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初投稿。ボキャブラリーについての話。

 あかあかちゃんまんです。長らく、インターネットは見る専だったのですが、自分の日々の記録をnoteにつけてみるのも乙なもんじゃないかと思い、始めてみます。日記?エッセイ?のようなものになるかと思われます。

 本来、日記の初投稿であれば、自己紹介をするべきなのでしょうが、主人公の人格が物語が進むにつれて次第に明らかになっていく…といった小説の展開に憧れを抱いているため、代わりに私の人となりがよく理解していただけそうな話題を一つ。

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 ボキャブラリーとは、個人の人生そのものだ。この世に生を受けてから現在に至るまでに関わってきた家族や教師、友人、パートナー、同僚、本や映画やゲームに漫画、SNS等を元にして形作られ、それは個人の思考の方法まで固定する。
 誰一人として特定の個人と同一のボキャブラリーを持つ人間はいないが、似たボキャブラリーの人というものは存在する。例えばそれは、同じ環境で長い時間を過ごす家族同士、同僚同士などだ。
 私は普段、子どもを相手にした業務を行っていることもあり、大人との会話は家族かパートナーがそのほとんどを占める。家族もパートナーも私と長く同じ環境で長い時間を過ごす仲間であるから、(少なくとも私との会話をしている間は)必然的にボキャブラリーが似てくる。

 今日、久々に、友人二人と食事に出掛けた。二人は音楽家で、私とは違った感性や体験をしているため、彼女らと会うことは、私に常に新しい学びをもたらしてくれる。
 このように、私とは異なるバックグラウンドを持つ相手と会話するとき、必ずついてまわるのがボキャブラリー問題だ。
 当然ながら、彼女らは私とは全く違ったボキャブラリーをそれぞれの人生で構築してきた。誤解を恐れずに言えば、彼女たちは諺や慣用句、四字熟語など、私が息を吐くように口にする種のものを、私よりはあまり使わないし、知らない。当たり前だ。私がぬくぬくと図書室の本を楽しんでいた時間に、彼女たちは血反吐を吐く想いで練習に励み、楽譜の解釈に頭を悩ませていたのだから。しかし彼女らは私の知らない世界を嫌になる程知っており、それこそがお互いに尊敬の念を持って接し合っている所以である。

 ボキャブラリーが大きく異なる相手と会話するとき、私は本来思いついた言葉を発する前に、「いや、これだと意図が伝わらずに、語彙力マウントとってるみたいになるぞ」と校閲を入れ、実際には校閲後の平易な言葉を発する。いや、私だけでなく、誰もがそうなのだろう。相手に伝わりやすい表現を選び、発音する。この作業を、誰もが経験しているのだろう。
 この行為から学ぶことも多い。自分の考えや言いたいことを別の言葉によって捉え直すことで、かえって思考が整理されたり、その結果、「これは言わなくて良いことだな」と気が付くことができることもある。
 しかし、その翻訳作業を行う過程で、自分の本当に言いたかった言葉が歯の隙間からポロポロこぼれて、微妙にニュアンスの変わった言葉へと変化し、自分が本来表現したかった感情の行き場がどこにもなくなってしまうような感覚を時折覚えるということも、私は無視したくないのだ。ボキャブラリーの大きく異なる相手との対話において、この現象は頻繁に起こる。

 では、どうすればよいのだろうか。私は、行き場をなくした感情たちに、してやれることは何もないのだろうか。
 実は、二つ思いついている。
 一つ目は、こうして文章にしたためること。このnoteは私が日々思ったことを綴るものであるから、翻訳する必要がない。
 二つ目は、ボキャブラリーを増やす努力をすること。私よりも広く深いボキャブラリーを持った人が、私との対話において、翻訳の過程で感情の行き場をなくすことが可能な限り減るように、私の側で努力をするのだ。

 ちなみに、私はボキャブラリーについて、広く深い方がいい、狭く浅いことは好ましくない、とは特に考えていない。人にはそれぞれの人生に応じたボキャブラリーが形成され、そこに優劣はないと考えている。あくまで、感情の行き場がなくなることを個人的に残念に思っており、その対策を自分なりに実行してみるつもりである、というだけの話だ。

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 こういったテイストの日記を投稿していきたいと思っています。よろしゅう。

2024/05/25 あかあかちゃんまん

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