天華恋墜 第三章:藤色の感情にて【蓮ノ空二次創作】
私は為すべき事を為し、
進むべき道を進み、
あんたに、私が一番だって言わせたい――。
天華恋墜 第三章:
藤色の感情にて
1
…
……
私には幼馴染がいた。
加賀との国境近く、能登地方の小さな町で。物心ついた時から、うちの隣の家に一歳年下のちっちゃな子が住んでいた。一人はすっごく可愛い服着たお人形さんみたいな子で、もう一人はTシャツ短パンの男の子みたいな恰好。最初はきょうだいかと思ってたけど、なんとびっくり、同一人物。綺麗な金髪の毛先に水色のメッシュが入っていて、うなじに届かないくらいのクアッドテールでまとめていた、その女の子――大沢瑠璃乃(おおさわるりの)ちゃん。
「――めぐちゃん、すっごーい!ダンスじょうず!まるで、大人のお姉さんみたい!」
「ふふーんっ、でしょでしょー☆まっ、家でほんのちょっと練習しただけなんだけどねー☆」
「えー!?めぐちゃん天才じゃーん!」
そのうち仲良くなって、いつも一緒に遊ぶようになった。それでもあんまり可愛い恰好はしてくれなくって。そういうのはめぐちゃん担当!とか言われたっけ。
「‥‥‥ほんとは三日ぐらい練習してたけど。」
「え?なになにー?」
「あ、ううん!なんでもない!」
彼女の前では幼い強がりを見せたかった。万事成らざるは無しという気概。彼女の前を歩くことが心地良かった。
「ほらほら、次はるりちゃんの番だよ。私がちゃーんと教えてあげる。ふたりで踊ったら百万倍かわいいいんだから!」
「世界中が、めぐちゃんとルリに夢中になっちゃうねー!」
笑ったとき唇のあいだからちらりと八重歯が覗いた。公園の花壇では秋を呼ぶ秋海棠が悠々と咲いていた。
「そゆこと!」
「「いえーい!」」
――季節は巡る。公園の花壇はもう霜枯れがしていて、いまは赤く咲いている花は何も無くなっていた。けれど、黒いやわらかな土からは、来年咲く草花くの芽が、もうぷつぷつと緑色に頭を見せようと、冬空の様子を物憂げに窺っていた。
「えー!?るりちゃん転校しちゃうの!?」
「‥‥‥うん。やだ‥‥‥。ルリ、めぐちゃんと離れ離れになりたくない‥‥‥。ずっと、めぐちゃんと一緒にいる‥‥‥。」
「るりちゃん‥‥‥。」
瑠璃乃は、あらゆる夢と希望を失い、友情を泥土に委し、はじめて生身になった自分自身を意識しているように、唯だ項垂れていた。彼女だけではない。あの子の転校によって生じた空白は、私にとっても大きかった。
――再び季節は移り行く。私は兎に角春の来るのを待っていた。生暖かい風、咽るような花の香、春蘭の咲く季節を。噴水はすでに眠っていた。二人の想い出の公園で、私は電話を取った。
「あっ‥‥‥めぐちゃん!久しぶりだねっ!」
「うん、久しぶり。転校してから、どう?友達できた?」
「‥‥‥あ、あんまり‥‥‥。めぐちゃんがいないんだもん。」
春には一本の桜の樹を眺めてさえ心に火の点くような美しさを感じるのに、それが町町の通りや公園に咲きあふれている桃色の花の眺めである。慈はこのうっとりとする春の景色を一人で眺め暮すよりも、矢張二人で眺め楽しみたいと思った。
「よし、そんなキミにめぐちゃんが、とっておきのプレゼントあげるよ。ね、今おうち?」
「え?う、うん。」
「だったら、テレビつけてくれる?」
「わかった。」
私はるりちゃんから夢を貰った。唯だくよくよしているだけじゃ性に合わない。世界中を、るりちゃんを、夢中にさせてやるんだから――。
「あっ!めぐちゃんが、テレビ出てる!すごい、すごいすごい!どうやったの!?」
「私が本気出したら、こんなもんってこと!」
「わあー。」
「だからね、るりちゃん。もうメソメソするのは、終わり。私、るりちゃんの見えるところにいるから。ずっと、夢中にさせてあげるから。だから、るりちゃんには笑顔でいてほしい。」
春は日毎に南の風が暖かくなって来ていた。鬱積していた私の気持ちにも彼女の声はじんわりと流れ込み、季節のめぐみは一脈のやわらぎを伝えるのであった。
「‥‥‥あの、あのね、めぐちゃん!ルリも、めぐちゃんにプレゼントあげたい!」
「え?」
――私は意識に昇らぬうちに新しい季節の訪れを実感していた。恰も初夏の頃、若葉に包まれた噴水の縁に数羽の鳩が休んでいて、草木さえもが来る暑さに物憂げな表情を見せていた。鈴蘭に似た白い花と着飾ったような百合の花が、互いに絡み合あうようにして、だらけきって咲いていた。
「ありがとうね、るりちゃん。すごくかわいいよ、この靴。」
「うん、喜んでくれて、ルリも嬉しい。めぐちゃんのダンス、とってもかっこよかった。動きやすそうなのがいいかな、って。」
幼馴染から貰ったスニーカー。梔子色の廻しにピンクのワンポイントが可愛らしい。るりちゃんらしいな。
「あのね、めぐちゃん‥‥‥。ルリもね、ちょっとずつ友達、増えたよ。がんばってるんだ。めぐちゃんにも、いつか笑顔を届けられるように。」
「ふふーん。でも私、どんどん先に行っちゃうよー?るりちゃんのくれた靴なら、どこだって走っていけるもん。」
「そ、それは‥‥‥。その、だったら!外国とか行って、すっごくビッグになって、一気にめぐちゃんに追いつく!飛行機で!」
なにそれ、すっごい子供っぽい発想。でもね、るりちゃん。私はね、二人ならほんとうにできるって、信じてるよ――。
「ん。そしたら、またふたりで楽しいことができるね。」
「そうだよ!また一緒にやろうよ、めぐちゃん!必ず追いつくから!」
「うん。待ってる――。」
そう、私たちで、世界中を夢中に――!
…
……
「――またオーディション落ちちゃった。っ、なんで!私はぜったい、誰よりも可愛く演じてたのに!めちゃくちゃ大きな失敗とかがあったならわかるけど!ちゃんと力を出し切って、それなのにさあ!」
るりちゃんの居ない日々。あの子の見てないところで、あの子に見てもらう為に、たくさん努力して、たくさん失敗した。私はいつも強がって電話する時はふふん、としてたから、るりちゃんはアレがスゴイ、コレもスゴイって褒めてくれてたけど‥‥‥。もしかしたら、悔しい経験とか苦い挑戦の記憶の方が印象深いかも知れない。でもね、きっと、私独りだったら続けられなかったと思う。
「――うんうん、そっかそっか。でもめぐちゃん、頑張った!すごいじゃん!ねね、よかったら詳しく聞かせてよ、‥‥‥」
そう、私にはもう一人、幼馴染がいた。ちょっと垢抜けてない感じで、唯だ長い睫毛とぱっちりとした二重が女の子の私から見ても羨ましいくらい可愛くて、みんなは気付いてないみたいけど誰よりも心優しくて、どこか危なっかしい男の子――小此内蓮太郎くん。
「――この前のロケでね、片山津温泉で一日女将したの!その時のご飯がほんとうに美味しくってさ~、‥‥‥」
「――うわぁ、ナイス悪知恵って感じじゃん!手段の選ばなさもすげーや!さすめぐだぜ!」
彼の前では強がっていなかった。子供らしい、悪戯染みた無邪気な会話を楽しんでいた。
「――ふふん☆可愛いめぐちゃんにかかればこのくらい。どうってことないんだよ!」
「流石はおれの幼馴染!よくわかってないことも堂々と語れるめぐちゃん、めっちゃかっけー!」
こんなしっちゃかめっちゃかな話題の末に、私たちは長々と他愛もないお喋りに興じることが日常となっていた。
「どう?こうやると私のポーズは誰よりも可愛いでしょ?」
などと云いながら鏡の前でいろいろ表情をやって見せる。
「流石めぐちゃん、巧いもんだ!とてもその真似は役者にだって出来やしないね、顔が女優さんみたいでに綺麗なんだから。」
「みたい、じゃなくて、綺麗なめぐちゃんはほんとうのタレントさんだよ☆ううん、来年には女優としてビッグになってるかも!」
「あはは、めぐちゃんにはかなわないね。ああそう、その綺麗な鼻つきと歯ならびのせいかな。」
「ああ、この歯?」
そして慈は「いー」と云うように唇をひろげて、その粒の揃った、非常に艶のある綺麗な歯列を鏡へ映して眺めるのだった。
「――蓮太郎。こんな遅くに電話しちゃって、ごめんね。明日のオーディション本番がね、ちょっと心配で、‥‥‥」
「――そっかぁ。でも大丈夫、きっとぜんぶうまくいくよ。練習付き合った時は完璧だったし、めぐちゃんなら、きっと乗り越えられる。おれはね、そう信じてるんだ。なんたっておれは、めぐちゃんのファン第一号だからね!」
どうしてだろう、彼の前なら自分の弱いところも曝け出すことができた。その純粋な眼差しで私を、直ぐ隣で、私を応援してくれることが心地良かった。
「――ぃよし!元気出た!ありがとね、蓮太郎☆またこんな時間まで付き合わせちゃってごめん。」
「ううんこっちこそ、今日もたくさん話せて楽しかったよ、めぐちゃん。また話聞かせてね!それじゃあ、おやすみ。待ってる――。」
…
……
蓮太郎も、私の前から居なくなった。
ご両親が亡くなったという話は聞いた。繊細なあの子のことだから思い詰めちゃわないか心配で、何回も何回も連絡した。でも、電話には出ない。学校には来なくなった。家はたぶん空になっていた。偶にメッセージが帰って来るときも、唯だ「大丈夫。生きてます。」と中身のない文字列が流れてくるだけ。‥‥‥ムカつく。
「――はぁ。蓮ノ空女学院、ねぇ‥‥‥。」
私の中学生としての時間、そしてタレント活動を許可されている時間の期限が近づいて来ていた。私は半ば両親に強制される体で、この、蓮ノ空女学院という全寮制の高校に進学することが決まってしまった。せっかくタレント活動も順調だったのに、せっかくるりちゃんにも私のカッコいい姿を届けられていたのに‥‥‥。
夢を喪ったみたいな、虚無の感覚。二人の幼馴染について思案を廻らせる度、殊更に憂鬱な感傷が渦巻いてきた。そうして気怠げにベッドでスマートフォンを弄っていると、不意に、ぴこん!と軽い電子音がした。蓮太郎からの久しぶりの連絡――!もう、心配させておいて‥‥‥。
「あたしさ、四月から蓮ノ空女学院に入学することになったから。めぐちゃんの志望校、確か蓮ノ空だったよね?一緒に通えて嬉しい!これからもよろしくね~ !(^^)!」
「――――は?え、いや、‥‥‥はぁ!?」
慈は忽然として声を詰まらせた。知己の幼馴染による突拍子もない決意表明に理解が及ばなかったのである。而もふざけた顔文字で結んである。いままでなんで連絡してくれなかったの?なんで学校来ないの?体調悪かったりするの?ていうか〈女学院〉って意味わかって言ってんの!?などと積もりに積もった疑念をここぞとばかりぶつけてみたが。あいつは「ごめん、いまは詳しく言えない」の一点張り。‥‥‥ムカつく~~~!なんなの!――ああもう、わかった!あいつに、直接確かめないと気がすまない!!
――四月一日、金曜日。入学式当日。私は蓮ノ空女学院校門の近くで立ち止まった。春風に騒めく桜並木の甘い音と、夢見る女学生達の愛らしい「ウフフ」「オホホ」の旋律と、時折数匹だけ淋しげに鳴く小鳥達の囀りが、微妙に入り交り、織り成され、不可思議な陽気を齎す諧調となって、私の視界は暫くは奇妙に美しい一幅の屏風絵みたいな光景に投影されていた。私はすぅっと呼吸を整える。――ああ、春風に舞う桜色に誘われて。遂にあいつが、私の幼馴染が、可愛らしい女の子の制服姿で、こちらに駆け寄ってきた‥‥‥!
2
…
……
百合亜は独り、沙知の新入生歓迎ステージを間近に観た後の余韻から未だ醒めずにいた。
季節の盛りを全身で享受できる、もの柔かな、あたしの好きな春の夜だ。自分は今夜も遅くまで眠らないで居るだろう。こんな晩には自分は眠られ無い者も不幸とは思わない。他人の幸福も自分には羨ましく響かない。自分は空想を欲しいままに刺激して、子供のように勝手気ままに遊んで居るだろう。寮の部屋に入って荷物整理をし始めてから一時間は経っただろうか、一向に片付け終わる気配が見えない。然し、新しき春に限っては、こんな夜も心地良い。時間はたっぷりと有り余って居る。空想も有り余って居る。
「姉さん!きょうのステージ、ほんとうに良かった!!‥‥‥」
沙知に送ったメッセージを改めて開いてみる。昂奮のままつい詩人気取りに長々と書き殴ってしまいそれを送ってしまったが最後、羞恥心を育みながら待ちぼうけしていたが、姉さんからは、
「ありがと~!こんなに情熱的に褒められると照れるねぃ。また明日、感想聞かせてね!‥‥‥」
といった趣意の返信が淡々とあった。よかった、ドン引きされることはなかったようだ。オタクはついその感傷に任せて他人にも共感を求めてしまうものだから、いけない。反省、反省。
――いやはや、矢張スクールアイドルは最高だ。板の上の沙知さんを観て熟熟実感させられた。清純な凄さ、それはスクールアイドルとしてステージに立つ彼女を観た者の誰しもが認め得る特色であろう。然しそれはあたしが思っていた通り、ソフォクレスやシェイクスピアの凄さとは違う。あなたは情熱的で、あなたは正直で、清楚で、透明で、もっと細かにぴちぴち動いていた。少なくとも偉人等描いた絶望的な暗さや頽廃した幻覚の魔睡は無い。宛然凉しい水銀の鏡に映る剃刀の閃めきであたしの心に指を入れてくる。その鏡に映るものは真実である。そして其処には玻璃製の上品な青空と草原が映っていた。或いは、我が姉の気稟はまた譬えれば地面に直角に立つ一本の竹かも知れない。その細い幹は鮮かな青緑で、その葉は華奢でこまかに動く。たつた一本の竹、竹は天を直観する。而もこの竹の感情は凡てその根に沈潜して行くのである。根の根の細かな繊毛のその岐れの殆ど有るか無きかの毛の尖さきのイルミネーション、それがセンチメンタリズムの極致とすれば、その毛の尖端にかじりついて泣く男、それはあなたの弟。小此内蓮太郎であり、或いはあなたの妹、大賀美百合亜である。我がスクールアイドル狂いはあなたも認めることだろう。
ああ、あなたの電流体の感情はあらゆる液体を固体に凝結させなければ止まない。竹の葉の水気が集まって一滴の露となり、蒸れた観客の熱気が玻璃を透明に張った如く一精の雫を形づくる迄のそれ自身の洗練は、決して仮初のものではない。あなたのセンチメンタリズムの信条はまさしく木炭が金剛石になるまでの永い永い時の長さを、一瞬の間に縮める。この凝念の強さであろう。摩訶不思議なるこの真言の秘密は、唯だスクールアイドルのみが知る。
ああ、めぐちゃんも、それに梢ちゃんや夕霧ちゃんも、そんな感動を共有してくれたならば、どんなにか嬉しいことだろう――。そして、早く早く、沙知さんに直接感想を言いたい‥‥‥!
