韓国・正義連の正体 #1
正義連の代表が産経新聞社のインタビューに応じた。慰安婦運動30年、正義連がやってきたこととは何なのか? このインタビューを読むと自分の都合のよいことだけを言っているようにも聞こえる。そこで慰安婦問題の50年を検証する記事をアップします。正義連とは何者なのか? 記事では正義連に”正義”はないと考えているので、「挺対協」と表記します。元慰安婦に尽くしてきた日本人のインタビューを通して、慰安婦問題を歪んだものにした団体の、その正体に迫ります。
慰安婦を利用した人たち
「慰安婦を利用した。私を裏切って、国民を裏切って、全世界の人々を裏切ってだました」
昨年、挺対協(現・「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」)の不実について告発した元慰安婦李容洙(イ・ヨンス)氏の記者会見によって韓国社会は大揺れに揺れた。
韓国メディアでは連日、挺対協と、元代表で先の韓国総選挙で国会議員となった尹美香(ユンミヒャン)氏の疑惑が報じられた。この内部分裂が意味するところは、慰安婦問題が“偽物の人権”を掲げる団体に長らく支配されていたということだ。
挺対協の罪は大きい。時にウソの理屈を振りかざし韓国人の中にある反日感情を刺激し、不条理な発言を繰り返すことで日本人の中に“嫌韓”という意識を根付かせた。
はたして挺対協とはいかなる組織なのか。
彼女らの実態をよく知る日本人がいる。
その女性の名前は臼杵敬子氏という。ライターとして女性問題に関心を深く持っていた臼杵氏の人生は、1990年に韓国太平洋戦争犠牲者遺族会の女性たちと出会って一変する。臼杵氏はその後の半生を、遺族会を支援するための活動に費やした。90年代から議論が始まった日韓歴史問題を、最も間近で見つめてきた日本人の一人であるともいえよう。
臼杵氏は支援活動のなかで多くの元慰安婦との交流を持ち、2008~2015年までは、元慰安婦を巡回し福祉支援を行うという外務省フォローアップ事業の民間担当者としても尽力してきた。
ある意味では韓国人より元慰安婦に寄り添ってきた女性である臼杵氏の、最大の障壁となったのが挺対協だったーー。
本連載では臼杵氏から見た、なぜ慰安婦問題が歪んでしまったのか、その真実について回想してもらう。そして挺対協とはどのような組織だったのかを、当事者として批評してもらおうと考えている。
金学順の”揺らぎ”
「私の青春を返して欲しい」
1991年12月6日、東京地裁での記者会見で金学順さんは涙ながらにこう語りました。この言葉と共に、慰安婦問題のニュースは世界を駆け巡りました。
慰安婦と名乗り出た第一号は、金学順さんと言われています。でも、後述しますが私にとっては、その前にも元慰安婦だと名乗り出た女性はいたので、第一号という感覚はありませんでした。
私が金学順と出会ったのは91年11月25日のことでした。
私たちは「日本の戦後責任をハッキリさせる会(通称・ハッキリ会)」を結成して、韓国人の戦争被害者で作られた太平洋戦争犠牲者遺族会を支援する活動を行っていました。太平洋戦争犠牲者遺族会91年12月6日に、東京地裁で日本政府に対して〈戦後補償〉を求める提訴を行いました。その準備の為に、私たちで被害者のヒアリングを行っているなかで出会ったのが金学順さんでした。
金学順さんは挺対協の調査を受け、91年8月に実名で慰安婦と名乗り出た女性でした。その後、彼女は私たちの活動を知り、太平洋戦争犠牲者遺族会に「裁判をするなら私も原告になりたい」と言ってきました。
私たちのヒアリング作業は、ソウル市光化門近くにあるネジャーホテル(内覧ホテル)で行っていました。太平洋戦争犠牲者遺族会の活動を聞きつけた同ホテルのオーナーが無償で部屋を提供してくれ、私たちは同所を拠点として被害実態の調査に明け暮れる日々を過ごしていました。
金学順さんのヒアリングは、私と裁判で主任弁護士を務めた高木健一弁護士で行いました。当時の金学順さんは60代後半にしては若く、話し方も理路整然としていました。
金学順さんは私たちに対して「平壌からトラックに乗せられて強制連行され慰安婦にされた」という話をしていました。
問題が起きたのは提訴直前でした。高木弁護士から私のところに一本の電話が来たのです。
高木「金学順さんの話なんだけど、私たちが聞いた話と他のマスコミに言っている内容が違う。知ってる?」
臼杵「ぜんぜん気が付かなかった。そうなの?」
