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天華恋墜 第二章:ふたつの約束【蓮ノ空二次創作】

この静寂はあたしの生命であり
この静寂はあたしの神である
しかも気むずかしい神である
キミの愛の好奇心にさえも
尚烈しい擾乱を惹き起すのである
キミはその一点に手を触れようとするのか
いけない、いけない――


天華恋墜 第二章:
ふたつの約束


1

 北陸の冬は鼻が劈くような寒さがする。師走にもなるとすっかり天地の気が塞がって冬となり、一層重苦しく黒ずんだあの空を眺める度に、ことしの初雪は何時になるだろうかとイヤな感じがするものである。おれは石川県に生れたが、加賀や能登に限らず、雪国の町は非常に暗い気がする。秋がきて時雨が落葉を叩きはじめる頃から長い冬が漸く終わって春が訪れるまで、太陽を見ることが殆んど稀にしかない。夏が来ると秋を思い、冬になると春を恋しがる以外には何をも知らない少年にとって、ことしは特に冬が近年になく厳しかろうとの前触れがやかましかっただけに、暗澹たるこの気候には発狂しそうな焦燥を感じて弱ったものである。直接の気候以上にやりきれないのは、人間が気候の影響を受け易く、自分の性格や物の見方感じ方に間接の気候の顔を見出すときに、非常に惨めなおのれを感じる瞬間である。これは、晴雨相半して特に激烈な表情のない所謂表日本あたりの気候に比べて、雪国の暗澹たる気候が我われ人間に及ぼす影響は激しく深いせいでもあろうか。
 空つ風の吹きすさぶ昨日今日の寒さに辟易しながら、僅かばかりのこぼれるような日光をもとめて、代り映えのしない憂鬱な少年の日々を過ごしていた、中学三年生の冬。いつ雪に変ってもおかしくないような、じっとりとした雨の日だった。
 
 父母の訃報が入った。

2

 「帰命無量寿如来、南無不可思議光。法蔵菩薩因位時、在世自在王仏所。覩見諸仏浄土因、国土人天之善悪。建立無上殊勝願、超発希有大弘誓。」
 
 通夜の日もまたどんよりとした雨の日であった。強いて想い出を掘り起こせない父方の実家に久しく帰り、小坊主に先導されふたつの肖像を前に舞台にひとり座す、薄黒く光る小さな学生服の影はなんとも不格好である。青年にとっては慣れ親しんだ、北陸らしい真宗式の読経は恰も儀礼的な雰囲気を醸し出している。報恩講での大それた読経や例月例年の命日の読経などでは差支えない心地がしたが、近親者の葬式やお通夜の場合は泣きの涙でいる人も多いはずなのだから、大音を発しすぎては具合が悪いのだろうか。通夜坊主は淡々と正信偈を読み上げ、参列者は皆しっとりとした表情で数珠を握りしめ、座を正している。生命の落日は、彼に、ふしぎな渇望と喪失の味をあたえていた。
 
 「普放無量無辺光、無碍無対光炎王。清浄歓喜智慧光、不断難思無称光。超日月光照塵刹、一切群生蒙光照。」
 
 中学の担任教師は必要以上に動揺した様子で父母の訃を報じた。父母は異国の地で仲良く死んだそうだ。孤児を救うべく国際的な仕事に従事し、それも、立派な活躍をしていたらしい。詳しくは尋ねたことが無い。通夜の数日前、亡骸が送られたという葬儀場へ連れられ、少年は暫くしてから気を引き締め直すと、静かに棺の前へ足を踏みいれた。そして屍体の方に近づいて、簡単な防腐処理の施されて独特の臭いを発する、その青白い死顔ふたつを覗きこんだのだ。
 
 「おお、父さん……母さん‥‥‥。」
 
 彼は腸からふり絞るような声で肉親に声をかけた。父母のそれは衰えきった顔であった。具に嘗めて来た世の辛酸が、刻まれている皺の一つ一つに浸みこんでいるのであろう。けれど、いま、すべては終った。もうどんな苦しみもない。困難な長い旅が終って、両親はいま安らかな、眼覚めることのない眠の床に就いているのだと知った。こうして久し振りに再会した、変わり果てた大人達の抜殻を見て、然し、少年は、悲しげにハラハラと落涙するというような体ではない。わからないのだ。父母はこうしておれが十五の時に死に、而もうちに居ることがあまりなかったのであるから、この父母の「人間」に就いてはほとんど知らないと言わざるを得ない。おれが何歳の頃だろうか、クリスマスプレゼントを欲しがっていながらそれを言い出せないで、ひとり色々と思ひ悩んだ末、或る晩に床の中で眼をつぶったまま寝言のふりして、くりすます、くりすます、と居間で客と対談中の父母へ低く呼びかけた事があったけれど、勿論それは父母の耳にも心にも入らなかったらしい。そのほかにも幾らかの記憶を渉猟できるが、何せ幼年の頃の記憶であるから、ああいった別離の記憶だけが色濃く胸中に残っているくらいのもので、あとはすべて、とりとめも無くぼんやりしてしまっている。おれにとって父母とは、雨の日の雲のような、ぼんやりとした存在であった。或いは、おれは、この父母を心のどこかで恐れていた。
 
 「能発一念喜愛心、不断煩悩得涅槃。凡聖逆謗斉廻入、如衆水入海一味。摂取心光常照護、已能雖破無明闇。」
 
 粛々と通夜が執り行われる。坊さんは職業としてお経をよむ。ところがこの読経というものは極楽との通話であるから、魂が天界を漂うせいか声明の滑りがよくなってどこに当るということもなくスラスラと連なりでる趣がある。普段ならば心地良く聞こえる仏さまの教えも、されど通夜坊主による南蛮鴃舌なクリシェに乗せられたきょうこの日に限っては、驚くほど有難い感じがしない。
 
 「帰入功徳大宝海、必獲入大会衆数。得至蓮華蔵世界、即証真如法性身。遊煩悩林現神通、入生死園示応化。」
 
 今回の通夜を取りまとめてくれたのは、父方の遠縁であって而も父と友であると名乗る老齢の男性であった。白髪にトレンチコートの似合う穏やかで紳士的な佇まい、北陸人らしく落ち着いた温厚な人柄であった。その立居振舞にどこか安心感を覚え、突然の両親の死に応対できるだけの心理的余裕もなかったからであろう、どうもすっかり頼り切ってしまった。さて、愈々通夜が一段落ついたかと思うと、堰が破れたかの如く葬儀場の静寂は破られ、経典の有難みは早忘れられたのだろうか、あまりにも俗っぽく他愛ない四方山話で会場は支配される。こうして改めて見渡してみると、親戚だけの通夜だと謂いながらはじめましての大人ばかりだ。おひさしぶりねェ、大変だったわねェ、サチちゃんおおきくなったわねェ‥‥‥。
 みな、ひどく老いている。まるで老人たちの同窓会である。近親者のみという制限だった筈が、そのうちの一人、えんじ色のセーラーワンピースに身を包んだ制服姿の少女を除けば、ちょっと見たところ、まるで若々しい感じはしない。おれは悲しいというよりも緊張しているというよりも、なんだかてれくさかった。見知らぬ親戚のおばさんみたいな人が、おせんべいとお茶を持って来ておれにすすめて「しばらくお待ち下さいまし。」と言う。恐縮するばかりである。ぼつぼつと参列者が彼のもとへ集って来る。父母と同年代くらいの大人も三、四人来た。けれども、みんなどこか老いている。あんまり利巧そうでない顔ばかりで、みな紋切り型の弔意を述べるばかりでおれは倦ずる体であったが、でも、あの教室に居るときのように陰鬱な感じはなかった。ただ、おれは当てもなく無心にきょろきょろしている。地元の真宗道場から派遣された坊主もへらへらしているところを見ると、どうやら通夜という場は、悲しみに嗚咽するといったところではなく、遺された者たちが前向きに故人を送ってやる決意をする、そんな場なのかも知れない。父母は儚くも不運の死を遂げたものとばかり思い込んでいたが、こういった大人たちの態度を察するに於いては、おれもわざわざ儒学くさい倫理観に絆される必要もないのかもしれない。
 彼は終ぞ通夜の場で涙を流すことは無かった。
 
 「極重悪人唯称仏、我亦在彼摂取中。煩悩障眼雖不見、大悲無倦常照我。」
 
 小此内蓮太郎(こがうちれんたろう)は、純粋で心優しい少年であった。

3

 「――酬因感果。法蔵菩薩は五劫思惟して四十八願を建立し、その後、兆載永劫の修行によって成仏して阿弥陀仏となられたのです。‥‥‥」
 
 産みの親からのネグレクトは、いつの時代も、青春時代の少年少女にとってはあまり良い影響を与えるものではない。おのれは両親から愛されているのかどうかというぼんやりとした不安を抱き続けていた蓮太郎少年は、心の孤独の空隙を寺院というアジールに求めた。そうした虐待を受けている憐れな狂人の精神を自ら助くべく、非常な苦心をした結果、遂に彼は、人類史上の精神科学に関する空前の新学説を打ち樹てる事となったのだ。おれはあの頃――いまもそうかもしれないが、ほとんど愛の事にのみ心を奪われている。男女の性愛といった、気取った文学者たちが嘯くエロティシズムの物語のことではない。心と心の触れ合いの機微、人間の可能性そのものである。なぜ斯くの如く考えるに至ったかは、もはやおのれでも詳らかには説き明かし得ない。されど、どこにこの情を説き得る充分な言葉があろうか。福音書の有難い説法でも「汝曹が輩互に愛せよ」と説くそうだが、然しかかる教えが現れるよりも先に、人情は生まれながらに「互を愛したい」と求めていると、おれは想ったのだ。愛は、聖者の教えであるが故に深いのではない。人情に基くが故にその教えが深いのである。人が自然な人情のままに活き得たら、この世はどんなにか暖かいであろう。この世に真に貴いものは、権力でもなく知識でもない。それは一片の温かい人情であるといつも想う。人は生まれながらに人を恋している。憎しみや争いが人間の本旨であり得ようなはずがない。さまざまな不純な動機のために人と人とは別離し、心と心とが遠ざかっていく。不自然さの勢いが醜い支配に驕っている。凡そすべてが自然に帰るならば、愛はもっと繁く我われの間を通うはずだとおれは思う。何事か不自然な力が、愛すべき人間たちを二つに裂いているのである。隣人の心持ちや寂しさを察する時、自然と人知れぬ涙がおれの眼に滲んできた。愛を知りたいと願った以上、おれの心は平和ではあり得ない。心が貴方がたに向かう時、私も共に貴方がたの苦しみを受ける。何ものか見知らぬ力がおのれを呼ぶように思う。おれはその声を聞かないわけにはゆかぬと、人知れず決意したのだ。そう、我が子にさえ明確な愛情を示すこともままならぬ、哀れな、おのれの父母への当てつけとして――。

 「――本為凡夫兼為聖人。菩薩は敢えて、浄土往生を願わずに娑婆世界へとどまって衆生教化を続けることを理想としております。一方で、凡夫は自身の力では悪道に堕することを免れることができないのです。そのため、処不退の西方浄土に往生するのです。‥‥‥」
 
 おれは、愛を信じたかったのだ。相手の善性を引き立て、貴方がたが幸せであればおのれも幸せであることを信念とした。どうして貴方がたに近づく事がいけないのであろう。親しさが血に湧き上る時、心は心に、真っ直ぐに話し掛けたいではないか。出来得るなら、私は温かくこの手をさえ無償の愛と共にさし出したい。かかることはこの世において自然な求めだと、貴方がたも信じてくれるものかと疑わず、多くの学友の助けとならんことを自ら願い出た。教室以外にも大おおいに努力した。一日一善というような考えが小学生の時にはあったのだから、少しは買って貰いたい。学校へ行く途に村社の八幡宮があった。小学校五年生になってからおれはその前を通る時、必ず帽子を脱いで敬礼をすることにした。誰かの役に立てますようにとか世界が平和でありますようにとか、身勝手に拝む時だけでは申し訳がない。心願果しの意味も手伝って、これを心掛けた。然し学友と話しながら歩いて、ついお参りを忘れることがある。そのまま気がつかないこともあったが、思い出すと駈け戻ってお辞儀をして来たものだ。或日丁度そうした心掛けの幾つかが、先生のお目に留まった。
 「小此内さんは感心ですな。」と先生は褒めてくれたばかりでなく、教場で紹介して、
 「皆さんはこれも小此内さんをお手本にしなければなりません。」
 と修身の材料に取り上げた。皆のお手本だと言われると、自分もその気になる。何かの都合で暫く他人から褒められないと物足りない。自分自身のいままでの努力が間違いではない、無駄ではないと感ぜられるから。そんな有頂天だった彼も、おのれのくだらない愛の妄執が、いつか、どこか空虚な慰めへと堕落するかもしれないと、ほんとうは気付いていたのかもしれない。然し、その惨めさのなかで彼は疲れていたのではない。彼は、唯だ急いでいた。止められなかった。毎日、越えなければならぬものばかりがあり、それを越えた向こうにほんとうに何があるかなどは考えたことがなかった。両親からの愛を希求した末、蓮太郎は、唯だ、生き急いでいた。
 思えば、これは彼にとっての「道化」の始まりであったのかもしれない。おのれがこんな甘ったれた薄のろの悩みを続けているうちにも、世界の風車はクルクルと眼にも留まらぬ早さで回る。「ありがとう」「すごいね」という耳障りの良い決まり文句に心躍らされ、もはや、おのれの愛の試みは完全に成功を得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に、おれは実に意外にも背後から突き刺されたのである。それは、背後から突き刺す女のごたぶんにもれず、クラスで最も貧弱な体躯をして、顔も青ぶくれで、皮膚もただれ、そうしてたしかに母姉のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる上衣を着て、学課は少しも出来ず、体育はいつも見学という白痴に似た、所謂「虐められ子」の女子であった。自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は認めていず、むしろ、ひとりの友人でありたいと信じていた。然し、中学生の少年少女たちは、彼自身の想像を遥かに越えて多感で、繊細であったのだ。
 
