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“写真”の語り手とは誰なのか? 大竹昭子×川崎祐『光景』をめぐる対話②

家族の日常というありきたりなテーマを扱いながら、
驚くべき緊張感と密度をあわせもった川崎祐の第一写真集『光景』。
前情報なしの現場で交された写真と言葉についての深くてスリリングな対話─

本記事は、前回からのつづきで、その②です。<全3回予定>
前回までは、こちらから

撮影者とは別に写真の「語り手」がいなくてはならない

大竹:お話を聞いて、やっぱりそうだったのかと思いました。最初に言いましたよね、家族を撮る写真集はいっぱいあるのにこの本は何かが違う、何が違うんだろうと思ったときに、小説と比べてみるとわかりやすいんですけど、この写真集には語り手が存在しているんですよ。
 小説では書き手と語り手は別です。たとえ一人称の「私」が語り手だとしても、語り手=書き手ではないわけです。極端な例だと夏目漱石の『わが輩は猫である』がそうでしょう? 書き手は夏目漱石だけど、語り手の「私」は猫。作者は自分の家庭の様子を猫の身を借りて語っているわけです。それで文芸の世界では、語り手とは虚構化する自意識をもった存在であるということがある程度認知されているけど、写真界にはそれが希薄で、撮り手=語り手(写真の構成者)とみなされることが多いです。たぶん写真は実体あるものが相手だからでしょうね。ところがこの写真集では、撮り手は川崎さんですけど、写真を「物語る人」が存在します。写真をセレクトして、並べて、一冊の本にする過程でそれを意識できたことが、この作品の圧倒的な強さだと思います。

川崎:それはおっしゃる通りです。中上健次さんに『枯木灘』という作品がありますよね。中上健次さんは初期の作品で、複雑な人間関係のなかで育った自分の生い立ちのことをかなり書いています。自分の実存を傷つけられ、また傷つけてもいたという逡巡をめぐって、非常に切実なものが表れ出た作品群なんだけど、『枯木灘』もテーマや素材は基本的には一緒です。でも『枯木灘』は、明らかにそれまでの私小説的な範疇から脱しているんです。「語り」を導入して、自己を突き放して素材を素材として扱うことで、非常に優れた素晴らしい作品が出来上がっている。僕はそこから結構学んでいます。

大竹:なるほどね。写真集の巻末には川崎さんの書いたかなり長いテキストがついていて、そこにきっとヒントが書いてあるんだろうなあ、とは思ったんですけど、あえてそれを読まずに写真だけを見ていって、3回くらいそれを繰り返しているうちに、まるで小説を読んでいるような不思議な感覚に引込まれたんです。それは事実とは必ずしも一致しない、写真によって引きだされた「物語」なんです。
 そのときに思ったんですね。川崎さんが最初の作品集で、家族という身近な素材を取り扱いながら、これだけ密度の高いものを作れたのは、もう一方の手に文学を持っていたからではないかと。イメージの印象でつなげれば作品っぽくはなるけれど、「ぽい」だけで強度が出ないということが、別のメディアに触れているとよくわかるはずなんです。そのいい例を示してくださったように思います。

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セレクトせずに見つづけることを自分に課した

大竹:ここで写真集をめくりながら、私がどのように写真を「読んでいったか」をお話したいんですけど、水辺の写真ではじまります。曇っていて空と水面の境がぼんやりしてますが、画面のちょうど真ん中に水平線がきていて、左から右に一艘のボートが移動していくカットが三枚つづき、めくると二人の女性が手を振っているシーンになって、これが実像ではなく虚像なんですね。水辺に映った反射像を撮っている。