刹那、スマートフォンが振動し、とある女の子からの着信を視界に認める。
「何号室」
その三文字に託された要件は明白だった。
――百合亜は、真新しく散らかった寓居にて一人の少女と対座していた。桜色を卯月に包む夜酣なるに、春を抽んずる藤色の濃き一点を、天地の眠れるなかに鮮やかに滴らした少女である。夢の世を夢よりも艶に眺めしむるグリーンブラウンの髪を、乱るるなと畳める鬢の上には、玉虫貝を冴々と菫に刻んでいるが如く、細き金脚にはっしと打ち込んでいるかに見えた。静かなる夜の、遠き世に心を奪い去らんとするのを、その藤色の眸のさっと動けば、見据えられた百合亜はあなやと我に帰る。半滴のひろがりに、一瞬の短かきを偸んで、疾風の威を作すは、春の夜に遊んで春を制する深き眼である。この瞳を遡って、魔力の境を窮むるとき、桃源に骨を白くして、再び塵寰に帰るを得ないだろう。唯だの夢ではない。待ち侘びていた現実だ。然し糢糊たる夢の大いなるうちに、燦たる一点の妖星が、聢と我のみを見よと、藤色に、眉近く逼るのである。
あたしの幼馴染は上擦った声で口火を切った。
「――私はね、蓮太郎のこと心配してたんだよ。大好きな蓮太郎になにかあったんじゃないかって、ずっと不安だった。でもこうして、形はなんであれ、また蓮太郎と一緒に学校に通うことができて。ほんとうによかった‥‥‥。」
「めぐちゃ――」
「――なんて、言うとでも思ったか~~~!」
「なにっ」
言下のうちに慈はギラっと眼を光らせて顔を上げた。白磁の如き頬の締れるに、薄き化粧をほのかに浮かせるは、藤色の底に、余れる何物かを蔵せるかのような双眸に、蔵せるものを見極わめんと焦る少年は悉く虜となってしまう。百合亜は眩げに半ば口元を動かした。口の居住の崩るる時、彼女の意志は既に相手の餌食とならねばならぬ。下唇の態とらしく色めいて、しかも判然と口を切らぬ瞬間に、切り付けられたものは、必ず受け損うだろう。
「えっとですね、慈さん。あのですね、‥‥‥」
蛹でも食って生きているような感じだ。あたしは次の言葉を捜しあぐねて居た。
「なに?私がせ~っかく三ヶ月間も心配してあげたのに、へらへらへらへらと高校生活初日をエンジョイしちゃってさ。なんか心配してた私がバカみたいじゃん!ああもう、それで今度はなんなの?あんたが今朝言ってた「沙知さん」って、あのちっちゃいスクールアイドルの先輩だったんでしょ!‥‥‥あ〜あ、こ~んなに可愛いタレントの幼馴染が居るっていうのに、今度はスクールアイドルの女の子誑かしちゃって。いい御身分になったものですね、百合亜ちゃん☆」
また出た、指ハートの決めポーズ。幼馴染はきょう一日だけでもう何回目になるかわからない愚痴を聞かせてくれる。あたしは面目ない心地でぼそっと呟くほか無かった。
「冗談きついぜ、めぐちゃん。誑かされてるのはこっちのほうだぜ‥‥‥。」
百合亜の細やかな抵抗は徒労に終わりそうだ。
「はあぁ~。まったく、いくら大天使めぐちゃんでもね、もうこれ以上は我慢できないからね!ほら、早く!いままで何があったのか教えて!」
奇麗な藤色が、二色、三色入り乱れて、疾く動く景色を、唯だ茫然と眺ながめていた百合亜の前へにじり寄り、ぴたりと坐った。彼女の香りが鼻腔を擽り、おのれの心臓が僅かに早鐘を打ったのがわかった。百合亜は、一呼吸整えて、答えた。
「そうだね――。いやほんとに、待たせてごめん!ぜんぶ、話すよ。あれは去年の十二月、父さんと母さんの訃報があった日、‥‥‥」
あたしは淡々と話した。じめじめとした通夜の日の情景のこと。遠い親戚である大賀美家に引き取られたこと。蓮ノ空女学院が直面している大きな問題のこと。その問題を解決するために沙知さんと契約したこと。そして、蓮太郎としてではなく〈百合亜〉として高校生活を過ごす決断をしたこと。唯だ話さなかったのは――おのれの枯れ萎んだ「道化の華」についてのみ。あたしが語るのは、他人の為に咲かせる新たな「道化の華」についてだけでよい。おれは依然、彼女の前だけでは、強がりたかったのだ。
腋の下から汗が出ていた。妙に雅俗混淆な、記憶なのか将又夢なのか判然とせぬものを語ってしまったとも思った。むかし宋の大慧禅師なる人は、悟道の後のち、何事も意の如くに出来ぬ事はないが、ただ夢の中では俗念が出て困ると、長い間これを苦にされたそうだが、成る程尤もなことだ。道化を性命にする者は、いま少し美しい夢でも見なければ幅が利かない。こんな夢では大部分画にも詩にもならぬと思いながら、徐ろに部屋の窓を開けようと立ち上がると、いつの間にか薄雲の隙間から月がさして、隠り月だというのに木の枝が二、三本斜めに影をひたしている。いや、思い返せばそれはもしかしたら月光ではなかったのかも知れない。記憶まで冴えるほどの春の夜だ。
眼前咫尺に迫っていた藤色は自然と柔らかな花の色彩を纏い始め、最後の一言まで「そっか。」と相槌を挟みながら優しく耳を傾けてくれた。右のような事情を一通り話し終え、百合亜は再び幼馴染の前によいせと膝をついた。
「‥‥‥。」
「‥‥‥。」
あたしたちは互いに眼を伏せていた。待てば待つほど沈黙が探まった。然し、むかしから二人の間柄において、こうした沈黙というものはある程度以上に深まるものではなかった。互いに自分の考えを深めるために沈黙しているのではなく、ただ沈黙の破れるのを互いに待っているにすぎないような沈黙でしか、それはないのだから。百合亜は軽く諸膝を斜めに立てて、新品のカーペットに八反の座布団を改めてさらりと滑らせた。そして、沈黙。その水平線上に、少女達は自由にロマンスを描く――雲の峰のように。
「――でもさ、流石に蓮太郎に女装までさせて、蓮ノ空に入学させるっていうのは、どうかしてるでしょ。」
静寂を切り裂いたのは藤色の鈴の音だった。慈は憤りもせず、追及もせず、唯だ苦笑を浮かべながら呟く。あたしにはその苦笑が何よりも心地良かった。沈黙は、後で大に言わんがための、或いは最後の要点を言わんがための、或いは唯一の真理を言わんがための、その前提として役立つものだ。我が幼馴染はほんとうに鋭い。沈黙の雄弁さも偉大なりと評さねばまい。
「あ、やっぱりめぐちゃんもそう思う?三ヶ月の間にいろいろと〈女の子〉を演じる訓練してきてさ、こうして本番を迎えたわけだけれど。いやはや、なかなか現実は厳しいね!きょう一日だけでもぐっと疲れたよ。」
むず痒さの中に本心が漏れ出した。漸く慈にも共有できて〈嘘〉ではなくなったという安堵感が、彼女の緊張と後ろめたさを解いていた。この勢いのまま「さ、さ。」と百合亜は胡坐を掻いて仰々しく両手を各膝に乗せ、恰もこの間合いを待ち構えたかのように続けた。ワンピーススタイルの女制服は胡坐には向かない。
「あとねめぐちゃん、蓮ノ空に居るときは〈蓮太郎〉じゃなくて〈百合亜〉だから。そこは重々気を付けてね。バレるとあたし、大変なことになるから。」
「私と話すときくらいはいいんじゃないの。」
「ダメ。あたし馬鹿だから、油断して直ぐ嘘がとけちゃう。」
「嘘がとけるとどうなるの?」
「あたしは何処かへ行ってミジンコにならなければなりません。」
「それは大変。」
腐れ縁の二人にしか理解できないノリとテンションで会話が進む。
「大変ですから、〈百合亜〉を女の子としてしっかりと鍛え上げてください。」
「百合亜にとっての〈女の子〉ってなに?」
「藤島慈ちゃんみたいに、可愛くて、かっこよくて、歌もダンスも綺麗で上手な、世界一素敵な女性のことです。」
「よろしい。やんなさい。私もコーディネートくらいはしてあげる。」
と、あたしは馴染みのぐうタッチを受け止めてみせ堅く約束した。慈と触れても不可解な動悸は襲ってこない。唯だ安心感があるだけだ。二人の少女の無邪気な笑い顔が春の夜の熱量に溶けていく。こうやって美しい春の夜に、何らの方針も立てずに雑談に興じるというのも実際高尚だ。
――あの時の道化と人間不信に狂ったおれを、彼女はどのように見ていたのだろう。ずっと仲良くしてくれていた慈とも、しまいにはおのずから疎隔するようになった。慈の方では、何の理由でおれがああにもヒネクレ出したのかわからないので、きっと手に負えなかつたことであろうが、わからないのも尤もである。おれは、理由のないことに怯え、姿無きものを恐れ、形無きものを愛し、巡り合わせの無い運命を信じ、そして裏切られたと思い込み、悉くに向ッ腹を立てて居たのだから。無論、いまとなって述懐しても詮無きことだし、わざわざ彼女に真意を問い正したいとも思えない。唯だ、わかったのは、幼馴染の景色は何一つ変わっていなかったということ。めぐちゃんは、あたしを待ってくれた。そしていま、受け入れてくれた。何一つ変っていなかった。
百合亜は屡々思わずにいられないのだ。なにゆえ藤島慈が、おのれにとって特殊なひとりの少女であろうか。慈のどこに、忘れられない少女の資格があるのであろう、と。美貌であろうか。否。彼は彼女が自身の美貌を磨くために腐心する姿を屡々見慣れてきた。そして心は。性格は。教養は。そのいずれにも、明確な回答を指摘することは不可能だった。こんなわからない話はない。そのくせ〈藤島慈〉という存在を意識するたびに、肉体すらも不自由にするこの衝動を思うがいい。然し、希望の裏打ちのない若者の行為があり得ようか?むろん有り得る筈はない。そして蓮太郎少年にも、少女百合亜にも、矢張希望はあったのであろう。ただし、絶望に変形しがちな、あの時にさんざ経験した、疲れきった希望に関して物語ることは、人性や人情の謎に関して物語ることにほかならないことをあたしは知っていた。この解きがたい人間の本質について。自信の壊滅。野望。そして友情へのあこがれ。必死。けれども安らかな時間。第二の希望。等々。それはもう人性か、或いは仏さまにでも訊ねるがいい。あたし個人の知ったことではないのだ。
「――だからねめぐちゃん、いままでごめんね。それから、ありがとう。」
百合亜は満面の笑みの中に慈を見据えた。眠らんとする春の夜に一縷の脈をかすかに搏たせつつある、細く且つやや低い声は、慈にも確と届いたに違いにない。それでも百合亜は、その声の中に於いても叫ばずにいられなかった。道化だ。もはやおれの一生が。然し蓮太郎を道化へ呼び寄せた心のひとつに、女の面影を消し去ることができなかった。彼は三か月の間にもそれを何度か意識したが、意識がそれにふれることを、余り好んでいなかった。思えば、おれの斯くの如くしどろもどろな態度は、世間の風潮を白眼に視て超然とし確固たる自分自身を磨き上げることに余念の無い、愛嬌の天才である彼女にとってはさぞ不愉快だったかも知れぬ。だからそういう百合亜を眼前にして「身勝手が過ぎる」と言われるのは一往尤もな訳であったが、おれはそんな悪口を言われるのは覚悟の前だった。「道化で何が悪い」と法螺を吹くつもりであった。そして誰が何と言おうと、沙知さんから与えられた居場所を守り使命を全うする為には、自分の善しと信ずる態度を改めるつもりはなかったが、然しそれが人もあろうに、誰でもない、おのれの唯一無二の親友である慈が共感を抱いてくれるとは思いも寄らぬことであった。若し彼女がむかしのようにあたしを友達扱いにしてくれたならばどんなにか私も喜んだであろうと、いままでずっと考えて来た。ああ、むかしに変わらぬ友情を誓ったこの一日を、あたしはこの先も、ずっと、忘れることはないだろう――。
あの子はあたしの幼馴染――おまけにいちばん大切な友達。それなのにあたしは?あたしには何ができる?――あたしは、彼女の知遇に報いなければならぬ。
対する慈は「ん。」とだけ静かに呟いて足を崩し、窓に目を遣ったのであった。
騒々しい新春の一日は次第に更けて、花影朧に酣なるを、遅日早く尽きんとする風情と見て、本来ならぬ音色を興あり気に楽しむはいよいよ幼馴染の不思議である。仔細は固よりわからぬ。この男とこの女の、互いに語る言葉の影から、時々に覗き込んで、要らざる臆測に、うやむやなる友情――或いは恋の八卦をひそかに占うばかりである。外の寒さを堰き止められて、なま暖かく淀んだ空気がびゅうっと霧散し、二つの燭台の紅い灯は宛ら動かないもののように真っ直ぐにどんよりと燃え上がって絡み合い、ダンボールで雑然とした寓居を彩る山紫水明の一軸を虚ろに照らしていた。青銅のうす黒い空の中から花心も露に細く浮き出している隠り月に、廓の春の夜らしい柔らかい匂いが淡く漂っていた。
3
「ごーきげんよー!」
百合亜の元気いっぱいの挨拶が朝の一年百合組に響き渡る。〈大賀美百合亜〉という、蓮ノ空女学院に相応しい少女――いつも屈託のない明るい笑顔を振りまいている、純粋で無邪気な性格の持ち主。唯一にして最愛の幼馴染から大きく影響を受けた、誰からも愛される天真爛漫で意気揚々とした振る舞い、照れたように頬をかく様子などその長駆に似合わない子どもっぽい仕草を垣間見せ、見る者の愛着や同情心をく直ぐるような魅力を秘めている、そんな少女――。
人間というやつは、昔々から、生れついた生地の顔を人前に晒すことを、ひどくはにかむ傾向がある。日本では頭被、編笠、頭巾の類が、その時々の人間の顔を隠してきた。西洋でも、男という男がかつらをかぶった時代がある。女という女が厚い面紗ヴェールをかけた時代がある。仮面舞踏会などが人びとに喜ばれるのも、花見の客に眼かつらが売れるのも、同じ人間心理の顕れに違いない。そう、あたしはれいの如く、仮面を被ったままの学園生活をここに始めたのである。然し、今回の道化は人助けのための道化。あの時とは違うはず。おれがおれを演じているのではない、蓮太郎が、沙知の助力のもとで〈百合亜〉の人形を飾ってプロットを描き、それを厳密に演じているのだから。
「――梢ちゃん、ごーきげんよー!」
「ええ。ごきげんよう、百合亜さん。うふふ。きょうも元気いっぱいね。」
「いい天気だからねー!そうだ聞いてよ梢ちゃん!昨日のクラブの後にね、沙知さんがさ、‥‥‥」
「――沙知さん、ごーきげんよー!」
「おぉ百合亜、おはよー。いやぁ、きょうも精が出るねぃ。」
「いや~姉さん、あの動画観た?大伴女子の今年のスクールアイドルたち!とんでもない粒ぞろいでさぁ、なかでもあたしはね、‥‥‥」
「――ねぇ、ゆり。そのピン、お揃いだよね。」
「ああ、これね?そうそう、沙知さんからお洒落について教わった時があってね、その時に。このピンはあげられないけど、きょうは夕霧ちゃんにお菓子、持ってきたよ!」
「わぁ、それボクが好きなやつ‥‥‥!はやく食べよ、ゆり。」
「あははっ!」
「――はああああぁぁぁぁぁぁぁ‥‥‥‥。」