 「――ねえ、あなた。そんなに嘘をついて、他人を騙してさ。楽しい?」
 
 その一言で彼の愛と人情の生活は踏みにじられた。彼は、自分自身が道化を演じているつもりはまったく無かった。然し、そんな蓮太郎少年の厚顔は、他者から警戒されるには十分過ぎたのだ。相手とのあいだに敷かれた境界線を自身からすすんで踏み越えるような経験が屡々あった。「人に甘い」と評されるほど損な役回りを引き受けてしまったり、あるいはその結果として他人から距離を置かれたりすることも多かった。それでも彼は、止めなかった。誰かが「小此内さん」と呼んで私を指すと、また誰かが必ず咳払せきばらいをする。それでも「品行方正」と折紙がついていれば、そんなことに頓着していられない。きょうも人助けの時間だ。おれは相変らず努めていたが、その中に居てついに、身辺に危険が迫ったことを漸く発見したのだった。驚いた時には、もう遅かった。同級生は消極的な仲間外しではもう満足出来なくなったようだ。空気というくだらない概念によって巻き起こる偏見や意図的な黙殺、変化を煙たがって問題を先送りにする日和見主義といった衆愚に支配される、権威や時勢といった空虚な概念そのものが、教室内の人間関係を支える柱であったのだと、少年はようやっと思い知らされた。信じて止まない〈愛〉そのものがおのれ自身を道化たらしめ、まさか愛すべき隣人たちから忌避される要因となろうとは、なんとも食えぬ皮肉ではないか!巨大な妄執の虚像の足許に青年たちが悔恨や倦怠に悩まされるとき、彼等を笑わせるのを務めとする、かの人工の馬鹿、故意の道化の一人がいつも、けばけばしい馬鹿げた衣を身に纒い、鈴附きの角形帽子を戴いているような仰々しい態度で、憐憫を眼に蓄えた隣人たちのもとに跪き、涙に満ちた瞼を閉じて永遠の女神を見上げている。そうして一寸の出来事が一生を支配する。

 ――ああ、もうどうでもよい。被害者ぶってぐだぐだと語るのも馬鹿げたことだ。彼女らへの愚痴を置いていったところでもはや詮無き事だ。放って置いてくれ。華というものは、美しく咲くものより惨たらしく踏みつぶされるもののほうが多いのだ。我が道化の華とやらも、どうやらここで萎んだようだから、もう、いいじゃないか。しかも、さもしく醜くきたなくしぼんだ。真の友情への憧れ。穢れなき愛への誘い。もう、たくさんだ。おれの極楽行きの直接原因を生んだ、かの〈愛〉の精神の高尚さを垣間見た人々は、誰でも狂人の戯言ぐらいにしか思っていないようであったのだから。
 
 「――ええ、そうです。その日から、おれの心にぽっかり穴があいてしまったんです。生きるための意欲‥‥‥とは、少し言い過ぎですかね。兎角、人生への気力をどこかに失くしてしまったんです。それまでは気にならなかった、同級生や大人たちからの視線、評価や虐めが、はっきりと見えるようになってしまったんです。」
 
 人間の悪意に触れてしまってからは一層悲惨である。その当座は、あまりにも烈しかった衝撃にひどく打ちのめされて、努めて獲得した明るく快活な性格がまったく霧散してしまったように思われた。昼は幻に、夜は夢に、かつての学友等の苦々しい表情と恨みの籠った小言が記憶に蘇り、あの人間だか仮面だかわからぬ怪物と化したおのれの薄顔と重なり合って、ありとあらゆる地獄の構図をもって、彼を脅かし続けた。「虐められ子」は、おれだ。もはや咳払いどころでなく、つけ上って、ややもすると喧嘩を売りかけられるのではないか。若しやあの知った顔達が、安寧を奪われた恨みに燃えて、復讐の爪を研いでいるのではないかと、彼は絶えず危険をさえ感じなければならなかった。
 哀しきかな、悪人凡夫の典型たる彼に他の方便は与えられていなかった。表面は相変らず哀しいお道化を演じて皆を笑わせようと、見苦しくも、続けてしまったのだ。そうして、自分が軽い笑いを浮かべ、周囲から嘲笑されている間に、自分のお道化は所謂「ワザ」では無くて、ほんものであったというよう思い込ませるようにあらゆる努力を払い、あわよくば、彼らと、ほんとうに、親愛に足る学友になってしまいたいものだ、若しその事がみな、不可能なら、もはや、彼らの死を祈るより他は無い、とさえ思い詰めた。それでも、さすがに、彼らを殺そうという気だけは起こらなかった。自分はこれまでの生涯に於いて、人に殺されたいと願望した事は幾度となくあったが、人を殺したいと思った事は、一度も無かった。それは、恐るべき相手に、却って幸福を与えるだけの事だと考えていたからだ。

 先生に褒められ、親には無視され、同級生に苛められながら、蓮太郎は中学三年生となっていた。憂鬱な登校の時間、ふと隘路が目の前に陰暗く立ち現れた、風に晒され滑らかになった何かの姿を、悪意を滲ませつつ威圧的に立つギザギザした木々の間に見据えた。向こうには渦巻く蒸気に抉られた空が低い極地の陽光を浴びていた――その空の下にはなんだか遠き神秘の領域があるように映り、未だにそれが人の目に触れたことのないことにあるのだと、おれは思いを馳せた。次の瞬間おれは冷やりとして、ふっと思わず重苦しい溜息が出た。何をしたって全てクラスメイトに木っ葉みじんに見破られていて、そうしてあれは、そのうちにきっと誰かれとなく、それを吹聴しておれを陥れるに違いないのだ、と考えると、額にじっとり油汗がわいて来て、狂人みたいに妙な眼つきで、あたりをキョロキョロと虚しく見廻したものだ。だが、時の力は恐ろしい。月日の流れは、いかなる悲しみも、恐れも、憤りも、希望も。いつとなく洗い薄めて行くものだ。つまるところ、そろそろおれも厭きて來たのだ。他人を信じることが怖くなり、次第に口数が減っていった。そもそも、他人と関わらなければ斯くも無様に生き恥を晒すことは無かったのではないか。ああ、漸く気付くことができて、良かった。大善を称するよりは小善を積め、という言葉がある。小善は大悪に似たり、という言葉もある。ロマンチストの末期など、所詮はこんなものであろう。その後のおれの汚行に就いては、もはや言わない。ぬけぬけ白状するということは、それは却って他人に甘えている所以だと思うし、おれの罪を少しでも軽くしようと計る卑劣な精神かも知れぬし、おれは黙って怺えて、神の厳しい裁きを待たなければならぬ。おれが、悪いのだ。持っている悪徳のすべてを、曝け出した。
 地頭が良いわけでもなく、技芸に取柄があるというわけでもない。平凡で、不器用な、唯だ心の優しい純粋な青年は、もはやここに至り元来の心の優しささえも見喪ってしまった。そんな青春の末路は、どこか在り来たりで詰まらない、世間の退屈さを自覚した平均的な賃金労働者のような感懐であった。我武者羅な学問の世界に孤独を埋める術を求め、趣味の世界へ――彼の場合は独り読書の世界に引きこもった。智慧の世界ならすべてが忘れられる。歴史の幽玄を享受できるひと時が大好きだった。本望、という言葉さえ思い浮んだ。明日もまた、黙って学問の仕事を続けよう。仕方がないのである。齢十五にして既に他に生きがいの無い人間だ。父さんと母さんはおれの苦悩を知らぬまま死んだ。なにをやっても、うまくいかない。裏切られるのは、もうごめんだ。知らなければいけない。ああ、本当におれなんか一日も早く死んでしまったほうがいいのだ。いまのうちに、うんと自分のからだもあたまをもこき使って、なんとかして早く僅かにでも世間様に役立ち、あとはもうこの世からおさらばして、地球さまの負担を軽くしてあげたほうがよい。それがおれのような、やくざな病人のせめてもの御奉公の道だ。大人にはわかるまい、「自分の生きている事が、人に迷惑をかける。おれは余計者だ。」という意識ほどつらい思いは世の中に無い。

 とりわけ此度の感傷にて殊更強く知覚するに至ったのは、女という存在への不可解さだ。教室の男たちの暴力的な威圧よりも、とくに女の、あの、ヒソヒソとした目線のほうが、おれはよっぽど恐ろしかった。動物は本能的にメスである母親への帰属を求めるというが、彼にとっては、母から愛されていなかったという逃れ難い事実のために、とくに「女」を恐れていたのであろう。女は引き寄せて、つっ放す、或いはまた、女は、人のいるところでは自分を蔑み、邪慳にし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる。女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないのかしら。その他、女についてのさまざまの観察を、すでに自分は幼年時代からさまざまに感じ得ていたつもりではあったが、同じ人類のようでありながら、男とはまた、まったく異った生きもののような感じがしていた。烏もただ一羽枯枝にとまっているとその姿もまんざらで無く、射干玉に輝く翼も輝いて見事に思えるけれども、数十羽かたまって騒いでいるとゴミのようにつまらなく見えるのと同様に、若々しい生気を放つ女学生たちも、群れを為して廊下を大声で笑いながら歩いていると学生服の権威も何もあったものでなく、まことに愚かしく不潔に見えたものだ。

 ポケットに入れたスマートフォンが鰾膠も無く振動する。画面に目を落とし、ひとりの女の子の姿を思い浮かべる。
 
「――めぐちゃん。」
 
 蓋し人間の感情とは不可解なことに、おれにとって不可解で油断のならぬ「女」という存在観念は、奇妙におのれをかまい、依然として後ろ髪を引っ張るのであった。「惚れられる」なんていう言葉も、また「好かれる」という言葉も、自分の場合にはちっともふさわしくなく、「かまわれる」とでも言ったほうが、まだしも実状の説明に適しているかもしれない。恋愛経験に乏しい小僧が評するのは滑稽だとは自覚しているが、敢えて言おう、兎角女というのは、男よりも更に、道化には寛ぐように感ぜられるのだ。愛嬌と言い換えても良いかもしれない。女は適度という事を知らず、いつまでもいつまでも、自分にお道化を要求し、自分はその限りないアンコールに応じて、へとへとになっているのである。実に、よく笑うのだ。その笑いがいったいに、女は、男よりも快楽をよけいに頬張る事が出来るように思われた。されど、若しおれが、あの子らと同じ〈少女〉として、学生時代を謳歌できていたら――と、少し、羨ましくもある。
 スマートフォンに目を落とすと、おれの今後の進退を案じてくれる一報が入っていた。唯だひとり、彼にとって心の拠り所になっている、幼馴染のクラスメイトからだ。おれは彼女のことを心の奥底から信頼し、かけがえのない友人であると捉えている。然し、所詮は、彼女にとって、おれは数多居る友人のうちのひとりに過ぎないのであろうと、どこか確信染みた思い込みに支配されてしまってならない。こんなにも捻くれた贖罪の山羊一匹について、あんなにも器量の良い女の子が、好き好んで後生を焼く訳はないのだからーー。勿論これが愛すべき友人に対する真摯な態度では無いとも理解しつつ、一度強迫観念にとりつかれてしまったが最後、少年は、彼女に対しても不信感を抱いてしまっていたおのれが、何よりも憎たらしかった。ああ、死後の世界でも構わない、彼女も心からおれに信頼を寄せてくれるなら、なんと幸せなことか!でも、彼の空虚な心には、幾ら水を注ぎ込んでも割れた穴から溢れ出ていくばかり。人間不信に至ると、どうもこういう発想に塞ぎ込んでしまうから、いけない。
 
 「――努力はきっと報われる、ですって。素敵な言葉。いろんな大人が教えてくれました。でも、それは夢で終わる、違いますね、子供にはどうしようもできない、現実で、終わることばかりだったんです。人間だけは、嘘をつくんです。」
 
 あの日以来、おれは何だか、新造の大きい木造船にでも乗せられているような気持ちだ。この船はいったいどこへ行くのか。まったくわからない、未だまるで夢見心地なのだ。海の波濤に夢見た若き船乗りたちの出帆は、それはどんな性質な出帆であっても、必ず何かしらの幽かな期待を感じさせるものだったはずだが、おのれにはどうやら、絶望の末の虚無みたいなものになっている気がしてならない。それは大昔から変りのない人間性の一つだ。ギリシャ神話のパンドラの匣という物語をご存じだろう。あけてはならぬ匣をあけたばかに、病苦、悲哀、嫉妬、貪慾、猜疑、陰険、飢餓、憎悪など、あらゆる不吉の虫が這い出し、空を覆ってぶんぶん飛び廻り、それ以来、人間は永遠に不幸に悶えなければならなくなったが、然し、その匣の隅に、罌粟粒ほどの小さい光る石が残っていて、その石に幽かに「希望」という字が書かれていたという話。人間は屡々希望に欺かれる、また「絶望」という観念にも同様に欺かれる。人間は不幸のどん底につき落され、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷の希望の糸を手さぐりで捜し当てているもの――。
 しかしながら、どうやら我われ人間は、おのれらが物語の世界ほど高潔な存在ではないと知覚してしまう性質らしい。楽観論やら悲観論やら、肩をそびやかして何やら演説して、ことさらに気勢を示している大人たちを岸に残して、おれたちの青春物語を箱詰めにした船は揚々と出港し、一足おさきにするすると進んで行った末に座礁して、物語はここ早くも幕を閉じたのだ。夢は、自由でもなんでもなかった。思想の行きづまりに生ずる徒花を散らした健康な少年の姿は、無様で、恥ずかしいものだった。どうしてもごまかし切れぬ一塊の黒雲のような不安が、常に常に胸の奥底にこびりついていて離れない。こんな事をして暮らして、いったいおれはこれから、どんな身の上になるのだろう。父母は死に、縁となる一切は此岸から離れていってしまった。ああ、なんの事はない、果てもなく癈人になるしか、ないじゃないか。そう思うと、呆然とする。この先どうしてよいか、まるで見当も何もつかなくなるのだ。そうして、こんなだらし無い自分の生きているという事が、ただ人に迷惑をかけるばかりで、全然無意味だと思うと、なんともつらくてかなわない。ああ、誰かの役に立ちたかったのに――。

4

 「初七日、そうか‥‥‥。」
 通夜のあと、参列者たちの雑談が落ち着き居間で食事の支度が始まると、また、しんとなって、おれは立ち上り、廊下に出て、庭を眺めた。二度とない、両親の死際くらい感傷に浸ってもいいじゃないか。尋常の人間ならば、涙を流さずとも喪の作業くらいは必要とするはずだ。おれもそうなのだろう。彼は日記を逆に繰りながら、小此内家にこの意外な不幸が訪れた日からいままで、自分は何処で何をしていたであらうと、ぼんやりではあるが、その前後の記憶を拾いだしていた。蓮太郎が縁側に腰かけようとしたとき、見知らぬ親族の、女々しく甲高い噂話が耳に入ってきた。
 「これほど献身的に海外に出てこんな好い方々だったから、もしかして海外など出なかったら、どんなにか立派な人だったろうに‥‥‥。」
 思わず吹き出してしまった。クソ婆どもめ、なかなか皮肉な事を言っておるわい。
 
