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毛布にくるまれたい、冬

冬がくる。

冬の支度のひとつとして、脂肪のように誰かの考え方を自分の中に蓄えたくて、読書をする。
安達茉莉子さんの「毛布 あなたをくるんでくれるもの」を読み進めている。

出会ってしまった、自分のバイブルのような本に、という気持ち。私なんかよりずっと頭が良くて、行動力があって、何一つ届かない人なのは分かってるけど、(こういう考え方がもう辛いんですけどね)この人の言葉ひとつひとつが自分にも重なってグサグサ刺さってくる。

例えば家父長制の社会における社会的抑圧。目の前の人に見捨てられないために自分を捧げて生きなくてはいけないという義務感。間違いなく私もその空気感の中育ってきたし、それを振りかざすような気持ちになったこともある。例えば後輩指導の時とか、年下の子の面倒を見た時とか。ここにはルールがあるんだぞ、覚えて、絶対。みたいな。言ったことはないけど、自分が相手を支配するような立場にいるような気持ちになったことは、ある。思い出しても怖い。相手はもっと怖かったかもしれない。社会に出てからは自分がその怖い思いをうんとして、こんな気持ちにさせるまいと振る舞うようになった。お父さんに言われた言葉が呪いのように私を強ばらせているというエピソードもあるんだけど、この話はここではそこまで触れないでおこう。(昨日思い出して小一時間泣いた、まだ棘が抜けてないし許せていない自分を発見した)

アーノルドローベルのがまくんとかえるくんの話も印象的だった。

「絵本の中で、2人のカエルは優しい世界を築いていた。御伽噺だと思うか、こんな世界は可能なのだと思うか。言うまでもない。社会は、こんな場所でなければならない。」

この言葉にドキッとした。この絵本をこの間読んだ時、こんな世界、ありっこないけどあったらいいのにと思ったばかりだった。社会はこんな場所でなければならないと宣言してくれる人がこの世界にいるんだ。私だけが子供みたいな夢を見ているんだって恥ずかしく思ってた。優しくしたいし、優しくされたい。みんなが誰かにとって大切であって欲しいし、私もそうでありたい。でも、社会は利己主義で、冷たくて、無償の愛なんて本当に存在するのかな、いやない。と勝手に思い込んでいた私の心にぶっ刺さった。理想を描いてもいいんだ。というか、そうやって生きなければ、またこの苦しい同調圧力に誰かが苦しむだけなんだ。私には大それた経験も経歴もないし、アクティビストの友達もいないけど、そんなことを信じて生きてみてもいいのだろうか。

最後まで読んでくださった方がいたら、ありがとうございます。思っていることを吐き出す場所がどうしても必要で、書いています。見守っていただけたら嬉しいです。

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