全身に目を向けて変わる、広がる口腔機能の発達支援

<私の物語>
Part1. 身体の弱い未熟児だった

私は昭和40年に、大阪の南部で古くからタバコ・雑貨・燃料の販売店を営む家の第3子として産まれました。2,000gの低体重だったので当時は「未熟児で産まれたんだ」と言われていました。そのためだけかどうかは分かりませんが、身体は弱く、幼児期は喘息で寝ている時に咳き込んで呼吸困難になり、近くの小児科に親に背負われて駆け込んだり、腕に出たアトピー性の湿疹が夏の夜などは痒くて無意識に搔きむしり、血が出てさらに悪化することの繰り返しでした。また、食も細く、少し体重が増えたかと思えば熱を出しては振り出しに戻っていました。
更に、私の記憶では3歳過ぎでも、哺乳瓶の乳首を思い出しては「チュッチュどこ?」と手放せず、首にぶら下げており、その様子を見ていたであろう近所のおじさんやおばさんから、「まだチュッチュしてるんか?」とか「まだおしめ(布おむつ)してるんか?」とよくからかわれ、その都度、子どもながらに情けない、恥ずかしい思いをしたことが心に刺さり、自分でも未熟児という響きに納得せざるを得ない気持ちでした。
このような状況から、小学校の入学にあたっては、何かと周りの大人たちに心配されましたが、ベテランの女性の担任の先生がいつも気を配って下さったことに加え、自身も少しは成長したようで、しばらくは事なきを得たと思っていました。
しかし、時代は高度成長期。夏になると、大阪の堺のコンビナートから吹いてくる風により大阪南部の平野は光化学スモッグが発生し、注意報は黄色い旗、屋外禁止の時は赤い旗が校庭に掲げられることが多々ありました。そんな日に水泳の授業があると、帰宅後には起きていられないほど胸が苦しく、寝込んだことを覚えています。
また、プールの後は中耳炎を繰り返すこともしばしばでした。冬になるとあまりにも鼻水が溜まってしまって教室でかむのは恥ずかしく、トイレの水を流す音に隠れて必死で鼻をかんでいました。
中学生になって、身長や体重が平均よりも飛びぬけて小さい割に運動神経はいい方で走るのが速かったこともあり陸上部に入り、そのまま高校生でも陸上を続けていたのですが、スタートライン(白線)の石灰でいつも手指が乾燥し、時には割れて血が滲むこともしばしばで、体育の授業でバスケットをすると、指先が割れて出血し、ボールに血がついて止む無く中止せざるを得ませんでした。アトピー性皮膚炎は幼少の頃よりも多少は改善しましたが、思春期は首筋に集中して出るニキビのような湿疹もなかなか治らず、やはり皮膚の弱さは感じていました。
もちろん、いろいろな症状が出るたびに通院していたのですが、飲み薬や塗り薬をもらう以外は、これといった対応もない対症療法のみで、季節や体調により一進一退を繰り返していました。そんな中で、高校卒業を前に、母から医療系の専門職を勧められた私は、子どもの頃に通っていた歯医者さんで補助をする女性スタッフをたまたま思い出し、歯科衛生士を目指したのです。 

<私の物語>
Part2. 歯科衛生士を目指す中で見えてきた課題・・・「私って噛めてない?!」

無事に歯科衛生士の卵になって、歯科診療の補助実習で初めて自分の上下顎の歯列模型を作成しました(図1)が、ご覧のとおり歯並びが悪いというか、上下顎が咬み合ってない状態でした。

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