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この夏、俺はほんとは”夏フェス”に行きたかった。

「ヤクルトY1000」がどこに行っても売り切れているけど、実はもうこの世から無くなっていて、みんなそれに気づかずに売り場のスペースを確保しているだけじゃなかろうか…?

そんなことを考えていたら8月31日を迎えていた。お盆休みの頃の攻撃的な暑さはどこかに行ったのか、最近ずいぶん涼しくなったと感じる。夕闇から聞こえるセミの鳴き声はコオロギの鳴き声へと変わり、うっかりしていると、まだ来てもいない十五夜向けのお団子と稲穂を用意しそうになる。
そう、暦の上では秋が近づいているのである!秋が近づいているということは、夏が遠ざかっているのである(小泉構文)。夏の終わりは、他の季節が終わる時と比べると、とりわけ寂しく感じられる。暑くて外出もままならないし、海水浴場の近くに住んでいる人は常に渋滞に悩まされるだろうし、蚊やゴキブリとの遭遇率は増えるし…。そんな季節だけどとりわけ寂しいのだ。
以前、誰かが言っていた「夏の気候は苦手だけど、夏という季節の“概念”は好き」という一文にえらく共感した覚えがある。我々はいつも、この夏という季節の“概念”が生み出す底知れぬ魔力の虜になっているのだろう。
特に今年の夏は、3年ぶりに移動制限が無かったこともあり、夏を象徴するイベントが各地で行われた。夏まつり、花火大会…挙げ出したらキリが無いだろうけど、なかでも個人的に一番馴染みがあるイベントは「夏フェス」。『ロック・イン・ジャパン』や『サマーソニック』といった、音楽のフェスである。

そして、自分は今…この夏フェスに行かなかったことを少し後悔している。そう、「馴染みがある」とか言いながら、結局はどのフェスにも行かなかった。お目当てのアーティストが出演しなかった、流行り病の感染が怖かった…などなど、理由は多々ある。しかし、知人たちが夏フェスに行って無事帰還し、ひと夏の思い出に浸っていたのを見て、「羨ましいな」と思ったのが正直なところ。
なんと言っても夏フェスの魅力は、音楽を「楽しまなくてもいい」自由というか、余白が与えられていることだと思う。ワンマンライブだと、開演から終演まで終始その世界観に浸っていられる反面、ずっと集中して観ていよう、楽しもうとして肩に力が入ってしまうのも事実だと感じる。
夏フェスにはその制約がない。肩の力を抜いて過ごせるのだ。何か所かステージがあるが、どれを観ていてもいい。途中から観始めてもいいし、ステージ前にいなくても、近くでご飯やお酒を口にしながら観ていてもいい。
逆に、何も観ていない時間があってもいい。どこにいてもどこかのステージの音楽は聴こえてくるので、そんなふうに脱力していても常に音楽が寄り添ってくれる。あの非現実感がなんとも恋しい。

最近の自分の日常を振り返ると、仕事では生産性を求められ、余暇においてもSNSやストリーミングサイトの台頭で、何かの発信や消費に追われ過ぎていると感じる。あのTV番組を見ないといけない、あのチャンネルが動画更新しているから見なきゃ、こないだ行ったとこSNSに載せなきゃ…とか、そんなことも気づいたら肩の力を入れてやってしまっている。そして、きっとそれは自分だけじゃないはず…とも思う。
この現実社会に「余白」が希薄である限りは、あの音楽が鳴り響く余白だらけの空間を、何度でも恋しく思うのだろう。

…とかグダグダ言うてたら日付越えてしまっていた。今日は8月32日で合ってますかね?


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