「語学だけじゃダメなんだよ」の裏にある陰湿さの正体は?
語学学習者を必要以上に嫌う人たち
noteでいつも貴重な中国情報を得させていただいている華村@中国さんの”「外国語ができてなんか意味あんの?」について考えたことの記録”を読んで、私も考えてしまった。
報道現場に長い間身を置いていたが、少し言い方や意味合いは違うものの、「語学だけできても仕方ないんだよ」という言葉を口にする人がとても多かったことを思い出したからだ。
ここでいう「語学だけ」というのは、文字通りの「語学”だけ”」ではない。語学の勉強ばかりやって肝心の取材をしない人に使うなら、その言葉は本当によく分かる。しかし、そうではないシチュエーションで理不尽な、言いがかりのような使われ方をする。この言葉の裏には、いやーな感じの、陰湿さを含んだ、意地悪なニュアンスがあるのだ。
国際ニュースの現場にも多いことにびっくり!
それも、外国と無縁の人の言葉ではない。国際ニュースを扱ったり海外特派員として華々しく活躍する人たちの中にもこういう人が相当いることに驚かされてきた。
もちろん(自分が望むほど、世間が期待するほどには)語学ができないことをコンプレックスに感じ、それを誤魔化したり正当化する意図が見え隠れする場合もあるが、古い体質の日本の組織では(うちの組織or業界だけか!?)結構こういう考えが主流派に蔓延っていて、そういう人が、なぜかよく出世をするので、タチが悪い。
語学ができなくても全然構わない。でも、特派員として赴任している国の人が話す言葉、看板、新聞、ニュースが全くわからない状態で、“気持ち悪くない”、知りたいという気持ちが起きてそうもない人を何人も見てきて、それが不思議でならない。
その背景には、企画から、一次情報の入手から、翻訳からアポからインタビューから、素材の音の切り出しまで、現地のリサーチャーが全てやってくれる、という人も少なくないという事情もあったりするが、それにしても・・その職業やってて、それって・・・
少年時代より、言葉や文化を学ぶことから広がる可能性を信じてやってきた自分としては、語学を必要以上に軽視されるといつも腹立たしく、虚しい気持ちになる。
また、日本だけの話でなく、私が見た中では、特に中国やアメリカの普通の人たちに、外国語を学ぼうとさえしない人が多いなあという印象がある。”超”大国ゆえ、かもしれないが、世界でおきる衝突とも無関係ではない気さえしてくる。
「機械翻訳」 実は、なんだかんだ言って・・・
華村さんの記事の中にも、「機械翻訳使えばいいでしょ」という考えについて触れられていたが、実際機械翻訳はどうだろう。実は先ほど職場のAI翻訳(普段は使わない)を、あらためて試してみたら、実は・・・
あれっ、結構良い!?(笑)
「やっぱり機械じゃだめだ」と言いたかったけど、ちょっと変だけど、結構良い。
ただ職場のものは日英しか使えないので、Google翻訳がどの程度のものなのか、英語と中国語で、あらためて見てみようと思った。結果は・・・
おお、やはり職場のやつよりも、だめだったな。
I can learnは全然違うし、外国語と言う意味の語学も、a languageだし・・
でも、”むなしい気持ちにさせられる”は、”私は”と書いていないけど、”me”と訳してくれてはいる。では、中国語はどうだろう。
ありゃりゃ、やはり中国語も、英語と同じパターンの間違え方だ。
で、”意味あるの”のあとに”?"を入れると、
・・・と変わった。中国語は特にまだ変だが、?を入れるだけでこんなに変わるとは。そういう意味では、まだ不安定だ。言葉を仕事にしている人間としては、ある意味”ほっと”する・・・だろうか。職場のAI翻訳も、結局最後は人の手で直すので、ある程度の翻訳力のある人は最初から自分で書いた方が断然早い。
言語学習で、世界がどんどん広がる
でも、そういう問題じゃない。
AIはこれからどんどん進歩を遂げるだろうが、そういう問題じゃない。
自己紹介の記事にも書いたように、また華村さんも書かれているように、外国語を学ぶことは、とにかく世界を広げる。”言葉には文化がもれなくついてくる”ので、それを学ぶことは、自分とは異質のものを知ろうとすることであり、それは多角的なものの見方にもつながる。
で、何よりも、それは楽しい。
「英語×中国語=∞!」とうたってはいるが、私はどんな国にいっても必ず最低限の挨拶と形容詞、そして「〜語で〜は何といいますか」をその国の言葉で何と言うかを聞いて、それを使いまくって覚えまくる。アフガニスタンでも、スリランカでも、ロシアでも、その方式で、どんどん目の前が開けていくのを体験した。
もちろん、それは最初は表面的なもので、そんな簡単に異文化コミュニケーションができるだなんて毛頭思っていない。しかし、”取っ掛かり”としては上等じゃないか。そこからどんどん知っていく楽しみが広がり、まずは相手が目を輝かせてコミュニケーションを始めてくれる。そこからスタートして何年もつきあってくれている人たちが何人もいる。
楽しんだ者勝ち
華村さんが結論(?)として「これを分断にしないように、楽しそうに生きよう」と書かれていたが、全く同感。そして、私が長年感じていた違和感も、一種の「分断」ともいえるものだったんだとあらためて認識した。
そして、楽しむ、と言えば・・・
例えば、マラソンの例で考えると、
できない私は「なんか役にたつの?オリンピックに出るわけでなし、ジョギングでいいんじゃないの」と言うかもしれない。
しかし、やっている人は、「完走できた時の喜びはひとしお、友達もいっぱいできたし、健康になったよ。しかし何よりも楽しいからやってるかな」と言うかも。そして、理屈よりも、楽しそうな姿を見たら、自分もやってみたくなるかもしれない。そして自分も始める時・・その「分断」の壁を越えるのかもしれない。
だから、「語学だけできてもダメなんだよ」と言われても、「語学だけできるだけでも」楽しいのに、それ以上できたら最高だね、と考えたらいい。
想像するだけで楽しい世界が広がるのだ!
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AJ 😀