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 そこからの展開がすごくて、中年女性のアップが見開きで登場します。左側はボケていて、右側はピンがあっている。時間は夜で、とても疲れた表情をしていて、この人が独りで抱えている時間が伝わってきます。カメラの存在を感じさせない、この人の部屋に侵入したような感覚に引込まれます。
 次のページがまた素晴らしくて思わず落涙しましたけど、男性です。この人もものすごい疲れていて、ドクターであることが衣装からわかります。マスクをしているけど、鼻の下にずれていて、壁に手をついてようやく身を支えているような状態で、同じ人物が右ページにつづきますが、ここでひとつ密度の高まりがあります。彼の目は撮影者を見ているんですけど、他人がドアを開けて入ってきたときとか、呼びかけられてこちらを向いたりするときのような表情をしている。その前の女性のシーンは語り手との関係を感じさせないけど、この男性のところでは関係性がぎゅっと高まり、見る側のスイッチがはいる。小説でいえばこれから語ろうとする人物に焦点が合うような、そんな感じです。

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 そのあとに、メガネの若い女性の写真を挟んでちょっと怖いページがありますよね。台の上に骨が載っている。骨ってわかると人はぎくっとするし、なおかつ、ここに意味不明な丸いものが二つある。何なのだろうとずっと考えていたんですが、今朝ハッと思いついたんですよ。あ、これゆずだと。ゆずの皮の表面を何度も剥きとったときの跡がついているんだと。それに細いガラス管みたなものもありますよね。それがちょっと注射器にも見える。前にお医者さんが出てくるからそんな連想もするし、その下のほうには白い粉が散っていて、これもちょっと緊張感を与える。よく考えれば、フライドチキンの骨で、白い粉は砂糖かなと思うんですけど、そういうものがまな板にしちゃ広すぎるし、テーブルにしてはあまりにそっけない感じの板の上に脈絡なく散らばっている様子が不穏な印象を与えます。
 右ページの写真も投げやりな感じで、洗っていない食器の山の上に、これから使うらしい野菜がざるに入っていて、そこに包丁も突っ込まれている。ここまででかなり予感のようなものが膨らんできて、見る気満々になるわけですけど、その後、この写真がきて、前に出てきたドクターは歯医者だったとわかる。さらにはこの人たちはみんな家族だな、家族以外の人をこんなに密接に撮れるはずがないなと確信するわけです。ここまでが第1章ですね。

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大竹:これ、セレクトが大変だったと思うんですけど、どういうふうにやりましたか。

川崎:良さそうなものをセレクトするっていうことをある期間は続けていたんですけど、無意味だと思ってしなくなりました(笑)

大竹:イメージの善し悪しでふるい分けするのでは埓が明かないと。

川崎:それをやってもコマ割りにしかならないと気づきました。状況とは無関係の人が「良い」と思ったものを使って作品を作るのと同じで、あまりよくない方向に作品を追い込んでしまうなあと思ったんです。

大竹:ポートフォリオ・レビューなんかで講師がパッパッパと写真を見て「これはこっちのほうがいいんじゃない」なんて入れ替えたりしますよね。撮り手が何を語りたいかわかっていなくても、写真の見え方でシークエンスを組むことがスナップショットだと出来てしまうけど、それをやっても仕方がないということに……。

川崎:わりと早く気がついたかもしれませんね。だから、撮ったものを、見る、見る、見る、以上終わりって感じで、そこでは選ぶことはしない。振り返りつづけるし、考えつづけるけど選択はしないということを、自分に課していたんです。

大竹:見ることはもう一度撮影するのに近いです。見たものを観察して再びシャッターを切る。

川崎:かなりの量を撮っているので、次の撮影くらいまでに直近の撮影分を見終え、見る感覚を持ち込んだまま次の撮影が始まるということが、ずっとつづいていった感じです。

大竹:撮ることと見ることが等価になっていったわけだ。

川崎:そういうことを繰り返していったら、あるタイミングで、「あ、もうないな」というところまでいったんですね。
 一旦まとめるしかないと。そこから、いわゆる編集に入るんですけど、何万枚もあるので良い悪いの価値基準みたいなものが溶けていて、選べない。選ぶ基準を設けたら選べるのだけど、それではつまらない。たぶん「ファミリーストーリー」的なものにしかならないということがわかっていたので、じゃあそうじゃないことをするにはどうすればいいかというところで、「書く」という行為を思い出すことになったんです。書くことは言葉の組み合わせとも、ある種のパッチワークともとらえられるけれど、そうではない書くという行為がおそらくあるはずで、それを持ち込んだつもりです。

大竹:意味でも、テーマでも、ストーリーでもない書き方ということですか?