 そうして通夜の騒々しさが一通り静まった頃、れいの白髪の老人が出て来て、
 「すまない、待たせてしまったね。」
 と低く渋みのある声色で、それでいて穏やかな口調で言って、おれの名前を呼んで、
 「蓮太郎君。さあ、こちらへ。」
 と奥の別室へ案内して行った。襟を正すその姿には老練なる気品が滲み出ていて、つい見惚れてしまうほどだった。その隣にはこれまたれいの制服姿の少女が控え、おれに目を合わせて軽く会釈してくれた。艶やかな緑髪を流した、自信に満ちあふれた大きな瞳や華奢な体つきが光る、なんとも生命力に溢れた女性だろうか。まるで、光背を纏い優しく微笑みかける観音さまだ。偶像だ。彼女の胸元からくびれにかけて大きく曲線を描いている輪郭線もまた、小柄ながらにして非常に女性的な魅力を際立たせている。
 
 「――さて、蓮太郎くん。」
 久方振りの同世代の女子との邂逅に心躍らせる少年の動悸を無碍にして握りつぶすように、かの老人は、その渋みのある声で、如何にもといった重苦しい語りを始める。
 「改めて、私の名は大賀美玄章(おおがみげんしょう)という。今回のご両親のこと、重ねてお悔み申し上げる。さて、君の父上とは十年来の付き合いがあってね、‥‥‥」
 ハァ、と蓮太郎は嘆息した。此方から問いかけてもいないのに父との想い出話が長々と始まったかと思えば、次は遺産相続がどうのこうのとか、保証人をどうのこうのとか、云々。下らない、子供は無力だ。そんなことはどうでもよいのだ。おれにとって気になるのは――。

 老人はハッとしてそれに気付いたようで、どうも長話をして済まなかったいうように軽く咳払いしてみせ、少女へと視線を委ねる。
 
 「――はじめまして、蓮太郎くん。あたしは大賀美沙知。こちらのおじい様の孫だ。高校一年生だから、キミより一つお姉さんだね。それと、今回のこと、改めてお悔やみ申し上げます。」

 「あ、どうも‥‥‥。」
 少年は気まずそうに頭を下げてきた沙知につられて深くお辞儀を返した。花盛りの年上少女の所作一つ一つは実に丁寧で美しく、彼女の育ちの良さを感じさせるものだった。蓮太郎少年はまじまじと見つめてくる沙知から思わず目を逸らす。幽かながら不思議な動悸が打って来た。然しどうしてか彼は、唇をぎゅっと噛んだ後、
 「でも、お姉さんからお悔みを言って貰う筋合はありませんよ――。」
 と不愛想に言い放ってしまった。ああ、やってしまった、と言下に思った。自分では成る丈平静を装っているつもりではあったが、どうにも心は疲れているようで、つい荒んだ一言が零れてしまった。照れ隠しにもなっていない、唯だの暴言だ。おのれの人間恐怖は、それは以前にまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕動していた。
 
 「あはは‥‥‥。まあうん、そうだよねぃ。あたしたち、ひいひいおじいさんが同じで、むかし、小さい時に一度だけ会ったことあるらしいけど。ほとんど、他人みたいなものだよねぃ‥‥‥。」
 沙知は然も済まなさそうに眉を寄せて笑った。申し訳ないのは此方のほうだ、ほんとうに申し訳ない。忸怩として冷汗を催される感じがする。
 見かねた老人がもう一度咳払いをして場の雰囲気を変えた。今度は毅然とした態度だ。
 
 「――きょう君に話しておきたいのは、ほかでもない、君自身の今後の進退についてだ。蓮太郎君、私は君の親代わりとして、君を養育する義務があると考えているんだ。」
 それにも虚しく、少年はハァ、とまた嘆息してしまった。親知らぬ少年に、親になることを申し出るとは。両親を見て思う。実の我が子以外に無償の愛を注ぐなどと、馬鹿げている。そもそも果たして、この人たちと〈家族〉としてうまくやっていけるのだろうか?実感がまったく湧かない。卑しく歪んでしまった蓮太郎の性根には、この老人の真意――或いは真心を読み解くための心の余裕がなかった。
 
 「蓮太郎君。君には何か、やりたいこと、将来の夢、なんでもいい。私たちにこれをこうしてほしいとか、何か、そういった希望はあるかね。」
 この少年への哀れみからだろうか、だが、それは違うだろう。老人が少年を見る目は、我が子に向けるそれとはどこか違うように思える――この老人にもこんな新鮮な〈少年〉の眼がどうして残っていたのだろう……。それが再び彼にぼんやりとした不安を強めた。或いは、なにか、後悔のようなものからなのかと、どうしても思案を巡らしてしまう。勿論彼とて、この申し出が有難いことなのだと察せないほどの薄情になったわけではない。でも、苦しい。たとえおれの将来を心配してくれるのならば嬉しいけれど、いまのおれには踏み込んで欲しくない。気遣ってくれるその想いでさえも心を刺す。少年は、冷め果てた夢の後味の悪さ、虚しさ、重苦しさに、ついて行けなくなっていた。欠伸がしたくなるのであった。むしろもはや夜道をひとり歩きたかった。いまは安らかな孤独のみが欲しかった。
 
 「ううん。」
 と蓮太郎は急に悄気たように、それでいてはっきりとかぶりを振った。いま唯だ確信できるのは、おれには居場所が無いということ。平凡な、あたたかく、そして静かな憩いの巣。おれにはそんな、帰るところがないのだ。孤児、みなしご。なんという不名誉な称号!おれはいままで、孤児というものを心のどこかで軽蔑していたかもしれない。おのれの息子すらまともに顧みない親が、懇ろに世話を焼く見知らぬ孤児達というのは、いったいぜんたいどれほどの価値があるものなのだろう。世界が違う、人種が違うものだとばかり思っていたが、あにはからんや、おれの額にもはっきり〈可哀そうな子供たち〉の焼鏝が押されてしまった。エェー、新入でござんす、よろしくお願い致します。
 
 「――わかりません。これからおれは、どうすればいいんでしょうか。」
 少年は弱弱しく不安げな心中を吐露した。

5

 金沢から鶴来街道を南方へ暫く進むと白山市に至る。天下に聞こえし名峰・白山を有する山岳地域はいつ見ても心を揺さぶるものがあり、街道沿いに修験者や旅人が集まったことも妙に納得ができるものだ。いざ市域に踏み出すと眼前には巍峨として聳える白山連峰の霊威が愈々目睫の間に迫り、見上げて遠い空に白山が独り雲の褥を幾枚か重ねて端然と坐っているのもまた美しい。冬の初めだが低地にはまだ積雪はなく、まだ山々の紅葉も散り散りに残っていると見え、加州鶴来町から手取川の本流に沿って霊峰白山に登る道は夕霧と緑の中に隠見していた。鶴来から白峰まで十里、そこから手取川に沿って三里半行くと白山温泉、温泉から湯の谷と柳谷との両深谷に挟まれた長峰を一直線に東すること三里半で、海抜七千六百尺の弥陀ヶ原高原に達する。弥陀ヶ原から五葉坂を登ると御前平で、更に一千一尺、雲際に突入する御前岳の頂上に白山神社の本社が鎮座していると聞く。いつか、この足で踏破してみたい。
 鶴来町そのものもよく昔の風致をとどめていて、その家並は忘れ難い。逍遥していると鍛冶屋の仕事が眼に付き、色々の農具を作っているようだが、刃物によいものを見かける。或いは振り返って市域北側を見てみると手取川の豪胆な扇状地が拡がり、白山比咩神社の近くで谷が急に開けたかと思うと平野の風景へと一変する。集落の三方を川の流れが廻り、古ぼけた瓦屋根の家々が、道から段登りになって、斜面をけずり石垣で組みあげた狭っくるしい地面に、固くしがみつくように建つ。そんな独特の島集落を形成して日本海へと注いでいくのも、また一見の価値があると思う。
 
 そんな手取川の近くに所在する、大賀美家。蓮太郎は大賀美家に招かれ、この地で暫く居候することとなった。大賀美家に着いた夕方は寒かった。駅から家までの車の上で自分の息が見知らぬ町の暗闇の中に、白く立昇ったことをいまでも夢のように覚えている。或いはおれは引っ越してくるまで知らなかったが、大賀美家は何某衛門という加州随一の旧家であって、母屋には狭い部屋がひとつもなかった。どの部屋からも一陣の突風が吹き起りそうな広さがあった。かくして彼はその日から大賀美家の一室を借り受けることになり、実に豪邸といった威風のある寓居に最初は戸惑っていた覚えはあるのだが、引っ越しが終るまでの忙しない日々のことはあまり詳らかには思い出せない。寝所から聞こえる、威勢よく流れる手取川の水音だけが、その日々の記憶として鮮やかに残っている。
 
 「お茶とコーヒー、どっちがいい?」
 冷たい小雨の降る土曜日の昼下がり。全寮制の高校から幾日ばかり帰省した沙知に誘われて、大賀美家のリビングで言葉を交わす。沙知と対面して言葉を交わすのは二度目だったが、通夜の場では表情もどこか暗いものだったため、年頃で洒落た印象を受ける可愛らしい私服姿も相まってか、彼女の印象を以前会った時とはがらりと変えている気がする。
 
 「それじゃあ、お言葉に甘えてホットコーヒーをいただけますか。ブラックで。」
 「うぃー。」
 蓮太郎は沙知に促されるるままにソファーへと腰掛ける。リビングには見事な調度品があちこちに飾られていて、やはり旧家といった壮麗さを彼方此方に感ぜられる。おれのような庶民には落ち着かなく映ってしょうがない。
 
 「あいよ、あったかいものどうぞ。」
 蓮太郎は会釈してそのコーヒーを受け取りながら彼女のことを眼で追った。こうして対座して腰を下ろした、美人な親戚のお姉さん――大賀美沙知さんに対してどう振る舞えばいいのか、おれはまだ判断しかねていた。微妙な距離感と曖昧な関係性を与えられてしまったことは勿論だが、おれにとって彼女は、依然としてあまりにも遠い存在で、こうして同じ空間に居ること自体が不思議なくらいであった。
 
 「ここでの生活には慣れたかい?」
 「ええと、まあ、なんとか。」
 「そっかそっか。ならよかった。」
 「‥‥‥。」
 「‥‥‥。」
 お互いの手札を探り合うような雑談からは自然と沈黙が生まれる。家族団欒の空間に似付かわしくない、良くも悪くも他人行儀な作法がこの静寂に気まずさを助長している。おれは身動きの取れないまま苦いコーヒーを啜り続けた。コップはもう空になった。耐えきれずに口火を切ったのは沙知の方からだった。
 
 「あー、コーヒーおかわりするよね?あと確か茶菓子と‥‥‥煎餅も棚にあったはず。あー、いいのいいの、遠慮しないで。」
 「あっ、すみませんわざわざ‥‥‥ありがとうございます。」
 沙知はにへらと笑いながら再び立ち上がり、そそくさとキッチンへ引き返していく。蓮太郎は気を遣われたことで一層そわそわした。彼女はおれになにか話したいことがあってこの場を設けたはずだ。でもおれは彼女のことを何も知らないし、彼女もおれのことなんて何も知らないはず。彼女がおれに対して好意的に接しようとしている雰囲気はあるが、それはほんとうに〈家族〉としてなのか、それとも打算的な、――少なくともはっきりとしているのは、蓮太郎は男で、沙知が女だということだけ。
 遂にはおれも居た堪れなくなり、単刀直入に彼女を問いただすこととした。
 
 「えっと、沙知さん。それで、何かきょうは、話というのは――。」
 また沈黙が流れる。今度は先ほどよりも長い沈黙だったかもしれない。程なくして沙知さんが茶菓子とコーヒーを持って戻って来て、再び対座したところでようやく彼女が口を開いた。舌に広がる苦味はむしろ思考を鈍化させる。沙知は人のいい微笑を口のはたに浮かべて、
 「おじい様が女子高の理事長やってるっていう話は聞いてるよね?そうそう、あたしが通ってる高校――私立蓮ノ空女学院。今年で創立一〇一周年。芸術・文化に秀でた高校として北陸ではそれなりに有名でね?美術部とか書道部とか、吹奏楽とかは全国大会常連なんだぜぃ。あたしもね、スクールアイドルクラブっていう部活に所属してるんだけど、歌って、踊って、あとは作詞作曲もしたり。いろいろやってるんだぜ~。」と言う。
 ハァ、と不愛想な相槌を打ちながら沙知の出方を窺う蓮太郎。他愛もない学校生活の話に始まりそのクラブの先輩との想い出話など、話題の取っ掛かりとしては悪くない平静な語りが続いたが、捻くれた継子根性の彼は唯だ、沙知の真意を測りかねることに内心焦りを覚えていた。その様子を見透かしたかどうかはわからないが、彼女は一呼吸間を置いて空気を整えてから、一変して、真剣な眼差しと、声色で、少年に問いかけた。
 
 「あたしはキミに、頼みたいことがあるんだ。来年の四月からだ。この蓮ノ空女学院に、一人の女子生徒として、入学してくれないだろうか。」

 「――――は?」
 
 蓮太郎は絶句した。あまりにも突拍子のない提案に、彼の甲高い素っ頓狂な声だけが中空に響いた。返事にもならぬ返事だけは応じた少年は、崩れた口元を立て直す暇もない。唇に薄ら笑みを帯びたのは、半ば無意識に現われたる、心の波を手持無沙汰に草書に崩したまでであって、崩したものの尽きんとする間際に、崩すべき第二の波の来ぬのを煩っていた折であるから、渡りに船の「は?」は心安く咽喉を滑り出ただけだ。然しその戸惑いも織り込み済みだと言わんばかりに、彼女は相変わらず澄み切った声で夢物語を囁くように――その白痴染みた妄想を諳んじ始めた。
 
 「端的に説明すると、蓮ノ空女学院には廃校の危機が迫っている。一年後二年後すぐにって訳じゃあないんだけど、必ず、近いうちに直面する深刻な問題なんだ。たとえば、これ。直近十年の入学者定員と志望者数。見てもらえばわかると思うけど、最近はずっと定員割れの状況。厳格な規律だとか生徒の自主性だとか、芸術分野に秀でているとかなんとか喧伝していてもね、こうして内側から覗いてみると見栄ばっかり張っててさ、実態はひどいもんさね。これが、蓮ノ空女学院の現状。」
 蓮太郎の理解が追いつく前に、沙知は畳み掛けるように言葉を紡いでいく。その語り口はどこか芝居がかったように大袈裟で、然しそれでいて流暢だった。窓の外からは冬の空気を引き締める雨音が僅かに聞こえてくる。
 