百合亜は独り、人目のない廊下の隅で大きな溜息を解き放っていた。いやはやほんとうに、これは参った。あたしが蓮ノ空へ逃げのびて生活の根を下ろそうとしたのは、こんな現実を求めていたかららしい。百合亜は思わず苦笑が湧くのであった。楽しい。けれど、それと同じくらい、ひどく心臓が痛んでいる。あたしが求めていたのは、居場所だった。大賀美家のことにしても蓮ノ空のことにしても、それを藻掻いて手に入れようとする百合亜と、この土地へ自分を棄てさせた蓮太郎の間には違いがある。あたしはこの時既に自覚していた、この〈道化〉をおのれの物として我武者羅に求める根気が無いほど、夢中になっていたのである。あたしがこの学院へ流れて来たのは、むしろおれ自身を放棄したからにほかならない。拒絶と禁止が、快い状態だったからである。左の頬っぺたを殴られたら、さあ右の頬っぺたを出してやろう。間違っても自分のことを考えるな、使命に忠実であれ。おれは木偶の坊や屍だと自分自身に教えていたのである。――その第一週が、そして、もはやこのザマだった。噓をつく。実人生の矛盾と変化が、ああ、これほども窮屈なものか!百合亜の口べりに、仕方なしの苦笑がからまり、冷めたく固まってしまう。手鏡を見る。あたしはもう、右の頬っぺたを殴られたらしいな。成る程。そうして百合亜は、既に左の頬っぺたを素直に出したというらしいな。これは立派なお人形さんだ、と彼女は嘲りを意識していた。荒涼たる冬空の姿を心の内に見出さずに居られなかった。
「はぁ、ほんとうに不器用だな、おれ‥‥‥。いやいや、いかんいかん。このままじゃあの時となんも変わらんぞ。沙知さんも、めぐちゃんも、直ぐ近くで見てるんだぞ‥‥‥。」
そもそもの始まりから、居場所を求めてこの女学院へきたのだ。その気持ちのどうにもならない自然の持続が、彼を空虚の一室へ誘ってしまっただけである。他に意味は無い、謂わば流れ者の入学であった。おのれすら放棄したい荒れ果てた心に、家庭的なあたたかさはむしろ堪えられぬ刑罰である。おのれの若さをすら無理強いに意識せしめられ、のっぴきならぬ青春の孤独を暴力的に押し付けられたかのような、まるで、か弱い一市民が王者の横暴を憤るに似た切ない呪いを感じたのである。誰かを演じることは慣れていたはずなのに、いまは一層むず痒い。
「‥‥‥よしよし、引き締めていこう。天網恢恢疎にして漏らさず。あたしは、大賀美百合亜。沙知さんの妹。使命を数えて‥‥‥いち、に、さん、し、ご。よし、まだこの手の中にある。いける。」
百合亜は手鏡を閉じ、歪んだ口元に指を押し当ててぎゅっと笑顔をつくりだしてみた。女子高生の友情はうつくしかろ、恋愛もうつくしかろ、部活動への情熱も結構だろう。然しおのれがその局面に当れば利害の旋風に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、強烈に眼が眩んでしまったのだ。これをしっかりと理解しようとする為には、おそらく、人目も憚らない程に馬鹿になって第三の道化を打ち捨てるか、或いは、わかるだけの余裕のある第三者の地位をおのれ自身の中に打ち立てねばならぬ。第三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も読んで面白い。スクールアイドルの舞台に心動かされる。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、スクールアイドルに熱狂するあたしも、その瞬間だけは自己の利害を棚へ上げている。見たり読んだり狂ったりする間だけは人間は詩人となり、また道化の幻想を共有する。
それすら、学校の場面では人情を免かれぬ。苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。教室の誰もがいつの間にかその中に同化して苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。友情に限るのであれば、その取柄は利欲が交わらないという点に存するかも知れぬが、若しそれが真実であったりしても、交わらぬだけにその他の情緒は常よりは余計に活動するだろう。あたしはそれが嫌だ。苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。あたしも数年の間それを仕通して、飽々した。後悔している。救いの手を差し伸べられた末に芝居や小説にありがちなプロットを繰り返しては大変だ。百合亜が欲するものは、そんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる安堵感である、――いや、違うな、考えすぎか。あたしにはいま、余裕が無いというだけかも知れない。
「よぉおし、いける!きょうも一日頑張っていくぞぉぉおぉ‥‥‥!」
ぱんぱん、と二度その頬を叩いた少女は、春の温気漂う廊下を駆ける。
「‥‥‥。」
百合亜がお嬢様専用念仏を唱えながら颯爽と走り去って行く姿を、慈は遠く、明らかに疑いの目を向けて眺めていた。彼女の網膜に焼きついた邪神の像が一つある。慈の眼前に親愛なる幼馴染の新奇な絵巻がひらかれた初夜、彼女に話しかけた新鮮な若い女の像であった。その、未知で馴染みの女を憎んでいるのではないのである。むしろ、好きだ。おのれを欺いた、卑怯な女だという意識もなかった。慈の心はひどく磊落していて、唯だその心の深いところ、そして、あの、ちっちゃい先輩の影を凝っと思い浮かべていた――。
「――いただきます!」
「いい響き。」
「はむ、もぐもぐもぐもぐもぐ。うめぇ、蓮ノ空の学食最高!」
「きょうは庶民向けメニューです☆」
慈の眸は相も変らず百合亜に注いでいる。
「お嬢様学校でも安くてもうめぇもんはうめーんだよ。‥‥‥あ!でかいジャガイモ発見しました。肉じゃがのジャガイモはさあ、でかい方が幸せだよなぁ!」
二人は食堂の隅の方にある丸テーブルを囲んでのランチタイムを過ごしていた。張りぼてのお嬢様校とはいえ、蓮ノ空の学食は基本的にはお嬢様価格。それでも廉価帯の日替わりメニューも用意されていて、而もそこそこ旨いとくる。企業努力だ。そこだけは良心的で助かっている。今週水曜日は肉じゃがの日であった。
「そんでぇ、めぐちゃん。話ってのはなんだい?この後用事あるから、聞くだけ先に聞いちゃうけど。もぐもぐもぐ‥‥‥」
ジャガイモを頬張りながら問いかける百合亜。対する慈は丁寧に水を飲みきってから、
「ちょっと待って、いまさっきお汁とびそうになってた。」
「え、まじ?悪い悪い、気を付けるわ。」
そうして慈は、ミニトマトを摘まみながら百合亜を見詰めた。視線が重なる。甘美で蠱惑的、ぬめりなく蕩ける蜜のようであって、それでいて同じくらい、背筋が凍るような意地の悪い含みもあるという、思春期の女の子に特有な二律背反。あたしのフォークはジャガイモを刺した状態のまま動きが止まり、これから始まるであろう雑談に身を構えてしまう。努力適う入念な手入れの化粧にも似ず、おのれの仄かな色っぽい頬の赤みが急に褪め渡って行くのを感じた。
「――あんたさ、変わったよね。びっくりするくらい元気いっぱいで、いろんな女の子と仲良くしようとしてるし。それでいて、むかし以上に忙しない感じもするし‥‥‥。」
感情の籠った彼女なりの表明を確かに聞きながら、意外にも百合亜は少し含み笑いをしてから語調を整えて、
「ああ、これはね、〈強がり〉だよ。変ったんじゃなくて、変えたんだ。百合亜が百合亜で居るための、ね。」
と飄々に受け流すだけであった。――百合亜は不意に沙知との約束を反芻した。一つ目に、女の子として、蓮ノ空女学院に入学すること、二つ目に、彼女と共にスクールアイドルクラブの一員として、未来の学院存続のために闘うこと。その両者を成し遂げる為の大前提となるのは、如何に〈百合亜〉が女の子として蓮ノ空に馴染むことができるのか?という点に於いて。友情、動機は何でも結構、然し彼女は自ら進んで女子に歩み寄り、信頼を勝ち取り、おのれの第二の居場所と為さねばならぬと考えていた。加えて、天真爛漫なごきげんよう少女〈百合亜〉の人格を固定するためには、ある程度客観的な視座でおのれを俯瞰せねばならぬ。馬鹿真面目なあたしが嘘を積み重ねていくためには、固陋とも思えるこの言い回しで筋書立てた方が心地良い、このような了見だ。――そういった体裁が、あたしのむかしを知悉する彼女にとっては不恰好に映ったのだろう。
「‥‥‥まあ、事情が事情だからっていうのもあるだろうけどさ。なんていうか、百合亜がどこ見てるのかわかんないっていうか。少し心配。」
慈は照れくさそうに髪を触る仕草を見せ、困ったような微笑みで幼馴染の顔を覗きこんでいたので、百合亜は残りの食事をかっ込み始めた。
「大丈夫大丈夫。心配してくれてありがとうだけど、あたしは大丈夫だから。めぐちゃんはいつもみたいにど~んと構えて、やりたいことやればいいと思うな。あたしはいつも、しっかりめぐちゃんのこと見てるよ。」
れいの屈託のない笑顔とは裏腹に、百合亜の言葉はどこか素っ気ないものであった。
「‥‥‥ん、ごちそうさまでした!それじゃあめぐちゃん、またあとで。‥‥‥あ、ごーきげんよー!」
「あっ、ちょっと待ってよ百合亜!私のインゲン食べてよー!」
軽く口を拭った百合亜はトレイを持って足早に立ち去っていった。そう、あたしは思う。こういう使い心持がよくてつい滑りだすような軽快な言葉は、それを発することによって人に喜ばれ、人に快感を与えるように意味を切り換えておく方が便利だ。これも私論だが、言葉というものは個人が特殊に私用することができるものであるから、自分の独特の意味や慣用をつくっておくと便利なものである。「お前は信頼すべき〈ごきげんよう少女〉である」と表彰状を与えるような慣例をつくっておけば、口が滑っても、たとえ少年っぽい仕草が漏れても大きなマチガイはない。あたしのような不器用な道化師は、せめてこういった術の一つや二つは身に付けておくべきなのだ――。
「‥‥‥。」
――あの道化は、蓮太郎の、人間に対する最後の求愛に思われた。彼は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしい。そうして自分は、この道化の一線で僅かに人間に繋がることができた。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサービス、アンコールへの応酬。ふと鑑みてみれば、彼はあの物狂いの頃から、自分の父母に対してさえ、人間がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただ恐ろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていた。つまり、空蝉の彼――或いは彼女は、いつのまにやら、空っぽのことしか言えない少女になっていた――。
「‥‥‥まったく、ほんとにどこ見てるんだか。私を頼んなさいよ、バカ。」
――そんな幼馴染の動揺を見逃すほど、藤色の少女は甘くなかった。それがロマンチックな色であるという意味で、非現実的であるのではなく、墨色の果たせない感情を淡彩で表現しているという意味で、決して甘くはなかった。日脚が水々しい芝生の上に降り注ぎ、山はずっしりと落ち着き、野はおだやかに畝って来る。こうして居て、何の物思いがあろう。この貴な娘御は、やがて後ろをふり向いて、少女のなぞえについて、次第に首をあげて出陣を決意するのであった――。
4
昼の学校が女学生たちの晴れ舞台だとするなられば、あたしが最も気を引き締めなければならないのは、この学生寮かも知れない。この学生寮はナマの女子たちの世界――謂わば、奈落だ。
蓮ノ空女学院は女子高であるから、当然、この学生寮での生活においても女性として過ごさなければならない。然しこの儼然たる事実は、あたしの精神を擦り減らしていくのに十分過ぎるほどだった。確かに個室を貰えるぶんプライベートな空間が無いわけではないのだが、必要最低限以外のものはすべて、共有。そんなわけで、まず困ったのは、お風呂。蓮ノ空の上下関係は割と緩いとは沙知さんから聞いていたものの、この大浴場は別であると直ぐに看取できた。利用時間が限られている上に、先輩優先という暗黙の了解。あたしたち一年生は二十時頃まで待たされた挙句、二十二時には鍵が懸けられてしまう。勿論大浴場で湯気にうだるわけにはゆかぬあたしは、大浴場脇のシャワースペースで事を済ませるわけであるが、然し金沢の女子と謂うのはどうやら長風呂の種族らしく、遅い時間まで誰かしらの気配が常にあったし、更衣室が大浴場と共有している関係上、見たくなくても見えてしまうものがあることは想像に難くなかったので、独り戦々恐々としながらのそりのそりと湯浴みに向かっていたのである。赤褐色の長髪ウィッグを脱ぐことができる、数少ない場所のひとつがこのシャワー室。それでも彼は、絶えず肩から熱めのお湯を流しているうち、あまりに露骨にこの湿り気のうちに解放された、おのれの肉体を眺めておののいていた。それはまぎれもない、男の肉体である。異物なのは、おのれの方。おのれの身が実際であるならば、いま百合亜が見ている世界は絵のような気がする。絵の世界が現実ならば、あたしはいま夢を見てるんだ。彼は何者かに強いられたように、そんな考えが心のなかに起こるのを感じながら、紗幕に透けて映ゆる麗とした異質の輪郭を見ないよう見ないよう、自省深くしてあたしも千万人中の一人として許しては貰えないかと、にがにがしい沈滓を味わっていた。――孤独に落ちつけ。――物事を考えるはよろしい、考えなければならない、しかしクヨクヨするなかれ。――貧乏に敗けるな。――物を粗末にしないことは尊い、しかも、ケチケチすることはみじめである、卑しくなるな、――。少年の心を完全には抛つことができなかった少女は、幾多の美しい肉体が乱れ合っている浴場の霞のように立ち登る湯気のなかを想像せずにはいられず、いつも、この学院の中にすら居た堪れない想いを烈しく抱いたまま、蒼惶として大浴場を後にするのであった。
大浴場から部屋までの帰路はその距離以上に果てしなかった。どこか湿り気のある、あの、女の匂いが充満していた。ただし、試みに同輩の女学生らの顔を注意して見渡してみると、あまり感じの好い愉快な顔はめったに見当たらない。顔色の悪い事や、眼鼻の形状配置といったようなものは別としても、顔全体としての表情が十中八、九までともかくも不愉快なものである。晴れ晴れと春めいた気持ちの好い、それでいて子供らしい快活さを保った表情はめったに見つからない。改めて強調するが、あたしは器量の話をしているのではない。大抵神経過敏な緊張か、或いは後先考えないサバトでの馬鹿騒ぎか、さもなくば過度の疲労から来る筋肉の緩みのような、断じてしまえば、どこか健康しい不愉快さが眼と眉の間や口の周囲に残忍に刻まれているのだ。他愛もない雑談で盛り上がっている声の往来など、共学の学校でも日常茶飯事だろうが、然しこの学生寮内で耳にする旋律と謂えば、すべて、往々にして治安が良くないような、姦しい女子のざわめき。たまには面白そうに笑っている女があっても、その笑いは多くの場合には笑わないよりも一層気持ちの悪い人間の笑いである。これらの沢山たくさんの不愉快な顔が醸す一種の雰囲気は強い伝染性を持っていて、外から乗り込んで来る男の心に、直ぐさま暗い影を投げないではおかない。そして多くの人の腹の虫の居所を変えさせようとする傾向がある。無論、花盛りの少年少女はそんな外圧に立ち向かうだけの自省力を持ち得るほどわり切れる年頃ではない。殊にアレは女だから、どんなデリケートな理屈でも自由自在に作り上げて、勝手気儘な自己陶酔に陥って行けるという訳だ。くそっ、いまだけは羨ましい‥‥‥!
