【第135回 開催レポート】「新装版 最後の将軍 徳川慶喜」司馬遼太郎
開催日:2018年4月28日
課題図書:「新装版 最後の将軍 徳川慶喜」司馬遼太郎
いつかは読みたいと思いつつ、ついつい後回しになってしまっている作家(本)っていますよね。トルストイの「戦争と平和」しかり、紫式部の「源氏物語」しかり、プルーストの「失われた時を求めて」しかり。誰もが知っていて、評価も高いのに、いざとなるとなかなか手に取る気にならないという。
司馬遼太郎も、そんな作家の一人です。なにせ長い。「坂の上の雲」も「龍馬がゆく」も全8巻。「飛ぶが如く」にいたっては全10巻。定年退職か長期入院でもしない限りちょっと手が出ないなぁというのが正直なところですし、仮に一念発起して読み始めたとしても、課題図書として皆さんに読んできてもらうのは非現実的。司馬遼太郎の作品がこれまで赤メガネの会で課題図書になったことがないのもむべなるかな、です。
でもやっぱり読んでみたい。みんなと一緒に。ということで他の作品も調べてみたんですが、やっぱり長いんですね。「国盗り物語」は全4巻。「関ヶ原」は上中下巻。「燃えよ剣」は上下2巻ながら1100ページ超え。どんだけ書くの好きなんだよ。そんななか、目にとまったのが「最後の将軍」でした。98年の大河ドラマ「徳川慶喜」の原作ですが、文字量は司馬作品としては異例とも言うべきたったの286ページ。お手頃です。
ストーリーをひと言でいえば、「徳川最後の将軍となった慶喜の一生を、幕末の騒乱とともに描いた作品」となります。徳川慶喜が生まれたのは黒船来航の20年前。①日本のパラダイムが一変する時代に、②徳川御三家のひとつである水戸藩の藩主の子として生まれた、という2つの偶然が、慶喜の運命に光と影を落としていくことになります。
とはいえ僕は、偶然だけですべてが決まる運命論に与することに抵抗を覚えます。事実、慶喜がごく普通の七男坊であれば将軍にはなれなかったはず。幼いときから才覚に優れ、それを見込んだ父斉昭から英才教育を受けたこと。また家康以来の逸材と言われ、公卿や幕臣のみならず民衆からも人気を集めたことなど、彼自身の実力が周囲を動かし、徳川御三家の中では1ランク落ちる水戸藩出身の七男を将軍の地位へと押し上げていったのです。いや、押し上げたというより、時代が彼を求めたと言ったほうが適切かもしれません。開国か鎖国か、倒幕か佐幕か、はたまた内戦か欧米列強との戦いか。舵取りを一歩間違えれば国が滅びかねない難局にあたって必要なのは国をまとめあげる強力なリーダーシップであり、当時の社会は慶喜にそれを見たのです。
にもかかわらず、司馬が描く慶喜は僕らが想像する強いリーダー像とはかけ離れています。まず、権力欲が一切ない。幼いときから慶喜将軍待望論が囁かれていたことは当然本人の耳にも届いていましたが、将軍の座に対する野望や憧憬はまったく伝わってこない。むしろその言動からは「将軍なんて面倒なこと、できることならやりたくない」と考えていたのではないかとすら思えます。さらに驚くのは、当時の日本を二分していた「開国」と「攘夷」について明確なビジョンを打ち出さなかったこと。明晰な頭脳と類い希なる話術をもって、バッサバッサと意見の異なる者を論破していく超一流の論客でありながら、開国と攘夷については曖昧な態度に終始。むしろ局面に応じて両方を巧みに使い分けるのが彼のスタイルでした。読書会の参加者からは「つかみ所のない性格」との声も。ですよね。
胆力という点にも疑問符が付きます。長州征伐の勅命をもらい、派手な出陣式までやっておきながら形勢不利とみるや戦わずして引き返しちゃったり、多くの兵を残して城から夜逃げしちゃったり。野望もなければビジョンも胆力もない。まさにないないづくし。強力なリーダーシップを求められる局面で登場した将軍としては、そうとうにいただけない人物と言ってもいいでしょう。「要するに諦めのいい人だよね」という意見は言い得て妙でした。
でも結果的に、慶喜のそういうスタイルが何万何十万もの命を救い、列強による植民地化も防いだわけですから、歴史とは面白いものです。「歴史にもしもはない」とはよく言われることですが、もし慶喜が明確なビジョンをもってリーダーシップを発揮したら、日本中を巻き込んだ内戦が起こり、それに乗じて列強が日本を支配していたかもしれません。風を受け柔軟にしなる竹のような振る舞いをしたからこそ、264年間続いた徳川幕府を壊し明治新政府を樹立するという大改革をほぼ平和裏に成し遂げることができたのではないか、ということです。さらに深読みすれば、慶喜は最初からお見通しで、すべて計算づくで振る舞っていたのかもしれません。ある女性参加者からは「教科書で読んで、逃げた人ってイメージがあったけど、本当は優秀な人だったんですね。そのときどきに応じて適切な判断ができる頭のよさに恋をしました♡」とのお言葉いただきました。慶喜やるな。
そう考えると、慶喜はやはり稀代の政治家だったのでしょう。開国派、攘夷派の双方にいい顔をしたのは優柔不断なのではなく、国の分裂=内戦を避けるため。夜逃げしたのも、もし自分が死んだら国の求心力がなくなり混乱が増すだろうと考えたから。小心者と罵られてなお負け戦を回避したのも同じ理由から。この徹底的なリアリストぶりが江戸城の無血開城という、理想的ソフトランディングにつながったのです。その後、明治政府成立に伴い将軍職を追われると田舎に隠居し、来客を避けつつ写真や油絵、狩猟といった趣味に没頭。しかし謹慎を解かれると貴族院議員として活動するなど、表舞台にもそこそこ関心を示したあたりには人間らしさを感じずにはいられません。
本作品で徳川慶喜の人物像に節し、頭に浮かんだのは細川護熙でした。総理大臣まで上り詰めたものの、あっさりと政権を投げ出し隠居。陶芸家、茶人として余生を送りつつも、東京都知事選に立候補してみる(落選)など、その行動は常人には理解できないところがありました。慶喜も細川護熙も殿様。太平の世にあって世襲制度に基づく特殊な地位に生まれ育ったからこそ、逆に権力に対する執着はさほど強くなく、しかし権力を手中に収めることにも抵抗はないという、きわめて特殊な二面性をもつに至ったのではないか、というのが僕の分析です。それが当たっているかどうかはわかりませんが、総論として、慶喜は坂本龍馬や西郷隆盛がもっていたような、熱くたぎる理想とは無縁の人物でした。その分、感情移入はしにくいですし、ストーリー性に欠けるきらいがあるのも否定できません。司馬は執筆にあたって大量の資料を揃えることで知られていますが、本作品はあくまで「小説」であって、史実ではありません。にもかかわらず、司馬の筆力をもってしても心が震えるような感動ドラマにならなかったのは、やはり慶喜のパーソナリティのせいだと思われます。徳川家の視点で描かれた明治維新を知ることができたのは大きな収穫でしたが、おそらく司馬自身の慶喜に対する思い入れも決して強くはなく、だからこその「たったの286ページ」だったのではないでしょうか。
しかし、それによって司馬遼太郎を読むことができたのも事実。そこは素直に喜ぶべきでしょう。最後にある参加者の言葉を紹介します。「これで司馬遼太郎を読んだことがあると胸を張って言える!」