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Photo by
monbon
片隅で
この瞬間にも
パスアウェイ 去りゆく命
奪われる命
後ろ髪引かれる命
そして生まれ出ずる命
自分が生きる喜びに満たされるその瞬間にも
世界のどこかには突然の病に倒れ命の淵をさまよう人がいることを
大抵忘れて私たちは暮らしている
見えないから知らないから
喜びに震えることもできる
昨晩自分の身体の奥底に火が灯るような気がしたことは
恥ずかしいとも思わないし後悔もしていない
経済的にはアフリカやアジアの資源と労働力を安く安く買い叩いて貧しさの上に一部の国の豊かさがあるとは思う
でも、悲しみや苦しみの上に幸せや喜びがあるとは思わないし、悲しんでいる人がいるから笑ってはいけないとも思わない。喜怒哀楽、生死は同じディメンションに同時に存在する
ただ、私は、人と共に生きることを仕事にしている以上
おひとりおひとりに生老病死がつきつけられる場面に
所謂ふつうのお勤めをする人より多く立ち会う
実は、その瞬間にも愛おしい人に寄せる気持ちで
自分が満たされていることや
健康さゆえの身体感覚には
あまりにアンバランスで、自分が当事者でないことに、申し訳ないような罪悪感を覚えてしまうのも本当だ
じゃあ自分も苦しめばそれなら良いのか。多分そうじゃない。私は当事者になることを求められてるわけじゃない。
ただ同時に二つの相反するものが目の前にあることへの居心地の悪さ。
なんで?なぜ?いくら考えたって答えは多分帰ってこないし、お仕着せの答えにスガッテモダメだと思ってる
どちらにも蓋をせずに抱え続けるだけ。
感情を手放すつもりはない。私らしさの源。
ただ、感情に溺れず、静かに、今夜は回復を祈る。