いやはや、女の子というのはほんとうに難しいものだと、何度も何度も実感させられた。自分の部屋に入る直前、風呂上がりの同輩たちとすれ違い、甘ったるい女臭さに鼻腔がくらくらする。――嘘がとけると、どうなるか?ミジンコになるのではない、居場所が、無くなるのだ。危機感に震えたところで致し方が無い、そう、あたしは為すべきことを為せ。そんなわけで、この寓居に字義通りの胡坐を搔く少女・百合亜が第二に紹介する悩み事は専ら女性としての身嗜みチェックに関してである。風呂上がりには乳液を忘れずに。入念に肌の手入れをして、しっかり保湿をして、化粧水をパタパタと肌に染み込ませていく作法もよくも覚えたものだ。髪型も念入りに整える、‥‥‥と謂っても、ウィッグがぼろにならないように手入れをするという理屈なのだが。うーむ、沙知さんに仕立てて貰った百合亜も、漸く我が意を得たりといったところだろうか。鏡の中の百合亜を見詰めていると、あたしの心までが女々しくなるような気がするから、いけない。
愈々第三に挙げるとすれば即ち洗濯である。ランドリーも大浴場と同様に、先輩後輩の上下関係が秩序を形成する珍しい場所。いつ行っても割と混んでいるためかそれとなく先輩優先といった雰囲気があり、こちらでも好機を見計らう必要があった。無論あたしは男物の下着を見られたくなかったし、異性のそれを覗いて不必要な動悸を齎されたくはなかったので、こうして遅めの湯あみの後に、そそくさと用事を済ませていた訳であるのだが、まあ、あたしが言いたかったのは、こういった些細な決まりルールは努めて早く理解しておくが吉であるという料簡だ。
学院指定のジャージ姿で学生寮の外に出る。時は朧の春の夜でもう四つを刻み学生寮は漸く静寂が訪れつつあって、「春の夜の艶しさ、そこはかとなく匂ひこぼれ、人気ひとけなけれど賑かに思はれ」で、陰気のところなどは少しもない。風が絶えず花々や木々のいい匂をさせたり、濃く淡くその表裏を返したりしながら、なんとも心地良いざわめきであった。
「花を踏んで等しく惜しむ空蝉の少女の春。灯に叛いて共に憐れむ深夜の月。‥‥‥ああ、夜桜舞う春は良いものだ。」
小声で朗詠を吟じながら、乾燥機が止まる時間を計算してる間につい外にまで逍遥してしまっていた百合亜は、静かにベンチに腰掛け、たとえおのれが眉を剃っていたとしても酒は不要だと言わんばかりの羽化登仙の心地を甘受していた。詩人気取りの感懐は、あたしから俗世の憂いを取り払ってくれる。
僅かながらの癒しを噛み締めていた刹那、スマートフォンが振動し、とある女の子からの着信を視界に認める。
「二〇九号室」
その五文字に託された要件は明白だった。デジャブだ。
「――めぐちゃ~ん。来たよ。」
がちゃり、とドアが開く。
「一日警察署長です。」
「こえーよなんだよ。めぐちゃんがやってたのは一日女将でしょ。」
ノックから木霊してきたのは迎える側に相応しくない挑発的な口調であった。ドアを開けると爽やかな甘い芳香がふわりとあたしを出迎えるとともに、めぐちゃんはあたしを目線で誘導し入室と着座を促した。
「まあまあ、そんなにキョロキョロしなくても。女の子の、それに、だ~い好きな女の子の部屋は緊張するよね~、百合亜ちゃん☆」
「それ迎える側の台詞じゃないからね?」
あたしの正体を知っている蓮ノ空の女子は二人だけ――沙知さんとめぐちゃん。あたしを男として見てくれる人がいない場所、あたしは女として見られることを強いられる場所で、その本心を曝け出すことができる拠り所。必定百合亜は慈と話すときには心安らかなはずなのに、にんまりと口角を上げる彼女を前にたじろがざるを得なかった。
「いや、めぐちゃんの部屋が随分片付いてるもんだから、単純に驚いたんだよ。あたしの部屋、まだダンボール三つも残ってるからさ。」
「ふーーーーーーーーん。」
慈がジト目のまま鼻を鳴らす。真っ直ぐに要件を伝えて貰えば一思いに済むのだけれども、こうして待たされているとさまざまな妄想の幻を描いて、否が応でも怖気づいて来る。彼女はその視線を崩さないまま、机の上に広げられたチョコクッキーを齧る。こうした焦らしの術は、むかしから彼女の得意とするところなのだ。まったく、ほんといい性格してんなあ、あたしの幼馴染は‥‥‥。眠気のせいもあるだろう、病的な疲労感が今晩の百合亜の脳髄を支配していたので、彼女の煩悶や懊悩の中にはセンチメンタリズムの分子は微塵もなかった。
「こんな時間に食べると太るぜ?」
何気ない一言が滑り出る。
「はい、はいそれ!NGワード出ました!!」
「えぇ?」
「そこ!なにがいけないの?みたいな顔!前に言ったよね?高校生の女の子はね、あんたが思ってるほど鈍感じゃないから!」
百合亜は無言のまま徐に膝を正す。幼馴染の藤色の双眸が訴える不可解な気魄は、百合亜に不平を撤回する隙を与えてはくれない。互いに春の夜は永いようだ。
「私ね、この一週間〈百合亜〉を見てきて、思ったの。目、鼻、口元。それぞれのパーツ自体は際立って整ってるわけじゃないんだけど、天然の長い睫毛とぱっちり二重、円くて赤ちゃんみたいにふっくりした頬っぺた、その全体的な配置の絶妙なバランス。正直、女の子としての百合亜の見た目が、私好みなの。‥‥‥私ね、むかしからあんたにオシャレさせたいなって、ずっと考えてたの。」
「えぇ?ぷんぷんしながらめっちゃ褒めてくれるじゃん。なんなん?」
この意外な分析、と謂うよりも、寧ろ、大胆な告白に、百合亜は思考を鈍らせた。その場は誤魔化そうと取り繕った言葉が出てしまったが、本心を告白しているらしい幼馴染の言葉を聞いていると、慈としてもおのれに何か特別な感情を抱いてるのではないかと、率直な嬉しさを感じずには居られなかった。彼女の不思議な藤色の目、それは星のようだと百合亜は思った。物憂げに見開らかれ、見つめ、そして、閉じた。今度は微塵も訴えるような目ではない。物を言う目ではない。あらゆる意味がない。ただぱっちりと、見つめる目であるだけ。ただ冴えていた。それだけ。
百合亜の早鐘の動悸は静めようとて静まるものではなかったが、然しそれは即座に杞憂へと墜ちてしまった。
「で・も!正直、ぜんぜんダメ。可愛いけど、やっぱりぜんぜんダメ。〈女の子〉になってない感じがする。」
突然に話頭を引きずられて彼はまた戸惑った。
「ほんとにぃ?沙知さんからは「大丈夫!」って褒められたし、めぐちゃんの「可愛い」への拘りが強すぎるだけだよ。それにきょうだってさ、ほら、先輩方に「うふふカワイイわねェ」って言われたから全力で手を振り返したし。」
「はい、そこ!それもNGです!」
「なんでダメなん!?目が合ったから手振っただけだぜぇ?」
ぼんやりと落胆した気持ちのまま、あたしは内心、めぐちゃんのような性質の人には此方が図太く出るに限る、そうすればむこうが直きに折れて来る、その方が中座の手段としても手っ取り早いと思っていた。
「あんたにその気がなくても、軽薄な男子の視線がストレスな子もいるの。気を付けて。女子は、男子のそういうところが嫌いなの。」
「へぇへぇ、どうも、相すみません。」
なぞと、頼まれたわけでもないのに自然に声がでて、自然に頭がペコペコさがるから、万事が立板に水である。百合亜は軽く眼を細くしては半ば微睡むような半眼の瞼で暫く慈を見詰めていた。彼女の前にそれを卑屈だと思うような考えは起らない。むしろ名優が演技をたのしむ心境と申してよろしいほど鷹揚である。きょうは慈の皮肉に付き合ってやろうという程度の意識で気の咎めるところがないから、唱歌をうたうように気も軽く述べたてることができる。
「春さきとは申しながら、まだ山風が吹きすさんで寒気身にしみる夜中に、斯くも有難い御説法、まことに大変なことですな。あいにくなことで。」
なぞと、ふだんのあたしなら思いつくはずもない美辞麗句がおのずからに湧きおこる。これを詩境というのかも知れない。
「じーーーーー。」
慈の冷ややかな視線に「うぐ。」と思わず息が詰まる。衒学的な言葉遣いで煙に巻こうとしたのは余計にまずかったようだ。今夜は中々そう簡単には帰してくれないようで、慈先生によるNG判定の結果、あたしの感情が一層疎隔してしまった事実を実感する。相手を一気にバタバタバタの遠大な着想に熱中しすぎて、自分の方がバタバタバタになってしまった。カンタンに勝負は決まってしまっていた。火のように熱した身体中の血がいまは却って、氷のように冷たくなっていた。
「‥‥‥ごめんごめん、あたしが悪かったよ。めぐちゃんなりに見てくれてたんだよね、ありがとう。それで、どうしたら良いと思う?」
百合亜は飛ぶように座を正してから言った。
「わかればよろしい。‥‥‥そう、名付けて「めぐちゃん先生のカワイイ講座」!百合亜がもっと〈女の子〉らしく可愛くなれるよう、仕草に、衣装に、化粧に、あとまぁウィッグだけど髪も。それと、同世代の女の子との接し方。い~っぱい、めぐちゃん先生が指導して、可愛くコーディネートしてあげるんだから☆」
慈は立ち上がり、まるでレビューの舞台に立っているかのように、大袈裟で美しい素振りを演じて見せた。彼女はむかしから所謂ごっこ遊びが好きだったので、今回はその少し手の込んだようなものだろう。沙知さんの言葉を借りるとすれば――あたしたちは漸く、大賀美百合亜計画の〈共犯者〉にランクアップした訳だ。いいじゃないか。
「いやー、またたくさん覚えないとだねぃ。」
あたしは膝を崩し、正直な苦笑を浮かべて風に靡くカーテンに眼を遣った。とはいえ、これからも嘘を更に更に積み上げているような感じがして少し不安になるのも事実だ。ノートも十冊目の大台を迎えてしまった。窓の外からはときどき風が木々の香りを翻りながら、ふたりのところまでさっと吹いて来た。それが謂わば此処で許される唯一の生のにおいだった。
「むかしもこんなことやったよね。着せ替え遊びというか、めぐちゃんのファッションショー。」
場の雰囲気を変えたくてと上手いところで話頭を転換したつもりだった。
「めぐちゃんって見ての通り美人だし、スタイルもいいし、綺麗な声してて、笑顔も最高に可愛い。その上、地頭もよくて、運動神経は抜群。お話だって面白いから、周りにいっつも人が集まってきたし。ほんとになんでもできて、めぐちゃんはずっとすごかったよね~。」
「そう、藤島慈は世界一可愛いの。むかしからどんな服でも似合ってためぐちゃんだから、もちろん可愛い服だって着こなしちゃってたわけ。そしたら、毎回みんなにカワイイー!って褒められて、そんなのもっと可愛くなっちゃうじゃん?」
彼女はその一刹那に漲る力強さを僅かに増幅させて、
「でもね、私はただ可愛いだけじゃない。可愛くなるためにね、い~っぱい努力してるの。それに、今回は逆。着せられるのはあんた、観るのは私。大丈夫、私に任せなさいな。可愛いの数だけ、女の子は可愛くなるんだから!大成功例がここにいるでしょ?」
彼女が自信たっぷりに胸へ手を当てる姿を百合亜は上目遣いで追っていた。そう、めぐちゃんの「可愛さ」が努力の賜物であることを、あたしはかねがねから感じ取っていた。ツーサイドアップに纏められたグリーンブラウンの髪のみならず、マシュマロのような柔らかさが伝わる肌や整えられた桃色の爪、潤いのある赤い唇など、彼女を構成する一つひとつのパーツは他者から見られていることを意識して、入念に磨き上げられている。同時に彼女は、自身を構成するパーツの魅力を余すところなく引き出す術にも精通しており、思わず気を許したくなるような人懐っこい笑みから、「可愛い」以外の感情を受け手から根こそぎ奪い取ってしまうようなあざとさを凝縮させた仕草まで、その時々に応じて自身がもっとも魅力的に映る姿を使い分けて演じることができる。一方で彼女の藤色の瞳は生まれ持っての意志の強さを宿して勝気に光っており、愛くるしいよく通る声音と相まって、可愛らしい容姿との意外性を形作っている。それが、あたしの掛け替えのない幼馴染――藤島慈という少女。
それに今更、自称「努力の鬼」と化した少女百合亜にとっては――気力と体力が持つ限りではあるが――七難八苦が八難九苦になったところで瑣末事。むしろ彼女の好意を真摯に受け止めたいと思ったあたしは覚悟を決めて立ち上がり、慈と視線を合わせて手を差し出し、
「うん、その通りだ。世界一カワイイあたしの幼馴染と一緒なら、心強いよ。よろしくね、めぐちゃん!あたしも頑張るからさ!」
れいの如く、一切の躊躇いも迷いもない、無邪気な笑顔で、応えた。
慈は仄かに頬を赤らめると、華奢な手で口をおさえて視線を逸らした。
「んもう、ほんっと蓮太郎に弱いなー、私‥‥‥。」
「ん~?」
「なんでもない。」
暫くの沈黙の中で馴染みのぐうタッチを交わして、二人はそれとなく見詰め合った。百合亜は首を傾けてにひひと笑った。慈は怪しき靨のなかに捲き込まれたままちょっと途方に暮れている。肯定すれば偽になる。ただ否定するのは、あまりに平凡である。皓い歯に交る一筋の金の耀いてまた消えんとする間際まで、慈は何の返事も出なかった。彼女の年は十五である。慈は、彼女が自分と同い年である事を疾うから知っている。
「てかさ、あたしもめぐちゃんに聞きたいことあるんだけど。」
百合亜の眼と掌は漸くに慈を離れた。恰も風呂上がりの熱気も醒めぬと見える夜会巻の、火照った額に接く下から、やや骨張る鼻を承けて、紅を寸に織る唇が――唇をそっと滑って、頬の末としっくり落ち合う顎が――顎を棄ててなよやかに退いて行く咽喉が――次第と現実世界に競り出して来る。
「めぐちゃん、スクールアイドルについてはどう考えてるのさ。沙知さんのライブ一緒に観た時はあんなに昂ってたのに、いざ部室だとぜんぜん乗り気じゃないみたいじゃん。梢ちゃんのこと、いつも茶化しちゃったりしてさ。沙知さんも心配そうにしてたよ。」
百合亜は再び着座して足を組みながら、そう言って慈をちろりと見上げた。
「‥‥‥べつにー。なんでもないよ。初日に言ったじゃん?暇つぶしならやってもいいかなーって。それだけだよ。」
「ふぅーーーん。」
慈は額に一寸皺を寄せて、睫の長い眼を伏せたまま座り此方も座り、机上に広げられたクッキーを摘まみ始めた。百合亜はその発言が本心でないことだけは読み取れたものの、彼女の真意は何処にあるのかまではわからなかった。こういう言葉遣いをしなければならぬのは無慈悲であるが、けれども、決して、みっともないものではなかった。端的に言ってしまえば、めぐちゃんなりの強がりなのだ。なかなかである。
「ていうか、あんた沙知先輩のこと信用し過ぎ。遠い親戚だかなんだか知んないけど、あんたをこんな格好にさせた張本人なんでしょ?あの猫みたいな人の「大丈夫!」なんて、ぜったいお世辞に決まってんじゃん。」
慈は引き続き冷ややかな視線で覗き込む。
「えぇぇーー。ちょっとくらいは真心で言ってくれてると思うけどなぁ。」
「でもあんた、化粧下手っぴじゃん。沙知先輩が教えたんでしょ、それ。」
「下手っぴとな。」
百合亜はそう呟くと一寸眼を閉じて、長い睫毛の翳を眼尻に溜ためて居たが、そっとそれを開いて、物腰重そうに三角に膝頭を並べるばかりであった。その哀婉には一種淡やかな色の淋しさと、而も故意に人情を撥ね返して居るのではないかよいう自嘲とが籠って居る内憂を映し出していた。
然し百合亜の眼と掌は、愈々夢から醒めて現実の世界を見回そうとする。
「いやいや、あたしのことはどうでもいいんだよ。あたしはさ、みんなで仲良くスクールアイドル活動をやって、めぐちゃんにもスクールアイドルとして煌めいて欲しいんだよ。だから、もう少しみんなと仲良くしてほしいというか、‥‥‥」
