見出し画像

「『死』との”距離”」と「お参り」のこと。

昔に比べると「『死』との”距離”」が遠くなっている…

最近、自分たちと「死」との”距離”について考えています。そのきっかけになったのは、建仁寺両足院の副住職である伊藤東凌さんが語られていた以下の言葉です。

「『死』自体を、どうしても街の生活…もっと言うと現代の生活は全て遠ざける傾向にありますけども、遠ざけた結果、『死』というものが全くよく分からない、恐ろしい、怖い、もっと遠ざけなければいけないものになりすぎてしまっている…。」

Voicy「とうりょうさんの寺子屋ラジオ」2024.04.27「修理するなら土台から」より

東凌さんのこの言葉を聴いてから「『死』との”距離”」という言葉が頭から離れなくなってしまい、ずっと頭の中をぐるぐると巡っていました。

確かに、昔は「死」というものが今に比べると、もっともっと身近にあったはずです。例えば、小さくして亡くなってしまうお子さんがたくさんいたり、ご近所さんで亡くなった方がいると、地域で協力して段取りして、お通夜やお葬式をしたり…していました。けれど、今は医療が発達してきたり、葬儀は地域で行われなくなったり…と、ボクらは今、「死」というものを感じる機会が少なくなってきていて、誰かの「死」と出会ったり、「死」に向き合ったりする機会も間違いなく減ってきています。

いろいろ考えることが多かったので、東凌さんにお願いをして、Voicyで「死」をテーマにして対談をさせていただきました。その対談、この記事の一番下にリンクを貼っていますので、ぜひ聴いていただきたいです。対談の中で、東凌さんは遠ざかってしまった「死」について、それを近づける工夫をされている…という話を聞かせていただきました。

東凌さんは、ポジティブに「『死』との”距離”」を近づけていくために、お寺でのアートの展覧会の企画をしたり、ものづくりのワークショップをしたりして、楽しむためにお寺に来てもらった結果、そこで「死」についてなどの話を学ぶことができる…といったことを企画されていて、お寺をかつての集落のような役割を担える場所としたいと考えているそうです。

確かに、ボクらは今「『死』との”距離”」が遠くなってしまっているけれど、東凌さんが実践されているような「『死』との”距離”」を近づけようとする動きはあまりないのが現状で、普通に過ごしていると「死」について考えることや、そういう話題に触れることはあまりありません。

「『死』との”距離”」と「お盆」のこと。

そんな中、今年の「お盆」に、お盆の由来などのことについて調べていた時に、興味深い記事に出会いました。それは「お盆行事は死者との付き合い方の一つ」という表現があった以下の記事でした。

お盆行事とは死者との付き合い方の一つなのです。

お盆は「先祖を供養する」と思われがちですが、お盆行事の様子を眺めると、もてなそうとする死者は、いわゆる先祖に限らないことは明白です。そのため、この記事では「先祖」ではなく「死者」としています。

死者との付き合いは、それなりの切実さを伴います。切実さとは、別の言い方をすると、他人にはわからない/踏み込めない領域のことです。プライベートかつローカルな事情が優先される世界のため、突然また頻繁に死者と付き合うことは、専門家でさえ神経をすり減らします。

そこで死者が突然にまた頻繁に来訪する危機を回避すべく、死者と定期的に付き合う社交の場が、お盆行事です。春秋のお彼岸行事も同様ですが、死者と付き合う約束事として、日本では仏教的方法が広く浸透しました。お盆やお彼岸の行事が、基本的に仏教の行事だと認識されているのも、そのためです。

朝日新聞デジタル「お盆にやることとは? 実は知らないお盆の由来と本当にやってほしいこと」
ものつくり大学 教養教育センター 教授 土居浩

できるだけ頻繁に出会う機会を減らす…という意味で、定期的にお盆などの儀式を大切にしていた…ということです。つまり、おそらく「死」がとても近くにあったので、できるだけ”距離”を保つため、そして「死」が自分達に降りかからないようにするために、そういった儀式をすることへの切迫した必要性があった…ということなのではないか…と想像しています。

今は、「死」を感じることができなかったり、向き合う機会が少なかったりして、遠ざかってしまっているので、”距離”を取る必要性は全くなくなっています。そして、「死」に対する切迫した危機感は無くなってきていることで、「死」に対する恐れや「お参り」の必要性なども同時に薄れてきている…というのが事実。むしろ、東凌さんが実践されているように、工夫して”距離”を近づける方法を考えなければならない…というのが現状です。

「『死』との”距離”」と「お参り」のこと。

今日のテーマである「『死』との”距離”」の視点からいろいろ考えていると、息子と一緒に朝に「お参り」に行っていて感じていることが頭に浮かんでいます。

このnoteでも、いくつか記事にさせていただいていますが、その1つで「『お参り』の習慣が、この先に子どもが経験するだろう”悲しいできごと”から子どもを守る。」という記事があります。身近で起こってしまうかも知れない「死」と向かい合う準備としての「お参り」のことを書かせてもらいました。その記事の中で以下のような文があります。

「お参り」をする習慣を持っていたりすることは、子どもたちがいずれ経験する悲しみを心に抱えこまなくて済むようにするための1つのツールになるはず…と思っています。

「『死』との”距離”」の視点で考えても、いつも息子と一緒に行っている「お参り」も、間違いなく「『死』との”距離”」を近づける1つの方法だと思います。お盆の間にこのことをずっと考えていたのですが、もしかしたら「死」が遠くなっている今だからこそ、子どもたちに「お参り」の習慣を身につけさせることが必要かも知れないな…と、今、心から思っています。

こうやって「『死』との”距離”」についていろいろ考えていると、昔と今は「お参り」というものの役割が全く違うものになっていることに気づきました。

これまでは…
近過ぎた「死」との”距離”を取るための役割としての「お参り」
だったけれど、
今は…
遠くなっている「死」との”距離”を近づけるための役割としての「お参り」
ではないか…と思うのです。

昔とは全く逆です。

繰り返しますが、ボクたちはいくら「『死』との”距離”」があったとしても、大切な人や自分自身の「死」を免れることはできないし、離れ切ることはできません。ボクらの子どもたちも、どうしても大切な人の「死」に向き合わなければならない時が必ずやってきます。

子どもたちが、しっかりと大切な人の「死」と向き合うことができるように、少しずつでも「死」について考えていくことができるように、ボクはこれからも子どもたちとの「お参り」を続けていこうと思っています。

庵治石細目「松原等石材店」3代目 森重裕二








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?