 「それでも勿論、唯だ座して死を待つという訳でもなくてね?理事長であるおじい様を中心に、学院の大人たちがあの手この手で解決を模索しているところなんだ。たとえば‥‥‥そうだね、ちょうど先週終わったばかりなんだけど、学校説明会を、例年よりも予算をかけて広報してみたり。実は、来年度から学費が上がることになってたり。或いは考えられるのが――〈共学化〉という選択肢。」
 蓮太郎は間抜け面のまま女の声に耳を傾ける。柔和な微笑みを崩さない彼女の口から出る一言一句一切に熱が籠っていることが伝わってくる。妖しげな魅力がある。
 
 「まあ、強いて言えば、時代の流れってやつだろうねぃ。環境的に、蓮ノ空にとって〈共学化〉の問題はいつかどこかで浮上する問題だったんだ。それでも、百年続く男子禁制の伝統と風土。飛び切り難しい問題なのは間違いないけど、まあ、出血の無い改革なんてものはないさ。」
 沙知さんは徐に立ち上あがったかと思えばおれの隣に腰掛け、その指先まで麗しい手を重ね合わせて来た。少年は俄然として我に返る。
 
 「だとしても、だ。あたしは、大賀美家の人間として、そして、一人の蓮ノ空女学院の生徒として。先輩方の大切な想いを受け継いできたこの学校を、どんな形であれ守りたい。だからキミには、共学化に向けた第一歩として――」
 「おれに〈少女〉という道化を演じろ、と。」
 そう、道化だ。
 「そう。正確には、キミには女の子として高校生活を過ごす中で、男の子の目線から、共学化のために必要な情報収集と改善提案をして欲しい。学院を運営する大人達には‥‥‥これもそうだね、所謂〈規制派〉と〈容認派〉っていうのがあってね?両者が緩やかな対立している状況なんだ。蓮ノ空の生徒は、従来通りその静かな環境で女学生らしい感性を育むべきだという派閥が、前者。時代の流れを尊重して、生徒の自主的な部活動や新たな制度の導入に寛容な派閥が、後者。共学化はその容認派が推し進めたい公約なんだけど、畢竟あたしとしては、この共学化こそが蓮ノ空存続のための唯一の手掛かりだと思ってる。キミには容認派の、切り札になって欲しい。勿論、おじい様の了解は得てある。」
 蓮太郎は背筋から冷たい戦慄が走り抜けるのを感じた。御伽噺でも夢物語でもない、これは悪夢だという直感。あの爺、好々爺ぶった厚顔に本性を隠していやがった、老獪な!矢張信用ならない大人。かといって、おれは大賀美家の術中に易々と嵌るつもりは毛頭無かった。沙知さんの華奢な手をやんわりと振り払い、そしてきっぱりと反撃する。
 
 「ねぇ沙知さん、自分が何を言ってるのかほんとうにわかってますか。ハッキリ言ってしどろもどろです。風が吹けば桶屋が儲かるみたいな話だ。」
 意識してなくても自然鯱硬張っていたおれの頬は更に更に硬直する。蓮太郎は自分の言葉に虚偽も真実も区別は無かった。彼は自分自身を突き放していた。突き放すことを自覚する満足だけでよかった。
 
 「いやあ、御尤もさねぇ。確かに、誰もやったことのない、雲を掴むような話だねぃ。でもこれは、キミにしか頼めないことなんだ。蓮太郎。」 
 舌鋒鋭い指摘を飛ばしたつもりだったが、彼女は曖昧な笑みを口許に湛えたままその飄々とした勢いをも崩さない。恐ろしい女だ、とも思った。沙知さんの硝子玉みたいな瞳に見つめられる度、おのれの中の何か大事なものが吸い取られるような錯覚を覚える。少年にはその感覚が厭だった。その目を直視しないように視線を彷徨わせる。万策尽きたと謂う感が、洋々たる大河の流れに彷彿とした緩やかさで、流れぬこともないのである。それでも蓮太郎は虚ろな眼のまま、少し語気を強めて反論を続ける。
 
 「これが喪中の、ほぼ初対面の親戚に言う台詞ですか。おれには、いま、なにも無いんですよ。それにおれは、良きサマリア人を演じることができるような器じゃない。」
 これは少年が人生において獲得した最大の智慧である。道化のはたてに、出る杭は叩き潰されるだけなのだ。沙知の真摯な眼差しを一身に受けても、少年の心は然し怏々として晴れなかった。彼の黒ずんだ虹彩だけが炯々と鈍く煌いていた。
 
 「なにも無い、は強い言い方だな。蓮太郎はこうして、あたしと、言葉を交わしている。それだけで十分じゃないか。それだけでも、――まあ、だからね?あたしだって、キミに無理強いをするつもりは無いのさ。蓮太郎が若し、大賀美家の人間として、普通の男子高校生としての生活を送りたいというのなら!あたしからおじい様に、代わりの選択肢がないか頼み込んでみるよ。」
 それでも沙知さんの眼光に甘さはなかった。眼光紙背に徹していた蓮太郎は、むしろその強い炯々たる眼差しに射竦められて言葉を失った。未だに沙知さんの真意が掴めず右往左往するばかりだが――おれはたぶん、続く言葉を待ちわびていたのだ。
 
 「――それにね、もしかしたら、キミの望むものも手に入るかもしれない。」
 
 言霊を載せた鈴の音色が響き、そして一瞬間、息の詰まるような気がした。おい、何をわかった風を吹かせていやがる。おれの、望むものなんて――そんなものは、この世あらざるものだ。世迷い言でしかない。苟もおのれが一番欲しかったものの正体を、おれは知らない。おれの、望むものなんて――。喉が震える。声が掠れる。息が苦しい。おれは、もう何も望んじゃいない。望んだものは決して手に入らない。青春の虚しさを知ってしまったのだ。望まないものが手に入るだけだ。それでも尚、望みたいものがあるとすれば――。
 口を噤んでいる蓮太郎の隣で、やがて沙知は何か良案を思いついたかのように手を打つと、ゆっくりと口を開いた。
 
 「それじゃあさ、取引をしよう、蓮太郎。お互いにね、いきなり信用を得ようって謂うのはやっぱり難しいからねぃ。キミはあたしの願いを、ふたつ叶える。その代わりにあたしは、キミの願いを、ふたつ叶える。」
 窓の外では冬の憂鬱な雨が止み、空は再び碧瑠璃に晴れ渡ろうとしていた。
 「あたしのお願いはこれだ。一つ目は、キミに女の子として、蓮ノ空女学院に入学してほしい。そして二つ目は、あたしと一緒に、学院の一員として、或いはスクールアイドルクラブの一員として、未来の学院存続のために闘って欲しい。ね、シンプルでしょ?」
 少女は滔々と語った。
 
 「蓮太郎。キミの願いは、なんだい。」
 「おれ、は……」
 
 少年の心に、得体の知れぬ期待の気持ちが湧き、明白な、それでいて不思議な動悸が脈打つ。目頭も燃え尽きるほどまで熱くなってゆくのを感じる。掌を痛くなるほど強く握り締める。俯きながら奥歯を噛み締め、口の中で鉄の味が広がるのを感じた。耐え難い人間恐怖の蠕動。怒りのためでも悲しみのためでもない、これは、迷いのため――遠い親戚といっても結局は赤の他人、いつ捨てられるかなんて知れたことだ。いままでと、同じように。でも、若し、沙知さんがほんとうにおれを、ほんとうに必要としてくれるなら――おれは、彼女の役に立ちたい。疑念はどうしても拭えない。でも、愛のために生きたい。感情が渦巻く。ああ、これが最後で構わない、もう一回だけ、誰かを信じてみたい――。
 焼け爛れるような記憶と未来とをその心臓に感じながら、少年は口を震わせた。
 
 「おれに、居場所をください。帰るべき場所を、愛すべき家族をください。もう一つは‥‥‥すみません、いまはまだ、わからないです。」 

 少年は遠慮がちに項垂れた。本心からの願い事が漏れた。天帝を煩わせるほどでもない、お袖に縋るほどの、原初的で、素朴な、愛の欲求。少年の飾り気のない率直な物言いに、少女も心を通わせる。
 
 「そっか。ありがとう、蓮太郎。キミの思いを伝えてくれて。うん、もう一つの願い事は、いつか聞かせてくれたら大丈夫だ。そう、あたしは蓮太郎のお姉さんだからね!ばーんと万事、お姉ちゃんに任せなさいな!‥‥‥大切なのは、キミ自身の気持ちだから。キミの気持ちは、キミが最初に見つけてあげなくちゃ。ゆっくりでも大丈夫だよ。」
 沙知さんはおれの頭を優しく撫でてくれた。どこか懐かしいぬくもりが全身に伝わる。純粋な慈愛に満ちた、柔らかで繊細な掌の感触を先ほどよりずっと感じられる。彼女の子守歌のように穏やかで心地良い声に、蓮太郎は無意識のうちに耳を傾けてしまっていた。甘く蕩けるような肌触りの声。あたたかい、母のような――。
 
 「実はあたしもね、小中高までずっと女子高育ちでね?正直、共学化した蓮ノ空がいったいぜんたいどうなるかなんて、皆目見当も付かない。男の子とこんなにじっくりお喋りするのなんて、もしかしたら初めてかもしれないし。あはは‥‥‥。」
 沙知はしみじみと微笑みながら続けたが、その声に僅かな湿り気が含まれているのを蓮太郎は敏感に感じ取った。彼女が抱く真摯な想いは真実で、それに迫るほど切実に思えた。おれと同じように何かを切望しているようでもあったし、或いは、何かを恐れているようだったかも知れない。人知れぬ寂寥感に駆られた瞳が涙を堪えているようにも思え、おれは不覚にもどきりとした。
 
 「大賀美家のひとり娘だから、理事長の孫だからって、真っ直ぐに敷かれたレールに乗せられてずっと生きてきた。でもね、そんな中で、キミと出会ったんだよ。喪中に相応しくないことを言うようだけれど、あたしは、これが、新しい日々の始まりなんだと思った。キミとふたりでなら、できると思った。男と女が、手を取り合う。独りじゃできないことを、ふたりで叶える。そうするとね、ほら――遠くに行けるでしょ?まだ見たことないものや、会ったことのない人に出会える。あたしはさ、そうやって生きてみたいんだ。」
 沙知さんらしいニッカリとした笑顔がおれの双眸を満たす。素敵な理想だなあと、実直に関心させられた。歴史上のどんな詩人にも劣らぬような、情熱の高いイデアをもち、不断のロマンチックな夢に憧れて、常に純一な主観を高調しているその気質、きらいじゃない。むしろ、大好きだ。
 
 ――人間の悲惨を知らずように、神をのみ知ることは、傲慢を惹き起す。これはたしかパスカルの言葉だったと思うが、おれは今まで、自分の悲惨を認識したくなかったのかも知れない。唯だ神仏の星だけを知っていた。あの星を、ほしいと思っていた。人間の業だ、一足飛びが過ぎたのだ。それではいつか必ず、幻滅の苦杯を嘗めるわけだ。人間の、みじめさ。食べる事ばかり考えている。人間なんて、どんな良い事を言ったってだめだ。どんな時代でも、恋が破れ、貞操が失われ、血が流れ、義人が殺され、善人が迫害される。大抵はロマンチックの冒険と怪奇によって宗教感のセンチメントを高調させるだけで終わってしまう。でも、どんなにじたばたしたって、それだけでは始まらない。無残にも仮面が剝がされた少年は、姉なる少女の、琥珀色に近い深みのある黄色の瞳に深く見据えられた。彼女が希求する実直な夢は、おれにはまだ眩しすぎるかもしれない。それでも、おれは、漸く、誰かのために必要とされるような生き方ができるのだろうか。ああ、これが、現実なのだ。ごまかし様がない。いつも明日のパンのことを心配しながらキリストについて歩いていた弟子達だって、遂には聖者になれたのだ。いいじゃないか、おれの努力も、これからは全然、新規蒔直しだ。ちくしょー、やってやる!
 徐に少年の水彩世界が色めき出し、その炯眼は遂に灯された。気付かぬうちに雨は止んでおり、雲の切れ間から冬晴れの陽光が射し込んできた。おれは太陽を見たいと思った。空が見たいのではなく、そう、太陽を見たいのだ!
 
 少年の決意の光を確かに認めた沙知は、窓を眺めながらすっと呟いた。
 「――ねえ、蓮太郎。散歩にでも行こうか。」

6

 「あたしはさ、この、雨が止む時間が一番好きなんだよねぃ。」
 
 大賀美姉弟は家を出て川沿いの遊歩道を逍遥していた。おれは沙知さんから斜め半歩下がったところで、彼女の穏やかな呼吸に自分の呼吸を合わせながら、その鈴を振るような声に耳を澄ましていた。白く染まった吐息に確かな季節の訪れを感じる。人間に気候の影響は甚だ大きい。おれは葦編三絶に親しんできた理知の言葉と同じ程度に、気候の言葉を自分の理に聞きがちだ。気候の言葉が人間の理に生きる限り、我われの理知は郷愁を否定することができないだろうと夙に思った。人間は気候の前ではいつも弱小なのだ。全て見慣れぬこの風景の中に懐かしさを感じてしまうのも、きっと、そのせいだ。
 
 「ね?閑静でしょう。」
 「そうですかね。金沢以外は石川県内、どこもかしこもこんな具合じゃないですか。」
 「あはは、それはそうだ。あたしたちの蓮ノ空もね、一応は金沢市内にあるんだけど山奥にあってさ~。しかもそこで寮生活とくる!自然豊かな環境で鋭敏な感性を育みなさい!っていうのもさ、勿論一理あることはよくよくわかるんだけどねぃ。やっぱり、窮屈な時もあるよね~。」

 沙知さんはケラケラと然もおかし気に笑った。飄々とした快活さに彼女元来の性格を垣間見た気がして、少し嬉しくなる。小さいけど、大きな人だなと思った。少女の白いコートがふんわりと風に舞い、その裾が少年の手に触れる。冷ややかな灰色の空の千切れる狭間からは青藍色の西日が覗き込んでいた。――成る程、金沢の暗澹たる雪空をのがれ、太陽を求めて東京へ馬車を急がせた西田幾多郎は、然しおれにはどうも、恐らく太陽を異国の空のものとして求めたとは思われなかった。雪国の暗い郷愁の裏側にはいつも明るい太陽があるのだ。しばし雪国に忘れられた太陽は、その忘れられたが故によつて、実は雪国の所有物足りうるのだろう。おれが共に育った、雪国に土着する素朴な農夫たちの話に耳を傾けると、彼らの最も待ち遠いのは暖かな春の訪れで、長い冬が終り、はじめて青空が光りはじめた爽やかな日の歓喜は忘れることのできないと謂う。まだ根の堅い白皚々の雪原へ飛び出し、青空に向かって叫びたいような激しい思いに駆られながら、飛び回らずに居られないと謂うのである。沙知さんの笑顔は、太陽みたいだ――。
 