川崎:例えば、僕はサミュエル・ベケットの良い読者ではありませんが、彼の『ゴドーを待ちながら』という作品は見方によってはものすごい退屈ですよね。唐突に始まり、唐突に終わる。筋を話したところでつまらない。二人の男がひたすらゴドーを待ち続ける毎日を続ける…そこで語られる内容も、ほとんど世間話と同じ内容なのだけど、あの二人の男はそんなに不幸せではない感じがするんです。つまり、おそらく死ぬまで(ゴドーを)待ち続けて同じような時間を毎日生きることに、良い悪いを超えてなんだかとっても納得ができる。それが生きることであるという確信めいた何かがある。人は生きたりとか、生活したり、何かしらの形で苦しんだりとか、楽しんだりっていうことをひたすら繰り返しますよね。だから生活の中のドラマティックな場面を象徴的に切り取ったならば何ものかを物語ることができるんだけども、おそらくそういうことではない。少なくとも僕が魅力的に思ってきた文章表現における生のあり方は、退屈で、なんでもないものの繰り返しをいかに愛するかという行為に近いんです。そういう感覚を写真の編集作業に持ち込んだっていう感じなんですね。

大竹:物の見方が定まって、見せたいものがくっきりしてきた。

川崎:決定的な瞬間であるとか、写真としてよくできているものを堂々と省くことができたんです。

大竹:小説で言うなら文体が決まったということですね。


            
ページをめくらせる力とは何だろう?

大竹:さっきから「語り手」とか「物語る」という言葉を使ってきましたが、ここでその言葉の意味を確認しておきたいんですけど、たしかに『ゴドーを待ちながら』は起承転結めいた筋立てのある作品ではないですし、この写真集もそのような意味での筋はないんですけど、ページをめくらせる力はあるんです。それは何なのかということをここで考えてみたいのですが、構成するときにそれをどう意識しましたか。

川崎:写真には撮影と編集という二つの行為がありますよね。この二つの行為は別に同じ人がしなくてもいい行為です。実際に撮影だけをして、編集は他の人に任せる写真家もいます。どちらが良い悪いではなくて、スタイルの問題だと思いますが、僕は編集を他人任せにはしていません。それは、カメラという機械を用いて行っているはずの撮影が、像としては写らないはずの「私」の気配らしきものを写真の中に写してしまっているように感じるからなんです。いわゆる「私写真」は一人称をある意味では過剰に、そしてときに演出を交えて表出させますが、そんなことをしなくても写真には、控えめな形であれ「私」の気配や影らしきものが写ってしまうものだと思うんです。厳密にはあり得ないことかもしれませんが、実際に撮影して現像されたものを眺めているとそう感じさせられることが結構あります。その「私」は必ずしも撮影者自身ではなく、撮影者と少し距離のある奇妙に希薄な一人称なんです。このいるのかいないのかよくわからない、とても控えめな「私」らしきものを編集作業に持ち込んだのがこの作品の企みのひとつでした。つまり、撮影を経て生じた「私」らしき者を「語り手」に設定してこの作品を語らせてみようと思いました。実はその「私」はテキストの「わたし」という一人称にも続いているんですが。書く私と書かれる「わたし」は別物なので。とにかく、そういういくつかの試みの結果として、この作品の中にいくつかある脈絡のない謎めいたシークエンスも選ばれたのだと思います。

