨みを訴うる所作ならば何が故にかくは無頓着なるか。無頓着なる所作ならば何が故にかくは綺羅を飾れるか、少女百合亜よ。暮れんとする春の色の、嬋媛として、暫くは冥邈の戸口を夢幻に彩る中に、眼も醒むるほどの記憶は金襴。鮮やかなる眩耀は往きつ、戻りつ蒼然たる朝景のなかにつつまれて、幽闃のあなた、遼遠のかしこへ一分ごとに迎えてくる。燦めき渡る春の時を刻む、明星近くに、藤紫晴れる空の底に陥る趣である。
「――あたしは、この世界から拒否されたわけじゃない。これはきっと、あたしへの試練なんだ。全てはあたし自身の為なんだ。あたしがこの世界で楽しく暮らすために、身に付けなくちゃならないことを、この蓮ノ空での一ヶ月間が教えてくれたんだ。」
胸に手を当て鼓動を確かめる。おれは、生きている。穴の開いた硝子の器に油が注がれている。さまざまな思考が脳裏を過るけれど、――使命、友情、愛の道化。それら以外には何事をも考えていないのが現実やも知れぬ。または確かに何物をも見詰められていない。我が意識の舞台には著るしき色彩をもって動くものがないから、あたしは如何なる事物に同化したとも言えぬだろう。されども、この心臓は動いている。れいの如く使命を数えて‥‥‥いち、に、さん、し、ご。よし、まだこの手の中にある。
樹の実でも花でも、十二分に実らせ、十二分に花咲かす時は、収穫も多く美観でもあるに相違無かろう。然しそれは福を惜しまぬので、二十輪の花の蕾を、七八輪も十余輪も摘み去ってしまい、百果の果実を未だ実らざるに先立って数十果を摘み去るが如きは惜福である。果実を十二分ならしむれば樹は疲れてしまうだろう。七八分ならしむれば花も大に実も豊に出来て、そして樹も疲れぬが故に、来年も花が咲き実が成るのである。「好運は七度人を訪う」という意の諺が有るが、如何なる仙人であっても周囲の事情がその人を幸せにすることに際会することはあり得る。その時に当たって出来る限り好運の調子に乗ってしまうのは福を惜しまぬのである。控え目にして自ら抑制するのは惜福である。畢竟福を取り尽くしてしまわぬのが惜福であり、また使い尽くしてしまわぬのが惜福であろう。
「――この先、もっと返したいな。言葉では足りないけどさ。」
青春は絶望する。なぜならその先には大きな希望があるからだ。少年少女の希望は自在で、王者にも天才にも自ら化して夢と現実の区別がないが、青春の希望の裏には限定された自我がある。我が力量の限界に自覚があり、希望に足場が失われている。加えて、女は生れながら一種の僻みをもっていると主張する人種がある。本当かしらとあたしは感じる程度だが、屡々女のひとが、うっかり、または戯談めかして自分が女に生れたことを悔むような口吻を漏らすところをみると、ここ女学院の環境に於いては、或いはそんな事情も察せられないこともない。少なくとも現代のインテリ女性を気取る大人たちは、その僻みのために、非常に「女らしさ」の表現があやふやだ。それは固より個人の罪ばかりではない。そういう現象を生む文化的な欠陥――或いは未完成さと、現代の少年少女は直面し咀嚼せねばならない。旧い伝統が次第に破壊されて、それに代わるべき新しい生活様式がまだ統一した形で示されていないということは、たとえ無意識ではあっても皆が知っていることである。その生活様式の不統一ということが、あらゆる風俗の混乱と趣味の低下を招いているのだと、あたしは考える。二十一世紀に相応しい「女らしさ」の表現は、そう易々と個人の工夫や努力で生れるわけはないのであるが、その方向だけは、なんとはなしに、近頃になって決まりかかっているようだ。況や「アイドルらしさ」をや、である。逆に男の方でも、近代以来「男らしさ」などという観点についての自己批判を忘れがちであったことも事実かも知れない。これは、確かに重大なこととして今日省られなくてはならぬだろう。然しこれも、結局は表現の貧しさに帰着する。男が男らしければ男らしいほど、女は女らしくなるとも謂えるし、その因果関係は案外単純なものではないはずだ。唯だ、あたしの拙き内省などで「女らしさ」という問題が不意に取り上げられるところから鑑みても、依然として、女の方が自分を厳しく詮議するところがあるようだ。あたしは、だからといって別に女の弁護をする意図はないのであるが、進んで理解をしなければならない、のっぴきならない事情がある。若し少女の側にも言い分があれば、それは是非、聴かせて欲しいと思っている。
