映画版『ルックバック』のある感想に対する覚書:創作のための戦訓講義90


事例概要

発端

※『チェンソーマン』藤本タツキの漫画『ルックバック』劇場版が公開された。

※ある感想に焦点が。

※なおここで焦点があたった感想は「ルックバックで感動できない人は努力したことがない人」云々のニュアンスの部分。元が画像引用の上、ポストも消えているので大元を持ってこられなかった。

※なのでここから先はざっくりとしたメモとして。

感想に対する反応のメモ

作品の問題点

以前の言及1

※作品が抱える批判点のひとつは本作がいわゆる「京アニ事件」を下敷きにしているということ。

※単に事件を想起させると言うだけでなく、公開日からして事件との関連を匂わせることでPVを稼ごうという意図を読み取るに妥当な状態だったこと。

※そのうえで、精神疾患患者への偏見をばらまきながら商業的注目を集めるのに利用していたことが問題点のひとつとして考えられる。

以前の言及2

※ジャンプ+で掲載された作品は終盤の一部が変更された。ただしこれは批判を受けてただ変えたと言うだけのことで、そこに問題を受け止めた様子はない。

※通り魔の描写を偏見を助長しないよう変更したわけだが、案の定表現の自由が大好きな人びとからいろいろ言われた。

※映画版の内容についても修正前に戻っていると思いきや、単行本になるに際しさらに修正されていた模様。

※本作が抱える表現の問題については齋藤氏の記事が詳しい。

個人見解補足

 今回の発端となる映画の感想は、ある種の象徴的なものなのかもしれないと思える。「オタク」であることにアイデンティティのある人間が持つ、クリエイティビティに対する「自分はそれを持っているはずだ(=だからオタクだ)」という認識のうっすらとした発露なのかもしれないと思う。

 引用した私自身の当時のレビュー記事にもあるように、通り魔を「ありえたかもしれない自分」だと思う層は一定数いた。私もその一人ではあったが、私自身については明確な経歴からくる不安感がその中心ではあっただろう。だからこそ『ルックバック』の感想が持つ「尊いクリエイター」と「心でもいい障害者」の区分けにかなりナーバスになった部分があるわけだ。

 しかしそうしたネガティブな感情ではなく、むしろヒロイックで劇的な可能性として通り魔を見ていた層がいたように思う。そしてそれは、とどのつまりは今回の感想が持つような「この作品に心を動かされる自分は特別」という選民思想の現れのひとつだったのかもしれない、と思えた。

 『ルックバック』はクリエイターの苦悩のひとつを描いた傑作ではあるだろう。ただそれはあくまで一面でしかない。あれはあの二人の物語であって、あの二人は決して自分たちではないしあなたたちでもない、ということか。物語の持つ威力として、まるで自分たちが作中の人物そのものであるかのように心を動かされることはあるが、それは決して自分たちが作中の人物と同じであることを意味しない。

 一方で、作中で特定の属性の人間が偏見を持って描かれれば、それは現実に影響する。というより、現実の偏見が物語に現れ、それによって再び現実へ投射されるのだ。感動する読者は自分自身が作中の人間ではないのに心を動かされる一方、偏見をもって描かれる対象者は自分自身ではないどころか特性すら十全に描写されなくても、それは即座に自分たちのことになってしまうという非対称がそこにはあるのだろう。

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