高木「そうか。もう裁判だし。こちらでなんとしよう」
慌てました。報道等を確認すると、金学順さんはキーセン学校に通い、キーセンの養父とともに満州で仕事をしていたというのです。その後、北京に立ち寄ったところで日本軍捕まり慰安婦にされた、という話が語られていることがわかりました。まずいな、と私は思いました。
キーセンは日本で言う芸者のことです。キーセンという言葉は、それ以上の行為を指す場合もあり、裁判では誤解や偏見を招く可能性があると思ったのです。
金学順さんが日本軍に連行され連れて行かれたという鉄壁鎮(テッペキチン)という場所も中国地図から見つけることが出来ませんでした。彼女が慰安婦だった期間も三か月ほどであり短い。
私は金学順さんの証言では、慰安婦問題を正しい形で提起するためには、裏付けが弱いと感じた。しかし、弁護団の方は、顔を出して肉声で被害を訴えることが出来る人は金学順さんしかいないと、原告とすることを決めたのです。
私は提訴後、彼女の証言にあやふやなところがあったので「ウソを言ったらダメよ」と言いました。でも金学順さんは「私は間違ったことは言ってない」と頑なでした。
慰安婦第一号は別にいた
いま金学順さんが、名乗り出た慰安婦の第一号とされていますが、実はそうではありません。
私は1984年に裴玉水(ペ・オスク)さんという元慰安婦のかたを取材したことがありました。『レディキョンヤン』という韓国の女性雑誌に彼女の記事が出ていて、編集長から紹介してもらったのです。
ペさんは16歳のときに「いい仕事がある」と騙され、身売り同然でミャンマー奥地まで連れて行かれ慰安婦となった女性でした。
彼女は辛い経験を語りながらも「日本兵も可哀そうだった」と涙を流しました。アジアの奥地で日本軍が壊滅していく中、なんとか生き延びた女性がペさんだったのです。
私が行ったペさんのインタビューは84年にTBS「報道特集」で放送されました。韓国内では『レディキョンヤン』だけではなく中央日報でもペさんのことが記事になりましたが、当時は元慰安婦を助けようという世論が日韓で湧いてくることがありませんでした。
太平洋犠牲者遺族会の中にはもう一人Aさんという元慰安婦もいました。彼女に私は90年12月に話を聞きました。つまり金学順さんの前にもすでに2人、慰安婦だと名乗り出た女性はいたのです。
私は前述のように不安を感じました。おそらく金学順さんは、裁判をするにあたってキーセンのことマイナスになると考え隠したいという気持ちがあったのだと思います。
翌年、東京地裁で行われた証人尋問では、私は金学順さんを第一号証言者とすることを回避する、という決断をしました。第一号証言者は金田きみ子(軍隊名・衛生兵によってつけられた名前)さんにお願いしました。彼女は慰安婦として7年ものあいだ日本軍に従軍していた女性です。その証言は明確で、日時や場所など全て裏付けがとれるものばかりで真実相当性があったのです。
金学順さんの証言のブレは、慰安婦問題を語るうえで、後世に大きなシコリを残すことになりました。発言が二転三転したことで、日本側から「売春婦だった」、「慰安婦問題はなかった」などの酷い言論を誘発する事態となってしまったからです。
孤独な半生
金学順さんが名乗り出た背景には、被爆者女性イ・メンヒ氏の存在があったと言われています。イ氏は被害者として名乗り出たことで、多くの支援を受けていました。
彼女から金学順さんは、「慰安婦として名乗り出たほうがいい」とアドバイスを受けたそうです。このイさんの言葉が、金学順さんが名乗り出るための大きな動機になった。孤独な老後を送っていた彼女には、何か救いが欲しかったのだと思います。
証言にブレがあったことは、慰安婦問題を提起する上では大きな問題でした。しかし、彼女が日本軍に連行され被害に合ったことは間違いありません。
女性ですから、キーセンや慰安婦の過去を素直に話すということは難しい部分があった思います。
金学順さんには不幸な背景がありました。平壌出身の金学順さんが思春期のころ、母が再婚したものの、継父との折り合いが悪かった。彼女は継父のことが嫌で家を飛び出し、女性一人で自活していくためにキーセン学校に入校したのです。
平壌のキーセンでは19歳にならないと、お座敷などで働けなかった。若すぎた金学順さんは平壌を離れ、職を求めて養父(仕事を斡旋する男性)と共に中国に渡った。そして運命に翻弄されるような形で慰安婦となったのです。