あたしはここに来て二の句を継げなかった。膝の上へ目を落し、手持ち無沙汰に十指で遊び始めてみる。――ああ、「仲良くしてほしい」などと、よくもお前が口にできたものだ、相手は愛嬌の天才であるぞ。釈迦に説法の騒ぎではない。平伏し教えを乞わねばならぬのはお前だ。その分厚く薄っぺらい陶器の仮面も、彼女に仕立ててもらった方がいいかしら。図に乗るな、言葉を選べ、信頼を勝ち取れ――。
百合亜はおのれの血潮の激しさに戦慄するかの如く、眩暈にも似た感覚に捉われていた。
「どうでもよくないでしょ‥‥‥。」
一方の慈は、返事の代わりに朱紅い唇を結んで漏れるような音を震わせて、
「ん、ん。‥‥‥こほん!そういう百合亜こそ、まだなんか隠してるでしょ。なんかさ、仮面被ってるっていうか。ちゃんと、話してよ。私が満足いく答え聞かせてくれるまで、きょうはここから帰さないからね!」
不意に真剣な想いを込めた藤色の眼が近寄ってきたのを認めた百合亜はどきりとして、また直ぐ視線を自分の膝元に落した。さすめぐ、あたしの内情はお見通しであったようだ――。春の夜の温い風を石膏の頬になすり附けて、下を向いたまま膝の上でこれまた手指を組んだりほどいたりしている。――なにか言い掛けたが直ぐに口を噤んだ。それから息も吐かぬ熱苦しい沈黙が続くのが恐ろしく、咄嗟に言葉が出た。
「えぇ?もう眠いぜめぐちゃん。それに洗濯物取りに行かないとだし――」
「あれ〜?めぐちゃんと洗濯物、どっちが大事なのかな~☆」
「はい、めぐちゃん大明神さまです‥‥‥。」
勝負は、ついていたのである。お道化ながらも優しく諭すような口調には、何故だかいつも逆らえない雰囲気がある。甘言が疲労の極まで響いてくるようだ。答え方が何通りか頭の中を駈け廻ったけれども、いざとなるとどの答案もぴたりと決まらない。
――慈に弱みを見せたくない。強がりたい。でも、それと同じくらい、彼女の前では真摯でありたい。あらゆる言葉と同じくらい、この顔の火照りすらも、道化の末に打ち立てられた技巧であるかも知れないと百合亜は怖れた。唐突でありすぎた。激烈でもありすぎた。めざましい奔騰の日々だった。ともかく一つ真実なのは、この場において一つの告白が許されたということだけ。だが、告白が許されたということだけでは、少なからず頼りなかった。――彼の見た慈の顔の火照りは、あまりにも〈藤島慈〉そのものであったから。気怠い食傷、慢性の疲れを身に纏わせながら歩く道すがらも既にしてこの憂鬱に混じっていた。桜色に染まるこの日々から色を奪い去らんとする重苦しい翳りが徐々に蝕み始め、おのれもまたそんな景色の一部分であるように感じて仕方がない。ふと思うに、褐色に輝く河川を見つめながら二人して自転車を走らせることも出来た筈だったのであろうが、然しあたしはその選択をせずに唯々諾々ふらふらと彷徨って、こうして彼女の部屋で腰を据えている。彼の古い幻想は粉々に打ち砕かれていた。そして、新たな幻想が瞬時に位置を占めていることにも漸く自覚した。――彼女なりに気を遣って意中を話してくれたことくらい、幼馴染ならば察してやれ。あたしも一つ、ここは情けなく告白してみることにしようじゃないか。
「‥‥‥ごめん、めぐちゃん。これだけは正直に言わせてもらうね。」
百合亜は放した手を後ろに遣って体重をかけ、慈の顔をまともに目懸けて言い放った。その顔に微笑の翳が動いた。
「――女子高生活、コワイ!女子の気持ち、ワカラナイ!気が張り詰める!やらなければならないことが、多すぎる!体力も気力も持たない!やっていける気がしないぜええぇぇぇはぁぁあ‥‥‥。」そして天を仰ぎ、地へと俯いた。
いっそ、「どんな感情でも自分が可愛いからこそ起る」と言ってしまっても、どこやら耳あたらしい一理窟として罷り通るかも知れない。献身とか謙譲とか義侠とかの美徳なるものが、自分のためという慾念を、まるでコルセットをぐるぐる巻きに締め付けるようにしてひた隠しにしてしまったので、いま出鱈目に「女子」と言われても、ああ慧眼と恐れいったりすることがないとも限らぬような事態に立ち入り至ってしまう。いやスタンダール、別段卓見な恋愛論を語るつもりではないのである。人は弱さ、小洒落た言いかたをすれば、肩の木の葉の跡とおぼしき箇所に、射込んだふうの矢を真実と呼んでほめそやす。けれども、そんな判り切った弱さに射込むよりは、それを知っていながら、わざとその箇所をはずして射ってやって、相手に、知っているなと感づかせ、しかも自分はあくまでも、知らずにしくじったと呟いて、ほんとうに知らなかったような気になったりするのもまた面白いのではなかろうか。道化の華の誇りもここにあるのだ。この学院に集うもの、すべて、貪り喰らうこと豚の如く、さかんなること狒狒の如く、凡そ我に益するところあらんと願望するの情、この道化に跋扈するものたちより強きはない。然るにまた、献身、謙譲、義侠の風を衒い、鳳凰、極楽鳥の秀抜、華麗を装わんとするの情、この道化に隠棲するものたちより激しきはないのである。そういうあたしとてこの病人面で女子たちの奈落に足を踏み入れ、世評などは、と涼しげにイヤイヤをして見せながらも、内心如夜叉、目的の為ならば嘘を何重にも何重にも積んでいき、その難敵の素性と対処法とを赤裸々に洗わせようと右往左往し、加えてそれを詳らかに分析してそろそろとおのれの道化を固めていく。因果。ああ、ナルキッソスが眼前に居るのに――。
百合亜の深い溜息を見た慈は不意を喰って眼を丸くした。そしてやや茫然の体で百合亜を見詰めたが、突然くつくつと笑い出した。これでいい、笑ってくれてありがとう。そう、諸兄らは経験したことがあるまい、可愛さの化身を眼前にすると、斯く謂う可笑しなインスピレーションが降って来るものなのだ。笑ってくれ――。
「よし、とっちめてやろう。」
慈にとっちめるつもりはないのである。これは唯だの相槌だ。その場の調子にまかせるのである。こういうノリの方が、余程あたしも、泰然として気が休まるのである。
「うん、頼むよ明神さま。辛いときは愚痴くらい、聞いておくれ。頼りにすることもあるかも知れないけど、どうか聞いておくれ。あたしも、めぐちゃんが世界で一番のスクールアイドルとして耀けるよう、全力でサポートするから。」
「ん。その代わり、私のコーディネートには文句言わずに従うこと。いいね?」
途端に互いの表情が崩れて遠慮なく笑い合った。彼女達の眼は、対座する女の子が今しもその唇から語り出さんとする言葉よりもむしろ、その一語一語の度毎に動く唇の形に吸い寄せられていたのだった。
そして座が少し白けたほどである。
「――そういうめぐちゃんだって、学校じゃ猫被ってるじゃん!」
「人前でキャラ演じてるみたいな言い方しない!衣装とかメイクみたいなもんで、あれも私なの!カワイイ私がさらに可愛くしたら、みんなもっと嬉しいでしょ!だからいつでも、カワイくて、カッコよくて、完璧な私を見せてるの!――」
どうにも今宵は、相応しい話の接ぎ穂が無かったので、あとは夜中諧謔百出。あたしはめぐちゃんと激しく四方山話を闘わし、他愛ない舌戦を繰り広げたのだった。
「――ああ、あと。あれだ。」
「どれよ。」
「これだ。めぐちゃんから貰ってばかりなのも癪だからさ、あたしもなにか、お返ししたいと思って。できることあったら何でも言ってよ。」
恩は早いうちに返しておくが肝要である。我らが幼馴染の仲でもそれは変らない。
「そ。それならお弁当作ってくれる?私料理できないし。」
自分から訊いておきながら意外な回答だった。いや、得意分野を活かせるならばむしろ有難い。
「そんなのでいいの?作るのは二人分も三人分も変らないからあたしとしては全然いいんだけど。それに、蓮ノ空の学食だってずいぶんと旨いと思うぜ。なんといってもあたしのお勧めは――」
「肉じゃがでしょ、知ってる。三年間も通うんだから、ずっと学食だと飽きちゃうでしょ。それにね、いい?衣・食・住。ぜんぶに目を配って、女の子はもっと可愛くなれるの。あんたは意識したことないかも知んないけど、学食のメニュー、どれも塩分とカロリー高めなんだよね~。だ・か・ら!百合亜、健康的な献立で、お願いね☆」
「成る程。」
「まあ、肉じゃがに緑はいらないけどね~。なんであの学食インゲン入ってんの?」
「えぇ!?肉じゃがは緑あった方が旨いっしょ!まったくめぐちゃんも美食家だなぁ、‥‥‥」
静かに熱い夜は更けていく。微睡が揺れ交る生温い春の夜、風に吹かれて袖のあたりに靡く藤の香は、月輪に白く霞んで夢の尾を引いて、またしてもありし昔の人の姿を描かせる。早くも桜花は散り時である。
「――明日の一品は、たけのこ昆布だぜ。」
5
放課後。最上階にある屋上庭園までくると生徒たちのざわめきも遠くなり、唯だぼんやりと、運動部の掛け声や吹奏楽部の演奏の元が耳元を撫でるばかりである。
「ワン、ツー、スリー、フォー。ファイブ、シックス、セブン、エイト。‥‥‥」
春らしい薄く霞んだ山の輪郭と梢にはまだ咲き誇っている山櫻が、振り返れば白い帯をかけた町並みがよく見える。百合亜の掛け声とともに四人のスクールアイドル達がステップを刻み、慈、綴理、梢は沙知の後ろで横並びになり、その動きを追っている。皆一様に紺と白を基調とした学校指定のジャージ姿である。
「ワン、ツー、スリー、フォー。ファイブ、シックス、セブン、エイト。‥‥‥」
「はいここでポーズ!」
沙知さんの一言でターンが決まった。心まで弾ませながら踊る彼女らの腰の動き。その一挙手一投足、汗に濡れた髪や衣装のはためきまでが、百合亜の眼には眩しく映る。正確な振り付けをなぞっているとは謂えないもの、然し確かな熱意が滲み溢れていて、それに、個々人の潜在的な能力の高さは疑いようがなかった。スクールアイドルクラブ――この蓮ノ空女学院で代々受け継がれてきた伝統ある部活動。かつては多く所属していたという部員も、今年はたったの五人だけ。
「はーい、おっけー!一旦休憩しよっか!」
息を切らせながら、額に汗を浮かべながら。蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブは練習に励んでいた。百合亜はそれを間近に観て、音楽は踊りのステップを規定するばかりでなく、踊る少女達の精神を規定しようとしているかに思えた。踊り手と観客との相互的な関心が音楽の意味の甘さについて行けないものであったら、踊りはその退屈さで人を苦しめるばかりでなく、音楽の鼻持ちならぬ饒舌によって、人を疲らせてしまうだろう。あたしも、踊りたくなっていたのだ。それは痴呆のように。百合亜は既に道化を忘れてスクールアイドルに夢中になっていたのだ。そしてそれに相応しい女友達がここに居るではないか。酒に酔っぱらった大人が理性を失って本能的に異性を求めるように、おのれだけが踊らないダンスの後の悩ましいやるせなさを持て余していた百合亜の淫蕩の血は、物狂おしくその解放を求めていた。――然しあたしがこの土地へ流れてきたのは、そのためではない。その発散はあらゆる瞬間において唯だ使命に於いてのみ、である。何度も自分に言い聞かせてみる。
あたしたちは屋上庭園の一隅にあるベンチを囲んで休憩していた。一〇二期生三人から思い思いの声が漏れたのを確認しつつ、百合亜は彼女達に目を配った。
「お疲れ~!はい夕霧ちゃん、お水どうぞ。」
「ん。ゆりありがと。」
綴理は汗の一滴も垂らすことなく、まるで機械かのように正確に踊っていた。正直、いちばん上手かった。
「めぐちゃんもお疲れ~!さすがのステップだったよ!」
「ふぅ‥‥‥。ん、ありがと。」
慈の額には汗の玉が滲んでいるがどこか余裕有り気だ。感情豊かで軽やかな舞いはまさに白鳥の如くであった。
「梢ちゃんも、お疲れ。昨日よりもサビ前のステップ、良くなってたよ。」
「はぁはぁ‥‥‥。ええ、ありがとうね、百合亜さん‥‥‥。」
百合亜はタイミングを見計らって最後に梢に声を掛けた。意外にも彼女は苦戦しているようで、沙知の動きに倣うのみならず、綴理と慈にも合わせようとしてリズムキープを乱しているかに感じられた。
「いや~、三人ともすごいよ!まだ一週間と少ししか経ってないのにこんなに踊れるなんて、なかなかたいしたもんだ!」
「うん、それは間違いないね!」
大賀美姉妹がが歓喜に満ちた声でそう言うと、直ぐにまたいつもの豪胆な微笑を浮かべ合っていた。百合亜は運動の場においては、緩やかに伸びる髪を後頭部の高い位置で結び、ポニーテールに仕立て上げている。その髪が長躯に合わせてぴょんぴょんと跳ね、その横顔に夕焼けの色が映り込み、暮れなづまんとする春の夕空があかるく澄み渡っていた。花壇に植えられた遅咲きの水仙からは春めいた香りが幽かに漂ってきて、空気が片栗のような淡い色になりはじめている。
「あの、沙知先輩。」
「ん?どした~?」
しっくりと構え呼吸を整えた梢は遠慮がちに、気まずそうに意見した。鹿爪らしいその顔に自然と四人の視線が集まる。
「基礎練の大切さもわかっています。ですが、そろそろ月末ライブに向けた準備も進めるべきではないかと、思っていまして‥‥‥。その、よろしければ〈伝統曲〉について、詳しく教えていただけないでしょうか。」
その表情には焦りが顕れていたかも知れないが、百合亜は唯だ彼女の人柄の如何にも謙譲で温良らしいところ、立居振舞の洗練された美しさに好印象を受けた。
「ん~、そうだねぃ。どこから話そうかな‥‥‥。蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブに代々受け継がれている曲、それが〈伝統曲〉。スクールアイドルクラブが数十年前に〈芸学部〉だった時代から連綿と伝えられていて、最初にあった曲が、長い年月をかけて、少しずつ変わっていってる。衣装、振り付け、歌詞、今じゃタイトルも違うものだってある。もしかしたら、残ってる部分のほうが少ないかも。」
「はい。」
梢はまだ自信なさげな表情だが、その眸に据える熱意を衰えさせない。そんな様子を見た沙知は、優しく微笑んで続けた。その声は大きな打消の声というでもなく、寧ろ細々とした小さな耳の底に囁くような声ではあったけれども、その小さな声に幻滅的な心持ちを誘われるものがあった。その声は百合亜にも訊いた。
「スリーズブーケは『Reflection in the mirror』、DOLLCHESTRAは『Sparkly Spot』、みらくらぱーく!は『アイデンティティ』。これが、各ユニットが歌う予定の伝統曲。あたしはね、どの曲も大好きだ。‥‥‥今月末のライブで伝統曲を歌うっていうのは、勿論、いきなり新しい曲を一から作るのは難しいから、っていうのもある。でもあたしは、思うんだ。蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブにとって、伝統曲は特別なものなんだって。」
「特別、というと‥‥‥?」
梢の期待の眼差しを受けた沙知は詞を切って、一度座中を見回して、やがて話を続ける。百合亜たちは、熱心と真実との籠って溢れていく彼女の説話の二言三言を聞くとはなしに聞き入った。
「そうだねぃ。ありきたりな言葉かもしれないけど、伝統曲には、蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブの〈魂〉が込められてるんじゃないかな。形を変えてでもこの曲たちが今も伝わってるのは、歴代のスクールアイドルクラブのみんな、先輩方が、この曲が大好きだったからだ、って。伝統曲は、ただ変わったんじゃない。スクールアイドルの積み重なった想いで、姿と形を変えていったんだ。だから、特別。」
「「「「‥‥‥。」」」」
沙知さんの弁舌は滾々としてみごとである。一〇二期生は一字の間投詞を挟しはさむ遑なく、この小さな先輩の一年間の確かな積み重ねを聞き入っていた。
「ボクは、まだよくわかんないけど。」