いま、百合亜の観測する世の中には何事も動いておらぬ、世の外にも動いておらぬ。唯だ何となく動いているのだ。花に動くにもあらず、鳥に動くにもあらず、人間に対して動くにもあらず、唯だ恍惚と動いている。眩いほどに。
「――沙知さん。あたしは変わるよ、変えてみせるよ。スクールアイドル、それは、沙知さんみたいに可愛くなれるということ?ううん、きっとそれだけじゃない。あのキラキラ眩い瞳を夢に見て、あたしの物語が始まったんだ。」
強いて説明せよと言われるならば、あたしの心は唯だ春と共に動いていると言いたい。あらゆる春の色、春の風、春の物、春の声を打って、固めて、仙丹に練り上げて、それを蓬莱の霊液に溶いて、桃源の日で蒸発せしめた精気が、知らぬ間に毛孔から染み込んで、心が知覚せぬうちに飽和されてしまったと言いたいのだ。普通の同化には刺激がある。刺激があればこそ、愉快であろう。少女百合亜の同化には、何と同化したか判然であるかに見せかけて実のところ不分明であるから、毫も刺激がない。笑い種となる悲劇的なプロットも描けない。刺激がないから、窈然として名状し難い楽しみがある。風に揉まれて上の空なる波を起す、軽薄で騒々しい趣きとは違う。目に見えぬ幾尋の水底を、大陸から大陸まで動いている潢洋たる蒼海の有様と形容する事が出来る。唯だそれほどに活力が茫然とする――或いは、器から溢れんばかりなのだ。然しそこに却って幸福があるのもまた事実であった。偉大なる活力の発現は、この活力がいつか尽き果てるだろうとの懸念が籠もる。常の姿にはそういう心配は伴わぬ。常よりは淡き少女の心の、今の状態には、我が烈しき力の銷磨しはせぬかとの憂いを離れたるのみならず、常の心の可もなく不可もなき凡境をも脱却している。淡しとは単に捕え難しという意味で、弱きに過ぎる虞を含んではおらぬ。冲融とか澹蕩とか云う詩人の語は、もっともこの境を切実に言い了せたものだろう。
‥‥‥こうして何だか考えが理に落ちて一向つまらなくなった。こんな中学程度の観想を練りにわざわざ、蓮ノ湖まで来はせぬ。袂からタオルを出して、額に垂れる汗をシュッと擦する。手応えはあったが拭った感じがしない。ふと朝焼けの春風が身辺を駆け抜け、薄っすらと汗の冷える感覚がした。成る程、湖を眺めて半刻ほど経ったのだと漸く気が付いた。少女の吐息は一幅の自然の中で、暫く雨竜のような細い煙りが登って、すぐ寂滅した。半歩ずつ進めて段々水際まで出て見る。我が生身の茵は天然に池のなかに、流れ込んで、足を浸せば生温い水につくかも知れぬと云う間際で、とまる。水を覗いて見る。アマリリスの薄紅がその頬に形容できる、ひとりの少女は湖の畔で、蓮ノ空女学院の指定のジャージを着た鏡の中の女の子を睨みつけていた。水鏡に映るあたしの姿はすっかり年盛りの女子高生で、宛ら本物の少女みたいだった。でも、まだだ。やっぱりまだ、足りないものがある。彼女――いや、あたしの名前は大賀美百合亜。
夜は、もう完全に更けて居た。自然に喚く生命の音が、有明の月に寄り添うて段々高まって来る。学院を取り囲む二つの峰の間から、流れくだる水音なのだ。雲の隙間、空を見上げる。神さまにお願いしてみる。
「――マラナ・タ。どうか一緒に喜んでください。見失ったあたしの羊を見つけますから。悔い改める一人の罪人の為には、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人の為よりも、もっと大きな喜びが此処にある。この学校で、このクラブで、彼女たちと一緒なら、あたしも、‥‥‥」
さあ、届きますように。一人の少女は顔を上げ、そして寮へと踵を返した。五月が始まった。
天華恋墜 第五章:
月に寄りそうスクールアイドルの作法
終
強く、優しく、美しく――。
天華恋墜 第六章:
デカダンJK論
続く。