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デビッド・リーン監督の代表作を今さらながら午前十時の映画祭で観てみたら…「ドクトル・ジバゴ」
「アラビアのロレンス」「戦場にかける橋」のデビッド・リーン監督がソ連初のノーベル賞作家ボリス・パステルナークの同名小説を映画化した1965年の大作映画を今さらながら劇場で初めて観ました。
物語は
19世紀末、ロシアの詩人で医学生のユーリー・ジバゴは育ての親の娘のトーニャと婚約をする。仕立て屋の娘ラーラは革命家のパーシャという恋人がいたが母が世話になっている弁護士のコマロフスキーの暴行され、クリスマスの夜、ラーラはクリスマスパーティーに乗り込み、コマロフスキーを銃撃する。幸い軽傷ですんだコマロフスキーは彼女を赦し、パーシャがラーラを連れ出していくのを居合わせたユーリーは目撃する。
時は流れ第一世界大戦が勃発し、ユーリーは軍医として最前線に駆り出され、そこでラーラと再会し、ラーラは従軍看護婦となる。
モスクワに帰ったユーリーを待っていたのはロシア革命後の社会。彼の家は共同住宅にされ多くの家族が移り住んでいた。
ロシア共産党のやり方に憤慨したユーリーとトーニャとその父は一家の別荘があるベリキノへ移住を決意。
その列車の移動中、赤軍の将軍となったパーシャと再会し、ラーラの夫が生きていたことを知る。
ベリキノの近くのユリアティンにラーラがいることを聞いたユーリーは買い出しにかこつけてラーラに会いに行く。
何度かラーラと逢引きを重ねるうち二人は結ばれるが、ユーリーはパルチザンに拉致され軍医として最前線に同行としてさせられる。
やがてパルチザンから逃げ出したユーリーはラーラと再会するがそこへコマロフスキーが現れ、ユーリーの妻と子は仲間の手引きでパリに逃亡する手はずが整っているという。
パーシャは失脚し殺され、パーシャの妻だったラーラにも危機が迫る中、コマロフスキーは彼女を連れて逃げようとするが、ラーラはそれを拒み…
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昔は映画を観ることも観劇と同じくらいのイベントだったのかなと思う
200分という長い長い作品で画面が映る前にも序曲が長々と流れます。そこからまた長いオープニングがあり、インターミッションもあり、インターミッション明けには間奏曲も流れます。
今でこそ気軽に映画を観ていますが、当時としては映画は非日常の一大イベントだったのかなと思う仰々しさでした。
焼き討ちされた村が延々と映し出されるシーンとか、列車に乗るときや戦闘シーンのモブシーンの凄さは今ではなかなか出来ない贅沢な場面だと思います。
今観るとユーリーとラーラの恋愛ってW不倫じゃんとなりますが、当時の人たちはどういう風にこの不倫大河ドラマを受け止めていたのか?
ロシア文学がイタリアのプロデューサーとイギリス人監督によってアメリカ映画として製作されることに違和感を持ちますが当時としてはこれが当たり前だったのか?
また当時のソ連の人はこの作品を観たらどう思ったのか気になります。