坂本龍一さんとYMOを懐古し続けた一週間
坂本龍一さん、そしてYMOとの出会い
音楽家の坂本龍一さんが、71歳でこの世を去ったとのニュースを聞いて以来、この一週間、毎日ずっと彼の、そしてYMOの思い出を辿り続けた。
YMO=Yellow Magic Orchestra。この奇妙な名前の、謎だらけの集団が、”逆輸入”で日本で旋風を起こし始めた時、私はちょうど小学校から中学校に入る多感な時期だった。
インベーダーゲームのような、ピコピコしたコンピュータサウンドで、テクノ、などという表現だけでは説明できない、とにかく謎だらけの世界に夢中になっていた。今年に入ってドラムの高橋幸宏さんが亡くなって、それを追うように坂本さんが旅立ち、否が応でも私は当時のYMOに魅せられた日々を追憶するモードに入ってしまったのだった。
YMOを覚えたきっかけは同級生のお兄さんだった。私はもともと鍵盤をやっていたこともあり音楽に興味があったが、このYMO、大ヒットの坂本さん作曲のTechnopolis(テクノポリス)と高橋さんのRydeen(ライディーン)を聴いた時の衝撃と興奮!・・・のその後が、なんかしっくりこなかった。無機質なフレーズが何回も繰り返され、時折入るボーカルもお世辞にもうまいとも思えず、最後はいつもフェードアウトしていくような曲がなんか変で、そのお兄さんに直接そう言ったのだが、彼は、スピーカーが四つもついた高価でどデカい憧れのラジカセ、PioneerのRunaway S-400で私にYMOの曲をテープにダビングをしてくれて、こう言ったのだった。「もっと聴き込めば、だんだん良さがわかってくるよ」、と。
アジア的なメロディーの虜に
そして、私はそのお兄さんの言葉通りになった。「教授が(坂本さんの愛称)、ユキヒロが、細野さんが」としょっちゅうファン仲間と語るようになった。
自分で敢えて分析するならば、彼らの音楽のどこに惹かれたのか、よくわからない。でも当時、英語や国際的なものに関心があり、音楽は洋楽に傾倒していた私は、世界に関心を持つがゆえに、逆にアジア的なアイデンティティーを意識し始めていた。そうした時、アジア的な、特に中国風な響きのするメロディーが最先端のシンセサイザーから繰り出されることに衝撃を受けていた気がする。
映画「ラストエンペラー」
ところで、アジアと言えば、そんな少年の日々からは何年も経った後だが、中国の激動の歴史を題材にした超大作映画「ラストエンペラー(1987年 中国語名:末代皇帝)」のテーマ曲を、”教授”が手がけたことは衝撃だった。これまでの「アジア風、中国風」ではなく、もろ、ド直球の中国史に曲をつけるのである。
このほどネットであらためてこの映画を観てみた。
すごい映画だ。中国の清朝末期から共産中国誕生までの動乱の時代を生き抜いた、三歳を前にして清朝最後の皇帝にさせられ、旧満州国の最初の皇帝としても担がれた愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)の悲劇の人生に胸が苦しくなったが、”教授”のテーマソングが私をあの時代に引き摺り込んでくれた。彼の曲は、壮大なスケールの映像と、その風景の中で孤独にもがき苦しむ溥儀の心を増幅して伝えていると感じた。
”教授”は、満州の裏の権力者と言われる甘粕大尉の役を演じてもいた。セリフが少なく、表情で傀儡国家の闇を表現する演技が印象的だった。
「戦場のメリークリスマス」
さらに、”教授”がラストエンペラーより4年前の1983年に、同じくテーマ曲を手掛け、自らジャワ島の日本軍捕虜収容所の所長役も演じた、「戦場のメリークリスマス(英語名:Merry Christmas, Mr. Lawrence)」。
こちらもあらためて鑑賞。デビッドボウイとのキスシーンはあまりにも有名で、坂本氏追悼のニュース特集などでも何度も何度も流されたが、あらためてこの作品を丁寧に観てみると色々発見があったし、何よりテーマ曲が、一度聴いたものの心を離さない。何度も繰り返して聴いた。
伝説の「ソウル・トレイン」出演
彼らの思い出めぐりが止まらない。時系列的には、どんどん昔に戻っていく。
YMOと言えば、当時のアメリカの伝説的なソウル音楽番組「ソウル・トレイン」に出演していたのをご存知だろうか。
以下のサイトで、彼らの出演を見ることができる。1980年というから、”教授”も、ゆきひろさんも、20代後半、細野さんも30ちょっとだ。そして、この後”教授”の妻となり、最終的には離婚することになる、矢野顕子さんが、キーボードを弾きながら無邪気に踊る姿も面白い。ぜひ見てみてほしい。
曲は、Tighten Upという、アメリカ人が知っているソウルのカバー曲を演奏している。"Japanese gentlemen, stand up please!"というDJ小林克也氏のナレーションが秀逸。ステージ前のフロアでは、黒人の人たちが踊りまくるのだが、その中でYMOのマネージャーが、当時西洋人が揶揄する、日本人観光客のダサイ感じをわざとに再現して、カメラをぶら下げたスーツ姿で踊るという演出も、笑える。
私としては、こういうカバーではなく、あえてオリジナルの楽曲で勝負してほしかった気もするが、20代後半で、世界の檜舞台に出て、飄々と演奏する様は、圧巻。当時の、若者が自然体でどんどん世界に出ていく時代の幕開けを象徴している気がした。司会者のドン・コーネリアス氏との英語のやりとりがいまいち噛み合っていない感じ、でもそれをなんとも思ってない感じも見どころだ。
伝説のコントユニット「スネークマンショー」とのコラボ
彼らは、音楽や映画だけではなく、コントにまで足跡を残しているのをご存知だろうか。
最後に紹介するのが、コント集団「スネークマンショー」とのコラボ。ナンセンスコントながら、風刺が効いているものも多く、ちょっと大人の世界を覗いているような気持ちで、思春期の当時、テープがすり減るほど何度も聴いた。
以下のものは、「良い物もある。悪いものもある。」という、当時ちょっと流行したコント。YMOの三人自らも登場している。ぜひ、聴いてみてほしい。
次の”ドッキリ”を楽しみにしていたのに・・・
ああ、夢中になってYMOの思い出を、一気に語ってしまった。
そうそう、今度こそ本当に最後。
坂本龍一さんは、社会活動家としての顔を最近はクローズアップされることが多かった。神宮外苑再開発問題は、彼のおかげで意識するようになった。
若い頃に新しい境地を切り拓いて世界をアッと言わせてきた彼には、これからは、彼が大事にする優しい視点を世界で少しでも実現させるために、誰も思い付かないような、アッと驚く社会活動のあり方を見せてほしかった。戦争と分断が止まらない今の乱れた世界には、彼の知恵と行動力が必要だったのに。
取り止めのない思い出話につきあっていただき、ありがとうございました。一週間記憶を辿り、再鑑賞し、こうやって書くことでも、気持ちが少し落ちついた気がします。
あらためて、坂本さんと高橋さんのご冥福をお祈りします。
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最後までお読みいただき、ありがとうございました。
AJ 😀