私は死ぬために生きる
「死」とはなんだ
言葉や意味は知っていても私にとって「死」を実感を伴って認知できたのは母の死をこの目で視た時だった。
漠然と嫌だなとか怖いなという感情しか持てなかった私の中の「死」は母の最期を目の当たりにしてただただ胸を苦しめる恐怖へと変化していた。
「死」はとても苦しそうでとても痛そうで、とても惨めに見えた。
母の死
子育ても終わり母の人生はきっとこれからだったと思う。
その人の定命だとか運命だとかそんなものはこの世にはないし、あったとしても私には意味のないものだと思えた。そう思うことで誰かの心が守られるなら間違っていないとも思うけれど。
母はガンだった。告知から半年で逝ってしまった。
私は成人間近だったけれど何から何まで子供で、きっと奇跡が起こると信じていた。人の死を知らなかったからだと思う。
だから、お医者さんがただの一つも希望を持たせてくれないことに憤っていた。
「いつどうなってもおかしくない」とか「とても珍しい種類のガンだからこの抗がん剤が効かなかったらもう打つ手はない」とか、何一つとして可能性を示してはくれなかった。
それが真実だとしても、私はただ「出来る限りのことをします」だとか「最後まで手を尽くします」とか、気休めにしかならないとわかっていてもただほんの少しでも心に寄り添って欲しかっただけだ。
言い訳になったり責任を取れないからってどうしてあんなことしか言ってくれなかったんだろう。
それでも私は子供なのでずっとずっと奇跡を信じて祈って涙を堪えてお母さんの手を握った。
◆
モルヒネを打ちますかと看護師さんは聞いた。そうすれば母はキツくないけれどもう私たちとは喋れなくなると言われた。
私にはよく理解できなかったし、昨日まで普通に会話していた人がどうしてそうなったのか、どうしてそんな選択を迫られなくてはいけないのか、看護師さんは何も悪くないのに、理不尽を突きつけられた気になって涙が止まらなかった。
一瞬母と喋れなくなるという私の恐怖と母の苦痛とを天秤にかけて躊躇った自分にも涙が出た。
モルヒネのお陰で母は少し楽になったようだったけど、うわ言が多くなった。
手を握っても振り払われた。
振り払ったその手は天井に向けて伸ばされていた。
母が何を言っているのか最初はわからなかった。
「神よ〜神よ〜」
神様だ。神様を呼んでる。
私は返事もくれない神様なんかより私の名前を呼んでほしかった。それもとても幼稚なお願いだったと思う。
私はずっとずっと子供で母が苦しんでいるときに自分のことばかり考えていた。
母の耳元で「置いていかないで」と聞こえているかもわからないお願い事をした。
母は時々姉達の名前を口にして、父に頼むねと母親らしいことを言った。
テレビドラマなんかじゃ、最期の力を振り絞って何か"いいこと"を言ったりするじゃないか。
私はお母さんとの最後をキレイにしたかったのかもしれない。
「○○ちゃん」
お母さんが私の名前を呼んでくれた。
いつもは呼び捨てなのに小さな頃みたいに呼んでくれた。
「殺してほしいほど、いたい」
母は私にそう言った。
だた命を存えさせれば奇跡が起きると思っていた私は母を苦しめていただけなんだと知った。
奇跡は最後まで起きなかった。
ごめんね。楽にしてあげることもできなくてごめんなさい。自分のことばかりで耳元に縋って名前を呼んで行かないでなんて身勝手なことしか言えなくてごめんなさい。
「ありがとう」とも言えなかった。
「死」は痛く苦しく惨めだ。
鼻から入る管は絶えず赤黒い血液を吸って、瞬きもできなくなり、唇と舌が乾燥しひび割れ、体は黄色くなり斑点が出て点滴の繋がる腕は全部内出血で真っ黒になり、
子供の頃母の匂いはお日様の匂いだと嬉しくて抱きついていた柔らかな太腿はミイラのように骨張って、母は尿と垢と薬の匂いになっていた。太陽の匂いなんて思い出せなかった。
何もかも怖かった。
早く楽になってほしい気持ちと行かないでほしいという気持ちと奇跡を諦めきれない私がぐじゃぐじゃになっていた。
だた母を安心させたくて大丈夫だよと言いたくて私は微笑んでいた。
誰かの笑顔がそばにあればきっと安心できるから。お母さんに教えてもらったみたいに人にしてもらいたいことは自分からしなさいって。