 冷え冷えとした空気が張り詰める川辺では子供達が元気いっぱいに遊んでいる。その誰か叫び声をあげると仲間をひとり加え、その誰かを中心にして三、四人の子供またが集まって来て、忽ちに小さな人の渦が出来てしまう。半袖短パンで実に元気なことだ。少彦名命の御子神も斯くやあらんと謂うばかりの快活さ!水辺に目を遣ると、晩秋の透明感を増した光の中にネリネが二輪だけ植えられていて、その隣には霜降る秋には紅潮し伸び放題となっていたであろう帚木が枯れて項垂れ、そのみすぼらしい姿を雪景色の中に隠すことを待ちわびていた。 
 「――数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さにあるにもあらず消ゆる帚木。」
 「源氏だねぃ。」
 おれの独り言に反応してくれた。
 「ご存じですか、沙知さん。」
 「まあねぃ。むかし、源氏香をやらされたことがあってね、その時に。あれを覚えるのはなかなか大変だったね~。でもね蓮太郎。この歌ほど思い詰める必要は、さらさらないからね!」
 がははと豪快な笑いをしながらぱんぱんと蓮太郎の背中を叩く沙知。健康な少女の、屈託のない笑顔はいいものだ。こうして同年代の女の子の笑顔を面として受けるのも、くだらない雑談で笑えるのも、思えば何時ぶりであろう。
 
 「ねね、蓮太郎。なにか趣味とか、好きなことってある?思い返せばあたしたち、碌な自己紹介もしてないし。教えて教えて!」
 「そうですね‥‥‥読書は、好きです。あとは得意という程ではないですが、裁縫と料理を少々。」
 「へー、いいじゃん!女の子っぽくて!きっと蓮ノ空でも役に立つぜぃ。」
 沙知は仰々しく腰に手を当てる。
 「なにか役に立てば良いんですけど。よくわかっていないですが、その、スクールアイドルクラブの活動とやらにとっても。」
 「まあ、そうだね。でもね蓮太郎、気張る必要はないんだ。‥‥‥あたしは思うんだけどさ、案外、自分の好きっていう気持ちは、思ったより周りの人に伝わるものじゃないかな。あたしはね、キミの胸の内に、なにか強い気持ちが眠っているように見えたんだ。いまにも飛び出したくてうずうずしている、そんな気持ちが。」
 そうして沙知さんは悪戯っぽい微笑みの中で少し妖艶に口角を吊り上げると、キラキラした瞳でおれを見つめてくる。沙知さんは、おれの気持ちをそのまますらすら言ってくれる。おれには、とてもこんなに正確に言えない。全く、この人には敵わない。
 然しその蘊蓄も御尤もで、何事につけても「二番目が読書です」式では人生花も実もない。造った物は壊れる。人間は死ぬ。色即是空。これじゃあ出家遁世する以外に方便が無くなってしまう。「おい小僧。何になりたい。」「王様になりたい。」これでは花も実もないというよりも、個性がないというべきだ。煎じつめればそういうものであっても、人間には個性というものがあって、その特別の限界の中で諸条件に相応した独自のものがなければならぬ。我われの人生は、死ねば白骨となるものではなく、生きてるうちが花の人生だ。蓮太郎のようなのは、利口そうに見えるだけの馬鹿と評すべきだろう。
 
 「そういう沙知さんは、なにか好きなことはありますか。」 
 「そうだねぃ。いまはやっぱり、スクールアイドル、かな。‥‥‥あ、そうだ!ねね、蓮太郎。せっかくだし、一曲聴いてもらえないかな?」
 沙知がまた突拍子もないことを言いながら、スカートの裾を翻して蓮太郎に向き直った。
 「スクールアイドルについては明日改めて詳細を説明するつもりだけど、悉く書を信ずるは則ち書無きに如かず、ってね。蓮太郎のためだけに、心を込めて歌うから‥‥‥ね?」
 今度は妖艶な微笑みを湛えて蓮太郎をじっと覗き込む沙知。その笑みの中に深い意味が秘められてでもいるかのような気がして、なんとなく、その場に相応しい台詞を口に出すのがはばかられたので、少年は頬をやや上気させながら頷くばかりであった。その様子を双眸に認めた沙知は一度深く目を閉じると、すっと甘い息を吸い込んだ。
 
 ♪「~~~~~~」
 
 世界の時間が止まったような、感覚。少女の歌声は冬空の透明な大気に吸はれ、清く澄んでいった。その歌い手の姿は、まるで遊ぶ天女ででもあるかのように、雪原に浮び上り、その光と影を従えながら舞い狂っているかのような情景を想起せずにはいられなかった。立ち尽くしたおれを何処かへ招くかのように、彼女の記憶の中の喜怒哀楽とを織りまぜたようなその人間の歌声は――それは紛れもない大和撫子の声であったが――益々調子を高く張りいよいよ間近に聴こえて来た。恰も魔法使いに魅せられたたおれは、その音の聴こえてくる来る方へ、唯だスルスルと歩いて行った。
 
  ♪「~~~~~~」
 
 歌声と共にゆっくりと進んでゆく。それは愛らしく切なく、美しく哀しくあり、どこか人目を忍ぶ悲恋のような内憂を隠していた。あとからあとから押しよせてくる感情、四方八方悉くの情景は大海にそそぐ川のように、一人の少女が奏でるメロディで埋め尽くされた。歌声は空にも地にも満ち溢れ、この心地好いアルトの音がおれ一人に向けられている事実を想うと胸が一杯になってしまう。いや、実際、この歌声に詞は要らないのだ。
 
 「――ご清聴ありがとうございました。」
 
 美しい声に聞き惚れ居ると、沙知が振り向いてお辞儀をした。おれは、この歌声が好きだ。少年はその感覚に名を与えることができなかったが、それが彼の中で燻る情熱となりつつあることは解っていた。刹那、一対の白鳥が、優雅な弧を描きながら水面を滑り、静かな波紋を残した。そしておれが相好を崩す隙もなく彼女は更に歩を進めて行った。おれも慌てて彼女の後を追った。川縁は深閑とし、少年と少女は大自然に抱かれた常世にぽっかりと浮いていた。
 蓮太郎少年は頬を上気させながら、静かなる昂奮をなんとか表現しようと努めた。
 
 「姉さん、さっきの歌、ほんとうに素敵でした。姉さんの歌声は、とても綺麗で、確かな時間の流れが込められていて。姉さんのスクールアイドルへの情熱というのも、なんとなくわかった気がします。兎角、姉さんの歌声を聴くことができて、ほんとうに良かった。」
 結局は陳腐な言葉しか紡ぐことができず、更には彼女自身に倣ってつい姉さんなどと卑近な言葉が出てしまった。然し、ふたりにはそういう安堵がわかるのである。特にひどく落付いた、まるで故郷であるかのような、安堵を感じる思いがする。おれが口をだすことはない、誰が口をだしてもならぬ。奇妙な宿縁が自然二人を結び付けてくれるに相違ないと思うのだった。
 
 「お、おお、ありがとう‥‥‥。あはは、さすがに照れちゃうねぃ。ここまで力いっぱい褒められること、あんまりないから……。あー、そういう蓮太郎は、歌はどう?得意な方?」
 妙に照れくさくなって来たのだろうか、沙知は話頭を転じた。
 「すみません、ダメダメ一番星です‥‥‥。」
 それ以上に少年は恥ずかしそうに肩を竦めた。そう、おれは小学校の頃から唱歌はどうも苦手で、どうやら満足に歌えるのは「君が代」唯だ一つくらいしかなかった。或いは、かねがねあまりに自分が歌が下手なので、思いあまって、丘の上のお諏訪さんの前でひそかに歌の修行をしていた程であったが、結局はどうにもならずその道を諦めてしまったのだ。
 
 「あっはっは。そうかそうか。キミにスクールアイドルとして舞台に立ってほしい、までは強制しないさ。謂わばマネージャーみたいな立ち位置で、あたしたちスクールアイドルの活動をサポートしてくれるなら嬉しい。詳しくは明日、じっくりと説明してしんぜよう!」
 そういうおれの素朴な感傷を、沙知さんはれいの如く、憎たらしいまでに飄々とはにかみながら受けとめてくれた。さて〈スクールアイドル〉‥‥‥か。あの人間不信からの病み上がりであるから、眼前に見据えるこの少女の心持を知悉することは甚しい難事であることは自覚していたが、それでもこの人と、――沙知さんと一緒に、やってみたい。確かな胸の高ぶりを感じるのであった。
 
 ふと振り返れば山々のはだけた肩が青白い艶めかしさを湛えており、色素欠乏症の月光の如く無邪気な白粉で化粧を試みていた。さて、かの白山は小柄な姫神である。いずれの御代であろうか、彼女は富士の山と高さ競べをして、勝負をつけるため樋を渡して水を通してみると、白山が少し低いために水は加賀の方へ流れ出ようとした。それを見ていた白山方の人間が、急いで自分の草鞋をぬいで、それを樋の端にあてがったところが、それでちょうど双方が平になった。それ故に今でも白山に登る者は必ず片方の草鞋を山の上に、脱いで置いて帰らねばならぬのだというそうな。
 雨上がりの冬の冷気を切り裂くように、ぴゅうっと西風が吹きこんで来た。その風がひゅうひゅう鳴る名も知らぬ並木を、凸凹なふたりは静かに見上げていた。蓮太郎はそっと、沙知の可憐な横顔を窺ってみた。
 
 「風が、少し寒くなって来ましたね。家へ引き返しましょうか。」
 「そうだねぃ。」と彼女は優しく首肯いた。
 蓮太郎はしんみりした気持ちで沙知の後について川沿いを歩いた。なにか、このひとが、自分のほんとうの姉のような気がして来た。近くの松林から松籟が起った。
 「ああ。」と沙知は振りかえって、
 「インスピレーションが降りてきた!松の枝を吹く風の音で、この散歩も完成されたねぃ。ひとつ、大事なものを見落していたんだ。」
 沙知の顔は、また、変わった。微塵も邪気のない顔だった。そのほかには、あらゆる感情が表れていない。あどけなさがあるだけだった。
 
 「キミの名前だよ、蓮太郎。蓮ノ空女学院に通う女の子としての、キミの名前。」
 「おれの名前、ですか――。」

 蓮太郎の胸がどきんとした。愈々自分が女になるということを初めて意識したのである。おのれが〈女子高生〉として生きていくというイメージをまったく思い浮かべることはできなかったが、唯だ、大賀美沙知という少女の存在が、彼の人生に大きな可能性を灯していることは実感している。それだけでいまは充分であった。
 
 「――〈百合亜〉。大賀美百合亜、キミの名前だ。どうどう?可愛いでしょ!」

 白と緑。その二色の光彩が眩くおれの眼を焼いた。この人の純粋な瞳の輝きに魅入られていたのだ。極光と謂う言葉がふと頭に浮んだ。小此内蓮太郎から、大賀美百合亜へ――はっきりしないけれども、自分の胸に深くしみこんで来るような名前だった。
 少年は少し戸惑いながらも、彼女の提案を静かに受け入れ、沙知がすっと差し出した右手を取る。その白い指はささくれ一つ無く綺麗に手入れされていた。姉さんについていきたいと、思った。そしておれの手を彼女の掌が捉えるのである。彼女はまた、にひりと笑った。
 
 「それじゃあ行こうか、百合亜!あたしたちで、この学校を救いに!」

7

 翌日。蓮太郎は沙知の部屋で坐し、彼女による講義に有難く耳を傾けていた。
 
 「さて。蓮ノ空に入学するっていうことは、キミは女子高に相応しい〈女の子〉として振舞わないといけない。蓮ノ空は――これは自分で言うのもイヤなんだけど、所謂〈お嬢様校〉ってやつだからさ、お洒落に化粧は勿論、多少の礼儀作法も必要になってくるわけさね。」
 そんな真剣な話題の中に相好を崩そうとしない少女の語気。ご機嫌の様子である。
 
 「蟹股で歩くとか、肩ぶつけるとか、そういうやつですか。」
 「それは、共学の高校だろうとふつうにマナー違反じゃないかな。」
 沙知は苦笑しながら答えた。
 「ほんとうに、女装なんかして、年頃過敏な女子達にバレないものでしょうか。」
 少年の無垢な表情は、彼の内面の葛藤と相俟ってやや切なさを加えていた。
 「それは蓮太郎の頑張り次第じゃないかい?」
 そんなことはないよと言わんばかりに沙知さんからフォローが入る――というよりは活を入れられてしまった。いや、姉さんの言い分は矢張御尤もで、おれとしても言ってみただけのことだ。つまり、おれは、不器用で、頭がわるいのである。おれはあの日々、教室で坐りこみながら眼の前をぞろぞろしているクラスメイトの流れをよく眺めていたが、はじめのうちは堪忍できなかった。こんなに沢山の人間が居るのに、誰もおれに留意しない、誰もおれを必要としてくれない、そう思うと、――いや、そう盛んに合槌打つ必要はない、はじめからおれはおのれ自身の気持ちをわかって言っているのだ。けれどもいまのおれなら、そんなことぐらい平気なはずだ。却って快感かも知れない。枕のしたを清水がさらさら流れているようで。諦めじゃないのだ、悠々自適な王侯の歓びである。
 
 「まあ、こうしてあたしたち、共犯者になったんだから。全力でサポートさせてもらうさ!安心してお姉さんを頼り給えよ!」 
 「共犯者。」
 沙知は悪戯が成功した子供みたいな無邪気な笑いを浮かべている。
 「というわけでだ。まずはこれ、どうかな。いってみようか!」
 沙知さんはばばん!と効果音付きで女性ものの服を差し出してきた。白を基調としたブレザーにチェック柄のプリーツスカート、胸元のリボンがワンポイント。敢えて確認するまでもない、これを着なさいという強い意志の表明であろう。赤褐色のウィッグまで持ってきた!ハイテンションお姉さんは用意周到だ。
 
