文章の力
本日、6月3日はキナリ杯の結果発表の日だ。
あと2時間足らずで始まるだろうが、改めて岸田さんの仰っていた文章の力というものを考えたい。
キナリ杯を知った時、本当にただただ純粋に面白そう!! と心が踊った。
人に文章を見られることが苦手な私はその趣旨にそぐわないかも、とも思いながら好奇心に負けて応募していた。
文章には、言葉には、温かくて、強い力があります。
その強い力は、みんなが持っています。
この言葉に励まされた気がした。私にもそんな力が本当にあるだろうかと、期待を持たせてくれたのだ。
私はここにいる
応募してから毎日noteを更新して文章を書いている。
とても人に読ませられるものではない自分のための随筆だけれど、それが私の生活をとても豊かなものにしてくれた。
今までは心の中で考えるだけに留めていた家族の思い出や、旦那さんへの愛情を文章という形に収めると、実は思い出は思い出だけじゃなく、愛情は一方通行ではなく、たくさんの誰かに、何かキラキラしたものをもらっていたんだと思考の中から宝物が溢れてくるような経験になった。
私は基本的に内省的でネガティブな気性なので、暗い日記も書いたけれど、だからと言って書くことが嫌になったりはしなかった。
嫌なことは特に言葉にして吐き出す勇気と体力がいる。
人の目に触れさせていいんだろうかと躊躇するけれど、読むかどうかは読者に委ねられるので私は私の書きたいように書いた。
これが私だから、間違っていても迷っていても、暗くてドロドロしていても、嫌なやつでも、私は私である。
私は私であることを肯定するために文章を書いている気がする。
何者にもなれはしないだろうなと思っていても、肩書きはなくとも、私は私としてここに存在している。この文章の中に。
文章の善い力と悪い力
誰かの残した言葉がとても美しいと感動した時、心に刺さった時、ずっと使ってきたはずの知っている言葉の組み合わせが変わるだけで、こんなにも表される情景が違って見える。詳細に、鮮やかに、色味や温度さえも。
私は活字を読むのは苦手で、あまり本は読まない方だ。
でもネットで読む二次創作の小説にはいつも心動かされてきた。
本と比べればライトかもしれないけれど、輝きが劣ることは決して全く無い。
文章の力はいまだに計り切ることはできない。
いつも誰かの言葉に励まされたり、考えさせられたり、感動を与えられたりする。逆に傷つけられたり、悲しくなってしまったり、嫌いになることもある。
結局のところ、文章や言葉というものはただの道具に過ぎないのかもしれない。
使う人の心次第で何にでもなれる。翼を生やして空を飛ぶこともできるだろうし、誰かをその指先で簡単につついた言葉だけで呪い殺すことだってできる。
だけど、誰かを傷つけるためだけに作られる言葉はとても悲しい。
最近のネットの誹謗中傷問題も、キナリ杯の運営に関して非難の言葉が届いているという話題も、とても悲しくなった。
実際に直接そんな言葉を受け取った人はその何倍もの悲しみを負っただろうし、誰にもわからない傷をつけられ、涙を流している。
文章の力を考える時、この善い力と一緒にある悪い力についても、
きっと切り離しては語ることはできない。
誰かへと自分の傷ついた心や怒りを届ける為の言葉ならば殊更どんな気持ちにさせるのか、その力や影響力を考え、考え抜いて届けるべきだ。
本当にその言葉を投げつけるべきか自分に自問すべきだ。
というか本当はそんなことのために言葉を届けるべきではないと思いたい。
怒りや悲しみを伝えたい時、私ならば本人には伝えないのでそう言った人たちの心がよくわからない。
大体のことは姉に「悲しいことがあったから聴いてくれる?」と了解を得てから話をする。話をしていて感情が落ち着いたり、考えがまとまったりもする。
ものすごく傷ついたことはそもそも中々言葉にはできない。何年かかけて自分の中で消化し、そこでやっと、あそこは自分が悪かったなと新しく気づきを得たりする。そこにすぐ辿り着けないのは逃げていたからかもしれないけれど、それだけの時間が必要だったのだと思う。
きっと相手にぶつけたって何も解決はしない。
絶対に話を聴いてくれる親しい人と話すか、ちゃんと自分の中で気持ちを整理すると冷えた頭で考えが変わる時がくるかもしれない。
文章の力を自分も相手も悲しいことに使うよりも、
キナリ杯のように楽しく、面白いことに使った方が誰もが喜び、幸せになれる。
文章の強い力を誰もが持っているならば、
善くも悪くもなれるその力を誰もが持っているということになる。
そのことを自覚して使える、分別のある社会になるといいなと切に願う。
いつも言葉が教えてくれる
全く違う問題かもしれないが、今アメリカで悲惨な黒人差別問題が提起されている。ネットで血を吐くような黒人の方達の言葉を目にした。
英語はわからないけれど、訳してくださった方がいて、それに目を通すと答えのない苦しみに何年も何十年も何百年もの間もがき苦しんでいる人たちの叫びが響いていた。
違う土地にいて、目にしたこともない悲惨な状況も、それに相対している人の気持ちを知るのも言葉からだった。
知らないことを知り、誰かと心を交わすために遣われる言葉や文章の、その重みをちゃんと抱えて受け取れる人間になりたい。
文章や言葉自体ではなく、そこに託された人の想いが力になる。
だからこそ、誰かを傷つけるような安易な遣い方をしないように、何かを強く伝えたい時、伝えたい内容を伝えられるように、これからも文章と付き合っていこうと思う。
今はまだ臆病で誰かに向けて書こうとは思えないけれど、少しずつ、誰かの胸に届くように。誰かを元気付けられるようにと、考え、怯えずに、言葉を紡いでいきたい。
そんな風に考えられるようになったキナリ杯、岸田奈美さんに感謝します。
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