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女として生きるということ『ナミビアの砂漠』感想
カンヌ国際映画祭「国際映画批評家連盟賞」受賞作として話題の日本映画、『ナミビアの砂漠』について感想を語っていきたいと思います。
ネタバレありで自由に語りたいと思うので、未鑑賞の方はなるべく鑑賞後に読まれることをおすすめします。
また、当たり前ですがこれは私個人の感想であり、一つの解釈に過ぎないことを何卒ご了承ください。
熱心な映画ファンではない私にとって、気になる気になると思って結局劇場で観ない作品も多くありますが、今回は『ペナルティループ』の荒木監督が本作について語っておられるという、このPodcastが聴きたくて急いで鑑賞しました。
前情報は「なんかカンヌで上映されたらしくて評判も良いらしい」ということのみで、予告さえ見ていない状態での鑑賞でした。
映像体験としての異質さ
Podcastを聴いた感想については他で書くとして、映画を観た自分自身の感想として真っ先に浮かぶのは、映像体験として異質であるということ。
それは冒頭の主人公カナの登場シーンから始まっている。
映画が始まってすぐ、映し出されるのは町田の駅前の風景の俯瞰。そこから急激にカメラが主人公にグングンと寄って行って、バケットハットをかぶりダボっとした緩い服を着たカナが歩いているのが映る。
この寄り方にまず普通の映画とは異なる雰囲気を感じる。まるで私たちが人混みの中からカナ一人を見出したような、急激なクローズアップ。
そしてその彼女がカバンから日焼け止めのチューブを取り出して、歩きながら首に日焼け止めを塗り始める。
歩きながら日焼け止めを塗る。ただそれだけのことではあるのだが、あなたは街中でこれをしている人を見たことがありますか。私は、ない。(やったことある人がいたらごめんなさい)
ともかく、この行為からカナの人間性を感じ取ったのは私だけではないと思う。その人物造形の手法の新しさにドキドキした。
その後の喫茶店のシーン。
友人の深刻な話を聞いているふりをしながらも、近くの席の男たちが話す「ノーパンしゃぶしゃぶ」の話に、(別に興味があるというわけでもないだろうに)気が行ってしまっている場面。
友人の声に被さるようにして、男たちの声のボリュームが異様に上がっていくのだ。
これには話の流れからして友人の話を聞こうとしていた観客の私たちでさえ、否が応でもそちらに注意が向いてしまう。まるで喫茶店内の話し声の層が見えるような、不気味な声の重なり。
冒頭のこの二つのシーンの演出だけでも、もうクラクラしてきませんか。
私自身それほど映画に詳しいわけでもないし、そんな私が「こんな映画見たことない」と言ったところで高が知れているのは重々承知なのですが、こんなのめちゃめちゃ新しいと思ったし、音楽で言うと中村佳穂の音楽に触れた時のような、新しい地平が見えたような感覚があった。
親切なので中村佳穂誰やねんという方のためにリンクを貼っておきますね。
カナと共に映画の世界を彷徨う観客たち
その後も目新しい演出に目を見張る展開が続くと思うでしょう。
そうは行かないんです。観客はこの後、私たちは今どこにいて、どこに向かっているのかわからなくなり困惑することになります。
この映画の特徴の一つとして、主人公であるカナの奔放さと呼応するようにこの映画自体の筋書きがどこへ行き着くのかわからず、観客は映画の中で迷子になったような感覚を味わうという点があると思う。
この感覚を説明するのは本当に難しいのだけれど、ともかく私なりに説明してみる。
その後の展開を見るとカナは甲斐甲斐しく世話をしてくれて愛してくれる彼氏がいるのとは別に浮気相手との逢瀬を重ねていることがわかり、観る人はカナというのはどうもどうしようもない奴で、この後修羅場でもあるのだろうなと想像する。
またはこの浮気相手には妻子がいてズルズルと関係が続くとか。
だがその想像はあっさり裏切られて浮気相手はカナと真剣に交際したがっていることがわかり、何やかんやあってカナは同棲していた部屋から新しい彼氏との部屋へ移り住む。
ここで上記のような予想をしていた私は、「お、おう、まあ良かったやん」みたいな肩透かしを食らったような反応になり、まあそんなこともあるよなと納得する。
その後のあのエコー写真が出てくる。ここでもやはり「はいはいそういう展開ね」と思うのだが、その後カナはすぐにそのことを問い詰めるでもなく、なんとなく不機嫌な状態になっただけでそのまま物語が続いていく。
ここまでの説明でわかる人はわかると思うのだが(誰もわからなかったらごめんなさい!)、映画やドラマのセオリーとも言えるありがちな展開をずっと素通りしながら物語が続いていくのだ。その結果、観客はこの物語がどこに向かっていくのかわからなくなり、不安な気持ちを覚えることになる。
こんなことを書くと「そんな映画面白いのか」と思われるかもしれない。実際観ながらそう思った人もいるんじゃないかと思う。私はでもこの体験自体にすごく興奮したし、ありがちな展開なんてクソ喰らえと日頃から思っている人にとって得難い体験になったのではないかと思う。