緑の電子版が平らになればピーッとなるものと思っていたそれはやはりドラマとは全然違っていてアラームのように鳴り続け、ずっと煩わしいほど五月蝿かった。
私たち家族もみんなで「お母さん」「お母さん」と夜中にもかかわらず叫んでその病棟はとても五月蝿かったろうと思う。
母は苦しそうな表情で死んでしまった。
不思議なもので、母は自分は本当に死ぬとは思っていなかったようだ。
勿論抗がん剤治療はとても辛そうだったし、目に見えて体は衰えていた。
でも絶対に治すつもりだった。なので何も私たちに言い残したり書き残したりしなかった。
急にいなくなってしまった。
◆
母は雨女だったからかその日は真夏だというのに嵐のように雨が降って雷鳴まで響いていた。
病院から母の体を霊柩車に乗せる時、嵐のような雨が一瞬上がって、奇跡のように空が晴れ間を見せた。
大きな虹がかかり、屋根から滴る雨粒が日光に光っていた。
神様がいるならきっとこの時手をかざしてくれたのかもしれないと思う。
神様なんてこんなもんだ。新たな命を吹き込むような奇跡は起こしてくれない。雨を一瞬止めてくれるくらいのもの。今ではあの雨上がりのひと時は美しかったと思えるし、お母さんが濡れなくてよかったとそう素直に思えるけど、当時はあんなに祈っても何も叶えてくれなかった神様がただただ憎かった。
母を車に乗せるとワイパーが効かない程また雨が降り始めて、軽自動車が時々揺れるくらいに強い風が吹いた。
私は姉と叔父さんの車に乗っていて、いつもよりゆっくりと走り帰路を辿るその車の中で無言で姉の手を握っていた。
縋る気持ちだった。ギュッと胸の痛みを表すように姉が握り返してくれた。お互いを思いやる力加減じゃなくて、姉もまだ誰かに助けてほしいと望んでいるとわかった。
棺桶の前に座る小さくなった父の背中も、布団の中で嗚咽を堪える姉のすすり泣きも10年経った今でもずっと記憶に焼き付いている。
何もかもが初めてのことだった。
お葬式に出席したこともない私は初めて葬儀をする側に立った。
母がいない人生が初めてだったので生き方が分からなくなったし、末っ子らしく家のことも身の回りのことも何もできないことをその後数年かけて痛感した。
長姉が母の代わりに色んな役割を背負いこんで苦しんでいたことも親戚のお姉さんから諭されやっと気づいた。
私はただぼんやりと子供だったのだ。
安心して何もできない子供でいられたのはお母さんがいてくれたからだ。
それは一つの愛の形だったのだろうと思うけれど、私からの愛情は何も、生前何もお母さんにしてあげられなかったことを悔やむしかない。
少なくとも私は母を失ってやっと少し大人に近付いたと思う。
人の心を考えるようになった。
取るつもりも無かった車の免許も取って、母が乗っていた車に乗り母がいつも運転中かけていた歌謡曲のテープを聞いた。
母が元気であったなら当たり前のようにこんな田舎は出ていくつもりだった。
誰も自分のことを知らない都会に行って暮らすんだと。
私は結局遠くへは行けなかったけれど、その分家族を大切にできるようになったと思う。
今の主人に出会えたのも遠くに行かなかった結果だ。
その後数年して祖母も亡くなり、姉の一人が音信不通となり、父も姿を消したので、うちは一家崩壊とまでは行かなくても半壊くらいにはなっていたと思う。
母と祖母が支えてくれていたものが全部無くなればそうなるんだろう。
母親たちはとても強く大きな存在だった。
家族ってなんなんだろうなととても苦しくなったけれど、その分私たちは
今の家族を大切にしようと一番上の姉と二番目の姉と抱きしめあった。
そして実家には祖父だけが残った。
祖父の死
それぞれ私たち姉妹には仕事があり、結婚もし、実家で生活はしなかった。
とても薄情なことだと思う。
月に1度通院の時に付き添って送迎をしたり、ご飯を食べに行ったり、電話は2日に数回しないとすぐ忘れてしまうので2〜3日空くと
「冷たすぎるんじゃないか。じいちゃんのこと嫌いになったのか」と捻くれられた。
煩わしく思ったこともある。
でも一生懸命じいちゃんのことを考えた。
とても大事にした。
それ以上に子供の頃からじいちゃんには可愛がられていたし、もう孝行できる家族はじいちゃんしかいなかった。
私にできる精一杯をしたつもりだった。