 反論の余地を許さない眼差しに促されて着替えてしまった蓮太郎少年――いや、少女百合亜。年頃のお姉さんが見定めてくるようにおれをまじまじと見つめてくる。流石に、恥ずかしい。
 そして少年も、鏡に映る初めて目にする、見慣れた女の立ち姿――百合亜を見つめる。いや、どうしておれの顔は、こんなに、らっきょうのように、単純なのだろう。眉間に皺を寄せて、複雑な顔を作ろうと思うのだが、ピリピリッと皺が寄ったかと思うと、すぐに消える。口を、ヘの字形に曲げて、鼻の両側に深い皺を作りたいのだが、どうも、うまく行かない。顔が小さすぎるのかも知れない。曲がらないで、とがるのである。口を、どんなに、とがらせたって、陰影のある顔にはならない。馬鹿に見えるだけである。昨年の一番荒れていた頃には、髪の毛をぼうぼうと生やして、さながら山賊の如き物凄い形相をして、知己の小坊主に「君の顔はアウグスト・ストリンドベルグに似ているね」などと言われて良い気になっていたものだが、さてそんな厳かな衣裳を借りてみると、その薄汚いパルチザン式の容貌ではどうにも映りが悪いものに思われて仕方が無くなり、当日の帰り道に床屋へ行って長く伸びた髪を適当に刈って貰い、下町の若旦那といった風に綺麗に分けたことがある。兎角これが滑稽なのは、外見を変えただけでは他人からの態度が変わるものではなかった、ということだが。
 生まれたばかりの少女は、鏡の前でうじうじと身体を悶えさせながら姉へ助けを求めた。
 
 「どうですか、沙知さん。似合っていますか。」
 「うーん、そうだねぃ‥‥‥。ぷっ、ふふふっ!あっははははは!」
 頬に手を当てて考える素振りを見せていたのも、一瞬。研ぎ澄まされた彼女の視線は、刹那、氷山が一挙として崩れるかのように溶けだしていった。
 「いやいや、ごめんごめん!馬鹿にしてるわけじゃなくってね、本気でかわいいなぁって思っちゃってさ。もともと睫毛が長いのもかわいいし、パッチリ二重なのもかわいい‥‥‥ぷっ!あははは!」
 おれは流石に鞠躬如として身を屈めた。頬が一層紅潮していく。
 「いやはや、うんうん、いいねぃ!」
 引き続き我が姉は、女装した弟の胸、肩、背中の筋肉を触っては、うーむと唸っている。少年に未体験の動悸が脈打つ。そしてまたぱんぱん。いやむしろ、蓮太郎の反応を楽しんでいるのではないかとさえ思えた。然しそんな只中で、彼は、心の奥底で、沙知に騙される喜びを空想していた。蓮太郎自身も沙知を、そしておのれ自身を騙し得る役者の一人でありたいと希った。所詮は、偉大な役者では有り得ないかもしれない。唯だ公園の鋪道の隅の小さな噴水であり得たら。おれは、何か、甲斐性のある男ならば決してしないようなことをしたくなった。
 
 「まま。女の子の立ち居振る舞いについてはゆっくり身に付けてもらうとして。」
 おれは不可解な鼓動を静めながら百合亜の格好のまま縮こまり、生返事をしながら沙知さんの次の言葉を待った。

 「あたしが所属している部活――蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブと、そして、スクールアイドルについて。キミには話しておこうと思う。」
 そうして上目遣いにおれと視線を交した。彼女は微かに紅潮した頬を弛ませながら仄かな笑みを浮かべ、言葉を紡いでいった。
 
 「スクールアイドルは、不完全でも熱を持ったみんなで作る芸術。あたしたちみたいな普通の女の子が、部活動としてアイドル活動をしているんだ。自分たちで曲を、衣装を、舞台を作って、ステージの上で歌に想いを乗せて届ける。観る者すべてを輝かせる。それがスクールアイドル。」
 「そんなスクールアイドル活動が、おれたちの今後の目的――将来的な廃校回避の為にも繋がってくる、と。」
 「そそ。廃校を回避するためのスクールアイドル活動っていうのも、実は強ち夢物語でもなくてね?〈ラブライブ!〉――謂わばスクールアイドルの全国大会があるんだけど、十年ちょっと前、このラブライブ!で優勝して、廃校間近だった母校を救った伝説のユニットがいるんだ。近年知名度を高めつつある、このスクールアイドル活動で名を上げて、同時に学校への注目を集めていこう。そういう算段ってわけなのさ。」
 今度の沙知は眉ひとつ動かさず真剣な面持ちのままじっと見据えてくるので、蓮太郎は気圧されて二の句が継げなかった。

 蓮太郎は当時、俗世のメディアや芸術作品に関して殆ど関心を示していなかった。近頃は演劇も映画もアニメーションも一夜作りの安物ばかりで、宛ら文化は夜の街の暗さと共に昭和時代へ逆戻り。蚊取線香は蚊が落ちず、マッチには火がつかない。非売のよく効く薬も心までは満たしてくれない。然し、これは商人のやること。芸は違う。板に立つ人間にはカタギがあって、権門富貴も屈する能わず、芸道一途の良心に生きるが故に、芸をも自らをも高くするはずだ。芸は蚊取線香と違う。けれども、昨今の日本文化は全く蚊の落ちない蚊取線香だ。どんなヤクザな仕事でも請ける。二昔前の使い回しの喜劇悲劇でも大入り満員だというので、演劇も映画もアニメーションも最早明治の壮士芝居である。職人芸人の良心などは糞喰らえ、影も留めていない。文化の破局、地獄である。日頃からそういうものばかり読んでいると、知らず識らず流行り廃りを気にするようになり、次第料簡がコセついて来てしまうのが恐ろしい。そんな感懐を抱いて久しかった。

 「――なるほど。でも沙知さん、昨日の沙知さんの歌声は凄く綺麗だったけど、おれ、やっぱり全然スクールアイドルのこと知らないですが。どうしたらいいですか。」
 おれは自然乗り気ではなかったからか、つい気怠げな返事をしてしまった。
 「キミはそう言うだろうと思って、たくさん持ってきた!一緒に見ようぜぃ、伝説のスクールアイドル達の輝かしい奇蹟を!」
 再びばばん!と言いながら取り出したのはスクールアイドル関連の映像媒体やら書籍やらの数々。ハイテンションお姉さんは、ほんとうに用意周到だ。
 
 こういった経緯から、半ば手段と目的双方に強制される勢いのまま、おれは初めてスクールアイドルのライブ映像なるものを観たのであるが、実にそれは甚だしく退屈極まるものであった一方、これくらい独得なものは現世現代に二つとない、なんとも珍無類な作品であるとすぐさま確信した。岸田國士だったか、学校劇は大体に於いてその鼓吹者が信じているような、芸術的・学術的欲求から生まれたものではなく、寧ろそれとは反対な卑俗極まる趣味の発露に過ぎないと断じていたようだが、〈スクールアイドル〉なる概念存在は、古今東西一切の既出の芸術論に当て嵌まらないものに思えて仕方がなかったのだ。凡そ世界の音楽乃至芸術を通じて、人間の創造的努力が、これほど犠牲的に、ある完成のために捧げられ、「常識美」の極致を徐々に、無意識に築き上げた例は存在しないのではないか。その点、芸術的なもの或いは感情的なものと、個人的なもの或いは天才的なものとを、その中で区別することは甚だ困難なのである。我われ青春を生きる少年少女達の審美的価値は、権威主義に迎合した大人に如何に評価されようと、その半面に於ける時間的反動性を指摘して、青春の煌めき一瞬一瞬に何らかの慰藉と鞭撻とを与え得ることを、大声に叫ばなければならないのである。この珍奇な芸術種目に心奪われ、沙知が隣で「いやぁ、いいねぃ。」としっとりとした感懐に浸っている真隣で、蓮太郎――或いは百合亜は、危く涙を落しそうになった。
 世界の時間が止まったような、感覚。真に神韻漂渺とした、未知なる音楽の世界。この裂帛の気魄は、如何。芸術作品において〈本質〉と謂うものは〈必要〉ではあるが、それだけで〈十分〉なものではないだろう。従って〈本質〉を他の部分から遊離して考えることは不可能となるが、要するに、ひとつの作品の魅力は、芸術的価値は、評論家気取りの個々人がそう単純に決められるものではない。全体的に優劣を定め得られる甲乙の作品が、或る一点では却って反対な価値批判を与え得る場合が少なくないなど、いろいろな点で特色を示しているものだ。たとえば、ラシーヌの数多の名作の中で、最も傑れた作品と定評のある『フェードル』は、或る一点、唯だその一点のみで、普通第四位または第五位に置かれる『ベレニス』に劣っていると簡単に評価し得るのである。その一点とは、ニュアンスに富む文体の快き諧調である。渾然たる韻律の美である。この見解は、或いは幾分おれの趣味の問題に触れているかもわからない。しかし『ベレニス』の真価が、その一点で、芸術の本質と結びつけられる時、謂わば〈本質主義者〉は『フェードル』を選ぶ前に『ベレニス』に一層の演出欲を感じるに違いない。
 今日の芸術作品が面白くないと謂うことを頻りに主張する人びとが居る。その賛同者の一員が昨日までの蓮太郎である。何故面白くないかという理由を種々挙げているのを改めて精査してみると、然しどれも、その根本を突いていない憾みがある。或いは脚本が文学的すぎるとか、スペクタクル的要素が欠けているとか、ヒロインの性格が気に食わないとか、社会性が乏しいとか、職業的演技が禍いしているとか、その他、幾分は穿ち得た見方をしているのであるが、それならば、仮に今日我が眼前に颯爽と登場したスクールアイドルがそれらの条件を悉く具えた一つの方向を取り得たとしても、如何なる芸術の魅力を予想し得るであろうか?おれは、直ちにはその解答を得なかったが、恐らくは、スクールアイドルの本質はそこには無い。兎角、結局のところは、新しいスクールアイドルは新しい芸術の精神を要求し、新しい音楽の生命は、それによってはじめて、少女たちをステージの上で煌めかせることに役立つ訳だ。どんなに芸術家の白痴の虚栄を満足させるに終始する議論であろうとも、その本質を、おれは、あたしは、知りたい――。
 
 「姉さん、このDVD、借りてもいいですか。」
 「‥‥‥!ああ、勿論だとも!何度もリピートして見てくれ!」
 沙知は目を附けて百合亜の瞳を見詰めた。かの少女の眸は地に憩うかの如く、深く、曇りなく澄み渡っていた。
 
 以降三ヶ月間の我が道程について、仔細を語るのは避けようと思う。結論だけ端的に語ると、おれは〈努力〉を体得するに至ったのである。まずはスクールアイドルの何たるかを知るため、貪るように、聴いた、観た、学んだ。そして沙知さんが明くる日から寮生活に戻った後も、深夜に書を読み学に従う場合の如き、更に夜闌けて時移って、漸く眠気を催して来るに際して、意を奮い志を励まして、肯って、眠らず、道化の仮面を一から成形し直し、愛すべき家族からの期待に応えようと全力を尽くした。勿論、女子高生を演じるためのさまざまな修練も欠かさなかった。
 
 「ほぉれ、いくぞぉ!うりゃぁぁぁああ!」
 「痛い痛い痛い!脛毛ぇ、脛毛がぁ、ガムテープでぇぇええ!?」
 百合亜の脛毛をガムテープで勢いよく引きちぎる沙知。
 
 「スカート!?いくら剃ったところで流石に素足を出すのは、男として、危ないのでは、ないでしょうか!?」
 「制服はワンピーススタイルだし、運動服なら足見せちゃうこともあるぜ!まあまあ、ニーハイ履いとけば大丈夫だって!ほらほら、いまのうちに慣れておかないと!」
 足元のセクシーな衣装を代わる代わる着せられている百合亜。
 
 「うーん。初めて化粧やったんですが、こんな感じですかね?」
 「‥‥‥あはは!能面みたいになってる!」
 どぎつい口紅と濃すぎるファンデーションで婆臭さを越えた珍妙さを醸し出している百合亜。
 
 「姉さん。ウィッグ、髪は、こんな感じで‥‥‥どうでしょう?」
 「‥‥‥ぃよし!結構いい感じだ!それじゃあ、お洒落の最後に、はい、これ。姉さんからのプレゼントだ。」
 自分とお揃いの、ピンクと黄色ふたつの髪留めをプレゼントする沙知。
 
 「キミがメモをとっていたノートも、結構な厚さになってるねぃ。」
 「あぁ、これですか。」
 小さいノートを重ねたもの。それがいまでは分厚くなっている。
 「何を学んで何を演じるようになったか、ひとつひとつ覚えとかないと、嘘ってつき続けられないと思って。小さいノートくっつけまくってたら、こんなになってました。‥‥‥」
 
 おれは産み落とされてから今日まで、この現世の誰の為にも、なんの為にも、役に立っていない。すべて自己満足である。正義はない。道理もない。人真似であったかも知れない。未だ十五歳である。青二歳である。未だ世間を知らぬと言われても致し方が無い。なにも、無い。誇るべきものなにも無いのである。たった一つ、芥子粒ほどのプライドだけがある。それは、おれが馬鹿であるということ。まったく無益な、路傍の苦労ばかり、それも自ら求めて十五年間、転輾して来たということである。けれども、また、考えてみると、それは蓮太郎少年が、これから少女百合亜になる為には、ちっとも必要なことではなかった。無駄な苦労は、避け得られたら、それは避けたほうがよいのである。何事も、聡明に越したことはない。けれども、おれは、よほど頭がわるく、それにまた身のほど知らぬ自惚もあり、人の制止も聞かばこそ、なに大丈夫、大丈夫だと匹夫の勇、泳げもせぬのに深潭に飛び込み、たちまち、あっぷあっぷ、眼もあてられぬ有様であった。
 然し、今回は、違う。人間を信じて始めたことだ。沙知さんの為、蓮ノ空女学院の為、人助けの為の道化なのだ、と。蓋しこれもまだ微妙な思想かも知れない。尤もこれに較べると、従来の我が自己中心的な愛の命題なんて、話にもなんにもならぬくらいに単純でつまらないものだと気付くことができた。おっちょこちょいの、出しゃばりだった。反省、反省。「道化もって正義を為せ!」いいモットーが出来たじゃないか。紙に書いて、壁に張って置こうかしら。ああ、いけねぇ、すぐそれだ。「人に顕さんとて、」壁に張ろうとしている。おれは矢張、ひどい偽善者なのかも知れない。よくよく気を付けなければならぬ。まあ、高校生までの間に人格が決定されるという説もある事だ。ほんとうに、いまは大事な時なのである。
 