沈黙を破ったのは綴理の声だった。
「まま。練習していく中で、そして実際にステージに立って。なんとなくわかっていくものじゃないかな。あたしもそうだったからねぃ!」
沙知さんの朗らかな笑顔は屈託のない暫くだった。一つはそれがまたあたしたちに油断を与え、笑顔を誘う源ともなりつつ、この焦燥感の中の退屈さを揉み消す作用も自然にして来たのである。こうして彼女の言葉を聞くと、あたりに光りの満ち和ぐ思いのするのが、円光に染って休んでいるようで愉しい。
「来週からはユニット練習の予定組んでるからさ、ね?大丈夫、みんなあたしの期待以上に歌もダンスもできてるから、キミたちにならできるさ。それに、スクールアイドルに必要なのは――」
「――歌、ダンス、表情。」
百合亜が口を挟んだ。
「そう!それに加えて衣装も合わせなきゃいけないし、ステージ用の小物だって作りたいよねぃ。」
焦燥とは無縁の態度で飄々と喋り続ける沙知だったが、梢はぎゅっと唇を噛むように、
「でも!来週からユニット練習を始めても、ライブまでは二週間しかないじゃないですか!それまでに、ほんとうに完璧なパフォーマンスに仕上げられるとは、私には思えません。」
梢はここに来て語気を崩したのだった。彼女の心が焦れば焦るほど、延びることを待っていられないような眼に見えないものは意地の悪いほど無遠慮な勢いを示して来たかに感ぜられた。一日も、一刻も、与えられた時を猶予することは出来ないかのように。
「――乙宗ちゃんって、スーパー頭でっかちちゃんだよね☆」
お得意の指ハートが決まる。慈が口を挟んで場を白けさせたのだ。
「‥‥‥私たち、ほんとうも気が合わなそうね。」
梢は思わず顔を真っ赤にして抗議した。百合亜にとってはむしろ重苦しい空気感が晴れて有難く感ぜられた。
「いやー、きょうも仲良さそう。こずとめぐ。」
「あれ見てほんとうにそう思うのかい?夕霧ちゃん‥‥‥。」
いつの間にか全員が立ち上がっていて、綴理と百合亜はほわほわしつつ二人の口論を眺めていた。正確には、あの二人は仲が悪いというよりも波長がズレているだけな気がする。
「あははは‥‥‥。まあまあ乙宗ちゃん、そう焦んないで。‥‥‥」
沙知が梢を宥めるとスクールアイドル活動のなんたるかについて一問一答を試みることなり、そしてそれに綴理が相槌を打つという構図となっていった。春めいた西の日射しに散り亂れた影ばかりが姦しく浮かんでいた。
「――めぐちゃんは、大丈夫?」
「ん~?なにが~?」
「ううん、なんでもないよ。」
百合亜はゆらりと慈の隣に立ち、どこか少年の面影を覗かせるやや低いしっとりとした落ち着いた声色で、遠廻しに棄鉢になった彼女の御機嫌をとろうとした。然し意外にも彼女はからりと涼しい笑みを浮かべていて、僅かな詞のやり取りの中におのれの憂慮は無用だと理解した。意志の強い彼女のことだ、矢張、慈なりにスクールアイドルに対する考えがあるのだろう。
「あれ、めぐちゃん。その靴って――」
ふと足元を見た百合亜の視界に、朧気ながら見覚えのある靴が目に入る。梔子色の廻しにピンクのワンポイントが可愛らしいスニーカー。
「うん、この靴ね、私のオキニ!昔ね、同じメーカーのを、るりちゃんがくれたんだよ!それで、今も使い続けてて。‥‥‥え?いやいや、重いとかじゃなくて。履き心地が気に入っているだけだってばー!」
慈はくるっとあたしの方に向き直り、にわかに、堰を切ったみたいに能弁になった。こうして骨身に震える感情を吐露する幼馴染の様子を目の当たりにするとあたしも自分事のように嬉しくなってしまう。
「るりちゃん‥‥‥大沢瑠璃乃ちゃん、だよね。小学校の時、めぐちゃんちの隣に住んでた。」
瑠璃乃は百合亜にとっては、所謂友達の友達以上の関係ではなかった。慈にとっては――もしかしたらあたし以上に――大切な存在なのかも知れない。幼馴染の楽しげな想い出、然しそれは、あたしの知らないもの。れいの狂乱の日々から得た教訓を鑑みるに、あたしにとっては友情というようなものは、畢竟ごく社会的な内容をもつものとして経験されて来ていると思う。恋愛とか友情とかは、人間感情が固まった特殊の形として、兎角それだけ切りはなした言葉で問題とされる傾向があるが、日々の生活のなかでは、めいめいの生活態度全体とまったく有機的につながり合っているもので、友情を語ることは、人生への態度を語るという意味しか持ちえない。
「そう!綺麗な金髪の、あのちっちゃな女の子。大沢瑠璃乃ちゃん!」
「めぐちゃんがタレント始めたのも瑠璃乃ちゃんのためだったよね。」
「うんうん!るりちゃん、いっつも私のうしろにくっついて、私の姿ばっかり見てたから。引っ越しで離れ離れになった後も、遠くからでもるりちゃんにカワイくてカッコいい藤島慈を見てほしい!って思ってね~。」
瑠璃乃について語る慈の表情は晴れ晴れしていた。――それでも、少し妬けてしまう。嫉妬。〈幼馴染〉というトクベツはあたしだけの特権ではないという自覚。焦燥。彼女を知悉したいという悔しさ。これが正直な、思春期の少年少女の気持ちなのだろう。人生を愛し、熱心にそこを生きて行こうとするほどの者は、誰しもこの社会の人間関係のより豊富さ、より暢やかさ、より豊饒な発育性を切望しているのが本心であろう。そういうものとして、よりよい友情の花を同性の間にも異性の間にも期待するのは自然の心と思う。社会生活そのものの成長のあらわれとして、友情の可能が見られるものである以上、この願望には個人のひそかな願いがあっても然るべきだ。同時に、個人のひそかな願いだけでは解決されきれない要素もこもっているということになるのである。あたしにとって、この信念だけは変えようがなかった。
「へー。それじゃあ瑠璃乃ちゃんとはいまでも連絡取ってるんだ?」
あたしは平静を装って聴き手を全うする。
「うん。るりちゃんね、いまはカリフォルニアに居るらしいよ。」
「カ、カリフォルニア。パワフルな子だねぇ。」
「ほんとに、そうなの!私に追い付きたいって言ってね、それでね、ビッグになる為に独りで海外に行ったんだってさ。私もびっくりしたよね~。「二人で世界中を夢中にしてやろう!」っていう約束を叶えるために、ね。」
慈の饒舌はすっかり増していく。暖かな日の気持ちが、朧な靄のように彼女を包んでいる。
――いったいぜんたい、友情というものはそれ自身甚だ曖昧なもので、同性間の友情でさえ、様々な動機によつて、様々な形態を取るものである。たとえば、密接に利害関係によって結ばれた友情、精神的に何物かを与え合う、所謂肝胆相照す底の友情、共通の想いでがなんということなしに「赦し赦される」気持ちにさせる友情、等々。数え上げればいくらもあるだらうが、最も奇怪にして、しかも、甚だその例に乏しくないのは、ある型の男性とある型の女性との間に生ずる「恋愛的友情」があるだろう。即ち「男女間の友情は成立するか?」論である。この関係は、非常に明瞭な例外を除いて、割合に世間は注意していないようであるが、人はそれぞれそのひとの程度に応じた恋愛しかしないものだという古い言い習わしに基礎を置く。逆に言えば、女同士の友情が深い根をもっているその生活感情のひろがりの中に、矢張異性の間の友情が自然な実際として含まれて存在している。あたしの答えとしては、異性の間の友情はあると思っているし、現に存在している。勿論それには非常に複合的な条件が伴ったものであるけれども、という返答になるのである。そして、どちらかといえば、ますますそういう異性の間の曇りない親切な友情の可能が彼自身を取り巻く人間関係の中に、延いては社会的な可能として、より多くもたらされることを希望する心がある。藤島慈と大賀美百合亜の関係も、他者から観測される限りにおいて、或いは、そうあることができるのだろうか――。
「――それじゃあ、あたしたちももっと頑張らないとだね。」
百合亜は努めて明るくそう言った。彼女の服従的な本能は、他人の意思に従うのみである友情のうちに、自己満足を見出していた。
「いい夢じゃんか。叶えようよ、スクールアイドルで!めぐちゃんにしかできない、スクールアイドルとしての輝きで、瑠璃乃ちゃんも世界中も夢中にしてやろうぜ!」
「‥‥‥う~ん。それはどうかな~。タレントとスクールアイドルは違うし。」
困ったような微笑で首を傾げる慈。詞少なにして互いの真意を読み取るような間があった。
「えーなんでー?いまのは力強く頷くところじゃんかよ~。」
あたしは苦笑しながらも、慈の、このはっきりとした性格が好きだと改めて思った。そして、この期間のあたしたちの友情は実に美しく、誇り高いものであると確信した。生への青春的思慕と、情熱的探究心と、そして知性ある好奇心とが友情を裏づけていた。あたしたちの思索、悩み、信頼への方向は少なくとも人生の最高のものを、最も慎ましい態度において志向していた。十五、六歳から十七、八歳までの血潮多き少女同志が、その直向きな悩みに充ちた生をこれだけ信頼ある友情によって支え、清き自律をもって踏み出し始めていることは稀なのではあるまいか。この寂寥と試練の期間を私はひとえに君との友情に――というよりも友情の信頼に支えられて生き永らえることができるだろう。
「え、なになに?なに楽しい話してるの?」
沙知は梢との問答を終えたようだ。
「沙知先輩にはナイショで~す☆」
「えぇ?仲間外れにしないでよ~。」
「あははは‥‥‥。」
――フロイトの学説めくが、友情とは、元来、性的要求の変質的現象であると考えられる節もなくはないだろう。この結論をおし進めて行けば、異性間の友情という言葉は、その言葉自身殆んど無意味になるのであって、それは恰も、木の葉の上に積る雪の如きものであり、ある木の葉は、ある程度までしか雪を支えるに堪えない。あたしとめぐちゃんとの友情、そのはたて。でも、もし、あたしが、完璧な女の子を演じることができたなら――。その時には彼女への想いにも、相応しい定義を与えることが出るのだろうか――。
屋上庭園には間の抜けた少女達の笑い声が春の温い風に流されていくばかりであった。そして、再び、四人分のステップ音が木霊していた。
6
「おはよう諸君!さあ、きょうも試練の時間がやってきた‥‥‥!」
「楽しそうだなあ沙知さん!」
風雲急ならんとする態とらしい声が朝焼けの公園に響き、腕を組みながら髪を靡かせる沙知。大賀美妹はそれに同調していた。きょうは土曜日、あたしたちスクールアイドルクラブは、蓮ノ空から山を下りたところにある自治会主催の、地域の清掃会に参加していた。全寮制の蓮ノ空において、学外への外出には事前の外出申請と許可証が必要。更に交通手段は直通バスが金沢駅まで週に往復一本のみ、あとは路線バスが何本か出ている程度と、「自然豊かな学びの環境」の文言では誤魔化しきれない窮屈さをひしひしと醸し出しているものだと感じたものだ。
「あっはっは!キミたちがFes×LIVE出場を欲する以上、吾輩を避けては通れない!さあ後輩達、試練を突破して、スクールアイドルとしてのスキルを身に付けるのだ!」
沙知は手持ちの資料を丸めてマイク替わりにし演説している。
「わぁ、たのしそう‥‥‥!」
「沙知先輩、その、ユニット曲の練習を‥‥‥。」
「沙知せんぱ~い。もっとカワイイことしましょうよ~。」
新人スクールアイドル達は皆違う、三者三様の景色を見ていた、綴理は目を輝かせて、今にも駆けだしていきそうな勢いである。梢はまた独りで神妙な面持ちで、慈は呆れ顔で相変わらずお道化ている。
「はい姉さん!」
百合亜は妙にはしゃいでいた。
「はいどうした百合亜!」
びしっと指さす沙知。
「試練には空腹が付き物であります!ご褒美があれば士気が高まるであります!」
「そりゃそーだ!ご褒美は大事。で?何が欲しいんだ?」
「甘いもの!フルーツ何とかという、果物の原形を保持したままの、香り高い涼しげな水菓子みたいな体裁にした、あの甘いものをとてもとても食べたいです!」
「フルーツパフェだね!何故その単語が出なかったし!」
「わ、おいしそう‥‥‥!さち、ボクも甘いの食べたい‥‥‥!」
「甘いのふたつか!甘いのふたつも欲しいのか!?‥‥‥いやしんぼめ!いよぉし、わかった!ボランティア活動が終わったら、みんなでひがし茶屋街の棒茶スイーツ、食べに行こっか!」
「「いぇーい!」」
百合亜と綴理は元気よくハイタッチ。梢と慈は仲良く不承不承といった面持ちで、はしゃぐ三人を眺めていた。さて、偏にボランティア活動とは言ってもその内容はさまざまで、地域のイベントでのステージ披露は勿論、清掃活動、児童養護施設や老人ホームの慰問、芋掘り、或いは近江町市場でのお手伝いなんかもしているという。主なものは地域貢献や奉仕活動など、確かに「アイドル」には相応しくないような、どれもこれもが地味で地道なものばかりだ。一宿一飯の恩義、などと謂う言葉は今時流行らないけれども、要はこうして、人との繋がりやご縁を大切にしていくことにも意味があるということだろう。
「こほん‥‥‥。まま諸君。スクールアイドルクラブの前身である芸学部はね、地域の活性化や町おこし、奉仕活動に重きを置いていたんだ。謂わばボランティア活動っていうのはさ、地域の方々との交流ってのがメインだから、別に何か商品とかを売ったりするわけじゃないし、必ずしも歌やダンスをするっていうわけでもない。でもね、それは決して芸学部の音楽活動とは無関係じゃなかったと、あたしは思うんだ。‥‥‥つまりは、歌・ダンス・表情、それさえマスターすれば「スクールアイドルになれる」って訳じゃないってこと。」
然し沙知は、大事なところを濁して明確な答えを教えてくれなかった。
「沙知せんぱ~~~い。私のはなし聞いてます~~~??」
「‥‥‥。」(野獣の眼光で見詰める梢)
「おっとぉ?まだ何も始まってないのにあたしを食い破ろうとしてる子たちいない?貫くのは試練だぜ???」
「食べたいのはスイーツであります!」
「その通り!兎に角、きょうは騙されたと思って!ここはひとつ、我ら蓮ノ空女学院のスクールアイドルが地域の皆さんに愛される存在になれるよう、一肌脱いでみようじゃないか。ほおら、スイーツが待ってるぞ~!」
「おーい、沙知ちゃん~!きょうは来てくれて助かったわ!」
「れいかさん!なんだかお久しぶりです!きょうはよろしくお願いしますね~!」
齢は二十代後半といったところだろうか、働き盛りの若者らしい自信を纏ったお姉さんが沙知さんと言葉を交わしている。
「いえいえこちらこそ、助かるわ!‥‥‥あ~ら、あなたたち!スクールアイドルクラブの新顔たちね?今年もカワイイ子ばっかりじゃな~い!」
「あたしは大賀美百合亜です!よろしくお願いしまーす!」
「ボクはつづりだよ。よろしく~。」
「藤島慈で~す☆よろしくお願いしま~す♡」
「初めまして。乙宗梢と申します。本日は何卒宜しくお願い致します。」
一〇二期生の面々はそれぞれ個性的な挨拶で返事をする。
「みんな元気いっぱいね!私はれいか。蓮ノ空のみんなにはいつもお世話になってるわ。きょうも頼りにしてるわよ!」
聞いたところによると、れいかさんは近江町市場でアルバイトをしていて、金沢近辺でのバイトリーダー的立ち位置としてそれなりに有名人らしい。先代の蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブの先輩方と仲が良かったという縁から、いまでもあたしたちに地域のボランティア活動を斡旋、サポートしていただいているそうだ。兎に角、期待されているのならば応えねばなるまい。
「よーし、それじゃあ頑張るかぁ!あたし、向こうで軍手とゴミ袋貰ってくるね!」
「ボクもいく~。」
「わ、私も‥‥‥!」
百合亜の快活な声につられて綴理と梢もその後を追った。
