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忘られぬ、パラアスリートの一言 「これ、社会面ですよね」

北京パラリンピックが閉幕した。でも今日は、ウクライナや中国絡みではない。純粋にパラスポーツについて、私の見方を大きく変え、何十年も耳に残っている一言について書こうと思う。

長野パラリンピックを目指す選手の一言


その一言を聞いたのは、1998年長野冬季パラリンピックの前年だっただろうか。駆け出しの取材者として、パラリンピックへの出場を目指す地元選手の取材をしていた時だ。

子供の時の病気で下肢に障害を持つその青年は、地元信州開催のパラリンピックにチェアスキーでの出場を目指していた。普段は車いすバスケットボールの選手として活躍している彼が、地元の体育館でのバスケの練習を終えた際、爽やかな笑顔で、さりげなく私にこう言った・・・・

「この取材、新聞で言えば”社会面”ですよね?」


・・・私は実はすぐには彼が言わんとしていたことがわかっていなかったかもしれない。しかしその後、じわじわとこの言葉がボディーブローのように効いてきて、長年心に残ることになる。

パラ選手と取材者の間の違和感


彼が言いたかったのは、「これは純粋にスポーツの選手の密着取材じゃなくて、”頑張る障害者”を紹介する企画なんでしょ」と言うことだったんだと思う。「スポーツニュースじゃなくて、社会や福祉の話題なんでしょ」と。

彼はとにかく格好よかった。そして男性にも女性にもモテそうな、誰もが憧れるスポーツマンだった。全て手で操作できる障害者仕様のスポーツ車を颯爽と乗りこなして職場や練習場を移動していたのも格好よかった。車いすバスケやチェアスキーの練習も見たが、彼の鋭い目つきや、俊敏な動き、そして仲間との談笑の姿は、ただただ、スポーツマンだった。

しかし、彼が柔らかい言葉の中にもずばりと本質を言い当てたように、我々がやろうとしていたのは、”障害があるのに、頑張っているすごい人”という切り口のリポートだった。今思えば、その時はどういう練習をしてどういう記録を目指しているか、ということよりも、どういう障害があって、それをどう克服しているか、ということに力点を置いていたかもしれない。

会社のデスクからも、「彼が幼少期に病気になったことがわかる写真はなんとかして手に入らないか」と言われていたので、子供の頃の写真を探してもらうように頼んだ。彼は、やはりまた爽やかな顔で「いやあ、昔の写真あんまりないんですよ」と言っていたが、本心はあまり出したくなかったのだと思った。

確かに、ある程度は、パラ選手がどういう障害をどう克服しているのか、ということは知りたくなるし、知ると私たちを感動させるものであったり、勇気づけたりするものであったりはする。なので全てこれを否定するのは違うとは思う。

しかし、ひとつ言えるのは、この選手が普段考えていることと、取材する側が伝えようとしていることの感覚は、かなり違ったということだった。

彼は、取材を受けた理由として、確か、「まあ、パラスポーツを少しでも知ってもらえるのに貢献できたらいいかな」と、軽い感じで言っていたが、後で思えば、取材の方向性に違和感を感じながらも、そしてどう伝えられることになるかも知ったうえで、大きな目標のために取材を受けてくれたんだと思う。

私は、そういうことに気がついてからは、自分の未熟さ、”浅さ”に恥ずかしくなったが、逆に彼や他のパラ選手を、とにかくカッコいいと感じ、よりスポーツとして見るようになった。

そのきっかけが、この「社会面ですよね」だったのだ。

アイススレッジホッケーでも衝撃を受ける


実は、彼の他にもパラアスリートを取材したのだが、アイススレッジホッケーの練習を撮影した時に、こんなことがあった。

リンク脇でカメラを構えていたのだが、なんか、変だ。パックが私のいる方向にやたら飛んでくる気がする・・・

そして、それはすぐに確信に変わる。”気がする”ではなく、彼らはわざとにパックを私のいる方向に時々飛ばしている!

その時私は、カメラを持って、リンクの脇のフェンスから身を乗り出すような感じで撮影をしていた。普通のアイスホッケーだったら危なすぎてそんな撮り方は厳禁だったはず。きっと私は、アイススレッジは、アイスホッケーよりスピードも遅いし、これぐらい近づいても大丈夫だろう、とたかを括っていたのだと思う。

しかし選手たちにとっては、「危ねえぞ、なめんなよ」ということだったんだと思う。スレッジでの選手同士の激突はものすごかったし、飛んでくるパックのスピードたるや、ど迫力だった。この時感じた恥ずかしさ、情けなさは、今もまだ覚えている。

パラスポーツはこの24年で変わったか


話を今のパラリンピックに戻そう。
長野大会から24年。パラスポーツに、そして私たちの意識にどんな変化があっただろうか。

もちろん色んな課題は山積みだろう。まだまだ、前述のような選手と報道のミスマッチ、違和感もあるかもしれないし、見る側の意識もまだまだかもしれない。スポンサーをどう確保するかなどの問題もあるかもしれない。

しかし、今大会でも、多くの、格好良いスター選手が生まれ、間違いなく24年前よりも、純粋にスポーツとして見られていると思う。その裏には、スポーツとしての発展に尽力されてきた多くの人々の努力があっただろうし、社会自体も成熟の度を少しずつ増しているのかもしれない。

詳しいことは、専門でもなんでもないので全然わからない。でも、少なくとも自分は、純粋に「すげえな!」と、スポーツとして競技を観るようになっていることは確かだ。

今自分は、パラスポーツを取材する機会は全くないが、もしチャンスがあれば、どうするだろう。選手から「社会面ですか?」と聞かれたら、なんて答えるかな。

「はい。社会面でも、スポーツ面でも大きなニュースになると思うので伝えたい。ぜひ、取材させてください。」と、答えるだろうか?

「社会面」、やっぱり興味あるのだが、今後パラリンピックというものがどんなに大きくなろうとも、五輪のように、国威発揚やら、金鶏腐敗やら、ドーピングやら・・・とは無縁であってほしいと思う。

ただ、今回のウクライナ選手の活躍には胸打たれた。彼らの発したメッセージは世界に影響を与えたのも確かだ。

そういう意味でも、パラリンピックは「スポーツ面」でも「社会面」、さらに「国際面」「政治面」でも存在感を増しているのかもしれない。


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今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました!
AJ 😀


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AJ 「英語×中国語=∞!」英中両語で、世界を広げる。
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