映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』ネタバレ感想/やさしさは弱さ?
2023年に劇場で鑑賞してから1年以上経つわけだが、この映画を見て感じた様々な感情をうまく言語化できずにいた。もう言語化しなくてもいいかと思っていたのだが、今なら言語化できるのでは、という気持ちになった。
独特の世界観と切実さ
劇場で映画を見た後、金子監督のトークショーがあった。金子監督の作品は『散歩する植物』、『食べる虫』、『眠る虫』を鑑賞している。どこかファンタジックな日常の映し方は好きだが、正直なところ分かりにくい、汲み取りにくい世界観だなと思っていた。
『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』は、原作があるということも関係しているのか、他の作品と比べて分かりやすいと感じた。
しかし、ぬいぐるみの視点を使った演出などファンタジックさも健在で、メッセージ性だけでなく、演出の面においても人を選ぶ映画だろうなというのも感じた。
かくいう私はそのような世界観、演出は嫌いではない。好きでハマっているわけでもないが。
トークショーだったか、パンフレット内のインタビューだったか忘れたが、金子監督は「こぼれ落ちた視点をすくい上げ、映画にしている」というような発言をしていた気がする。(かなりうろ覚え)
金子監督の作品を見ていて好きだなと思う、悪く言って仕舞えばよく分からない部分がありつつも嫌いになれないのは、訴えかける切実さがそこに感じられるからだ。
繊細で脆いようで、しっかりとした芯を感じさせる。その頑固なまでの切実さを私は無視することはできない。無視したくない。それなのに複雑な思いになるのは、この映画が提示する優しさが私が否定してきた、ぬるま湯としてきたものだからだ。
否定してきた優しさ
優しさだけでは生きていけない、折り合いをつけて生きる強さを身につけるべきだと思ってきた。人に弱さを吐露することは負けだと自分に思い込ませ、自分の足で立っていられるように武装してきた。
七森と麦戸も優しすぎる上に純粋だ。麦戸が社会に感じる恐怖や疑問、それによって外に出られなくなってしまう姿は弱いと言ってしまえば弱い。
皆耐える力を身につけて社会を生き抜いている。耐えられない方に問題がある。それが大人になるということでは。大変な思いをして生き抜いてきたと感じている人にとっては、甘えだと思うかもしれない。そんな悠長なことを言っていられなかった、と。
一方で、弱者に冷たい、自己責任論が日本では罷り通ってしまっているという現状もある。日本だけではなく、「あなたは悪くない」というメッセージが込められた映画も増えてきている。被害者に自衛を求めるのか?その前に無自覚な加害者、人の心を踏み躙る側に目を向けるべきでは。そう思う事象だっていくらでもある。
だからこそ私はこの映画が映し出す優しさを否定できない。否定したくないのだ。そして、この映画を必要な人には必要な映画、ノットフォーミーと切り離したくない。切り離すことで、歩み寄る気がない、線引きをしてしまったかのように思うからだ。
まさに鑑賞した当初はノットフォーミーだと思っていた。その上、必要てしている人がいるのは理解できる、必要な人に届いてほしいと上から目線なことを思っていた。
そこには、この優しさを認めてしまったら今まで優しい世界を否定して強くなろうと必死になっていた自分まで否定してしまう気になったからというのもあった。
白城に感じた共感
「ぬいぐるみとはしゃべらない」
この部活のメンバーの中で唯一ぬいぐるみとしゃべらない登場人物が白城であった。その理由が最後に彼女の独白によって明かされる。
優しすぎる七森と麦戸を肯定しつつも、自分はあえて心地良いだけではない環境に身を置くという白城のスタンスに共感し、好感を持った。
私も心地良い場所、心地良い人とばかり過ごしていたらダメになってしまうのではないかという不安がある。社会勉強と小遣い稼ぎのためにスナックバイトまで始めてしまったのは我ながら不器用すぎるとは思っているが……(余談)。
否定したくないが、肯定したくないという私の心情の奥には、優しさに対する苦手意識もある。強くなろうと意地になっていた私は自分の感情を自己処理する能力は身についたが、人に自分の内面を曝け出すことがすっかり苦手になってしまった。
「話を聞くよ、話して、大丈夫」という空間が至極苦手なのだ。勝手に期待して理解してもらえないことに絶望したくないという臆病さ故に殻に閉じこもる。
そのくせ、自分の大切な人に対しては、その人の内面に寄り添いたい、そばにいる存在でありたいと思う。私にとってそれは優しさではなく、罪悪感を和らげたいだけのエゴだ。
自分自身に向けられる優しさも、自分の優しさも素直に受け入れられない私は、優しさが苦手だ。優しい世界であってほしいと願いつつも、苦手意識故に私はこの優しい世界に耐えられない。
七森の葛藤に対する違和感
この映画に抱くアンビバレントな感情とは別に、明確に引っかかっている点がある。それは、七森の内面の描き方だ。
一つは七森が抱く、自身の加害性に対する罪悪感、恐怖だ。性犯罪に対し、女性の被害者の方が多く語られがちな傾向は正直ある。更に、女性であるというだけで、私自身が勝手に被害者意識を持ってしまう側面もあると思う。
一方で、全ての男性がそうではないと分かっているものの、まだまだ日本の様々なところで女性蔑視が蔓延しているのも実情としてある。無自覚な二次加害も後を経たない。
映画以上に、原作の七森はエゴスティックな罪悪感と同情心を抱いている印象を受け、気持ち悪いと思った。男性/女性の二元論的考え方はよくないが、七森が感じる自身の加害性に対する恐怖は、私の中でピンときていない。
それ以上にもやもやっとしたのは、恋愛における七森の言動である。恋愛感情が分からないから人並みに付き合ってみたら分かるかもしれないと白城を選んだその打算、勝手に罪悪感を抱くエゴ。
それら全てに七森自身が向き合えていない上に白城が大人すぎた。キャラクター描写として、白城の大人な性格は悪くないが、自分が汚らわしいと感じているものと変わらない自分自身というぐちゃっとした七森の感情は、優しすぎる純粋さと相反するものである。
その生々しさを、ラストの麦戸の対話の眩しさで打ち消してしまっていることにもやりを感じたのだった。人間はそんなもんなので相反する生々しさはあって当然のはず。そこの深みが弱かった。
最後に
でもやっぱり私の胸の中に残るのは、この映画の優しさを受け入れて、自衛しなくてはいけない社会がおかしいと声高に言える強さと純粋さを持っていたかった、ということかも。全肯定したい。でも、自分に嘘ついて全肯定はできないのでずっと複雑な気持ちでいる。
今ならうまく言語化できると不意に思ったのは勘違いだったのでは、と思うほど整理できていない感情に面食らったが……何とか形になったのではないかな。ではでは。