「‥‥‥。」
然し慈だけは後姿を眼で追うだけで、相も変わらずうじうじしていた。
「ほーら、藤島ちゃんも!キミの幼馴染がずっと心配そうに見てたぜ?折角だから、きょうは一緒に楽しくやろーぜい。」
「‥‥‥んも~、わかりましたから~。押さないでください~☆」
若き身体に差し込む朝の陽ざしは、ポカポカと体中に行き渡って、手足や瞼が甘えるように気怠るくなる。こう慈は不精に答えて沙知に背中を押されていったものの、もはや何ものにか、巧みに転がされころころ翻弄されているのも同様だったようだ。皎皎として青い公園の中で、老いた古い女神の彫像だけ周囲の噴水の飛沫を浴びて立っていた――。
そうして公園や周辺の清掃活動を始めたスクールアイドルクラブの五人。ゴミ拾いや雑草刈り、落ち葉掃きと花壇への水遣り。こうした清掃活動は矢張地味であって、その行為自体になにかしらの効果があるのかどうかは疑問の余地が猶あるにせよ、兎角、何事につけても、熱心に目を光らせる若者の姿は周囲の人間を朗らかな表情にさせるものなのだろう。
「♪~~~~~~」
歌声が聞こえて来た。綴理は春の日和に魅せられたのか、伸びやかな声で歌い、そして舞い始めたのである。歌声は益々はっきりと、益々美しく聞こえて来る。紛れもないスクールアイドルの音色だ。ライブ会場でもないこの公園において、彼女は唯だ歌唱力やダンス技術を持って居るだけ、――否、或る意味に於いてそう言えなくは無いのだろうが、より実在的なのは、彼女を中心として周囲の人々が一も二もなく集まって来るそのカリスマ性であった。
「♪~~~~~~」
咽ぶがような歓びを載せた歌声が、陽の光を水と見て、水の底から喜喜として空に向かって澄み通る。そしてその声は更に慈を舞台に駆り立てていき、二人は即興で互いの動きを読み合いながら軽やかにステップを踏んでいく。その華やかな光景に観衆から拍手が沸き起こる。歓声とも嬌声ともつかない声に包まれながら、公園には恰も一つのライブ会場が形成されていた。最初は慌てる梢ちゃんであったが、なんだかんだであたしと一緒にその会場整理を手伝ってくれた。ああ、眩しいな、――なるほどその魅力から逃げらるる筈はない。スクールアイドル、奇貨居くべし。百日の説法もこの一幕で消え失せ、概念の囚に成り果てていたあたしは今更の如くおのれの心配性を面羞ゆく顧みるのであった。
「――うん。なんかいっぱい褒めてもらえた。」
「ふふん!当然☆」
ライブを終えた綴理と慈はやや頬を紅潮させ、暖かな声援に見送られて手を振っていた。そんな訳で、蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブのパフォーマンスは地域の皆様にもおおいにウケたのである。歌唱とダンスというごく単純なものではあるが、少女たちの一生懸命さが伝わったのだろうか、或いは――。百合亜は確かな手ごたえを感じていた。
「だねえ。よしよし、どんどんいこ。」
沙知は安堵を混ぜた吐息を長く吐いて、後輩達の歓呼の様子を眺めていた。
続いて、ご近所の児童館のお遊戯会にお招きされたスクールアイドルクラブの面々。地域の子供達と一緒に遊んだり童謡を歌ったり。そう、簡単に謂えばふれあい会。綴理は手品を披露し拍手喝采。帽子から無限に鳩が飛び出して来る。
「ありがとう。褒められてうれしい。うん。」
「いやー、夕霧ちゃん上手いね!どこで使い方を習ったの?」
「?説明書を読んだよ。」
梢先生はピアノを教えている。静かに鍵盤に指を置くその動きは滑らかで、おのずと彼女の上品さが滲み出る。彼女の魅力は幼児たちにも伝わっているようだった。
「そう、その音が「ド」ね。‥‥‥そうそう、じょうずじょうず。」
「わたし、おおきくなったらおねえさんみたいなおじょーさまになりたい!」
「あら、うふふ‥‥‥。ありがとう。」
たいそう楽しそうにレクリエーションに励む子供たちと梢ちゃんの姿。最初は厭々ながらといった表情であったけれど、どうやら楽しんでいるようで安心した。
「ねーねーちっちゃいおねえちゃん、わたしともあそんで~。」
「ちっちゃいゆーな!」
とりわけ沙知さんは子供たちから大人気な様子であった。‥‥‥屡々ちびっ子たちからおちょくられては抗議の声を上げ、不慊於心といった面持ちを浮かべていたが。
「はぁ‥‥‥。」
「どしたのめぐちゃん。その手に嵌めてる人形さん、使わないの?」
慈は微笑の中にさもさも不機嫌そうな調子を混ぜた溜息を洩らしつつ、お遊戯会の喧囂を独り距離を置いて眺めて居た。あたしは立ち竦んでいた彼女に声を掛けたが、見たことのない表情を浮かべる幼馴染の横顔をつくづくと眺めれば眺める程、そこに気高い威力が潜んで居て、何となく自分を圧えつけるように覚えた。その少女の持って居る藤色の瞳は、さながら日本海の紺碧の海のように、百合亜の魂を底知れぬ深みへ誘い入れる感じがした。或いは、その少女の秀いでた眉と、広い額と、純白な皮膚の色とは、美貌を以て任じて居るどんなスクールアイドルのものよりも、遥かに優雅で、端正で、而も複雑な暗い明るい情緒の表現に富んで居た。
「おーっと、藤島ちゃん。どうしたんだい?ちっちゃい子と遊ぶのは苦手かい?」
暫くちびっ子たちから解放されていた沙知はそう言って、じっと慈の眼を見た。
「そんなことないですよー☆あたし、歌のお姉さんもやったことあるし。‥‥‥じゃなくて。私、もっと可愛いことしたいんですけど。」
「まーまー。キミの焦る気持ちもわからなくはないどねぃ。そーゆーときこそ、気分転換ってもんが必要なんだよ。あたしもよくよく、うーってなった時にはこうしてボランティアに出たり、学校の周りをぐるぐる散歩したりしたもんさ。」
「‥‥‥。」
慈は尚も淋しそうに微笑いるだけで、何とも答えなかった。足元を見ると、八重の椿が一輪リノリウムの上に落ちている。慈は想い出の中で慥かにこの花の落ちる音を聞いたことがある。ほかの季節は想い出せない、記憶に残っているのは椿の咲いているときのことだけである。竹藪は黄色く霜枯れ、池の水は寒ざむと澱んでいた。彼と一緒に歩いたあの池の畔のこと、――椿の木の幹は灰色で、空は鬱陶しく曇っていた気がする。すべてがしらちゃけた淡色に彩られている中で椿の葉の黒ずんで光る群葉と、葉隠に慎ましく、気取らない優美さを携えて咲いている紅い花とは、際立っているようで却ってものかなしく、こちらの心にしみいるように思えた――。
…
……
「――というわけで!スクールアイドル藤島慈のカワイイ姿を全世界に届けるべく!私たちは〈スクールアイドルコネクト〉、通称スクコネで配信することにしたよ!」
「よっ、流石めぐちゃん!自己チューぎりぎり一歩手前!」
スクールアイドルコネクト。端的に説明するとすれば、全国のスクールアイドルたちが一般的に使用する配信拠点アプリである。歴代の蓮ノ空のスクールアイドル達もこのスクコネを通じた活動をしており、全国のスクールアイドルファンは毎日の日常のなかで行われる配信「With×MEETS」や、月一回行われるバーチャルライブ「Fes×LIVE」のオンライン配信視聴やコメント投稿、そして毎月のイチオシスクールアイドルへの投票などが出来る。百合亜は沙知から教わった、加えて三ヶ月間に見まくった「推し」のスクールアイドル達の配信から得た「カワイイ配信の為」の知識を、一通り幼馴染へと伝導した。部室には二人以外に部員は居ない。
「まあね、確かにボランティアも楽しかったよ?沙知先輩の話もちゃんと聞いた。で・も!甘い、甘いよ!金沢の和風スイーツよりも甘いよ!やっぱり私は「カワイイ」を直接届けないと満足できないんだよ!」
「棒茶スイーツ美味しかったね~。ま、めぐちゃんがやるって言うなら、あたしも全力でサポートするよ。」
慈が手鏡を見ながら身嗜みを整理している間、百合亜は慣れた手つきで三脚にスマホをセットしていき、画面を操作して配信の準備を進めていった。百合亜には慈の意思を虐げるつもりは少しもなかった。彼は本能的な馬鹿者であって、友に自分と異なった考えがあろうとは想像だにもしなかった。彼女は、唯だ、迷っているのだ。もし慈がおのれと違った志望を発表したら、彼女は躊躇無く自分一己の嗜好は犠牲にして顧みなかったろう。それ以上の犠牲をも辞さなかったろう。彼女は慈のために身を投げ出したくてたまらなかった。自分の友情が試練に会うべき機会を非常に待ち望んでいた。〈努力〉に立ち向かう中で何か危険に出会って、その前に突進し、願わくば彼女の為に役に立たんことを切望していた。
「‥‥‥よし、おっけ。百合亜、準備はいい?」
「あたぼうよ!世界一可愛く撮ってやるぜ!それじゃあカメラ切るよ~。」
さん、に、いち、きゅー‥‥‥。
「あ、えっとぉ‥‥‥どーも(笑)」
よくわからない笑みを浮かべる慈。
「これでぇ、映ってますかねぇ~?私、機械のこと、あんまりわからなくてぇ。」
幼馴染は、へらへらしている。
「!!?!!??」(動揺を隠せない百合亜)
「いや~個人配信とか、したことないんですよねぇ~。今回はぁ、たまたま暇だったから、なんとなくぅ?みたいな~(笑)」
にひっと笑ってみせる。
「なんだこれは‥‥‥」(小声)
「あ~。なんで今回配信やろうかって思ったかっていうとぉ。先輩に、向いてるんじゃない~?って、何度も何度も言われて~‥‥‥。スクコネのアプリを入れてみたわけなんですけど~‥‥‥。意味あるんですかね?こんなの。私、大きなカメラに囲まれてるのに慣れてて~。こんなちっちゃなカメラじゃ、撮られてる気にならないかも~☆」
このめぐちゃんすっげーこと言ってるな‥‥‥それはヘイトスピーチだぜ‥‥‥!「私、ほんとはタレントですから☆」って態度を表に出して予防線張りまくっているのが、いちばんきついぜ‥‥‥!
「ま、そりゃ、私に向いてるとは思いますけどね。喋りも上手で、なにより顔面がいいですから、ね~!」
喋りが上手いのも、顔面が良いのも間違いない。あたしは誰よりも知っている。でも、でもさ‥‥‥!ハキハキ喋れ!配信ナメんなよ!言ってやりたい‥‥‥!全国のスクールアイドル達の声を代弁してやりたい‥‥‥!
――がちゃり。百合亜が悶々と配信を撮り続けている最中、不意にドアの開く音が響く。
「げ、沙知先輩!?」
「やー、後輩の初めての配信だからねー?心配で見に来ちゃった。」
「ちょっとちょっと、私を誰だと思ってるんですかー?」
頬に指を当てるあざとい仕草をしてみせる慈。まるでアイドルのように可憐で、愛らしかった。沙知も慈の軽口に答えながら同じく屈んでニコッとしてみせ、同じポーズをとれば綺麗に決まっている。とても台本通りとは謂えない配信だったが、あどけないその一瞬一瞬に思わず口元が綻んでしまう。
「――はーい、カット!ふたりともお疲れ様。」
なんだかんだで、最後は全員が笑顔のまま配信を終えることができた。
「ふう。どう?見たでしょふたりとも!スクールアイドルだかなんだか知んないけど、これで私の可愛さが全世界に伝わったでしょ☆」
「「うーーーーん‥‥‥。」」
自信満々の慈に対し、大賀美姉妹は二人して腕を組み、顔を見合わせた。そして、揃って唸り、首を傾げた。いや、配信そのものの出来栄えや視聴者からの反応はまずまずと謂ったところだが、これは蓮ノ空や沙知さんのネームバリューに依るところも大きいだろう。
「いや、ね?めぐちゃんらしくて悪くはないと思うけど‥‥‥。カメラの前だとぜんぜん違くて、なんか、すごいというか、びっくりしたというか。」
と言って、その自分の言葉が、我ながら馬鹿らしいナンセンスのように思われて、百合亜はひとりでくすくす笑ってしまった。
「え、なにその微妙な反応。「めぐちゃん最高!幼馴染の最強の可愛さにひれ伏しましたー!へへぇー!」っていう反応期待してたんだけど。」
「はは‥‥‥。それはぜひ見てみたいねぃ。」
沙知もまた呆れたような目を見張って薄ら笑ってみせた。俄に二人からの手厳しい御詮議が始まったとやら、慈は未だ心底不思議そうに覗き込んでくるばかりだ。百合亜は慎重に言葉を選びつつ続けて、
「いやごめん、少し言葉が悪かったかも。普段のめぐちゃんでも十分以上に魅力的だからさ。なんていうか、こう‥‥‥ね?スクールアイドルとしての清廉さというか、謙虚さが無いというか、」
「だ・か・ら!キャラ演じてるみたいな言い方しないの!あれも私だから!」
管々しけれどと感じつつ、それもひとつの真実であろうと百合亜は改めて思った。低俗な虚言癖をその日常性のゆえ貶しめてはならない。造花的趣味が概ね日々の心であり、折にふれて去来しやすく浅薄であろうとも、根ざすところは虚無の深さと同じものであり得るだろうから。不羈独立の魂の第七日の休養は青鞜女優や閨秀作家によつては癒され得ないものだ。ひとり売春婦によってのみこれを癒し得るという詩人の言葉があるが、この言葉の激しい真実はただちに百合亜のものであるにも拘らず、日常低俗な虚言癖は然しこの真実の激しさをもってしても癒し難いものなのである。そこには各々の真実が確かにあるのだ。成る程、ひとつの真実のみに固執するとき、他の真実が刃物となって少年少女自身に向けられてしまう筈だ。我が幼馴染も、固い意志の中に道化を要する女なのだろう。慈も。――百合亜は時々思った。むしろ堕ちきれない女だろうか。
「それはそうと。‥‥‥沙知先輩!」
「ん?え、なに?あたしも感想言ったほうがいいかな?」
「それはもういいです~!‥‥‥ん、ん。事情はぜ~んぶ「蓮太郎」から聞きました。私たち、幼馴染なんで。」
慈はいつの間にか腕を組み、冷ややかな表情で吐き捨てる。どこか怒気を感じるのは気のせいではない。
「あ、ああ!そうだねぃ、キミのことは前々から聞いてたさ。藤島慈ちゃん――とっても大切な幼馴染が居るって、彼がいつも話してたからねぃ。あたしも、キミとこうして話すのを楽しみにしてたよ。キミがスクールアイドルクラブに入ってくれたときもさ、百合亜なんてそれはそれは大はしゃぎで――」
「ちょっと姉さん!あんまり恥ずかしいこと言わんといて!」
百合亜は眼をぱちぱちさせ、言うことを聞かなくなった自分の頭を撫でながら、然も恥ずかしそうにそうに言った。あたしは自分が、首すじまで赤くなったのを意識する。然し慈は依然として訝る調子で、急き込んだ二人の声に反感を持ったらしかった。態と焦らして居たのだ。
「こほん!‥‥‥私、沙知先輩に聞きたいことがあるんですケド。」
「ん?え、なに?だからそんなに怖い顔しないでよ。さっきから思ってたけど、なんかキミいつもとキャラ違くない?百合亜の前だから?」
「だからキャラじゃないです~!」
百合亜は慈が決して本気で怒っているわけではないことは見て取れた。むしろこれは彼女なりの照れ隠しであり、彼女の優しさの表れなのだ。それでも彼女の双眸に潜む鋭利さ――或いは色気たるや尋常ではなく、思わずごくりと生唾を飲み込んでしまう。それは彼女の負けず嫌いな一面の顕れであって、おのれが信じるものを阻む相手に対しては敢然と立ち向かおうとする行動なのだと百合亜は看取した。
「‥‥‥こいつにいろいろと仕込んだの、沙知先輩ですよね。女装させて蓮ノ空に入学させて、それにお揃いのピンまで付けさせておいて。廃校回避のためとかなんとか言っておいて、趣味が悪いにも程がありますよ。」
愛嬌の天才である彼女らしくない、藤色の双眸はギラギラに耀いてゆらゆらして睨み付けるようで、どこといって一点、可愛げのない憎体な面がまえをしている。彼女は目を見開いてあたしと沙知さんに視線を向ける。その瞳の奥に在る強い意志と覚悟にあたしは一瞬気圧されそうになったが、負けじとその眼差しに応えるように見つめ返した。
「だからめぐちゃん、それは違うって――」
咄嗟に言い返そうと試みたが、
「百合亜は黙ってて!」