 曳かれものの小唄という言葉がある。痩馬に乗せられ刑場へ曳かれて行く死刑囚が、それでも自分のおちぶれを見せまいと、いかにも気楽そうに馬上で低吟する小唄の謂いであって、ばかばかしい負け惜しみを嘲う言葉のようであるが、どうせ人生なんかも、そんなものじゃないのか。早いところ、身のまわりの倫理の問題から話をすすめてみる。おれが言わなければ誰も言わないだろうから、おれが次のような当たり前のことを言い放っても、なんやら英雄の言葉のように響くかも知れないが、第一におれはおのれの両親が嫌いである。生みの親で、而もいまは故人であるが、やはり好きになれなかった。無関心。これゆえにたまらない。第二におれは、四谷怪談の伊右衛門に同情を持つ者であるということを言わなければならない。まったく、女房の髪が抜け、顔一面腫れあがって膿が流れ、おまけにちんば、それで朝から晩までめそめそ泣きつかれていた日には、伊右衛門でなくても、蚊帳を質にいれて遊びに出かけたくなるだろうと思う。次におれは、友情と金銭の相互関係について、次におれは社交辞令の挨拶について、次におれは学校教育について、幾らでも言えるのであるが、いますぐ大賀美家を追放されるのは矢張イヤであるからこの辺で止す。つまりおれには〈自分〉が無い――或いは喪った、ということを言いたいのである。
 いや、はじめから、そんなものはなかったのだろう。鞭影への恐怖、言い換えれば、世の中から爪弾きされはせぬかという懸念、孤独への憎悪、そんなものを少年は良心の呵責と呼んで落ちついていたようである。自己保存の本能なら、馬車馬にも番犬にもあるじゃないか。ほんとうにつまらない、道化の想い出であった。けれども、こんな日常倫理のうえの判り切った出鱈目を、知らぬ顔して踏襲して行くのが、また世の中の懐かしいところ。血気にはやって馬鹿な真似をするなよ、と知己の小坊主が以前おれを諫めたことがある。いや、と、蓮太郎は気を取り直して心のなかで呟く。おれは新しい倫理を樹立するのだ。美と叡智とを規準にした新しい倫理を創るのだ。美しいもの、怜悧なるものは、すべて正しいに違いない。醜と愚鈍とは死刑である。そうして立ちあがったところで、さて、蓮太郎少年には何が出来たか?殺人、放火、強姦、身を震わせてそれらへ憧れても、なにひとつできなかった。立ちあがって、尻餅ついたどころか、危うくなにもかも失いかけた。小坊主は、また現われて、諦念と怠惰のよさを説く。そろそろと私の狂乱がはじまる。なんでもよい、人のやるなと言うことを計算なく行う。きりきり舞って舞って舞い狂って、はては自殺と入院である。そうして、おれの「小唄」もこの直後から始まるようである。曳かれもの、身は痩馬にゆだねて、呑気に鼻歌を歌う。「あたしは神の継子。ものごとを未解決のままで神の裁断に任せることを嫌います。なにもかも自分で割り切ってしまいたいのです。神はなにひとつあたしに手伝わなかった。あたしは霊感を信じません。知性の職人、懐疑の名人。態と下手くそに書いてみたりわざと面白くなく書いてみたり、神を恐れぬ寄る辺無きみなし子。判り切っているほど判っているのです。ああ、ここから見下ろすと、皆愚かで薄汚いではありませんか。」などと賑やかなことであるが、おや、地獄はすぐもうそこに見えている。扨てはそうして「この男も、創造しつつ、痛ましく、勇ましく、没落して行くにちがいない。」とツァラトゥストラがのこのこ出て来て要らざる註釈を一個と附け加えたようだ――。
 
 さあ、それでは聞いてください、天に召します我らが主よ、地に倒立する父よ、母よ。おれは、ぜったいに堕落しません。必ず世に打ち勝ちます。愛すべき家族からの期待に応えてみせます。いまに、うんと地獄のあなた方をも喜ばせてあげます。さようなら。愛よ、希望よ、歓びよ、記憶よ。みんな、さようなら。泣かずに、あたしの首途を笑って祝福しておくれ。 
 さらば。

8

… 
……

 第一〇二期蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ結成の日、田鼠化して鶉と為る春の日。春はものの句になり易き金沢の町を、浅野川から犀川まで南北に貫ぬいて、煙る柳の間から、温き水打つ白き布を、外濠内濠の磧に数え尽くして、迷路の如くうねる小路を抜け、おおかた数里余りも登って来たら、山は自ずから左右に逼って、麗しき女学生たちの学門へと至る。眼下に奔る潺湲の響きも、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴っている。山に入りて春はやや更けたるに覚えるを、かの深き白山の峰を極めたならばこの春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる尾根の裾を長く長く縫って、暗き陰に走る部室棟の一条に、爪上りなる向こうから少女が来る。少年が来る。金沢の春は花霞の尽きざるほどに、静かかつ暖かである。
 
 「――こほん!えー、それでは諸君!改めて、蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブについて説明しよう!」
 沙知の声が一瞬の静寂を切り裂いた。
 「スクールアイドルは、不完全でも熱を持ったみんなで作る芸術。あたしたちみたいな普通の女の子が、部活動としてアイドル活動をしているんだ。自分たちで曲を、衣装を、舞台を作って、ステージの上で歌に想いを乗せて届ける。見るものすべてを輝かせる。それがスクールアイドル。」
 あたしはそれを聞きつつ、自身の積み重ねたノートの一冊を開いていた。履修済みの内容の復習、そして今日からは実践編。沙知さんは部員一人一人の目をしっかり見て話すから、あたしも彼女から目を離さずには居られなかった。
 
 「はい、ここでクイズです!そんなあたしたちスクールアイドルにとって、大事なものが三つあります。わかる人!」
 すかさず手を挙げる梢。あたしは梢ちゃんの気持ちを汲み取って敢えて手を挙げなかった。
 「はい、乙宗ちゃんどうぞ!」
 沙知さんがビシッと場を取り仕切る。
 「はい。歌に、ダンスに、それに‥‥‥表情、でしょうか。」梢の口から紡ぎ出される言葉は滑らかでわかり易かった。
 「はい正解!歌に、ダンスに、表情。この三つ全部大事だかんね!歌が下手じゃお話にもなんないし、ダンスのキレも悪きゃ見向きもされない。表情だってそう。笑顔は勿論大事だけど、それだけじゃあぜんぜんダメ。ぜんぶ、バランスよく鍛えていく。たとえへたっぴでもね、演者なりの熱意を、観てくれる人たち全員に伝えなきゃ、応援だってして貰えない。」
 沙知さんはそう言って、スクールアイドルの心得を語り出しホワイトボードに書いていった。部室には配信用の設備やモニター、何の資料が格納されているのかも知れない大量のファイル、それに沙知さんが手入れしているであろう花瓶などが整然と置かれている。むしろ、あたしたち一〇二期生の私物が無いからだろうか、妙に日常感が無いというか、初めて友達の家に上げてもらったようにそわそわする心地だ。
 
 「そして、その三つすべての支柱となるのは、ズバリ!体力だ!そう、す・な・わ・ち!まずは、練習あるのみだ~!」
 「え~?いきなり練習なんていやですよ~先輩。もっと可愛いいこと、女子高生らしいことしましょうよ~♡」  
 めぐちゃんはお道化ていた。
 「っ、藤島さん!あなたね!そんなことで、伝統ある蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブの一員としてやっていけると思っているの!」
 「ゆり、お菓子ちょうだい。」
 「うん。夕霧ちゃん、ちょっと待ってね――」
 開会劈頭から紛糾してしまった様子を看取した百合亜はおずおずと沙知に目配せする。然し彼女は飛ばした目配せのやりとりを交わすことなく、急にさし招くような上目睥みに変った。果たしてあの溌剌とした声があたしの耳にも響き渡る。
 
 「そう!そこだよ藤島ちゃん!スクールアイドルとは、如何におのれを鍛え、カッコよく、可愛く魅せるか。そう、メンタル!精神面!自分との戦いなのだよ!乙宗ちゃんも、ほら、笑わないと!笑顔だよ笑顔!」
 沙知は部室のホワイトボードにカツカツと掌を当てながらそう言った。その言葉と眼差しどちらにも気魄が籠っている。いやはや姉さん、流石。あたしの配慮は完全に杞憂だったのぜ‥‥‥!めぐちゃんは誰よりも自分自身の〈カワイイ〉に拘りのある女の子なのだ。その一点を突いてしまえば、口では依然姦しく駄々を捏ねるかもしれないが、負けず嫌いの彼女が努力のための腰を上げない訳が無い。梢ちゃんもしゅんとしてしまった、――いや、待てよ、これ、あたしのフォロー要らないのでは。いけない、なんとか姉さんの役に立たなくては!
 あたしに噴出した一抹の不安を他所に、沙知さんは毅然として話し続ける。
 
 「それ以外にも、スクールアイドルはなんでもやらなきゃいけないんだぜ。練習して、配信して、ステージに立てばいいだけじゃない。衣装作り、作詞に作曲、ステージ製作、それに練習場所の確保、ステージの利用交渉、各関係者との調整なんかも、ぜーんぶ!あたしたちスクールアイドル自身が手作りでやるんだぜぃ!」
 「お~。すごいね。」
 綴理はどこか他人事のように相槌を打つ。
 「ささ、楽しみながら頑張っていこうぜ、諸君。もっと上手くなりたいという気持ち、もっと可愛くなりたいという気持ち、素敵なライブをしたいという気持ち、そして、スクールアイドルに為りたいという気持ち。そういった気持ちも、いつかみんなで共有できるようになるさ。そのために今できることは、そう、練習あるのみ、だぜぃ!」

 「はい!!」「はい!」
 百合亜の他人を窺っていがちな返事を打ち消すかの如く、梢の力強い返事だけが鳴る。くそっ、もう少し意気込まないとダメか‥‥‥!あたしがおのれの役割を果たすためには第一に、このクラブに自ずから必要とされなければならないのだが、現状鑑みて最大のライバルは、もしかしたら彼女なのかも知れない。あたしの出る幕を悉く奪うだろう、オールマイティー熱血お嬢様。恐るべし。
 
 あたしは反撃に出るつもりで仲間を呼んだ。
 「――よし!夕霧ちゃん、あたしたちも行こう!お菓子は練習終わったら食べようね。ほら、着替えよう着替えよう。めぐちゃんも、行くよ!」
 「?は~い。ゆり、いこ。」
 「‥‥‥は~い☆」
 
 なんやかんやあって、あたしたちは学校指定のジャージに着替え。部室棟の隅にある小さな音楽室に再集合。窓越しに夕陽が差し込み、空気中の幽かな埃をオレンジ色に染めていた。もう西日であった。

 「――蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブには、ユニットの名前や曲、それに衣装。さまざまなものが、伝統として受け継がれているんだ。こうしていまもね、蓮ノ空というだけで応援してくれる人が多いのは、そのためだ。」
 音楽室でも沙知部長によるレッスンが続く。音楽室から覗く景色は、この金沢市を、見渡す限りの緑の山に思わせる。まだ桜花爛漫の頃であろうというのに、ぽつりぽつりとしか山桜が見えない。遠くの谷間で、炭焼きの煙がゆったりと広がっている。
 
 「我ら蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブは、数十年前の〈芸学部〉の時代からね、伝統的に三つのユニットに分かれて活動しているんだ。そのユニットとは‥‥‥わかる人挙手!」
 今度は梢ちゃんに機先を制すべく、あたしは勢いよく手を中空へと伸ばした。来た、絶好のアピールタイム到来だ。
 「はい百合亜どうぞ!」
 意中のバトンを渡してくれた。
 「こほん。‥‥‥ひとつ、〈スリーブブーケ〉。王道のアイドルソングを主軸にした、可愛らしい青春ソングで魅せていく桜桃色ユニット。ふたつ、〈DOLLCHESTRA〉。ダンスパフォーマンスとお洒落でカッコイイ楽曲で魅せるクール系ユニット。みっつ、〈みらくらぱーく!〉。観客側も一緒に盛り上がる、ポップでキャッチーな楽曲で魅せる楽しさ満点ユニット。」

 「お~。そうなんだ。」
 夕霧ちゃんからほわほわした拍手を頂戴した。あたしは満足げに大きく頷いた後めぐちゃんに視線を向けたが、彼女は意地悪げにニタリと笑っているだけだ。そして梢ちゃんは、なにか思うところでもあるのか険しい顔であたしの話を聞いていたようだ。え、あたし間違ったこと言ったかい?なあ、わかんねえよ女子。

 沙知さんは「はーいありがとう」と簡単な謝意を述べた後、話を続けた。
 「さて、キミたちにとって最初の舞台は、四月末のFes×LIVEになるわけだが。そのライブまでに、キミたち”三人”にはどのユニットの一員として今後活動していくのかを決めてもらう。そして、そのライブで披露する、各ユニットに受け継がれている伝統曲を練習してもらおうと思ってる。」
 
 「三人、ですか‥‥‥?」
 梢は深刻そうな表情で訝しんだ。
 「あれ?ゆりはスクールアイドルしないの?」
 沙知さんとめぐちゃんの視線が自然あたしに集まったことを察したからか、夕霧ちゃんは当該のマイナス一人分が〈大賀美百合亜〉であることを的確に見抜いたようであった。人の感情を見るに敏だぜ、夕霧ちゃん‥‥‥。「うん、そうだね。」と、対するあたしは何か曖昧な微笑を口元に泛べたまま、自分でも驚くくらいに明快な回答を陳述するのであった。
 大賀美百合亜は、スクールアイドルクラブに居ながら、スクールアイドルをしない――。その理由は単純明快だけれども、それを彼女に敢えて語らないというのも難しいし、然しこうして、実際に、そんな純粋な眼差しでもって見つめられてしまうと、殊更に心が痛むのである。説明しない他に無くなってしまうではないか!やむを得まい、あたしは予め用意していた次善の策を実行することとした。百合亜は大袈裟な身振りで苦笑した後やおら立ちあがって音楽室を見渡し、ピアノに体を預け、その哀しき理由を、吟遊詩人を演じるが如く詠唱し始めた。
 
 「あたしはね、歌えないんだよ‥‥‥。この中でピアノ弾ける人は‥‥‥梢ちゃんかな?一曲、お願いできるかい?」
 彼女は一層芝居がかった口調で梢に問いかけた。梢は一瞬戸惑ったようだったが「ええ。」と直ぐに了承してくれ、ピアノの前に坐って一本一本繊細なその指を鍵盤に乗せた。矢張予想通り、彼女は鍵盤の心得もあるようだ。梢の指先から流れ出す美しい調べは音楽室を包み込み、旋律は優しくもあり力強くもあり、あたしの心を掴んで離さない魅力がそこにあった。すごいな、と感心しながら、勿体無い程の至上の伴奏に合わせて、少女百合亜は伝説のスクールアイドルユニットの、あの名楽曲のサビ部分を、高らかに、滑らかに、力強く、歌ってみせた‥‥‥はずだった!
 然し、それは、歌ではなかった。ただ、その異質の声帯を震わせただけの、振動の塊。調子外れ。音痴。へたくそ。歌の節が一々変テコに脱線して、ほんとうの歌詞が頭に入ってこない。春陽差し込む音楽室の空気が凍りつく。微妙な静寂が少女らを包み込み、互いの吐息だけがはっきりと聞こえている。
 