ギリギリまで一人で家を守ってくれていたけれど、何年もかけて老人ホームにお世話になるよう説得した。三度目の入院でやっと決心してくれた。
いろんな手続きも姉と一緒に役所の仕事に腹を立てつつ頑張った。
腕っ節の強かった豪傑なじいちゃんは年々気も弱くなり、
息子たちや親戚には見せない弱った心情を聴かせてくれるようになった。
アルツハイマーの影響もあったかもしれないけど思っていたより年を経るにつれ甘えたになり、末っ子の私が「お菓子は一気に食べたらダメって言ったでしょ!」とじいちゃんを叱るととても嬉しそうに大声で笑っていた。
「こんなに小さくて片手で両耳を塞いでお風呂に入れていたのに」と小さな頃から聞かされた話と一緒に「だんだんばあちゃんに似てきて口煩くなったもんね」とやっぱり嬉しそうに私のことを話していた。
◆
そんな祖父がガンだと聴かされたのは祖父が87歳の時だ。
私は主人の転勤で少し離れた他県に引っ越してすぐのことだった。
お医者さんから話を聴いた姉は電話で、保っても3年だと言われたと言った。高齢で他にも病気を持っている為それよりずっと死期が早まることも考えられると。
私は主人やお姑さんにも相談して祖父の病院の近くに家を借りて祖父の身の回りの世話をすることにした。
主人とは離れて暮らすことになったけれど、理解してくれて、祖父はとても申し訳なさそうにしていた。
来なければ毎日のように「いつくる? 死ぬまでにお前の顔が見たい」と泣くのは目に見えてわかっていたので後悔はしなかった。
実際祖父の近くに行くかどうか迷っている間と行くと決めてからの準備期間に半年ほどあったけれど、その間、まだ行くと伝えていなかったのに毎日「いつ来る?」と電話がかかっていた。
じいちゃんのことはよくわかっているつもりだ。
私の主人には本当に悪いことをしたと胸を痛めて、私が主人に捨てられやしないかとハラハラ気を揉み、「本当に大丈夫だよ」と言い含めれば主人と私に心から感謝してくれる人だ。
私には子供はいないが祖父が自分の子供のようだと何度も思った。
祖父は自分の近くにいては子供もできないじゃないかと嘆いていたけれど、私にはじいちゃんの方が大事だよと伝えると、くしゃっと泣きそうになったあと、笑顔を見せてくれた。
◆
祖父は自分はもう元気になれないのかなと私に聞いた。
「じいちゃんは大阪の空襲も長崎の原爆でも生き抜いて、ばあちゃんと駆け落ちして一文無しから一代で色んなものを築いた命に縁のある人だから大丈夫。また元気になれるよ。そのために頑張ってご飯食べようね」と返した。
祖父の死に近いていく毎日に、よく母の時のことを思い出していた。
何もかもが正反対だったからだ。
祖父は私の手を握って縋るように力を込めて
「死にたくない。ずっとお前たちと一緒にいたい」と恐怖を口にした。
祖父が握った手は、私が母に振り払われた手だった。
しわしわで、大きくて、あったかいその手を私は強く強く握り返した。
「私も離れたくない」
その日は泣きながら仮住まいの家に戻った。
◆
15年程前も祖父は心臓の手術で命を落とすかもしれないと言われていた。
あの時も私の命をじいちゃんに渡せればいいのにと願っていた。いつまで経っても子どもみたいなことしか考えきれない。
今でも変わらない。分けられるものなら私の命を分けたい。
昔はじいちゃんこそ長く生きるべき人だと思った。
私なんか早く死んじゃえばいいと思っていた。
でも今は、ただ大切な家族と長く同じ時を生きていたかった。
一緒に生きる為にそう願っていた。
姉に、命を20年くらい分けたいなと愚痴ったら、
「そんなに出さなくていい。私が15年出す」と男らしく言い切られてしまった。
一番上の姉のこういうところが私は堪らなく好きで、また泣いた。
◆
朦朧とした意識の中で最後に紙とペンで祖父は私たちに言葉を残してくれた。
「おれも永生きしてしあわせやった。ありがとうと皆につたえといてね 本当に心の底からありがとう」
こんなことがあるんだろうかと私は信じられない思いだった。
この後祖父は眠る時間が長くなり、楽しそうに誰かとどこかに出かけ何か食べているみたいに口を動かし度々寝言を言っていた。
とても穏やかな時間だった。
しばらくして起きるとちゃんと会話が成立した。
「じいちゃん」と私が呼ぶと目を開けて「うん」と頷いて返してくれた。