大竹:エピソードのようなものも挿入されています。ここからそれがはじまるんですけど、ガラス窓のアップで、そこに何かの電動の道具を握った手が写ってます。ページをめくると、これは歯医者の道具ですよね。

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川崎:そうですね。

大竹:ということはこの手はお父さんだなと。つぎにハンマーでその窓ガラスを叩いて、そのあとにガラスの破片を持っているシーンがあります。わあ、やっぱり割ったんだとわかります。最後にお父さんのホッとした顔が出てきて、どうして割ったのかは意味不明だけれども、非常に気になるシークエンスです。この一連のシーンは演出かなとも思ってトークの前に伺ったら、「演出じゃなくて本当だ、トークのときに訊いてくれていい」とおっしゃったのでいま訊きますが、これはいったい何をしているんですか。

川崎:昔住んでいた家が今は放置されているんですね。写真を撮りだしたらその家の中がどうなっているかとか気になった。そこで、家に入りたいと言ったら父親が鍵をなくしていて、そこで彼が「割ろか」って言ったんですね。目的に対する答え方として間違ってはない。割ってしまえば、中から鍵を開けられる。でも倫理的にはよくないですよね。父親はそういうことを平気でやる人で、写真を撮っていなければ僕は怒ったでしょうけど、やればいいんじゃない、って。多分母親怒るだろうな、と思いながらも、そのままつづけました。そのときのシークエンスです。

大竹:こういう工作に慣れているということよね、お父さんは。

川崎:多分、何回もやってるでしょう。手口を知ってる人ですよね。自分の家だけであってほしい(笑)。

大竹:なるほど。こういうふうに聞くと謎が解けますけど、そうでなくても不穏な感じが伝わってくるんですよ、このシークエンスでは。巻末の文章に「夫婦喧嘩が酷い」と書いてありますよね。それで夫婦喧嘩がはじまると、お父さんは家を追い出され、扉に穴を開けるとあります。

川崎:プレハブの扉なのでのこぎりで切れるんですよ。そしてこういう彼の行為を僕は幼少時代に何度も見ている(笑)。

大竹:いざとなれば穴を開けてでも家に入ってくるお父さん。

川崎:その度ごとに嫌われてしまう。

大竹:それと、さっきの写真で見たように彼は歯型なんかを捨てないでとっておく人ですよね。

川崎:片づけられない人なんですよ。あそこは歯型を作る作業場なんですけど、あれを見ながら毎日作業しています。

大竹:それとお母さんのいる台所の空間もなかなかです。

川崎:うん、すごいですよね。

大竹:やたらにボトル類が目立ちますが。

川崎:整理整頓されていませんよね。

大竹:夫婦そろって片付けがへたであると……。

川崎:整頓された場所にいると落ち着かない人たちなのかもしれませんね。

大竹:考えたら、どこでも実家ってこんな感じなんではないかと思うんですよ。家族持ちがひとところに長く住むとこうなっていって、人の家だとぎょっとするけど、よく考えたら自分の実家がそうだったりします。
 それと漫画本が散乱しているシーンがありましたよね。97年のばかり。

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川崎:これはあの窓破りの続きです。窓を破った先にこれがある。

大竹:そうすると洗濯を干しているシーンの後ろがその家ですか?

川崎:その隣にある家です。

大竹:このシークエンスから私が感じとったのは予兆です。何か起きるんじゃないかという予感に引っ張られてめくっていく。見ながらこちらが身構えていくんです。もしかしてこれは川崎さんの体質的なものかもしれないし、写真ってそういうものが出てしまうんですね。

(つづく)

“写真”の語り手は誰なのか?
大竹昭子×川崎祐 『光景』をめぐる対話③はこちらから

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川崎祐写真集『光景』はこちらから

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223mm × 283mm |上製本| 168ページ
ISBN: 978-4-86541-105-8 | Published in December 2019
発行:赤々舎 


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