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【第104回 開催レポート】「ビラヴド―トニ・モリスン・セレクション」トニ・モリスン

開催日:2016年6月24日
課題図書:「ビラヴド―トニ・モリスン・セレクション」トニ・モリスン

「そういえば、課題図書で最近アメリカ文学を読んでいなかったね」ということで、
今回選ばれた作家はトニ・モリスン。1993年にアメリカの黒人作家として初めてノーベル賞を受賞、ピュリッツァー賞他多数受賞。メンバーの期待はいやがおうでも高まります。

舞台は1873年、オハイオ州シンシナティ。この頃アメリカではマーク・トウェインが『トム・ソーヤ』を公刊し、グラハム・ベルが電話機を、トマス・エジソンは蓄音機を発明しています。ちなみに日本では1868年に明治維新を迎えたものの、1877年には西南の役が勃発します。

物語は、こんなふうに始まります。「124番街は悪意に満ちていた。赤ん坊の恨みがこもっていた」――124番街にあるこの家には現在、主人公とその娘が住むけれど、義母は亡くなり、2人の息子は13歳になる前に逃げてしまったのだと。だったら、この「赤ん坊」って誰?――といきなり煙にまかれます。やがて奴隷だった女主人公セサの筆舌に尽くしがたい過去、セサが選んだ究極の選択がフラシュバックする記憶の中でほのめかされ、死者と生者、現在と過去が複雑にからまりあう途方もないナラティブ(叙述)の渦に読み手は放り込まれます。

読後の感想は、両極端に分かれました。

「まったく物語に入り込めなかった。課題図書読了まで一週間以上かかるなんて、初めて」「ページを開くたびになぜだが寝てしまう」派がやや優勢、対するは「最初の戸惑いを乗り越えたら、一気に読めた」派。このストーリーに入り込めるか、入り込めないかの境目は、どこにあったのでしょう。それは、アメリカにおける有色人種に対する(そして今も形を変えて続く)想像を絶する理不尽な迫害の歴史や、ときに黒人霊歌を思わせる詩的過ぎる語り口、時系列のシャッフル、そして死霊が登場人物として大きな役割を与えられている、という設定をどうとらえるか、にありました。

荒唐無稽過ぎて受け入れられない、と日本に生きる私たちが思う要素のうちいくつかは、アメリカに生きる有色人種にとっては厳然たる事実なのでしょう。死者が蘇って現世の人と共に暮らす、という死生観も含めて。どこまでなんでもアリなのか。その限界値は自分の人生や読書体験の経験則をやすやすと越えてしまうため、振り回される読書体験であったという点では全員の意見はほぼ一致していました。

ある集団が別の集団に所属する人の人間としての尊厳を奪うことは、それほど遠くない昔にも行われていたし、(残念なことに)今も世界のどこかで起きています。じゃあ、抑圧から解放されたら幸福になるか、といったら必ずしもそうではないことを、この物語から教えられた、とする発言もありました。極限に近い条件の中で生きてきた人がいざ、自由を授かっても必ずしもその自由を謳歌できるわけではない。人生に期待しない、何かを愛しすぎない、と心に誓わなければ生き延びられなかった。自由の身になっても、その諦めの呪縛から自分を解き放ち、希望を持って生きることは並大抵ではできない。この物語に登場する三世代の女性たちはそんなことを、身をもって伝えてくれます。

私たちが知っている事実というのはあくまでも、白人側の価値観と掟に沿った世界観なのかもしれない。強烈な平手打ちさながら、この物語はこのことに眼を開かせてくれた感があります。この課題図書を楽しめなかったみずからを恥じて(!)このあと黒人の登場する文学を意識的に読んでみよう、という新たな読書テーマを見つけたメンバーすらいました。アメリカ文学を語るうえで、この視点は本来、欠かせないものであったのかもしれません。ノーベル文学賞受賞、むべなるかな。トニ・モリソン、重低音の効いた物語の紡ぎ手であることは間違いありません。

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