乾燥しないように体にボディクリームを塗って、体を摩って、浮腫んだ脚を揉んでいたら
「気持ちのよか〜もうここは天国やろか?」とじいちゃんは寝ぼけていた。
「違うよ! まだ天国に行くには早いよ!!」とみんなで笑って引き留めた。
ある時ははっと急に起きて
「ありがとう〜さよなら〜」
と大きい声を出していた。
「それだけ声が出せるなら大丈夫! まださよならは早いよ!」とみんなで祖父に笑いかけた。
死の間際に感謝の言葉を言える人が祖父だった。
私たちはみんなじいちゃんが大好きだった。
◆
担当の先生はきちんと私たちの目を見て話をしてくれる人だった。とても私たち家族に寄り添ってくれて、たくさんの質問に嫌な顔一つせず納得が行くまで付き合ってくれた。
とにかくじいちゃんが苦しくないように痛くないようにその中でできる限りを尽くしてもらうようお願いした。
ちなみに音信不通だった姉も帰ってきてくれて、私をたくさん助けてくれた。
父は最後まで来なかった。
◆
きっとこれからが長丁場だと思った。
母の時のように眠れなくなる。
きっと祖父も色んなところが乾燥して痛々しくなるんだと思い、モアリップを買った日の夜だった。
それを一度も使うことなく、祖父は一人で静かに息を引き取った。
帰る時も看護師さんから数値は安定していますと言われていたし、終末期の症状も姉と調べてまだきっと一週間以上は一緒におれるよねって言い合っていたのに。
じいちゃんと話もできていたのに、祖父は誰を待つでもなく急激に血圧が下がり、そのまま帰らなかった。
できるだけ気を落ち着けて、でも急いで車を運転して病院に行くと、じいちゃんはまるで寝ているみたいだった。
体もまだ暖かくて柔らかだった。
呼びかけたらまた目を開けて「うん」って頷いてくれそうだった。
耳も遠くて、反応が薄くなった時でも、私の声はよく聞きとってくれて、ちゃんとわかってくれてたのに、いくら呼びかけても、もうじいちゃんは目を覚ましてくれなかった。
冷たくなるまでずっと手を握って他の親戚を一緒に待った。
私はじいちゃんは耳が遠いし寝てると思って、その日「疲れたな」と病室で零してしまったから、きっとそれを気にして長くならないうちに逝ってしまったんだと思った。
私がちゃんと最後は看取るからねって伝えていたのに。そんなに急がなくても良かったのに。私もずっとずっとじいちゃんと一緒にいたかったのに。疲れたなんて言ってごめんなさい。
そんなことや、ありがとうねと、じいちゃんにたくさんたくさん声をかけた。
死後の世界のことはわからないし、幽霊とかは怖いけれど、全く信じていないわけじゃない。
きっと今はばあちゃんが迎えに来てくれて、楽しく二人で色んな話をしていると信じられる。
これもまた不思議なことに、
家に帰ると私の腕時計が祖父が亡くなった時間で止まっていた。
わたしの死
それから私にとって「死」とは怖いだけのものじゃなくなった。
死に方は誰しも選べないし、私がどんなふうに死ぬかはわからないので怖いものは怖いんだけれど、多分私がそうなった時は家族が迎えに来てくれると思えるようになった。
だってじいちゃんとばあちゃんは絶対今一緒にいるって思えるから。
母が亡くなってから何の根拠もなく私も50を過ぎれば割とすぐ死ぬんだろうなとぼんやりと思っていて、家族みんなの最期や葬式がとても嫌だからみんなが辛いとしても私が先に逝けたらいいなとさえ思っていた。
けれど、祖父の死に様を見て、私もこんなふうに死にたいなと思えるようになった。
生きて生きて生きて生き切って、最後は静かに眠る。
子供の予定はないし、多分私を看取ってくれる人はいないと思うけど、ちゃんと大切な人たちの最後を見届けて、私も穏やかに旅立ちたいと思う。
母の死はずっとトラウマで、祖母はまだ生きているような気がして受け止められず、祖父との別れも考えただけで胸が押し潰されるような夜もあったし、何度も涙したけれど、それら全てを優しく包んで乗り越えられるようにしてくれたのが実際の祖父との別れだった。
私は、ちゃんと死ぬためにちゃんと生きようと思う。
誰しもに平等に与えられた選ぶことのできない「死」に向き合うために、生き方だけはちゃんと自分で選んでいきたい。
いつか胸を張って家族に会えるように。