金学順さんは、戦中に朝鮮人の男とともに部隊を脱走し、結婚して二児を授かります。しかし戦後、夫が事故死してしまい、二人の子供も病気や事故などで亡くしてしまいます。既に南北が分断したため、故郷の平壌に帰ることもできませんでした。彼女は放浪しながら、孤独な半生を送ることになってしまったのです。
「韓国人、韓国を叱る」(小学館新書)でも正義連の欺瞞を暴き追及しています。
母親への悔い
1996年2月、日本の自治労の支援で遺族会ケアセンターが開設されました。様々な被害者の方が集い、寝泊まりできる施設として発足したのです。孤独だった金学順さんもみなが集まれる場所が出来て喜んでいました。
センターに集った人たちと、金学順さん一緒に旧正月を祝おうという話になりました。38度線・板門店の近くに北朝鮮出身者が参拝できる石碑があります。そこにみなで参拝に行くことになったのです。
そのとき、金学順さんがオイオイと泣き始めたのです。
「お母さん、ごめんなさい。ごめんなさい」
彼女は平壌の方に首を垂れながら、泣きながら繰り返し謝っていました。確執があった継母といえども肉親です。親不孝をしてしまったことについて金学順さんは悔いがあったのです。何度も、何度も謝っていました。
金学順さんはキーセンに行ったことを後悔していたのだと、私は思いました。だから私たちのヒアリングに対して口が重かったのだと思います。金学順さん自身がいろいろな葛藤を抱えながら、戦後を生き抜いてきたことを改めて思うと、私も涙が出てきました。
裁判が始まって2年後、始めて金学順さんが法廷に立ちました。そのときの証言は検証を重ね、正確なものだったと思います。慰安婦問題には詳細な実態調査が必要だと私は思っています。しかし、次回以降で詳述しますが挺対協はそうした動きを常に阻害してきました。
挺対協には最初から感受性が不足していた
挺対協が設立されたのは1990年11月のことでした。当時は太平洋戦争犠牲遺族会のほうがはるかに大きい組織でした。
太平洋戦争犠牲者には軍人軍属、遺族といった、いろんな被害者がいました。私の関心も、慰安婦だけにあったわけではなく、多くの被害者のかたを支援することにありました。だから、当時は挺対協のことを気にもとめていませんでした。
ある時、挺対協の共同代表である尹貞玉(ユン・ジョンオク)氏とお会する機会がありました。彼女は上品な学者さんという印象でした。
太平洋戦争犠牲者遺族会はみな極貧の育ちの人ばかりです。農民や漁民の方が多く、元慰安婦の女性たちもクズ野菜を売って生活をしていたり、清掃員をしているなどこれまた貧困の方ばかり。被害者支援に取組むためには、いろんな境遇にある人たちを思いやれる「感受性」が大事だと私は思っています。尹貞玉氏のようなお上品なかたで、本当に大丈夫なのかなという不安が頭を掠めたことを覚えています。
偏りとウソの”女性人権”運動家たち
被害者は元慰安婦だけではありません。東京裁判は多くの被害者のための裁判でした。しかし挺対協が盛んに慰安婦問題を喧伝するようになり、やがて東京裁判は“慰安婦裁判と見られてしまうようになってしまいます。
私として納得ができず、尹貞玉氏にこう言いました。
「慰安婦だけが女性問題ではありません。遺族会には未亡人や遺児もいます。女性人権問題として取り組むなら、こうした人たちも含めて一緒に取り組むべきです」
尹氏は「そうですね」と答えました。
しかし、彼女が慰安婦問題以外の支援に乗り出したりすることはありませんでした。挺対協の本質が、ここに表れていると思います。広く弱者に手を差し伸べようという考えは、彼女たちにはなかった。
いま尹美香(ユンミヒャン)がついてきたウソが、韓国メディアで話題になっています。でもそれは、尹美香個人の問題とも必ずしも言えません。
挺対協自体がウソをつくことが多い団体だったからです。
1997年に金学順さんが亡くなったとき、挺対協は墓碑の横にこんなメッセージを書いたのです。
〈東京の補償裁判は金学順さんが提訴して始めたものだった〉
金学順さんは原告の一人ではあったけど、彼女が始めたわけではない。前述のように補償裁判は太平洋戦争犠牲者遺族会が提訴したものです。遺族会の人々は長年苦労してやっと始めた裁判です。それを無視するかのようなメッセージをあえて残すところに挺対協の本質がよくあらわれています。
挺対協は常に被害者を利用することだけを考えてきたのです。
(つづく)
(インタビュー・赤石晋一郎)