団地の記憶
新卒で就職した出版社の同期は今、東京から離れた地で、4児の子育てに加え、会社経営で奮闘している。彼女とは歳も誕生日も同じという偶然から、年に一回「誕生日おめでとう&ありがとう」メールを交換する仲だ。
ある時、私が「あんなことがあったねえ、懐かしいねえ」的な、出版社での思い出を書いたら彼女はスパっと「そうだっけ。忙しすぎて過去のことはとっくに忘れた」と書いてきた。4児の子育て&会社経営の彼女の本音だろうけど、「今を生きる人は、過去は振り返らない」ということを思い知らされたようで、ほろ苦い気持ちになった。
さて先日、夫に付き合ってもらって、私が小学5年生の途中まで過ごした街に行ってきた。コロナ禍で県をまたいだ移動を「自粛要請」させられ、それでもどこかに行きたい私たちは「鶴見線制覇の旅」とか「山手線まだ行っていない駅探訪の旅」とか、運動不足解消も兼ねてあちこち一日旅を繰り返していたのだが、いよいよネタがなくなったうえで決めた行き先だった。そして私はこの訪問で、強く心をざわつかせてしまうことになる。
私は東京都出身だが、文字通りその辺境で生まれ育った。まだアスファルトの整備されていないでこぼこの道路を近所の子どもたち十人以上で土埃をあげて駆け回り、川の源流のある森でカエルの卵やサワガニを採ったり、崖を登ったり、草野球したり、かまくら作ったり、「だるまさんが転んだ」「花いちもんめ」「かごめかごめ」「ゴム飛び」「ケイドロ」「エンピバリヤー(エンガチョ)」……(お若い方には何を言ってるか分からないと思いますが)。要は立派な「昭和の子ども」だった。今はAI翻訳だのオンライン会議だの、デジタル時代に必死に食らいついた気になってるけど、団塊ジュニアの一番人数が多い年に生まれた、子だくさん、泥まみれ世代の子どもの一人だった。
考えてみれば「花いちもんめ」なんて1チーム5人ぐらい、10人ぐらいいないと成立しない遊び。エンガチョも今では「いじめを助長するから」とか言われてできないだろう。1クラス50人×8クラスぐらい、多摩ニュータウンの端のマンモス団地内のマンモス小学校で、校庭や公園での放課後の遊び場の場所取りをするほどイモ洗い状態の子だくさんの中、私は育った。厳密には私の家は団地の近くの一軒家だったけど、この団地ライフにまみれて幼少時を過ごした。
だから今回、外で遊ぶ子供を一人も見かけないマンモス団地を歩いた時。マンモス小学校のあった場所に施設や保育園が建っているのを見た時。通いまくった文房具屋やペットショップがなくなった商店街を見た時。
喜怒哀楽の、どれとも言えない気持ちがこみあげてきた。立派な中年となってとっくに忘れていたと思っていた記憶が、団地の給水塔や貯水池や商店街、ちょっとした坂道や団地の姿かたちで、次々、出てくる。目をつぶると、あのイモ洗いの子どもたちの姿が。
もちろん昔はテレビゲームもネットもなく、外に出て遊ぶしかなかったのだから、久々にちょっと訪れただけで「子供がいなくなった」と断じても意味がない。保育園もあり大学も誘致されてるみたいで、当然ながら街の姿はどんどん変わる。ただ、記憶との違いを前にして、言葉にならないものを感じたのだった。
森の小道とその向こうに立つボロボロのプレハブ。ここは私が通った幼稚園だ。
私は思い出した。
「私、ここまで親に送ってもらって、毎日泣いてた。幼稚園に行きたくなくて」
ふーん、と夫。「そういや小学校も行かなかった時があるって言わなかったっけ」。そう、私はこのマンモス小学校から転校して、新しい小学校に馴染めなくて、一カ月登校を拒否し、そこからなんだかいろいろ、レールに乗れないこじらせ女子になった。つまり、この場所は私の幸せな時代を過ごした場所。あの転校で、私の幸せなガキ大将時代が終わったのだった。
「あなたはいつも行きたくないんだねえ」
最近の「会社行きたくない」愚痴を連発する私に、夫が言った。
「うん。私、ずっと行きたくない人だった。幼稚園からずっと」
「ぶれない人だねえ」
そうだ、私は行きたくない人だった。行きたくないのに頑張って毎日、家出てる。
偉いよ、頑張ってるよ、私。幼稚園に行きたくなくて大号泣してたあの小さい私に言ってあげたくなった。
三街区を歩いた。田中夕子ちゃん(仮名)の家があった。夕子ちゃんは脳の病気があって少しゆっくりしゃべる子だったけど、おっとりしてていい子だった。それこそケイドロやドッジボールで遊んだ仲。その夕子ちゃんが突然、階段で倒れて亡くなった。担任の先生が泣いて、告別式のクラスメイトの挨拶の練習の時に皆が拍手したらすごい怒られて(葬式で拍手はNGと、全員が人生初めて知ったのだった)、後日、友達とお線香をあげにいった。夕子ちゃんのお母さんに「お参り」と言おうとして「お見舞い」と言ってしまって、緊張のあまり友達と笑ってしまったことを思い出した。
夕子ちゃんのお母さんは、38年も前に亡くした娘の同級生が、娘さんのことをかすかにだけど、今でも覚えていることを知らないだろう。
団地の中心には賑やかな商店街があった。「けやき書房」で友達の誕生プレゼントの文房具や学校指定の分度器を買い、ペットショップでリスや金魚を飼い、サンテオレというバーガーショップでジュースを飲んだ。今はほとんどがシャッターを下ろしていた。
極度の緊張でピアノの発表会に出た市民センターもあった。その横に、小さな図書館があった。お母さんが私と弟に、絵本や紙芝居を借りてくれるのを楽しみにしていた。
約40年前の光景があふれ出て止まらない私に、約40年後に私の人生に突然登場してきた夫が、図書館から出てきて言った。
「この図書館、『しずくのぼうけん』が2冊もある。優良図書館だ」
夫は『しずくのぼうけん』という絵本が大好きすぎて、小学1年生の頃、先生に時間を作ってもらい、クラスメイトの前で朗読したらしい(かわいい!)。その本が2冊、確かにあった。
今でも全文暗記しているらしい夫がつぶやいた。
「俺が棺桶に入ったら、一緒に『しずくのぼうけん』入れてね。頼んだよ」
「わかった」
夫は真剣だった。大変なことを託されてしまった。この、40年前に小さな私がピアノの発表会で緊張していた場所で。
ちょうど読んだ朝日新聞に村上春樹さんと小川洋子さんの対談が載っていて、「小説を書くときに、人生経験ってどれくらい意味がありますか」との質問に、村上春樹さんが言っていた。
「記憶が重なり合って絡み合って想像力になるって僕は思ってる。でも、いくら経験を積んでもそれをうまく組み合わせられない人は、ものは書けないですよね」
だからどう、じゃないけれど。
「忙しすぎて過去のことはとっくに忘れた」と言い切る多忙な元同期の彼女は正しい、でも私も過去にしがみついている、などと恥じたりはしない。そんな心の躊躇を蹴りちらす、錯綜する記憶の塊がここにあった。そのかき乱された思いを、記憶や時間の不思議さをただ、かみしめていこう。
この先何十年かして、私が夫の棺桶にこの絵本を入れるとき、私は生まれ育った団地の中にある、この小さな図書館の光景を思い出すのだろう。