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外山滋比古『日本語の論理』

日本人は文章が下手

日本語を書くのに悩める博士の院生、
外山滋比古先生の『日本語の論理』を読みました。

日本人は文章が下手だときっぱり書いてあります。

日本人はどうも一般に文章が下手なようである。
学者は悪文であることを誇りにしているのではないかと思われるほどである。文章がうまいとかえって学問がおかしいのではないかと疑われる。おかしな話である。

P. 35

下手な文章なら書きなぐりに書いているのかというと、決してそうではない。
下手なくせに苦労している。

p. 36

最近の若い人は日本語がなっとらん!ではなく、政治家も学者も文学者もみんな下手だって書いてあるのが清々しいです。

文章の原型

どうして日本人の文章はひ弱なのだろうか、という問いに対して、
「文章の原型をもたずに書こうとしているから」(p. 37)と明確に解答しています。

文章の原型が身についていない原因として、三つの二重性の問題をとりあげています。

まず、日本語は話し言葉と書き言葉の論理が違うという二重性。
日本語は話した通りに文章を書いても読みにくい。

二点目の二重性としては、知識階級と庶民の日本語の違いをあげていますが、
1987年の文章なので、インターネットが普及した現在はこの点については幾分状況が違う気がします。

三点目は「外国語的発想と日本語的発想の二つが並立しているという現象」(p. 42)です。
言語感覚を身につける幼少期に外国の童話を読んでいて、その言語のイメージ化が進んでいる。

西欧の諸国では聖書が読まれていること、イギリス人はシェイクスピアを暗記しているくらいよく知っていることを引き合いに出した上で、

わが国でも漢文の素読が行なわれていた時代では、文章感覚についての国民的合意があったと想像される。めいめいが原型をもっていた。その伝統がまだ残っていた明治の人たちの文章はいまの人たちの文章にくらべてはるかにしっかりしている。(中略)
書くためには、まず徹底的に読まなくてはならないが、多元的な雑多な読みものは、互いに相殺し合って収斂しないから文章感覚の原型がいつまでたってもできない。そのために一生苦労することになる。

p. 46

いわんとすることは、基本的にしっくりきます。
近代の文章は若い人が書いているものも、しっかりしているという印象はあります。今の自分に文章の原型が身についていないという感覚も理解できます。そもそもお手本となるような名文を知りません。

書くためにまずは読む

外山先生は何度も何度も読んで、何かの文章を暗記することを勧めています。
「できればあまり技巧的でなく、しっかりした観察とか、思想を淡々と記したものがよい」(p. 48)そうです。

文章感覚を身につける順序は、パラグラフ→センテンス→単語の順を推奨しています。

文章を上手く書くには、語彙力じゃないんですね。
もちろん語彙力もあった方が豊かな文章は書きやすいと思いますが、まずは大まかな型がなければ、というお話。


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