「はいスミマセン‥‥‥!」
沈んだ声で言い残し、あたしは仕方なく、ふふと笑った。そして彼女は長い睫毛を、扇形の如何にも重たげに伏せながらぱちぱちしてみせた。二葉に玉を結んだ薄紅の雲母は、扇の如くおのずと拡がって、灰色の瞳を囲んでいる。まるで猫の眼のようだ。百合亜は何か仔細ありそうだと初めから眼を据えて見詰めるというのではない。それは何時でも微笑を含みながら物憂そうに見詰めるのである。そしてこの物憂さがまた姉と幼馴染の心持ちを明るくする。然しそれを横目に見て居ながら、スクールアイドル達は真剣な物言いを続けるのである。
「仕込んだ、なんて強い言い方だな。これは紛れもない、彼自身の意志だ。あたしはその気持ちを汲んで、ほんのちょっと力を貸してあげただけ。」
百合亜はうんうんと強く頷きながら聞いていた。然し慈は仁王立ちで構え、強気の姿勢を崩そうとはしない。
「嘘。見た目だけじゃなくて性格まで変わっちゃったみたいだもん。面と向かって「めぐちゃんカワイイ!」なんて、むかしの蓮太郎ならぜったい言ってくれなかったんですケド。」
「え?いや!まさかそんなことは!めぐちゃんはいつも可愛いよ!!」
そして二人は沙知を置き去りにがやがやがやがや言い始めて、なにがなんだか、まるで蜂の巣を突っついたようで、あーでもないこーでもない、座が白けるほど騒めいた。
漸く二人の議論が煮詰まったのを認めた沙知が、再び口火を切ったのである。
「――なるほどねぃ。これがほんとうのキミってわけだ、藤島ちゃん。‥‥‥でもね、敢えてこれだけは言わせてくれないかな。キミには、スクールアイドルの才能がある。」
「そんな、百合亜みたいなこと言って‥‥‥。」
慈はちょいと返事を渋る風である。百合亜の眼はまた、もいちど彼女の上に落ちた。
「さっきの配信を観ていて確信した。キミの言葉は、人の心を動かせるだけの力がある。それはきっと、キミにしかできない。キミだけの、スクールアイドルとしての力だ。」
「私の、言葉が‥‥‥。」
「‥‥‥。」
なんだか胸の高鳴りを覚える言葉だ。でも、これから先をあたしの口から聞こうとすると、せっかくの趣向が壊れる。ようやく仙人になりかけたところを、誰か来て羽衣を帰せ帰せと催促するような気がする。百合亜は相応しい台詞を紡ぎ出せなかった。七曲の険を冒して、やっとの思いで、ここまで来たものを、そうむやみに俗界に引きずり下されては、飄然と決意してまで家を出た甲斐がない。世間話もある程度以上に立ち入ると、浮世の臭いが毛孔から染込んで、垢で身体からだが重くなる。沙知さんの言葉は一々尤もに感ぜられ、あたしは、――それにめぐちゃんも、そのひとつひとつに頷きながら彼女の言葉に耳を傾けるほか無かった。
「――慈。あたしと一緒に「みらくらぱーく!」をやろう。あたしが、キミの知らない世界を見せてあげよう!」
宛ら春の風、椿花咲くあのやわらかな春風を湛えた声が部室に響く――。
7
「――まだ悩んでるの?めぐちゃん。」
「れん、‥‥‥百合亜。」
酉の刻を告げる鐘の音が、屋上庭園の空気を広く震わして鳴りわたった。初まりは低く、次第に太く高まって暫くの間大空に音の柱が突立ったようにそのまま鳴ってから、またまた低くなって消えゆく鐘の響きは、少し音が外れていることもあってか百合亜にほんのりとした安心感を覚えさせる。あっちこっちでチャイムが鳴っているけれど、ここのだけはその幾通りかの音色をぬっと凌いで、息も長く、天へ大入道が立つようだった。このチャイムが鳴り出すと、その外れた音の太さ高さからだろう、視界に見下ろす女学生一人ひとりの営みの小ささが今更感じられる。あたしたちも、所詮はそのひとり――。
「ううん、そうじゃないの。自分の気持ちはわかってる。でも――」
「――でも。ボランティアを通して、沙知さんにみらくらぱーく!をやろうって誘われて。思うところがあったんでしょ。わかるよ。」
「うん‥‥‥。ちょっと、気持ちの整理ができてないだけ。」
慈は両手を高く掲げ、空を見上げる。
「‥‥‥ねぇ、百合亜。少しだけ独り言いってもいいかな。」
「勿論。」
慈はそれ自体が独り言のように、口の中で呟いて、それから夕陽へとぼんやりと視線を移しながら、低いけれどもきっぱりした調子で話し始めた。冬を思い出させる灰色みたいな寒い西風がふっと吹いて、煙が低く地を這っていて、あたしは、徐に幼馴染の顔を見上げ、喉を詰らせながら独り言を語る彼女の表情が、いままで見たこともなかったくらいに真剣だったのに驚いた。
「私は確かに、るりちゃんを、みんなを夢中にさせたくて、タレントにもなった。なったからには、とにかくかわいさを振りまけばいいと思ってた。タレントの夢を諦めさせられて、なあなあな気持ちでスクールアイドルを始めて。でも、ボランティアをやって、配信をやってみて、他のスクールアイドルたちの配信を観て。それと、沙知先輩のステージを観て、初めて気付いたの。私はみんなの「楽しい」って声を近くで浴びたかったんだ、って。スクールアイドルも、きっと同じ。」
苟しくも少女たるもの何を以て声名を世に馳せようとも、平々凡々裡に朽ち果てるよりは結構なことに違いないから、一人の幼馴染の為に人生を賭け場数を踏んできたタレント活動に依って彼女が一挙に艶名を轟ろかし、満天下の羨望の的となったのも、当人に取って定めし痛快事だったであろう。それでも少女は、更に、夢を求めて、新たな一歩踏み出そうとしている。
「うん。そうだね。」
会話はちょっと途切れる。面をあげて西日の空を静かに眺めていると、どういった天帝の気まぐれなのだろうか、山の尾根に如何にも柔かな温かそうな藤色が差し込んで、その周りには残陽が鮮やかな濃淡を描いて緋色の帯を流していた。同じくして落ちついた耳の底へはぴいぴいと謂う鳥の声が小さく聴こえ出した。この音色がおのずと、拍子をとって頭の中に一種の調子が出来る。眠りながら、夢に隣りの子守唄に誘われるような心持ちである。
「スクールアイドルは、みんなが楽しいって声をあげてくれる。コールして、名前を呼んでくれる。レスポンスをリアルタイムでくれる。相思相愛なんだって、ちゃんとわかる。ステージに立ったらぜったいに楽しいって、そう思うの。」
「うん、そうだね。まあ、お世辞でも上手くはなかったね~、あの配信は。」
百合亜はお道化て微笑むだけであった。
「ちょっと?それは正直に言いすぎー!でも、可愛かったでしょ?」
「そうだねぇ。〈めぐ党〉のあたしとしては「可愛い!」って思えたけど。それが、もし、「スクールアイドルとしての藤島慈」だったとすれば。」
「‥‥‥私はもっと、可愛くなれる。」
彼女の清澄で円熟な瞳に決意の光が満ちていった。あたしは知っている、彼女はむかしから、人が無理だと謂うことを最もやる気になる性質であるのだ。他人にはやれないことが自分にだけは出来るのだし、また、それを世界中に見せつけてやりたいという増上慢にとり憑かれてしまったから。この増上慢の根柢には科学性が欠けていた。然し、それは決して醜いものではなかった。謂わば、負けず嫌い。おのれの研鑽を怠らない稀代の努力家。人間の身体は往々にして微妙なもので、やる気があればこれぐらいは誰でもできるが、やりぬく者が無いだけのこと。妥協せずにおのれを着飾ろうとする彼女の気高さは、百合亜には眩しいほど美しく映った。
「‥‥‥ねぇ、百合亜。」
「うん。」
ひとしきり時の鐘に震わされた空気も鎮り、夕方の透き通ったような西日が見える世界の色を目にすると、百合亜は先の冬の間には知らなかった気持ちが胸から脚へと流れるのを感じた。淡い気怠るさのような、また哀愁のようなその気持ちは、空気の柔かなこの頃の夕方のひととき、彼女のぱっちりとした二重瞼に一層活力を与える。
「もう一回、配信付き合ってくれる?」
「おうよ!やってやろーぜ!」
と、白い歯を出して笑った。――そう、なにより、彼女の傍にはずっと、いちばんの声援を届けてくれる幼馴染が居たのだから。二人の語調もスクールアイドル活動への意気込みも、颯々として熱狂の頂点に達せんばかりであった。
…
……
「‥‥‥ふむ。見違えるほど「スクールアイドル」らしい配信になったね、慈。どうやら、スクールアイドルを始める言い訳にするためのはったりではなさそうだ。」
沙知さんがスマートフォンでめぐちゃんの配信をチェックしている。慈は頰は上気させて、先輩が紡ぐ言葉を期待していた。
「そう。きょうから私はあらためて、蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブの藤島慈。――みらくらぱーく!の、藤島慈。」
「なるほど、なるほどねぃ。そういう子らしいね、キミは。やっぱり、あたしの目に狂いはなかったようだ。」
そして沙知さんは梅の実ほどの小さな眼をくる動かしてあたしとめぐちゃんを眺め廻し、れいの、細かい艶音のある声色で飄々と語るのだ。その態度は少からずあたしたちを穏やかな気持ちに誘ってくれる。沙知さんはほんとうに、人情の機微に敏だ。勿論あたしなどの凡夫は人間の一分子に過ぎないから、いくら物好きを演じていても、非人情はそう長く続く訳わけには行かぬ。とはいえ、淵明だって年が年中南山を見詰めていたのでもあるまいし、王維も好んで竹藪の中に蚊帳を釣らずに寝た男でもなかろう。やはり余った菊は花屋へ売りこかして、生えた筍は八百屋へ払い下げたものと思う。そう、道化は人情の為にこそ実践される。斯く謂うあたしの幼馴染もその通りなのだろう。人情の揺籃が彼女の信念を更に強く育んでいく。齢十五の少年少女は、いくら雲雀と菜の花が気に入らなくったって、山のなかへ野宿する程の非人情が募ってはおらぬ。どんな所でも人間に逢う。頬冠を徹底する女学生たちや、妖しい素性のちっちゃい先輩や、時には少女を演じる少年にまで逢う。百万本の檜に取り囲まれて、海面を抜く何百尺かの空気を呑んだり吐いたりしても、人の臭いはなかなか取れない。それどころか、海を越えて山を下って落ちつく先の、我われのいまの寓居はこのスクールアイドルクラブだ。既存のあらゆる芸術観念を打破し、少女達の青春模様を音楽に載せ、観るものすべてを耀かせる舞台――。
やがて長閑な鈴の音が、春に更けた空山一路の幻影を破る。不安の底から気楽な響きが上書きされていて、どう考えても画に描いた声だ。
「それじゃあ慈、あらためてよろしく。あたしたち二人で、みらくらぱーく!結成だ。これからはユニットメンバーとして、一緒にスクールアイドル活動頑張っていこう!」
「ううん、ひとつだけ違うよ、沙知先輩。私が付いていくんじゃなくて、沙知先輩が付いて来るんだから!スクールアイドルとしても最高にキラキラしてる私の可愛さに負けないよう、しっかり付いて来てね☆」
「えぇ、いきなりの下剋上宣言かい!?‥‥‥まったく、手のかかる後輩だなー、キミは。」
「あはは‥‥‥。」
いやはや、鼎の軽重を問うとはこの事か。百合亜は仄かな笑みを洩らしながら、目を瞑って想像を膨らませていた。――この少女は何物に追われているのだろう?そして何物に憧れているのだろう?然し百合亜にわかるのだ。二人の国の新たな距離が。そして羨ましく思えるのだった。所詮――百合亜は考えた。この少女の憧れが何物であろうとも、現実の手に握りうる何物かであるに違いない。否、握らねばならぬところの何物かであろう。そして顔色は蒼褪めることもあれば、心に絶望も感じ、憑かれた言葉を口走りもすれば、見えない決意に急き立てられもするのである。けれども、この少女は生きた世界の中、そして現実の中に、いつも棲んでいるのだ。彼女の憧れが、よし何物であるにしても、現実に握りしめねばすまぬところの生々しい可能の世界に限られていて、それはこの年頃の少年少女に特有の、そう、正しく「夢」としか呼称できないような、脆い儚さを秘めた大望であると感じずには居られなかった。時代の表情が虚無的でなかったとしても、あたしたち少年少女の心は、おそらく、常に苦悩と隣り合わせだったに相違ない。それがまさに、あたしたちの肉体に宿っている――。
百合亜は未知の動悸が昂るのを感じていた。
「百合亜もだよ!スクールアイドルとして世界一可愛くカッコよく煌めく藤島慈を、ぜーったい見逃さないでよね!」
慈は馴染みの指ハート越しに彼女を見据えた。
「言われなくてもだぜ!ずっと言ってきたでしょ、あたしはめぐちゃんのファン第一号だから。この特等席は、誰にもゆずんねーよ!」
幼馴染をどきりとさせる程の特大の笑顔で応えた百合亜は、夢の美しさに酔わされたように大きな花の色を観ていた。何気なく胸の脈と心の声を聴きながら青春の儚さにあはれを見出すのは彼女の近来の癖になっている。動悸は相変らず確かに打っていた。彼女は握りしめた掌を左胸に当てたまま、この鼓動の下に、温かい紅の血潮の緩く流れる様を想像して居た。これが命であると考えた。おのれはいま流れる命を掌で抑えているんだと考えた。それから、この掌に応える、時計の針に似た響きは、自分を夢に誘う警鐘の様なものであると考えた。この警鐘を聞くことなしに生きていられたなら、――血を盛る袋が、時を盛る袋の用を兼ねなかったなら、如何に自分は退屈だろう。如何に自分は絶対に生を味わい得るだろう。けれども、――百合亜は覚えずはっとさせられた。彼女は血潮によって打たるる掛念のない、静かな心臓を想像するに堪えぬ程に、有限の時間を生きたがる思春期に生きていた。彼女は時々目を覚ましたまま、左の乳の下に手を置いて、もし、此所を鉄槌で一つ撲されたならと思う事がある。彼女は健全に生きていながら、この生きているという大丈夫な事実を、殆ど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さえあるのだった――。
…
……
「――そう。私、スクールアイドル始めたんだ。説明すると少し長くなるんだけどね、‥‥‥」
私はその日の夜、久しぶりにるりちゃんと電話でおしゃべりしていた。るりちゃんがカリフォルニアで頑張っている話をたくさん聞いて。そして、私がスクールアイドルとしての活動を始めたことについて、たくさん話した。
「――わぁ、やっぱめぐちゃんすっげー!その、スクールアイドル?っていうのも、めちゃくちゃ楽しそうじゃん!」
「ん、そうだね。ルリちゃんまでスクールアイドルになったら、私たち、ついに最強の幼馴染になっちゃうかも!そしたら、またふたりふたりで楽しいことができるね。」
「そうだよ!また一緒にやろうよ、めぐちゃん!ルリもカリフォルニアでビッグになって、必ず追いつくから!」
「うん。待ってる――。」
るりちゃんは私に夢をくれた。でも、そんなタレント活動が順調だったのに蓮ノ空に入学させられて、正直言って人生終わったーって思ったよ。そんな時に、沙知先輩とあいつが、新しい夢を一緒に見つけてくれた。そうだ、世界中も、るりちゃんも、あいつも。一生私から目が離せないくらいに夢中にしてやる!誰にも負けない――梢や綴理にも、――沙知先輩には、ぜったいに負けたくない――。
照りもせず曇りも果てぬ春の夜の朧月夜にしくものはなしと、歌人によって詠ぜられた、それは卯月の春の夜のことではなかったかも知れないが、彼女が部屋の窓から垣間見る風景は霞こめて、紗を巻いたように朧であった。寮の向かいでは昔ながらの、桜の老木が花を咲かせて、そよろと吹き過ぎる微風につれられ、人に知られず散っていたが、それもまた悩ましくも艶かしい眺めであった。更けまさっても賑やかであると、謂い伝えられている春の夜。丑満を過ごした今でさえ、少女の夢はおさまる気配が見えなかった。
時ならぬ春の稲妻は一陣、少女を出でて少年の胸をするりと透していた。色は藤紫である――。
天華恋墜 第三章:藤色の感情にて 終
その艶姿、凍傷に注意――。