 「「「「‥‥‥。」」」」

 彼女達は唯だ隼の空を搏つが如く互いにちらっと眸を動かしたのみであった。道化師はにやにやと笑っている。勝負はすでについた。舌を頭に飛ばして、泡吹く蟹と、烏鷺を争うは策の最も拙なきものである。風励鼓行して、やむなく城下の誓いを為さしむるは策の最も凡なるものである。蜜を含んで針を吹き、酒を強いて毒を盛るは策のいまだ至らざるものである。最上の戦には一語をも交うる事を許さない。拈華の一拶は遂に不言にしてまた不語。ただ躊躇する事刹那なるに、虚をうつ悪魔は、思うつぼに迷と書き、惑と書き、失われたる人の子、と書いて、すわと云う間に沈黙へと引き上げる。下界万丈の鬼火に、腥さき青燐を筆の穂に吹いて、会釈もなく描き出せる言の葉は、羞恥心をたわしにして洗っても容易くは消えないものだ。笑ったが最後、百合亜はこの笑を引き戻す訳には行くまい。さあ、笑い話にしよう。

 「‥‥‥くっ、だから歌いたくなかったんよ!」
 あたしは更に態とらしく頭を抱える仕草を演じ、悠然と頬を赤らめてみせた。然し、まあ、なんだ、おれは道化を全うするために〈努力〉を覚えたのであるが、人間の才能というものは如何ともし難く、生来の音感の鈍さだけは克服できなかった。ああ、矢張本心でも実に恥ずかしい。いづくんぞ好き好んでおのれの音痴などを披露しているのだろう、あたしは?少女達が見ているぞ。この後のソルフェージュ練習でもね、再び壊滅的な歌声を披露するだろうと思うと気が重いのだよ。加えておれは先日、ライブ後の高揚感に任せたまま彼女達に「スクールアイドルをやろう!」などと我儘に小勧誘したものであるから、その当の本人が舞台に立たないとは一体どういった了見か!そんな怒りに晒されても仕方がないのであるから、殊更居心地が悪かった。
 
 「ま、百合亜はむかしから兎に角不器用だったからね~。歌もそうだけど、中学の時のダンスの授業なんて、お人形さんが踊らされてるみたいで。あれは面白かったな~☆」
 幼馴染が素っ気ない口調で返してくれたのは内心有難かった。
 「めぐちゃん!?なにゆえそこで追い打ちを!?
‥‥‥いいぜぇ、告白しよう!JKの恥は搔き捨てとはここの理屈だ。聞き給え、いっぺんだけ大好きなスクールアイドルの曲を踊ってみたことがあったんだけどね、」と少女は急に当時を思い出したかのように、暫くは笑いがだらしなくその円い顔に止まらなかった。
 「音痴のくせに、健全な青少年のように大志を抱いてしまうとね、自分にもできるはずと思い込んだ挙句、赤んぼの足つきと同じやうにヨチヨチして、結局器用な動きなどはできないものですわ。あ、いま姉が笑ったね、あはは。あたしはこうして見ているだけで、応援するだけで、性に合ってるのさ。兎角、なんと言ったかね。みんなが煌めくためのサポートができるなら、それがあたしにとってのスクールアイドル活動だと思ってるよ。」

 百合亜ははっと言ってピタリと臀餅を撞くように椅子に座った。芸ごとというものは、変に小利巧で、目先がきいて、損得勘定に明るすぎるようだと大成しないものと思う。一徹で、人の言葉に耳をかたむけず、一人よがりに打ちこむような馬鹿なところがないと、本当に個性を生かした芸というものは育たない。あたしは馬鹿だが、実のところそれは馬鹿正直なのであって、馬鹿正直に不器用な男は、ステージの上で歌って踊るなんて到底できない。芸ごとを一歩引いたところから眺めて、評論家気取りにあれこれ指示出しする方が向いている。あたしには、たとえばなんでも出来そうなものではないのだ。おのれがほんとうに女子だったら、などという事なんて考えもしなかっただろう。いま、道化を演じているだけでも、女子達に囲まれているこの状況でさえも、充分に、しんどい。或いは未だ少年の心が残っているからには、その性に合わない、不向きな事でも、それが自分と彼女の目的に繋がるなら、何でもやってみなかれば損だと謂う料簡さえ働く。百合亜はこうした内省までは告白できないことを少し残念に思いながら、また一入自嘲してみせたのである。
 
 「――そういうわけですので!あたしは舞台には立たないけど、みんなが全力でスクールアイドル活動ができるよう、全力でサポートさせてもらいます!よろしくね~!」
 「まあ、人にはそれぞれのスクールアイドルがあるからねぃ。あたしは勿論、百合亜の意志を尊重するよ。」
 沙知さんの完璧なフォローが身に沁みる。でも、もう一押し必要だ。
 「あ!でもでも、料理と裁縫は得意だぜ!料理は兎も角、裁縫はきっと、衣装作りの時にお役立ちできると、思います!」
 百合亜はしどろもどろな理論の粗を指摘される前にすかさず話題を変え、おのれがクラブにとって有用な存在であることをやんわりと主張した。ああ、そうか、「スクールアイドル活動をしないスクールアイドル」というのも又一つの道化かも知れない。緊張の為だろうか、知らずのうちに手がじっとりと汗ばんで来ていてスカートの裾をぎゅっと握り込んでいた。嘘をつくのは、あまり、窮屈だ。‥‥‥その無垢な少女達の顔が近づけば近づくほど、夢の中にいるような、遠い気持ちが激しくなるのだ。夢にのみ知りうるところの、現実を鵜呑みにしている多彩な心が、彼女に生まれているのであった。この現実と慣れ合った気易さばかりが、すべてであった。予想通りの新鮮な心の誕生を見出して、彼女は自分を有頂天にするために益々拍車をかけているのだ。
 
 「――そうだねぃ。最初は伝統曲の衣装を合わせてもらうことになるだろうから。百合亜、その時はよろしく!」
 沙知の元気いっぱいなピースが音楽室の空気感を支配した。
 「百合亜さん、これから私たちのサポート、どうかよろしくね。」続けて梢は仄かな微笑を浮かべて話しかけてくれた。
 「はーい。お願いね、百合亜☆」
 慈は悪戯っぽくウィンク。
 「ゆり、頑張ってね。ボクたち、ちょっと手がかかるかもしれないけど、よろしくね。」
 夕霧ちゃんのくりっとした大きな目があたしを覗き込んでいて思わずどきっとしてしまったが、畢竟考えてみるとなかなか可笑しな言い回しだったので「それってどういう意味。」と百合亜は苦笑してみせながら、場を流そうと腐心する。

 「あ、そうだそうだ!梢ちゃん、ピアノめっちゃ上手だったね!‥‥‥」

 西日が小箱の口のように、たった一方に開いた縁側からさしこんで来た。力一杯に、西日は部屋の壁際まで照りつけるのだが、それだけ風もよく通ると見え、百合亜は珍しい心持で、暖かなキラキラした春の斜光を浴びて坐っていた。ふとダンヌンツィオという人が、自分の家の部屋を、青色と赤色に分って装飾しているという話を思い出した。ダンヌンツィオの主意は、生活の二大情調の発現は、この二色に外ならんという点に存するらしい。だからなんでも、興奮を要する部屋、即ち音楽室とか書斎とかいうものは、なるべく赤く塗り立てる。或いは寝室とか、休息室とか、凡そすべて精神の安静を要する所は青に近い色で飾り付をするというのが、心理学者の説を応用した、詩人の好奇心の満足に過ぎないと思っていた。百合亜はおのれの火照る頬と、耳元の汗を軽く拭う――赫耀する音楽室は、唯だ自意識過剩のみっともない顕れのようにも映った。
 
 「――おっけーおっけー!それじゃあ乙宗ちゃんはピアノ担当だね!いや~助かったよ!あたしピアノ弾けないからさ、もし鍵盤できる子入部しなかったらどうしようって内心焦ってたんだよねぃ。これから頼むぜぃ。」
 「ねね、梢ちゃん!よかったらもう一曲弾いてくれないかな!」
 あたしいつもの口調で言った。
 「百合亜は歌わないでね☆」
 「そう?ボクはよかったと思うけど。」
 「あなたたち、音楽室には練習に来たのよ。ちゃんと先輩の話を聞いて――」
 「うーん、それじゃあ今度はみんなで歌おっか!乙宗ちゃん、もう一曲だけお願い‥‥‥ね?」
 「沙知先輩まで‥‥‥!?はぁ、もう、わかりましたから。‥‥‥」
 
 ピアノは楽譜のとおりに弾いても楽譜のとおりの音の出ない楽器である。ピアノで或る曲を弾けば、その音は楽譜に書かれた音とはかなり違ったものになる。そしてそれは誰が弾いても同じこと。ピアノ演奏家に許される事は、ただ楽譜の不備を実際的に補い、感情を、想いを、言葉を乗せることだ。もし楽譜が改良されて作曲家の考えを数量的に書くようになれば、ピアノの演奏家には一切の独創という余地は無くなる。まったく機械と同じものになる。然し人間は機械ではない。愛の探究者である。事実、梢ちゃんの旋律には魂が宿っていて、あたしの心を揺さぶったのだから。

 百合亜は再度立ち上がり、手の汗をさり気なく拭いながら制服を整える。そして少し考えた素振りをして、大袈裟に肩を竦めてみせた。
 「自らの汗に溺れた者はいないさね――。」
 少女は誰にも聞こえない声で呟いた。

 ――ああ、やはりそれがおれにはできないのだ。ピアノを、弾く。音痴だとか、才能だとか、不器用だとか、そういった次元の話ではない。心、女、友情、愛、恐怖、‥‥‥そういった類の、独創。頬を軽く叩いて気合を入れる――大丈夫、あたしはちゃんと〈百合亜〉だ。ひどくおのれが抜け目ない男におもえる。いまは自分の冷酷が充分に信じられるようなその感じが快かった。彼は、熱心に冷血を希望していた。
 「――あはははっ!」
 少女百合亜の不恰好な哄笑が溌剌に響いた。
 
 音楽室からは、五人の少女の、不揃いな、生命力に溢れる、姦しい、幽玄なメロディーがしとしとと流れていた。れいによって西日は、もう音楽室の三分の一ぐらいのところまで、眩く躍りこんでいた。

9

… 
……

 
 春先になれば古い疵痕に痛みを覚える如く、軟かな風が面を吹いて廻ると胸の底に遠い記憶が甦えるものだ。放課後、早く来てしまった馴染みの部室。去る三月の蓮華祭の写真を眺めながら、あたしは独り憂愁に耽っていた。

 「まったく、とんでもない新入生たちがやってきたねぃ。藤島ちゃんは‥‥‥何か意味有り気な視線を感じるねぃ。乙宗ちゃんは‥‥‥ちょっとだけ真面目過ぎるかな。夕霧ちゃんは‥‥‥もっと話を聞いてみたいかな。あははは、言っちゃ失礼だけど、すごく手のかかりそうな後輩達だ。‥‥‥でも、とんでもない逸材が三人も。」
 歓喜と責任感が同時に込みあがって目頭が熱くなる。開き切ってしまいそうな暖かい春の陽が、広くはない部室の窓いっぱいに差し込んで、ふんわりと、リノリウムの上に日かげの縞目を描いていた。
 
 「先輩方が卒業されて。独りで部に残されたときは、ほんとうに不安だった。でも、彼が来てくれて、而も三人も、スクールアイドル志望者が来てくれた。ほんとうに嬉しかった。‥‥‥ねえ、先輩方もあたしが入部したとき、おんなじ気持ちだったのかな。」
 気付くと春の陽は風となった。それは丘の下のせっかちな夕靄の中から、微かにのぼって来て沙知の耳にとまった。清純な美しい物音。まるで春の陽ざしの中を飛んで来る蜜蜂の羽音のように。その小さい物音は、小さい生物のようだった。人の心に安らぎと幸福を分かち与えながら、あちらこちらへと飛んでゆく。
 
 「先輩方が懸命に残してくれた、あたしの大好きな、この蓮ノ空女学院と、このスクールアイドルクラブ。あたしは、きっと、後輩達に受け継いでいきます。だから、きっと、やさしく見守っていてください。勿論、彼のことも。れんたろ――」

 ――こんこんこん。古びたドアの鏡板が軽く鳴らされたかと思うと、部屋の戸をくぐって、がやがやと可愛い後輩達が元気よく入ってきた。

 「お疲れ様です、沙知先輩、本日も何卒宜しくお願い致します。」
 「さち、おつかれ~。」
 「ねぇ、沙知せんぱ~い、聞いてくださいよ~。さっきまた乙宗ちゃんがね~。」

 そして「おおい」と一人後れた少女は小走りにそのどっしりとした影を揺らしながら、先なる姉を呼んだ。おおいと言う声が白く光る廊下を、春風に送られながら、のそり閑と行き尽して突き当りの部室にぶつかった時、一丁先きに動いていた柔和な影ははたと留まった。朗らかな笑顔の少女は、なにが入っているのかわからない鞄をぱんぱんにして両手で抱えながら、よいしょとその鞄を置いてから、長い手を肩より高く伸してやれやれと二度ほど揺って見せる。今年の盛りは早くも過ぎたであろう桜花が暖かき日を受けて部室に舞い降り、またぴかりと肩の先に光ったと思う間もなく、少女達は帰って来たのだ。もし時刻が真昼なら、春の日光が裾野を照らし小鳥が歌い、花が笑い、夢を語らう恋人達が、楽しそうに歩いているだろう。
 
 「お疲れ様です、沙知さん。今日も、スクールアイドル活動頑張ろう!」

 そして、蓮太郎――いや、百合亜。キミと一緒に歩み出せるこの日々は、ほんとうに心強いんだよ。あたしの大切な家族。大切な後輩。大切な――。
 
 「ああ、こちらこそだ!これからもよろしくね、百合亜!」
 沙知はにひっと、お得意の笑顔で応えた。

天華恋墜 第二章:ふたつの約束 終


 藤紫一陣、夜桜舞う――。

天華恋墜 第三章:
藤色の感情にて

 続く。

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