この映画は、明らかにリアルであることを徹底していると思う。現実世界では「ドラマにありがちな展開」なんて起こらないし、明らかな悪者だってそういない。
物事はヌルッと進んでいくし、オチもない。
「映画なんて観て何になるのか」
ただ、この映画のキモはそこではないと私は思う。
同棲生活も開始早々、新しい彼氏と些細なことでひどい喧嘩をした後ぐらいから、カナの心は怒りに支配され始める。
この抗いがたい怒りにこそ、この作品の主題があると私は考える。
会うたびにあんなにキラキラしていた新しい彼氏との生活。
彼は襖で分けられた先の自室で仕事をしている。カタカタと鳴り響くキーボードの音。その音に苛立つカナの心。
新しい生活の中で、カナは明かに退屈している。
昼食を一緒に食べようと言っても、フリーランスで仕事をしている彼はずっと「あとちょっと」と言って取り合ってくれない。カナも何かしていてと言う。映画でも観たらと。
そこでカナは言うのだ。「映画なんて観て何になるのよ」と。
これ、ギョッとしませんか。監督は一部の映画館でしか上映していない『ナミビアの砂漠』みたいな映画をわざわざ観に来ている人たちに向かってカナにこれを言わせるのだから。
でも、「映画なんて観て何になるのか」と本気でそう思っている人に対して反論できる言葉を私は知らない。
カナの根底にあるものは空虚さである。カナがいつもYouTubeで観ている砂漠に生きる野生の生き物たちのように、カナ自身も気の向くまま、自由に生きているように見えるのに、その心の根底にはどうしようもない空虚さがある。
「ナミビア」とは「何もない」と言う意味のある言葉らしい。
後の方のシーンで「どうせ100年後には誰も生きていない」と言う言葉がある。
また、カナ自身の言葉で「日本は、少子化と貧困で終わっていくのです。これからの目標は生存です」というもの。他にも「どうせ子どもも産まない」という言葉。
ここに見えてくるものは、現代を生きる20代女性から見たこの世界の閉塞感だと思う。
「映画なんて観て何になるのか」という問いは、そのまま「こんな世界に生きていて何になるのか」という絶望に変換され得る。
カナの怒りとは何か
カナの怒りは彼氏のハヤシに向いているようでいて、向いていない。
ハヤシが中絶させたのはカナではなく、カナの知らない女であり、カナ自身には妊娠中絶した過去はない。にも関わらず沸々と湧いてくる怒りはつまり女として生きるということの悲しみであり、この社会に対する怒りである。
ハヤシはカナが提示したエコー写真のことを「忘れていた」と言う。
それがカナをさらに激昂させる。こんな大事なことを「忘れていた」なんて、お前スゲーなと元カノに電話して忘れていたことを謝らせようとさえする。
妊娠中絶させた過去を忘れて生きていけるのは、言うまでもなく妊娠しない性別だからであり、妊娠中絶をした側の性の人間は、そのことを忘れることはない。
にも関わらず、妊娠しない性の人間が軽々しく妊娠の危険を犯すような行為をすることは往々にして行われる。
この圧倒的な非対称性に、カナの心は怒り狂い、執拗にハヤシに対して暴力を振るう。
また、カナが働く美容脱毛サロンの存在もカナをじわじわと蝕んでいく。
本当は足や腕や脇の下やVIOを脱毛する必要なんて全くないのにも関わらず、多くの女性たちは脱毛しなければとせき立てられ、脱毛を始める年齢もどんどん若くなり、高齢の女性にも脱毛する理由ができる。
「女性は美しくいなければいけない」という呪い。
初めの方のボーイに「馬鹿〇〇(女性器の呼び名)」と言い放たれるシーンがあるが、あの一見なぜ挟まれているのかわからないシーンにもここに来て意味が生じてくる。
カナのように女性らしく生きることから外れた人間に対して、世間は優しくないのだ。この一つひとつはどうということはないと思えるほどの軽い痛みの蓄積。
この痛みの蓄積こそが、自由奔放に、生きたいように生きているように見える人間をも飲み込んでいく絶望となって形を持つ。
むしろ、カナが砂漠に生きる生き物のような精神を持っているからこそ、この世界は生きづらく、我慢ならないことが多すぎるのだ。
それでも生き延びるということ
しかしカナの絶望は普遍的で、映画の中で起こったことだけではない、これまでの自分の人生で感じた様々な不条理や感じた怒りを私たちに想起させる。
その上で、それでもカナはあらゆる方法で生き延びようとする。絶望の中にいるにも関わらず。
カウンセラーのいる病院へ向かい、重い足を動かすカナの姿に自分自身が重なった時、「ウチら、こんな辛かったのに今までよく生き延びてきたよね」というカナの声が聞こえる。カナは絶対そんなこと言わないと思うけど、そういう言わばシスターフッドの映画だと私は感じるのだ。
どんなに先の見えない世の中でも、到底納得いかない嫌なことだらけでも、生きていくということ。そんな大それたことではないかもしれないけど、この映画を観終わった後、私は私のこれまでの人生を思って泣きました。
ここまで読んでいただいた方、いるかわからないけど本当にありがとうございます。
何だこれ、この映画ヤバ!と思ったのをこうやって文章にすることがこんなに難しいことだとは、世のブロガーの方々に頭が下がる思いです。